「JT女性社員逆恨み殺人事件」の版間の差分

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見出しを大幅削減・統合、殺人前科についてはあくまで本事件の主題ではないため余分な記述を削り簡潔にするなどの改良
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| 経度度=139|経度分=49|経度秒=56.553
| 日付 = [[1997年]]([[平成]]9年)[[4月18日]]<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 時間 = 午後921時過ぎ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
| 時間帯 = UTC+9
| 概要 = 別の殺人で服役した[[前科]]を持つ加害者の男は、本事件の7年前([[1989年]])、被害者女性を強姦し、恐喝した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。<br>女性から被害届を出されたことで、男は逮捕・起訴され、[[札幌刑務所]]に服役した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。<br>男は出所直後、被害者女性の居所を見つけ、女性を刺殺した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
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マスメディアにより「逆恨み殺人事件」として大きく取り上げられた本事件は、近隣住民に恐怖感を、一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
また作家・[[丸山ゴンザレス|丸山佑介]]は本事件を著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』(彩図社2010年)にて「刑事司法制度の根幹を揺るがしかねない殺人事件」刑事事件の被害者が犯人を告発したために殺されるというあまりにも不条理な筋書きに世間が震撼した。また、刑事事件の被害者保護、また再犯の防止という点でも非常に大きな意味を持つ事件だった」と評した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
== 元死刑囚M ==
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=== 生い立ち ===
Mは終戦後、家族とともに朝鮮半島から日本に[[引き揚げ]]<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。Mは[[1947年]](昭和22年)頃から[[福岡県]][[戸畑市]](現・[[北九州市]])に居住し、[[1958年]](昭和33年)3月に同市内の中学校を卒業した後、九州などで映写技師見習いとして働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mが就職した当時は、ニュータイプのスターとして[[石原裕次郎]]が人気を博するなど[[映画]]が娯楽の王座にあったが<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、その後は映画産業の斜陽化により<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、塗装店・[[映画館]]従業員などの職を転々とするようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mは[[広島市]]内で後述の最初の殺人事件を起こす以前までに、Mは[[山口県]][[下関市]]内で<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、の前歴が2回あった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
 
=== 1976年8月12日、殺人前科 ===
Mは[[1976年]](昭和51年)、[[広島県]][[広島市]]内で別れ話の諍いから交際相手の少女(当時16歳・高校2年生の女子高生)を殺害し、懲役10年の刑に処させた前科があった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 被害者少女との出会いから殺害に至るまで ====
[[1976年]](昭和51年)5月6日から同年8月10日ごろまでの間<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、当時34歳だったMは、下関市内の[[ストリップ]]劇場「下関ショー劇場」で<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、照明係として働いていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
1976年5月6日から同年8月10日ごろまで間<ref group="新聞" name="国新聞1976-08-13 夕刊"/>、当時34歳のMは下関市内の[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]劇場で照明係として働いていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その際、当時家出中で親族から[[福岡大分警察]][[中間市別府警察署]]在住、に捜索願が出されていた[[大分県]][[別府市]]内の私立高校に学していた、当時住の16歳で高校2年生の子高生と<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>、偶然知り合い<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、肉体関係を持った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
少女は61976年86日<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>預けられMはこの少女を「ストリッパーとしいたおば宅雇ってくれ」と劇場で働ら家出せようとた後、いったんは両親宅に戻ったが<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>8月5日頃に劇場から再び家出しており、管轄警察署「少女が20歳未満である[[大分県警察]][[別府警察署]]こと」を理由家族か就職を断捜索願が出さていため<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。そのような中で<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>喫茶店を客1976年8月10日夜には少女して訪れたM知り合い、劇場勤めようと2人で職を探に広島市へ向かった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
 
1976年8月611<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>22時20分頃、Mはこの少女を、「ストリッパーして雇ってくれ」もに広島市[[ストリップ田中町 (性風俗広島市)|ストリップ田中町]]劇場で働かせようと(現・広島市[[中区 (広島市)|中区]]田中町)のホテルに投宿した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 刊"/>。し、当時は金に困っていたため、同日夜にはホテル付近にあった食料品店でパン・牛乳を購入た際少女店員に「(商品の)値段20歳未満であるこ高い」文句理由に劇場から就職を断られつけていた<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
 
職探しに出向いた広島市内でも、少女が未成年であるために職が決まらなかったことから<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>、Mは「ホテルで生活を続けると金銭がかさむ」として少女を足手まといに感じるようになった<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。これに加え、少女は既に「両親の下に帰る」という意思を固めていたため<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、Mに別れ話を持ち出すなど<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、冷淡な態度を取るようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。Mはその態度に憤激し<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、それまで少女に抱いていた恋慕の情は憎悪に転じた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
そのため1976年8月10日夜、Mは少女とともに、2人で[[広島県]][[広島市]]へ向かい、職を探しに向かった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
 
1976年8月1112午後10620分、Mは少女とともに、広島市[[田中町<ref (広島市)|田中町]](現・広島市group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-夕刊">『[[中区 (広島市)|中区朝日新聞]]田中町)の』1976年8月13日東京夕刊社会面7面「ホテルに入ったで女高生殺し 広島 連れの男、指名手配」</ref><ref group="新聞" name="中国朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。この時Mはフロントで、『朝日新聞』1976年8月13日西部夕刊社会面7面明日の午後2時頃まで寝女高生殺せてくる 広島のホテル</ref>301号室に投Mは宿した泊先のホテルの一室で<ref group="新聞" name="中国朝日新聞1976-08-13-夕刊"/>、確定的な殺意の下に浴衣の紐で少女の首を絞め<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、少女を殺害した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週実話1999-08-19"/>。Mは当時金に困っていたのか少女を殺害後翌8月12はホテルのそばフロントあった食料品店1人パン・牛乳を購入したが現れその際店員に(商品の)値段が高い11時頃には帰って来る」と文句をつけ従業員に告げホテルを出た<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 刊"/>。
 
作家・[[朝倉喬司]]は『[[週刊実話]]』1999年8月19日号([[日本ジャーナル出版]])の本事件特集記事において「この1回目の殺人の動機は、まだ精神的に幼かった少女がMをなじった言葉の綾に対し過剰反応したものだった。[[被害妄想]]に駆られて我を忘れてしまうパターンは後の本事件と共通している」と指摘した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
しかし広島市内でも、少女が未成年であるために職が決まらなかったことから<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>、Mは「ホテルで生活を続けると金銭がかさむ」と、少女を足手まといに感じるようになった<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。これに加え、少女は既に「両親の下に帰る」という意思を固めていたため<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、Mに別れ話を持ち出すなど<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、冷淡な態度を取るようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。Mはその態度に憤激するとともに<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、それまで少女に抱いていた恋慕の情は憎悪に転じた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
;同事件の捜査
1976年8月12日午前6時頃<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-夕刊">『[[朝日新聞]]』1976年8月13日東京夕刊社会面7面「ホテルで女高生殺し 広島 連れの男、指名手配」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊">『朝日新聞』1976年8月13日西部夕刊社会面7面「女高生殺される 広島のホテル」</ref>、Mは宿泊先のホテルの一室で<ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-夕刊"/>、確定的な殺意の下に浴衣の紐で少女の首を絞め<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、少女を殺害した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
翌1976年8月12日昼ごろ、Mとともに宿泊していた少女が一向に起きてこないことを不審に思ったホテルの従業員が、ホテル和室で少女の遺体を発見して[[広島県警察]][[広島東警察署]]に110番通報した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊">『[[中国新聞]]』1976年8月13日朝刊第一社会面15面「ホテルで女性殺される 広島 首を絞められた跡 同居の男、姿を消す」</ref>。広島県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定して捜査を開始し、<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>、遺体の指輪に刻んであったローマ字のイニシャルを手掛かりに、全国の警察に対し家出人照会を行った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
 
その結果、翌8月13日には遺体の身元が[[福岡県]][[中間市]]出身、[[大分県]][[別府市]]内の私立高校に在学していた16歳少女と断定された<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊">『中国新聞』1976年8月13日夕刊第一社会面3面「広島のホテル殺人被害者 九州の家出女子高生 指紋一致指名手配 男は劇場照明係 下関から職探しに同伴」</ref>。
作家・[[朝倉喬司]]は、「この1回目の殺人の動機は、まだ精神的に幼かった少女がMをなじった言葉の綾に対し、Mが過剰反応したものだった。[[被害妄想]]に駆られて我を忘れてしまうパターンは後の本事件と共通している」と指摘した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
これに加え、現場から採取された指紋が前歴者カードに記録されていたMの指紋と一致することが判明したため、同日朝になって広島県警捜査一課・広島東署は[[被疑者]]Mを[[殺人罪 (日本)|殺人]]容疑で全国に[[指名手配]]した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。一方でMは事件後、[[広島駅]]から[[新神戸駅]]まで[[山陽新幹線]]に乗車し、電車を乗り継いで[[大阪府]][[大阪市]]まで逃亡、同市[[港区 (大阪市)|港区]]内の[[簡易宿泊所]]に潜伏していた<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
Mは少女を殺害した後、翌8月12日午前8時頃にフロントに1人で現れ<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>、フロントの従業員に「会社に行ってくる。11時頃には帰って来る」と告げ、ホテルを出た<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
 
同日頃からMは、付近に住んでいた大工の下で雑役夫として働いていたが、逮捕当時は前述の現場ホテルのマッチ1個、事件を報道した新聞の切り抜き3枚、所持金300円しか持っていなかった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
==== 同事件の捜査 ====
===== 被害者少女の遺体発見・事件発覚 =====
1976年8月12日午後1時40分ごろ、Mとともに宿泊していた少女が一向に起きてこないことを、ホテルの従業員が不審に思った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
 
