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{{Infobox 事件・事故
| 名称 = JT女性社員逆恨み殺人事件
| 場所 = {{JPN}}・[[東京都]][[江東区]][[大島 (江東区)|大島]]6丁目<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><br>[[都市再生機構]](UR)大島六丁目団地1号棟4階<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 緯度度=35|緯度分=41|緯度秒=28.499
| 経度度=139|経度分=49|経度秒=58.209
| 日付 = [[1997年]]([[平成]]9年)[[4月18日]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 時間 = 午後9時過ぎ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 時間帯 = UTC+9
| 概要 = 別の殺人で服役した[[前科]]を持つ加害者の男は、本事件の7年前([[1989年]])、被害者女性を強姦し、恐喝した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。<br>女性から被害届を出されたことで、男は逮捕・起訴され、[[札幌刑務所]]に服役した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。<br>男は出所直後、被害者女性の居所を見つけ、女性を刺殺した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
| 武器 = 包丁(平成9年押収第1579号の1)<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 攻撃側人数 = 1人
| 標的 = 7年前の強姦事件被害者
| 死亡 = [[日本たばこ産業]](JT)女性社員(本事件当時44歳、7年前の強姦事件被害者)<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 犯人 = 男M(犯行当時54歳、殺人前科あり)<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27"/><ref group="新聞" name="中日新聞2000-02-28"/><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
|
| 対処 = [[逮捕 (日本法)|逮捕]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27"/>・[[起訴]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-05-17"/>
| 管轄 = [[警視庁]][[城東警察署]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27"/>・[[東京地方検察庁]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-05-17"/>
| 刑事訴訟 = [[死刑]]([[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/><ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>
| 影響 = 刑事裁判の最中、被告人Mの弁護人が、「被害者にも落ち度がある」旨の弁論を行い、傍聴席から「ふざけるな」と罵声が飛んだ<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。<br>[[警察庁]]・[[法務省]]は、本事件をきっかけに、犯罪加害者による被害者への[[お礼参り]]を防ぐべく、事件の被害者・目撃者に対し、加害者の出所事実・出所予定時期・出所後の居住地を通知する制度を制定した<ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02"/><ref group="新聞" name="中日新聞2001-07-31"/>。
}}
{{最高裁判例
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|事件番号= 平成12年(あ)第425号
|裁判年月日= [[2004年]](平成16年)10月13日
|判例集= 『
|裁判要旨= * 本件上告を棄却する。
* 本件殺人は、特異な動機に基づく誠に理不尽かつ身勝手な犯行であり、犯行に至る経緯に酌量の余地はない。
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|反対意見=
|参照法条= [[殺人罪 (日本)|殺人]]、[[窃盗罪|窃盗]]
|url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57817
}}
'''JT女性社員逆恨み殺人事件'''(ジェイティーじょせいしゃいん さかうらみ さつじんじけん)は、[[1997年]]([[平成]]9年)[[4月18日]]夜、[[東京都]][[江東区]][[大島 (江東区)|大島]]6丁目の[[団地]]で
この事件の7年前([[1989年]])、[[強制性交等罪|強姦]]事件を起こした男M(犯行当時54歳、殺人[[前科]]あり)は<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27"/>、その強姦事件をネタに<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、[[被害者]]である[[日本たばこ産業]](JT)女性社員(本事件当時44歳)を恐喝したことで逮捕され、有罪判決が確定していた<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
Mは、被害者の通報を[[逆恨み]]し、出所後に被害者を[[お礼参り]]で刺殺した<ref group="書籍" name="丸山2010">{{Harvnb|丸山|2010|pages=77-85}}</ref>。
この事件は、マスメディアにより「逆恨み殺人事件」として、大きく取り上げられ、近隣住民に恐怖感を、一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
また、作家・[[丸山ゴンザレス|丸山佑介]]は、本事件を、「刑事司法制度の根幹を揺るがしかねない殺人事件」、「刑事事件の被害者が、犯人を告発したために殺されるという、あまりにも不条理な筋書きに世間が震撼した。また、刑事事件の被害者保護、また再犯の防止という点でも、非常に大きな意味を持つ事件だった」と評した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
== 元死刑囚M ==
本事件の元死刑囚Mは、[[1942年]]([[昭和]]17年)5月15日、[[日本統治時代の朝鮮]]・[[京城府]](当時)にて、5人兄弟姉妹の次男として生まれ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27">東京地裁刑事第5部、1999年(平成11年)5月27日判決、事件番号:平成9年(合わ)第133号</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、[[死刑囚]]として収監されていた[[東京拘置所]]にて、[[2008年]]([[平成]]20年)2月1日、[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑が執行された]]({{没年齢|1942|5|15|2008|2|1}})<ref group="新聞" name="中日新聞2008-02-01"/>。
=== 生い立ち ===
終戦後、朝鮮半島から、家族とともに日本に引き上げた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。[[1947年]](昭和22年)頃から、[[福岡県]][[戸畑市]](現・[[北九州市]])に居住し、[[1958年]](昭和33年)3月に同市内の中学校を卒業した後、九州などで映写技師見習いとして働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
就職した当時は、[[石原裕次郎]]が、ニュータイプのスターとして人気を博するなど、[[映画]]が娯楽の王座にあったが<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、その後、映画産業の斜陽化により<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、塗装店・[[映画館]]従業員などの職を転々とするようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
後述の最初の殺人事件を起こすまでに、[[山口県]][[下関市]]内で<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、盗みの前歴が2回あった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
=== 1976年8月12日、殺人前科 ===
==== 被害者少女との出会いから殺害に至るまで ====
[[1976年]](昭和51年)5月6日から、同年8月10日ごろまで<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、当時34歳だったMは、下関市内の[[ストリップ]]劇場「下関ショー劇場」で<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、照明係として働いていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
その中でMは、当時家出中
そのため、1976年8月10日夜、Mは少女とともに、2人で[[広島県]][[広島市]]へ向かい、職を探しに向かった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
Mは、1976年8月11日午後10時20分頃、少女とともに、広島市[[田中町 (広島市)|田中町]](現・広島市[[中区 (広島市)|中区]]田中町)のホテルに入った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。この時Mは、フロントで、「明日の午後2時頃まで寝させてくれ」と、301号室に投宿した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
しかし、広島市内でも、少女が未成年であるため、職が決まらなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。Mは、ホテルで生活を続けると、金銭がかさむことから、少女を足手まといと感じるようになった<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。これに加え、別れ話を持ち出されるなど<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、少女から冷淡な態度を取られた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
