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アイザール (会話 | 投稿記録)
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1887|6|18|1966|11|22}}
|死没地 =
|出身校 = [[錦城高等日本大校|錦城中学校]]中退
|前職 = [[松本組]]社長<br/>[[全国水平社]]中央委員会議長<br/>初代[[部落解放同盟]]執行委員長<br/>初代[[日中友好協会]]会長
|所属政党 = ([[社会大衆党]]→)<br/>([[翼賛政治会]]→)<br/>(無所属→)<br/>(日本社会党→)<br/>(無所属→)<br/>([[左派社会党]]→)<br/>[[日本社会党]]
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[[福岡県]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]金平村(現在の[[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[馬出]])に生まれる。出生名は'''松本 次一郎'''<ref>[[徳川事件|徳川公爵暗殺陰謀事件]]の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。</ref>。父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた<ref name="松本治一郎20頁">福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。</ref>。治一郎は後年、60歳のとき「私は[[部落問題|被圧迫部落]]の[[農家#農民の階層区分|貧農]]の子として生まれた」と語っている<ref name="松本治一郎21頁">福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』21頁。</ref>。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業([[履物]]([[下駄]]、[[雪駄]]など)の製造・販売)にも取組んだ<ref name="松本治一郎21頁"/>。次吉はそれら[[履物]]の原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売る[[仲買]]の仕事をして現金収入を得ていた<ref name="松本治一郎21頁"/>。次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた<ref name="松本治一郎21頁"/>。
 
[[1900年]]に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や[[京都市|京都]]の旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の[[錦城高等学校]])、日本大学法学部を[[中退]]。
 
[[1907年]]に[[大連市|大連]]へ渡り、大道[[易者]]や偽医者として生計を立てる。[[1910年]]、日本[[総領事]]に強制送還されて帰国。