「デズモンド・ムピロ・ツツ」の版間の差分

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ツツ一家は貧しかった{{sfn|Gish|2004|p=3}}。家族についての説明で、ツツは後にこの点について「私たちは裕福ではなかったが、極貧というわけでもなかった。」としている{{sfn|Allen|2006|p=21}}。ツツには姉シルヴィアがおり、彼女はツツを「ムピロ(命)」と呼んでいた。この名前は父方の祖母から彼に与えられたものである{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=3|2a1=Allen|2y=2006|2p=19}} 。他の家族は彼を「ボーイ(Boy)」と呼んでいた{{sfn|Allen|2006|p=19}}。ツツは次男であった。長男のシポ(Shipo)がいたが、彼は幼少の頃に死亡した{{sfn|Allen|2006|p=19}}。ツツは誕生した時から[[ポリオ]]に犯されていた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=2|2a1=Allen|2y=2006|2p=19}}。この結果、彼の右手は小さく萎縮し{{sfn|Allen|2006|p=19}}、またある時には深刻な火傷を負って入院した{{sfn|Allen|2006|p=20}}。彼は父親と非常に仲が良く、父が大好きであったが、父が大酒飲みでしばしば母を叩くことに怒っていた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=3|2a1=Allen|2y=2006|2p=22}}。一家は当初[[メソジスト]]に所属し、ツツは1932年7月にメソジストの教会で[[洗礼]]を受けた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=33}}。彼らはその後、最初は{{仮リンク|アフリカ・メソジスト聖公会|en|African Methodist Episcopal Church}}に、その後、[[聖公会]]に宗旨替えをした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=33}}。
 
1936年、一家は{{仮リンク|ツィング|en|Tshing}}に移り、ザカリアはそこでメソジスト学校に校長(The principle)<!--principalのタイプミスではないかと思います-->として採用された。彼らは学校の庭にある小屋で生活した{{sfn|Allen|2006|p=20}}。ツツはそこで初等教育を受け始め、他の子供たちとフットボールをし{{sfn|Allen|2006|p=21}}、聖フランシス聖公会に奉仕するようになった{{sfn|Allen|2006|p=33}}。彼は読書を愛するようになり、特にコミックとヨーロッパの[[御伽噺]]を楽しんだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=21}}。また、ここで地域の主要言語である[[アフリカーンス語]]を学んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=4|2a1=Allen|2y=2006|2p=21}}。そしてこの地で、ツツの両親にとって3番目の息子であるタムサンカ(Tamsanqa)が生まれたが、彼もまた幼くして死んだ{{sfn|Allen|2006|p=21}}。1941年頃、ツツの母はヨハネスブルク西部の視覚障碍者施設であるエゼンゼレニ(Ezenzeleni)のコックとして働くため[[ウィットウォーターズランド]]へ移った。ツツは彼女についてその街に入り、タウンシップ内に自分たちの家を確保するまでは{{仮リンク|ロードポート|label=西ロードポート|en|Roodepoort West}}に叔母と一緒に住んでいた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=5|2a1=Allen|2y=2006|2p=24}}。ヨハネスブルクで、彼はメソジストの小学校に入り、その後{{仮リンク|聖マーティン学校 (ロゼッテンビル)|label=聖アグネス・ミッション|en|St. Martin's School (Rosettenville)}}の{{仮リンク|スウェーデン人寄宿学校|en|Swedish Boarding School}}(SBS)に移籍した{{sfn|Allen|2006|p=24}}。数ヶ月後、彼は父親と共に東トランスヴァールの{{仮リンク|エルメロ|en|Ermelo}}に移った{{sfn|Allen|2006|p=25}}。6ヶ月後、二人は西ロードポートに残った家族と一緒に生活するために戻り、ツツはSBSに復帰した{{sfn|Allen|2006|p=25}}。ツツはキリスト教への興味を募らせ、12歳の時にロードポートの聖マリー教会で[[堅信]]を行った{{sfn|Allen|2006|p=34}}。
 
ツツは小学校の算数分野の試験に落第したが、それでも彼の父は1945年にツツをヨハネンスブルクのバントゥー高校に入学させた。この学校でツツは優秀な成績をあげた{{sfn|Allen|2006|pp=25, 34-35}}。[[ラグビーユニオン]]のチームに参加し、それ以来生涯にわたってこのスポーツを愛した{{sfn|Allen|2006|p=36}}。学校の外では、オレンジを売ったり、白人のゴルファーのキャディーをして金を稼いだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=7|2a1=Allen|2y=2006|2p=37}}。通学にかかる電車代を節約するため、家族と共に一時的にヨハネスブルクの近郊に住んだが、その後両親と共に{{仮リンク|マンシーヴル|en|Munsieville}}に戻った{{sfn|Allen|2006|pp=36, 37-38}}。ツツはヨハネスブルクに戻ってホステルに入った。このホステルは{{仮リンク|ソフィアタウン|en|Sophiatown}}にあるChurch of Christ the King周辺にある聖公会の施設の一部であった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=8|2a1=Allen|2y=2006|2p=42}}。ツツはこの教会で奉仕するようになり、その祭司であった{{仮リンク|トレヴァー・ハドルストン|en|Trevor Huddleston}}の影響を受けるようになった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=10|2a1=Allen|2y=2006|2pp=43-45}}。1947年、ツツは[[結核]]を患い、{{仮リンク|リットフォンテン|en|Rietfontein}}で18ヶ月間入院した。その間、大部分の時間を彼は読書に費やした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=9|2a1=Allen|2y=2006|2pp=45-46}}。入院した病院で彼は成人であることの証として[[割礼]]を受けた{{sfn|Allen|2006|p=47}}。1949年、ツツは学校に戻り、1950年の後半に国家試験で{{訳語疑問点範囲|第二級合格証|date=2018年3月|second-class pass|cand_prefix=原文}}を取得した{{sfn|Allen|2006|pp=47-48}}。
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1960年12月、{{仮リンク|エドワード・パゲット (司祭)|label=エドワード・パゲット|en|Edward Paget (bishop)}}はツツを{{仮リンク|聖メアリー大聖堂 (ヨハネスブルク)|label=聖メアリー大聖堂|en|St Mary's Cathedral, Johannesburg}}の聖公会牧師に任命した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=74}}。ツツはその後、{{仮リンク|ベノニ (ハウテン州)|label=ベノニ|en|Benoni, Gauteng}}の聖アルバン教区の牧師補補佐(assistant curate)に任命され、そこで妻と子供たちに再会した。彼らは改装したガレージに住んでいた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=74}}。ツツは一ヶ月に72.50ランドの収入を得たが、それは白人の同格者たちの収入の3分の2であった{{sfn|Allen|2006|p=75}}。1962年、ツツは{{仮リンク|トコザ|en|Thokoza}}の聖フィリップ教会(St Philip's Church)に移り、そこで集会担当となり、牧師の使命に対する情熱を育んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=28|2a1=Allen|2y=2006|2p=76}}。南アフリカの白人支配の中で、聖公会創設者たちの多くは、より多くの土着のアフリカ人が教会の権限を持った地位に必要であると感じていた。これを支援する{{仮リンク|アルフレッド・スタブス|en|Aelfred Stubbs}}は、ツツにイギリスの[[キングスカレッジ]](KCL)で神学教師としての訓練を受けさせることを提案した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=31|2a1=Allen|2y=2006|2p=77}}。[[国際宣教師協会]](International Missionary Council)の神学教育基金(Theological Education Fund:TEF)によって費用が確保され{{sfn|Allen|2006|p=81}}、政府はツツにイギリスへの移動許可を与えることに合意した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=31|2a1=Allen|2y=2006|2pp=79-81}}。
 
キングスカレッジの神学部で、ツツは{{仮リンク|デニス・ナインハム|en|Dennis Nineham}}、{{仮リンク|クリストファー・エヴァンズ (神学者)|label=クリストファー・エヴァンズ|en|Christopher Evans (theologian)}}、{{仮リンク|シドニー・エヴァンズ (神学者)|label=シドニー・エヴァンズ|en|Sydney Evans (priest)}}、{{仮リンク|ジェフリー・パリンダー|en|Geoffrey Parrinder}}、そして{{仮リンク|エリック・マスコール|en|Eric Mascall}}のような神学者の下で学んだ{{sfn|Allen|2006|p=86}}。ロンドンでツツ一家はアパルトヘイトと、南アフリカの[[パス法]]に制約されない自由な生活の経験に感銘を受け{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=32|2a1=Allen|2y=2006|2p=87}}、後に「イングランドにはレイシズムがある。だが、我々はそれに晒されていない。」と書き記している{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=32|2a1=Allen|2y=2006|2p=87}}。一家は{{仮リンク|ゴールダーズ・グリーン|en|Golders Green}}の聖アルバン殉教者教会(the Church of St Alban the Martyr)裏手にある牧師補(curate)の共同住宅(flat)に移り住んだ。彼らはツツが日曜礼拝を手伝うという条件で家賃を免除してもらうことができ、これを通じて初めて白人の信徒に奉仕をした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=31, 33|2a1=Allen|2y=2006|2pp=84, 87}}。この共同住宅で1963年に娘のムポ・アンドレア(Mpho Andrea)が生まれた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=34|2a1=Allen|2y=2006|2p=88}}。ツツは学問的に優秀な功し績を修め彼の指導教員たちはから{{仮リンク|優等学位|en|Honours degree}}に変更することを促しよう勧められた。そのため彼は優等学位に必要なヘブライ語も学んだ{{sfn|Allen|2006|pp=89-90}}。
 
[[Bachelor of Arts|学士]]の修了が近づくにつれ、彼はTEFの奨学金を得ることができたため修士号を取得することに決めた{{sfn|Allen|2006|p=92}}。彼は1965年10月から1966年9月までで修士の学位を取得した。修士論文は西アフリカにおけるイスラームを題材ついてしたも論文を完成させだった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=35|2a1=Allen|2y=2006|2pp=92, 95}}。この時期、一家はゴールダーズ・グリーンから[[サリー (イングランド)|サリー]]の{{仮リンク|ブレッチングリー (サリー)|en|Bletchingley|label=ブレッチングリー}}に移り、ツツは聖メアリー教会の牧師補補佐(assistant curate)として働いた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=35|2a1=Allen|2y=2006|2p=93}}。この村で、彼は彼の所属する聖公会の教区員と地元のローマ・カトリックおよびメソジストのコミュニティの協力を奨励した{{sfn|Gish|2004|p=35}}。ロンドンでの日々は、ツツの白人に対する敵意と人種的劣等感を捨てさり、白人に従属する習慣を乗り越えるための一助となった{{sfn|Gish|2004|p=34}}。
 
== アパルトヘイト中のキャリア ==
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=== 南アフリカとレソトでの教育:1966-1972 ===
 
1966年、ツツ一家はイギリスを去り、[[パリ]]と[[ローマ]]を経由して[[東エルサレム]]へ旅した{{sfn|Allen|2006|pp=98-99}}。この街で2ヶ月を費やし、ツツはアラビア語とギリシア語を{{仮リンク|聖ジョージ大学 (エルサレム)|label=聖ジョージ大学|en|St. George's College, Jerusalem}}で学んだ{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=39|2a1=Allen|2y=2006|2pp=98-99}}。彼はこの都市におけるユダヤ人とアラブ系市民の間の緊張に衝撃を受けた{{sfn|Gish|2004|p=39}}。一家はここから南アフリカに戻り、ウィットウォーターズランドでクリスマスを家族で過ごした{{sfn|Allen|2006|p=101}}。彼らは人種隔離とパス法によが課せられ影響を受けた社会に再び順応することが困難であるこは彼らにを見出しって容易ではなかった{{sfn|Allen|2006|p=101}}。彼はイスラームの聖典[[クルアーン]](コーラン)における{{仮リンク|イスラームにおけるモーセ|label=モーセ|en|Moses in Isram}}というテーマで南アフリカ大学の博士号(PhD)を得る可能性を探ったが、この計画は実現しなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=42|2a1=Allen|2y=2006|2p=95}}。1967年、彼らは{{仮リンク|アリス (東ケープ州)|label=東ケープのアリス|en|Alice, Eastern Cape}}に赴いた。そこでは異なるキリスト教派の訓練機関が合併して{{仮リンク|南アフリカ連邦神学校|en|Federal Theological Seminary of Southern Africa}}(Fedsem)が設立されたばかりであった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=41|2a1=Allen|2y=2006|2pp=101, 103}}。ツツはそこで教義、旧約聖書、ギリシア語の教官として雇われた{{sfn|Allen|2006|p=104}}。ツツはこの大学の最初の黒人職員であり、他のほとんどの職員は在留ヨーロッパ人とアメリカ人であった{{sfn|Allen|2006|pp=104, 105}}。このキャンパスは南アフリカ社会ではほとんど存在しないレベルでの人種混合を認めていた{{sfn|Allen|2006|p=105}}。ツツの妻ノマリゾ・レアも図書館助手としてここで雇用を得た{{sfn|Allen|2006|p=105}}。夫妻は、南アフリカ政府のバントゥー教育のシラバスで指導されないように、スワジランドの私立の寄宿学校に子供たちを送った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=42|2a1=Allen|2y=2006|2p=101}}。
 
