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|独自研究 = 2013年5月
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[[画像:Chunqiu map-zh-classical.png|thumb|300px|春秋時代の諸国|代替文=]]
'''春秋時代'''(しゅんじゅうじだい)({{Lang-zh|春秋時期}}{{ピン音|Chūnqiū shíqī}})は、[[古代中国]]の時代区分の一つ。[[紀元前770年]]、における[[周王朝]]の後半期に位置する時代であり、[[幽王 ()|幽王]]が[[犬戎]]東西殺され分裂した紀元前770年から、現在の[[洛陽|洛邑山西省]](成周)へ都一帯移し占めから、いた大国「[[晋 (春秋)|晋]]が三国([[韓 (戦国)|韓]]、[[魏 (戦国)|魏]]、[[趙 (戦国)|趙]])に分裂した[[紀元前4035世紀までの、およそ320に渡る期間を指す。この春秋時代の呼称は、周代に成立した[[経書|儒家経典]]までの一つである歴史書「[[春秋]]」から取られている。
 
紀元前771年に発生した反乱から周王朝は[[平王 (周)|東周]]([[洛邑]])と[[携王 (周)|西周]]([[鎬京]])に分裂し、その二十年後に[[平王 (周)|東周]]が[[携王 (周)|西周]]を下して王権を一本化するも往年の勢力はほぼ失われていた。周王朝の下での秩序が喪失した事で、中国全土に割拠する大小合わせて二百以上の諸侯は独立状態となり、自国の存続と他国の克服を目指して互いに争うようになった。なお、周王の権威は依然重視されていたので、周王の名代として諸国を束ねる「[[覇者]]」の座に就く事が諸侯たちの目標となった。
春秋の名称は、[[四書五経]]の一つ『[[春秋]]』に記述された時代、という意味を持つ。
 
 
春秋時代と[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]をあわせて、'''春秋戦国時代'''(しゅんじゅうせんごくじだい)といったり'''東周時代'''(とうしゅうじだい)といったりする。どこをもって春秋時代と戦国時代の境目とするかは歴史家の間で意見が分かれている。
 
{{main|春秋戦国時代}}
春秋時代と[[戦国時代 (中国)|'''戦国時代''']]を合わせて'''[[春秋戦国時代]]'''と一括して扱われる事も多い。[[洛邑]]を都にした紀元前770年以降の周王朝を東周と呼ぶ事から[[東周|'''東周時代''']]とも別称される。春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには諸説あり、[[晋 (春秋)|晋]]が三国に分裂した紀元前453年か、その三国が正式に諸侯となった紀元前403年とするのが最も広く採用されている。{{main|春秋戦国時代}}
 
== 概略 ==