「下落合焼とりムービー」の版間の差分

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|原案=赤塚不二夫
|原作=
|製作=[[向井寛|向江寛城]]
|製作総指揮=赤塚不二夫
|ナレーター=
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|次作=
}}
『'''下落合焼とりムービー'''』(しもおちあいやきとりムービー)は、[[1979年]]([[昭和]]54年)[[6月23日]]公開の[[日本映画]]である。[[漫画家]]の[[赤塚不二夫]]が企画・原案・製作・脚本(いづれも共同)を手掛け<ref name="キネ旬19790701_108" >{{Cite journal |和書 |author = |title = 『下落合焼とりムービー』シナリオ スタッフクレジット |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 108 }}</ref>、[[山本晋也]]が監督を務めた。チーフ助監督を[[滝田洋二郎]]が務めている。
 
== 概要 ==
1978年11月に日本でも公開された[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で上映されたギャグの[[コメディ映画]]『[[ケンタッキー・フライド・ムービー]]』などに倣って、<!---※ 「赤塚一人で作った映画でないんじゃないでしょうか?」 赤塚不二夫が--->「大日本下落合大学」<!---※ 「山本が『カントク記』p.104で、フジオ・プロがある場所と話していますが」 ([[東京]]・[[下落合]]とは無関係)--->を舞台に全編ショートギャグを満載したコメディ映画に仕上げた<!---※ 「出典が見つからないので出典をお願いします」 赤塚が自著で、「ずっと宴会芸をしている映画」と概略を述べている。 --->
 
今では考えられない豪華キャストの伝説の[[B級映画|B級ムービー]]だが、当時全盛期であり{{Sfn|ギャグ・マンガのヒミツ|2018|pp=198-199}}<ref>[http://www.bs-asahi.co.jp/interview/lineup/318/ 山本晋也(映画監督) | ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~ | BS朝日]</ref>、めったに映画を貶すことのない[[小森和子]]に酷評されるという記録を持つ。このため、<!---※ 「タモリは主要キャストとはいえないような」 主要キャストである--->[[タモリ]]と小森の関係が一時悪化した。<!---※ 「出典が見つし、そらないキャスティング故か、[[レンタルビデオ]]は好調だったと赤塚は述べてで出典をお願る。します」  
しかし、そのキャスティング故か、[[レンタルビデオ]]は好調だったと赤塚は述べている。--->
 
タイトルに関して、『下落合'''焼鳥'''ムービー』・『下落合'''焼き鳥'''ムービー』・『下落合'''焼きとり'''ムービー』などの表記があるが、本編でのタイトル表示・ビデオグラムパッケージでの表記に従えば、『下落合'''焼とり'''ムービー』が正しい<ref name="toei-video02739" >{{Cite web|url=https://www.toei-video.co.jp/catalog/dctd02739/|title=下落合焼とりムービー|publisher=[[東映ビデオ]]|accessdate=2018-10-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://db.eiren.org/contents/03000001103.html|title=下落合焼とりムービー|publisher=[[日本映画製作者連盟]]|accessdate=2018-10-02}}</ref>
 
なお、山本晋也監督作品としては初の一般映画でもある。これは、赤塚不二夫の知り合いの映画監督がほとんど娯楽作品を撮れる人物がおらず、親交のあった山本晋也監督へ直々にオファーしたと、自著で述べている。
 
下落合大学のシーンは主に東京都[[町田市]]にある[[和光大学]]、また船上パーティーのシーンは当時、静岡県沼津市でレストラン船として繋留されていた客船「[[スカンジナビア (客船)|スカンジナビア]]」で撮影された。なお、和光大学には無許可の撮影であったと監督の山本は語っている。
 
[[2002年]]9月に新宿の映画館において2週間ほど[[リバイバル]]上映された事もある。また[[1994年]]頃には、パート2製作のプランもあったという<ref>[[文藝]][2008], p.252-253.</ref>。[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]は、同作の上映用プリントを所蔵しており、2009年8月6日 - 同年9月13日に行なわれた「特集・逝ける映画人を偲んで 2007-2008」の特集上映で、プロデューサーを務めた獅子プロダクション代表の向井寛城([[向井寛]])、企画・脚本・出演を務めた赤塚不二夫を追悼し、同作の上映が行なわれた<ref>[http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2009-7-8/kaisetsu_38.html 特集・逝ける映画人を偲んで 2007-2008 下落合焼とりムービー]、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]、2014年11月23日閲覧。</ref>。
 
== キャスト ==
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* [[おおみかよ]]
* [[森田美友紀]]
* [[あらんどろん (トリオグループ)|あらんどろん]] - 山上松子・山上梅子・山上竹子
* [[高見恭子]] - 船上パーティの酔っ払い<ref name="キネ旬19790701_108" />
* [[高見恭子]]
* [[四宮奈諸美]]
 
* [[坂崎幸之助]] - 松下孝之介<ref name="キネ旬19790701_108" />
* [[THE ALFEE|アルフィ]]([[高見沢俊彦]]・[[桜井賢]])
* [[ビジーフォー|B・G・4]]([[島田与作]]・[[グッチ裕三]]・[[モト冬樹]]・[[ウガンダ・トラ]])
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== スタッフ ==
* 企画 : [[赤塚不二夫]]、[[高平哲郎]]
* プロデューサー : [[向井寛|向江寛城]]
* 監督 : [[山本晋也]]
* 脚本 : 高平哲郎、赤塚不二夫、[[滝大作]]
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* 配給 : 東映セントラルフィルム
 
