|relstyle= 大主教
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'''デズモンド・ムピロ・ツツ'''('''Desmond Mpilo Tutu'''、1931年10月7日-現在、{{仮リンク|Order for Meritorious Servic|label=OMSG|en|Order for Meritorious ServicService}}、{{仮リンク|Order of Companions of Honour|label=CH|en|Order of the Companions of Honour}}、{{仮リンク|Order of Saint John (chartered 1888)|label=GCStJ|en|Order of Saint John (chartered 1888)}}受賞者)は、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[聖公会]]牧師であり、{{仮リンク|反アパルトヘイト運動|label=反アパルトヘイト|en|anti-apartheid movement}}・[[人権]]活動家として知られる[[神学者]]。1985年-1986年にかけて{{仮リンク|ヨハネスブルク主教聖公会教区|label=ヨハネスブルク主教|en|Anglican Diocese of Johannesburg}}を、その後1986年から1996年まで{{仮リンク|ケープタウン大主教|en|Archbishop of Cape Town}}を務めた。この二つの叙任は、これらの地位に黒人男性が就いた初めてのケースであった。神学的には、彼は{{仮リンク|黒人神学|en|black theology}}と{{仮リンク|アフリカ神学|en|African theology}}の融合を目指し、政治的には[[社会主義者]]を自認していた<!--identifiesが自動詞なので、こう訳すべきかと見做さ思われる-->。
[[コサ人|コーサ人]]と[[ツワナ人|モツワナ人]]の混血児として{{仮リンク|クラークスドープ|en|Klerksdorp}}の貧しい家庭に生まれ、少年時代には南アフリカ各地を転々とした。成年時代に入ると教師としての訓練を受け、{{仮リンク|ノマリゾ・レア・ツツ|en|Nomalizo Leah Tutu}}と結婚し、複数の子供を儲けた。1960年、彼は聖公会司祭(Anglican priest)に任命され、1962年には[[キングス・カレッジ・ロンドン]]で神学を学ぶために[[イギリス]]に渡った。1966年に南アフリカに戻り、{{仮リンク|南アフリカ連邦神学校|en|Federal Theological Seminary of Southern Africa}}で教職を務め、その後{{仮リンク|ボツワナ・レソト・スワジランド連合大学|en|University of Botswana, Lesotho and Swaziland}}に移った。1972年には神学教育基金のアフリカ担当理事となった。この地位は[[ロンドン]]に拠点を置いていたが、定期的にアフリカ大陸を周る必要があった。1975年に南アフリカに戻ると、彼は当初{{仮リンク|首席司祭 (キリスト教)|label=首席司祭|en|Dean (Christianity)}}として[[ヨハネスブルク]]の{{仮リンク|セント・マリー大聖堂 (ヨハネスブルク)|label=セント・マリー大聖堂|en|St Mary's Catedral, Johannesburg}}に務め、続いて{{仮リンク|レソト主教|en|Bishop of Lesotho}}となり、南アフリカの[[人種隔離]]と{{仮リンク|南アフリカの白人|label=白人少数派|en|White South African}}による支配構造である[[アパルトヘイト]]制度に対する抵抗運動で積極的な役割を果たした。1978年から1985年にかけて、彼は{{仮リンク|南アフリカ教会評議会|en|South African Council of Churches}}(SACC)の総書記となり、南アフリカで最も著名な反アパルトヘイト活動家の一人として浮上した。彼は{{仮リンク|国民党 (南アフリカ)|label=国民党|National Party (South Africa)}}政府に対してアパルトヘイトが人種的暴力に繋がると警告しているが、活動家としては{{仮リンク|非暴力抵抗運動|en|non-violent protest}}と、アパルトヘイト政策を変えさせるための外国からの経済的圧力を重視した。
1985年、ヨハネスブルク主教となり、1986年には南部アフリカ聖公会の序列において最上位であるケープタウン大主教となった。{{訳語疑問点範囲|この地位で、彼はリーダーシップモデルの総意構築に重点を置き|date=2018年3月|he emphasised a consensus-building model of leadership|cand_prefix=原文}}、女性司祭の導入を監督した。また、1986年には{{仮リンク|全アフリカ教会会議|en|All Africa Conference of Churches}}の総幹事(President)になり、その結果更にアフリカ大陸を周遊することとなった。反アパルトヘイト活動家[[ネルソン・マンデラ]]が1990年に監獄から解放され、[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|デクラーク大統領]]とアパルトヘイトの終了について交渉した後、新たな政府をツツは支援した。交渉の間、彼は競合する黒人組織の仲介役を果たした。マンデラはツツを{{仮リンク|真実和解委員会 (南アフリカ)|label=真実和解委員会|en|Truth and Reconciliation Commission (South Africa}}の議長に選び、過去の人権侵害を調査しさせた。アパルトヘイトの崩壊の後、ツツは{{仮リンク|ゲイの権利|en|gay rights}}を訴えるキャンペーンを行い、[[パレスチナ紛争]]、[[イラク戦争]]への反対、南アフリカ大統領[[タボ・ムベキ]]と[[ジェイコブ・ズマ]]への批判などの幅広い主題について意見を述べた。そして2010年に公的生活から引退した。
ツツは1970年代に賛否両論名を巻き起こし、注目成すとともに毀誉褒貶を集め受けた、<!--前後関係はこうではないかと思われる-->。アパルトヘイトの支持者は彼を嫌悪し、多くの白人[[リベラル]]が彼を過激すぎるとみなした。そして[[共産主義|共産主義者]]は彼の[[反共主義]]的スタンスを非難した。彼は黒人大衆から広く人気を集めており、反アパルトヘイト活動によって国際的評価が高く、[[ノーベル平和賞]]を含む一連の賞を受賞した。彼はまた、自身のスピーチと発言を複数の本にまとめた。
== 初期の経歴 ==
[[File:ChurchofChristtheKing.jpg|thumb|left|alt=キリスト教キング教会|ソフィアタウンのキリスト教の・ザ・キング<!--直訳で「キリスト王」-->教会。この教会でツツは司祭トレヴァー・フッドレストン(Trevor Huddlestone)の下で働いた。]]
ツツ一家は貧しかった{{sfn|Gish|2004|p=3}}。家族についての説明で、ツツは後にこの点について「私たちは豊か裕福ではなかったが、極貧<!--前文と矛盾しくないように-->というわけでもなかった。」としている{{sfn|Allen|2006|p=21}}。ツツには姉シルヴィアがおり、彼女はツツを「ムピロ(命)」と呼んでいた。この名前は父方の祖母から彼に与えられたものである{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=3|2a1=Allen|2y=2006|2p=19}} 。他の家族は彼を「ボーイ(Boy)」と呼んでいた{{sfn|Allen|2006|p=19}}。ツツは次男であった。長男のシポ(Shipo)がいたが、彼は幼少の頃に死亡した{{sfn|Allen|2006|p=19}}。ツツは誕生した時から[[ポリオ]]に犯されていた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=2|2a1=Allen|2y=2006|2p=19}}。この結果、彼の右手は小さく萎縮し{{sfn|Allen|2006|p=19}}、またある時には深刻な火傷を負って入院した{{sfn|Allen|2006|p=20}}。彼は父親と非常に仲が良く、父が大好きであったが、父が大酒飲みでしばしば母を叩くことに怒っていた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=3|2a1=Allen|2y=2006|2p=22}}。一家は当初[[メソジスト]]に所属し、ツツは1932年7月にメソジストの教会で[[バプティスト洗礼]]となっを受けた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=33}}。彼らはその後、最初は{{仮リンク|アフリカ・メソジスト聖公会|en|African Methodist Episcopal Church}}に、その後、[[聖公会]]に宗旨替えをした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=33}}。