午後2時10分頃、従業員が現場のホテル3階301号室に清掃に向かったところ1976年8月24日夜、Mとともに宿泊していた少女が、6畳和室のマットレスの上で仰向けに倒れて死亡しているのを発見し、[[広島県大阪府警察]][[広島東港警察署 (大阪府)|港警察署]]へ匿名で寄せられた110番通報したにより、大阪府警機動捜査員・港署員に殺人容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]され<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊25">『[[中国新聞]]』1976年8月1325刊第一社会面153面「広島のホテル高生される 広島 首を絞められた跡 同居手配M姿大阪で逮捕 簡易宿所に潜伏中 雑役夫に身消すやつし」</ref>。同日昼に身柄を広島東署へ護送された<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/><ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>。
 
Mは取り調べに対し容疑を認めた上で、動機などについて以下のように供述した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26">『中国新聞』1976年8月26日朝刊第一社会面15面「『口論の果て絞めた』 女高生殺しMが自供 大阪での就職断られ」</ref>。
遺体の首には細い紐で絞めたような跡があったことから、広島県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
* 「8月6日頃、下関市内の喫茶店でコーヒーを飲んでいた少女と知り合った。少女が『仕事を探している』と言ったので、『世話をしてやろう』と言い交際を始めた」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「まず勤め先の劇場に少女を連れて行き、『ストリッパーとして雇ってくれ』と言ったが未成年だったので断られたため、8月10日夜、広島に職探しに向かい現場ホテルに宿泊した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「8月11日朝、広島市内の劇場に就職の話に行ったが、社長が不在で話がまとまらなかったため、ホテルに帰った。その後、少女に『下関に帰ろう』と言ったが、少女は『帰らない』というので、『自分の知っている大阪に行こう』と持ち掛けた。しかし、少女が同意しなかったため口論になった。翌12日未明も、『大阪に行く』『行かない』で口論になったため、午前6時から6時30分頃の間にベッドに横になっていた少女に馬乗りになり、浴衣の腰紐で首を絞めて殺した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
 
[[広島地方裁判所]]に[[起訴]]され[[刑事訴訟法|刑事訴訟]]にかけられた被告人Mは[[1977年]](昭和52年)1月14日、広島地裁(雑賀飛竜裁判長)から懲役10年(求刑・懲役12年)の有罪[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡され<ref group="新聞">『中国新聞』1977年1月14日夕刊第一社会面3面「広島のホテル女高生殺し Mに懲役10年 広島地裁『身勝手、悪質な犯行』」</ref><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、後述の仮出所まで約8年間にわたり[[岡山刑務所]]に服役した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
被害者少女は浴衣を着ており、着衣に乱れはなかった上、抵抗したような形跡は見られなかった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
 
[[1984年]](昭和59年)12月20日、[[受刑者]]Mは岡山刑務所を仮出所し<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、[[1986年]](昭和61年)10月に刑期を満了した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
同日午後6時から、[[広島大学]]医学部で少女の遺体を[[司法解剖]]した結果、死因は絞殺で、死亡推定時刻は12日午前6時から7時頃であることが、それぞれ判明した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 朝刊"/>。
 
Mは仮出所後、[[千葉県]][[船橋市]]内に転居していた両親の下に身を寄せ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、地元の映画館で映写技師として働いた後、[[東京都]]内で住み込みの建設作業員などとして働くようになったが<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、[[1987年]](昭和62年)末から翌[[1988年]](昭和63年)初めにかけて東京都内で自動車を盗んだ上にその盗難車を無免許で運転したとして、[[窃盗罪|窃盗]]・[[道路交通法]]違反容疑で検挙された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。1988年3月10日、被告人Mは[[東京地方裁判所]]で懲役1年2月の実刑判決を受け、[[府中刑務所]]に服役した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
===== 被害者の身元確認 =====
広島県警捜査一課は、遺体の指輪に刻んであったローマ字のイニシャルを手掛かりに、全国の警察に対し家出人照会を行った<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
 
本事件7年前の[[1989年]](平成元年)2月15日、当時46歳のMは府中刑務所を仮出所した後<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、後述の事件で逮捕されるまで東京都江東区内の建設会社に勤務していた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
その結果、同年6月4日付で大分県警別府署に、少女の家族から捜索願が出されていたことが判明した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
 
8月13日午前4時、少女の父親が広島に向かい、遺体の身元を娘と確認した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。このため、広島県警捜査一課・広島東警察署は遺体の身元を少女と断定した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊">『中国新聞』1976年8月13日夕刊第一社会面3面「広島のホテル殺人被害者 九州の家出女子高生 指紋一致指名手配 男は劇場照明係 下関から職探しに同伴」</ref>。
 
===== 被疑者Mを指名手配 =====
一方で捜査一課は、犯行現場のホテル301号室から指紋を採取し、警察庁に照会した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。その結果、採取された指紋は、前歴者カードに記録されていたMの指紋と一致した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/>。
 
そのため1976年8月13日朝、広島県警捜査一課・広島東署は、Mを[[被疑者]]と断定し、[[殺人罪 (日本)|殺人]]容疑で全国に[[指名手配]]した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-13 夕刊"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1976-08-13-西部夕刊"/>。
 
広島県警広島東署に設置された捜査本部は同年8月17日付で、県内各署のほか、全国の警察を通じて、公衆浴場・パチンコ店・劇場などに被疑者Mの顔写真3000枚を配布した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18">『中国新聞』1976年8月18日朝刊第一社会面15面「女高生殺しのM 全国公開手配」</ref>。この時のデータによれば、「Mは身長167cm、やせ形で、左手首に桜の花の[[刺青]]がある」というものだった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18"/>。捜査本部は、Mが劇場照明係・映写技師・パチンコ店店員として勤務したことがあったことから、そのような場所に立ち回る可能性が高いと判断した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-18"/>。
 
===== 被疑者Mを逮捕 =====
犯行翌日の8月13日頃から、Mは「生田安治郎」の偽名を使い、[[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]市岡2丁目の[[簡易宿泊所]]に宿泊した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。同日頃からMは、付近に住んでいた大工の下で雑役夫として働いていたが、逮捕当時は前述の現場ホテルのマッチ1個、事件を報道した新聞の切り抜き3枚、所持金300円しか持っていなかった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
 
1976年8月24日夜、[[大阪府警察]][[港警察署 (大阪府)|港警察署]]に匿名で、「(前述の)簡易宿泊所に、新聞に載っていたMによく似た男が泊まっている」という内容の110番通報があった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
 
これを受けた大阪府警機動捜査員・港署員の計6人が、宿泊所に急行したところMの姿があった<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。警察官が男に「Mか」と尋ねると、Mはうなずき、犯行を認めた<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/>。
 
このため大阪府警港署は、1976年8月25日早朝、指名手配されていた被疑者Mを殺人容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25">『中国新聞』1976年8月25日夕刊第一社会面3面「広島のホテル女高生殺し 手配のM、大阪で逮捕 簡易宿所に潜伏中 雑役夫に身をやつし」</ref>。大阪府警は同日昼過ぎ、Mの身柄を[[山陽新幹線]]で広島東署に護送した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-25"/><ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>。
 
取り調べに対し、Mは容疑を認めた上で、動機などについて以下のように供述した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26">『中国新聞』1976年8月26日朝刊第一社会面15面「『口論の果て絞めた』 女高生殺しMが自供 大阪での就職断られ」</ref>。
* 「8月6日頃、下関市内の喫茶店でコーヒーを飲んでいた少女と知り合った。少女が『仕事を探している』と言ったので『世話をしてやろう』と言い、交際を始めた」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「勤め先の劇場に少女を連れて行き、『ストリッパーとして雇ってくれ』と言ったが、未成年だったので断られたため、8月10日夜、広島に職探しに向かい、現場ホテルに宿泊した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「8月11日朝、広島市内の劇場に就職の話に行ったが、社長が不在で話がまとまらなかったため、ホテルに帰った。その後、少女に『下関に帰ろう』と言ったが、少女は『帰らない』というので、『自分の知っている大阪に行こう』と持ち掛けた。しかし少女が同意しなかったため、口論になった」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「翌12日未明も、『大阪に行く』『行かない』で口論になったため、午前6時から6時30分頃の間に、ベッドに横になっていた少女に馬乗りになり、浴衣の腰紐で首を絞めて殺した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「犯行後、タクシーで[[広島駅]]に行き、午前8時半頃に[[山陽新幹線]]に乗り、[[新神戸駅]]で降りた。その後、電車を乗り継いで大阪市内に入り、前述の簡易宿泊所に宿泊した」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
* 「事件の報道は12日、大阪の新聞夕刊で知り、翌13日朝の新聞で自分が指名手配されたことを知った。出頭しようと思ったが決断がつかなかった」<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-26"/>
 
===== 逮捕後 =====
1976年8月26日、被疑者Mは殺人容疑で[[広島地方検察庁]]に送検された<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-27">『中国新聞』1976年8月27日朝刊第一社会面19面「Mを送検 広島のホテル女高生殺し」</ref>。Mは犯行後、少女の現金約5000円・財布・腕時計などを持ち去ったが、取り調べに対し「少女からもらった」「奪って逃げた」など、あいまいな供述を繰り返したため、捜査一課はこの点について追及した<ref group="新聞" name="中国新聞1976-08-27"/>。
 