== データ製作 ==
=== 企画 ===
* 公開 : 1979年6月23日
[[1977年]]に「[[演歌チャンチャカチャン]]」という歌が流行ったことで、[[にっかつ]]が便乗映画『ポルノ チャンチャカチャン』を企画し、山本晋也が[[原悦子]]主演で同作を撮った{{Sfn|カントク記|2016|pp=52-80}}<ref name="asagei20160623" >{{Cite web |author = [[テリー伊藤]] |url = https://www.asagei.com/excerpt/60414 |title = 天才テリー伊藤対談「山本晋也」(3)赤塚先生は予測を超えた変な人だよ |date = 2016-6-23 |work = [[アサヒ芸能|Asagei plus]] |publisher = [[アサヒ芸能]] |accessdate = 2018-10-2 }}</ref>。このとき、山本が大ファンだった[[赤塚不二夫]]に「[[ポスター]]を書いてもらえませんか」と直に頼み、赤塚が快諾し、ここで山本と赤塚に付き合いが生まれ、赤塚を囲む「[[赤塚不二夫#面白グループ|面白グループ]]」に山本が加わることになった<ref name="asagei20160623" />。「面白グループ」とは[[新宿二丁目]]の「ひとみ寿司」という[[寿司屋]]に赤塚を囲む集団で{{Sfn|ギャグ・マンガのヒミツ|2018|pp=198-199}}{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}<ref>[https://www.1101.com/jazz2/takahira/2007-10-31.html ほぼ日刊イトイ新聞-ジャズと、タモリと、70年代。そして、中洲産業大学。]</ref>{{refnest|group=注|命名日は1977年10月29日<ref>『スラップスティック・ブルース』pp.110-115</ref>。}}、このグループを中心に[[渋谷公会堂]]でステージ・ショーをやったり、『空飛ぶかくし芸』([[住宅新報社]]、1977年)という本を出したりしていた{{Sfn|ギャグ・マンガのヒミツ|2018|pp=198-199}}{{Sfn|ふしぎだけどほんとうなのだ|2008|pp=252-253}}。1978年の9月半ばのある日{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}、赤塚が「3000万円欲しいなあ、それだけあればうんと面白い[[スラップスティック・コメディ映画|スラップスティック・コメディの映画]]が出来るぞ」と話した{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}。赤塚は1960年代から1970年代にかけて大ヒット漫画を連発し、そのすべてが[[テレビアニメ]]化され一時は大金持ちになっていたが、モノに執着がない上、会社の[[横領]]事件などがあり、当時はあまり金を持っていなかった{{Sfn|カントク記|2016|pp=80-102}}。「3000万円欲しい」というのは赤塚の当時の口癖であったが、たまたまその晩は[[所ジョージ]]がいて、赤塚が所を指さして「こいつを主演にしたら、どっか映画会社が動かないかなぁ」と言った{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}{{Sfn|バカは死んでもバカなのだ|2001|pp=202-209}}{{Sfn|カントク記|2016|pp=136-148}}。所は当時、若い女性からの支持も高い[[アイドル]]だった{{Sfn|カントク記|2016|pp=52-80}}。その日は、[[高平哲郎]]や[[滝大作]]、[[タモリ]]、[[柄本明]]、[[内藤陳]]、[[団しん也]]、[[高見恭子]]、[[坂崎幸之助]]などがいて{{Sfn|カントク記|2016|pp=80-102}}、「脚本も役者も揃ってるじゃないか」という話になって、[[小松政夫]]のマネージャーだった八田剛宏が「監督はドタバタ・ポルノの天才、山本晋也さんにお願いして、強引ににっかつで?」と言い{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}、 <!---※ 「出典が見つからないので出典をお願いします」 これは、赤塚不二夫の知り合いの映画監督がほとんど娯楽作品を撮れる人物がおらず、親交のあった山本晋也監督へ直々にオファーしたと、自著で述べている。--->赤塚が「おい、高平、監督に電話して呼べよ」と指示し{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}、深夜、撮影で疲れ切り自宅で寝ていた山本が何で呼ばれたのかも分からないまま「ひとみ寿司」に駆け付け{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}{{Sfn|カントク記|2016|pp=80-102}}、話を聞いた山本が「たかが映画ですよ。映画なんてものは、好きなシーン撮って、あとは適当に繋げりゃ出来ちゃうんですよ」と頼もしく言い放った{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}。その言葉に皆、「気楽にやればいいんだ」と盛り上がり{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}、その場で[[タイトル]]も『[[ケンタッキー・フライド・ムービー]]』をもじり{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}、赤塚が『下落合焼とりムービー』と決めた{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。赤塚の住居兼仕事場の[[赤塚不二夫#フジオ・プロダクション|フジオ・プロ]]は、[[住所#住所の表記|住所表記]]は[[中落合 (新宿区)|中落合]]だが、その近辺は元々[[下落合]]だったことからの命名{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。その日の朝まで皆でアイデアを出し合った{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}。
* 上映時間 : 86分
 
* 映倫番号 : 19803
=== 気分を出してもう一度 ===
それから20日後、山本が新生にっかつでの製作OKをほぼ決め、にっかつにしては大作の製作費1000万円を勝ち取った{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}。それまでの山本が製作した映画はほとんど300万円以下であった{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}。このとき、にっかつの奥村幸士プロデューサーが『[[フレンチ・コネクション]]』のもじり、『ハレンチ・コネクション』とサブタイトルを付け、『下落合焼とりムービー ハレンチ・コネクション』というタイトルを提案した{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=213-216}}{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=188-189}}。「ハレハレ」だの「ムレムレ」だのといった言葉が入らないけでもマシと安心したが{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}、[[ロマンポルノ]]路線のにっかつでやる以上、ポルノシーンがなければならないという条件を言われ、最初はそれでもいいと考えていたが{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=226-229}}、所は当時、女子学生に人気があり、それでは所のファンが観てくれないし、予算的に無理なのではという意見が出て話が流れた{{Sfn|カントク記|2016|pp=80-102}}{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}。しかし山本が「赤塚不二夫のギャグ・ポルノという肩書きの映画を作ろう」と提案し{{Sfn|カントク記|2016|pp=80-102}}、主役を[[柄本明]]に変更してにっかつ配給によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が製作され、1979年3月に公開された{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=188-189}}。この作品は柄本の演技以外は低評価に終わった{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}。
 