1936年、一家は{{仮リンク|ツィング|en|Tshing}}に移り、ザカリアはそこでメソジスト学校に校長(The principle)として採用された。彼らは学校の庭にある小屋で生活した{{sfn|Allen|2006|p=20}}。ツツはそこで初等教育を受け始め、他の子供たちとフットボールをし{{sfn|Allen|2006|p=21}}、聖フランシス聖公会に奉仕するようになった{{sfn|Allen|2006|p=33}}。彼は読書を愛するようになり、特にコミックとヨーロッパの[[御伽噺]]を楽しんだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=21}}。また、ここで地域の主要言語である[[アフリカーンス語]]を学んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=21}}。そしてこの地で、ツツの両親にとって3番目の息子であるタムサンカ(Tamsanqa)が生まれたが、彼もまた幼くして死んだ{{sfn|Allen|2006|p=21}}。1941年頃、ツツの母はヨハネスブルク西部の視覚障碍者施設であるエゼンゼレニ(Ezenzeleni)のコックとして働くため{{仮リンク|ウィットウォーターズランド|en|Witwatersrand}}へ移った。ツツは彼女についてその街に入り、タウンシップ内に自分たちの家を確保するまでは{{仮リンク|ロードポート|label=西ロードポート|en|Roodepoort West}}に叔母と一緒に住んでいた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=5|2a1=Allen|2y=2006|2p=24}}。ヨハネスブルクで、彼はメソジストの小学校に入り、その後{{仮リンク|聖マーティン学校 (ロゼッテンビル)|label=聖アグネス・ミッション|en|St. Martin's School (Rosettenville)}}の{{仮リンク|スウェーデン人寄宿学校|en|Swedish Boarding School}}(SBS)に移籍した{{sfn|Allen|2006|p=24}}。数ヶ月後、彼は父親と共に東トランスヴァールの{{仮リンク|エルメロ|en|Ermelo}}に移った{{sfn|Allen|2006|p=25}}。6ヶ月後、二人は西ロードポートに残った家族と一緒に生活するために戻り、ツツはSBSに復帰した{{sfn|Allen|2006|p=25}}。ツツはキリスト教への興味を募らせ、12歳の時にロードポートの聖マリー教会で[[堅信]]を行った{{sfn|Allen|2006|p=34}}。
ツツは小学校の算数分野の試験に落第したが、それでも彼の父は1945年にツツをヨハネンスブルクのバントゥー高校に入学させた。この学校でツツは優秀な成績をあげた{{sfn|Allen|2006|pp=25, 34-35}}。[[ラグビーユニオン]]のチームに参加し、それ以来生涯にわたってこのスポーツを愛した{{sfn|Allen|2006|p=36}}。学校の外では、オレンジを売ったり、白人のゴルファーのキャディーをして金を稼いだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=7|2a1=Allen|2y=2006|2p=37}}。通学にかかる電車代を節約するため、家族と共に一時的にヨハネスブルクの近郊に住んだが、その後両親と共に{{仮リンク|マンシーヴル|en|Munsieville}}に戻るまで、家族と共に一時的にヨハネスブルクの近郊に住んだった{{sfn|Allen|2006|pp=36, 37-38}}。ツツはヨハネスブルクに戻ってホステルに入った。このホステルは{{仮リンク|ソフィアタウン|en|Sophiatown}}にあるChurch of Christ the King周辺にある聖公会の施設の一部であった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=8|2a1=Allen|2y=2006|2p=42}}。ツツはこの教会で奉仕するようになり、その祭司であった{{仮リンク|トレヴァー・ハドルストン|en|Trevor Huddleston}}の影響を受けるようになった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=10|2a1=Allen|2y=2006|2pp=43-45}}。1947年、ツツは[[結核]]を患い、{{仮リンク|リットフォンテン|en|Rietfontein}}で18ヶ月間入院した。その間、大部分の時間を彼は読書に費やした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=9|2a1=Allen|2y=2006|2pp=45-46}}。入院した病院で彼は成人であることの証として[[割礼]]を受けた{{sfn|Allen|2006|p=47}}。1949年、ツツは学校に戻り、1950年の後半に国家試験で{{訳語疑問点範囲|第二級合格証|date=2018年3月|second-class pass|cand_prefix=原文}}を取得した{{sfn|Allen|2006|pp=47-48}}。
=== 大学と教師としてのキャリア: 1951-1955 ===
医者になることを望んだツツは、医学について学ぶため{{仮リンク|ウィットウォーターズランド大学|en|University of the Witwatersrand}}への入学権を確保したが、彼の両親は授業料を支払うことができなかった{{sfn|Allen|2006|pp=47-48}}。そのためツツは教職に進路変更し、1951年に教師養成機関であるプレトリア・バントゥー一般教員養成大学<!-- [[:en:Normal School]]参照。-->(Pretoria Bantu Normal College)の課程を受講するための政府奨学金を取得した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=12|2a1=Allen|2y=2006|2p=48}}。そこで彼は学生代表評議会(the Student Representative Councillor)の会計係を務め、the Literacy and Dramatic Societyの組織化を助け、文化討論協会(the Cultural and Debating Society)の会長を2年間務めた{{sfn|Allen|2006|p=48}}。ある地方討論会の折に、ツツは弁護士で将来大統領となる[[ネルソン・マンデラ]]と初めて出会った。マンデラはこの時の出会いを覚えておらず、1990年まで二人が再び会うことはなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=17|2a1=Allen|2y=2006|2pp=48-49}}。この大学で、ツツは活動家の{{仮リンク|ロバート・ソブクウェ|en|Robert Sobukwe}}から試験についての助言を得て、トランスヴァール・バントゥー教師免許(Transvaal Bantu Teachers Diploma)を取得した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=18|2a1=Allen|2y=2006|2p=50}}。また、[[南アフリカ大学]](UNISA)が提供する5つの通信課程をとっており、後のジンバブエの指導者となる[[ロバート・ムガベ]]と同じクラスを卒業した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=18|2a1=Allen|2y=2006|2pp=49-50}}。