聖ピーター教会では、ツツは汎プロテスタントグループの教会統一委員会(Church Unity Commission)に加わり、南アフリカでの聖公会・カトリックの対話の代表者を務めた{{sfn|Allen|2006|p=116}}。彼はまた、この時点から[[学術誌]]や時事問題の雑誌に寄稿し始めた{{sfn|Allen|2006|p=116}}。
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{{Quote box
| quote = 黒人神学は黒人の人生における経験を理解することを求めている。黒人の経験、つまり部分半を占めるは<!--largelyはこういう使われ方をしているのではないかと思います。ここで「黒人の中にも少数だが苦しんでいない者もいる」ということを言う必要があると思えません-->、尽きることない白人のレイシズムの魔手による苦しる。そして黒人神学はこの事実を、神が自身について、人間について、世界について、極めて明快な言葉で語った事に照らしてこれを理解することを求めている ... 黒人神学は黒人であると同時にキリスト教徒であり続けることが可能かどうかという問題と切り離せない。それは誰ががどちらの側であにいるか<!--直訳ではこう-->を問うことだ。そして人類<!-- man無冠詞なので集合的な「(man)類」を指します。-->が人間となれる(humanization)といかを気にかけることだ<!--be concerned aboutは辞書的ついては「気にかける、心配する」です。「熟慮するいうような知的活動を言うのではなく、「自分の問題として考える」というくらいの意味と思われます-->。何故なら、我々の人間性を奪う人々はその過程で彼ら自身の人間性をもうからである。{{interp|黒人神学が主張するのは、}}<!--原文にいくつかあるitはすべて黒人神学を指すと思われる。ここの [it says] も同じ。-->黒人の解放は白人の解放の別の側面なの)、それことである。ゆえに黒人神学は人間(Human)の解放について熟慮す関わることなのだ。
| source=- デズモンド・ツツ、1973年、連邦神学校で発表された会議資料。{{sfn|Allen|2006|pp=138-139}}
| align = right
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}}
 
神学教育基金(TEF)はツツにアフリカ担当の理事になることを要請した。この地位に就くにはロンドンへの移住が必要であった。ツツはこれに同意したが、当初南アフリカの当局は出国許可を出すことを拒否した。当局はフォート・ヘアの学生の抗議活動以来、彼に不審を抱いており、またTEFを運営していたWCCが、アパルトヘイトを非キリスト教的であるとして非難したため、これに対してもますます敵意を向けていた。ツツがこの地位に就くことが南アフリカにとって良い宣伝になると主張した後、南アフリカ当局は対応を和らげた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=51-53|2a1=Allen|2y=2006|2pp=123, 143-144}}。1972 年3月、彼はイギリスに戻った。TEFの本部はロンドン南東部にある町、[[ブロムリー]]にあり、ツツと家族は近隣の{{仮リンク|グローブ・パーク (ルイシャム)|label=ルイシャム|en|Grove Park, Lewisham}}そばに住んだ。ここツツ聖アウグスティヌス教会の名誉牧師補(curate)となった<!--whereは非制限用法なので、場所がメイントピックあるはない-->{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=51–53|2a1=Allen|2y=2006|2pp=123, 143–144}}。
 
ツツの新たな仕事は、当然のこととして神学訓練機関と生徒の助成金を査定することが必要であった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=53|2a1=Allen|2y=2006|2p=123}}。このために、1970年代初頭、彼はアフリカの各地を周遊しなければならなかった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=53|2a1=Allen|2y=2006|2p=124}}。[[ザイール]](現:[[コンゴ民主共和国]])で、彼は広範な腐敗と貧困に嘆き、[[モブツ・セセ・セコ]]に「軍事政権は...極めて腐敗し南アフリカよりも酷い。」と文句をつけた{{sfn|Allen|2006|pp=125-127}}。ナイジェリアでは、彼は初めて現実の生活の中でキリスト教徒とイスラーム教徒交流している様子を目撃し、また[[ビアフラ共和国]]が崩壊したことへの[[イボ族]]の恨みに懸念を表明した{{sfn|Allen|2006|p=128}}。1972年、彼は東アフリカ周辺を旅した。そこで彼は[[ジョモ・ケニヤッタ]]のケニア政府から強い感銘を受け、[[イディ・アミン]]のウガンダにおけるアジア人の追放を目の当たりにした{{sfn|Allen|2006|pp=129-130}}。イングランドに戻り、彼は見知らぬ人にウガンダからの南アジア系難民と勘違いされ「クソ野郎が、ウガンダに帰れ。(You bastard, get back to Uganda)」という言葉を浴びせられた。これはツツがイギリスでレイシストに遭遇したわずかな経験の一つであった{{sfn|Gish|2004|p=52}}。ツツはまた、自身も潜在的に反黒人の人種差別的思考を持っていることを認識した。ナイジェリアの飛行機に乗った時、操縦士と副操縦士が二人とも黒人であることを知った後、彼は「不安がおさまらない(nagging worry)」のを感じた。白人だけにそのような地位と責任を委ねることができると考えていたのである{{sfn|Gish|2004|p=54}}。
 
1970年代の初頭の間、ツツの神学は根本的に変化した。この変化はアフリカでの経験と、TEFのラテンアメリカ支部副支部長アハロン・サプセジアン(Aharon Sapsezian)の紹介を通じて[[解放の神学]]の運動を発見したことの双方によってもたらされた{{sfn|Allen|2006|p=135}}。[[黒人神学]]を発見すると、彼はすぐそれに惹きつけられ{{sfn|Gish|2004|p=46}}、1973年には[[ニューヨーク市]]の[[ユニオン神学校]]でその主題についての会議に出席した{{sfn|Allen|2006|p=137}}。この会議に提供した論文において彼は「黒人神学は行動的な神学であり、超然とした学究的な神学ではない。それは現実の問題、黒人が生きるか死ぬかという問題に関する、体感のレベルの神学である。」と説明している{{sfn|Allen|2006|p=138}}。彼は、この論文の説明は黒人神学の学術的な体裁正当性を示そうという試みではなく、むしろ「単純明快な、恐らくは耳触りの悪い、その存在についての声明である。黒人神学は存在する。その存在には誰の許可も必要としない...率直に言って、我々が我々の行動を行うにあたって白人の許可を待つという時はすでに過ぎ去ったのだ。我々の活動が白人から見て知的な作法に適っているかどうかは何ら重要ではない。我々は意に介することなく前に進む。」と説明している{{sfn|Allen|2006|p=139}}。
 
ツツはアフリカ系アメリカ人が派生させた黒人神学と、{{仮リンク|アフリカ神学|en|African theology}}の融合を追い求めた。このアプローチは、黒人神学をアフリカの状況と関係のない外国からの輸入品とみなした{{仮リンク|ジョン・ンビティ|en|John Mbiti}}のような他のアフリカの神学者たちとは対照的である{{sfn|Allen|2006|p=137}}。
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{{Quote box
| quote = 我々SACCは、南アフリカが人種の区別を捨て去り、人々誰もみな、神に似せられて作られたがゆえに尊重される国になると信じている。したがってSACCは黒人の組織でも白人の組織でもない。それは我々の社会において抑圧され、不当に扱われている人々に断固として寄り添うキリスト教の組織である。
| source=- デズモンド・ツツ、SACCにて{{sfn|Gish|2004|p=75}}
| align = right
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{{Quote box
| quote = この賞は鉄道駅に座ってジャガイモを売り、トウモロコシ(mealies)を売り、農産物を売ってかろうじて生計を立てる母親たちのための賞です。この賞は、単身者用のホステルに座り、1年の内11ヶ月間子供たちから引き離されているあなたたち父親のための賞です...この賞は、KTCの不法居住者キャンプで、毎日無常にも住処(shelters)を破壊され、冬の雨に浸されるマットレスで、泣いている赤ん坊を抱きしめて座っているあなたたち母親のための賞です...この賞はあなたたち、故郷から追い出され、ごみのように捨てられた350万人の同胞のための賞です。この賞はあなたたちの賞です。
| source=-ノーベル平和賞受賞時のデズモンド・ツツの演説{{sfn|Allen|2006|p=213}}
| align = right
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{{Quote box
| quote = 強制によらない限りこの政府が真に変わるという希望はない。我々はこの大地で破局(catastrophe)に直面しており、圧力をかけるという国際社会による行動だけが我々を救うことができる。我々の子供たちが死んでいっている。我々の大地は血に塗れ、燃えている。だから私は国際社会にこの政府に懲罰的制裁を加え、我々が新しい、非人種的で、民主的な、全員が参加する{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(participatory)、正しい南アフリカを作り上げるための支援をすることを呼びかける。これは我々を救済する非暴力的な戦略行動だ。<!--訳抜け部分-->
我々の国には、それでも人種間に大きな善意が残っている。それをみすみす壊してしまうほど愚かになるまい。我々は一つの民として、一つの家族として共に生きることができる。黒人と白人が共にだ。
| source=- デズモンド・ツツ、1985年{{sfn|Allen|2006|pp=321-232}}
| align = left
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ツツは102の教区(parhishes)、300,000人の聖公会教区民(parishioners)を含む南アフリカ最大の主教区を継承した。彼らの80パーセントは黒人であった{{sfn|Gish|2004|p=108}}。ツツは新任の説教で、アパルトヘイトが18ヶ月から24ヶ月以内に解体されはじめなければ、国際社会に南アフリカに対する経済制裁措置処置を講じるよう呼びかけることを宣言した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=107|2a1=Allen|2y=2006|2p=221}}。彼はまた、自分が白人の南アフリカ人の一部が考えているような「恐るべき鬼(horrid ogre)」などではないと主張して彼らを安心させようと努力し、主教として主教区の白人聖公会信徒の支持を得ることに多くの時間を費やした{{sfn|Allen|2006|p=221}}。主教となったので、彼はUDFの後援をやめた。{{sfn|Allen|2006|p=221}}。
 
1980年代半ば、激高する黒人の若者と治安部隊との間の衝突が数を増しており、この結果死者も増加した。ツツは数千人の参列者が集まる彼らの葬式の数多くに招待された{{sfn|Allen|2006|p=228}}。{{仮リンク|ドゥドゥザ|en|Duduza}}の葬儀で、彼は集まった群衆の一部が、政府のスパイであると疑われた人を殺害するのを防ぐために歩み出た{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=110|2a1=Allen|2y=2006|2pp=224-225}}。彼は政府への協力の疑いがある人物に対する拷問や殺人に公然と反対し、黒人社会の一部の人々の怒りを買った{{sfn|Allen|2006|p=226}}。こうした若い過激派にとって、ツツとその非暴力の求めは、革命への道の障害であると感じとられていた{{sfn|Gish|2004|p=111}}。一人の若い女性は、ツツが「私たちの大部分にとってあまりにも穏健すぎるが、体制にとっては過激すぎる<!--一種の対句-->。」と証言している{{sfn|Gish|2004|p=111}}。暴力の中で、ANCは黒人系南アフリカ人に、国を「統治不能」にするよう呼びかけ{{sfn|Allen|2006|p=229}}、外国企業がますます資本を引き揚げ、南アフリカの通貨ランドの価値は最低を更新した{{sfn|Allen|2006|pp=229-230}}。1985年、ボータは緊急処置を実施した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p111|2a1=Allen|2y=2006|2p=227}}。ツツはこれを批判し、政府と指導的な黒人組織の間の仲介を申し出たが、ボータはこれをはねつけた{{sfn|Allen|2006|p=227}} 。
 
1985年、彼はアメリカへの遊説の旅を開始し{{sfn|Gish|2004|p=110}}、1985年10月には[[国連総会]]の政治委員会で演説を行って、国際社会へアパルトヘイトが6ヶ月以内に解体しないならば、南アフリカに制裁を課すように促した{{sfn|Allen|2006|p=231}}。彼はイギリスに行き、[[マーガレット・サッチャー]]首相と面会した{{sfn|Gish|2004|p=113}}。彼はまた、亡命中の南アフリカ人学生を資金的に支援するためのツツ主教奨学基金(a Bishop Tutu Scholarship Fund)の形成を発表した{{sfn|Gish|2004|p=113}}。彼は1986年にはアメリカへ戻り{{sfn|Allen|2006|p=116}}、1986年8月に[[日本]]、[[中国]]、[[ジャマイカ]]を訪問し、制裁を促した{{sfn|Gish|2004|p=118}}。大部分の反アパルトヘイト活動指導者たちが投獄されていたことから、ネルソン・マンデラはツツは「時の権力者にとって第一の公敵たる存在」と評している{{sfn|Allen|2006|p=79}}。
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大主教になると彼はこの地位のために用意された{{仮リンク|ビショップスコート (ケープタウン)|label=ビショップスコート|en|Bishopscourt, Cape Town}}の公邸に移った。彼のこの行動は違法であった。なぜならば、国家が「白人地区(white area)」と定めた地域に居住する公的許可を求めなかったからである{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=122-123|2a1=Allen|2y=2006|2pp=1, 268}}。彼はこの家を改装するための資金を教会から取得し{{sfn|Allen|2006|p=269}}、その隣地に子供たちの遊び場を設置し、ビショップスコートに水泳用プールを開いて、どちらも教区民に解放した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=123|2a1=Allen|2y=2006|2p=270}}。ツツはビショップスコートで{{仮リンク|Institute of Christian Spirituality|en|Institute of Christian Spirituality}}を設立するためイギリスの祭司(priest){{仮リンク|フランシス・カル|en|Francis Cull}}を招いた。その後Institute of Christian Spiritualityはツツの家の敷地内の建物に移動した{{sfn|Allen|2006|p=276}}。これらのプロジェクトにより、ツツの{{訳語疑問点範囲|聖職者としての職務|date=2018年3月|ministry|cand_prefix=原文}}のための経費が聖公会予算の大部分を占めるようになっていき、ツツは海外からの寄付の呼びかけを通じて予算拡大を希求した{{sfn|Allen|2006|p=276}}。一部の聖公会信徒たちは、ツツの浪費に批判的であった{{sfn|Allen|2006|p=277}}。
 