=== 製作決定 ===
『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』の封切り前に、所の主演映画の話が「面白グループ」でぶり返した{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。1977年12月に[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長が、[[東映セントラルフィルム]]を設立し{{Sfn|映画界のドン|2012|pp=94-95}}<ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = {{small|東映セントラルフィルム研究}} プログラム・ピクチュアこそ日本映画のオリジンだ <small>〔座談会〕[[村川透]]・[[佐治乾]]・[[黒澤満|黒沢満]] 〔司会〕[[山根貞男]]</small> | journal = キネマ旬報 |issue = 1978年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | page = 85 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = 構成・内海陽子 | title = しねまあるちざん 〔座談会〕 [[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]・[[丸山昇一]]・[[伊地智啓]]・[[山口剛 (プロデューサー) |山口剛]] | journal = [[バラエティ (日本の雑誌)|バラエティ]] |issue = 1982年2月号 |publisher = [[角川書店]] | page = 50 }}</ref><ref>[http://www.moment.gr.jp/2/interview.html talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三]</ref>、配給第一回作品は[[現代ぷろだくしょん|山田典吾]]監督の『春男の翔んだ空』だったが<ref name="ロードショー197404" >{{cite journal |和書 |author = 河原一邦 |journal = [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]] |issue = 1978年4月号 |title = 邦画界トピックス |publisher = [[集英社]] |pages = 237-238 }}</ref>、製作第一回作品は、岡田社長の企画『生贄の女たち』を最初は予定していた<ref name="ロードショー197404" />{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}。同作は『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』で32センチとも<ref name="映画秘宝200512_34" >{{Cite journal |和書 |author = [[町山智浩]] |title = 『ディープ・スロート』主演男優ハリー・リームズ "激白"インタビュー |journal = [[映画秘宝]] |issue = 2005年12月号 | publisher = [[洋泉社]] |page = 34 }}</ref>36センチともいわれる{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=52-55}}[[巨根]]を持つ<ref name="映画秘宝200512_34" />[[俳優|ポルノ男優]]として有名になった[[ハリー・リームス|ハリー・リームズ]]を日本に呼んで[[やまとなでしこ|大和撫子]]をヒイヒイ言わすというコンセプトの映画であったが<ref name="ロードショー197404" /><ref name="映画秘宝200512_34" /><ref name="ピンキー・バイオレンス" >{{Cite book |和書 |author = [[杉作J太郎]]・[[植地毅]] |title = 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム |publisher = [[徳間書店]] |year = 1999 |isbn = 4-19-861016-9 |pages = 250 - 255 }}</ref>、製作が難航し、東映セントラルフィルムの第一回製作作品は、[[松田優作]]主演・[[村川透]]監督の『[[最も危険な遊戯]]』になり『生贄の女たち』は第二弾になった{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}。『ディープ・スロート』の日本版編集は、東映洋画が本作のプロデューサーである向江寛城([[向井寛]]、以下、向井)に頼み<ref name="映画秘宝200512_35" >{{Cite journal |和書 |author = わたなべりんたろう |title = いま暴かれる東映版『ディープ・スロート』の真実 向井寛"機密"インタビュー |journal = 映画秘宝 |issue = 2005年12月号 | publisher = 洋泉社 |pages = 35 - 36 }}</ref>、興収3億円の大ヒットに結び付けた功績から<ref name="映画秘宝200512_35" />、向井は東映から低予算の[[東映ポルノ#東映ニューポルノ|500万円ポルノ]]を大量に発注しユニバースプロ(後の獅子プロダクション、以下獅子プロ)を設立した<ref name="ピンキー・バイオレンス" />。山本晋也は当時、[[代々木忠|ワタナベプロ]]経由でにっかつの買い取り作品を撮る人気監督であったが{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}、1978年から向井主宰の獅子プロからの発注が増え、向井と盟友となり、東映セントラルフィルムの発足で、向井が[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]とともに中核プロデューサーとして権限が増したことで<ref name="ピンキー・バイオレンス" />、『生贄の女たち』の監督が[[関本郁夫]]から山本に交代した{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}。獅子プロは、実質東映の下請け会社で{{Sfn|カントク記|2016|pp=41-42、50}}{{refnest|group=注|山本の著書『わたしは痴監』の山本のフィルモグラフィーには、ユニバースプロ発注作品は、東映セントラルフィルム名義となっている<ref>『わたしは痴監』pp.206-207</ref>。}}、山本は「獅子プロは東映と関係が深くて、だから後に東映セントラルフィルムという会社が出来て、向井寛ちゃんと東映の黒澤満さんがプロデューサーになる。結果それが『下落合焼とりムービー』に繋がるわけだ」と述べている{{Sfn|カントク記|2016|pp=41-42、50}}。『生贄の女たち』の脚本は、山本と[[佐治乾]]のダブルクレジットであるが、実際は山本が主に書いたとされ{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}、[[テンポイント]]を絡ませる[[落ち|オチ]]などが面白いと評価を高めていた{{Sfn|セントラルアーツ読本|2017|pp=48-56}}{{Sfn|監督全集|1988|pp=453-455}}{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=186-187}}。
 