Mはその後、[[広島地方裁判所]]に[[起訴]]され、[[刑事訴訟法|刑事訴訟]]にかけられた<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
[[1977年]](昭和52年)1月14日、広島地裁(雑賀飛竜裁判長)は、「身勝手な理由で、将来のある少女の命を奪った悪質な犯行だ」として、[[被告人]]Mに[[懲役]]10年(求刑・懲役12年)の有罪[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref group="新聞">『中国新聞』1977年1月14日夕刊第一社会面3面「広島のホテル女高生殺し Mに懲役10年 広島地裁『身勝手、悪質な犯行』」</ref><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
その判決が[[確定判決|確定]]したため<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、Mは[[岡山刑務所]]に服役した[[前科]]があった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
== 本事件に至る経緯 ==
1989年12月19日深夜、Mは江東区大島6丁目の[[バス停留所|バス停]]付近で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、当時[[日本たばこ産業]](JT)社員で帰宅途中だった被害者女性(当時37歳)を見かけ、「一緒に酒を飲まないか」と声を掛けた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。Mは女性と2人で深夜の居酒屋で飲酒した後、女性をホテルに誘い<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性から拒絶されると店外まで付きまとった<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
=== 1984年12月20日、岡山刑務所出所後 ===
[[1984年]](昭和59年)12月20日、[[受刑者]]Mは岡山刑務所を仮出所し<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、[[1986年]](昭和61年)10月に刑期を満了した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
Mはその後、[[千葉県]][[船橋市]]内に転居していた両親の下に身を寄せ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、地元の映画館で映写技師として働いた後、[[東京都]]内で住み込みの建設作業員などとして働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
しかし[[1987年]](昭和62年)末から、翌[[1988年]](昭和63年)初めにかけ、Mは東京都内で自動車を盗んだ上、無免許で盗難車を運転したとして、[[窃盗罪|窃盗]]・[[道路交通法]]違反容疑で検挙された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
1988年3月10日、Mは[[東京地方裁判所]]で懲役1年2月の実刑判決を受け、[[府中刑務所]]に服役した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
事件の7年前の[[1989年]](平成元年)2月15日、当時46歳のMは府中刑務所を仮出所した後<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、後述の事件で逮捕されるまで、[[江東区]]内の建設会社に勤務していた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
=== 1989年12月19日、本事件のきっかけとなった強姦致傷・恐喝事件 ===
1989年12月19日深夜、Mは江東区大島6丁目の[[バス停留所|バス停]]付近で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、当時[[日本たばこ産業]](JT)社員で帰宅途中だった被害者女性(当時37歳)を見かけ、一緒に酒を飲まないかと声を掛けた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mは女性と2人で、深夜の居酒屋で飲酒した後、女性をホテルに誘い<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性から拒絶されると店外まで付きまとった<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
しかしなおも拒絶されたことに逆上したMは、近くの団地脇の暗がりに差し掛かったところで、女性にいきなり抱き着いてキスを迫った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
女性が抵抗すると、Mは手で首を絞めて女性を失神させ、首に全治2週間の怪我を負わせた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mはそのまま、失神した女性を近くのごみ集積所の横へ引きずり込み<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、「性感を高めるために」ゴミの中にあった電気コードで女性の首を絞めつつ、女性を[[強姦]]した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mはその後、女性の所持品から財布などの入ったショルダーバッグ1個を奪い、現場から逃走した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。冬季の深夜に半裸の状態で屋外に放置され、生命の危険に晒された女性は<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、失神して現場で倒れているところを発見されたが<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、意識を回復してからも後述のMからの電話までの間、自分が強姦されたかどうかも判然としていなかった<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
[[朝倉喬司]]は、「以前の殺人で、Mの内面が決定的に壊れたのだろう。女性の『首を絞める』のが快感につながるという歪んだ欲望も、この時の『自己崩壊』とともに、Mの体の底に染み付いたのかもしれない」と指摘した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
Mは事件後、女性のバッグの中にあった手帳などから女性の電話番号を知り<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、事件から1週間後、この強姦事件をネタに女性から金品を恐喝しようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
しかしなおも拒絶されたことに逆上したMは、近くの団地脇の暗がりに差し掛かったところで女性にいきなり抱き着いてキスを迫った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。女性が抵抗すると、Mは手で首を絞めて女性を失神させ、首に全治2週間の怪我を負わせた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
Mの口ぶりは当初、「女性が警察に通報したかどうかを探るような」口ぶりだったが、女性の対応がおとなしかったことから、Mは「まだ警察には通報されていない」と考えた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
このことからMはそのまま失神した女性に対し電話で「強姦されたことばらされたなかったら10万円払え」のごみ集積所の横へ引きずり込み<ref group="判決文雑誌" name="東京地裁週刊実話1999-0508-2719"/>、「性感を高めるために」ゴミの中にあった電気コードで女性の首を絞めつつ女性を[[強姦]]した<ref group="判決文" name="東京20001999-0205-2827"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その後「出方次第でM会社に強姦され女性の所持品から財布などの入っことショルダーバッグ1個奪って現場かすぞ」逃走した<ref group="判決文" name="東京20001999-0205-2827"/>、「警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅迫した<ref group="判決文雑誌" name="東京地裁週刊実話1999-0508-2719"/>。冬季の深夜に半裸の状態で屋外に放置されて生命の危険に晒された女性は<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、失神して現場で倒れているところを通行人に発見されたが<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、意識を回復してからも後述のMからの電話までの間、自分が強姦されたかどうかも判然としていなかった<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
Mは事件後、女性のバッグ内にあった手帳などから女性の電話番号を知り<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、事件から1週間後には「この強姦事件をネタに女性から金品を恐喝よう」と考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。女性の電話番号に電話したMの口ぶりは当初、「女性が警察に通報したどうかを探るような」口ぶりだったが、女性の対応がおとなしかったことから「まだ警察には通報されていない」と考え<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、女性に対し電話で「強姦されたことをばらされたくなかったら10万円払え。出方次第では会社に強姦されたことをばらすし、警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅迫たが<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、身の危険を感じた女性が警視庁に通報したため<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、Mは同年12月29日<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、金の受け渡し場所に指定された[[都営地下鉄新宿線]][[大島駅 (東京都)|大島駅]]改札口付近に現れたところを<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、待ち構えていた警察官に逮捕された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
朝倉喬司はこの強姦致傷事件について、『週刊実話』1999年8月19日号特集記事にて「以前(1976年)の殺人でMの内面が決定的に壊れたのだろう。女性の『首を絞める』のが快感につながるという歪んだ欲望も、この時の『自己崩壊』とともにMの内面に染み付いたのかもしれない」と指摘した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
==== 1990年3月13日、懲役7年の判決を受け、札幌刑務所に服役 ====
被疑者Mはその後、[[強姦罪|強姦致傷]]・[[窃盗罪|窃盗]]・[[恐喝罪|恐喝]]未遂の各罪状で[[東京地方裁判所]]に起訴された<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
被疑者・被告人Mは強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の各罪状で[[東京地方裁判所]]に起訴され、[[1990年]](平成2年)3月13日、被告人Mは東京地裁で[[懲役]]7年の有罪判決を受け<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、[[札幌刑務所]]に[[収監]]された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="福田2001">{{Cite book |和書 |author=[[福田洋 (作家)|福田洋]] |title=20世紀にっぽん殺人事典 |publisher=[[社会思想社]] |date=2001-08-15 |pages= 747-749 |isbn=978-4390502122 }}「逆恨み男、JT女性社員殺し」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
丸山佑介は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』にて、「被告人Mはこの事件の[[公判]]中こそ裁判官の心証を良くしようと反省の態度を装っていた」と記したが<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、内心M当時から「被害者に『警察に届け出るな』と約束したのに破られた」として、犯罪被害を警察に届け出た女性の「当然の行為」を「自分に対する裏切り行為」と決めつけており、筋違いな激しい憤りを覚えていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
これに加え、冬の寒さが厳しい札幌刑務所に収監されたことや<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>、同房の未決囚から「この強姦事件の刑は普通より1年か2年重い」と言われたことから<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、Mは服役中、「この札幌刑務所で辛い思いをしなければならなくなったのはあの女が俺を裏切って警察に届け出たからだ」などと、逆恨みの感情を増幅させていった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
そのためMは、具体的な手段・目的などの内容こそ決めていたわけではなかったものの、服役中も一貫して、出所後に女性をお礼参りで殺害しようと決意しており、「自分の言った『警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ』という言葉が単なる脅しではないことを思い知らせてやろう」などと考え続けていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
== 事件発生 ==
受刑者Mは1997年2月20日付で懲役7年の刑期を満了して翌2月21日に札幌刑務所を満期出所し<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、同日深夜に[[札幌駅]]から[[上野駅]]行きの[[夜行列車|夜行]][[特別急行列車|特急列車]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」に乗車して上京した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。翌2月22日、上野駅に到着したMは船橋市内の実家に身を寄せ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、1997年2月24日からはかつて勤務していた東京都[[墨田区]][[錦糸]]にあった設備会社で作業員として働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
=== 1997年2月21日、札幌刑務所出所以降 ===
==== 事件発生までの生活 ====
受刑者Mは1997年2月20日付で懲役7年の刑期を満了し、翌2月21日に札幌刑務所を満期出所した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
その後設備会社を退職したMは1997年3月14日から東京都[[江戸川区]]内の会社に就職し、社員寮に住み込みの建設作業員として働き始めたが、その一方で服役中と同様に被害者を殺害する決意を持ち続けていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
同日深夜、Mは[[札幌駅]]から[[上野駅]]行きの[[夜行列車|夜行]][[特別急行列車|特急列車]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」に乗車して上京した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。翌2月22日、上野駅に到着したMは船橋市内の実家に身を寄せた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは7年前、被害者に出会った際に女性の口から聞いていた「現場の団地で1人暮らししている」という言葉を手掛かりに<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、[[お礼参り]]をすべく上京翌日の1997年2月23日から被害者女性(事件当時44歳)を探し始めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。現場の団地は2000戸以上からなる巨大な団地だったが<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、Mは「住人でもない自分が調べ回っていると動機を怪しまれる」として「調べるのは1日に1棟だけ」と限定した上で、仕事の休日を使い、各棟1階の集合郵便受けをくまなく調べ続け<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、執念深く被害者女性の名前を探した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
1997年2月24日以降、Mはかつて勤務していた東京都[[墨田区]][[錦糸]]にある設備会社で作業員として働くようになった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その後Mは、設備会社を退職し、1997年3月14日から東京都[[江戸川区]]内の会社で、社員寮に住み込みの建設作業員として働き始めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
しかしそ結果、1997年2月23日・3月16日頃に団地を訪れた際にはいずれも女性一方部屋を発見きずに終わったものの<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>Mは出所から約2か月も服役中と同様の1997年4月7日被害者を殺害すは団地1号棟の4階410号室に女性が住んでい決意こと持ち続けてい突き止めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは女性の住居探しをするだけでなく、以下のように犯行への準備も進めつつ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、「[[ゴールデンウィーク]]に入ると女性が帰省して不在になる恐れがあるからその前に犯行を決行しよう」と考え、実行日・方法を「1997年4月18日、出勤途中または帰宅途中を襲撃して包丁で刺殺する」と決めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 被害者宅を突き止める ====
* 1997年3月1日、凶器として使用した刃渡り約20.9センチメートルの柳刃包丁1本(平成9年押収第1579号の1)・絞殺用の凶器としてペット用のロープ2本を購入した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mは、7年前に被害者に出会った際に女性の口から聞いていた、「現場の団地で1人暮らししている」という言葉を手掛かりに<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、[[お礼参り]]をすべく、上京翌日の1997年2月23日から被害者女性(事件当時44歳)を探し始めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
* 犯行5日前の1997年4月13日頃、包丁の柄の部分に滑り止めの黒いビニールテープを巻き付けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
* 事件前日の1997年4月17日、包丁を目立たせずに持ち運ぶために生活情報誌を使って包丁の鞘を作った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
* 犯行後に社員寮を引き払おうと考えたため、その準備として衣類の一部を手提げ袋の中に入れ、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]の[[本八幡駅]](千葉県[[市川市]])の[[コインロッカー]]に預けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
現場女性団地は、11階建居場所を突き止めてから14階建て11日後となる事件当日集合住宅7棟で1997年4月18日午前6時45分頃、Mは鞘に収めた包丁を成された<ref group="書籍" name="丸山2010"/>2000戸以上からなる巨大な社員寮を出て現場団地に向かった<ref group="判決文" name="東京20001999-0205-2827"/>。7時30分頃、Mは「住人1号棟の女性の部屋(4階410号室)の前に着き、玄関の表札を見て女性宅もない自分あることを確認した調べ回っ、室内に照明がついていたこ動機を怪しから「女性がれる」とだ在室して、「調べのは1日に1棟だけ」と限定した上で仕事の休日を使い考え片っ端人目につかないように部屋から十数メートル離れた1号14北側集合郵便受けを調べ続け<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、執念深く被害者女性の名前を探非常階段踊り場に移動した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
1997年2月23日・3月16日頃に団地を訪れた際にその上でM、いずれも「ここ(非常階段踊り場)で女性を待ち伏せ、部屋を発見でから出てた女性がエレベーター終わ乗る前に『7年前に約束を破たものの<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、て警察に届け所かた恨みを晴約2か月後の1997年4月7日、団地1号棟の4階410号室女性が住ん来た』ことを伝えた上殺害すことを突き止めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは8時ごろ、女性が部屋を出てきたところを見かけるとすぐに後を追いかけ、背後数メートルまで近づいたが、エレベーターホール横の中央階段付近から聞こえてきた階段を降りてくる人の足音にひるみ、犯行を目撃されることを恐れて立ち止まった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その間、女性はエレベーターで1階まで下りてそのまま[[タクシー]]に乗車し団地を発ったため、午前中は殺害できずに終わった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 犯行の準備 ====
その一方でMは、1997年3月1日、凶器に使われた刃渡り約20.9cmの柳刃包丁1本(平成9年押収第1579号の1)<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>・絞殺用の凶器としてペット用のロープ2本を購入するなど<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、犯行の準備も進めていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
[[ゴールデンウィーク]]に入るとそこでMは女性省しりを狙っ不在にな殺害す恐れがあると考え計画に変更しMは上でその前包丁を着ていたセーター包み女性を殺害の部屋の玄関脇にあるメータ―ボックスの中に隠ようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mは実行日を1997年4月18日その後、付近定めある酒屋で[[酒]]を買って飲んだり出勤途中または社員寮に宅途中って昼寝襲撃したりして包丁で刺殺時間を潰ようと決めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは19時過ぎに再び現場団地に戻ったが、当時は室内がまだ暗かったことから「女性はまだ帰宅していない」と考え、メーターボックスの中から包丁を取り出した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
1997年4月13日頃、Mは犯行のための準備として、包丁の柄の部分に滑り止めの黒いビニールテープを巻き付けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。これに加えて1997年4月17日、包丁を目立たせずに持ち運ぶため、生活情報誌を使って包丁の鞘を作り、犯行の準備を整えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mはそのまま包丁をベルトに挟み、1号棟4階南側の非常階段踊り場付近などで女性の帰宅を見張っていたところ、21時過ぎになって女性が団地内の広場付近を1号棟に向かって歩いてくる姿を見つけたため、エレベーターに乗って下に降り、1階で乗り込んでくる女性を待ち伏せようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
その一方でMは、犯行後に社員寮を引き払おうと考えたため<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、その準備として衣類の一部を手提げ袋の中に入れ、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]の[[本八幡駅]](千葉県[[市川市]])の[[コインロッカー]]に預けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
そのことを全く知らない女性は18時過ぎ、[[渋谷区]]にあるJT東京支社を退社した後、友人5人とともに女性問題に関するサークル活動に参加しており<ref group="書籍" name="村野2002"/>、友人らとともに行きつけだった[[港区 (東京都)|港区]]内の飲食店で20時50分頃まで飲食し<ref group="書籍" name="福田2001"/>、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄、現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[永田町駅]]で友人と別れて家路に向かっていた<ref group="書籍" name="村野2002">{{Cite book |和書 |author=[[村野薫]](編集)、事件・犯罪研究会 (編集) |title=明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 |publisher=[[東京法経学院]] |date=2002-07-05 |page=306 |isbn=978-4808940034 }}「JT女子社員〝逆恨み〟殺人事件」([[袴田京二]])</ref>。
=== 1997年4月18日、事件当日 ===
==== 午前中の行動 ====
女性の居場所を突き止めてから11日後となる事件当日の1997年4月18日午前6時45分頃、Mは鞘に収めた包丁を構え、社員寮を出て現場団地に向かった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
21時過ぎ、女性がエントランスホールに着いたところでMが乗った[[エレベーター]]が降りてきた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。エレベーターの扉が開くと中に大柄の初老の男(M)が乗っていたため、女性は出口を暫く開けて男が降りるのを待ったが、男は1階に着いたにも拘らずエレベーターから降りなかった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。Mはこの時までに「7年前の強姦致傷事件の被害者本人であることを確認した上で『約束』を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た旨を伝え、女性を殺害する」という犯行の手順を決めており、そのタイミングを待っていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
午前7時30分頃、Mは1号棟の女性の部屋の前に着き、玄関の表札を見て女性宅であることを確認した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。室内に照明がついていたことから、女性がまだ在室していると考えたMは人目につかないよう、部屋から十数m離れた1号棟4階北側の非常階段踊り場に移動した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
標的として待ち伏せていた被害者女性本人とちょうどエレベーター内に乗り合わせたことから、Mは「殺害するには絶好の機会だ」と考え、エレベーターに乗り込んだまま女性が乗り込むのを待った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。この時点で女性は、乗り合わせた男が7年前に自分を強姦し、被害届を出されたことを一方的に逆恨みして自分を殺しに来たMであることに気付かず、「何階ですか」と声を掛けられると「4階をお願いします」と返答して4階のボタンを押させた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。エレベーターが上昇しだした直後、Mは女性に対し、7年前の強姦致傷事件の被害者本人であることを確かめようと<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性の実名を言葉に出して尋ねたが<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、女性は思い出しかねる様子で首を傾げながらMの顔を見た<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
その上でMは、「ここで女性を待ち伏せ、部屋から出てきたところを狙い、女性がエレベーターに乗る前に、『7年前に約束を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た』ことを伝えた上で、女性を殺害する」ことを決めた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
午前8時ごろ、続いてMは女性が部屋を出セーター内に隠し持っところ包丁の柄見かけると右手で持ちすぐに後を追いけ、背後数mら少しずつ引き抜きつつ「7年前の事件ろまで近づとは覚えてるか」と脅した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。しかし、エレベーターホール横中央階段付近問いら階段を降りてくる人けで7年前足音が聞こえ忌まわしい出来事を思い出したため<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、M女性犯行を目撃されることを怖して悲鳴を上げながら突然Mに飛び掛かり一瞬ひるんで立ち止まMが右手に持っていた包丁を奪い取った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。不意を突かれたMはその間、隙に女性はエレベーターで1階まで下り、そのまま[[タクシー]]乗車して団地包丁発ったため奪われ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、午前中逆に刃先を突き付けられた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。ちょうどその時、エレベーターが4階に到着して扉が開いたため、女性殺害でMから奪い取った包丁を左手に持ち、包丁を小刻みに突出したり、横終わたりしつつ「助けて、殺される」などと大声で悲鳴を上げ、エレベーターホール北側の壁際まで後ずさりした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
そこでMいったん女性の帰り思わぬ抵抗に動揺して凶器の包丁奪われたMだたが、「殺害の機会は今しかない。少しくらい自分が怪我をしでも殺害する計画に変更よう」と考え、女性の隙を見て飛び掛かりエレベーターホール北側の壁に押さえつけた上で包丁を奪い返した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、包丁を着。そしいたセーターに包んだ上で、左下腹部・腹部中央部・右胸・左胸と<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、女性の部屋の玄関脇を滅多刺しあるメータ―ボックスして心損傷など中に隠し致命傷を負わせた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
凶行の直後、Mは女性に致命傷を負わせたことを確認した上で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、被害者が文字通り血の海の中で横たわっているのも意に介さず<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、女性の手から床に落ちていた所持品のハンドバッグ(現金約11,773円、クレジットカードなど計76点在中。時価約16,410円相当)を奪い、凶器の包丁を持ち去って現場から逃走した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
Mはその後、付近にある酒屋で[[酒]]を買って飲んだり、社員寮に帰って昼寝をしたりして時間を潰した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
現場を立ち去ったMは、現場最寄り駅である[[都営地下鉄新宿線]][[大島駅 (東京都)|大島駅]]付近の路上まで約800メートル徒歩で移動し<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>、駅前で待機していたタクシーに乗車し<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、同線[[船堀駅]]まで逃走したが<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>、そのタクシー料金は女性から奪ったハンドバッグに入っていた財布の現金で支払った上<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、凶器の包丁・奪ったハンドバッグなどは<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、Mの自宅付近にあった駅の<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>コインロッカーに隠匿した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
==== 事件発生 ====
Mは午後7時過ぎ、再び現場団地に戻り、女性の部屋だった4階410号室前に戻った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。室内がまだ暗かったことから、女性がまだ帰宅していないと考えたMは、メーターボックスの中から包丁を取り出した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mはそのまま、包丁をベルトに挟み、1号棟4階南側の非常階段踊り場付近などで女性の帰宅を見張っていたところ、午後9時過ぎになって、女性が団地内の広場付近を1号棟に向かって歩いてくる姿を見つけた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。そのため、エレベーターに乗って下に降り、1階で乗り込んでくる女性を待ち伏せようと考えた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
そのことを全く知らない女性は、午後6時過ぎ、[[渋谷区]]にあるJT東京支社を退出した後、友人5人とともに女性問題に関するサークル活動に参加した<ref group="書籍" name="村野2002"/>。女性は、友人らとともに行きつけだった[[港区 (東京都)|港区]]内の飲食店で、午後8時50分頃まで飲食し<ref group="書籍" name="福田2001"/>、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)(現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[永田町駅]]で友人と別れ、家路に向かっていた<ref group="書籍" name="村野2002">{{Cite book |和書 |author=[[村野薫]](編集)、事件・犯罪研究会 (編集) |title=明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 |publisher=[[東京法経学院]] |date=2002-07-05 |page=306 |isbn=978-4808940034 }}「JT女子社員〝逆恨み〟殺人事件」([[袴田京二]])</ref>。
 