また、Mは金に困っていたのか、8月11日夜、ホテルのそばにあった食料品店で、パン・牛乳を購入した際、「値段が高い」と、店員に文句をつけていた<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
Mは、少女の態度に憤激し<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、宿泊先のホテルの一室で<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-夕刊"/>、同月12日午前6時頃<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-夕刊">『[[朝日新聞]]』1976年8月13日東京夕刊社会面7面「ホテルで女高生殺し 広島 連れの男、指名手配」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊">『朝日新聞』1976年8月13日西部夕刊社会面7面「女高生殺される 広島のホテル」</ref>、浴衣のひもで首を絞め、少女を殺害した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
[[朝倉喬司]]は、「この1回目の殺人の動機は、まだ精神的に幼かった少女がMをなじった言葉の綾に対し、Mが過剰反応したものだった。被害感情に駆られて我を忘れてしまうパターンは、後の本事件と共通している」と指摘した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
少女を殺害した後、Mは、翌8月
==== 同事件の捜査 ====
===== 被害者少女の遺体発見・事件発覚 =====
1976年8月12日午後1時40分ごろ、Mとともに宿泊していた少女が、一向に起きてこないことを、ホテルの従業員が不審に思った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
従業員は、午後2時10分頃、現場のホテル3階301号室に、清掃に向かったところ、Mとともに宿泊していた少女が、6畳和室のマットレスの上で、仰向けに倒れて死亡しているのを発見し、[[広島県警察]][[広島東警察署]]に110番通報した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊">『[[中国新聞]]』1976年8月13日朝刊第一社会面15面「ホテルで女性殺される 広島 首を絞められた跡 同居の男、姿を消す」</ref>。
遺体の首には、細い紐で絞めたような跡があったことから、広島県警捜査一課は、殺人事件と断定した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
被害者少女は、浴衣を着ており、着衣に乱れはなかった上、抵抗したような形跡は見られなかった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
同日午後6時から、[[広島大学]]医学部で、少女の遺体を[[司法解剖]]した結果、死因は絞殺で、死亡推定時刻は12日午前6時から7時頃であることが、それぞれ判明した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
===== 被害者の身元確認 =====
広島県警捜査一課は、遺体の指輪に刻んであったローマ字のイニシャルを手掛かりに、全国の警察に対し、家出人照会を行った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
その結果、大分県警察別府警察署に、同年6月4日付で、少女の家族から捜索願が出されていたことが判明した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
8月13日午前4時、少女の父親が広島に向かい、遺体の身元を娘と確認した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。このため、広島県警捜査一課・広島東警察署は、遺体の身元を少女と断定した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊">『中国新聞』1976年8月13日夕刊第一社会面3面「広島のホテル殺人被害者 九州の家出女子高生 指紋一致指名手配 男は劇場照明係 下関から職探しに同伴」</ref>。
===== Mを指名手配 =====
一方、捜査一課は、犯行現場のホテル301号室から指紋を採取し、警察庁に照会した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。その結果、採取された指紋は、前歴者カードに記録されていた、Mの指紋と一致した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
そのため、1976年8月13日朝、広島県警捜査一課・広島東署は、Mを[[被疑者]]と断定し、[[殺人罪 (日本)|殺人]]容疑で全国に[[指名手配]]した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
広島県警広島東署に設置された捜査本部は、同年8月17日付で、県内各署のほか、全国の警察を通じて、Mの顔写真3000枚を、公衆浴場・パチンコ店・劇場などに配布した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18">『中国新聞』1976年8月18日朝刊第一社会面15面「女高生殺しのM 全国公開手配」</ref>。この時のデータによれば、「Mは身長167cm、やせ形で、左手首に桜の花の[[刺青]]がある」というものだった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18"/>。捜査本部は、Mが劇場照明係・映写技師・パチンコ店店員として勤務したことがあったことから、そのような場所に立ち回る可能性が高いと判断した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18"/>。
===== Mを逮捕 =====
Mは、犯行翌日の8月13日頃から、「生田安治郎」の偽名を使い、[[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]市岡2丁目の[[簡易宿泊所]]に宿泊した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。同日頃からMは、付近に住んでいた大工の下で、雑役夫として働いていたが、逮捕当時は、前述の現場ホテルのマッチ1個、事件を報道した新聞の切り抜き3枚、所持金300円しか持っていなかった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
1976年8月24日夜、[[大阪府警察]][[港警察署 (大阪府)|港警察署]]に、「(前述の)簡易宿泊所に、新聞に載っていた、Mによく似た男が泊まっている」と、匿名の110番通報があった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
これを受け、大阪府警機動捜査員・港署員の計6人が、宿泊所に急行したところ、Mの姿があった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。警察官が、「Mか」と尋ねると、Mはうなずき、犯行を認めた<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
このため、大阪府警港署は、1976年8月25日早朝、指名手配されていた被疑者Mを、殺人容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25">『中国新聞』1976年8月25日夕刊第一社会面3面「広島のホテル女高生殺し 手配のM、大阪で逮捕 簡易宿所に潜伏中 雑役夫に身をやつし」</ref>。大阪府警は同日昼過ぎ、Mの身柄を、広島東署に護送した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/><ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>。
取り調べに対し、Mは容疑を認め、動機などについて、以下のように供述した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26">『中国新聞』1976年8月26日朝刊第一社会面15面「『口論の果て絞めた』 女高生殺しMが自供 大阪での就職断られ」</ref>。
* 「8月6日頃、下関市内の喫茶店で、コーヒーを飲んでいた少女と知り合った。少女が『仕事を探している』と言ったので『世話をしてやろう』と言い、交際を始めた」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「勤め先の劇場に、少女を連れて行き、『ストリッパーとして雇ってくれ』と言ったが、未成年だったので断られたため、8月10日夜、広島に職探しに向かい、現場ホテルに宿泊した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「8月11日朝、広島市内の劇場に、就職の話に行ったが、社長が不在で話がまとまらなかったため、ホテルに帰った。その後、少女に『下関に帰ろう』と言ったが、少女は『帰らない』というので、『自分の知っている大阪に行こう』と持ち掛けたが、少女が同意しなかったため、口論になった」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「翌12日未明も、『大阪に行く』『行かない』で口論になったため、午前6時から6時30分頃の間に、ベッドに横になっていた少女に馬乗りになり、浴衣の腰ひもで首を絞めて殺した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「犯行後、タクシーで[[広島駅]]に行き、午前8時半頃、[[山陽新幹線]]に乗り、[[新神戸駅]]で降りた。その後、電車を乗り継いで大阪市内に入り、前述の簡易宿泊所に宿泊した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「事件の報道は、12日に大阪の新聞夕刊で知り、翌13日朝の新聞で、自分が指名手配されたことを知った。出頭しようと思ったが、決断がつかなかった」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
===== 逮捕後 =====
1976年8月26日、Mは殺人容疑で、[[広島地方検察庁]]に送検された<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-27">『中国新聞』1976年8月27日朝刊第一社会面19面「Mを送検 広島のホテル女高生殺し」</ref>。Mは犯行後、少女の現金約5000円、財布、腕時計などを持ち去ったが、取り調べに対し、「少女からもらった」、「奪って逃げた」など、あいまいな供述を繰り返したため、捜査一課は、この点について追及した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-27"/>。