1979年6月、東映セントラルフィルムを設立した岡田茂東映社長が、今度は若手プロデューサーや監督に活躍の場を与えようという目的で{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=261}}{{Sfn|クロニクルⅡ|1992|pp=68-69}}、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]の商業映画版である東映シネマサーキット(TCCチェーン、以下TCC)という新たな東映の[[映画配給|配給網]]を作り{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=261}}<ref name="キネ旬19790701_206" >{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画・トピック・ジャーナル 多様化する東映の製作システム |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 206 - 207 }}</ref><ref name="キネ旬19790601" >{{Cite journal|和書 |author = | title = 東映、東西2館を拠点にT・C・C創設 | journal = キネマ旬報 |issue = 1979年6月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | page = 175 }}</ref>、その旗揚げ作として向井から山本の元へ「面白グループ企画、所ジョージ主演でコメディ映画を作らないか」という話が舞い込み、「面白グループ」の集大成的な映画、『下落合焼とりムービー』が東映での製作が決まった{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=261}}<ref>{{cite journal |和書 |author = 河原一邦 |journal = [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]] |issue = 1979年8月号 |title = 邦画界マンスリー |publisher = [[集英社]] |pages = 247 }}</ref>。山本は「ひとみ寿司で赤塚先生が酔っ払って口癖のように繰り返した『3000万円あれば[[スラップスティック・コメディ映画]]が作れるのに』が現実になってしまった」と話しているが{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}、高平哲郎は「予算1500万円」と述べている{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。岡田東映社長は1978年11月に『[[宇宙からのメッセージ]]』の全米公開に立ち会うため渡米した際<ref name="キネ旬19790102" >{{Cite journal|和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]] | title = 〔フロントページ〕アメリカで支持された東映作品 | journal = キネマ旬報 |issue = 1979年1月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 97 }}</ref>、『[[アニマル・ハウス]]』のようなB級作品が[[ニューヨーク]]でジャンジャンお客を入れ込んでいるのを観て{{Sfn|映画界のドン|2012|p=123}}、「こりゃうちの『[[聖獣学園]]』じゃないか。こうした線を狙ってセントラルフィルムで大いにやるべし。今年はセントラルフィルム、クローズアップの年」などと1978年暮れの『映画ジャーナル』で述べていた{{Sfn|映画界のドン|2012|p=123}}。本作の一ヶ月後に公開された『[[トラック野郎・熱風5000キロ]]』の併映作は、日本で[[ジャッキー・チェン]]ブームを起こす切っ掛けになった<ref name="成龍讃歌" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = ジャッキー・チェン 成龍讃歌 | series = タツミムック | title = {{small|"東映洋画部なくしてジャッキーなし!"}} ジャッキー映画、日本公開の夜明け 文・野村正昭 / 徹底検証!ジャッキー・チェン映画日本公開初期8作品 文・石川順子 | issue= 2017年7月20日発行 | publisher = [[辰巳出版]] |isbn = 978-4-7778-1754-2 | pages = 104-111、114-115頁 }}</ref>『[[ドランクモンキー 酔拳]]』のため<ref name="成龍讃歌" />、東映もコメディ映画を当てようと試行していた{{Sfn|映画界のドン|2012|pp=131-132}}<ref name="週刊明星19790527" >{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊明星]] |issue = 1979年5月27日号 |title =所ジョージ、タモリら奇人総出演のギャグ映画が船出 『ミスター・ブー』顔負けのドタバタ映画めざして |publisher = 集英社 |page = 46 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル 大きな問題を残したお盆興行 | journal = キネマ旬報 |issue = 1979年9月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 175 }}</ref>。高平は当時の著書で「[[プログラムピクチャー]]の低予算映画が見直されている昨今の風潮に便乗させてもらえた」と述べている{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}。
 
=== 出産披露宴 ===
1979年5月9日、[[丸の内TOEI|銀座東映会館]]屋上で「出産披露宴」なる製作記者会見が行われ、スタッフとこの時点で出演が決まっていたキャストによる焼とりパーティが開かれた<ref name="週刊明星19790527" />。脚本などがまだ固まっておらず、[[チャンバラトリオ]]出演の発表もあり<ref name="週刊明星19790527" />、「若い映画ファンは単純に笑える映画を求めている。『ケンタッキー・フライド・ムービー』や『[[Mr.Boo!ミスター・ブー]]』が大ヒットしたのもその結果です。そこでコメディを撮ろうと決まった」「主人公は所ジョージ。高校を舞台とした学園ものです」「この顔ぶれですから、シナリオも現場でコロコロ変わるだろうし、どんな作品になるか見当もつかない」などと発表された<ref name="週刊明星19790527" />。また主人公・下落合焼とり人間のキャラクターは明確になっているとし、7つの顔ならぬ、次の7ヶ条を備えた男で、①教養は敵だ、漢字は知らなくていい。英語は喋れなくていい。行動あるのみ。②流行に軽くのれ。根城は原宿・赤坂・六本木。遊び場は湘南・軽井沢。③あくまでも軽薄に。ホメられたら喜ぼう。怒られたら謝ろう。フラれたらあきらめよう。④無責任であれ。自分だけは助かろう。責任は他人におしつけよう。⑤貧乏人を笑え。牛丼やハンバーガーでいい知恵は生まれぬ。⑥差別こそ最大の防御。狼もしね。豚も死ね。美男子は殺せ。ブスは消えろ。⑦無愛想、無節操であれ。今日は右、明日は左。金になるなら誰とも握手、と『[[Mr.Boo!ミスター・ブー]]』の「[[Mr.Boo!ミスター・ブー#BOOになる心得(十カ条)|BOOになる心得十カ条]]」に似た7ヶ条が発表された<ref name="週刊明星19790527" /><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = グラビア 『下落合焼とりムービー』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 67 - 70 }}</ref>。所ジョージは「とにかく面白いものをやりたい。あらゆるギャグをつめ込んで、動きのある快作にします」と宣言した<ref name="週刊明星19790527" />。より新しく鋭い連続ギャグと、信じられないバカバカしさで、80年代、コメディの時代を目指すと標榜した<ref>{{Cite journal |和書 |author = |title = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1979年8月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |page = 107 }}</ref>。
 