午後9時過ぎ、女性がエントランスホールに着いたところでMが乗った[[エレベーター]]が降りてきた<ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。エレベーターの扉が開くと中に大柄の初老の男(M)が乗っていたため、女性は出口を暫く開け、男が降りるのを待ったが、男は1階に着いたにもかかわらずエレベーターから降りなかった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。Mはこの時までに、「7年前の強姦致傷事件の被害者本人であることを確認した上で、『約束』を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た旨を伝え、女性を殺害する」という犯行の手順を決めており、そのタイミングを待っていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
標的として待ち伏せていた被害者女性本人とちょうどエレベーター内に乗り合わせたことから、殺害するのによい機会だと考えたMは、エレベーターに乗り込んだまま女性が乗り込むのを待ち、「何回ですか」と声を掛け、「4階をお願いします」という女性の返答に応じ、4階のボタンを押した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。この時点で女性は、乗り合わせた男が7年前に自分を強姦し、被害届を出されたことを一方的に逆恨みして自分を殺しに来たMであることに気付かなかった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
エレベーターが上昇しだした直後、Mは女性に対し、7年前の強姦致傷事件の被害者本人であることを確かめようと<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性の実名を言葉に出して尋ねたが<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、女性は思い出しかねる様子で、首を傾げながらMの顔を見ていた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは続いて、隠し持っていた包丁の柄を右手で持ち、鞘から少しずつ引き抜きつつ、「7年前の事件のことは覚えているか」と、低い声で脅した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。この問いかけで7年前の忌まわしい出来事を思い出したためか<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性は恐怖して悲鳴を上げつつ、突然Mに飛び掛かり、Mが右手に持っていた包丁を奪い取った<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
不意を突かれたMはその隙に女性に包丁を奪われ<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、逆に刃先を突き付けられた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。ちょうどその時、エレベーターが4階に到着し、扉が開いたため、女性はMから奪い取った包丁を左手に持ち、包丁を小刻みに突き出したり、横に振ったりしつつ、「助けて、殺される」などと大声で悲鳴を上げ、エレベーターホール北側の壁際まで後ずさりした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
Mは女性の思わぬ抵抗に動揺し、いったんは凶器の包丁を奪われたが、「殺害の機会は今しかない」、「少しくらい自分が怪我をしてでも殺害しよう」と考え<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性の隙を見て飛び掛かり、エレベーターホール北側の壁に女性を押さえつけた上で包丁を奪い返した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。そして、左下腹部・腹部中央部・右胸・左胸と<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、女性を滅多刺しにし<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、心損傷などの致命傷を負わせた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
凶行の直後、Mは女性に致命傷を負わせたことを確認した上で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、被害者が文字通り血の海の中で横たわっているのも意に介さず<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、女性の手から床に落ちていた所持品のハンドバッグ(現金約11773円、クレジットカードなど計76点在中。時価約16410円相当)を奪い、凶器の包丁を持ち去って現場から逃走した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
現場を立ち去ったMは、現場最寄り駅である[[都営地下鉄新宿線]][[大島駅 (東京都)|大島駅]]付近の路上まで約800m徒歩で移動し<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>、駅前で待機していたタクシーに乗車し<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、同線[[船堀駅]]まで逃走したが<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>、そのタクシー料金は女性から奪ったハンドバッグに入っていた財布の現金で支払った上<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、凶器の包丁・奪ったハンドバッグなどは<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、Mの自宅付近にあった駅の<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>コインロッカーに隠匿した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
== 捜査 ==
男女の言い争う声に続き、女性の「助けて、殺される」という悲鳴を聞きつけた4階の男性住民が廊下に出たところ、被害者女性がエレベーターホールで血を流して倒れていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>。
=== 事件発生直後 ===
男女の言い争う声に続き、女性の「助けて、殺される」という悲鳴を聞きつけていた4階の男性住民が<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>、廊下に出たところ、女性がエレベーターホールで血を流して倒れていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>。
 