1954年、ツツはマディバネ高校(Madibane High School)で英語教師になった。その翌年には{{仮リンク|クルーガーズドープ高等学校|label=クルーガーズドープ高校|en|Krugersdorp High School}}に移籍して英語と歴史を教えた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=17, 18|2a1=Allen|2y=2006|2pp=50-51}}。彼は妹の友人で小学校教師を目指して勉強していた、ノマリゾ・レア・シェンクサネ(Nomalizo Leah Shenxane)と交際するようになった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=18|2a1=Allen|2y=2006|2p=51}}。彼らはメアリー・クイーン使徒教会(the Church of Mary Queen of Apostles)でローマ・カトリックの結婚式を挙げる前に、クルーガーズドープ・ネイティブ・コミッショナーズ裁判所(Krugersdorp Native Commissioner's Court)で1955年7月に法的に結婚し、メアリー・クイーン使徒教会(the Church of Mary Queen of Apostles)でローマ・カトリックの結婚式を挙げた<!--beforeを直訳せず、書いてある順に(時系列で)訳す方が自然だと思います-->。ツツは[[プロテスタント]]であったが、ノマリゾ・レアがカトリック信徒であったため、この結婚式に同意した{{sfn|Allen|2006|pp=51-52}}。新婚の二人は6ヶ月後に部屋を借りるまで、ツツの両親の部屋に住んだ{{sfn|Allen|2006|p=52}}。二人の最初の子供、トレヴァー(Trevor)は1956年4月に生まれた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=22|2a1=Allen|2y=2006|2p=53}} 。最初の娘タンデカ(Thandeka)はその16か月後に生まれた{{sfn|Allen|2006|p=53}}。夫妻は聖パウル教会(St Paul's Church)で礼拝を熱心に信仰行い<!-- worshipが自動詞なので、「教会をworshipした」ではなく「教会で~」-->、ツツは[[日曜学校]]の教師|、聖歌隊副指揮者{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(assistant choirmaster)、教会評議員{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(church councillor)、一般説教師{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(lay preacher)、そして助祭大理(sub-deacon)としてボランティアを行い{{sfn|Allen|2006|p=53}}、教会以外では地元のフットボールチームの管理者としてボランティアを行った{{sfn|Allen|2006|p=52}}。
=== 聖職者となる:1956-1966 ===
[[File:Bletchingley Church in September 2010.jpg|thumb|left|修士時代、ツツは牧師補(curate)としてサリー州のブレッチングリー(Bletchingley)にある聖メアリー教会で働いた。]]
1960年12月、{{仮リンク|エドワード・パゲット (司祭)|label=エドワード・パゲット|en|Edward Paget (bishop)}}はツツを{{仮リンク|聖メアリー大聖堂 (ヨハネスブルク)|label=聖メアリー大聖堂|en|St Mary's Cathedral, Johannesburg}}の聖公会牧師に任命した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=74}}。ツツはその後、の聖アルバンの{{仮リンク|ベノニ (ハウテン州)|label=ベノニ|en|Benoni, Gauteng}}の聖アルバン教区の牧師補補佐(assistant curate)に任命され、そこで妻と子供たちに再開会した。彼らは改装したガレージに住んでいた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=74}}。ツツは一ヶ月に72.50ランドの収入を得たが、それは白人の同格者たちの収入の3分の2であった{{sfn|Allen|2006|p=75}}。1962年、ツツは{{仮リンク|トコザ|en|Thokoza}}の聖フィリップ教会(St Philip's Church)に移り、そこで{{訳語疑問点範囲|信徒の告解|date=2018年3月|charge of the congregation|cand_prefix=原文}}を担当し、牧師の使命に対する情熱を育んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=76}}。南アフリカの白人支配の中で、聖公会創設者たちの多くは、より多くの土着のアフリカ人が教会の権限を持った地位に必要であると感じていた。これを支援する{{仮リンク|アルフレッド・スタブス|en|Aelfred Stubbs}}は、ツツに神学教師としての訓練をイギリスの[[キングスカレッジ]](KCL)で神学教師としての訓練を受けさせることを提案した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=31|2a1=Allen|2y=2006|2p=77}}。[[国際宣教師協会]](International Missionary Council)の神学教育基金(Theological Education Fund:TEF)によって費用が確保され{{sfn|Allen|2006|p=81}}、政府はツツにイギリスへの移動許可を与えることに合意した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=31|2a1=Allen|2y=2006|2pp=79-81}}。
キングスカレッジの神学部で、ツツは{{仮リンク|デニス・ナインハム|en|Dennis Nineham}}、{{仮リンク|クリストファー・エヴァンズ (神学者)|label=クリストファー・エヴァンズ|en|Christopher Evans (theologian)}}、{{仮リンク|シドニー・エヴァンズ (神学者)|label=シドニー・エヴァンズ|en|Sydney Evans}}、{{仮リンク|ジェフリー・パリンダー|en|Geoffrey Parrinder}}、そして{{仮リンク|エリック・マスコール|en|Eric Mascall}}のような神学者の下で学んだ{{sfn|Allen|2006|p=86}}。ロンドンでツツ一家はアパルトヘイトと、南アフリカの[[パス法]]に制約されない自由な生活の経験に感銘を受け{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=32|2a1=Allen|2y=2006|2p=87}}、後に「イングランドにはレイシズムがある。だが、我々はそれに晒されていない。」と書き記している{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=32|2a1=Allen|2y=2006|2p=87}}。一家は{{仮リンク|ゴールダーズ・グリーン|en|Golders Green}}の聖アルバン殉教者教会(the Church of St Alban the Martyr)裏手にある牧師補(curate)の共同住宅(flat)に移り住んだ。彼らはツツが日曜礼拝を手伝うという条件で家賃を免除してもらうことができ、これを通じて初めて白人の信徒に奉仕をした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=31, 33|2a1=Allen|2y=2006|2pp=84, 87}}。この共同住宅で1963年に娘のムポ・アンドレア(Mpho Andrea)が生まれた.{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=34|2a1=Allen|2y=2006|2p=88}}。ツツは学問的に成功し、彼の指導教員たちは[[名誉学位{{仮リンク|優等学位]]|en|Honours degree}}<!--Honourary degreeとは異なる-->に変更することを促した。そのため彼はまた、ヘブライ語をも学んでいた.だ{{sfn|Allen|2006|pp=89-90}}。