=== 脚本 ===
「面白グループ」で脚本を書き、[[桂高丸・菊丸|日高はじめ]]や[[喰始]]がギャグ作りをすると決まり{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}、赤塚不二夫、高平哲郎、[[滝大作]]の三人で、都内の旅館に籠り脚本作りを始めた{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。[[ジョン・ランディス]]監督の『[[アニマル・ハウス]]』を狙い、[[学園ドラマ|学園物]]にしようとなった{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。酒は進むが中身が進まず、[[矢沢永吉]]の『[[矢沢永吉#出版物|成りあがり]]』の[[パロディ]]で、[[所沢市|所沢]]から出たロックンローラーが大金持ちになるという[[伝記|一代記]]で大筋は決着した{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。しかし滝が「これでは[[植木等]]さんの[[クレージー映画#無責任シリーズ|無責任男]]から何ら脱し得ていない」とクレームを付けたため、一代記を学園物に押し込んで準備稿を作成するも、再び滝が主人公の無思想性についてクレームを付けた{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。赤塚と高平は、「所は『[[天才バカボン#天才バカボン登場人物|天才バカボンのパパ]]でいい。彼が無意識、無思想に動くことによって、まわりの体制が崩れ去っていくのがいい」と強調し{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}、スッタモンダあって、赤塚の漫画の作り方を踏襲することになった{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。すなわち、登場人物の性格作りをして、そいつらが動き出したらどうなるかということになり、第一稿が完成した{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}。台本には「ギャグあり」「ギャグ後送」といくつも書き込んでいたら、東映サイドから「それでは分からない」とクレームが付き、差し替えありという条件でギャグを書き込む。三人の意見も合わず、ギャグのウケ方は人によって違い、ホンに参加者が増えると収拾がつかなくなった{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}。東映サイドからは「程度の低いギャグ」を要求され、ギャグと笑いの難しさを嫌というほど味わった{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。キャスティングに東映サイドから、 [[タモリ]]と[[宇崎竜童]]の出演を要請された{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。タモリは1984年に東映が主演映画『いいとも探偵局』を作ろうと熱心に誘ったが断られた<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=雑談えいが情報|journal=映画情報|issue=1984年11月号|publisher=[[国際情報社]]|pages=72}}{{Cite journal|和書|author=|date=1984年10月号|title=雑談えいが情報|journal=映画情報|publisher=国際情報社|pages=71}}{{Cite journal|和書 |author = |year = | title = 日本映画ニュース・スコープ トピックス |journal = キネマ旬報 |issue = 1984年10月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 111}}</ref>。
 
山本は脚本が全く映画的でなく、[[バラエティ番組|テレビバラエティー]]風で、台本に余白も多く「ココ、ギャグよろしく!」などと書いてあり、筋書きらしい筋書きもない{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。山本は「個性だけの映画なァ...」と考えつつ、「映画なんて面白ければいい。面白い場面撮って、そいつを繋いでいけば映画になるというのがオレの信条だ」と撮影に挑んだ{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。
 
赤塚は1979年春の[[週刊誌]]の取材で<ref name="週刊現代19790409" >{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊現代]] |issue = 1979年4月9日号 |title = 赤塚不二夫氏の第二作『焼き鳥ムービー』とは |publisher = [[講談社]] |page = 58 }}</ref>、「馬鹿なバカとか、利口なバカとか、いろいろなバカが出てきます」などと話したが<ref name="週刊現代19790409" />、後年本作を振り返り「パロディコント集的で、3本分くらいホンができてしまった。面白い部分だけつなげばいいと、その時は考えていた。しかし映画はそう甘くない。[[交通整理]]が完全に済まない内にカメラが回りはじめたという感じだった。いろいろうまくいかないことだらけで晋也さんも大変だったと思う。ナンセンス映画っていうものは、本来、大金をかけないと、場面そのものが設定できないんだ。それを低予算で、人間の動きだけで何とかしようと思ったのが間違い。いや、最初からそれは分かっていたけれど、時の勢いだけで作っちゃったんだ」などと述べている{{Sfn|ギャグ・マンガのヒミツ|2018|pp=198-199}}。
 
=== キャスティング ===
出演者は当時ほとんど無名{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。赤塚が本作の出演者を当時、[[特別番組|特番]]に出そうと[[テレビ局]]に連れて行くと、[[ディレクター]]から「あの人誰ですか?」「あの人は?」と聞かれる状態{{Sfn|バカは死んでもバカなのだ|2001|pp=202-209}}。東映の幹部にキャスト表を提出したら総長役の[[近江俊郎]]しか知らず、一人一人、何をやっている人か説明した{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。所の説明にも[[シンガーソングライター]]という言葉で説明しても年寄りは知らない時代だった{{Sfn|カントク記|2016|pp=102-106}}。1979年5月の製作記者会見では、マスメディアから「奇人総出演」「出演者はクセ者揃い」などと書かれた<ref name="週刊明星19790527" />。
 
監督の山本晋也は「痴漢シリーズ」「未亡人下宿シリーズ」などで、[[ポルノ映画]]の[[巨匠]]として映画ファンには知られていたが<ref name="toei-video02739" />{{Sfn|監督全集|1988|pp=453-455}}、知名度を飛躍的に高めたのは、[[テレビ朝日]]の[[深夜番組]]『[[トゥナイト (テレビ番組)|トゥナイト]]』に1981年から性風俗関係の[[リポーター]]として出演してからで{{Sfn|監督全集|1988|pp=453-455}}、「すごいですねぇ」「ほとんどビョーキ」などの[[流行語]]を生み、人気タレントになった{{Sfn|監督全集|1988|pp=453-455}}。
 
赤塚の次に一般的に知名度が高かったのは、[[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]]として1970年代によくテレビに出演しヒット曲を歌ったり、妻の[[阿木燿子]]との[[作詞]]・[[作曲]]コンビで[[山口百恵]]のヒット曲を多数手掛けた宇崎竜童で、宇崎は「面白グループ」とは関係なく、所と親交があったことからのゲスト出演{{Sfn|カントク記|2016|pp=116-121}}{{Sfn|話は映画ではじまった|1984|pp=80-82}}。
 
タモリは宇崎を除けば、唯一売れかけていたため{{Sfn|カントク記|2016|pp=116-121}}、スケジュールがあまり取れず、役柄も当日に決まった{{Sfn|カントク記|2016|pp=116-121}}。
 
[[あらんどろん (トリオグループ)|あらんどろん]]は、1980年の[[漫才ブーム]]を起こす切っ掛けとなった1980年1月20日放送の『[[花王名人劇場]]』『[[激突!漫才新幹線]]』([[フジネットワーク|フジテレビ系列]])で、[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]]、[[ツービート]]、[[Wヤング]]と共に最初にキャスティングされていた三人組女性コントグループ<ref>{{Cite book |和書 | author = [[澤田隆治]] |year = 1989 |title = 笑人間 上巻 |publisher = [[角川書店]] |isbn= | pages = 142 - 143 }}</ref><ref>[http://www.km-jimusho.com/history/049.html 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所 第49話]</ref>。
 