この男性住民から119番通報を受けた[[東京消防庁]]の[[救急車]]が現場に駆け付け、首などから血を流している女性を病院に搬送したが、女性は出血多量により同日午後10時39分頃、搬送先の[[東京都立墨東病院]]([[墨田区]][[江東橋]])で死亡した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19">『読売新聞』1997年4月19日東京朝刊第一社会面35面「大島団地で女性刺され死ぬ/東京・江東」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19 夕刊">『読売新聞』1997年4月19日東京夕刊第一社会面11面「東京・江東の団地女性刺殺 顔見知りの犯行か 直前、男女口論の声」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19">『東京新聞』1997年4月19日朝刊社会面27面「女性刺殺される 江東 自宅団地エレベーター前」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19 夕刊">『東京新聞』1997年4月19日夕刊社会面11面「多量血痕点々 犯人もけが? 江東の女性会社員刺殺」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1997-04-19 夕刊">『中日新聞』1997年4月19日夕刊社会面11面「東京でJT女性社員刺殺 顔見知りの犯行か」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
この男性住民から119番通報を受けた[[東京消防庁]]の[[救急車]]が現場に駆け付け、首などから血を流している女性を病院に搬送したが、女性は出血多量により同日22時39分頃、搬送先の[[東京都立墨東病院]]([[墨田区]][[江東橋]])で死亡した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19">『読売新聞』1997年4月19日東京朝刊第一社会面35面「大島団地で女性刺され死ぬ/東京・江東」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19 夕刊">『読売新聞』1997年4月19日東京夕刊第一社会面11面「東京・江東の団地女性刺殺 顔見知りの犯行か 直前、男女口論の声」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19">『東京新聞』1997年4月19日朝刊社会面27面「女性刺殺される 江東 自宅団地エレベーター前」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19 夕刊">『東京新聞』1997年4月19日夕刊社会面11面「多量血痕点々 犯人もけが? 江東の女性会社員刺殺」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1997-04-19 夕刊">『中日新聞』1997年4月19日夕刊社会面11面「東京でJT女性社員刺殺 顔見知りの犯行か」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
現場の1号棟1階の廊下から、現場最寄り駅である都営新宿線大島駅付近の路上まで、約300mの間に血痕が点々と連続して残されていたが、血痕の量は多く継続的だった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
 
現場こと1号棟1階の廊下から現場最寄り駅である都営新宿線大島駅付近の路上まで[[警視庁]][[城東警察署]]約300メートルの間設置血痕が点々と連続して残された特別捜査本部は<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、「犯人も揉み合っ刃物で負傷し、そのまま地下鉄で逃走し可能性高い」<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>「顔見知り血痕犯行の線もある」とみて、殺人容疑で捜査を開始し量は多く継続的だった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
 
このことから[[警視庁]][[城東警察署]]に設置された特別捜査本部は<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、「犯人も揉み合って刃物で負傷し、そのまま地下鉄で逃走した可能性が高い」<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、「顔見知りの犯行の線もある」とみて、本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/><ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
また事件現場には、女性のバッグ・財布などの所持品が見当たらなかった一方で<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、雑誌や同日付の新聞朝刊が入ったビニール袋が落ちていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>。
 
また事件現場には女性バッグ・財布などの所持品が見当たらなかった一方で<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>、雑誌・同日付の新聞朝刊が入ったビニール袋が落ちていたため<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-19"/>、特捜本部は「女性のバッグ財布などは犯人が奪って逃走した可能性がある」とみて捜査した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-19"/>。
 