美術学の[[Bachelor of Arts|学士(bachelor)]]<!--artsはリベラルアーツ-->の修了が近づくにつれ、彼はTEFの資奨学金確保のを得ることができたため修士号を取得することに決めた{{sfn|Allen|2006|p=92}}。彼は1965年10月から1966年9月まででこの学位を取得し、西アフリカにおけるイスラームについての論文を完成させた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=35|2a1=Allen|2y=2006|2pp=92, 95}}。この時期、一家はゴールダーズ・グリーンから[[サリー (イングランド)|サリー]]の{{仮リンク|ブレッチングリー|en|Bletchingley}}に移り、ツツは聖メアリー教会の牧師補補佐(assistant curate)として働いた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=35|2a1=Allen|2y=2006|2p=93}}。この村で、彼は彼の所属する聖公会の教区員と地元のローマ・カトリックおよびメソジストのコミュニティの協力を奨励した{{sfn|Gish|2004|p=35}}。ロンドンでの日々は、ツツの白人に対する敵意と人種的劣等感を捨てさり、白人に従属する習慣を乗り越えるための一助となった{{sfn|Gish|2004|p=34}}。
== アパルトヘイト中のキャリア ==
=== 南アフリカとレソトでの教育:1966-1972 ===
1966年、ツツ一家はイギリスを去り、[[パリ]]と[[ローマ]]を経由して[[東エルサレム]]へ旅した{{sfn|Allen|2006|pp=98-99}}。この街で2ヶ月を費やし、ツツはアラビア語とギリシア語を{{仮リンク|聖ジョージ大学 (エルサレム)|label=聖ジョージ大学|en|St. George's College, Jerusalem}}で学んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=39|2a1=Allen|2y=2006|2pp=98-99}}。彼はこの都市におけるユダヤ人とアラブ系市民の間の緊張に衝撃を受けた{{sfn|Gish|2004|p=39}}。一家はここから南アフリカに戻り、ウィットウォーターズランドでクリスマスを家族で過ごした{{sfn|Allen|2006|p=101}}。彼らは隔離とパス法による影響を受けた社会をに再調整び順応<!--readjustは自動詞-->することが困難であることを見出した{{sfn|Allen|2006|p=101}}。彼はイスラームの聖典[[クルアーン]](コーラン)における{{仮リンク|イスラームにおけるモーセ|label=モーセ|en|Moses in Isram}}というテーマで南アフリカ大学の博士号(PhD)を得る可能性を探ったが、この計画は実現しなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=42|2a1=Allen|2y=2006|2p=95}}。1967年、彼らは{{仮リンク|アリス (東ケープ州)|label=東ケープのアリス|en|Alice, Eastern Cape}}に赴いた。そこでは異なるキリスト教派の訓練機関が合併して{{仮リンク|南アフリカ連邦神学校|en|Federal Theological Seminary of Southern Africa}}(Fedsem)が設立されたばかりであった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=41|2a1=Allen|2y=2006|2pp=101, 103}}。ツツはそこで教義、旧約聖書、ギリシア語の教官として雇われた{{sfn|Allen|2006|p=104}}。ツツはこの大学の最初の黒人職員であり、他のほとんどの職員は在留ヨーロッパ人とアメリカ人であった{{sfn|Allen|2006|pp=104, 105}}。このキャンパスは南アフリカ社会ではほとんど存在しないレベルでの人種混合を認めていた{{sfn|Allen|2006|p=105}}。ツツの妻ノマリゾ・レアも図書館助手としてここで雇用を得た{{sfn|Allen|2006|p=105}}。夫妻は、南アフリカ政府のバントゥー教育のシラバスで指導されないように、スワジランドの私立の寄宿学校に子供たちを送った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=42|2a1=Allen|2y=2006|2p=101}}。
聖ピーター教会では、ツツは汎プロテスタントグループの教会統一委員会(Church Unity Commission)に加わり、南アフリカでの聖公会・カトリックの対話の代表者を務めた{{sfn|Allen|2006|p=116}}。彼はまた、この時点から[[学術誌]]や時事問題の雑誌に掲載され寄稿し始めた{{sfn|Allen|2006|p=116}}。
ツツはまた隣接する{{仮リンク|フォート・ヘア大学|en|University of Fort Hare}}の聖公会牧師(the Anglican chaplain)として任命された{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=42|2a1=Allen|2y=2006|2p=108}}。この時代としては異例なことに、彼は給仕{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(server)男子学生とともになる女子学生たちを正聖餐式(Eucharist)の間に男子学生サーバー<!--辞書やグーグルで浅く調べた程度ですが、聖餐式のserverはカトリックでは「侍者」、聖公会では「サーバー」と共訳すのが一般的だと思われます-->(server)に招い任じた{{sfn|Allen|2006|p=108}}。彼は[[:en:Anglican Students' Federation|Anglican Students' Federation]]と[[:en:University Christian Movement|University Christian Movement]]で会合するため、聖公会の学生代表団に加わった{{sfn|Allen|2006|p=109}}。この環境から、[[スティーヴ・ビコ]]や{{仮リンク|バーニー・ピトヤナ|en|Barney Pityana}}のような人物の指導力の下、{{仮リンク|黒人意識運動|en|Black Consciousness Movement}}が登場した。ツツはアパルトヘイトと闘うために他の人種グループと協力することを厭わなかったが、彼らの努力は支持していた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=43-44|2a1=Allen|2y=2006|2pp=109-110}}。1968年8月、彼は南アフリカの状況を[[東側諸国]]と比較し、当時の[[プラハの春]]を反アパルトヘイトになぞらえた説教を行った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=44|2a1=Allen|2y=2006|2p=110}}。9月、フォート・ヘアの学生たちは大学経営方針への抵抗として座り込みを行った。彼らが警官と[[警察犬]]に包囲された後、ツツは群衆の中に分け入り、抗議者たちと共に祈った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=44|2a1=Allen|2y=2006|2p=111}}。国家権力が異議を圧するために使用されるのを目撃したのは彼にとってこれが初めてであり、翌日、彼は礼拝の間に嗚咽した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=45|2a1=Allen|2y=2006|2p=112}}。