=== 監督 ===
山本晋也は[[ポルノ映画]]監督歴15年{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=182-183}}、[[成人映画]]のみ200本余りの撮影を経て<ref name="キネ旬19790701_71" >{{Cite journal|和書 |author = |title = 特別グラビア ある日の山本晋也監督 『下落合焼とりムービー』撮影中に密着取材 |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 71 - 74 }}</ref>、初の一般映画の監督{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=182-183}}。プロデューサーの向井ともども、ちょうど[[思春期]]の娘がおり、それまで家庭ではなるべく仕事の話をしなかったが、意外に当時の子供たちに映画が知られていて、娘から「友だちに見せても恥ずかしくない?」「宣伝した方がいいんでしょう?」などと言われ、初めて娘と映画について語り合えたと話している{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=182-183}}。向井は「初めてウチの娘を[[試写会]]に呼んで、自分が製作した映画を見せることが出来る。今度の作品でこれが一番うれしい話だ」と喜んでいたという{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=182-183}}。
 
=== 撮影 ===
スタジオ撮影は[[東映東京撮影所]]<ref name="キネ旬19790701_71" />。脚本の高平は「撮影が始まると当初のコンセプトだった一代記もギャグもどこかに行ってしまい、現場はいつものお祭りになった」と話している{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。所ジョージの撮影契約が1979年5月31日までのため、同日、[[埼玉県]][[秋ヶ瀬公園]]ロケ<ref name="キネ旬19790701_71" />。[[荒川 (関東)|荒川]]上流の[[堤防]]を所が[[ハーレーダビッドソン]]で走るシーンで所の出演シーン撮了<ref name="キネ旬19790701_71" />。
 
所ジョージと[[司美穂]]のキス・シーンは所が極度に緊張<ref name="週刊明星19790715" >{{Cite journal |和書 |author = |title = 所ジョージ(25)と司美穂(21)の熱い関係を直撃! 木ノ葉のこはどうなる?本命出現で身辺騒然 |journal = 週刊明星 |issue = 1979年7月15日号 |publisher = 集英社 |pages = 188-190 }}</ref>。山本監督は「所が人間とキスするのはこれが初めてだったんじゃないですか。気の毒なぐらいアガっちゃって『本当にやらなきゃいけないんですか?』ってオロオロしてましたね。いざ本番になると所が怖気づいて、シッタ激励してようやくブチュとキスさせました。この一発が効いて彼は美穂ちゃんに惚れてしまったんですよ」と話し、スタッフ一同で二人をくっつけようと策謀が行われた<ref name="週刊明星19790715" />。週刊誌の取材で司が「所さんとキスできて嬉しかったわ!今度の映画は、仕事というより毎日[[ピクニック]]みたい」などと話し、週刊誌で記事になった。当時所はテレビ番組で共演中の[[木ノ葉のこ]]との仲を週刊誌に書かれたばかりで、司のアタックには逃げ腰だった<ref name="週刊明星19790715" />。所は「女よりクルマ。クルマを見ると欲情する異常変態性欲の持ち主」を自称<ref name="週刊明星19790715" />。山本監督は「所はとにかく[[潔癖症]]で、照れ屋。香港ロケでただ一人、女を買いに行かなかった男です。その女に溺れていない肉体の反応が、役者として希有な価値を持たせているんですね。しかし、私はこの『下落合焼とりムービー』の続編を(1980年)正月にもう一度撮ってみるつもりです。その時は所クンに大セックスシーンをやってもらい、今度こそ性に狂わせてみせます」と決意を述べた<ref name="週刊明星19790715" />。
 
== ロケ地 ==
ロケを含む撮影は1979年5月~6月<ref name="キネ旬19790701_104" >{{Cite journal|和書 |author = 森田和志・吉田恵 |title = 特集2『下落合焼とりムービー』 読者による撮影ルポ 『倒錯の役者軍団とタフネスな山本監督』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 104 - 106 }}</ref>。同年6月中旬完成<ref name="週刊明星19790715" />。
 
*[[東京都]][[町田市]]・[[和光大学]] - ロケの80%近くを占める大学のシーン{{Sfn|カントク記|2016|pp=113-116}}<ref name="キネ旬19790701_104" />。「面白グループ」の八田剛宏が撮影許可を取ったと書かれた文献もあるが{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}、山本は和光大学のロケは無許可の撮影であったと著書で述べている{{Sfn|カントク記|2016|pp=113-116}}。出演者の[[土方鉄人]]が同大学の映研OBで仕切り、授業のある時期で、[[エキストラ]]は全員同大学の学生で面白がって大挙画面に写った<ref name="キネ旬19790701_104" />。毎日和光大学で現地集合{{Sfn|カントク記|2016|pp=123-131}}。空いた教室を自由に使え{{Sfn|カントク記|2016|pp=123-131}}、山本は「あんなに自由なロケはなかった。全てを寛容に許してくれた大学の職員や教授の皆さんに感謝したい」述べている{{Sfn|カントク記|2016|pp=113-116}}。
*[[新宿区|新宿]][[明治安田生命ホール|明治安田生命ビル]]前など<ref name="キネ旬19790701_104" />。
*「[[スカンジナビア (客船)|スカンジナビア]]」<ref name="キネ旬19790701_104" /> - [[静岡県]][[沼津市]]でレストラン船として繋留されていた客船。下落合大船上パーティーのシーンなどロケの約20%近くを占める{{Sfn|カントク記|2016|pp=113-116}}<ref name="キネ旬19790701_104" />。
*[[香港]]{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=158-159}}。
*[[埼玉県]][[秋ヶ瀬公園]]<ref name="キネ旬19790701_71" />。
 