=== 被疑者Mが浮上 ===
特捜本部はその後、女性がエレベーターから降りた直後に襲われたことや、遺体の傷が心臓にまで達していることなどから、「女性に恨みを持っていた者が待ち伏せして殺害した疑いが強い」とみて捜査を進めていた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
その結果、(当時)千葉県船橋市[[咲が丘]]4丁目在住の土木作業員だったMが「7年前の1989年12月、被害者女性に対する強姦・恐喝事件を起こし女性から告訴されたために警視庁に逮捕され<!--被疑者Mの逮捕当時の住所は確かに千葉県内ですが、本事件・きっかけとなった7年前の強姦事件ともに管轄は千葉県警ではなく警視庁です。「警察庁」と誤記されていましたので修正-->、懲役7年の実刑判決を受けて服役し、1997年2月27日に出所するまで札幌刑務所に服役していた」という事実が判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。これに加え、殺害現場から都営新宿線大島駅までの路上などに落ちていた血痕と、同駅近くから同線[[船堀駅]]まで不審な男を乗せたタクシーの座席カバーに付着していた血痕がそれぞれ一致した上、2つの血痕の[[血液型]]はいずれもMと同一であることも判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。そのタクシーの運転手も警視庁の事情聴取に対し「Mに似た男だった」と証言したことから、特捜本部は「Mが事件に関与した疑いが強い」とみてMの行方を追った<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
事件発生から1週間後の1997年4月26日午後、M宅前で張り込んでいた警視庁城東署特捜本部の捜査員がMを発見した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。同日夜、警視庁捜査一課・城東署特捜本部は、殺人容疑で[[被疑者]]Mを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27">『東京新聞』1997年4月27日朝刊社会面27面「土木作業員逮捕 江東の女性刺殺」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1997-04-27">『中日新聞』1997年4月27日朝刊社会面31面「顔見知りの男逮捕 JT女性社員刺殺」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27">『[[読売新聞]]』1997年4月27日東京朝刊第一社会面35面「東京・江東のJT女性社員刺殺 逆恨みか、容疑者逮捕 告訴され、実刑判決」</ref>。
これに加え、殺害現場から都営新宿線大島駅までの路上などに落ちていた血痕と、同駅近くから同線[[船堀駅]]まで不審な男を乗せたタクシーの座席カバーに付着していた血痕が、それぞれ一致した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。そして、2つの血痕の[[血液型]]は、いずれもMと同一であることも判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
そのタクシーの運転手も被疑者Mは逮捕された当初警視庁犯行動機について特捜本部事情聴り調べに対し「Mに似た男だ7年前の事件のことを謝ろうと思て待ち伏せしたが、騒がれたので殺した」と証言供述したこと<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。しら、特捜本部はMが以前の強姦事件に関与などで被害者女性から告訴されたことを逆恨みし、女性を殺害した疑いが強い」とみて、Mの行方さらに詳しい動機を追及した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
なお被疑者Mの右手の人差し指には<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性と争った際にできたとみられる切り傷があった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。また、凶器の包丁・奪われた女性のバッグがMの自宅付近にある駅のコインロッカーから発見されたことから<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>、特捜本部はこの点について「Mが事件後、証拠隠滅のためにバッグを持ち去り隠した」とみて取り調べた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。女性の所持品を殺害後に奪ったとはいえ、強盗が動機ではなかったことから、本件は[[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]ではなく殺人罪・窃盗罪で立件されることとなった<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
=== 1997年4月26日、被疑者Mを逮捕 ===
事件発生から1週間後の1997年4月26日午後、警視庁城東署特捜本部の捜査員は、M宅前で張り込みしていたところ、Mを発見した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
1997年4月28日までの取り調べで、被疑者Mは「事件の1週間前(4月11日7時頃)に現場の団地に下見に行き、郵便受けの名前から女性の部屋番号を確認していた」という事実が判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28">『読売新聞』1997年4月28日東京夕刊第一社会面15面「東京・江東の団地女性刺殺容疑者 1週間前に現場下見」</ref><ref group="新聞">『東京新聞』1997年4月28日夕刊社会面9面「1週間前に自宅を下見 江東の女性刺殺容疑者」</ref>。これに加えてMは「凶器の包丁は3月下旬、勤務先の作業現場にあった炊事場から盗み出した。犯行当日の朝にも団地を訪れ、出勤する女性の服装を確認していた」など、周到な準備をしていたことを明らかにする供述をした<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28"/>。しかしこの包丁は、前述のようにMが事前に凶器として購入したものであり「ビルの一部解体作業の際、偶然発見した包丁を凶器に用いた」という供述は虚偽だった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。捜査段階におけるMのこの供述について東京地裁・東京高裁はそれぞれ、「客観的事実に反する虚偽の供述であり、捜査官の出方を窺うような態度」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、「自分が隠したいことは隠す」と事実認定した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
同日夜、警視庁捜査一課・城東署特捜本部は、殺人容疑で[[被疑者]]Mを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-04-27">『東京新聞』1997年4月27日朝刊社会面27面「土木作業員逮捕 江東の女性刺殺」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1997-04-27">『中日新聞』1997年4月27日朝刊社会面31面「顔見知りの男逮捕 JT女性社員刺殺」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27">『[[読売新聞]]』1997年4月27日東京朝刊第一社会面35面「東京・江東のJT女性社員刺殺 逆恨みか、容疑者逮捕 告訴され、実刑判決」</ref>。
 
また被疑者Mは東京地検検察官の取り調べに対し、一貫して「強姦致傷などで逮捕された時点から、被害者を必ず殺そうとする決意が既にあった」などと供述した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mはこの時、前件で逮捕されてから出所するまでの状況・出所後の状況・犯行時の状況などについて、いずれも自己の心情を交えつつ、迫真性・臨場性が認められる具体的・詳細な供述をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。またMは逮捕直後、接見した当番弁護士から「本件は死刑もあり得る」と指摘されており、そのような事情を理解した上で以上のような供述をしていたが、Mの心情・被害者のやり取りについては「捜査官の誘導尋問によって導き出すことが困難な点」が少なからず含まれていた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
=== 逮捕後の取り調べ ===
逮捕された当初、被疑者Mは動機について、特捜本部の取り調べに対し「7年前の事件のことを謝ろうと思って待ち伏せしたが、騒がれたので殺した」と供述した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
その一方で被疑者Mは検察官に対し、「服役中、自分を裏切ったあの女を殺すという気持ちで頭がいっぱいだったわけではない。むしろ、刑務所での日々を過ごすことに気持ちを使っていたことが多かった」などと「一方的に不利益にならないような供述」をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
しかし特捜本部は、「以前の強姦事件などで被害者女性から告訴されたことを逆恨みし、女性を殺害した疑いが強い」とみて、さらに詳しい動機を追及した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
[[東京地方検察庁]]は1997年5月16日、殺人・窃盗の各罪状で、被疑者Mを[[東京地方裁判所]]に[[起訴]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-05-17">『東京新聞』1997年5月17日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人容疑者起訴」</ref>。
また被疑者Mの右手の人差し指には<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、女性と争った際にできたとみられる切り傷があった<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。これに加え、凶器の包丁・奪われた女性のバッグが、Mの自宅付近にある駅のコインロッカーから発見されたことから<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>、特捜本部は「Mが事件後にバッグを持ち去り、証拠隠滅のために隠した」とみて取り調べた<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-27"/>。
 
1997年4月28日までの取り調べで、被疑者Mは事件の1週間前(4月11日午前7時頃)、現場の団地に下見に行き、郵便受けの名前から、女性の部屋番号を確認していたことが判明した<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28">『読売新聞』1997年4月28日東京夕刊第一社会面15面「東京・江東の団地女性刺殺容疑者 1週間前に現場下見」</ref><ref group="新聞">『東京新聞』1997年4月28日夕刊社会面9面「1週間前に自宅を下見 江東の女性刺殺容疑者」</ref>。これに加えてMは、「凶器の包丁は、3月下旬、勤務先の作業現場にあった炊事場から盗み出した。犯行当日の朝にも団地を訪れ、出勤する女性の服装を確認していた」など、周到な準備をしていたことを明らかにする供述をした<ref group="新聞" name="読売新聞1997-04-28"/>。
 
しかしこの包丁は前述のように、Mが事前に凶器として購入したものであり、「ビルの一部解体作業の際、偶然発見した包丁を凶器に用いた」という供述は虚偽だった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。東京地裁・東京高裁はそれぞれ、捜査段階でのMのこの供述について、「客観的事実に反する虚偽の供述であり、捜査官の出方を窺うような態度」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、「自分が隠したいことは隠す」と事実認定した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
また被疑者Mは、検察官の取り調べに対し、一貫して「強姦致傷などで逮捕された時点から、被害者を必ず殺そうとする決意が既にあった」などと供述した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mはこの時、前件で逮捕されてから出所するまでの状況・出所後の状況・犯行時の状況などについて、いずれも自己の心情を交えつつ、迫真性・臨場性が認められる、具体的・詳細な供述をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。Mは逮捕直後、接見した当番弁護士から「本件は死刑もあり得る」と指摘されており、そのような事情を理解した上で以上のような供述をしていたが、Mの心情・被害者のやり取りについては、「捜査官の誘導尋問によって導き出すことが困難な点」が少なからず含まれていた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
その一方で被疑者Mは、検察官に対し、「服役中、自分を裏切ったあの女を殺すという気持ちで頭がいっぱいだったわけではない。むしろ、刑務所での日々を過ごすことに気持ちを使っていたことが多かった」など、「一方的に不利益にならないような供述」をした<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
== 刑事裁判 ==
=== 1997年5月16日、東京地検が被告人Mを起訴 ===
Mは女性を殺害後、ハンドバッグなどの所持品を奪っていたが、[[強盗]]が動機ではなかったため、[[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]ではなく、殺人罪・窃盗罪で立件された<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
[[東京地方検察庁]]は1997年5月16日、殺人・窃盗の各罪状で、被疑者Mを[[東京地方裁判所]]に[[起訴]]した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-05-17">『東京新聞』1997年5月17日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人容疑者起訴」</ref>。
 
=== 第一審・東京地裁 ===
==== ;1997年7月3日、第1回公判(冒頭陳述、罪状認否) ====
:1997年7月3日、[[東京地方裁判所]]([[三上英昭]][[裁判長]])で[[被告人]]Mの初[[公判]]が開かれた<ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03">『毎日新聞』1997年7月3日夕刊第一社会面11面「JT社員刺殺 起訴事実認める M被告初公判」</ref>。
:同日、検察側の冒頭陳述が行われた<ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/>。その後、弁護人は冒頭陳述で「Mは『被害者に報復しよう』という強度の視野狭窄に陥っており、犯行当時は[[責任能力|心神耗弱]]状態だった」と述べ、完全な責任能力を否定した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03">『朝日新聞』1997年7月3日夕刊第一社会面19面「被告、起訴事実認める 東京・江東区のJT社員刺殺事件初公判」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
:罪状認否で被告人Mは起訴事実を認める証言をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
 