大主教としてのツツの業務は、彼の政治的行動主義と定期的な海外行脚とも相まって、膨大な作業量となった。ツツはこれを執行役員{{仮リンク|ンジョンゴンクル・ンドンガネ|en|Njongonkulu Ndungane}}とナトール(Nuttall)の助けを借りて管理した。ナトールは1989年にはケープ州の首席司祭(dean)に選出された{{sfn|Allen|2006|pp=277-279}}。教会の会合で、ツツは合意形成を促すリーダーシップモデルを採用することで、多数決ではなく全会一致による決定という伝統的なアフリカの習慣を引き出し、教会内の競合するグループの妥協を確実なものにしようとした{{sfn|Allen|2006|p=279}}。彼は聖職から女性を排除することをアパルトヘイトに例えて批判し、聖公会で女性を聖職者にすることを認めさせた{{sfn|Allen|2006|p=280}}。彼はまた、上級聖職者にゲイの男性を任命したほか、当時はまだ表していに発言することはなかったものの同性愛者の司祭に禁欲を求める<!--[[:en:clerical celibacy]]に「独身」と「禁欲」の二つの意味があるようです。「独身のままでいるべき」つまり「同性婚には反対」という教会主張は、時代的議論が進み過ぎではないでょうか。一般の同性婚を認めていた国はまだなかったはずです。-->教会は非現実的であると個人的に非難した{{sfn|Allen|2006|pp=280-281}}。ボエサクと{{仮リンク|スティーヴン・ナイドゥー|en|Stephen Naidoo}}と共に、ツツは黒人の抗議者たちと治安部隊の間の衝突の仲介に取り組む教会指導者の一人となった。実例としては、1987年のANCゲリラ{{仮リンク|アシュリー・クリエル|en|Ashley Kriel}}の葬儀での衝突を回避するために行動した{{sfn|Allen|2006|pp=284-285}}。1988年2月、政府はUDFを含む17の黒人、および人種混合組織を禁止し、労働組合の活動を制限した。教会指導者たちは抗議行進を組織したが、それも禁止された後、[[Committee for the Defense of Democracy]]を組織した。これらのグループの結集が禁止されたとき、ボエサクとナイドゥーは聖ジョージ大聖堂でこれに代わる儀式を組織した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=127|2a1=Allen|2y=2006|2p=290}}。
 
{{Quote box
| quote = あなたがたは既に負けている!我々は好意をもって言おう<!--「招待する」というような表現を自分でnice(好意的)と言っていると思われる-->。あなたがたは既に負けている!我々はあなたたちをこちら側に、勝利の側に招待する。あなたがたの信念は不公正である。あなたがたが守っているものは根本的に弁護不可能である。何故ならそれは悪だからだ<!--元の文だと、「何故なら」が「守っている」理由を言っているように読める-->。それは疑問の余地なき悪だ。それは不道徳だ。疑問の余地なき不道徳だ。非キリスト教的なものだ。だから、あなたがたは敗北するだろう!徹底的に敗北するだろう!
| source=- デズモンド・ツツ 政府に対する1988年の演説{{sfn|Allen|2006|p=291}}。
| align = left
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1988年3月、彼は(シャープビル副市長殺害で)死刑判決を受けた{{仮リンク|シャープビル・シックス|en|Sharpeville}}の訴訟について取り上げた。原則として[[死刑]]に反対し、助命を求めた{{sfn|Allen|2006|pp=1-4}}。ツツはアメリカ、イギリス、[[ドイツ]]の政府代表者に電話をかけ、この問題についてボータ政権に圧力をかけるよう促し{{sfn|Allen|2006|p=4}}、個人的にもボータに{{仮リンク|テュインヒュイス|en|Tuynhuys}}の彼の自宅で面会し、この問題について議論した。二人はうまくいかず、口論となった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=127|2a1=Allen|2y=2006|2pp=1-5}}。ボータはツツがANCの武装闘争を支持していると非難した。ツツは彼らが暴力を使うのを支持しておらず、ANCの非人種的、民主的な南アフリカという目標を支持していると述べた{{sfn|Allen|2006|pp=5-6}}。最終的には死刑判決は減刑された{{sfn|Allen|2006|p=6}}。
 
1988年5月、政府はツツに対する非公式なキャンペーンを立ち上げた。これには{{仮リンク|国家安全保障会議 (南アフリカ)|label=国家安全保障会議|en|State Security Council}}の戦略コミュニケーション部門(Stratkom wing)が部分的にかかわっていた<!--as part of ではない-->{{sfn|Allen|2006|pp=293, 294}}。治安警察は反ツツ・スローガンのチラシとステッカーを印刷し、黒人失業者に金を払って、ツツが空港に到着した時に抗議させた{{sfn|Allen|2006|pp=293, 294}}。交通警察はノマリゾ・レアの自動車免許更新が遅れたという理由で逮捕し、独房に閉じ込めた{{sfn|Allen|2006|p=294}}。治安警察は反アパルトヘイトの教会指導者に対する暗殺の試みを組織したが、後に彼らはツツの知名度が高すぎ<!--profileは「注目される度合い」を意味する-->たため、彼に対してはそれを実行しなかったと主張している{{sfn|Allen|2006|p=295}}。
 
ツツは政府に対する[[市民的不服従]]行為に関わり続けていた。この行為には多くの白人たちもまた参加し、このことにツツは励まされた{{sfn|Allen|2006|p=307}}。1989年8月、彼は聖ジョージ大聖堂で「Ecumenical Defiance Service」を組織し{{sfn|Allen|2006|pp=301-302}}、すぐ後にはケープタウンの人種隔離が行われているビーチでの抗議に参加した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=131|2a1=Allen|2y=2006|2p=303}}。UDF設立6周年を記念してツツは聖ジョージ大聖堂で「service of witness」を行い{{sfn|Allen|2006|p=304}}、9月には治安部隊との衝突で殺害された抗議者を記念した行事を執り行った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=131|2a1=Allen|2y=2006|2p=308}}。彼はケープタウン全域にわたる抗議行進を組織し、新しい大統領[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]はこれに許可を与えることに同意した。これには様々な人種を含む推定30,000人の人々が加わった.{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=132|2a1=Allen|2y=2006|2pp=308-311}}。この抗議行進が許可されたことに触発されて、南アフリカ全土での同様のデモが行われた{{sfn|Allen|2006|p=311}}。10月、デクラークはツツ、ボエサク、{{仮リンク|フランク・シケーネ|en|Frank Chikane}}と面会した。ツツはこれに「我々は耳を傾けられた」と感動した{{sfn|Allen|2006|pp=312-313}}。1994年、ツツの更なるツツの著作集「''The Rainbow People of God''」が出版され、それに続き翌年にはアフリカ大陸全土からの祈りにツツの解説を添えた「''An African Prayer Book''」が出版された{{sfn|Gish|2004|p=144}}。
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[[File:Nelson Mandela-2008 (edit).jpg|thumb|right|ツツはビショップスコートで、監獄から解放されたマンデラ(写真)を出迎えた。ツツは後にマンデラの大統領就任式の宗教的部分を担当した。]]
 
1990年2月、デクラークはANCのような政党を解禁した。ツツは彼の動きを祝福すべく電話した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=135|2a1=Allen|2y=2006|2p=313}}。そのすぐ後に、デクラークはマンデラが監獄から解放される<!--was released ではない-->ことを発表した。ANCはツツにマンデラと妻のウィニー(Winnie)がビショップスコートで自由となった最初の夜を過ごすことが可能かを問い、ツツは同意した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=135-136|2a1=Allen|2y=2006|2p=313}}。彼らはケープタウン・シティーホールで35年ぶりに会った。マンデラはそのバルコニーから集まった人々にスピーチをした{{sfn|Allen|2006|p=314}}。ツツは1990年2月の聖公会主教会議へのマンデラの出席を促し、マンデラはツツが「民衆の大主教だ」と評した{{sfn|Allen|2006|pp=315-316}}。この会議で、ツツと主教たちは、普通選挙制への移行が「不可逆的」であるならば諸外国に制裁の終了を呼びかけること、反アパルトヘイト・グループの武装闘争の終了を促すこと、聖公会の聖職者が政党に所属することを禁止することを決定した{{sfn|Allen|2006|p=316}}。多くの聖職者たちは最後の決定、つまり政党への所属禁止に抗議した。特にそれが相談なく課されたことを問題視した{{sfn|Allen|2006|p=320}}。ツツは公然とこの決定を擁護し、もし聖職者が公然と政党に加入していれば、特に南アフリカ全土で対立する政党の支持者たちの暴力が増大する中では、不和の種となるだろうと述べた<!--it would turn out to be divisiveと言い換えられる-->{{sfn|Allen|2006|pp=320-321}}。
 
3月、{{仮リンク|クワズールー|en|kwaZulu}}でANCの支持者と[[インカタ自由党]]の支持者の間で衝突が勃発した。ツツは[[ウルンディ]]でSACC代表団の一員としてマンデラ、デクラーク、インカタ党首{{仮リンク|マンゴスツ・ブテレジ|en|Mangosuthu Buthelezi}}と会談するため、アメリカ訪問を取りやめた{{sfn|Allen|2006|p=317}}。教会指導者たちはマンデラとブテレジに互いの政党間での暴力的衝突を抑えるための合同大会を開くよう促した{{sfn|Allen|2006|p=319}}。ツツとブテレジの関係は常に緊張したものであったが(特にアパルトヘイト政府とブテレジの協力による[[バントゥースタン]]制度にツツが反対していたことで)、ツツはブテレジを民主的なプロセスに関与させるために幾度にもわたり彼を訪ねた{{sfn|Allen|2006|pp=318-319}}。ANCとインカタの武力衝突はクワズールーからトランスヴァールまで拡大し、ツツは影響を受けたウィットウォーターズランドのタウンシップの数々を巡り、家を失った人々を訪ね、平和を祈った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=137|2a1=Allen|2y=2006|2pp=321-322}}。ツツは{{仮リンク|セボケン|en|Sebokong}}での虐殺の犠牲者を訪ね{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=137-138|2a1=Allen|2y=2006|2p=323}}、その後には{{仮リンク|ボイパトン虐殺|en|Boipatong massacre}}の犠牲者も訪問した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=139|2a1=Allen|2y=2006|2p=329}}。
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多くの別の活動家たちのように、ツツはANCとインカタの間の緊張を煽り立てる「{{仮リンク|第3の力 (南アフリカ)|label=第3の力|en|Third Force (South Africa)}}」があると考えていた。後に、情報機関がANCの交渉上の立場を弱めるため、インカタに武器を補給していたことが明らかになった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=138|2a1=Allen|2y=2006|2p=325}}。ANC指導層の幾人かと異なり、ツツはこれらに対するデクラークの個人的な加担を非難したことはなかった{{sfn|Allen|2006|pp=325-326}}。1990年10月、ツツはビショップスコートで教会指導者たちとANC、PAC、[[アザニア人民機構|AZAPO]]などの政党指導者たちが参加する「サミット」を開催し、彼らに対し、自らの支持者に暴力の回避と自由な政治活動を許容するよう呼びかけるように促した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=138|2a1=Allen|2y=2006|2p=328}}。{{仮リンク|南アフリカ共産党|en|South African Communist Party}}の指導者{{仮リンク|クリス・ハニ|en|Chris Hani}}は白人によって暗殺され、ツツはソウェトの外で行われたハニの葬儀で説教師(preacher)を務めた。ツツはハニのマルクス主義的信念に反対していたが、それでも活動家としてのハニを賞賛した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=140|2a1=Allen|2y=2006|2pp=333-334}}。これらの出来事の中、ツツは肉体的な疲労と病気が重なり{{sfn|Allen|2006|p=327}}、アメリカのジョージア州アトランタの[[エモリー大学]]のキャンドラー神学校(Candler School of Theology)で、4ヶ月間の長期休暇を取った{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=138|2a1=Allen|2y=2006|2p=329}}。
 
ツツは南アフリカが人種的内戦ではなく交渉による移行を通じて、普通選挙制に向けて変化しているという見通しによって気分を高揚させていた{{sfn|Allen|2006|p=315}}。彼は南アフリカ人の投票を促すポスターに彼の顔を使用することを許可した{{sfn|Gish|2004|p=142}}。{{仮リンク|南アフリカ総選挙 (1994年)|label=1994年の全人種選挙|en|South African general election, 1994}}が実施された際、ツツは感極まって、記者に「我々はとても幸福だ(we are on cloud nine)」と語っている{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=142|2a1=Allen|2y=2006|2p=338}}。彼はケープタウンの{{仮リンク|ググレツ|en|Gugulethu}}タウンシップで投票した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=142|2a1=Allen|2y=2006|2p=338}}。この選挙はANCが勝利し、マンデラが大統領であり、国家統合政府の形成を監督すると宣言された。ツツはマンデラの大統領就任式に出席し、その宗教的部分に責任を持った。ツツはその式典を、キリスト教徒、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、そしてヒンドゥー教徒の指導者たちが祈りと講読<!--変更する前の「講読」の方が適切でした。(「購読」と見間違えていました。申し訳ありません)-->に参加する多宗教の式典にするべきだと主張した<!--過去完了なので、insistしたのは式典開催の前。またit beは that it should be~の略と考えられるので、主張したのは願望-->{{sfn|Allen|2006|pp=338-339}}。
 
== その後の人生 ==
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1997年1月、ツツは[[前立腺がん]]であると診断され、海外で治療するために出国した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=153|2a1=Allen|2y=2006|2p=370}}。彼は診断結果を公表し、他の男性に前立腺検査を受けるように希望した{{sfn|Gish|2004|p=153}}。彼のがんは1999年と2006年にも再発した{{sfn|Allen|2006|p=370}}。南アフリカに戻った後は、彼はソウェトのオルランド・ウェストの家で過ごす時間と、ケープタウンの{{仮リンク|ミルネルトン|en|Milnerton}}地区で過ごす時間を分けた{{sfn|Allen|2006|p=371}}。2000年、彼はケープタウンにオフィスを開いた{{sfn|Allen|2006|p=371}}。2000年7月、ケープタウンに拠点としてデズモンド・ツツ・ピース・センター(Desmond Tutu Peace Centre)が設立され、2003年から新たなリーダーシッププログラム(Emerging Leadership Program)を実施し始めた{{sfn|Gish|2004|p=163}}。
 