Mはその後、[[広島地方裁判所]]に[[起訴]]され、[[刑事訴訟法|刑事訴訟]]にかけられた<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
== 本事件の経緯 ==
=== 1984年12月20日、岡山刑務所出所後 ===
Mは、[[1984年]](昭和59年)12月20日、岡山刑務所を仮出所した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
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事件の7年前の[[1989年]](平成元年)2月15日、当時46歳のMは、府中刑務所を仮出所した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mはその後、後述の事件で逮捕されるまで、[[江東区]]内の建設会社に勤務していた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
=== 1989年12月19日、本事件のきっかけとなった強姦致傷・恐喝事件 ===
Mは、1989年12月19日深夜、江東区大島6丁目の[[バス停留所|バス停]]付近で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、当時[[日本たばこ産業]](JT)社員で、帰宅途中だった被害者女性(当時37歳)を見かけ、一緒に酒を飲まないかと声を掛けた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
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このことから、Mは、女性に対し、電話口で「強姦されたことをばらされたくなかったら、10万円払え。警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅迫した<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
しかし、身の危険を感じた女性が、警視庁に通報した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
そのため、Mは
==== 1990年3月13日、懲役7年の判決を受け、札幌刑務所に服役 ====
Mはその後、[[強姦罪|強姦致傷]]・[[窃盗罪|窃盗]]・[[恐喝罪|恐喝]]未遂の罪で、[[東京地方裁判所]]に起訴された<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
Mは、この事件の[[公判]]中は、裁判官の心証を良くしようと、反省の態度を装っていたが<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、内心は「警察に言うなと言ったのに裏切られた」「自分があれほど声をすごませて脅したのに、『どうせ仕返しなどできない』と馬鹿にされたに違いない」と、[[被害妄想]]的な[[逆恨み]]の感情を抱いていた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="書籍" name="福田2001"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
そのためMは、服役中も一貫して、出所後に女性をお礼参りで殺害しようと決意しており、「自分の言った言葉が、単なる脅しではないことを思い知らせてやろう」などと考え、出所した際、恨みを晴らすために被害者を殺害しようと決意した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
=== 1997年2月21日、札幌刑務所出所以降 ===
==== 事件発生までの生活 ====
Mは1997年2月21日、7年の刑期を終え、札幌刑務所を満期出所した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
同日中に、Mは[[札幌駅]]から、[[上野駅]]行きの[[夜行列車|夜行]][[特別急行列車|特急列車]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」に乗り、上京した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。翌2月22日、上野駅に到着したMは、船橋市内の実家に身を寄せた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mは、1997年2月24日以降、かつて勤務していた、[[墨田区]][[錦糸]]にある設備会社で、作業員として働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その後、設備会社を退職し、1997年3月14日からは、[[江戸川区]]内の会社で、社員寮に住み込みながら、建設作業員として働き始めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
しかしその一方で、Mは「シャバに出ても前科があるし、いいことはない」と<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、鬱屈して過ごすうちに、「こうなったのは全てあの女のせいだ」と、逆恨みの気持ちを募らせていった<ref group="書籍" name="福田2001"/>。
==== 被害者宅を突き止める ====
Mは、7年前に被害者に出会った際、その口から聞いていた、「現場の団地で1人暮らししている」という言葉を手掛かりに<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、[[お礼参り]]をすべく、上京翌日の1997年2月23日から、被害女性(事件当時44歳)を探し始めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
現場の団地は、11階建てから14階建ての、集合住宅7棟で構成された巨大な団地だった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。Mは、「常人離れした執念で」、被害者女性の名前を探し
==== 犯行の準備 ====
その一方でMは、1997年3月1日には、凶器に使われた、刃渡り約20.9cmの柳刃包丁1本(平成9年押収第1579号の1)<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>・ペット用のロープ2本を購入するなど<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、犯行の準備も進めていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
Mは、[[ゴールデンウィーク]]に入ると、女性が帰省して不在になる恐れがあると考えたため、その前に女性を殺害しようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mは、実行日を1997年4月18日に定め、出勤途中または帰宅途中を襲撃して、包丁で殺害しようと決めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mは、犯行のための準備として、1997年4月13日頃、滑り止め目的で、包丁の柄の部分に、黒いビニールテープを巻き付けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。これに加え
その一方でMは、犯行後に社員寮を引き払おうと考えた
=== 1997年4月18日、事件
==== 午前中の行動 ====
Mは、女性の居場所を突き止めてから11日後、事件当日の1997年4月18日午前6時45分頃、鞘に収めた包丁を構え、社員寮を出て現場団地に向かった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mは、午前7時30分頃、1号棟の女性の部屋の前に着き、玄関の表札を見て、女性宅と確認した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。室内に明かりがついていたことから、女性がまだ在室していると考えたMは、人目につかないように、部屋から十数m離れた、1号棟4階北側の、非常階段踊り場に移動した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その上で、そこで女性を待ち伏せ、部屋から出てきたところを狙って、女性がエレベーターに乗る前に、「7年前に約束を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た」ことを伝えた上で、女性を殺害することを決めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mは、午前8時ごろ、女性が部屋を出てきたところを見かけ
Mはその後、付近にある酒屋で、[[酒]]を買って飲んだり、社員寮に帰って昼寝をしたりして、時間を潰した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 事件発生 ====
午後7時過ぎ、再び現場団地に戻ってきたMは、女性の部屋だった4階410号室前に戻った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。室内がまだ暗かったことから、女性がまだ帰宅していないと考えたMは、メーターボックスの中から、包丁を取り出した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mはそのまま、包丁をベルトに挟み、1号棟4階南側の非常階段踊り場付近などで、女性の帰宅を見張っていたところ、午後9時過ぎに、女性が団地内の広場付近を1号棟に向かって歩いてくる姿を見つけた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。そのため、エレベーターに乗って下に降り、1階で乗り込んでくる女性を待ち伏せようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
そのことを全く知らない女性は、午後6時過ぎ、[[渋谷区]]にあるJT東京支社を退出した後、友人5人とともに、女性問題に関するサークル活動に参加した<ref group="書籍" name="村野2002"/>。女性は、友人らとともに行きつけだった、[[港区 (東京都)|港区]]内の飲食店で、午後8時50分頃まで飲食し<ref group="書籍" name="福田2001"/>、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[永田町駅]]で友人と別れ、家路に向かっていた<ref group="書籍" name="村野2002">{{Cite book |和書 |author=[[村野薫]](編集)、事件・犯罪研究会 (編集) |title=明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 |publisher=[[東京法経学院]] |date=2002-07-05 |page=306 |isbn=978-4808940034 }}「JT女子社員〝逆恨み〟殺人事件」([[袴田京二]])</ref>。
