「大陸軍 (フランス)」の版間の差分

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; カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜されたエリート部隊の位置付けあり2個連隊が編成された。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履き、大きな黒馬にまたがる姿は近衛騎馬擲弾兵とよく似ていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。
 
; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}})
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:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}})
: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。には向かず、また大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。
; 突撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Charge}})
: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して全ラインの視界に入り、全員が進行方向を確認出来たので柔軟な高速移動が可能だった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。
; 攻撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne d'Attaque}})
: やや広めの縦隊を組む戦列歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。集団突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら精密射撃して敵を牽制しつつその隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の戦列歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はそのまま縦隊の側面を守った。革命戦争時代群衆戦術の代表例よく用いられた。やや火力が劣りまた大砲玄人の散開歩兵が素人の縦隊歩兵をエスコートして敵も弱かぶつけるような隊形だった。
; 混成配置({{lang|fr|Ordre Mixte}})
: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。
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== 戦歴 ==
{{main|ナポレオン戦争}}
=== 18041805年 - 18061807年 ===
1805年春、ナポレオンは海上封鎖を続けてフランス経済に打撃を与えていたイギリスを屈服させる為に[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に軍勢を集結させた。それに対抗してイギリスは4月にオーストリア、ロシアと共に[[第三次対仏大同盟]]を結成した。10月の[[トラファルガーの海戦]]の敗北によりイギリス上陸作戦を断念したナポレオンは、オーストリアに矛先を変えてドイツ南部に進軍し11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンは[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の地でロシア、オーストリア連合軍を撃破し[[プレスブルクの和約]]を締結させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを盟主とする[[神聖ローマ帝国]]は解体された。
[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]]
大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref>
 
ナポレオンの勢力拡大を警戒したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンは[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季作戦では苦戦するが、翌1807年5月の[[ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)|ダンツィヒ]]でプロイセン軍を降服させ、6月の[[フリートラントの戦い]]でもロシア軍を撃破した。その後締結された[[ティルジットの和約|ティルジット条約]]の中でロシア、プロイセン両国と講和し、イギリスの通商活動を封じ込める為の[[大陸封鎖令]]にロシアを参加させた。
中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref>
 
=== 1807年 - 1809年 ===
1807年10月、ナポレオンはスペインに[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を調印させ、[[大陸封鎖令]]を拒否するポルトガルの占領と、その為のフランス軍のスペイン領内通過の合意を得ると遠征を始めて12月にポルトガルを制圧した。その後、ナポレオンは様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた為に反仏感情が高まり、やがてスペイン宮廷で政変が発生するとスペイン王家を追放して1808年5月に兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を王位に据えた。スペイン人は国内全土で蜂起して[[ゲリラ]]の語源となると共に、フランスに多大な消耗を強いる事になる凄惨な[[半島戦争|スペイン半島戦争]]が始まった。7月の[[バイレンの戦い]]でフランス軍は敗れ、新王ジョゼフは撤退を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦線が泥沼化した事から11月にナポレオンは12万の大軍と共に親征に踏み切った。12月に[[マドリード]]を占領して兄ジョゼフを帰還させ、翌1809年1月にナポレオンはフランスに帰国したが、スペイン人ゲリラとイギリス軍の活動は続いており戦争はそのまま長期化した。
ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、[[1807年]]2月7日から8日にかけての[[アイラウの戦い]]では事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、[[ベニグセン]]のロシア部隊は6月14日の[[フリートラントの戦い]]で完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間で[[ティルジット条約]]が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。<ref name="continent">Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92</ref>
 
半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月、イギリスと[[第五次対仏大同盟]]を結成した。オーストリア軍はドイツ方面とイタリア方面で急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生した[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で始めて一敗地に塗れる事になった。だが、7月の[[ヴァグラムの戦い|ワグラムの戦い]]で大勝してオーストリアが意気消沈した事から停戦への運びとなり、[[シェーンブルンの和約]]を調印して三百万の領民を含む領土をフランスに割譲させた。
[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref>
一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。
 
=== 1810年 - 1812年 ===