南アフリカにおける自身の存在が、新しい大主教であるンドンガネの存在を覆い隠す可能性を意識して、ツツは2年間[[客員教授]]としてアメリカのエモリー大学で勤めることに同意した{{sfn|Allen|2006|p=371}}。この任期は1998年から2000年までであり、この間に彼は{{仮リンク|真実和解委員会 (南アフリカ)|label=真実和解委員会|en|Truth and Reconciliation Commission (South Africa)}}(TRC)<!--TRC初出-->についての書籍、『''No Future Without Forgiveness''』を執筆した{{sfn|Gish|2004|p=162}}。2002年初頭、彼は[[マサチューセッツ州]]ケンブリッジのEpiscopal Divinity Schoolで教鞭をとった{{sfn|Gish|2004|p=163}}。2003年1月から5月までは[[ノースカロライナ大学]]で教鞭をとった{{sfn|Gish|2004|p=163}}。2004年1月、彼は「母校」キングスカレッジで紛争後の社会(postconflict societies)の客員教授を務めた{{sfn|Gish|2004|p=163}}。アメリカにいる間、彼は講演者の代理店と契約し、講演の仕事のために広範囲を旅した。これは彼の牧師年金(clerical pension)だけでは望めなかったような経済的自立をもたらした{{sfn|Allen|2006|p=371}}。彼のスピーチの中では、南アフリカがアパルトヘイトから普通選挙制へ移行したことに焦点があてられ、他の苦しんでいる国家が採用すべきモデルとして提示された{{sfn|Gish|2004|p=161}}。アメリカでは、反アパルトヘイト活動家に制裁のキャンペーンについて感謝し、またアメリカ企業に現在の南アフリカへ投資するように呼び掛けている{{sfn|Gish|2004|pp=161-162}}。
 
=== 真実和解委員会: 1996-1998 ===
 
1994年に[[アフリカ民族会議]]が政権を取って以降の{{仮リンク|アパルトヘイト後の南アフリカ|en|post-apartheid South Africa}}<!--1994年はアフリカ民族会議がruling partyになった年-->に対して{{仮リンク|虹の国|en|Rainbow Nation}}というメタファーを作り出したのはツツだと一般に信じられている。この表現はこれ以来、南アフリカの[[多文化主義|民族多様性]]を表す言葉としてメインストリームの意識の中に加わった<ref>{{cite web|url=http://www.southafrica.net/za/en/articles/entry/article-southafrica.net-south-africas-rainbow-nation|title=South Africa's Rainbow Nation|website=Southafrica.net|accessdate=22 April 2017}}</ref>。彼はこのメタファーを、多人種の抗議者たちを指す「神の虹の民(rainbow people of God)」という表現の中で1989年に初めて使用した{{sfn|Allen|2006|p=391}}。ツツは解放派神学者(liberation theologians)が「批判的連帯」(critical solidarity)と呼ぶ立場を唱道した。すなわち、民主化勢力諸派に支援を行うと同時に、彼らへの批判をためらわなかった{{sfn|Allen|2006|p=315}}。<!--この部分の翻訳、相当に怪しい。Tutu advocated what liberation theologians call "critical solidarity", offering support for pro-democracy forces while reserving the right to criticise his allies.{{sfn|Allen|2006|p=315}}--><!--liberation theologyの具体的な思想を知らないので確信はないが、こういうことではないか。"critical solidarity"=「批判的連帯」は文献上に訳例がある。-->彼は、派手な色(brightly coloured)の{{仮リンク|マディバ・シャツ|en|Madiba shirts}}(ツツはこれを不適切な服装と見做した)の着用のようないくつかの点でマンデラを批判し、マンデラは冗談半分に、ドレスを着る男からそんなことを言われるとは皮肉なことだと返した{{sfn|Allen|2006|p=345}}。より深刻なツツの批判は、マンデラが南アフリカのアパルトヘイト時代の軍事産業との関係を維持していたことと、新たに選出された国会議員への多額の報酬についてのものであった{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=143-144|2a1=Allen|2y=2006|2p=345}}。マンデラはツツを「ポピュリスト」と呼んでやり返し、ツツはこうした批判を公然とするのではなく個人的に提起すべきだと主張した{{sfn|Allen|2006|p=345}}。
 
[[File:Archbishop Desmond Tutu on his 80th birthday (10666682906).jpg|thumb|left|ツツ(2011年)]]
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アパルトヘイト後の政権が直面した重大な難問は、過去数十年にわたって国家と反アパルトヘイト活動家の双方によってなされた多数の人権侵害にどのように対応するかというものであった。国民党は全般的な恩赦を望んだが、ANCは以前の政府要人の審理を望んだ{{sfn|Allen|2006|pp=343-344}}。{{仮リンク|アレックス・ボレーヌ|en|Alex Boraine}}はマンデラ政府が{{仮リンク|真実和解委員会 (南アフリカ)|label=真実和解委員会|en|Truth and Reconciliation Commission (South Africa)}}(TRC)の設立についての法律を作成するのを助けた。この法案は1995年7月に議会を通過した{{sfn|Allen|2006|pp=344-345}}。ナトールはツツが真実和解委員会の17人の委員の1人となる案を提示し、9月の主教会議で公式にかれをノミネートした{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=147|2a1=Allen|2y=2006|2p=345}}。ツツは真実和解委員会が3つのアプローチを採用することを提案した。第一は告白であり、過去の人権侵害に責任を負う者はその行動を全て明らかにすること。第二は赦しであり、訴追されることから法的に恩赦されるという形をとる。第三は賠償であり、加害者が被害者に償うというものであった{{sfn|Allen|2006|p=344}}。
 
マンデラは真実和解委員会の委員長にツツを、ボレーヌを副委員長(his deputy)に任命した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1pp=147, 148|2a1=Allen|2y=2006|2pp=345-346}}。真実和解委員会は重要な事業であり、300人以上のスタッフを雇用し、3つの小委員会(committees)に分かれ、同時に四つまでの聴聞会を開催した{{sfn|Allen|2006|p=346}}。真実和解委員会の中で、ツツは「[[修復的司法]](restorative justice)」を提唱した。彼はこれを伝統的なアフリカの法学の特性である「'''[[#ウブントゥ|ウブントゥ]]'''(''ubuntu'')の精神の中で」捉えていた{{sfn|Allen|2006|p=347}}。委員会の長として、ツツは、反アパルトヘイト活動家であった委員とアパルトヘイト制度を支持していた人々の間の多数の疑惑とともに、数々の個人間の問題に対処せねばならなかった{{sfn|Allen|2006|p=349}}。ツツは「我々はオペラの主演女優の集団(bunch of prima donnas)のように自意識過剰<!--「プリマドンナ」の比喩を使わず「気難しい集団」という表現を使うなら、「のような」は不要-->で、多くの場合過敏であり、侮辱<!--slights-->を受けると、それが実際の侮辱であれ、ただそう受け取っただけであれ<!--real or imaginedはこういう意味だと思われる。もっとすっきり訳すことはできるはずだが、とりあえず-->、簡単に立腹した」ことを認めた{{sfn|Gish|2004|p=150}}。ツツは祈りと共に会議を開き、真実和解委員会の業務について議論する際にはしばしばキリストの教えに言及したため、明確に世俗的な組織の中にあまりにも多くの宗教的要素を入れることに批判的な人々を苛立たせた{{sfn|Gish|2004|p=150}}。
 
最初の聴聞会は1996年4月に開かれた{{sfn|Gish|2004|p=150}}。この聴聞会は公に放送され、南アフリカの社会に重大な衝撃をもたらした{{sfn|Allen|2006|p=350}}。ツツは恩赦を与える小委員会をほとんど制御しておらず、代わりに反アパルトヘイト派とアパルトヘイト体制の要人によって犯された人権侵害の記録の聞き取りを行う小委員会で議長を務めた{{sfn|Allen|2006|p=348}}。被害者の証言を聞きながら、ツツは時折感情に圧倒され、聴聞会の間に泣いた{{sfn|Allen|2006|p=352}}。彼は加害者を赦すことを表明した被害者を選び出し、彼らを中心テーマとして用いた<!--ライトモチーフという言葉は知らなかったのですが、カタカナ語としては純粋に音楽用語として使われているのでは?←中心テーマ、主題、という訳語で作った文章がしっくりこなかったためカタカナ表記にしましたが、造語になってしまっていました。-->として使用した{{sfn|Allen|2006|p=351}}。
ANCのイメージはその活動家の一部が拷問、民間人への攻撃、その他の人権侵害を行っていたことが暴露されたことで汚された{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=157|2a1=Allen|2y=2006|2pp=366-367}}。ツツは1998年10月にプレトリアで行われた公式式典で、5巻からなる真実和解委員会の報告書をマンデラに提出した{{sfn|Gish|2004|p=157}}。最終的に、ツツは真実和解委員会の成果に満足し、(その欠点<!--shortcomings-->は認識していたが)これが長期的な和解の一助となると考えていた{{sfn|Gish|2004|p=158}}。
 
=== 社会問題と国際問題 ===
 
{{Quote box
| quote = 私は同性愛嫌悪者(homophobic)の天国へ行くことを拒否するだろう。いや、敢えて言うが<!-- 仮に原文が I wouldn't say sorryだったら「後悔することもないだろう。」でいいと思います。ここのNo, I would say sorry, I mean ... は「申し訳ない言わせてもらう」というような意味でしょう-->、私はむしろ正反対の場所を選ぶだろう<!--another ではなく the other と言っているので、死後の世界がa homophobic heavenもう一つ別の領域に二分されるとしたら自分後者を選ぶという意味です。「別の領域」を具体的に言うと、おそらく正反対の「同性愛に宥和的な地獄」です。「むしろ地獄に行く」というのツツからすると相当行きた表現はずで、それを自覚しているから I would say sorryとかthat is how deeply I feel about thisというようなことを言っているのでしょう。どう訳すかは難しいです。原文にない「地獄」という言葉を入れていいものでしょうか。-->。私は同性愛嫌悪者であるような神を崇拝しない。私が言っていることは、この件について私がどはそれほど深く感じているかということだ。私はアパルトヘイトについて今までしてきたことと同じようにこのキャンペーンに情熱を持っている。私にとっては同じレベルだ。
| source=- ツツ (2013年)<ref>{{cite news| url=http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-23464694 | title =Archbishop Tutu 'would not worship a homophobic God' | author = | publisher =[[British Broadcasting Corporation]]| date =26 July 2013}}</ref>
| align = right
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アパルトヘイトの終焉の後、ツツの同性愛者に関する人権活動家としての地位は、{{仮リンク|同性愛に対する聖公会の見解|label=聖公会が直面している他の問題|en|Anglican views of homosexuality}}のどれよりも、彼を人々の注目の対象としていた{{sfn|Allen|2006|p=372}}。ツツはホモセクシュアルに対する差別を黒人や女性に対する差別と同等のものであるとみなした{{sfn|Allen|2006|p=372}}。
彼はスピーチと説教を通じて自分の見解を広めた{{sfn|Allen|2006|p=373}}。1998年のランベス主教会議で同性間の性交渉に対する教会の反対が確認された後、ツツは[[ジョージ・キャリー]]に「私は聖公会の信徒であることを恥じている」と述べた{{sfn|Allen|2006|pp=372-373}}。アメリカとカナダの教会がLGBの権利に賛成を表明すると、保守的な聖公会信徒はそれらの教会を[[アングリカン・コミュニオン]]<!--Anglican Communionは組織名だと思われる。ejectの対象となるtheyはvarious US and Canadian Anglican churchesのことだろう(「ツツたち」だとするとツツ以外に誰かが明確ではない)-->から追放することを主張した。ツツはカンタベリー大主教[[ローワン・ウィリアムズ]]があまりにも容易にこの動きに同調したとみなしていた{{sfn|Allen|2006|pp=373-374}}。ツツは、保守派がアングリカン・コミュニオンの包括性を厭うならば、彼らはいつでも「自由に去る」ことができるという見解を表明した{{sfn|Allen|2006|p=374}}。2007年、ツツはホモセクシュアルの問題に執着する教会を非難し、「もし神が、彼らが言うように同性愛嫌悪者(homophobic)ならば、私はその神を崇拝しないだろう」と宣言した<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/7100295.stm |title=Desmond Tutu chides Church for gay stance |publisher=BBC |date=18 November 2007}}</ref>。ツツは、反同性愛者法は将来アパルトヘイトの法律と同等の過ちとみなされるだろうと語った<ref>[http://www.pinknews.co.uk/2012/07/20/desmond-tutu-anti-gay-laws-as-wrong-as-apartheid/ Desmond Tutu: Anti-gay laws ‘as wrong as apartheid’]. Retrieved 21 July 2012</ref>。ツツはまた[[南部アフリカ聖公会]]での同性結婚を支持している<ref>{{Cite web|url=http://www.huffingtonpost.com/desmond-tutu/religion-homosexuality_b_874804.html|title=All Are God's Children|last=Town|first=Desmond Tutu Archbishop Emeritus of Cape|date=11 June 2011|website=The Huffington Post|accessdate=12 August 2016}}</ref>。
 
ツツはまた、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]のパンデミックと闘う必要性について意見を述べ、2003年7月に「アパルトヘイトは私たちの国民を破壊しようとし、そしてアパルトヘイトは失敗した。もし我々がエイズに対して行動しないならば、それは成功してしまうだろう。それは既に我々の人口を減らしているからだ。」と述べた{{sfn|Gish|2004|p=166}}。2005年4月20日、ジョセフ・ラッツィンガー枢機卿が[[ベネディクト16世]]として教皇に選出された後、ツツは彼がローマ・カトリック教会がアフリカにおけるエイズとの戦いにおいて、コンドームの使用反対の立場を変えることはあり得そうにないことから、「我々が求めていた新教皇は<!--ベネディクト16世が選出されたことへの失望を述べている。someone more open to~ がhoped forされていたはずだ、ということ-->、世界で起きている最近の発展や、女性聖職者問題や、コンドームやエイズに関する合理的な立場を、もっと積極的に受け入れる人物だったのでないろうか」と、悲しみを述べた。<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/4463873.stm|title=Africans hail conservative Pope|publisher=BBC News |date=20 April 2005|accessdate=26 May 2006}}</ref>。2006年、ツツは全ての子供を出生時に登録するようにするためのグローバル・キャンペーンを開始した。これは[[プラン・インターナショナル]]によって組織されたものであり、未登録の子供は公式には存在しなかったため、人身売買業者や災害に対して彼らが無防備であったためである<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/4289393.stm |title=Tutu calls for child registration|date= 22 February 2005|publisher=BBC |accessdate=23 January 2008}}</ref>。
 