ツツは南アフリカ連邦神学校の副校長に就任する予定であったが、{{仮リンク|ローマ (レソト)|label=レソトのローマ|en|Roma, Lesotho}}にある{{仮リンク|ボツワナ・レソト・スワジランド連合大学|en|University of Botswana, Lesotho and Swaziland}}(UBLS)の教授員としての職<!--professorではない-->を受け入れ、連邦神学校を離れることを決めた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=45|2a1=Allen|2y=2006|2p=113}}。この新しい地位は、彼が子供たちのそばで暮らすことを可能とし、連邦神学校で彼が得ていた報酬の倍額が提供された{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=45|2a1=Allen|2y=2006|2p=113}}。1979年1月、ツツは妻と共にUBLSのキャンパスに移った。彼のスタッフメンバーの大半はアメリカとイギリスから来た白人が大半であったが、UBLSの方針は非人種的かつ包含的なものであった{{sfn|Allen|2006|pp=114-115}}。教職に就くのと同じく、彼は大学の聖公会牧師と、二つの学生寮の管理者(warden)となった{{sfn|Allen|2006|p=115}}。レソトでは、彼は[[:en:Lesotho Ecumenical Associatio|Lesotho Ecumenical Associatio]]の理事会(the executive board)に参加し、南アフリカ連邦神学校と{{仮リンク|ローズ大学|en|Rhodes University}}の{{仮リンク|外部審査官|en|External examiner}}を務めた{{sfn|Allen|2006|p=116}}。1971年の2月の父親の死の直前に訪問したのを含めて、複数の機会にツツは南アフリカに帰国した{{sfn|Allen|2006|p=116}}。
=== TEFのアフリカ理事として:1972-1975 ===
}}
神学教育基金(TEF)はツツにアフリカ担当の理事になることを要請した。この地位に就くにはロンドンへの移住が必要であった。ツツはこれに同意したが、当初南アフリカの当局は出国許可を出すことを拒否した。当局はフォート・ヘアの学生の抗議活動以来、彼に不審を抱いており、またTEFを運営していたWCCが、アパルトヘイトを非キリスト教的であるとして非難したため、これに対してもますます敵意を向けていた。ツツがこの地位に就くことが南アフリカにとって良い宣伝になると主張した後、南アフリカ当局は対応を和らげた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=51-53|2a1=Allen|2y=2006|2pp=123, 143-144}}。<!--訳抜けIn March 1972, he returned to Britain. The TEF's headquarters were in [[Bromley]], a town in the southeast of the city, with the Tutu family settling in nearby [[Grove Park, Lewisham|Grove Park]], where Tutu became honorary curate of St Augustine's Church.{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=51–53|2a1=Allen|2y=2006|2pp=123, 143–144}}-->
ツツの新たな仕事は、当然のこととして神学訓練機関と生徒の助成金を査定することが必要であった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=53|2a1=Allen|2y=2006|2p=123}}。このために、1970年代初頭、彼はアフリカの各地を周遊しなければならなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=53|2a1=Allen|2y=2006|2p=124}}。[[ザイール]](現:[[コンゴ民主共和国]])で、彼は広範な腐敗と貧困に嘆き、[[モブツ・セセ・セコ]]に「軍事政権は...極めて腐敗し南アフリカよりも酷い。」と文句をつけた{{sfn|Allen|2006|pp=125-127}}。ナイジェリアでは、彼は初めて現実の生活の中でのキリスト教徒とイスラーム教徒の交流を目撃し、また[[ビアフラ共和国]]のが崩壊後したことへの[[イボ族]]の不満恨みに懸念を表明した{{sfn|Allen|2006|p=128}}。1972年、彼は東アフリカ周辺を旅した。そこで彼は[[ジョモ・ケニヤッタ]]のケニア政府からに強い感銘を受け、[[イディ・アミン]]のウガンダにおけるアジア人の追放を目の当たりにした{{sfn|Allen|2006|pp=129-130}}。イングランドに戻り、彼は見知らぬ人から「クソ野郎が、ウガンダに帰れ。(You bastard, get back to Uganda)」という言葉を浴びせられた。これはツツがイギリスでレイシストに遭遇した唯一のわずかな経験の一つであった{{sfn|Gish|2004|p=52}}。ツツはまた、自身も潜在的に反黒人の人種差別的思考を持っていることを認識した。ナイジェリアの飛行機に乗った時、操縦士と副操縦士が二人とも黒人であることを知った後、彼は「不安がおさまらない(nagging worry)」のを感じた。白人だけにそのような地位と責任を委ねることができると考えていたのである{{sfn|Gish|2004|p=54}}。
1970年代の初頭の間、ツツの神学は根本的に変化した。この変化はアフリカでの経験と、TEFのラテンアメリカのTEFの仲間支部副支部長<!--associate director-->アハロン・サプセジアン(Aharon Sapsezian)によるの紹介を通じて[[解放の神学]]の運動の紹介を通じて、ツツがそれを発見したことの双方によってもたらされた{{sfn|Allen|2006|p=135}}。[[黒人神学]]を発見すると、彼はすぐそれに惹きつけられ{{sfn|Gish|2004|p=46}}、1973年には[[ニューヨーク市]]の[[ユニオン神学校]]でその主題についての会議に出席した{{sfn|Allen|2006|p=137}}。この会議に提供した論文において彼は「{{訳語疑問点範囲|黒人神学は一つの行動的な神学であり、超然とした学問や究的な神学の分派ではない|date=2018年3月|black theology is an engaged not an academic, detached theology.|cand_prefix=原文}}。それは現実の問題<!--real concerns-->、黒人のが生きるか死ぬか<!--「生と死の」というような哲学的な話ではない。-->という問題に関する真なる憂慮、体感性のレベルの神学である。」と説明している{{sfn|Allen|2006|p=138}}。彼は、論文の説明は黒人神学の学術的な体裁を示す試みではなく、むしろ「単純明快な、恐らくは耳触りの悪い、その存在についての声明である。黒人神学は存在する。その存在するということについては誰の許可は求められていも必要としない...率直に言って、白人我々が我々のことについて何か行動をする行うにあための我々って白人の許可を待つという時が来はすでに過ぎ去ったのだ。白人<!--he = the white man と思われる-->が我々の活動のを知的な位置づけを人が受け入れ作法に適っているかはほとんみなすかどうかは何の関係もら重要ではない。我々は意に介することなく前に進む。」と説明している{{sfn|Allen|2006|p=139}}。
ツツはアフリカ系アメリカ人が派生させた黒人神学と、{{仮リンク|アフリカ神学|en|African theology}}の融合を追い求めた。このアプローチは、黒人神学をアフリカの状況と関係のない外国からの輸入品とみなした{{仮リンク|ジョン・ンビティ}}のような他のアフリカの神学者たちとは対照的である{{sfn|Allen|2006|p=137}}。
[[File:Lesotho mountain village (5285775857).jpg|thumb|left|レソト主教として、ツツは人々が住むレソト国内の山々を周った。]]
ツツは、自分の地位を使って社会的不公正と見做したことについて語るために自分の地位を使っ公に批判した{{sfn|Gish|2004|p=60}}。彼は{{仮リンク|メンフェラ・ランフェレ|en|Memphela Ramphele}}のような黒人意識運動の関係者や、{{仮リンク|ンタノ・モトラナ|en|Nthano Motlana}}のようなソウェトのコミュニティのリーダーと会い{{sfn|Gish|2004|p=61}}、国際的に公認された、アパルトヘイト政策を巡る{{仮リンク|南アフリカ・ディスインベストメント|label=南アフリカに対する経済的ボイコット|en|Disinvestment from South Africa}}を公然と支持した{{sfn|Allen|2006|p=155}}。