;被告人質問にて、確定的殺意をほのめかす発言
同日、検察側の冒頭陳述が行われた<ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/>。
:なおこの初公判以降、被告人Mは一連の公判にて行われた被告人質問にて「犯行の直前までは不確定的な殺意しかなかった」という旨の供述をする一方で、動機などについて以下のように「前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた」ことをほのめかすような発言をしていた<!--出典の判決文に以下の発言が記載されていますが、いつ行われた何回目の公判においての発言かは不明--><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:* 「捜査段階の時は自分の本音を吐いたと思う」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
:* 「7年前のことを通報され、『甘くみられた』『馬鹿にされた』と思った」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>
:* 「年を取ったせいか、不満・怒りを抱いたまま我慢して過ごすことができない。いまさら量刑を軽くしてもらおうと謝罪の言葉を述べようとは思わない」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
:* 前件の強姦致傷事件で逮捕された際、「(被害者女性に)まんまと裏切られたので、『必ずぶっ殺してやるぞ』と考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
:* 札幌刑務所で服役中、「出所したら必ず復讐してやるぞと考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
:* 出所後、被害者を殺してやろうという気持ちが「根強く残っていた」、「彼女の居場所がはっきり分かった時点で、また煮えくり返るものがあった」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
:そのため、後の判決における事実認定では、「これらの発言と、被告人Mの犯行前後の行動を照らせば、「『前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた』とする、検察官の取り調べに対する供述は信用性が高い」と認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:また弁護人側は「被告人Mは被害者に包丁を奪われるなど、予想外の展開に気が動転するとともに、『自分の方が殺されてしまう』という恐怖心から極度のパニック状態に陥った。さらに、包丁による被害者の反撃に対して本能的に反撃行動に出たが、この時に右手人差し指に切り傷を負ったことで一層逆上・激昂し、善悪の弁別能力・およびそれに従った自己制御能力が著しく減退し、いわゆる『不可逆的衝動』に支配された状況下で殺害行為に及んだ」と訴えた上で、以下の旨を主張した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:# 本件殺人は、[[正当防衛]]・[[誤想防衛]]・[[過剰防衛]]のいずれかに該当する<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:# 被告人Mは本件殺人の犯行当時、心神喪失・心神耗弱どちらかの状態にあり、完全責任能力は問えない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:しかし東京地裁は、これらの主張に対して以下のような事実認定を行った。
:# 1.の主張について
:#* 被害者は殺害される直前、被告人Mから包丁を奪い取り、助けを求めながら後ずさりし、Mを近づけまいと包丁を小刻みに突き出したり、横に振ったりしていた事実が認められるが、これらの行動は被告人Mに対する「急迫不正の侵害」には該当しないことは明らかである<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その上でMも、被害者のこれらの行動をその通り認識していたため、「急迫不正の侵害」があると誤認していたわけでもない。
:#* 逃げようとする被害者を追いかけ、被害者から包丁を奪い返した後、強烈な刺突行為に及ぶなど、Mの行動を考えれば、Mが防衛の意思を有していたとは認められないため、正当防衛などが成立する余地はなく、主張は採用しない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:# 2.の主張について
:#* 被害者に包丁を奪われるという予想外の展開に、Mが多少動揺したことは否定できないが、Mはその後、被害者の動きに的確・機敏に対応して包丁を奪い返し、当初の計画通り被害者の殺害を遂行した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:#* そればかりか殺害行為の終了後も、被害者に致命傷を負わせたことを確認し、被害者の手から落ちたハンドバッグを盗み、凶器の包丁を携えて現場から逃走するなど、冷静・合理的な行動をとっており、それらの行動からは何ら異常さは窺われない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:#* Mは捜査段階・公判段階のいずれにおいても、本件各犯行・その戦後の状況について詳細に供述していたが、そこには意識障害・記憶障害なども認められない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:#* 以上の点に照らすと、殺人の犯行に及んだ当時、好意の是非善悪を弁識し、これに従って行動する能力が、欠如・著しく減退していたかったことは明らかであり、この主張も採用しない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
;1997年12月4日、被告人質問
弁護人はその後、冒頭陳述で「Mは、報復しようという強度の視野狭窄に陥っており、犯行当時は[[責任能力|心神耗弱]]状態だった」と述べ、完全な責任能力を否定した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03">『朝日新聞』1997年7月3日夕刊第一社会面19面「被告、起訴事実認める 東京・江東区のJT社員刺殺事件初公判」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
:1997年12月4日、東京地裁([[山室惠]]裁判長)にて開かれた公判で被告人質問が行われた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/><!--宇野津氏の文献では公判日時の記載はないが、朝日新聞で報道された山室裁判長のやり取りと同一のやり取りが記載されているためこの日と断定-->。
:;被告人Mによるセカンドレイプ(被害者への責任転嫁)
:同日の被告人質問で被告人Mは、事件の動機について質問されると以下のように、[[セカンドレイプ|被害者に落ち度があったことを主張]]し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、反省の態度を見せなかった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
:* 「被害者女性が(『強姦されたことを警察に通報しない』という)約束を破ったから謝ってもらいたかったし、『悪かった』という言葉を相手から聞きたかった」<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>
:* 「被害者にも落ち度があったんじゃないかと思っている。『見知らぬ男から声を掛けられれば注意するのが普通』だと思うが、被害者はある程度歳もいっていたのに判断力にも欠けていたのではないかと思う」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>
:;「私の心は歪んでいる」発言
::被告人質問で被告人Mは、検察官から「『被害者が自分を裏切ったから殺した』と言ったが、被害者が警察に被害を届けるのは当然ではないか。『裏切った』とはどういうことなのか」と質問されると、被告人Mは「何度も言うようだが私の心は歪んでいる」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::また被告人Mは、弁護人から犯行動機を聞かれると「7年前の事件のことをしゃべって『(警察に通報して)悪かった』という言葉を女性から聞きたかったが、相手が大声を出して『殺される!』と言ったため逆上して殺した」と述べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::加えて弁護人から、「服役中の7年間、ずっと殺意を抱いていたのか」と質問されると、Mは「直前まで殺そうという気持ちは五分五分で、被害者の態度次第だった」として、確定的な殺意を否定する供述をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05">『朝日新聞』1997年12月5日朝刊第二社会面38面「被告の態度に裁判長怒った 逆恨み殺人公判 東京地裁」</ref><ref group="書籍" name="宇野津1997">{{Harvnb|宇野津|1998|pages=28-41}}</ref>。
::その上で弁護人から、死刑・無期懲役の量刑が適用される可能性を指摘されると、Mは「被害者には何もできないが、この命でよかったら捧げてもいいと思う。すべては身から出た錆だからもう仕方がない。(命日の)18日には冥福を祈っている」と発言した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::この発言に対し弁護人から「あなたの中には破壊的なものがある」と指摘されると、Mは「私の生まれ持った宿命だから仕方がない」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::この公判を傍聴していた宇野津光緒は著書 『法廷ドキュメント 23の事件と被告たち』(恒友出版)にて、「この時のMの態度は、まるで自分自身を突き放しているようだった」と記した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
:;山室惠裁判長の叱責
::被告人Mは続いて、陪席裁判官の補充質問で<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、被害者への気持ちについて「今でも被害者が警察に届け出たことを許せない、と思っているのか」と問われると<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「後悔しているし、ああいう行為はしなくてもよかった」と話した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。この時のMの表情について、『朝日新聞』1997年12月5日朝刊記事は「憮然とした表情」と表現した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><。
::しかし[[山室惠]]裁判長はその口調を投げやりだと感じたのか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「反省しているならそういう口の利き方をするのか」と問い詰めた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::これに対し、Mは山室に反発したかのように「(彼女は警察に言わないと)約束した」と発言した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。すると山室は、以下のように声を荒げてMを問い詰めた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
::* 君は今でも『警察に届けない』というのが約束になると思っているのか?相手が君に『申し訳ない」と言うと思ったのか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>
::* 包丁を持ち出せば、相手が恐怖して『助けて』と叫ぶのは当然じゃないのか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>
::* 強姦された女性が警察に被害届を出したのは当たり前じゃないか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
::その上で山室が「相手の女性が君に会って『申し訳ないことをした』と言うと思ったのか」と問うと、Mは「相手の気持ちまで分かりません」と答えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::続いて山室が「警察に届け出た被害者が間違っていると思うのか」と問うと、Mは答えられなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。ここで山室は「結局、『今でも相手の方が間違っていた』と思っているんだな」と念を押し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、裁判長としての質問を打ち切った<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>。
:;弁護人からの精神鑑定申請
::弁護人側はその後、「Mは7年間服役した札幌刑務所で計13回懲罰を受けている。服役中の大半は独居房におり、前科・前歴が多い危険人物である」などとして、被告人Mの[[精神鑑定]]を申請した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::東京地裁がこれを認めたために審理は一時中断し、精神鑑定が行われた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
::藤田宗和・大越誠一が実施した情状鑑定の結果、「被告人Mの犯行前・犯行当時の心理状態は、前件で逮捕された際、被害者に対して恨みとともに恋慕の情を抱き、その後もこれらの思いを錯綜させつつも増幅させていた。犯行当時、『被害者に対する恨みを晴らす』という心理とともに、『もしかしたら自分を受け入れてくれるのではないか』という幻想的な心理も持ったまま被害者に再会したが、被害者に包丁を奪われてパニック状態に陥り、殺害に及んだ」とする結果が示された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
::しかしこの情状鑑定結果は、「鑑定人の面接時における被告人の供述は、信用性のないものがある上、鑑定の前提となる事実評価に誤りがあることから、その結論には疑問を抱かざるを得ない。そのためこの鑑定の結論は、『被告人Mが当初から確定的殺意を有していた』ことを覆すに足りるものではない」と事実認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
;1999年2月12日、検察側論告求刑
被告人Mは、罪状認否で起訴事実を認める証言をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-07-03"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1997-07-03"/>。
 
