「ワイルズによるフェルマーの最終定理の証明」の版間の差分

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[[File:Andrew wiles1-3.jpg|thumb|[[アンドリュー・ワイルズ]]]]
'''ワイルズによるフェルマーの最終定理の証明'''(ワイルズによるフェルマーのさいしゅうていりのしょうめい)は、イギリスの数学者[[アンドリュー・ワイルズ]]による[[楕円曲線]]に関する[[モジュラリティ定理]]の特殊な場合の数学的証明である。{{仮リンク|リベットの定理|en|Ribet's Theorem}}と組み合わせることで[[フェルマーの最終定理]]の証明を与える。フェルマーの最終定理とモジュラリティ定理は双方ともに当時の知識だけで証明することは現実的にほぼ不可能だと考えられており、同時代の数学者の多くは証明することは難しいと考えていた。
 
ワイルズは1993年6月23日水曜日、「モジュラー形式、楕円曲線およびガロワ表現(Modular Forms, Elliptic Curves and Galois Representations.)<ref name=nyt>{{cite news|last=Kolata|first=Gina|title=At Last, Shout of 'Eureka!' In Age-Old Math Mystery|url=https://www.nytimes.com/1993/06/24/us/at-last-shout-of-eureka-in-age-old-math-mystery.html|accessdate=21 January 2013|newspaper=The New York Times|date=24 June 1993}}</ref>」と題された[[ケンブリッジ大学]]の彼の講演にて最初に証明を発表した。しかし、1993年9月、この証明は誤りが含まれていることが判明した。1年後、1994年9月19日月曜日、ワイルズが 「(自身の)今までの職務においてもっとも重要な瞬間("the most important moment of [his] working life")」と呼ぶアイデアを得た。彼はこれに関して「言い表し難信じられないほど美しく…とてもシンプルでかつエレガント("so indescribably beautiful... so simple and so elegant")」なアイデアと語っており、これによって証明を数学者のコミュニティが受容する水準にまで正すことができた。この正しい証明は1995年に発表された<ref name="abelcitation">{{Cite web|url=http://www.abelprize.no/c67107/binfil/download.php?tid=67059|title=The Abel Prize 2016|last=|first=|date=2016|website=Norwegian Academy of Science and Letters|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref>。
 
ワイルズの証明は[[代数幾何学]]・[[数論]]のテクニックを多数使用しており、これらの数学分野の派生を多く含んでいる。また、彼の証明は[[概型|スキーム]]の[[圏 (数学)|圏]]や[[岩澤理論]]などのフェルマーが知りえなかった20世紀以降のテクニックを含む現代代数幾何学の一般的な構成を使用している。
 
証明を含む2本の論文は129ページの長さであり<ref name="wiles1995">{{cite journal|last=Wiles|first=Andrew|authorlink=Andrew Wiles|year=1995|title=Modular elliptic curves and Fermat's Last Theorem|url=http://math.stanford.edu/~lekheng/flt/wiles.pdf|journal=Annals of Mathematics|volume=141|issue=3|pages=443–551|oclc=37032255|format=PDF|doi=10.2307/2118559|jstor=2118559|publisher=Annals of Mathematics}}</ref><ref name="taylor1995">{{cite journal|author=[[Richard Taylor (mathematician)|Taylor R]], [[Andrew Wiles|Wiles A]] |year=1995 |journal=Annals of Mathematics |title=Ring theoretic properties of certain Hecke algebras |volume=141 |issue=3 |pages=553–572 |oclc=37032255 |url=http://www.math.harvard.edu/~rtaylor/hecke.ps |doi=10.2307/2118560 |jstor=2118560 |publisher=Annals of Mathematics |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20011127181043/http://www.math.harvard.edu/~rtaylor/hecke.ps |archivedate=27 November 2001 }}</ref>、証明を構成するのにワイルズは7年を費やした。[[ジョン・コーツ]]はワイルズの証明を数論の最高の成果の1つであると述べ、[[ジョン・ホートン・コンウェイ]]はワイルズの証明は20世紀を代表する証明だと述べた<ref name=":1">{{cite web|url=https://www.pbs.org/wgbh/nova/transcripts/2414proof.html|title=NOVA - Transcripts - The Proof - PBS|last=|first=|date=September 2006|website=PBS|publisher=|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref>。ワイルズのフェルマーの最終定理証明への戦略は、{{仮リンク|半安定楕円曲線|en|semistable elliptic curve}}の特殊な場合に関するモジュラリティ定理を証明をすることであり、強力なモジュラリティの{{仮リンク|リフト (数学)|en|lift (mathematics)|label=リフト}}というテクニックを確立し、他の数々の問題に対しても全く新しいアプローチの道を開いた。フェルマーの最終定理の解決に対して、ワイルズは[[ナイト]]の称号を与えられたほか、2016年の[[アーベル賞]]等の名誉が与えられた。ワイルズがアーベル賞を受賞することが発表されたとき、[[:en:Norwegian Academy of Science and Letters]]はワイルズの業績を「素晴らしい証明("Stunning proof")」と表現した<ref name="abelcitation" />。
 