ツツはイスラエルとパレスチナの紛争に対する関心を持ち続け、[[オスロ合意]]が調印された後、[[テルアビブ]]に招待され、{{仮リンク|ペレス平和センター|en|Peres Centre for Peace}}に出席した{{sfn|Allen|2006|p=388}}。彼は{{仮リンク|キャンプ・デーヴィッド会議 (2000年)|label=2000年のキャンプ・デーヴィッド会議|en|2000 Camp David Summit}}で合意がなされなかったことにますます不満を募らせた{{sfn|Allen|2006|p=388}}。
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}}</ref>。ツツは[[ヨーロッパ]]、[[インド]]、[[パキスタン]]にもまた多くの大量破壊兵器が存在するのに、なぜイラクだけが選び出されたのかと疑問を投げかけた<ref>{{cite news|title = Tutu condemns Blair's Iraq stance|publisher=BBC |date=5 January 2003 |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2628607.stm |accessdate=23 January 2008}}</ref>。2012年、ツツはブレア前首相のイラク攻撃という「道徳的に弁解の余地がない」決定に触れ、ブレアが登場する予定だった南アフリカでのイベントから手を引き<ref>{{cite news |last= Hope |first= Christopher |date= 28 August 2012 |title= Archbishop Desmond Tutu pulls out of event with Tony Blair because of Iraq War |url=http://www.telegraph.co.uk/news/politics/9504259/Archbishop-Desmond-Tutu-pulls-out-of-event-with-Tony-Blair-because-of-Iraq-War.html |publisher= [[telegraph.co.uk]] |accessdate=28 August 2012 }}</ref>、彼に戦争犯罪の疑いで、[[国際刑事裁判所|ハーグ]]での裁判に臨むよう呼びかけた<ref>{{cite news |last= Tutu |first= Desmond |date= 2 September 2012 |title= Why I had no choice but to spurn Tony Blair |url=https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/sep/02/desmond-tutu-tony-blair-iraq |newspaper= [[The Observer]] |accessdate=2 September 2012 }}</ref>。2007年、ツツは人々が絶望的な条件で生きているならば、世界での「テロとの戦い(war on terror)」に勝利することはできないと述べた<ref name = povertyterror>{{cite news |url=http://www.cnn.com/2007/WORLD/asiapcf/09/16/talkasia.tutu/|title=Tutu: Poverty fuelling terror|date= 16 September 2007| publisher=CNN|accessdate=4 April 2008}}</ref>。2004年、ツツはニューヨーク市の[[オフ・ブロードウェイ]]の、『''{{仮リンク|Honor Bound to Defend Freedom|label=Guantanamo - Honor-bound to Defend Freedom|en|Honor Bound to Defend Freedom}}''』という劇の公演に出演した。この劇は[[グアンタナモ湾]]におけるアメリカの拘留者の扱いを強く批判するものであった。ツツは拘留制度の法的正当性に疑問を持つ裁判官ジャスティス・ステイン卿の役を演じた<ref>{{cite news|title = Tutu in anti-Guantanamo theatre|publisher=BBC |date=2 October 2004 |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3709288.stm |accessdate=23 January 2008 |first=Jeremy |last=Cooke}}</ref>。2005年1月、彼は[[キューバ]]の[[グアンタナモ湾]]にある{{仮リンク|Camp X-Ray|en|Camp X-Ray}}でのテロ容疑者拘留に対する異議を表明し、ここで行われている裁判なしの拘留は「全く認められず」、これはアパルトヘイト時代の拘留と同種のものであると述べた<ref>{{cite news|title = Tutu calls for Guantanamo release|publisher=BBC |date=12 January 2005 |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4167369.stm |accessdate=22 January 2008}}</ref>。彼はまたイギリスが裁判なしで28日間テロリストを拘留する制度を導入したことも非難した<ref>{{cite news |title=Tutu calls for Guantanamo closure|publisher=BBC |date=17 February 2006 |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4723512.stm |accessdate=22 January 2008}}</ref>。
 
2004年、ツツは60年前に住んだソフィアタウンのthe Church of Christ the Kingで初の講演<!--何に?←出典のAllenの本がGoogleBooksで読めたので確認した所、60年前に住んだソフィアタウン(§少年時代で言及されている)での初めての講演、という内容で就任記念講演は誤訳でした。出典元の文章は「Sixty years after first arriving in Sophiatown, Tutu returned to the Church of Christ th e King in 2004to deliver the inaugural lecture: "Naught for Your Comfort" named after Trevor Huddleston's book.」でした。-->を行い、およそ10年間の間に南アフリカが達成した成果をたたえたが、人々の間の富の格差が拡大していることを警告した{{sfn|Allen|2006|p=392}}。彼は政府の軍事支出、[[ジンバブエ]]におけるムガベ政権の政策、そして{{仮リンク|ングニ語|en|Nguni languages}}<!--Nguni = ングニ語では?←見間違いでした。ングニ語です。ングワトはボツワナの部族名でした。-->話者が上級の地位を支配するあり方に疑問を呈し、後者の問題は民族間の緊張をかきたてると述べた{{sfn|Allen|2006|p=392}}。彼はこの三つの点について同じことを、後にヨハネスブルクで毎年行われているネルソン・マンデラ講演会(Nelson Mandela Lecture)の時に述べている{{sfn|Allen|2006|p=392}}。講演の席でツツは、ムベキ指導下のANCが、メンバー内での「ごますり、追従、服従(sycophantic, obsequious conformity)」を要求していることを非難した{{sfn|Allen|2006|p=393}}。ツツとムベキは長期にわたり緊張関係にあった。ムベキはツツがTRCを通じてANCのアパルトヘイトに対する武装闘争を犯罪として扱っていることを批判し、ツツはムベキがエイズのパンデミックを積極的に放置したことを嫌悪した{{sfn|Allen|2006|p=393}}。ムベキは前任者のマンデラと同じように、ツツがポピュリストであると批判し、更にANC内の働きを理解していなかったと主張している{{sfn|Allen|2006|p=393}}。ツツは後にANC指導者で南アフリカ大統領の[[ジェイコブ・ズマ]]を非難し、2006年には、ズマが強姦と汚職のために告訴されていたことから、立候補しないように促した。<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/5384310.stm |title=S Africa is losing its way - Tutu|date= 27 September 2006|publisher=BBC}}</ref>。
 
2003年、ツツは[[国際刑事裁判所]]の被害者基金(Trust Fund for Victims)の理事に選出された<ref>{{cite web|url=http://web.amnesty.org/library/Index/ENGIOR300072003?open&of=ENG-391|title=Amnesty International welcomes the election of a Board of Directors|date=12 September 2003|publisher=[[Amnesty International]]|accessdate=1 August 2007|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060415130813/http://web.amnesty.org/library/Index/ENGIOR300072003?open&of=ENG-391|archivedate=15 April 2006|df=dmy-all}}</ref>。2006年には、虐殺防止に取り組む国連諮問委員会のメンバーに指名された<ref name=bday>{{cite web |url=http://www.news24.com/News24/South_Africa/News/0,,2-7-1442_2009103,00.html |title=Desmond Tutu turns 75|date=6 October 2006| publisher=News24|accessdate=22 January 2008}}</ref>。
 
 
[[File:The Elders (7492963126).jpg|thumb|right|{{仮リンク|The Elders|en|The Elders}}<!--ここで「長老」と呼ぶよりは、団体The Eldersのメンバーだということを直接的に示す方がいいと思われる。-->のメンバーであるツツ(右端)ほか二人と、イギリス外務大臣[[ウィリアム・ヘイグ]](左から2人目)。]]
 
ツツは[[ガザ地区]]の{{仮リンク|ベイト・ハヌーン|en|Beit Hanoun}}での国連実情調査団の団長に選ばれた。ここでは、[[イスラエル国防軍]]がこの街からの{{仮リンク|ガザ紛争 (2006)|label=パレスチナ人によるロケット攻撃|en|2006 Israel-Gaza conflict}}を抑えることを目的として、1週間にわたり侵攻した後、{{仮リンク|ベイト・ハヌーン事件 (2006年10月)|label=2006年10月の事件|en|Beit Hanoun November 2006 incident}}で、19人の市民を殺害していた.<ref>{{cite web |url=http://www.jpost.com/Middle-East/Tutu-to-head-UN-rights-mission-to-Gaza |title=Tutu to head UN rights mission to Gaza |date=29 November 2006 |last=Slosberg |first=Jacob |publisher=''Jerusalem Post'' |accessdate=2018年3月}}</ref>。
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[[国際連合人権理事会]]理事長の{{仮リンク|ルイス・アルフォンソ・デ・アルバ|en|Luis Alfonso De Alba}}によると、ツツは「犠牲者の状況を評価し、生存者のニーズに応え、更なるイスラエルの攻撃からパレスチナ市民を守る手段についての勧告を行う」ために、パレスチナ側の領土への視察を計画した<ref>{{cite web| url=http://fr.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1164881856613&pagename=JPost/JPArticle/ShowFull| title=Israel may give no-no to Tutu's trip to Beit Hanun| date=19 December 2006| last2=Keinon| first2=Herb| last=Hoffman| first=Gil| publisher=''Jerusalem Post''|deadlinkdate=2017年12月}}{{dead link|date=December 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。イスラエルの当局者は、この報告書がイスラエルに対して偏向したものになる可能性について懸念を表明した。12月半ばにツツはこの視察を取りやめ、一週間以上の議論の末にイスラエルが必要な旅行許可を出さなかったことを話した<ref>{{cite web|url=http://www.iht.com/articles/ap/2006/12/11/news/UN_GEN_UN_Israel_Tutu.php | title=Desmond Tutu says Israel refused fact-finding mission to Gaza|date=11 December 2006|archiveurl=http://web.archive.org/web/20071014191121/http://www.iht.com/articles/ap/2006/12/11/news/UN_GEN_UN_Israel_Tutu.php|archivedate=2018年3月|accessdate=2018年3月|work=International Herald Tribune}}</ref>。
 
2009年、ツツは同名の南アフリカの組織の例に倣い、ソロモン諸島の{{仮リンク|真実和解委員会 (ソロモン諸島)|label=真実和解委員会|en|Truth and Reconciliation Commission (Solomon Islands)}}の設立を支援した<ref>[http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,25401194-16953,00.html "Solomon Islands gets Desmond Tutu truth help"], ''The Australian'', 29 April 2009</ref><ref>[http://www.solomontimes.com/news.aspx?nwID=3512 "Archbishop Tutu to Visit Solomon Islands"], ''Solomon Times'', 4 February 2009</ref>。2009年4月29日、彼は委員会の公式発足時に[[ホニアラ]]で、最終的な平和の確立には赦しが必要であることを強調する発言を行った<ref name="RNZI_46259">{{cite web |url=http://www.rnzi.com/pages/news.php?op=read&id=46259 |title=Solomons Truth and Reconciliation Commission launched |date=29 April 2009 |work=[[:en:Radio New Zealand International|Radio New Zealand International]] |accessdate=28 September 2011}}</ref>。彼はまた、[[コペンハーゲン]]で開催された[[第15回気候変動枠組条約締約国会議|国連気候変動会議]]に出席し,<ref>{{cite news| url=http://edition.cnn.com/2009/WORLD/europe/10/24/international.climate.change.demonstrations/ | title=International day of demonstrations on climate change | date=26 October 2009 | work=CNN}}</ref>、アパルトヘイト時代の南アフリカに対する投資引き上げになぞらえて{{仮リンク|化石燃料への負の投資|en|fossil fuel divestment}}<!--Googleでは「化石燃料ダイベストメント」「化石燃料からの投資撤退」のような言い方の方が一般的-->を広く呼びかけた<ref name="We need an apartheid-style boycott to save the planet">{{cite news |first=Desmond |last=Tutu |title=We need an apartheid-style boycott to save the planet |url=https://www.theguardian.com/commentisfree/2014/apr/10/divest-fossil-fuels-climate-change-keystone-xl |website=[[The Guardian]]|location=London|accessdate=24 March 2015}}</ref>。
 
[[File:Archbishop Desmond Tutu gets an HIV test on The Desmond Tutu HIV Foundation's Tutu Tester, a mobile test unit that brings healthcare right to your doorstep.jpg|thumb|left|デズモンド・ツツHIV財団で、携帯検査ユニットの被験者としてHIV検査を受けるデズモンド・ツツ]]
 
