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ドイツの[[首都]][[ベルリン]]は、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に[[島]]のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における[[通貨]]改革への対抗措置として、[[1948年]]に[[西ベルリン]]へ繋がる[[鉄道]]と[[道路]]を封鎖した([[ベルリン封鎖]])。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
 
=== 冷戦のグローバル化(1949年-1955年) ===
[[ファイル:Chiang Kai Shek and wife with Lieutenant General Stilwell.jpg|220px|thumb|中華民国の[[蒋介石]]と[[宋美齢]]、アメリカ陸軍の[[ジョセフ・スティルウェル|スティルウェル]]中将]]
冷戦は[[地球]]の反対側でも米ソが向き合うため、周辺の[[アジア]]にも強い影響を与えた。[[中国大陸]]では、戦後すぐにアメリカの支援する[[中国国民党]]と[[中国共産党]]が[[国共内戦|内戦]]を繰り広げたが、中国共産党が勝利し[[1949年]]に共産主義の[[中華人民共和国]]を建国。[[1950年]]2月に[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を結んでソ連と連合した。一方、中国国民党は[[台湾|台湾島]]に逃れ、アメリカの支援の下大陸への反攻を狙った。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでに[[モンゴル]]ではソ連の支援の下で共産主義の[[モンゴル人民共和国]]が[[1924年]]に成立していたが、戦後になって米英仏等が[[国家の承認|承認]]した。
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*[[ロナルド・レーガン]]による「[[悪の帝国発言]]」と[[戦略防衛構想]]([[1983年]])
 
=== ゴルバチョフによる改革から冷戦終結、そしてソ連崩壊(1985年-19881991年) ===
 
==== ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年) ====
[[ファイル:Reagan and Gorbachev hold discussions.jpg|thumb|[[超大国]]同士のリーダーが会談している様子(1985年、[[ロナルド・レーガン]]と[[ミハイル・ゴルバチョフ]])]]
[[ファイル:Reagan and Gorbachev signing.jpg|220px|thumb|INFに調印する[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と[[ロナルド・レーガン]]]]
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[[1985年]]、ソ連共産党書記長に就任した[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は、改革([[ペレストロイカ]])および[[新思考外交]]を掲げて、国内体制の改良と大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。[[1987年]]にアメリカとの間で[[中距離核戦力全廃条約]] (INF) を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していた[[オガデン戦争]]や[[アンゴラ内戦]]が[[1988年]]から順次終結し、[[リビア]]と[[フランス]]が介入した[[チャド]]内戦も終結した。[[カンボジア内戦]]も1988年から和平会議が開催された。
 
==== 東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年) ====
ソ連は「裏庭」と見なしている[[東ヨーロッパ]]諸国に対しても改革を促し、[[1989年]]に[[ポーランド]]で[[ポーランド統一労働者党]]が失脚して政権が交代し、[[ハンガリー]]や[[チェコスロバキア]]でもソ連式[[共産党]]体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへ大量脱出した。このため、[[11月9日]]には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべき[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]した。[[ルーマニア]]でも[[ルーマニア革命 (1989年)|革命]]が勃発し、[[ニコラエ・チャウシェスク]]大統領夫妻が射殺され、[[ルーマニア共産党|共産党]]政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、[[東欧革命]]という。1989年12月には、[[地中海]]の[[マルタ]]島で、ゴルバチョフと[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が[[マルタ会談|会談]]し、'''冷戦の終結'''を宣言した<ref>[http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/3/newsid_4119000/4119950.stm Malta summit ends Cold War], BBC News, 3 December 1989. Retrieved on 11 June 2008.</ref>。
 
==== ソビエト連邦の崩壊(1989年-1991年) ====
一方、ソ連国内では[[ペレストロイカ]]路線は行き詰まりつつあった。[[バルト三国]]の独立要求が高まり、[[1988年]]11月に[[エストニア・ソビエト社会主義共和国]]が主権宣言、同年[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]でも[[サユディス]]による独立運動の加速により、国旗をソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月に[[リトアニア共産党]]が[[ソビエト連邦共産党]]からの独立を宣言した。
 
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しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、[[12月8日]]に、[[ロシア]]のエリツィン、[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]が[[ベラルーシ]]の[[ベロヴェーシの森]]で会談し、ソ連からの離脱と[[独立国家共同体]] (CIS) の結成で[[ベロヴェーシ合意|合意]]した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして[[12月25日]]をもって'''[[ソ連崩壊|ソ連は消滅した]]'''。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。
 
=== ポスト冷戦時代(1991年-) ===
{{See also|現代 (時代区分)|一極体制|平成#国際関係史}}
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結すると、反共主義を条件にアメリカの援助を受けた[[軍事政権|軍事]][[独裁政治|独裁政権]]がその殆どを占めた中南米諸国においても、[[チリ]]や[[アルゼンチン]]、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における[[橋頭堡]]として、軍事援助や[[物々交換|バーター貿易]]などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって[[戦略]]的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。