==ワイルズの証明以前の進展==
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当時フェルマーの最終定理とは関連しないと考えられていた議論にて、1950-60年代の日本の数学者である[[志村五郎]]が同じく日本の[[谷山豊]]から着想を得て、当時研究されていた最先端の数学的概念である[[楕円曲線]]と[[モジュラー形式]]が(両者は全く異なる概念であると考えられていたにも関わらず)互いにつながりを持っている可能性があるという予想を唱えた。
 
谷山と志村が提出したこの予想はこれら2つの数学的概念が実際は数学的に同じものであり、見方が異なるだけであるというものであった。谷山と志村の予想は「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーであろう」ということを述べており、後に谷山・志村予想として知られるようになった。西洋においてはこの予想が[[アンドレ・ヴェイユ]]の1967年の論文によって広く知られるようになったため、しばしば谷山・志村・ヴェイユ予想と呼ばれている。
 
1980年頃までには楕円曲線の予想を構成するための多くのエビデンスが積み上げられていた。これらの予想は広く真であると考えられていたが何らかの確たる証拠があったわけではなく、(これらの予想が真ならば)理論的に素晴らしく首尾一貫したものであり、なおかつ魅力的な数学的概念を提示するがために広く真であると信じられていた。予想のうちいくつかは間違っている可能性もあった。
 
当時、谷山・志村予想には証明が存在せず、証明に至るアプローチを見つけることすら絶望視されていた。このような背景もあり、証明あるいはそれに至るアプローチの発見すら絶望視されたまま谷山・志村予想は数学上の重要な未解決問題のままとして数十年残り続けた。
 
谷山・志村によってはじめて予想が発表されてからおよそ50年後、ワイルズの研究の成果により状況が大きく進展してようやく証明され、この予想は現在[[モジュラリティ定理]]として知られている。
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しかしながら、このようなセールとリベットによる研究の進展とは裏腹に、上記で述べられたフェルマーの最終定理へのアプローチは広く現実的には適用不可だと考えられていた。これは谷山・志村予想が当時知られていた知識だけでは全く証明できそうにないと見られていたためである<ref name="Singh" />{{rp|203–205, 223, 226}}。例えば、ワイルズのかつての指導者である[[ジョン・コーツ]]は「(谷山・志村予想は)全く証明できそうにない」<ref name="Singh">Fermat's Last Theorem, Simon Singh, 1997, {{isbn|1-85702-521-0}}</ref>{{rp|226}}と述べたし、ケン・リベットは「(自分自身も)証明ができないだろうと考えていた大勢のうちの1人」であるとしていた<ref name="Singh" />{{rp|223}}。
 
==アンドリュー・ワイルズ==
リベットの1986年のイプシロン予想の証明を聞き、フェルマーの最終定理に子供のころから魅了されていた、楕円曲線を研究していたイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズは、谷山・志村予想の証明を秘密裏に進めることを決めた。これはワイルズの専門分野と(フェルマーの最終定理に)関わりがあることが判明した<ref name=":2">{{Cite web|url=https://www.pbs.org/wgbh/nova/physics/andrew-wiles-fermat.html|title=Andrew Wiles on Solving Fermat|last=|first=|date=1 November 2000|website=PBS|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref>ためでもあるし、長年未解決だった問題を証明することが彼にとって魅力的だったためでもある。
 
