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*西軍結成に関する諸説については「[[#西軍の首謀者と結成の過程]]」参照。
 
===東軍諸大名の反転===
=== 小山評定 ===
この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居たが、7月19日に書状が家康に届けられた。差出人は西軍首脳の増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容であった。その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していない。また[[淀殿]]も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っている。しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]に[[下野国|下野]][[小山市|小山]]に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされた。
 
'''7月18日'''[[稲葉通孝]]が「関東陣沙汰」が延期になったとして国許に引き返す。<ref>7月18日付明行坊・経聞坊宛稲葉通孝書状(『岐阜県史史料編史古代中世1』岐阜県、1969年 p.851)</ref>。
家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」である。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得した。
ただし'''7月19日'''には秀忠が、'''21日'''には家康が江戸から会津に向け出陣しており<ref>7月22日付滝川雄利宛徳川秀忠書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.526)</ref>、この時点では会津征伐自体は中止されていない。
しかし7月21日付で細川忠興が家臣松井康之らに宛てた書状によれば、この時点で輝元と三成の決起の報告が上方から家康の許に続々と入っており<ref>7月21日付松井康之・有吉立行・魚住昌永宛細川忠興書状(『関ヶ原合戦と九州の武将たち』八代市立博物館未来の森ミュージアム、1998年 p.127)</ref>、'''7月23日'''になると家康から最上義光に対して、三成と吉継が各地に書状を触れ回しているという「雑説」があるので会津侵入は「御無用」とする指示が出される<ref>7月23日付最上義光宛徳川家康書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.522)</ref>。さらに'''7月26日'''になると関東に参陣していた畿内・西国の東軍側諸大名が西進を開始。家康も「即刻上洛」の意思を示す<ref>7月26日付堀秀治宛徳川家康書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.531)</ref>。
なお、この時点での東軍の戦略目標は三成の居城佐和山城であった<ref>7月26日付田中吉政宛徳川家康書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.530)</ref>。
 
'''7月27日'''榊原康政は秋田実季に、三成と吉継が「別心」したので、家康に対して淀君・豊臣三奉行・前田利長らより上洛の要請があることと、会津方面おける指揮権が家康から秀忠に移されたことを伝える書状を出している<ref>7月27日付秋田実季宛榊原康政書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.534)</ref>。ところが'''7月29日'''になると一転して三奉行が「別心」した事を伝える家康の書状が[[黒田長政]]・[[田中吉政]]・最上義光に出されている<ref>7月29日付黒田長政宛徳川家康書状、他([[#徳文・中|中村 1959]]、p.538-540)</ref>。この時点で黒田・田中の両勢はすでに西へ向かっており、'''7月30日'''には[[藤堂高虎]]に対しても西進の命令が出されている<ref>7月晦日付藤堂高虎宛徳川家康書状([[#徳文・中|中村 1959]]、p.544)</ref>。
なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかった。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていた<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p74</ref>。
 
なお7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したいわゆる「小山評定」が行われたとされる。しかし「小山評定」についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義を巡っては様々な説が出されている。
評定では、[[山岡景友|山岡道阿弥]]・[[板部岡江雪斎]]から情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられた。すると正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明。黒田・[[徳永寿昌]]がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約した。その一方で信濃[[上田城]]主である[[真田昌幸]]と、美濃[[岩村城]]主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転する。
 
*詳細については「[[#小山評定に関する諸説]]」参照。
つづいて山内一豊が自らの居城[[掛川城]]の提供を申し出、東海道筋の諸大名がこれにならった。この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴<ref group="注釈">両名とも秀次に仕えていたが秀次事件では連座を免れている。</ref> の子)と事前に協議したもの<ref group="注釈">[[新井白石]]編『[[藩翰譜]]』によると、一豊が盗んだとされる。</ref> で、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明。秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
 
以上のように評定が展開した背景として、[[東海道]]筋の大名が秀次事件以降に家康との接近を強めたためとする指摘がある<ref group="注釈">笠谷和比古は[[豊臣秀次#秀次事件の影響|秀次事件の影響]]を(『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』)、田端泰子は秀頼へのスムーズな継承を実現するため秀吉による家康への対応策が友好的なものへ変化したこと(『山内一豊と千代』)を挙げる。</ref>。
 
諸将が提供した居城には[[松平康重]]、[[松平家乗]]、[[内藤信成]]、[[保科正光]]、[[北条氏勝]]ら徳川[[譜代]]の武将が城将として入城し、守備に当たった。
 
三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降陣を払い、正則の居城である尾張[[清洲城]]を目指し出陣。また[[伊勢国|伊勢]]方面に所領を持つ[[富田信高]]、[[古田重勝]]、[[氏家行広]]、[[福島正頼]]、[[九鬼守隆]]らは居城防備のため各居城へ戻った。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信を添えた約3万8,000の軍勢を付けて、[[中山道]]より美濃方面への進軍を命じ、8月4日には出陣した。一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男の結城秀康を総大将に、[[里見義康]]、[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]、[[那須資景]]らを[[宇都宮城]]に留め、監視させた。家康は[[江戸城]]に戻るが、そこから動かなくなった。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧が発生したためである<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p74-76</ref>。
 
=== 伊勢・美濃における前哨戦 ===