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== 略歴 ==
1261年(文応2年)[[日蓮]]を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に[[押込]]となる。1274年(文永11年)[[佐渡国|佐渡]]に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。但し1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもとこれは伝承で幕府[[池上本門寺]]公文書である赦免状基礎流罪者築いた。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]弟子に託すことはあ妻よえず誤伝であ土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立す可能性が高い{{Sfn |『日蓮大聖人正伝 改訂版』1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)| 2012 | p=256 }} 法性寺]]に葬られた。
また、日蓮滅後に日蓮の遺言として「佛は釈迦立像 墓所の傍らに立て置くべし云々」{{Sfn |『宗祖御遷化記録』御所持佛教の事(国指定重要文化財) | 弘安5年(1282年)10月16日 | 西山本門寺蔵 }}と定められ、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、遺言に背き勝手に持ち去っている。1282年(弘安5年)[[池上宗仲]]の協力のもと、[[池上本門寺]]の基礎を築いた。1309年(延慶2年)[[千葉胤貞]]の妻より、土地の寄進を受け、[[本土寺]]を建立する。1320年(元応2年)[[安国論寺]]にて荼毘に付され、[[法性寺 (逗子市)|法性寺]]に葬られた。
 
== 日朗ゆかりの寺 ==