彼は政府の{{仮リンク|テロリズム法 (1967年)|label=1967年のテロリズム法|en|Terrorism Act, 1967}}に反対し、反アパルトヘイト運動家(campaigner)の[[ウィニー・マンデラ]]と立場を共有した{{sfn|Allen|2006|p=150}} 。彼は大聖堂で人種間の調和のために24時間の祈り(徹夜祭)を行った。この法律の下に拘留されている人々のための特別な祈りが、このツツの行動には含められていた{{sfn|Allen|2006|pp=150-151}}。1976年5月、彼は首相[[バルタザール・フォルスター]]に、アパルトヘイトの解体を強く促し、政府がこの政策を継続した暁には、この国で人種間の暴力が噴出するであろうという警告の手紙を送った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=61-62|2a1=Allen|2y=2006|2p=154}}。6週間後、[[ソウェト蜂起]]が勃発した。これは教育言語としてアフリカーンス語を必須とすることに対する黒人の若者の抗議が、警察によって粉砕されと衝突したものである<!--crashとは異なる-->。10ヶ月で少なくとも660人が殺害され、その大多数は24歳以下であった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=62-64|2a1=Allen|2y=2006|2pp=154, 156-158}}。ツツは白人社会にこの件に関する怒りが欠如しているように見られることに憤り、日曜礼拝でこの問題を取り上げ、白人の沈黙はを「聴覚障害死んだように静か(deafening)」<!--「お前らdeafか?」と詰め寄っているわけではないと思います。そういう含意があるにしても、直接的に言うのでは品がなさすぎます。deafening silenceの訳し方はもっといいものがあるでしょうが、とりあえず-->であると述べて、もし学童が警官と政府系の民兵組織に殺害され、その子た学童が白人であった時ら<!--「もし殺されたら」ではなく、実際に殺害されている子供が「もしも白人だったら」-->、彼らは今見せているのと同じ沈黙を示すだろうかと問うた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=64|2a1=Allen|2y=2006|2p=158}}。
ツツの首席司祭としての任期は7年間の予定であったが、彼は7ヶ月で{{仮リンク|レソト主教|en|Bishop of Lesotho}}の選挙にノミネートされた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=65|2a1=Allen|2y=2006|2p=149}}。ツツはその地位を望んでいなかったが、それとは無関係に1976年3月にレソト主教に選出された。彼は不本意ながらこの人事を受諾した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=65|2a1=Allen|2y=2006|2p=151}}。この決定は彼の信奉者(congregation)たちを同様動揺させた、。彼らは自分たちの教区をツツが個人的キャリアアップのための足掛かりとして利用したと感じていた{{sfn|Gish|2004|p=65}}。7月、{{仮リンク|ビル・ブルネット|en|Bull Burnett}}はツツを聖メアリー大聖堂においてツツを主教<!--特定の主教位ではなくa bishop-->に任命した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=65|2a1=Allen|2y=2006|2p=159}}。8月、ツツはレソトの首都[[マセル]]の{{仮リンク|聖メアリー・聖ジェームズ大聖堂|en|Cathedral of St Mary and St James}}の式典でレソト主教に就任した。この式典には国王[[モショエショエ2世]]および首相{{仮リンク|レアブア・ジョナサン|en|Leabua Jonathan}}を含む数千人が出席した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=65|2a1=Allen|2y=2006|2p=159}}。レソト主教としてツツは主教区を巡業行し、しばしば山中にある教区も訪れていた{{sfn|Allen|2006|pp=160-161}}。彼は{{仮リンク|セソト|en|Sesotho}}語を学び、この国への愛着を深めた{{sfn|Allen|2006|p=161}}。彼は[[フィリップ・モクク]]をこの主教区の初代首席司祭に任命し、バソト人聖職者への[[継続教育 (イギリス)|継続教育]]に最大の重点を置いた{{sfn|Allen|2006|p=160}}。彼は王家と親しく交際したが、ジョナサンの右翼政権と関係を持ったが、これをは支持せしておらず、そちらとの関係は緊張したものになった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=66-67|2a1=Allen|2y=2006|2p=162}}。1977年9月、彼は[[東ケープ州]]で行われた黒人意識運動の活動家スティーヴ・ビコの葬儀に招かれ、スピーチをするために南アフリカに戻った。ビコは拘留中に警察によって殺害されていた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=67|2a1=Allen|2y=2006|2p=163}}。葬儀の席でツツは、黒人意識は「神の御業です。神はスティーヴを通じて、黒人が彼自身の本質的価値(intrinsic value)と、神の子としての価値(worth as a child of God)に目覚めることを望んだのです。」と述べた{{sfn|Allen|2006|p=164}}。
=== 南アフリカ教会会議事務総長: 1978-1985 ===
{{Quote box
| quote = 私たち、我々SACCは人々が人間として数えられる非人種的、南アフリカが人種の区別を信じ捨てい去り<!--ここでracialは「人種的」より踏み込んだ「人種の区別による。」-->、人々がみなぜなら、彼らは神に似せられて作られたがゆえに尊重される<!--countの自動詞-->国になると信じているからだ。だからしたがってSACCは黒人の組織でも白人の組織でもない。それは抑圧された人々と我々の社会でにおいて抑圧され、不当に扱われている人々に断固として寄り添うキリスト教の組織である。
| source=- デズモンド・ツツ、SACCにて{{sfn|Gish|2004|p=75}}
| align = right
}}
ツツはジョン・リース(John Rees)の後任として{{仮リンク|南アフリカ教会評議会|en|South African Council of Churches}}(SACC)の事務総長(general secretary)にノミネートされたが、結局ジョン・ソーン(John Thorne)が選出された。だが、ソーンは3ヶ月後その地位を辞任し、ツツがもう一度ノミネートされ、今度は選ばれた。ツツは受諾を迷ったが、主教会議(synod of bishops)の強い要請によりこれを受諾した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=69|2a1=Allen|2y=2006|2pp=164-165}}。彼のこの決断は、レソトの聖公会信徒に怒りをもって迎えられた{{sfn|Gish|2004|p=69}}。ツツは1978年3月にSACCの実験権を握った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=72|2a1=Allen|2y=2006|2p=167}}。ツツはヨハネスブルク(ここにSACCが本部を置く{{仮リンク|コツォ・ハウス|en|Khotso House}}がある{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=74|2a1=Allen|2y=2006|2p=170}}。)の、かつてのオルランド・ウェストの家に戻った。この時は匿名の外国人による寄付でこの家が購入された{{sfn|Allen|2006|pp=169-170}}。ノマリゾ・レアは{{仮リンク|Institute of Race Relations|en|Institute of Race Relations}}のアシンスタント・ディレクターとして職を得た{{sfn|Allen|2006|p=170}}。