2007年、ツツは、世界で最も困難な諸問題に取り組むために、知恵、慈愛、リーダーシップ、誠実さを提供する世界の指導者たちのグループである、{{仮リンク|The Elders (組織)|label=The Elders|en|The Elders (organization)}}<!-- 団体名とそのメンバーの呼び方は統一すべきではないか。団体を仮に「エルダーズ」と呼ぶなら、そのメンバーは「エルダー」とすべき。あるいは、そのメンバーを「長老」と呼ぶなら、団体名の方も「長老連」「長老衆」などとするか、少なくとも「エルダーズ(長老たち)」のようにカッコ書きで意味を補足した方がいいのでは←おっしゃる通りと思うので、エルダーに統一しました。長老連なども考慮してみましたが、どうにも時代がかった感じで現代組織の日本語名としてはちょっと違和感があるので、エルダーの方を採用させていだきました。-->の議長であることが宣言された<ref>{{cite web|url=http://theelders.org/article/nelson-mandela-and-desmond-tutu-announce-elders |title= Nelson Mandela and Desmond Tutu announce The Elders |publisher=TheElders.org |date=18 July 2007 |accessdate=11 March 2013}}</ref>。ツツは2013年5月までこの職務で手腕を振るった。辞任し、名誉エルダー(Honorary Elder)となると、彼は「議長としての素晴らしい6年間の後、辞任すべき時が来たと告げるのは悲しいが、エルダーとして、我々は常に終身の指導者に反対すべきである。」と述べた<ref>{{cite web|url=http://www.theelders.org/article/kofi-annan-appointed-chair-elders |title=Kofi Annan appointed Chair of The Elders |publisher=TheElders.org |date=10 May 2013 |accessdate=23 May 2013}}</ref>。ツツはThe Eldersを率いて2007年10月に(このグループが創設されてから最初のミッションとして)[[ダルフール危機]]の和平を促進するため、スーダンを訪問した。ツツは「我々の望みは、我々がダルフールにスポットライトを当て続け、この地域で平和を維持するために政府を支援することである。」と述べた<ref>{{cite web|url=http://www.news24.com/World/News/Tutu-denounces-rights-abuses-20071210 |title=Tutu denounces rights abuses |publisher=News24 |date=10 December 2007 |accessdate=11 March 2013}}</ref>。彼はまた、Eldersの代表団と共に、[[コートジボワール]]、[[キプロス]]、[[エチオピア]]、[[インド]]、[[南スーダン]]、そして中東を訪れた<ref>{{cite web|url=http://www.theelders.org/desmond-tutu |title=Desmond Tutu |publisher=TheElders.org |accessdate=7 March 2013}}</ref>。ツツは特にThe Eldersが提案した[[児童結婚]]についてのイニシアティヴ<!--「involved in The Elders’ initiative」は直訳で「エルダーズのinitiativeに関与した」。ここでinitiativeは個人の資質ではなく、「新規な計画・構想・提案」を指すと思われる(例えば「日米成長雇用イニシアチブ」のような用法)。-->に関与し、「''Girls Not Brides'':'''児童結婚を終わらせるためのグローバル・パートナーシップ'''」を立ち上げるため、2011年9月にニューヨークの[[クリントン財団|クリントン・グローバル・イニシアティヴ]]に参加した<ref>{{cite web|url=http://www.theelders.org/article/elders-turn-spotlight-neglected-issue-child-marriage |title=The Elders to turn spotlight on neglected issue of child marriage |publisher=TheElders.org |date=16 September 2011 |accessdate=7 March 2013}}</ref>。
 
2007年、ツツは南アフリカの[[ジンバブエ]]大統領[[ロバート・ムガベ]]の政府に対する「静かな外交(quiet diplomac)」政策を批判し、[[南部アフリカ開発共同体]]に、ムガベの{{仮リンク|ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線|en|ZANU-PF}}と反政府の{{仮リンク|民主変革運動|en|Movement for Democratic Change – Tsvangirai}}の間で対話を行うことと、この行動の明確な期日(firm deadlines)を定めること、これがなされない場合には強硬な手段を取ることを呼びかけた<!--ここまでをcall forしたと思われる--><ref>{{cite news |url=http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/09/19/wtutu119.xml|title=Zimbabwe needs your help, Tutu tells Brown|date= 19 September 2007|work=The Daily Telegraph |location=UK |accessdate=4 April 2008 |first1=Peta | last1=Thornycroft | first2=Sebastien | last2=Berger}}</ref>。2008年、彼は国際社会にジンバブエに介入するよう、さらに必要に応じて軍事的手段を取るよう呼びかけた<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7479696.stm|title = Tutu urges Zimbabwe intervention |date = 29 June 2008 |publisher=BBC}}</ref>。一方のムガベはツツを「怒りっぽい、邪悪で敵意に満ちた<!--embitteredは「苛立たしい」というよりむしろ「苛立った」。辞書には「感情を害し、敵意を抱いた」という語義も載っている-->小主教(angry, evil and embittered little bishop)と呼んでいる<ref>{{cite news |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article2631943.ece|title=Working with a rabble-rouser|date= 10 October 2007| first=John |last=Allen|work=The Times |location=UK |accessdate=22 January 2008 }}</ref>。
[[2008年のチベット騒乱]]の間、ツツは[[ダライラマ14世]]を称え、中国政府は「(彼の)声を聴くべきだ...これ以上の暴力を止めよという声を。」と発言した<ref>Tutu, Desmond. [http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/panelists/desmond_tutu/2008/03/statement_on_tibet_and_china.html Statement on Tibet and China]. ''Washington Post'', 25 March 2008</ref>。彼は後にある集会において<!--おそらくネイさんのコメントの13番がこれ-->、「美しいチベットの人々の繁栄のため」に、[[2008年北京オリンピックの開会式]]に出席しないように世界各国の首脳に呼びかけた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7337925.stm|title=San Francisco set for torch relay|publisher=BBC |date=9 April 2008|accessdate=9 April 2008}}</ref>。[[ダライラマ14世]]は2011年10月7日に開かれたツツの80歳のバースデイパーティに出席するためのビザを南アフリカに拒否された<ref>[http://blogs.reuters.com/africanews/2011/10/04/was-south-africa-right-to-deny-dalai-lama-a-visa/ Was South Africa right to deny Dalai Lama a visa?] 4 October 2011</ref><ref>[http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-15228604 Dalai Lama criticises China in South Africa video link] bbc 8 October 2011</ref>。
 
=== 公職を退く:2010-現在 ===
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2017年8月、ツツは[[2011年サウジアラビア騒乱|2011年から2012年にかけての抗議運動]]に参加した[[サウジアラビア]]の14人の若者の処刑を止めるよう促したノーベル平和賞受賞者たちの中の一人に加わった<ref>"[http://nationalpost.com/pmn/news-pmn/nobel-laureates-urge-saudi-king-to-halt-14-executions Nobel laureates urge Saudi king to halt 14 executions]". ''[[ナショナル・ポスト|National Post]]''. 11 August 2017.</ref>。9月にはツツはノーベル平和賞受賞者仲間の[[アウン・サン・スー・チー]]に{{仮リンク|ロヒンギャ族迫害 (2016年)|label=ミャンマーにおけるムスリム迫害|en|2016 Rohingya persecution in Myanmar}}を停止するように求めた<ref>"[http://www.news.com.au/finance/work/leaders/desmond-tutu-to-aung-san-suu-kyi-save-the-rohingya-in-myanmar/news-story/81ff9e81b4a5098b177cf04cfd9dc902 Desmond Tutu to Aung San Suu Kyi: Save the Rohingya in Myanmar]". ''News.com.au.'' 12 September 2017.</ref>。12月、彼はアメリカ大統領[[ドナルド・トランプ]]が、パレスチナ人の反対にも関わらずエルサレムがイスラエルの首都であることを公認する決定を下したことを非難する人の一人であった。ツツは神がトランプの決定に泣いていたと発言した<ref>{{cite article |title=God is Weeping Over Inflammatory Recognition of Jerusalem as Israel Capital |author=Paula Slier |date=7 December 2017 |url=http://ewn.co.za/2017/12/07/god-is-weeping-over-inflammatory-recognition-of-jerusalem-as-israel-capital |website=Eyewitness News |accessdate=8 December 2017 }}</ref>。
 
2013年5月、ツツはANCが「抑圧からの解放の闘争の中で我々を非常に良く導いた」と同時に、南アフリカの不平等、暴力、腐敗に対抗するには貧弱な仕事をしてきたとして、もはやANCに投票する意思がないことを公表した。彼は南アフリカ政府の[[ダライラマ14世]]へのビザ発行遅延を鋭く批判し、政府の「中国への三拝九拝(kowtowing to China)」を非難した<ref>{{cite news|title=South Africa's Desmond Tutu: 'I will not vote for ANC'|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-22478916|accessdate=5 June 2013|newspaper=[[BBC News]]|date=10 May 2013}}</ref>。ツツは、ネルソン・マンデラはアフリカーナーがマンデラの死を追悼する記念礼拝から排除されたことで幻滅するだろうと述べた<ref>{{cite news|first=Farouk |last=Chothia BBC South Africa analyst |url=http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-25413501 |title= Archbishop Tutu: Nelson Mandela services excluded Afrikaners |work=BBC News|publisher=BBC |date=17 December 2013 |accessdate=18 August 2014}}</ref>。ツツは初めマンデラの葬儀には公式に招待されていないと主張していたが(ANC政権はこれを否定している)、後には出席の意思を表明した<!--出典に基づいて補足--><ref>{{cite news|url=http://www.cbc.ca/news/world/desmond-tutu-changes-mind-going-to-mandela-funeral-1.2464192 |title=Desmond Tutu changes mind, going to Mandela funeral - World - CBC News |publisher=Cbc.ca |date= |accessdate=18 August 2014}}</ref>。
 
2015年12月、ツツの娘、ムポ・ツツ(Mpho Tutu)が女性であるマーセライン・ファン・フュルト(Marceline van Furth)と結婚した.<ref name=EWN>{{cite web|url=http://ewn.co.za/2016/01/01/Mpho-Tutu-ties-the-knot |title=Mpho Tutu ties a knot|accessdate=2 January 2016}}</ref> ツツは彼の娘と、パートナーとの結婚に祝福を贈ることができた<ref>{{Cite web|url=http://howafrica.com/photo-archbishop-desmond-tutu-blesses-gay-union-of-his-daughter/|title=South African Archbishop Desmond Tutu Blesses Gay Union of His Daughter - How Africa|date=5 January 2016|accessdate=12 August 2016}}</ref>。
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ツツは少年時代から熱心なキリスト教徒であった{{sfn|Gish|2004|p=23}}。
彼は生涯に渡り文学と読書を愛し{{sfn|Gish|2004|p=11}}、アフリカの儀礼の伝統を保存することに情熱を持った{{sfn|Allen|2006|p=115}}。彼は無作法な振る舞いや軽率な言動を許容しないところがあり<!--直訳では「彼は無作法な…言動によって気分を害する可能性がある」-->{{sfn|Gish|2004|p=53}}、雇用する者に対しては時間厳守を主張した{{sfn|Allen|2006|pp=170, 275}}。ギッシュ(Gish)は彼を温かみと活力のあり{{sfn|Gish|2004|p=35}}、外向的で感性が豊かだと説明している{{sfn|Gish|2004|p=53}}。アレン(Allen)はツツが子供たちに対しては「愛情深いが厳格な父」だと述べている{{sfn|Allen|2006|p=170}}。彼はゴシップ嫌いとして知られ、スタッフにそれをやめさせている{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=73|2a1=Allen|2y=2006|2p=170}}。彼は醜悪な言葉(bad language)<!--ニュアンスを気にするのでなければ、これでいいと思います-->に怒り、民族差別を嫌悪した{{sfn|Gish|2004|p=73}}。彼は他者との個人的接触において怒りを見せることは滅多に無かったが、彼の良識(integrity)に挑戦されていると感じたならば、怒ることがあった<!--「出来た(能力)」でも訳文は成立すると思いますが、この方が自然に思います-->{{sfn|Allen|2006|p=171}}。ツツは人を信じやすい傾向があり、彼に近しい人々の中には、これが様々な場面において賢明ではないと考える人もいた{{sfn|Gish|2004|p=73}}。彼はその立場に伴う注目を楽しんでいる面があり、そのことでしばしば妻にからかわれている<!--妻がteaseしたのはlimelightそのものではなく、それをenjoyしたことだと思われる-->と語った{{sfn|Allen|2006|p=272}}。
 
彼はクリケットのファンであり{{sfn|Gish|2004|p=75}} 、彼のお気に入りの食べ物は[[サモサ]]、ファット・ケーキ(fat cake、揚げ菓子(fat cake)<!--ランダムハウスによるとfried cakeと同義でドーナツなどを指す-->、ヨギ・シップ(Yogi Sip、ヨーグルト飲料<!--ダノン製の「南アで最も人気のヨーグルト飲料」-->)である{{sfn|Gish|2004|p=75}}。ホストがツツの食事の好みについて尋ねた時、彼の妻は「5歳児が好むような物を考えてください(think of a five year old)」と答えた{{sfn|Allen|2006|p=272}}。リラックスするためには、[[クラシック音楽]]の観賞を楽しんだり、政治や宗教に関する本を読んだりした{{sfn|Gish|2004|p=123}}。ギッシュは「ツツの声と発言は聴衆を明るくすることができた。禁欲的であったり、ユーモアに欠けたことはなかった。」と書いている{{sfn|Gish|2004|p=76}}。ツツは毎朝午前4時に目覚め、職務の前に早朝の散歩を行い、祈り、正餐{{訳語疑問点|date=2018年3月}}(Eucharist)をする{{sfn|Allen|2006|p=274}}。金曜日には、夕食まで断食をした{{sfn|Allen|2006|p=275}}。また、聖書を毎日読んでいる<ref name="edition.cnn.com">{{cite news|url=http://edition.cnn.com/2009/WORLD/europe/12/15/ctw.tutu.climate.interview/index.html| title=Tutu urges leaders to agree climate deal|date=15 December 2009|accessdate=15 December 2009 |publisher=CNN}}</ref>。ツツは聖書を毎日読み、人々にそれを{{訳語疑問点範囲|一字一句に従う|date=2018年3月|constitutional document|cand_prefix=原文}}のではなく、複数の書物の集成として読むことを勧め<!--constitutional documentには会社などの定款という意味があり、そのような解釈だと後の部分とのつながりがいいと思います。ただキリスト教の文脈でどう訳すべきかは分かりません。collection of booksは、私は様々な性格を持つ文献の集成というように受け取りました。「ひとまとまり」を強調すべきではないかもしれません-->、「{{訳語疑問点範囲|聖書は多数の書物からなり、それらは要素ごとに異なるカテゴリーを持っている<!--materialが具体的に何を指しているのか確信が持てませんが、個人的には「収集された文章の性格もさまざまである」くらい噛み砕いて言ってもいいと思います。-->|date=2018年3月|You have to understand is that the Bible is really a library of books and it has different categories of material|cand_prefix=原文}}」ことを理解しなければならないと発言した。
「聖書の中には否定しなければならない箇所もいくつかある<!--say no toは「~にNOと言う」-->。聖書は奴隷制度を認めていた。聖パウロは女性は教会で一切話すべきではないと言ったし、それを引き合いに出して<!--use that-->女性を聖職者に任命すべきでないといっていた人たちもいる。受け入れるべきではないことが数多くある。」<ref name="edition.cnn.com"/>。
 