== 興行形態 ==
1979年春の時点では[[高田馬場]]か[[新宿]]の小さい劇場で一本立て[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]を予定していたが<ref name="週刊現代19790409" />、同年6月23日に発足した東映シネマサーキット(TCC)という東映の新しい興行形態の適用第一作として公開された{{Sfn|スラップスティック・ブルース|1981|pp=236-239}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=261}}<ref name="キネ旬19790701_206" /><ref name="週刊明星19790527" />。これは[[制作プロダクション|独立プロ]]に門戸を開放し、若いプロデューサーや監督の[[登竜門]]になり、一般封切チェーンに乗りにくい映画を東映の封切館で上映するというもので{{Sfn|クロニクルⅡ|1992|pp=68-69}}<ref name="週刊明星19790527" />、[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映会館]]に[[ミニシアター]]・[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映ホール]]を開設{{Sfn|クロニクルⅡ|1992|pp=68-69}}、同館で封切された。当初の発表では東京と大阪の東西2館を拠点とし、以降、全国東映系作品に併映公開する予定だった<ref name="キネ旬19790601" />。一作目に喜劇映画が選ばれたことは業界からも注目され<ref name="週刊明星19790527" />、『ケンタッキー・フライド・ムービー』や『Mr.Boo!ミスター・ブー』のヒットの影響であるが、当時日本ではギャグ連発の[[スラップスティック・コメディ映画]]は全く作られていなかったため、TCCの狙いは正確と評価された<ref name="週刊明星19790527" />。『下落合焼とりムービー』は新宿東映ホール一館のみの先行封切りであったが、その後、[[E-MA#梅田東映会館|大阪梅田東映ホール]]、[[福岡東映|福岡東映パラス]]、名古屋栄東映ホール、[[札幌東映|札幌東映ホール]]の東映系列の5館をTCCチェーン5館として整備し、[[ロードショー (映画用語)|全国ロードショー]]を保証{{Sfn|クロニクルⅡ|1992|pp=68-69}}。東映番線の作品と併映になることもあり<ref name="キネ旬19790601" />、本作以降、『[[狂い咲きサンダーロード]]』『[[純 (映画)|純]]』『[[ヨコハマBJブルース]]』『[[泥の河#映画「泥の河」|泥の河]]』『[[水のないプール]]』『[[爆裂都市 BURST CITY]]』などがTCCで全国ロードショー公開されている{{Sfn|映画界のドン|2012|pp=155-157}}<ref>{{Cite book |和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]] | year = 2001 |title = 悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 |publisher = 財界研究所 |id = ISBN 4-87932-016-1 |pages = 464 - 465 }}</ref>。
 
== 備考 ==
本作は新宿東映ホールのみ、一本立てで先行封切りされたが、初日の1979年6月23日([[土曜日]])は、24日([[日曜日]])にかけて[[オールナイト|オールナイト上映]]で、この日だけ、本番線で同日の封切りだった『[[地獄 (1979年の映画)|地獄]]』([[原田美枝子]]主演、[[神代辰巳]]監督)の併映作、本作と同じ獅子プロ製作による『[[餌食]]』([[内田裕也]]主演、[[若松孝二]]監督、向井寛製作)が同時上映されている<ref>{{Cite news |title = 新宿東映ホール広告 『下落合焼とりムービー』封切り案内 |date = 1979年6月15日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 4 }}</ref>。
 
== 作品の評価 ==
=== 興行成績 ===
 
=== 作品評 ===
赤塚は「当時まだ舞台しか顔を出していなかった[[柄本明]]の怪演は忘れられないね。これぞヘンな顔ですって顔。[[榎本健一|エノケン]]とは違うけど、それくらい印象に残る表情だったな。[[高見恭子]]も出てた。この映画は傑作とはならなかったけれど、その後全員売れに売れてしまったという作品だ。そういう意味では、作って良かったと思ってる」と述べている{{Sfn|ギャグ・マンガのヒミツ|2018|pp=198-199}}。高平は「なんだか水で薄めたような喜劇映画だった。水で薄めて[[アメリカン・コーヒー|アメリカン]]になればいいのに、中身はあまりにもジャパニーズだった」と話している{{Sfn|ぼくたちの七〇年代|2004|pp=219-222}}。山本は「ハチャメチャ映画の[[ロケーション撮影|ロケーション]]で毎日地獄を味わった。内容は監督自身がはっきり分からないという無責任な映画。とにかく大学生の青春と申しますか、軽薄さ、無責任、無教養さのコメディー・ドラマであります」などと話している{{sfn|わたしは痴監|1979|pp=40-41}}。所は「振り返ると映画じゃないですよね、あれは。[[キャラクター]]が濃すぎる人ばっかりで、一人一人がここぞとばかりやりすぎてるんだよね。すごいものばっかり来ちゃうから、最終的に美味いんだかなんだかわかんない世界」「お金[[溝渠|ドブ]]に捨てる以下のことじゃないですか。そういうことを面白い、くだらないけど面白いんだと思えるのは、相当世の中が豊かじゃないと成立しないですよ。でも赤塚さんはそう言われるようなことをしたかったんでしょうね」{{Sfn|カントク記|2016|pp=136-148}}「もう、映画もメチャクチャ。これでいいわけないじゃないと思った。でも楽しかった」「ひとみ寿司のお蔭で、みんな育ったと思う。土曜日とかとっとと家に帰っていたら、ろくなものになってなかった」「でも『下落合』がなければもっと早く[[黒澤明|黒澤作品]]に出れたと思う」などと述べている{{Sfn|バカは死んでもバカなのだ|2001|pp=202-209}}{{Sfn|カントク記|2016|pp=136-148}}。
 
=== 影響 ===
所は「『下落合焼とりムービー』をやったっていうのが、自分の基盤になってる。つまり欲張ってあんまり色んな要素を詰め込まないこと。足もとが散らかってると踏ん張れない、地面が固くないと高くジャンプ出来ない。そういうことを[[反面教師]]として考えるようになった」などと述べてる{{Sfn|カントク記|2016|pp=136-148}}。
 
[[滝田洋二郎]]は「あの規模の映画をやったことがなかったし、『下落合焼とりムービー』が[[ターニングポイント]]になってるところは大いにある」などと述べている{{Sfn|カントク記|2016|pp=123-131}}。
 
本作終了後、何かの切っ掛けでも、仲違いとか喧嘩があったわけでもないのに、みんなブレイクしたことで、集まりは次第に数を減らし「面白グループ」も自然消滅した{{Sfn|カントク記|2016|pp=116-121}}。監督の山本も1980年代にテレビで売れっ子になり、[[ピンク映画]]の世界から離れた。山本は「『下落合焼とりムービー』は、オレたちのちょっと先延ばしにしていた青春の終わりであり、永遠に続くかと思っていたバカ騒ぎの終焉だったのかもしれない」と述べている{{Sfn|カントク記|2016|pp=116-121}}。
 