ツツはSACCの初めての黒人指導者であり{{sfn|Gish|2004|p=72}}、この時点では、SACCは黒人が多数派を占める唯一のごくわずかな南アフリカのキリスト教機関の一つであった{{sfn|Allen|2006|p=168}}。彼はSACCで、日々の職員の祈り、定期的な聖書の学習、月次の正餐、瞑想(silent retreats)を導入した{{sfn|Allen|2006|p=169}}。また、新しいスタイルの指導力を発達させ、イニシアティヴを取ることに長けた上級の(senior)スタッフを任命し、SACCの細かい作業の多くを彼らに委任するとともに、会議と覚書を通じて彼らとの連絡を維持した{{sfn|Allen|2006|p=171}}。彼のスタッフの多くが彼を「Baba(お父さん)」と呼んでいた{{sfn|Gish|2004|p=73}}。彼はSACCを南アフリカで最も目立つ[[人権]]主張団体にすることを決断した。これは政府の逆鱗にふれるであろう方向性であった{{sfn|Gish|2004|p=72}}。彼の努力は国際的に有名となり、1978年にはキングス・カレッジ・ロンドンが彼をフェローに選出し、[[ケント大学]]とニューヨークのGeneral Theological Seminaryも名誉博士号を授与した。翌年には[[ハーバード大学]]もまた、彼に名誉博士号を授与した{{sfn|Gish|2004|pp=89-90}}。
SACCの首脳としてのツツは資金調達にほとんどの時間を費やし、特にSACCの様々なプロジェクトのために海外から資金を確保しようと試みた{{sfn|Gish|2004|p=73}}。この間、SACCの部門役員たちの一人が資金を横領していたことが明らかとなった。1981年11月、この問題を調査するため、裁判官C .F .エロフ(C. F. Eloff)率いる全員が白人の政府委員会が立ち上げられた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=82|2a1=Allen|2y=2006|2pp=192-197}}。ツツは証拠をこの委員会に提出し、調査中にアパルトヘイトは「邪悪(evil)」であり「非キリスト教的(unchristian)」であると非難した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=83-84|2a1=Allen|2y=2006|2pp=197-199}}。エロフの報告書が公表されたとき、ツツは特に委員会に神学者が一人も参加していないことに焦点をあて、{{仮リンク|チェルシー・フラワー・ショー|en|Chelsea Flower Show}}を審査する「盲人のグループ(a group of blind men)」と似ているとそれを非難した{{sfn|Allen|2006|pp=197-199}}。ツツはまた牧師の仕事を失に復帰したいと考え<!--missは「懐かしく思う」の意味と思われる-->、1981年にはソウェトのオルランド・ウェストの聖オースティン教会(St Augustine's Church)の教区牧師(rector)になった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=75|2a1=Allen|2y=2006|2p=215}}。また、彼は自身の説教とスピーチの収集を始めた。これは1982年に、『''Crying in the Wilderness: The Struggle for Justice in South Africa''』というタイトルで出版された{{sfn|Gish|2004|p=144}}。続いて1984年には『''Hope and Suffering''』という別の集成が出版された{{sfn|Gish|2004|p=144}}。
==== 活動とノーベル賞 ====
[[File:Reagan with Desmond TutuC26199-10.jpg|thumb|left|アメリカ大統領[[ロナルド・レーガン]]は1984年にデズモンド・ツツと面会した。ツツはレーガン政権について「我々黒人にとって紛れもない災厄」と述べ{{sfn|Gish|2004|p=95}}、レーガン自身については「単純で純粋なレイシストである。」と述べた{{sfn|Allen|2006|p=255}}。]]
[[デンマーク]]のジャーナリストに対し、南アフリカに対する国際的な経済的ボイコットを支持すると述べた後、ツツは1979年10月に懲罰のために二人の閣僚の前に呼び出された{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=77, 90|2a1=Allen|2y=2006|2pp=178-179}}。1980年、政府は彼のパスポートを没収した。この行為はツツへの国際的注目を高め、アメリカ国務省と{{仮リンク|ロバート・ランシー|en|Robert Runcie}}のような聖公会の要人からの非難を招いた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=90|2a1=Allen|2y=2006|2pp=181-182}}。ツツはまた、捕らわれていた反アパルトヘイト活動家、マンデラの解放を求める請願書に署名をした。マンデラの解放は当時まだ国際的な重大事([[:en:cause celebre|cause celebre]])とはなっていなかった{{sfn|Allen|2006|p=182}}。1980年、SACCは南アフリカの人種法の数々に対する市民の不服従を組織として支援することを誓った{{sfn|Allen|2006|p=184}}。5月にソーンが逮捕された後、ツツと{{仮リンク|ジョー・ウィング|en|Joe Wing}}は抗議の行進を主導し、この最中に治安警察(riot police)に逮捕され、一晩拘束され罰金を課された{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=80|2a1=Allen|2y=2006|2pp=184-186}}。当局はツツの旅券を押収した{{sfn|Gish|2004|p=80}}。この出来事の余波として、ツツを含む20の教会の指導者たちと、[[ピーター・ウィレム・ボータ|ボータ]]首相、そして7人の閣僚の間で会談が行われた。この8月の会談では、宗教指導者たちは政府にアパルトヘイト関連法を廃止するように促したが成功しなかった.{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=81|2a1=Allen|2y=2006|2pp=186-187}}。数名の牧師たち(clergy)がこの政府との対話は無意味であると考えていたが、ツツはこの見解に同意せず、「モーセはイスラエルの民の解放のために、繰り返しファラオの下へ向かった。」と結んだ{{sfn|Allen|2006|p=188}}。
1981年1月、政府はツツのパスポートを返還した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=90|2a1=Allen|2y=2006|2p=189}}。3月、彼はヨーロッパのと北アメリカの10ヶ国を巡る5週間の旅を始めた。この旅程で、国連事務総長[[クルト・ヴァルトハイム]]を含む政治家たちに面会し、{{仮リンク|国際連合総会決議第1761号|label=アパルトヘイト対策国連特別委員会|en|United Nations General Assembly Resolution 1761}}に出席した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=90-91|2a1=Allen|2y=2006|2p=189}}。イギリスで彼はランシーと会い、[[ウェストミンスター寺院]]で説教を受け行い、[[ローマ]]では僅かな時間、教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]と過ごした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=91|2a1=Allen|2y=2006|2p=190}}。南アフリカへ戻ると、ボータは再びツツのパスポートを没収するよう指示し、ツツが更に複数の名誉学位を集めるのを防いだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=91|2a1=Allen|2y=2006|2pp=190-191}}。彼が帰国してから17ヶ月後、パスポートは返還された{{sfn|Gish|2004|p=91}}。1982年、彼は[[ケンタッキー州]]にアメリカ人の夫と共に住んでいた娘のナオミに会う前に、[[ニューオーリンズ]]の[[米国聖公会|聖公会]]のTriennial Conventionに出席し、その後[[ケンタッキー州]]にアメリカ人の夫と共に住んでいた娘のナオミに会った{{sfn|Gish|2004|pp=91-92}} 。彼は[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領が、前大統領の[[ジミー・カーター|カーター]]よりも南アフリカ政府と良好な関係を持つ政策方針を採用取ったことを憂慮しており、レーガン政府が「我々黒人にとって紛れもない災厄」であだと語ったことに悩まされた{{sfn|Gish|2004|pp=92-93, 95}}。[[パトリック・ブキャナン]]や[[ジェリー・ファルエル]]のような[[白人]][[アメリカ合衆国の保守主義|保守派]]は、ツツが共産主義同調者であると厳しく非難したが、ツツはアメリカの一般市民からの支持を得、しばしば公民権運動のリーダー、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|マーティン・ルーサー・キング2世]]と比較された{{sfn|Gish|2004|pp=93-94}}。