1955年7月2日、ツツは大学で出会った教師の{{仮リンク|ノマリゾ・レア・ツツ|en|Nomalizo Leah Tutu}}と結婚した。夫妻は4人の子供、トレヴァー・タムサンカ(Trevor Thamsanqa)、テレサ・タンデカ(Theresa Thandeka)、ナオミ・ノントンビ(Naomi Nontombe)、そしてムポ・アンドレア(Mpho Andrea)を儲けた。子供たちは全員[[スワジランド]]の{{仮リンク|ウォーターフォード・カマラバ|en|Waterford Kamhlaba}}学校に通った<ref>{{cite web|url=http://www.helpkids.org.za/pages.php?id=26|publisher=Cape Town Child Welfare|title=Our Patron - Archbishop Desmond Tutu|accessdate=6 June 2008|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080518020115/http://www.helpkids.org.za/pages.php?id=26|archivedate=18 May 2008|df=dmy-all}}</ref>。
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[[File:Tutu meets Schweitzer (8).jpg|thumb|left|240px|ツツと娘のムポ・アンドレア、2012年[[オランダ]]で。]]
 
1975年、彼は[[ソウェト]]の名高い{{仮リンク|ヴィラカジ・ストリート|en|Vilakazi Street}}にある、現在{{仮リンク|ツツ・ハウス|en|Tutu House}}として知られる建物に移った。ヴィラカジ・ストリートには故[[ネルソン・マンデラ]]もかつて住んでいた<!--「この家の場所」を明確に--><ref name=plaque>{{cite web|title=Tutu House|url=http://www.blueplaques.co.za/content/tutu-house|publisher=blueplaques.co.za|accessdate=20 July 2013}}</ref>。この通りは、二人のノーベル賞受賞者が住んだ事がある世界でも数少ない通りであると言われている<ref name=street>{{cite news|title=Vilakazi Street under siege - by snakes|url=http://www.iol.co.za/the-star/vilakazi-street-under-siege-by-snakes-1.1456238|accessdate=22 July 2013|newspaper=Daily Star|date=22 January 2013}}</ref>。
 
1991年、ツツの息子トレヴァーは民間航空法<!--WeblioにCivil Aviation Act の訳例があった-->(the Civil Aviation Act)に違反したことで有罪となった。これは[[東ロンドン空港]]で[[南アフリカ国空]]機に爆弾が仕掛けられていると偽って主張したためである。彼は控訴中の保釈を認められたが出頭せず、最終的に1997年8月、[[ヨハネスブルク]]で捕らえられた。彼は1997年にデズモンド・ツツが共同設立者であり議長を務めていた{{仮リンク|真実和解委員会 (南アフリカ)|label=真実和解委員会|en|Truth and Reconciliation Commission (South Africa)}}の特赦を受け、このことで優遇処置疑惑によって厳しい批判を集めた<ref name=freed>{{cite web |title=Trevor Tutu freed from prison after being granted amnesty|url = http://www.doj.gov.za/trc/media/1997/9711/s971128s.htm |date=28 November 1997 |publisher=SAPA |accessdate=1 June 2008}}</ref><ref>{{cite web |title=South Africa: Amnesty From Truth Commission Evokes Harsh Criticism |url=http://allafrica.com/stories/199712080085.html| publisher=''All Africa''|date = 8 December 1997 |accessdate=7 January 2013}}</ref><ref name=Sarkin>{{cite book|last=Sarkin|first=Jeremy|title=Carrots and Sticks: The Trcc and the South African Amnesty Process|year=2004|publisher=Intersentia|location=Page 19|isbn=9050954006|page=441}}</ref><ref>{{cite web |title = Tutu's son in amnesty bid |url = http://www.dispatch.co.za/1997/09/27/page%209.htm |publisher = ''Dispatch'' |date = 27 September 1997 |accessdate = 1 June 2008 |deadurl = yes |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081021151852/http://www.dispatch.co.za/1997/09/27/page%209.htm |archivedate = 21 October 2008 |df = dmy-all }}</ref>。
1997年、ツツは[[前立腺がん]]であると診断され、アメリカで手術を受けて成功した。その後、2007年に設立された南アフリカ前立腺がん財団の後援者となった<ref>{{cite press release|url=http://www.prostatecancerfoundation.co.za/A_Aboutus_Media.asp|title=Taking the fight against prostate cancer to South Africans|date=3 March 2007|publisher=Prostate Cancer Foundation of South Africa|accessdate=23 April 2008|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080820042608/http://www.prostatecancerfoundation.co.za/A_Aboutus_Media.asp|archivedate=20 August 2008|df=dmy-all}}</ref>。
 
79歳の誕生日から、ツツは公的な生活から段階的に退き、一週間のうち一日だけオフィスに勤務するようになった。これは2011年2月まで続いた。2011年5月23日、彼は[[シュルーズベリー (マサチューセッツ州)|マサチューセッツ州のシュルーズベリー]]でスピーチを行い、南アフリカ外で主要な公式のスピーチを行うのはこれが最後だと見られていた<!--この日にgive speechも行った-->。彼は2011年5月までは公的活動の予定をすべて果たしたが、それ以降は予定を付け加えなかった<!--commitmentsが出典のengagementを言い換えたものだとすれば、このように訳せるし、前後の文脈には合っている。ただ、この文の「5月以降にcommitmentsを付け加えなかった」という記述が出典に見つからないので、この文を除去しても問題ないだろう。--><ref>[http://www.stjohnshigh.org/s/804/index.aspx?sid=804&gid=1&pgid=1256 St. John's High School - Desmond Tutu at Saint John's] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110722111858/http://www.stjohnshigh.org/s/804/index.aspx?sid=804&gid=1&pgid=1256 |date=22 July 2011 }}. Stjohnshigh.org (23 May 2011). Retrieved 8 September 2011.</ref>。
 
しかしながら、彼は引退した後の2012年5月13日、[[ワシントン州]][[スポケーン]]の[[ゴンザガ大学]]で卒業式のスピーチを行い、同年9月12日には[[インディアナポリス]]、{{仮リンク|バトラー大学|en|Butler University}}のデズモンド・ツツ・センターでも演説を行った<ref name="indycenter">{{cite web |url=http://spea.provocate.org/archives/11458 |title=Butler Offers Tutu Up as Living Relic, Rather Than Leader |last=Truax |first=Tabitha |publisher=Global Indy |date=12 September 2013|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
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アレンはツツの運動を通じて実行されたテーマは、「民主主義、人権と寛容は、敵対する者どうしの対話と和解によって実現する」ということであったと述べている{{sfn|Allen|2006|p=374}}。
人種的平等は彼の中核的原則の一つであり{{sfn|Gish|2004|p=xii}}、アパルトヘイト制度は断片的なやり方で改革されるのではなく、完全に破棄されなければならないと考えていた{{sfn|Gish|2004|p=76}}。彼は南アフリカとイギリスの双方で白人の人々との間に多くのポジティブな経験を持っていたため、白人少数派政府の下での経験にもかかわらず反白人派(anti-white)になることはなかった{{sfn|Gish|2004|p=129}}。彼は南アフリカの異なるコミュニティ間の人種的和解を促進し、ほとんどの黒人は基本的に白人と調和して生きることを望んでいると信じていた{{sfn|Gish|2004|p=80}} 。彼は常に非暴力行動主義に最大限の努力を払い{{sfn|Gish|2004|p=xii}}、演説においても慎重であり、例え政府の政策の結果そうなると警告する時でも、脅迫や暴力を承認することは一度もなかった{{sfn|Gish|2004|p=77}}。にもかかわらず彼は、自らを[[平和主義|平和主義者]]ではなく、「平和の人(man of peace)」と表現した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=77|2a1=Allen|2y=2006|2p=212}}。彼は例えば、[[ナチズム]]を止めるためには暴力が必要であったことを認めていた{{sfn|Gish|2004|p=77}}。南アフリカの状況では、彼は政府と反アパルトヘイト・グループの双方に対して暴力の使用を非難したが、南アフリカの白人が反アパルトヘイト・グループの暴力だけを糾弾する場合のようなダブルスタンダードに対しても非難した{{sfn|Gish|2004|p=77}}。アパルトヘイトを終わらせるため、彼は南アフリカに外国から経済的圧力をかけることを提唱した{{sfn|Gish|2004|p=77}}。この手法は南アフリカの貧しい黒人に更なる苦境をもたらすだけだろうと主張する批判者に対し、彼は黒人のコミュニティは既に重大な苦難の中にあり、将来の問題には少なくとも目的を持った方が良いと発言した{{sfn|Gish|2004|p=90}}。
ツツはスピーチの中で、白人の人々ではなくアパルトヘイトそれ自体が敵なのだと強調した{{sfn|Gish|2004|p=68}}。彼は国内の白人コミュニティとの間に親善を育むことに挑戦し、白人が黒人の要求に譲歩した時には、個々の白人に対して謝意を強調した{{sfn|Gish|2004|p=80}}。また、多くの白人の聴衆に対して、「勝利者の側(winning side)」と表現する自身の主張を支持するよう促した{{sfn|Gish|2004|p=81}}。公的な祈りの時には、常に政治家や警察のようなアパルトヘイト制度を掲げる人々に、その制度の犠牲者と同様に言及し、全ての人間が神の子であるという見解を強調した{{sfn|Gish|2004|p=74}}。彼は「我々の土地に害をなした人々も、鬼や悪魔ではない<!--sportは着るとか身に着けるということ。意訳するなら「鬼や悪魔ではない」とか-->。彼らは普通の人間であり、恐れているのだ。あなたが5倍以上の数の相手と対峙したならば、それを恐れないということがあるだろうか?」と述べた{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=91|2a1=Allen|2y=2006|2p=239}}。
ツツは南アフリカの国民党の思想におけるアパルトヘイトの精神(ethos)を[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の思想と比較し、アパルトヘイト政策を[[ホロコースト]]になぞらえた。そしてホロコーストが全人口を駆逐するのに迅速でより有効な手法であったとし、一方で、食料へのアクセスと衛生に欠けた土地に黒人系南アフリカ人を強制移住させるという国民党の政策は概ね同じ結果をもたらしたと書いている{{sfn|Allen|2006|p=212}}。彼の言葉の中では「アパルトヘイトはナチズムおよび共産主義と同じく悪である」{{sfn|Gish|2004|p=84}}。
 
1980年代、彼は西側の政治指導者たち、具体的には南アフリカ政府との関係を維持しようとするレーガン、サッチャー、そして西ドイツの[[ヘルムート・コール]]らを非難し、「人種差別的政策を支持する者はレイシストである」と規定した{{sfn|Allen|2006|p=257}}。ツツはかつてレーガンについて国民党政権に対する融和的なスタンスから<!--for his soft stanceはここにかかる-->「隠れレイシスト(crypto-racist)」であると考えていたが、「今は彼は単純で純粋なレイシストだと述べる」だろうとした{{sfn|Allen|2006|p=255}}。彼と妻は1960年代にイギリス首相[[アレック・ダグラス=ヒューム]]の連邦神学校での講義をボイコットした。ツツはこの行動の理由について、イギリスの[[保守党 (イギリス)|保守党]]は「私たちの心に触れる最も重要な問題に関して忌まわしい振る舞いをした。」<!--これでいいのでは-->と記している{{sfn|Allen|2006|p=105}}。晩年にはまた、多数のアフリカの指導者たちを非難した。例えばジンバブエの[[ロバート・ムガベ]]に対して「アフリカの独裁者の出来損ない」であり、「明らかに気が狂っている<!--原文の表現が、たとえばgone crazyという表現と比べてどんなニュアンスの違いがあるかは私も分かりませんが、意味的に大きく外していることはないでしょう-->」とした{{sfn|Allen|2006|p=377}}。
 
=== 国際的な諸問題について ===
 
==== アフリカ大陸の現状 ====
ツツは国内業務の傍らで、アフリカの他の地域での出来事にも注意を向け、1987年には[[トーゴ]]の[[ロメ]]で開催された{{仮リンク|全アフリカ教会会議|en|All Africa Conference of Churches}}(AACC)で基調講演を行った。それにおいて彼はアフリカ大陸の全域で抑圧されている人々を支えるために教会に呼びかけ、「アフリカの大部分で現在、自由(freedom)と個人の権利(liberty)が、邪悪な植民地時代よりも存在しないということを認めなければならないのは痛ましいことだ。」と述べた{{sfn|Allen|2006|pp=347-348}}。この会議で、彼はAACCの理事長(president)に選出され、[[ジョセ・ベロ]](José Belo)が事務総長(general-secretar)に選出された。「アフリカの再生(African renaissance)」を大陸全土に呼びかけたこの大会は、ツツとベロの10年間続くパートナーシップを形成した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=130|2a1=Allen|2y=2006|2p=375}}。1989年、彼らは[[ザイール]]の教会が、[[モブツ・セセ・セコ]]の独裁政府から距離を置くことを促すため、この国を訪問した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=130|2a1=Allen|2y=2006|2p=375}}。1994年、ツツとベロはAACCと{{仮リンク|カーター・センター|en|Carter Center}}の共同ミッションの中で、戦争で荒廃した[[リベリア]]を訪問した。この時彼らは[[チャールズ・テーラー]]に面会したが、ツツは彼の停戦の約束を信用することはできなかった{{sfn|Allen|2006|pp=376-377}}。1995年、マンデラはツツを[[ナイジェリア]]に派遣し、投獄された政治家{{仮リンク|モシュード・アビオラ|en|Moshood Abiola}}と[[オルシェグン・オバサンジョ]]の解放を求めるため、ナイジェリアの軍指導者[[サニ・アバチャ]]に面会させた{{sfn|Allen|2006|p=377}}。[[ルワンダ虐殺]]の翌年である1995年7月、ツツは[[ルワンダ]]を訪問し、彼は[[キガリ]]の10,000人の人々に説教を行い、南アフリカでの彼の経験を描写して、虐殺を行った[[フツ人]]に対して、彼らの正義よりも慈悲を優先するよう求めた<!--文法的にいうと、求められているのはto temper justice with mercyということ。直訳で「慈悲によって正義を和らげる」となる。フツを不正義だと非難しているのではなく、フツの主観的な正義をストレートに否定することを避けた表現だと思われる。訳し方は難しい-->{{sfn|Allen|2006|pp=377-378}}。ツツはまた、世界の他の地域へも旅をした。例えば1999年には[[パナマ]]と[[ニカラグア]]で過ごした{{sfn|Gish|2004|p=130}}。
 