午後9時過ぎ、女性がエントランスホールに着いたところで、
女性は不思議に思いつつも、エレベーターに乗り込み、操作盤の前に立った<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。その上で、目の前の男が、7年前に自分を強姦したMとは知らず、「(目的は)何階ですか」と声を掛けた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19
エレベーターが上昇しだした直後、男はそれを待っていたかのように、女性に対し、「○○(女性の実名)さんですね?」と問いかけた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その上で、男は続けて「7年前の事件を覚えているか」と言った<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
7年前の忌まわしい出来事を思い出したためか、女性が恐怖したところ、Mは懐から突然、包丁を抜き出し、刃先を女性に突き付けた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
悲鳴を上げた女性に飛び掛かられ、不意を突かれたMは硬直し、その隙に女性に包丁を奪われ、逆に刃先を突き付けられた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。しかし、ちょうどその時にエレベーターが4階に到着し、女性が転がるように前に出た<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
Mは、女性の思わぬ抵抗に動揺したが、「殺害の機会は今しかない」、「少しくらい自分が怪我をしてでも殺害しよう」と考え<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性が見せた一瞬の隙を見逃さず、一気に間を詰めて包丁を奪い返した<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その後、
凶行の直後、Mは女性の傷を、冷静に確認してから<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、所持品のハンドバッグ(現金約11773円、クレジットカードなど76点在中。時価約16410円相当)を奪い<ref group="判決文" name="
== 捜査 ==
=== 発生直後 ===
男女の言い争う声に続き、女性の「助けて、殺される」という悲鳴を聞きつけていた、4階の男性住民が<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="書籍" name="村野2002"/>、廊下に出たところ、エレベーターホールで、女性が血を流して倒れていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>。
男性住民が、消防に119番通報したことで、救急車が駆け付け<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、首などから血を流している女性を病院に搬送したが、女性は
現場の1号棟1階の廊下から、現場最寄り駅である[[都営地下鉄新宿線]][[大島駅 (東京都)|大島駅]]付近の路上まで、約300mの間に、点々と血痕が連続して残されていたが、血痕の量は多く、継続的だった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
このことから、[[警視庁]][[城東警察署]]に設置された特別捜査本部は<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、犯人も揉み合って刃物で負傷し、そのまま地下鉄で逃走した可能性が高く<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="書籍" name="村野2002"/>、顔見知りの犯行の線もあるとみて捜査した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
また、事件現場には、女性のバッグや、財布などの所持品が見当たらなかった<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
その一方で、現場付近には、雑誌・18日付の新聞朝刊が入った、ビニール袋が落ちていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>。
そのため特捜本部は、女性のバッグや財布などは、犯人が奪って逃走したとみて捜査した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
=== 被疑者Mが浮上 ===
その後、特捜本部は、女性がエレベーターから降りた直後に襲われたことや、遺体の傷が心臓にまで達していることなどから、女性に恨みを持っていた者が、待ち伏せして殺害した疑いが強いとみて、捜査を進めていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
その結果、(当時)千葉県船橋市[[咲が丘]]4丁目在住の、土木作業員だったMが、7年前に女性に対し、強姦・恐喝事件を起こし、女性から告訴された結果、警察庁に逮捕され、懲役7年の実刑判決を受けて服役し、同年2月27日に出所していたことが判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
これに加え、殺害現場から都営新宿線大島駅までの路上などに落ちていた血痕と、同駅近くから同線[[船堀駅]]まで、不審な男を乗せたタクシーの座席カバーに付着していた血痕が、それぞれ一致し、その[[血液型]]は、Mと同一であることも判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
そのタクシーの運転手も、警視庁の事情聴取に対し、「Mに似た男だった」と証言したことから、特捜本部は、Mが事件に関与した疑いが強いとみて、Mの行方を追った<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
=== 1997年4月26日、被疑者Mを逮捕 ===
事件発生から1週間後、1997年4月26日午後、警視庁城東署特捜本部の捜査員は、M宅前で張り込みしていたところ、Mを発見した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
同日夜、警視庁捜査一課・城東署特捜本部は、[[被疑者]]Mを、殺人容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27">『東京新聞』1997年4月27日朝刊社会面27面「土木作業員逮捕 江東の女性刺殺」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1997-04-27">『中日新聞』1997年4月27日朝刊社会面31面「顔見知りの男逮捕 JT女性社員刺殺」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27">『[[読売新聞]]』1997年4月27日東京朝刊第一社会面35面「東京・江東のJT女性社員刺殺 逆恨みか、容疑者逮捕 告訴され、実刑判決」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
特捜本部の取り調べに対し、Mは動機について、逮捕された当初は、「7年前の事件のことを謝ろうと思って待ち伏せしたが、騒がれたので殺した」と供述した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
しかし、特捜本部は、以前の強姦事件などで、被害者女性から告訴されたことを逆恨みし、女性を殺害した疑いが強いとみて、さらに詳しい動機を追及した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
=== 逮捕後の取り調べ ===
Mの右手の指には、女性と争った際にできたとみられる切り傷があった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。また、凶器の包丁に加え、奪われた女性のバッグも、Mの自宅付近にある駅のコインロッカーから発見された<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
このことから、特捜本部は、Mが事件後にバッグを持ち去り、証拠隠滅のために隠したとみて捜査した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
1997年4月28日までの取り調べで、Mは事件の1週間前(4月11日午前7時頃)、現場の団地に下見に行き、郵便受けの名前から、女性の部屋番号を確認していたことが判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28">『読売新聞』1997年4月28日東京夕刊第一社会面15面「東京・江東の団地女性刺殺容疑者 1週間前に現場下見」</ref><ref group="新聞">『東京新聞』1997年4月28日夕刊社会面9面「1週間前に自宅を下見 江東の女性刺殺容疑者」</ref>。
また、これに加え、Mは「凶器の包丁は、3月下旬、勤務先の作業現場にあった炊事場から盗み出した。犯行当日の朝にも団地を訪れ、出勤する女性の服装を確認していた」など、周到な準備をしていたことを明らかにする供述をした<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28"/>。
しかし、この包丁は前述のように、Mが事前に凶器として購入したものであり、この供述は虚偽だった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。判決文では、この供述については、「客観的事実に反する虚偽の供述であり、捜査官の出方をうかがうような態度」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、「自分が隠したいことは隠す」と認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
また、検察官の取り調べに対し、Mは一貫して、「強姦致傷などで逮捕された時点から、被害者を必ず殺そうとする決意が既にあった」などと供述した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。この際、Mは、前件で逮捕されてから出所するまでの状況、出所後の状況、犯行時の状況などについて、いずれも自己の心情を交えつつ、迫真性・臨場性が認められる、具体的・詳細な供述をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