リベットは後に「ワイルズはおそらくこの地球上で(あの難問に)実際に挑戦して証明できるだなんて夢見るような向こう見ずさを持つ数少ない者のひとりだった」と述べている<ref name="Singh" />{{rp|223}}。
 
==証明の発表とその後の発展==
ワイルズは証明を1993年に初めて発表した。これは元々の論文の一箇所に見られた間違いを訂正し、1995年に最終的に正しいものとして受け入れられた。ワイルズの仕事は正しいとされてから、その後の6年で他の数学者によって[[モジュラリティ定理]]の完全な証明にまで拡張された。
 
===証明の発表と最終的な証明 (1993–1995)===
1993年の6月21日-23日の間で、ワイルズは半安定楕円曲線に関する[[谷山・志村予想]]の証明、すなわち[[フェルマーの最終定理]]の証明を発表した。この発表は[[イギリス]]、[[ケンブリッジ]]の{{仮リンク|アイザック・ニュートン数学研究所|en|Isaac Newton Institute for Mathematical Sciences}}で3つの講義に渡って行われた<ref name=nyt/>。講義の後には比較的大きな規模の記者会見が行われた<ref name="AMS-review">{{Cite journal|last=Buzzard|first=Kevin|date=22 February 1999|title=Review of ''Modular forms and Fermat's Last Theorem,'' by G. Cornell, J. H. Silverman, and G. Stevens|url=http://www.ams.org/journals/bull/1999-36-02/S0273-0979-99-00778-8/S0273-0979-99-00778-8.pdf|journal=Bulletin of the American Mathematical Society|volume=36|issue=2|pages=261&ndash;266|doi=10.1090/S0273-0979-99-00778-8|via=}}</ref>。
 
証明の発表の後、{{仮リンク|ニック・カッツ|en|Nick Katz}}がワイルズの論文の[[査読]]を行うレフェリーの一人として指名された。カッツはレビューにおいて、ワイルズに証明に関する様々な質問をしたが、そのうちにワイルズ自身も認めるギャップが証明に含まれることがわかった。証明の重要な箇所(ある種の群の位数に上限を与える部分)の誤りであり、コリヴァキアン=フラッハ法を拡張するのに使用した{{仮リンク|オイラー系|en|Euler system}}が不完全だったというものだった。
 
ただし、この誤りによってワイルズの仕事が全く役に立たないものになったわけではなかった。ワイルズの証明のそれぞれの部分は単体でも意義深く革新的なものであり、証明の過程で多くの発展や新たなテクニックが見出されていたためである。この誤りに影響されたのは一箇所のみであった<ref name="Singh">Fermat's Last Theorem, Simon Singh, 1997, {{isbn|1-85702-521-0}}</ref>{{rp|289, 296–297}}。しかしながら、この一箇所が(誤りによって)証明されないのであれば、フェルマーの最終定理の証明も成されない。
 
ワイルズはギャップを取り除くのにほとんど1年を費やした。当初は自身で訂正を試みたが、のちにかつての指導学生の[[リチャード・テイラー]]と共同で訂正を試みた。しかし、ギャップを取り除くことはできなかった<ref name="sept1994">Singh, pp. 269–277.</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/1994/06/28/science/a-year-later-snag-persists-in-math-proof.html|title=A Year Later, Snag Persists In Math Proof|last=Kolata|first=Gina|date=1994-06-28|work=The New York Times|access-date=2017-06-29|language=en-US|issn=0362-4331}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/1994/07/03/weekinreview/june-26-july-2-a-year-later-fermat-s-puzzle-is-still-not-quite-qed.html|title=June 26-July 2; A Year Later Fermat's Puzzle Is Still Not Quite Q.E.D.|last=Kolata|first=Gina|date=1994-07-03|work=The New York Times|access-date=2017-06-29|language=en-US|issn=0362-4331}}</ref>。1993年の終わりまでに、厳しい視線が注がれるなかでワイルズの証明が失敗したという噂が広がったが、どの程度深刻なのかに関しては知られていなかった。数学者はワイルズに彼の仕事が完全なのかそうでないのかに関わらず彼の証明を公開させるようにプレッシャーをかけ始めた。そうすることでより広い数学者のコミュニティがワイルズの仕事を精査し、利用することができるからである。しかし、誤りが訂正されるどころか、当初はそれほど深刻でないように思われたギャップは実は非常に重要で、取り除くのは容易でないように思われた<ref>Singh, pp. 175-185.</ref>。
 