{{Quote box
| quote = この賞は鉄道駅に座って命を繋ぎ、ジャガイモを売り、トウモロコシ(mealies)を売り、農産物を売ってかろうじて生計を立てる、母親たちのための賞です。この賞は、父親として、単身者用のホステルに座り、1年の内11ヶ月間子供たちから引き離されているあなたたち父親のための賞です...この賞は、母親として、KTCの不法居住者キャンプで、毎日無常にも住処(shelters)を破壊され、冬の雨に浸されるマットレスで、泣いている赤ん坊を抱きしめて座っているあなたたち母親のための賞です...この賞はあなたたち、故郷から追い出され、ごみのように捨てられた350万人の我らが人々同胞のための賞です。この賞はあなたたちの賞です。
| source=-ノーベル平和賞受賞時のデズモンド・ツツの演説{{sfn|Allen|2006|p=213}}
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1980年代、ツツは多くの黒人系南アフリカ人の象徴となっており、彼の名声に匹敵するのはマンデラだけであった{{sfn|Gish|2004|pp=79, 86}}。1983年8月、アパルトヘイトに反対する南アフリカ人は、{{仮リンク|統一民主戦線 (南アフリカ)|label=統一民主戦線|en|United Democratic Front (South Africa)}}(UDF)を結成し、ツツはその後援者の一人に選ばれた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=95|2a1=Allen|2y=2006|2p=206}}。一方で、彼は政府、報道機関、そして白人の民衆を怒らせた{{sfn|Gish|2004|p=78}}。ツツを批判する人々は、ほとんどアパルトヘイトの終了を望まない白人保守派であった{{sfn|Gish|2004|p=78}}。彼は{{仮リンク|The Citizen (南アフリカ)|label="''The Citizen"''|en|The Citizen (South Africa)}}や、[[南アフリカ放送協会]]のような親政府的な報道機関から非難された{{sfn|Allen|2006|p=202}}。この攻撃(critiism)はしばしば、ツツの中産階級的なライフスタイルが、彼が代表する黒人の貧困層といかに対照的なものであるか、ということを中心としていた{{sfn|Gish|2004|p=85}}。
彼は{{仮リンク|嫌がらせメール|en|hate mail}}を受け取り、{{仮リンク|バレンド・ストリードム|label=白い狼|en|Barend Strydom}}のような白人極右や、白人グループからの殺害予告を受けた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=78|2a1=Allen|2y=2006|2p=201}}。彼の政府に対する怒りのレトリックは、アパルトヘイトが徐々に改革される可能性を信じていた多くの白人リベラルとの間に距離を作った。公然とツツを非難する白人リベラルの中には、{{仮リンク|アラン・ペイトン|en|Alan Paton}}や{{仮リンク|ビル・ブルネット|en|Bill Burnett}}のような人々がいた{{sfn|Allen|2006|p=203}}。だが、ツツはそれでも[[ヘレン・スズマン]]のような他の著名な白人リベラルとの密接な関係を残していた{{sfn|Allen|2006|p=203}}。
1984年、ツツはニューヨークにある聖公会教会の{{仮リンク|General Theological Seminary|en|General Theological Seminary}}で3ヶ月の長期休暇に入った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=95|2a1=Allen|2y=2006|2p=211}}。ニューヨークでは10月の[[国連安全保障理事会|国連安保理]]での演説を依頼され{{sfn|Gish|2004|p=99}}、12月には{{仮リンク|連邦議会黒人幹部会|en|Congressional Black Caucus}}、[[アメリカ合衆国下院|アメリカの下院]]、[[アメリカ合衆国上院|上院]]のアフリカ小委員会と会談し、南アフリカに対する圧力を促した{{sfn|Gish|2004|p=100}}。彼はまた、[[ホワイトハウス]]に招待され、[[ロナルド・レーガン]]大統領と訪問面会した。彼はレーガンに対し、南アフリカ政府に対するアプローチを変更するように促したが、成功しなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=100-101|2a1=Allen|2y=2006|2pp=249-250}}。南アフリカの黒人の権利よりも冷戦における同盟関係を推進するというレーガンの決定に関連して、ツツは後にレーガンについてを「純粋で単純なレイシスト」であると述べている{{sfn|Allen|2006|p=255}}。
ニューヨークにいた頃、ツツはが1984年の[[ノーベル平和賞]]を受賞したことを知らされたのは、このニューヨーク滞在の間であった。彼は以前にも1981年、1982年、1983年にノミネートされていた{{sfn|Allen|2006|pp=209-210}}。1984年の受賞者を決めるためノーベル賞選考委員会が集まった時、彼らは南アフリカの問題についてへの認識させを高めるため同国出身者に賞を贈るべきであると合意し、ツツは他の南アフリカ人の候補者であるネルソン・マンデラや[[マンゴスツ・ブテレジ]]よりも議論の余地が少ないと判断した{{sfn|Allen|2006|pp=210-211}}。ツツはロンドンを訪れ、南アフリカの「小さな人々一般市民(the little people)<!--辞書的にはこういう意味だが、比喩的に「小さな人々」でもいいのかもしれない-->」にこの賞を捧げるという公式声明を発表した{{sfn|Allen|2006|pp=211-213}}。12月、彼は[[ノルウェー]]の首都[[オスロ]]で開かれた授賞式に出席し、[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]、[[カナダ]]、[[タンザニア]]、[[ザンビア]]を経由して帰国した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=101-102|2a1=Allen|2y=2006|2pp=219-220}}。彼は192,000ドルの賞金を、家族、SACCのスタッフ、亡命中の南アフリカ人のための奨学基金と分かち合った{{sfn|Allen|2006|p=215}}。彼は1960年の[[アルベルト・ルツーリ]]に続く二人目の南アフリカ人のノーベル平和賞受賞者である{{sfn|Gish|2004|p=95}}。南アフリカ政府と、主流の報道機関はそれぞれこの賞を軽視したり、非難したりし{{sfn|Gish|2004|pp=97-98}}、[[アフリカ統一機構]]は、これはアパルトヘイトの崩壊が差し迫っている証であるとして歓迎した{{sfn|Gish|2004|p=96}}。
=== ヨハネスブルク主教 1985-1986===
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