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この時に天王の下の五幹部、
* 中軍主将「東王[[楊秀清]]
* 前軍主将「西王[[蕭朝貴]]
* 後軍主将「南王[[馮雲山]]
* 右軍主将「北王[[韋昌輝]]
* 左軍主将「翼王[[石達開]]
を決定した。この内、楊秀清は'''天父下凡'''(てんふかぼん)、蕭朝貴は'''天兄下凡'''(てんけいかぼん)と称しそれぞれヤハウェと[[キリスト]]の託宣を受けられると言い、それを借りて自らの命令を通していたので次第に洪秀全の発言力は減っていった。
 
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太平天国の内紛は、清朝にとって絶好の機会であったといえよう。機を逃さず曽国藩ら湘軍は長江上流から攻め下った。 [[1858年]]5月の段階で[[九江]]が陥落し、さらに一旦壊滅させた江北・江南両大営も再建され天京を包囲した。この結果太平天国はまさに風前の灯火といった状況に陥ったといわざるを得ない。
 
この時に際し、洪秀全は新しい年若い将たちを投入した。かつて藤県で加入した[[李秀成]]やその従兄弟[[李世賢]]、そして[[陳玉成]]らである。若いと言っても、いずれも13、4歳のころから戦場の第一線で活躍していたのであって、経験が浅いという訳ではなかった。実際以後の太平天国は反転攻勢に出たのである。もう反乱鎮圧が近いと弟に手紙を書き送った曽国藩だったが、その目論見は大きくはずれることになる。次第に形勢が清朝にとって思わしくなくなり、安徽省の[[三河の戦い]]では湘軍は大敗を喫し、太平天国は息を吹き返したのである。三河の戦い以後、李秀成・李世賢らは江南地方を制圧し、一方陳玉成は安徽省に進軍した。洪秀全は以前に倣って五軍主将を再設し、新たな五人の幹部をこの様に決定した。
* 中軍主将 [[楊輔清]] (後に輔王)
 
* 前軍主将 [[陳玉成]] (後に英王)
* 後軍主将 [[李秀成]] (後に忠王)
* 右軍主将 [[韋俊]]  (翌年、清に投降した)
* 左軍主将 [[李世賢]] (後に侍王)
太平天国が一息をついた[[1859年]]、馮雲山とともに最も早く拝上帝会に入信した一族の[[洪仁玕]]が天京に到着した。彼は清朝との争いの中ではぐれ、[[香港]]のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたのであるが、何回かの合流が失敗した後、ようやく天京に至ったのである。天京事変によって五王体制が崩壊した後ということもあって洪秀全は驚喜した。早速洪仁玕を干王に任じ、内政を掌握せしめた。
 
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しかしこうした改革提言は実を結ばなかった。洪仁玕のいうことに洪秀全は妥当という評価を与えていたようだが、その他の首脳たちにとって洪仁玕のいうことはあまりに経験則から離れた事柄であって、有り体に言えば理解不能であったのである。皮肉にも『資政新編』の内容は、天敵曽国藩や弟子の[[李鴻章]]によって引き継がれていく。その改革を後世の史家たちは「[[洋務運動]]」と呼ぶ。
 
'''王爵の乱発'''
洪秀全は新指導部の将軍たちを王として認め、李秀成を忠王に、李世賢を侍王に、陳玉成を英王にそれぞれ封じた。これ以後、志気を鼓舞するために王位が乱発されるようになり、悪しき先例となった。 
 
洪秀全は1859年から60年にかけて新指導部の将軍たちを王に昇格させ楊輔清を輔王に、李秀成を忠王に、李世賢を侍王に、陳玉成を英王にそれぞれ封じた。1857年までの王爵は希少で東西南北翼の五王の他は、燕王と豫王、戦死者に追封された奮王と撫王と呉王、洪秀全の兄二人が封じられた安王と福王のみだったが、1860年以降は忠誠を繋ぎとめる為と士気を鼓舞する為に王位が頻繁に授けられるようになり、洪仁玕と若き将軍達の王叙任はその悪しき先例ともなった。戦況が悪化するにつれて王号の乱発は顕著となり、列王という数十人がまとめて封じられるものまで登場した。太平天国末期の「王」は1,700名以上を数えた。
 
== 戦況の推移・その2 ==