== 逸話 ==
*所ジョージという芸名の由来として、出身地の[[所沢市]]と[[柳ジョージ]]をモチーフに宇崎竜童によって「所沢の柳ジョージ」という意味で命名されたという説があるが、『[[キネマ旬報]]』1979年7月上旬号で、所・宇崎・タモリ・赤塚不二夫らが参加した座談会があり、宇崎が『[[その後の仁義なき戦い]]』の音楽を柳ジョージが担当したという話の流れで、赤塚が「柳ジョージって何だよ。所ジョージとなんか関係あんの?」と言うと、所が「全然ないスよ。柳ジョージと間違えられて、よくレコードが売れますけど」と答え、さらに赤塚が「宇崎くんの弟子なの、その柳ジョージって?」と言うと、宇崎が「だれの?ぼくの?全然関係ないっスョ。ぼくよか古くからやってる人ですよ」と答える<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[所ジョージ]]・[[宇崎竜童]]・[[タモリ]]・[[赤塚不二夫]]・[[山本晋也]]・[[高平哲郎]](司会) |title = 特集1『下落合焼とりムービー』 座談会 『既成の映画の枠を超えたギャグ満載の映画!』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1979年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 98 - 103 }}</ref>。宇崎は所の名付け親ではあるが{{Sfn|話は映画ではじまった|1984|pp=80-82}}、芸名の由来は柳ジョージとは無関係と見られる。
 
== リバイバル ==
[[2002年]]9月に新宿の映画館において2週間[[リバイバル]]上映された。
また、[[1994年]]頃には、パート2製作のプランもあったという{{Sfn|ふしぎだけどほんとうなのだ|2008|pp=252-253}}。
 
== 追悼上映 ==
[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]は、同作の上映用プリントを所蔵しており、2009年8月6日 - 同年9月13日に行なわれた「特集・逝ける映画人を偲んで 2007-2008」の特集上映で、プロデューサーを務めた獅子プロダクション代表の向井寛城([[向井寛]])、企画・脚本・出演を務めた赤塚不二夫を追悼し、同作の上映が行なわれた<ref>[http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2009-7-8/kaisetsu_38.html 特集・逝ける映画人を偲んで 2007-2008 下落合焼とりムービー]、[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]、2014年11月23日閲覧。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|40em}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | author = [[山本晋也]] | year = 1979 | title = わたしは痴監 | publisher = レオ企画 | isbn= | ref = {{SfnRef|わたしは痴監|1979}}}}
* 『[[文藝]]別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」』、[[河出書房新社]]、2008年
*{{Cite book | 和書 | author = [[高平哲郎]] | year = 1981 | title = スラップスティック・ブルース | publisher = [[冬樹社]] | isbn= | ref = {{SfnRef|スラップスティック・ブルース|1981}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = 高平哲郎 | year = 1984 | title = 話は映画ではじまった {{small|PART1 男編}} | publisher = [[晶文社]] | isbn= | ref = {{SfnRef|話は映画ではじまった|1984}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = | year = 1988 | title = 日本映画テレビ監督全集 | publisher = [[キネマ旬報社]]| | isbn= | ref = {{SfnRef|監督全集|1988}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = | year = 1992 | title = クロニクル東映 1947ー1991 〔Ⅱ〕| publisher = [[東映|東映株式会社]] | isbn= | ref = {{SfnRef|クロニクルⅡ|1992}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = [[赤塚不二夫]] | year = 2001 | title = バカは死んでもバカなのだ ー赤塚不二夫対談集ー | publisher = [[毎日新聞社]] | isbn= 4-620-31533-8 | ref = {{SfnRef|バカは死んでもバカなのだ|2001}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = 高平哲郎 | year = 2004 | title = ぼくたちの七〇年代 | publisher = [[晶文社]] | isbn= 4-7949-6602-4 | ref = {{SfnRef|ぼくたちの七〇年代|2004}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = | year = 2008| title = [総特集] 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ | series = [[河出書房新社|KAWADE夢ムック]] 文藝別冊 | publisher = [[河出書房新社]] | isbn = 978-4-309-97714-0 | ref = {{SfnRef|ふしぎだけどほんとうなのだ|2008}}}}
* {{Cite book | 和書 | editor = [[新文化通信社|文化通信社]]編 | year = 2012 | title = 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 | publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] |isbn = 978-4-636-88519-4 | ref = {{SfnRef|映画界のドン|2012}}}}
*{{Cite book | 和書 | editor = 東映株式会社総務部社史編纂 | year = 2016 | title = 東映の軌跡 | publisher = 東映株式会社 | isbn= | ref = {{SfnRef|東映の軌跡|2016}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = 山本晋也 | year = 2016 | title = カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春 | publisher = [[双葉社]] | isbn= 978-4-575-31127-3 | ref = {{SfnRef|カントク記|2016}}}}
*{{Cite book | 和書 | editor = 山本俊輔+佐藤洋笑+映画秘宝編集部編 | year = 2017 | title = セントラルアーツ読本 |series = 映画秘宝 COLLECTION | publisher = [[洋泉社]] | isbn= 978-4-8003-1382-9 | ref = {{SfnRef|セントラルアーツ読本|2017}}}}
*{{Cite book | 和書 | author = 赤塚不二夫 | year = 2018 | title = ギャグ・マンガのヒミツなのだ! | publisher = 河出書房新社 | isbn= 978-4-309-41588-8 | ref = {{SfnRef|ギャグ・マンガのヒミツ|2018}}}}
 
== 関連項目 ==
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* {{Kinejun title|18976|下落合焼とりムービー}}
* [http://nfcd.momat.go.jp/det.php?mode=0&data_id=76818 下落合焼とりムービー] - [[東京国立近代美術館フィルムセンター]]
 
{{赤塚不二夫}}
{{所ジョージ}}
{{タモリ}}
 
{{デフォルトソート:しもおちあいやきとりむうひい}}
[[Category:1979年の映画]]