その一方で、Mは、検察官に対し、「服役中、自分を裏切ったあの女を殺すという気持ちで頭がいっぱいだったわけではない。むしろ、刑務所での日々を過ごすことに気持ちを使っていたことが多かった」など、「一方的に不利益にならないような供述」をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
== 刑事裁判 ==
=== 1997年5月16日、東京地検が被告人Mを起訴 ===
Mは女性を殺害後、所持品を奪っていたが、[[強盗]]が動機ではなかったため、[[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]ではなく、殺人罪・窃盗罪で立件された<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
1997年5月16日、[[東京地方検察庁]]は、殺人・窃盗の罪で、被疑者Mを[[東京地方裁判所]]に[[起訴]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-05-17">『東京新聞』1997年5月17日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人容疑者起訴」</ref>。
=== 第一審・東京地裁 ===
====
1997年7月3日、[[東京地方裁判所]]([[三上英昭]][[裁判長]])で、[[被告人]]Mの初[[公判]]が開かれた<ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03">『毎日新聞』1997年7月3日夕刊第一社会面11面「JT社員刺殺 起訴事実認める M被告初公判」</ref>。
同日、検察側の冒頭陳述が行われた<ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/>。
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その後、弁護人は、「Mは、報復しようという強度の視野狭窄に陥っており、犯行当時は[[責任能力|心神耗弱]]状態だった」と述べ、完全な責任能力を否定した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03">『朝日新聞』1997年7月3日夕刊第一社会面19面「被告、起訴事実認める 東京・江東区のJT社員刺殺事件初公判」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
同日の罪状認否で、被告人として出廷したMは、起訴事実を認めた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
==== 被告人質問にて、確定的殺意をほのめかす発言 ====
なお、この初公判以降、一連の公判にて行われた被告人質問にて、被告人Mは、「犯行の直前まで、不確定的な殺意しかなかった」という旨の供述をする一方で、動機などについて、以下のように、前件で逮捕された時点から、被害者の殺害を決意していたことをほのめかすような発言をしていた<!--出典の判決文に以下の発言が記載されていますが、いつ行われた公判においての発言かは不明--><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
* 「捜査段階の時は自分の本音を吐いたと思う」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 「7年前のことを通報され、『甘くみられた』、『馬鹿にされた』と思った」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>
* 「年を取ったせいか、不満・怒りを抱いたまま我慢して過ごすことができない。今更量刑を軽くしてもらおうと、謝罪の言葉を述べようとは思わない」<ref group="書籍" name="丸山2010"/>
* 前件の強姦致傷事件で逮捕された際、「(被害者女性に)まんまと裏切られたので、『必ずぶっ殺してやるぞ』と考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 札幌刑務所で服役中、「出所したら必ず復讐してやるぞと考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 出所後、被害者を殺してやろうという気持ちが「根強く残っていた」、「彼女の居場所がはっきり分かった時点で、また煮えくり返るものがあった」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
そのため、後の判決における事実認定では、「これらの発言と、Mの犯行前後の行動を照らせば、「『前件で逮捕された時点から、被害者の殺害を決意していた』とする、検察官の取り調べに対する供述は、信用性が高い」と認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 1997年12月4日、被告人質問 ====
1997年12月4日、東京地裁([[山室惠]]裁判長)における公判で、被告人質問が行われた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
この被告人質問以降、公判は大荒れとなった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
===== 被告人Mによるセカンドレイプ(被害者への責任転嫁) =====
被告人Mは、被告人質問で、事件の動機について質問されると、以下のように、[[セカンドレイプ|被害者に落ち度があったことを主張]]し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、反省の態度を見せなかった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
* 「被害者女性が(『強姦されたことを警察に通報しない』という)約束を破ったから、謝ってもらいたかった」<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>、「7年前のことをしゃべったことについて、『悪かった』という言葉を相手から聞きたかった」<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>
* 「彼女にも落ち度があったんじゃないかと思っています。見知らぬ男から声を掛けられれば注意するのが普通だと思います。ある程度歳もいってたし、そういう判断力にも欠けていたんじゃないかと思います」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>
===== 「私の心は歪んでいる」発言 =====
被告人質問にて、検察側は、被告人Mに対し、「『被害者が自分を裏切ったから殺した』と言ったが、被害者が警察に被害を届けるのは当然ではないか。裏切ったとは、どういうことなのか」と質問した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
これに対し、Mは「何度も言うようだけど、私の心は歪んでいるんです」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
弁護人から、犯行動機を聞かれたMは、「7年前の事件のことをしゃべって『(警察に通報して)悪かった』という言葉を、女性から聞きたかったが、相手が大声を出して『殺される!』と言ったため、逆上して殺した」と述べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
加えて、弁護人から「服役中の7年間、ずっと殺意を抱いていたのか」と質問されると、Mは「直前まで、殺そうという気持ちは五分五分で、被害者の態度次第だった」として、確定的な殺意を否定する供述をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05">『朝日新聞』1997年12月5日朝刊第二社会面38面「被告の態度に裁判長怒った 逆恨み殺人公判 東京地裁」</ref><ref group="書籍" name="宇野津1997">{{Harvnb|宇野津|1998|pages=28-41}}</ref>。
その上で弁護人から、死刑・無期懲役の量刑が適用される可能性を指摘されると、Mは「被害者には何もできないが、この命でよかったら捧げてもいいと思う。すべては身から出た錆だからもう仕方がない。(命日の)18日には冥福している」と発言した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
この発言に対し、弁護人から、「あなたの中には破壊的なものがある」と指摘されると、自分を突き放すかのように、「私の生まれ持った宿命だから、仕方がない」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
===== 山室惠裁判長の叱責 =====
Mは続いて、陪席裁判官の補充質問で<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、被害者への気持ちについて、「今でも被害者が警察に届け出たことを許せない、と思っているのか」と問われると<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「後悔しているし、ああいう行為はしなくてもよかった」と、憮然とした表情で話した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
しかし、[[山室惠]]裁判長は、Mの口調を投げやりだと感じたのか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「反省しているなら、そういう口の利き方をするのか」と問い詰めた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
これに対しMは、反発したかのように、「(彼女は警察に言わないと)約束したのだから」と発言した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
続いて、「警察に届け出た被害者が間違っていると思うのか」と問うと、Mは答えられなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
ここで山室は「結局、今でも相手の方が間違っていた、と思っているんだな」と念を押し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、裁判長としての質問を終えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>。
===== 弁護人からの精神鑑定申請 =====
その後、弁護人側は、「Mは7年間服役した札幌刑務所で、合計13回懲罰を受けている。服役中の大半は独居房におり、前科・前歴が多い危険人物である」などとして、Mの[[精神鑑定]]を申請した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
東京地裁がこれを認めたため、審理は一時中断し、精神鑑定が行われた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
==== 1999年2月12日、検察側論告求刑 ====