ワイルズによれば、1994年9月19日の朝、彼はほとんど誤りの訂正を諦める寸前で、証明に失敗したことを認める瀬戸際におり、他の数学者が証明を発展させ、誤りを探すことができるように証明の詳細を発表しようとしていた。彼は証明がなぜ不完全だったのかを理解するための最後の確認をしていたが、不意に、コリヴァキアン=フラッハ法の適用の際に問題となっている部分そのものが(コリヴァキアン=フラッハ法のアプローチから得た経験を援用することで)[[岩沢理論]]の適用を可能にすることに気がついた。それぞれのアプローチは単体では不適切だが、両者のアプローチを組み合わせ、双方のアプローチのツールを使用することでギャップを取り除き、すべての場合に有効な[[類数公式]](Class Number Formula, CNF)を与えた。これは参照元の論文で証明されていなかったものだった<ref name="sept1994" /><ref>Aczel, pp. 132–134.</ref><ref name="sept1994" />。
 
:"私はデスクに座ってコリヴァキアン=フラッハ法の確認をしていました。これは私が誤りを訂正できると考えていたからではなく、少なくともなぜこのアプローチが失敗したのか、その理由を説明できるようにしておきたいと考えたからです。すると、突然すばらしいひらめきが頭に浮かびました。コリヴァキアン=フラッハ法のアプローチは駄目でしたが、そうなっている理由がまさに3年前の岩沢理論のアプローチを適用するのに必要なものだったのです。コリヴァキアン=フラッハ法のアプローチの灰から問題に対する真の解答が得られたようでした。それは信じられないほど美しく、シンプルでエレガントでした。なぜそんなことを私が見逃していたのかわかりませんが、その箇所を半信半疑で20分見つめました。それからその日は一日中、部の周りを歩き回り、そしてデスクに戻ってその箇所がまだそこにあることを確認するということを繰り返しました。それはそこにありました。私は気持ちを抑えることができませんでした。とても興奮していました。私の職務のうちで、最も重要な瞬間でした。今後、あれほどのことが起こることはないでしょう。"
::— アンドリュー・ワイルズ。サイモン・シンによる引用。<ref>Singh p.186-187 (text condensed).</ref>
 
1994年10月6日に、ワイルズは3人の同僚([[ゲルト・ファルティングス]]を含む)に彼の新しい証明を査読するように頼んだ<ref name="mactutor">{{Cite web|url=http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/HistTopics/Fermat%27s_last_theorem.html|title=Fermat's last theorem|last=|first=|date=February 1996|website=MacTutor History of Mathematics|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.mcs.csueastbay.edu/~malek/Mathlinks/Lasttheorem.html|title=Fermat's Last Theorem|last=Malek|first=Massoud|date=6 January 1996|website=|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref>。1994年10月24日にワイルズは2つの論文を投稿した。「モジュラー形式、楕円曲線およびガロワ表現(Modular Forms, Elliptic Curves and Galois Representations.)」<ref name="wiles1995"></ref>と「ある種のヘッケ環の環論的性質(Ring theoretic properties of certain Hecke algebras)」<ref name="taylor1995"></ref>である。このうち後者の論文がワイルズがテイラーと共著したものであり、主論文で訂正が必要だった箇所を直し、必要な条件が満たされていることを証明したものである。
 