==== パレスチナ紛争とホロコースト ====
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}}<!-- 参考文献より孫引き -->
 
ツツはまた、[[パレスチナ紛争]]について意見を述べた。1989年にニューヨークで、彼は[[イスラエル]]国家を建設した神をたたえ、「領土の保全と、その存在を否定する人々からの攻撃に対する基本的な防衛」の権利があることを主張した{{sfnm|1a1=Gish|1y=2004|1p=129|2a1=Allen|2y=2006|2p=383}}。彼はカイロで、[[パレスチナ解放機構]]の指導者[[ヤセル・アラファト]]を訪問し、彼にイスラエルの存在を認めるよう促した{{sfn|Allen|2006|p=385}}。同時に彼はイスラエルがアパルトヘイト時代の南アフリカに武器を供給したことに怒りを表明し、ユダヤ人国家が如何にしてナチス同調者が多数いる政府と共同することができたのか、と困惑を表明した{{sfn|Allen|2006|pp=382-383, 384}}。[[ガザ]]と[[ヨルダン川西岸地区]]の{{仮リンク|イスラエル占領地|en|Israeli-occupied territories}}に言及し、それが南アフリカのアパルトヘイトの状況の「深く、深く、悲惨な」相似であると述べた{{sfn|Allen|2006|p=384}} 。彼は明確なパレスチナ人国家の形成を呼びかけ{{sfn|Allen|2006|p=382}}、自身の批判の重点はより広い意味でのユダヤ人グループではなく、イスラエル政府に向けたものだと強調した{{sfn|Allen|2006|p=388}}。パレスチナ人の主教{{仮リンク|サミル・カフィティ|en|Samil Kafity}}の招待を受け、ツツは[[エルサレム]]に[[クリスマス]]巡礼をすることを引き受け、[[ベツレヘム]]近郊の[[シェパーズ・フィールド]](Shepherd's Field)<!--英語読みならシェパーズ・フィールドでは?←同スペルの地名の用例でその通りでした。-->で説教を行い、{{仮リンク|2国家共存解決|en|Two-state solution}}を呼びかけた{{sfn|Allen|2006|pp=384, 386}}。その旅程で、彼はまた[[ヤド・ヴァシェム]]のホロコースト記念館を訪問して献花し、ジャーナリストに許しの重要性について語った{{sfn|Allen|2006|pp=386-387}}。ツツがホロコーストを行った人々への赦しを呼びかけたことは、彼がパレスチナ国家を支援していることと相まって世界中の多くのユダヤ人グループから非難された{{sfn|Allen|2006|p=387}}。このことは、「私の歯科医はコーエン博士だ」などの発言などを通じて、[[反ユダヤ主義]]の疑いを免れようとしたことで更に悪化した{{sfn|Allen|2006|p=385}}。
 
[[File:Desmond tutu wef.jpg|thumb|right|2009年の[[世界経済フォーラム]]でのツツ]]
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彼は自身のような宗教指導者たちは政党の外側にとどまるべきであると感じており、ジンバブエの{{仮リンク|アベル・ムゾレワ|en|Abel Muzorewa}}、キプロスの[[マカリオス3世]]、そしてイランの[[ルーホッラー・ホメイニー]]を例として挙げ、このような政治と宗教の交叉が問題となっていることを例示している{{sfn|Allen|2006|p=206}}。彼は特定の政党と連合することを避けようと試みた。例えば1980年代にはアメリカの反アパルトヘイト活動家たちにANCと{{仮リンク|アザニア・パンアフリカニスト会議|label=パンアフリカニスト会議|en|Pan Africanist Congress of Azania}}の両方を支援するよう促す嘆願書に署名した{{sfn|Allen|2006|pp=206-207}}。1980年代の後半に、政治的役職を得るべきだとする提案があった時、彼はその考えを拒否した{{sfn|Gish|2004|p=125}}。
 
ツツは自身を[[社会主義|社会主義者]]であると説明し、1986年にはこれに関連して「私のこれまでの経験が示唆するところでは、資本主義は人間の最悪の特徴のいくつかを駆り立てるようだ<!--I’m afraidは自分の主張を断言することを避けるときに使う言葉-->。食うか食われるか。資本主義は適者生存によって規定されている。私には受け入れがたい。<!--buyは賛成するという意味-->それは資本主義の醜い一面に過ぎないかもしれないが、しかし私は他の面を見たことがない。」と述べている<ref>{{cite article |title=Desmond Tutu |author=Earley, Pete |url=https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/magazine/1986/02/16/desmond-tutu/3fc3da7f-4926-44cf-896a-5d1bf7f00206/ |website=The Washington Post |date=16 February 1986 |accessdate=13 October 2017}}</ref>。また彼は1980年代に「アパルトヘイトは自由企業制の評価を損なった」と発言したと伝えられた{{sfn|Allen|2006|p=248}}。ツツはしばしば、「アフリカ共産主義(African communism)」は矛盾である、何故なら(彼の見解では)アフリカ人は本質的に宗教的(spiritual)であり、マルキシズムの無神論と相いれないからだ、という[[格言|アフォリズム]]を用いた<!--because以下も含めてaphorism-->{{sfn|Allen|2006|p=66}}。彼は[[ソヴィエト連邦]]と[[東側諸国]]のマルキスト政権を非難し、彼らの人々への取り扱い方を南アフリカの国民党のそれと対比した{{sfn|Allen|2006|p=212}}。1985年に彼は共産主義を「全身全霊をもって(with every fiber of my being)」嫌悪していると述べたが、南アフリカの黒人がそれを同盟者にした理由を「あなたが地下牢<!--ダンジョンの本義-->にいる時、解放の手が差し伸べられたならば、あなたがその手の持ち主の出自を問うことはない」として説明しようとした{{sfn|Gish|2004|p=107}}。
 
==== ウブントゥ ====
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[[File:Desmond Tutu - Kirchentag Cologne 2007 (7137).jpg|thumb|right|ツツ、2007年、ケルンにて。]]
 
ツツは聖公会(Anglicanism)に惹きつけられていた。なぜならば、それに寛容と包括性を見出し、聖書と伝統に寄り添いつつ理性に訴えかけていると見たためである。また、それを構成する諸教会は、いかなる中央集権的な権力からも自由であった{{sfn|Allen|2006|p=373}}。ツツの聖公会へのアプローチは、実際のところ{{仮リンク|アングロ・カトリシズム|en|Anglo-Catholicism}}として特徴づけられる{{sfn|Allen|2006|pp=239-240}}。彼は内部の小競り合いが絶えない[[アングリカン・コミュニオン]]を家族と見做した<!--想像ですが、つまらない感情的いざこざが多いところも含めて家族っぽいと感じたのでは-->{{sfn|Allen|2006|p=135}}。
 
1970年代、ツツは黒人神学(black theology)とアフリカ神学(African theology)双方の提唱者となり、この二つのキリスト教思想の学派を融合させる方法を探求した.{{sfn|Allen|2006|pp=136, 137}}。彼は、特定の神学の一派(any particular variant of theology)が普遍的有効性を持つという考え方を拒否し、神学はそれらが存在する社会文化的条件の「文脈」に関係性を保持しなければならないとした{{sfn|Allen|2006|p=135}}。
 
ツツは西洋の神学がアフリカ人が問うていない問題についての答えを探しているという見解を表明した{{sfn|Allen|2006|pp=135-136}}。ツツにとっては、アフリカのキリスト教によって二つの大きな疑問が提示されていた。それは外来のキリスト教の信仰表現を真のアフリカ人の方法に置き換える方法についてと、人々を隷属から解放する方法についてであった{{sfn|Allen|2006|p=136}}。彼は同時代のアフリカ人が持つ神についての理解と、旧約聖書における神の特徴<!--結局、元の表現と同じようなことを言っているだけのような気がしてきました。-->とについて、多くの類似点があると信じていた<!--「比較しなければ」というほど強い表現ではなく、「比較できる点があった、比較の余地があった」という意味だと思われます。それは噛み砕いて言うと「類似点が多かった」ということではないでしょうか。-->{{sfn|Allen|2006|p=137}}。
 
真実和解委員会の議長を務めていた時、ツツは明らかにキリスト教のモデルによる和解を提唱した。その一環として、彼は南アフリカ人が、彼ら自身の行動が引き起こした結果を受け入れ、そのダメージに正面から対峙しなければならないと信じていた{{sfn|Allen|2006|p=342}}。その一部として、彼はアパルトヘイトの加害者と受益者は自身の行為を認めなければならないが、アパルトヘイト制度の被害者は広い心で応じなければならないと信じており、赦すことが「福音の指示(gospel imperative)」であると述べた。
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ギッシュはアパルトヘイトが崩壊する時までに、ツツはその「正義と和解に対する不屈の姿勢と、比類なき清廉さ」によって「世界規模の尊敬」を得ていたと記している{{sfn|Gish|2004|p=148}}。アレンによれば、ツツは「反アパルトヘイトの闘争を海外に知らしめるために、強力かつユニークな貢献をした」。これは特にアメリカ合衆国において顕著であった{{sfn|Allen|2006|p=233}}。合衆国では、彼は南アフリカの有力な反アパルトヘイト活動家として浮かび上がることができた。なぜならば、(マンデラやANCの他のメンバーと異なり)、ツツは南アフリカ共産党と関係を持っておらず、従って冷戦期の時代のアメリカの反共感情の中でも受け入れられやすかったためである{{sfn|Allen|2006|p=253}}。アレンによれば、アパルトヘイトの終焉後、ツツは「恐らくは、ゲイとレズビアンの権利を説く世界で最も重要な宗教指導者」となった{{sfn|Allen|2006|p=372}}。最終的にアレンは、恐らくツツの「最も偉大な遺産」は彼が「21世紀に入った世界へ、人間社会の本質を表現するための一つのアフリカモデル」を提供したことであると考えている{{sfn|Allen|2006|p=396}}。
 
1970年代と1980年代の間にツツへの注目が高まる中、それに対する反応は「極端な二極化(sharply polarized)」であった{{sfn|Allen|2006|p=201}}。彼は黒人ジャーナリストたちから多くの賞賛を受け、投獄された反アパルトヘイト活動家を激励し、後に多くの黒人の親たちが子供に彼の名前を付けることになった{{sfn|Allen|2006|p=201}}。1984年までに(ギッシュによれば)ツツは「南アフリカの自由への闘争を体現」していた{{sfn|Gish|2004|p=103}}。これとは逆に、南アフリカの白人少数派からツツが受けた反応はより様々であった。ツツを非難した人々の大部分はアパルトヘイトと白人少数派の支配からの変化を望まない保守派の白人であった{{sfn|Gish|2004|p=78}}。ツツを非難した白人の多くは、ツツが南アフリカに対する経済制裁を呼びかけており、人種間の暴力が迫っていると警告を発していたことに対して憤慨していた{{sfn|Gish|2004|p=98}}。この敵意はツツへの不信とイメージをゆがめる政府のキャンペーンによって増幅された{{sfn|Gish|2004|p=97}}。アレンは、1984年にツツは「白人の南アフリカ人にとって、黒人指導者の中でも特に目の上のたんこぶと言うべき存在<!--嫌いながらも無視できない大きな存在、というような意味だと思うのですが、もっといい訳し方はあると思います←古臭い言い回しですが「嫌いながらも無視できない大きな存在」を日本語で言うフレーズだとこうなるかなと思い変更してみました。-->」であり、この反感は極右の政府を超えてリベラルの間にも広がっていたと記している{{sfn|Allen|2006|p=202}}。
 
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ツツはまた、反アパルトヘイトと、黒人の南アフリカ人コミュニティからも非難を受けた。多くの黒人反アパルトヘイト活動家は彼が穏健に過ぎ、特に白人との親善関係の構築に重点を置きすぎているとみなしていた{{sfn|Gish|2004|p=79}}。ギッシュによれば、ツツは「全ての穏健派にとっての永遠のジレンマに直面していた。彼はしばしば一緒にさせようとした二つの敵対的な陣営の双方から疑惑の目で見られた{{sfn|Gish|2004|p=79}}。例えばアフリカ系アメリカ人の市民権運動家、バーニス・パウエル(Bernice Powell)はツツが「白人に甘すぎる」と不満を述べ{{sfn|Allen|2006|p=242}}、ズールー族の指導者{{仮リンク|マンゴスツ・ブテレジ|en|Mangosuthu Buthelezi}}は個人的に、ツツの性格には「根本的に間違っていること」があると主張した{{sfn|Allen|2006|p=265}}。ツツのマルクス主義的共産主義と[[東側諸国]]の諸政府に対する批判的視点、そして、これらの政権とナチズムやアパルトヘイトのような極右イデオロギーとを並べて評したこと<!--「対比」は相違点を際立たせることですが、ここでcomparisonはむしろ類似点を言っている-->は{{仮リンク|南アフリカ共産党|en|South African Communist Party}}から1985年に批判を受けた{{sfn|Allen|2006|p=214}}。
 
=== 受賞 ===