公判再開後、[[1999年]]([[平成]]11年)2月12日、[[論告]][[求刑]]公判が開かれた<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/><ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12"/>。
本事件では、殺害された被害者の人数は1人だが<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、検察側は被告人Mに対し、[[死刑]]を[[求刑]]した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12">『読売新聞』1999年2月12日東京夕刊社会面19面「暴行被害女性への逆恨み殺人 死刑を求刑/東京地裁」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12">『東京新聞』1999年2月12日夕刊第二社会面8面「逆恨み殺人に死刑求刑 東京地裁 『矯正不可能』と検察側」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
東京地検は、Mに殺人の前科があることや、身勝手な動機に加え<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、
その上で、「強姦事件の被害者の心情を思いやることなく、実に身勝手な動機による犯行であり、殺人前科があるなど、矯正はもはや不可能で、被害者遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すると、極刑をもって臨むほかない」<ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12"/>、「犯罪被害者が被害を届け出るのは、当然の権利で、それを逆恨みして報復するとは言語道断である。我が国の刑事司法に真っ向から挑戦する、反社会性の強い犯行で<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/>、法秩序が脅威にさらされる」などと主張した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
==== 1999年3月16日、弁護人最終弁論
1999年3月16日、最終弁論公判が開かれ、結審した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17">『朝日新聞』1999年3月17日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人、怒声の結審 弁護側『被害者にも落ち度』 傍聴席からは『ふざけるな』 5月27日、東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-03-17">『東京新聞』1999年3月17日朝刊社会面27面「逆恨み殺人 有期刑求める 最終弁論で弁護側」</ref>。
弁護人側は、犯行の動機や殺害方法の残虐性とともに、「殺害された被害者数」を考慮し、「やむを得ない場合に死刑が適用できる」とする、死刑適用基準を示した[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[判例]]「[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]」を引用し、検察側の死刑求刑に反論した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。
弁護人側は、「この事件の被害者数は1人であり、強盗殺人のような利欲犯ではない」、「[[ストーカー]]的な行為の過程で偶発的に引き起こされたもので、いわゆる『お礼参り殺人』とは違う」と述べ、死刑回避を訴えた上で、無期懲役か長期の有期懲役刑が相当だと主張した<ref group="書籍" name="福田2001"/>。
===== 最終弁論に対する罵声 =====
この最終弁論の際、弁護人・[[石川弘 (弁護士)|石川弘]][[弁護士]]は、「Mは恨みの気持ちと同時に、一方的ではあるが、女性に対し『恋慕に似た感情』も抱いていて、それがかえって『裏切られた』と思い込むことになった」とも主張した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
しかし、その言葉が終わらないうちに、傍聴席<!--にいた被害者遺族(文献では遺族とは明言されていない)-->から、「ふざけるな!」と罵声が飛び<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="書籍" name="福田2001"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、廷内は騒然となった<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19">『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号(同年8月5日発売)p.200-203「昭和・平成『女の事件史』 最終弁論も罵声で消えた『レイプお礼参り』殺人裁判」(記者:[[朝倉喬司]])</ref>。
===== 最終意見陳述にて、被告人Mに対する抗議 =====
被告人Mは、最終意見陳述の場で、「被害者はもちろん、遺族の方々にも申し訳ないことをいたしました」と頭を下げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="書籍" name="福田2001"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
しかし、Mの反省の弁に納得できなかった傍聴席の女性が「本当にそう思っているんですか」と声を荒らげた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="書籍" name="福田2001"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
これに対し、山室裁判長は、一瞬困惑しつつも<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、「たとえ遺族の方でももう一度、許可なく発言したら退廷させます」と強い口調で注意を促した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="書籍" name="福田2001"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
==== 1999年5月27日、無期懲役判決 ====
1999年5月27日、判決公判が開かれ、東京地裁([[山室惠]]裁判長)は、Mに対し、[[無期刑|無期]]懲役判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27">『朝日新聞』1999年5月27日夕刊第一社会面15面「逆恨み殺人で無期懲役 『身勝手だが人間性も』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27">『中日新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面10面「JT女性社員刺殺 M被告に無期 東京地裁判決 『通報恨み身勝手』」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-05-27">『東京新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面11面「M被告に無期懲役 JT女性社員、逆恨み刺殺 『理不尽な動機』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞">『読売新聞』1999年5月27日東京夕刊社会面19面「JT女性社員の被害届で逮捕… 出所後襲撃 逆恨み殺人に無期判決 /東京地裁」</ref><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
東京地裁は、情状面などの争点について、ほぼ全面的に、検察側の主張通りの[[事実認定]]をした<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
236 ⟶ 399行目:
[[判決理由]]で、殺意については、「Mは、包丁を見て被害者が謝れば、殺す気はなかったと言うが、とてもそうとは信じられず、最初から確定的な殺意があったと認められる」と認定した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27"/>。
一方で、検察側が「今回のようなお礼参り的事件が続発すると、犯罪被害者が報復を恐れて届け出なくなる恐れがある」として、死刑を求刑したことに対して、東京地裁は、「犯罪被害者保護の問題は、立法や行政上措置に委ねるのが適切で、今回の量刑で考慮するには限界がある」と指摘した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="福田2001"/>。
その上で、[[量刑]]理由については、「永山基準」を引用した上で「被害を警察に届け出た当然の行動を、裏切りと決めつけて筋違いの恨みを抱き、女性を殺害した犯行は、身勝手・理不尽で、刑事責任は重く、社会に与えた影響も大きいが、動機は個人的な恨みに基づくもので、利欲的なものではない<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/>。被害者数は1名であり、Mは公判が進むにつれて、反省の態度を示し始めており、法廷での謝罪の言葉も、口先だけとは断定できず、死刑を適用するには躊躇せざるを得ない」と結論付けた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。 また、Mの殺人前科については「20年以上前のもの」と、この判決では特に重視しなかった<ref group="新聞" name="毎日新聞2000-02-28"/>。
====
東京地検は、この判決に対し、「被害者が1人であることを重視しすぎている」、「犯行時に被害者の所持品を盗んでおり、利欲的な動機がなかったとは言えない」、「殺人前科があることなどからも量刑判断が間違っている」と、量刑不当・事実誤認を主張して<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、1999年6月4日付で、[[東京高等裁判所]]に[[控訴]]した<ref group="新聞">『中日新聞』1999年6月4日夕刊第二社会面12面「警察通報を恨み殺人 『無期懲役軽すぎる』 検察側控訴」<
=== 控訴審・東京高裁 ===
==== 2000年2月28日、第一審破棄・死刑判決
[[東京高等裁判所]]([[仁田陸郎]]裁判長)は、[[2000年]](平成12年)2月28日
東京高裁は、Mが出所直後から、被害者宅を探し始めた上で、あらかじめ包丁を購入し、包丁の柄に滑り止めのテープを巻き付けたりしていたことから、第一審同様、「確定的な殺意と高度の計画性が認められる」と認定した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
253 ⟶ 418行目:
Mには殺人前科があるとはいえ、[[身代金]][[誘拐]]・[[保険金殺人]]や無期懲役囚の[[仮釈放]]中の再犯事例を除くと、最高裁から1983年に死刑適用基準として「永山基準」が示されて以降では、殺害被害者人数1人での死刑判決は極めて稀なケースだったが、[[マスメディア]]は「被害者保護」を重視した判決として、この判決を評価した<ref group="書籍" name="福田2001"/>。
====
Mの弁護人は、判決を不服として、2000年3月8日付で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]した<ref group="新聞">『東京新聞』2000年3月9日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人の被告側上告」</ref><ref group="新聞">『朝日新聞』2000年3月9日朝刊第三社会面37面「東京・江東区『逆恨み殺人』の被告が上告」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
=== 上告審・最高裁第二小法廷 ===
==== 2004年6月14日まで、上告審口頭弁論公判期日指定
[[2004年]](平成16年)6月14日までに、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[滝井繁男]]裁判長)は、上告審[[口頭弁論]]公判の開廷期日を、2004年7月16日に指定し、関係者に通知した<ref group="新聞">『[[産経新聞]]』2004年6月14日大阪夕刊社会面「逆恨み殺人で最高裁が弁論」</ref><ref group="新聞">『産経新聞』2004年6月15日東京朝刊社会面「逆恨み殺人で最高裁、7月に弁論」</ref>。
==== 2004年7月16日、上告審口頭弁論公判開廷
2004年7月16日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)で、上告審口頭弁論公判が開かれ、結審した<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16">『[[毎日新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面12面「JT女性社員刺殺 双方が弁論し結審 最高裁」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16">『[[日本経済新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面15面「逆恨み殺人上告審で弁論 最高裁」<
弁護人側は、「場当たり的で計画性がなく、強固な殺意もなかった。動機は単なる恨みであり、利欲的な動機はない」と主張し、死刑判決
一方で、検察側は、「強固な殺意は明らかで、殺害された被害者数が1人で死刑が確定した他の事案と比べても、勝るとも劣らない非道な犯行だ。報復殺人は、犯罪を助長させ、治安の根幹を揺るがせかねない」として、被告人M・弁護人側の上告を[[棄却]]するよう求め
==== 2004年9月22日まで、上告審判決公判期日指定
2004年9月22日までに、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は
裁判長を務めた滝井は、「身勝手な動機は許せないが、Mを目の前でよく見ている一審の判断は重い。死刑以外の選択肢はないのか」、「被告人はこれ以上上訴できない。最終審として、責任は重大だ」と悩み抜いた末、「もう後戻りできない。これで本当に死刑が確定する」との思いを抱えつつ、上告棄却の結論を出し、判決文に裁判長として署名したという<ref group="新聞">『読売新聞』2009年3月7日東京朝刊第二社会面38面「[死刑]選択の重さ(7) 3審、それぞれの苦悩(連載)」</ref><ref group="書籍">{{Cite book |和書 |author=[[読売新聞]]社会部 |title=死刑 |publisher=[[浅海保]]、[[中央公論新社]] |date=2009-10-10 |pages=184-185 |isbn=978-4120040634 }}</ref>。
==== 2004年10月13日、上告審判決公判
2004年10月13日、上告審判決公判が開かれた<ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日20041014"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>。
最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は、控訴審の死刑判決を支持し、被告人Mの上告を棄却する判決を言い渡した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日20041014"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
これにより、被告人Mの死刑判決が[[確定判決|確定]]することとなった<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13">最高裁第二小法廷、2004年(平成16年)10月13日判決、事件番号:平成12年(あ)第425号</ref><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14">『中日新聞』2004年10月14日朝刊社会面31面「逆恨み殺人 死刑確定へ 暴行被害通報 女性を刺殺 最高裁『理不尽な犯行』」</ref><ref group="新聞" name="朝日20041014">『朝日新聞』2004年10月14日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人のM被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14">『[[読売新聞]]』2004年10月14日東京朝刊社会面39面「被害届女性逆恨み殺人 最高裁も死刑 上告を棄却 被害者1人でも」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14">『日本経済新聞』2004年10月14日朝刊社会面43面「逆恨み殺人 被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14 西部">『日本経済新聞』2004年10月14日西部朝刊社会面17面「暴行届け出逆恨み、女性刺殺 被告の死刑確定 最高裁、上告を棄却」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
同小法廷は、「特異な動機に基づく、誠に理不尽かつ身勝手な犯行であり、犯行に至る経緯に酌量の余地はない」、「その犯行は、計画性が高く、強固な殺意に基づくものであって、殺傷能力の高い刃物を用いた犯行の態様も冷酷かつ残虐である。被害者の生命を奪った結果は重大で、被害者遺族の被害感情は極めて厳しく、社会に与えた影響も大きい。殺人前科の存在も考慮すれば、死刑の判断は是認せざるを得ない」と事実認定した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>。
==== 2004年11月10日付、死刑判決確定 ====
被告人Mは、判決を不服として、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)に対し、判決の訂正を申し立てた<ref group="新聞" name="読売新聞2004-11-12"/><ref group="新聞" name="毎日新聞2004-11-12"/>。
しかし、2004年11月10日付で、同小法廷から、申し立てを棄却する決定がなされたことにより、死刑判決が確定した<ref group="新聞" name="読売新聞2004-11-12">『読売新聞』2004年11月12日東京朝刊第二社会面34面「婦女暴行逆恨み殺人 M被告の死刑確定/最高裁」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞2004-11-12">『毎日新聞』2004年11月12日朝刊社会面28面「JT女性社員逆恨み殺人 被告の死刑判決確定 最高裁」</ref>。
== 死刑執行 ==
=== 2008年2月1日、死刑囚Mほか2人の死刑執行 ===
[[2008年]](平成20年)2月1日、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[鳩山邦夫]])の死刑執行命令により、[[東京拘置所]]で、[[死刑囚]]Mの死刑が執行された<ref group="新聞" name="中日新聞2008-02-01">『[[中日新聞]]』2008年2月1日夕刊1面「3人の死刑執行 刈谷の主婦強殺犯ら」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2008-02-01">『[[東京新聞]]』2008年2月1日夕刊1面「3人の死刑執行 逆恨み殺人 M確定囚ら」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
同日には、M以外にも、[[大阪拘置所]]・[[福岡拘置所]]で1人ずつ、計3人の死刑囚に対し、刑が執行された<ref group="新聞" name="中日新聞2008-02-01"/>。
== 事件の影響 ==
292 ⟶ 466行目:
=== 出所情報通知制度 ===
==== 警察庁の発表 ====
[[警察庁]]は、この事件を重く見て、1997年9月29日午後に開かれた「全国捜査鑑識関係課長会議」で、再被害を視野に入れた、凶悪事件の捜査を、全国の警察に指示した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
その上で、「再被害の恐れが強いと判断された場合には、加害者の出所時期を、事前に被害者に通知する場合もある」などの方針を発表した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29">『東京新聞』1997年9月29日夕刊1面「犯罪者の『お礼参り』防止へ出所時期通知 居住地や勤務先は原則非公開 警察庁が初対策」</ref><ref group="書籍" name="村野2002"/>。
この方針は、「所轄警察署が、殺人・性犯罪などを摘発した際、報復犯罪が発生する可能性がある事件を、各警察本部に登録し、被害者への警戒活動を行うとともに、必要な場合は加害者の出所情報を連絡する」というものだった<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
ただし、刑期を満了した者のプライバシー侵害や、被害者による加害者への復讐の助長につながるため、警察庁は「出所後の居住地が被害者と近接しているなどの特別な場合を除き、出所者の居住地・勤務先は教えない」とした<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
1999年4月以降、検察庁は、事件の処分結果を被害者に連絡する「被害者通知制度」を開始したが、この時点ではまだ、出所情報の提供はされなかった<ref group="新聞" name="読売新聞2000-03-20"/>。
==== 法務省による実施発表 ====