この2つの論文は精査され、最終的に1995年5月に''[[Annals of Mathematics]]''で発表された。この新しい証明は広く検査され、主な部分に関して正しいものであると受け入れらた<ref name=":1" /><ref name=":0" /><ref name=":2" />。これらの論文は半安定楕円曲線に関するモジュラリティ定理を確立するものであり、遂にフェルマーの最終定理を証明するものであった。これは予想が提出されてから358年後のことであった。
 
===その後の発展===
フェルマーは「(フェルマーの最終定理に対して)真に驚くべき証明を見つけたが、それを書くにはこの余白は小さすぎる」<ref>{{cite book |title=Modular Forms and Fermat's Last Theorem |edition=illustrated |first1=Gary |last1=Cornell |first2=Joseph H. |last2=Silverman |first3=Glenn |last3=Stevens |publisher=Springer Science & Business Media |year=2013 |isbn=978-1-4612-1974-3 |page=549 |url=https://books.google.com/books?id=jD3TBwAAQBAJ}} [https://books.google.com/books?id=jD3TBwAAQBAJ&pg=PA549 Extract of page 549]</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.csmonitor.com/Science/2011/0817/Why-Pierre-de-Fermat-is-the-patron-saint-of-unfinished-business|title=Why Pierre de Fermat is the patron saint of unfinished business|last=O'Carroll|first=Eoin|date=2011-08-17|work=The Christian Science Monitor|access-date=2017-06-29|issn=0882-7729}}</ref>と述べた。 しかし、ワイルズの証明は非常に複雑なものであり、他の数学者の多くの仕事を援用したものであったため、1999年当時ワイルズの証明の全容を詳細まで理解しているのはほんの数人の数学者だけであると示唆されていた<ref name=nyt/><ref>{{Cite web|url=http://math.albany.edu/g/Math/topics/fermat/granville.hist|title=History of Fermat's Last Theorem|last=Granville|first=Andrew|date=|website=|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=29 June 2017}}</ref>。ワイルズの証明の複雑さは知られていたので、例えばその理解のために10日間に渡るカンファレンスが[[ボストン大学]]で開かれた。このカンファレンスの議事録をもとに出版された本は、証明を理解するために必要な前提となる全範囲のトピックを数論の大学院生を対象に説明することを目的としている<ref name="CornellBook"/>。
 
上記で記されたように、ワイルズは谷山・志村予想を半安定楕円曲線の特別な場合に関してのみ証明したので、すべての楕円曲線に関して証明されたわけではなかった。しかし、ワイルズの証明から数年して、{{仮リンク|クリストフ・ブロイル|en|Christophe Breuil}}、{{仮リンク|ブライアン・コンラッド|en|Brian Conrad}}、{{仮リンク|フレッド・ダイアモンド|en|Fred Diamond}}、[[リチャード・テイラー (数学者)|リチャード・テイラー]](しばしば「BCDT」と略される)の四人がワイルズの仕事を発展させ、最終的に2001年の論文で谷山・志村予想をすべての楕円曲線に関して証明した<ref>{{Cite journal|last=Breuil|first=Christophe|last2=Conrad|first2=Brian|last3=Diamond|first3=Fred|last4=Taylor|first4=Richard|date=2001|title=On the modularity of elliptic curves over 𝐐: Wild 3-adic exercises|journal=Journal of the American Mathematical Society|volume=14|issue=4|pages=843–939|doi=10.1090/S0894-0347-01-00370-8|issn=0894-0347}}</ref>。証明されたあとは、谷山・志村予想はモジュラリティ定理として知られている。
 
2005年にオランダの[[計算機科学者]][[:en:Jan Bergstra|Jan Bergstra]]はワイルズの証明をコンピューターで真偽の判定をできるような形にする場合の問題点を発表した<ref name=":3">{{Cite web|url=http://www.cs.rug.nl/~wim/fermat/wilesEnglish.html|title=Computer verification of Wiles' proof of Fermat's Last Theorem|last=Hesselink|first=Wim H.|date=3 April 2008|website=www.cs.rug.nl|archive-url=|archive-date=|dead-url=|access-date=2017-06-29}}</ref>。
 
==脚注==