この制度はその後、2000年3月19日までに、[[法務省]]内で検討が開始された<ref group="新聞" name="読売新聞2000-03-20">『読売新聞』2000年3月20日東京朝刊2面「犯罪被害者に『出所情報』 法務省が提供検討 逆恨み被害を防止」</ref>。
この制度は、2000年9月28日までに<ref group="新聞" name="読売新聞2000-09-29"/>、各[[地方検察庁]]で、翌2001年3月から実施することが決定した<ref group="新聞" name="読売新聞2000-09-29">『読売新聞』2000年9月29日東京朝刊1面「『出所情報』被害者に通知 逆恨み被害防止で法務省、年内実施へ」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02">『中日新聞』2000年12月2日朝刊第二社会面34面「被害者に出所情報 来年3月から」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2000-12-02">『東京新聞』2000年12月2日朝刊第二社会面28面「被害者に出所情報 来年3月から」</ref>。
この制度は、出所情報の通知を希望する被害者からの申請を前提に、検察庁が法務省の通達に従い、刑務所・保護観察所の情報を得て、被害者に通知するものである<ref group="新聞" name="読売新聞2000-09-29"/>。情報提供の対象は、事件の被害者のみならず、目撃者も対象に加えた<ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02"/>。その上で、再被害防止・加害者のその後を知りたいという、被害者らの要望に応え、加害者の実刑判決確定後、希望する被害者らに対し、懲役刑などの終了予定時期(年月)などを通知し、出所時の連絡を申し出た場合は、その年月日を伝えることとした<ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02"/>。
その一方で、提供する内容は、原則として出所事実に限定し、「加害者の更生を不当に妨げたり、被害者による報復や、[[暴力団]]抗争など、新たな紛争が予想される場合は、情報を提供しない」こと、「再被害の可能性が高い場合を除き、出所時期の事前通知はせず、加害者の出所後の住所も教えない」ことが決められた<ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02"/>。
また、受刑者ではない[[少年院]]収容者の退院も、制度の対象外とされた<ref group="新聞" name="中日新聞2000-12-02"/>。
==== 制度拡充 ====
法務省は、2001年7月31日、この被害者通知制度を拡充し、必要に応じて出所予定時期・加害者の居住地も、事前に通知する制度に改め、同年10月1日から、新制度に切り替えることを決めた<ref group="新聞" name="中日新聞2001-07-31">『中日新聞』2001年7月31日夕刊3面「『被害者通知制度』10月改正 出所後の居住地も通知 法務省 『逆恨み』防止で警察と連携拡充」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2001-07-31">『東京新聞』2001年7月31日夕刊1面「出所情報を事前通知 法務省 10月1日から 被害者保護へ制度拡充」</ref>。
通知対象は、被害者本人のほか、親族や弁護士、事件の目撃者も加えた<ref group="新聞" name="中日新聞2001-07-31"/>。
また、出所時期の通達は、刑期満了前の仮釈放も含め、出所予定時期(月の上旬・中旬・下旬まで)を、1,2か月前に関係者に通知するが、接触回避のために必要と判断した場合は、釈放期日まで通知することとした<ref group="新聞" name="中日新聞2001-07-31"/>。
「加害者の更生を妨げたり、被害者の報復などがないように、犯罪の形態や、受刑中の加害者の言動などを検討し、妥当と認められる場合に限り、情報提供するが、原則通知しない出所後の居住地も、被害者の自宅と近接している場合などは、町名・字名までを限度に、伝える場合もある」とした<ref group="新聞" name="中日新聞2001-07-31"/>。
その後同制度は、[[2002年]](平成14年)時点での利用件数が125件だったのに対し、[[2003年]](平成15年)時点では250件と、利用が倍増した<ref group="新聞" name="読売新聞2004-02-15">『読売新聞』2004年2月15日東京朝刊2面「出所情報通知制度、利用倍増 延べ250件/2003年」</ref>。
=== 朝倉喬司の評価 ===
[[朝倉喬司]]は、本事件について扱った『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号記事中にて、Mの犯行動機・公判中の態度、弁護人・石川を非難した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
朝倉は、記事中で、「(最終弁論の際の罵声について)傍聴席の誰の発言だったにせよ、怒りたくなるのも無理はない。Mのしでかしたことは、それくらい理不尽で手前勝手な犯罪だった」、「たとえMが、被害者に対して『恋慕に似た感情』を持っていたとしても、身勝手な思い込みであり、到底情状に加味されるような事柄ではない」と述べた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
305 ⟶ 506行目:
その上で、「被害を通報した人間を、当の加害者が、そのことを理由に殺す―こんなことがまかり通れば、届け出をためらう風潮につながり、検察側の主張した通り『法秩序が脅威にさらされる』ことになりかねない」、「警察は、被害者の保護についてちゃんと考えていたのかが問われる場面だが、今回の事件の場合、せめて被害者に対し、事前に引っ越すことなどをアドバイスできなかったかと思う。仮に彼女(被害者)が、都内でも近県でも、どこか全く方向の違う場所へ引っ越していたら、Mの『調査能力』からすれば、おそらく突き止められなかっただろう。警察としては、被害者をつきっきりで四六時中守るという訳にもいかないだろうが、できることから直ちに実施に移してもらいたい。それが、非業のうちに亡くなった被害者への、せめてもの供養というものだ」と述べた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
==
=== 刑事裁判の判決文 ===
* '''{{Cite 判例検索システム |裁判所=[[東京地方裁判所]]刑事第5部 |裁判形式=判決 |事件番号=平成9年(合わ)第133号 |事件名=殺人、窃盗被告事件 |裁判年月日=1999年(平成11年)5月27日 |判例集=『[[判例時報]]』第1686号156頁 |判示事項= |裁判要旨=かつて強姦致傷などの事件を起こした被告人が、被害者が警察に届け出たために逮捕されたとして逆恨みし、刑期を終えて出所後、被害者を探し出した上、包丁で刺殺し、その直後に所持品を盗んだという殺人、窃盗の事案において、無期懲役が言い渡された事例。 |url= }}'''
** D1-Law.com([[第一法規]]法情報総合データベース)判例体系 ID:28045243
** 判決内容:無期懲役判決(求刑死刑、検察側控訴)
** [[裁判官]]:[[山室
** [[検察官]]・[[弁護人]]
*** [[東京地方検察庁]]検察官:千葉守・沢田康弘
*** [[国選弁護制度|国選弁護人]]:[[石川弘 (弁護士)|石川弘]]
* '''{{Cite 判例検索システム |裁判所=[[東京高等裁判所]]第3刑事部 |裁判形式=判決 |事件番号=平成11年(う)第1202号 |事件名=殺人、窃盗被告事件 |裁判年月日=2000年(平成12年)2月28日 |判例集=『判例時報』第1705号173頁・『[[判例タイムズ]]』第1705号173頁・『[[判例集|高等裁判所刑事裁判速報集]]』(平12)号73頁 |判示事項= |裁判要旨=<br>1.かつて起こした強姦致傷、窃盗事件の被害者が警察に被害を届け出たことを逆恨みして、服役後に被害者を捜し出したうえ、包丁で刺殺したという殺人及び窃盗の事案において、無期懲役とした第一審判決を破棄して死刑を言い渡した事例。<br>2.強姦致傷等の被害の届出を逆恨みし、服役後に被害者を捜し出し殺害した事案につき、無期懲役刑とした第一審判決を破棄し死刑を言い渡した事例。 |url= }}'''
** D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28055166
** 判決内容:破棄自判・死刑判決(求刑同、被告人側上告)
** 裁判官:[[仁田陸郎]](裁判長)・[[下山保男]]・[[角田正紀]]
** 検察官・弁護人
*** [[東京高等検察庁]]検察官:齊田國太郎
*** 弁護人:石川弘
* '''{{Cite 判例検索システム |法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷 |裁判形式=判決 |事件番号=平成12年(あ)第425号 |事件名=殺人、窃盗被告事件 |裁判年月日=2004年(平成16年)10月13日 |判例集=『[[判例集|最高裁判所裁判集刑事編]]』(集刑)第286号357頁・『判例時報』第1889号146頁・『判例タイムズ』第1174号258頁・裁判所ウェブサイト掲載判例 |判示事項=死刑の量刑が維持された事例(前刑事件の被害女性に対する逆恨み殺人事件) |裁判要旨=<br>1.死刑が憲法13条・31条・36条に違反しないところは、判例とするところである。<br>2.かつて被害者に対する強姦致傷等の事件で、被害者が警察に届け出て逮捕され懲役7年に処せられたが、服役を終えた後、被害者方を探し当て、出所の2か月後に被害者を団地内で待ち伏せし、被害者の胸腹部を柳刃包丁で数回突き刺して殺害した事案につき、一審判決が無期懲役、二審判決が破棄自判・死刑としたところ、二審判決を是認し、死刑が維持された事例。 |url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57817 }}'''
** D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28105157
** 判決内容:被告人側上告棄却(死刑判決確定)
** [[最高裁判所裁判官]]:[[滝井繁男]](裁判長)・[[福田博]]・[[北川弘治]]・[[津野修]]
** 検察官・弁護人
*** [[最高検察庁]]検察官:仲田章
*** 弁護人:久保貢
=== 関連書籍・雑誌記事 ===
* 『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号(同年8月5日発売)p.200-203「昭和・平成『女の事件史』 最終弁論も罵声で消えた『レイプお礼参り』殺人裁判」(記者:[[朝倉喬司]])
* 『[[新潮45]]』(新潮社)2006年10月号(第25巻第10号・通巻第294号。2006年10月1日発行)p.65-67「総力特集 昭和&平成 世にも恐ろしい13の『死刑囚』事件簿 - M(死刑囚の実名)『江東区・JT女性社員逆恨み殺人事件』出所後すぐにお礼参りの恐怖」
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