==== 被告人質問にて、確定的殺意をほのめかす発言 ====
なおこの初公判以降、被告人Mは一連の公判にて行われた被告人質問にて、「犯行の直前まで、不確定的な殺意しかなかった」という旨の供述をする一方で、動機などについて以下のように、「前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた」ことをほのめかすような発言をしていた<!--出典の判決文に以下の発言が記載されていますが、いつ行われた何回目の公判においての発言かは不明--><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
* 「捜査段階の時は自分の本音を吐いたと思う」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 「7年前のことを通報され、『甘くみられた』、『馬鹿にされた』と思った」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>
* 「年を取ったせいか、不満・怒りを抱いたまま我慢して過ごすことができない。今更量刑を軽くしてもらおうと、謝罪の言葉を述べようとは思わない」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 前件の強姦致傷事件で逮捕された際、「(被害者女性に)まんまと裏切られたので、『必ずぶっ殺してやるぞ』と考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 札幌刑務所で服役中、「出所したら必ず復讐してやるぞと考えた」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
* 出所後、被害者を殺してやろうという気持ちが「根強く残っていた」、「彼女の居場所がはっきり分かった時点で、また煮えくり返るものがあった」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>
そのため、後の判決における事実認定では、「これらの発言と、被告人Mの犯行前後の行動を照らせば、「『前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた』とする、検察官の取り調べに対する供述は信用性が高い」と認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
また弁護人側は、「被告人Mは、被害者に包丁を奪われるなどの予想外の展開に気が動転するとともに、『自分の方が殺されてしまう』という恐怖心から極度のパニック状態に陥った。更に、包丁による被害者の反撃に対して本能的に反撃行動に出たが、この時に右手人差し指に切り傷を負ったことで一層逆上・激昂し、善悪の弁別能力・それに従った自己制御能力が著しく減退し、いわゆる『不可逆的衝動』に支配された状況下で殺害行為に及んだ」と訴えた上で、以下の旨を主張した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
# 本件殺人は、[[正当防衛]]・[[誤想防衛]]・[[過剰防衛]]のいずれかに該当する<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
# 被告人Mは本件殺人の犯行当時、心神喪失・心神耗弱どちらかの状態にあり、完全責任能力は問えない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
しかし東京地裁は、これらの主張に対して以下のような事実認定を行った。
# 1.の主張について
#* 被害者は殺害される直前、被告人Mから包丁を奪い取り、助けを求めながら後ずさりし、Mを近づけまいと包丁を小刻みに突き出したり、横に振ったりしていた事実が認められるが、これらの行動は被告人Mに対する「急迫不正の侵害」には該当しないことは明らかである<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。その上でMも、被害者のこれらの行動をその通り認識していたため、「急迫不正の侵害」があると誤認していたわけでもない。
#* 逃げようとする被害者を追いかけ、被害者から包丁を奪い返した後、強烈な刺突行為に及ぶなど、Mの行動を考えれば、Mが防衛の意思を有していたとは認められないため、正当防衛などが成立する余地はなく、主張は採用しない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
# 2.の主張について
#* 被害者に包丁を奪われるという予想外の展開に、Mが多少動揺したことは否定できないが、Mはその後、被害者の動きに的確・機敏に対応して包丁を奪い返し、当初の計画通り被害者の殺害を遂行した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
#* そればかりか殺害行為の終了後も、被害者に致命傷を負わせたことを確認し、被害者の手から落ちたハンドバッグを盗み、凶器の包丁を携えて現場から逃走するなど、冷静・合理的な行動をとっており、それらの行動からは何ら異常さは窺われない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
#* Mは捜査段階・公判段階のいずれにおいても、本件各犯行・その戦後の状況について詳細に供述していたが、そこには意識障害・記憶障害なども認められない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
#* 以上の点に照らすと、殺人の犯行に及んだ当時、好意の是非善悪を弁識し、これに従って行動する能力が、欠如・著しく減退していたかったことは明らかであり、この主張も採用しない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
==== 1997年12月4日、被告人質問 ====
1997年12月4日、東京地裁([[山室惠]]裁判長)で開かれた公判で、被告人質問が行われた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/><!--宇野津氏の文献では公判日時の記載はないが、朝日新聞で報道された山室裁判長のやり取りと同一のやり取りが記載されているためこの日と断定-->。
 
===== 被告人Mによるセカンドレイプ(被害者への責任転嫁) =====
被告人質問で被告人Mは、事件の動機について質問されると以下のように、[[セカンドレイプ|被害者に落ち度があったことを主張]]し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、反省の態度を見せなかった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
* 「被害者女性が(『強姦されたことを警察に通報しない』という)約束を破ったから、謝ってもらいたかった」<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>、「7年前のことをしゃべったことについて、『悪かった』という言葉を相手から聞きたかった」<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>
* 「彼女にも落ち度があったんじゃないかと思っています。見知らぬ男から声を掛けられれば注意するのが普通だと思います。ある程度歳もいってたし、そういう判断力にも欠けていたんじゃないかと思います」<ref group="書籍" name="宇野津1997"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>
 
===== 「私の心は歪んでいる」発言 =====
検察側は被告人質問で、被告人Mに対し、「『被害者が自分を裏切ったから殺した』と言ったが、被害者が警察に被害を届けるのは当然ではないか。裏切ったとは、どういうことなのか」と質問した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
これに対し、被告人Mは「何度も言うようだけど、私の心は歪んでいるんです」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
またMは、弁護人から犯行動機を聞かれ、「7年前の事件のことをしゃべって『(警察に通報して)悪かった』という言葉を、女性から聞きたかったが、相手が大声を出して『殺される!』と言ったため、逆上して殺した」と述べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
加えて弁護人から、「服役中の7年間、ずっと殺意を抱いていたのか」と質問されると、Mは「直前まで殺そうという気持ちは五分五分で、被害者の態度次第だった」として、確定的な殺意を否定する供述をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05">『朝日新聞』1997年12月5日朝刊第二社会面38面「被告の態度に裁判長怒った 逆恨み殺人公判 東京地裁」</ref><ref group="書籍" name="宇野津1997">{{Harvnb|宇野津|1998|pages=28-41}}</ref>。
 
その上で弁護人から、死刑・無期懲役の量刑が適用される可能性を指摘されると、Mは「被害者には何もできないが、この命でよかったら捧げてもいいと思う。すべては身から出た錆だからもう仕方がない。(命日の)18日には冥福している」と発言した<ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
この発言に対し弁護人から、「あなたの中には破壊的なものがある」と指摘されると、Mは自分を突き放すかのように、「私の生まれ持った宿命だから、仕方がない」と述べた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
===== 山室惠裁判長の叱責 =====
被告人Mは続いて、陪席裁判官の補充質問で<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、被害者への気持ちについて「今でも被害者が警察に届け出たことを許せない、と思っているのか」と問われると<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「後悔しているし、ああいう行為はしなくてもよかった」と、憮然とした表情で話した<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
しかし[[山室惠]]裁判長は、Mの口調を投げやりだと感じたのか<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、「反省しているならそういう口の利き方をするのか」と問い詰めた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
これに対し、Mは山室に反発したかのように「(彼女は警察に言わないと)約束したのだから」と発言した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
すると山室は、「『警察に届けない』というのが約束になると君は今でも思っているのか?相手が君に申し訳ないと言うと思ったのか」、「包丁を持ち出せば、相手が恐怖して『助けて』と叫ぶのは当然じゃないのか」と問い詰め<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、そして「強姦された女性が警察に被害届を出したのは当たり前じゃないか」と、声を荒らげた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
その上で山室が「相手の女性が君に会って『申し訳ないことをした』と言うと思ったのか」と問うと、Mは「相手の気持ちまで分かりません」と答えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
続いて山室が「警察に届け出た被害者が間違っていると思うのか」と問うと、Mは答えられなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/><ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
ここで山室は「結局、『今でも相手の方が間違っていた』と思っているんだな」と念を押し<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>、裁判長としての質問を打ち切った<ref group="新聞" name="朝日新聞1997-12-05"/>。
 
===== 弁護人からの精神鑑定申請 =====
弁護人側はその後、「Mは7年間服役した札幌刑務所で計13回懲罰を受けている。服役中の大半は独居房におり、前科・前歴が多い危険人物である」などとして、被告人Mの[[精神鑑定]]を申請した<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
東京地裁がこれを認めたために審理は一時中断し、精神鑑定が行われた<ref group="書籍" name="宇野津1997"/>。
 
藤田宗和・大越誠一が実施した情状鑑定の結果、「被告人Mの犯行前・犯行当時の心理状態は、前件で逮捕された際、被害者に対して恨みとともに恋慕の情を抱き、その後もこれらの思いを錯綜させつつも増幅させていた。犯行当時、『被害者に対する恨みを晴らす』という心理とともに、『もしかしたら自分を受け入れてくれるのではないか』という幻想的な心理も持ったまま被害者に再会したが、被害者に包丁を奪われてパニック状態に陥り、殺害に及んだ」とする結果が示された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
しかしこの情状鑑定結果は、「鑑定人の面接時における被告人の供述は、信用性のないものがある上、鑑定の前提となる事実評価に誤りがあることから、その結論には疑問を抱かざるを得ない。そのためこの鑑定の結論は、『被告人Mが当初から確定的殺意を有していた』ことを覆すに足りるものではない」と事実認定された<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
==== 1999年2月12日、検察側論告求刑 ====
公判再開後の[[1999年]]([[平成]]11年)2月12日、[[論告]][[求刑]]公判が開かれた<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/><ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12"/>。
:本事件では殺害された被害者数は1人だが<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、検察側は被告人Mに[[死刑]]を[[求刑]]した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12">『読売新聞』1999年2月12日東京夕刊社会面19面「暴行被害女性への逆恨み殺人 死刑を求刑/東京地裁」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12">『東京新聞』1999年2月12日夕刊第二社会面8面「逆恨み殺人に死刑求刑 東京地裁 『矯正不可能』と検察側」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
:東京地検は、その動機を「身勝手な動機」と主張し、殺人前科に加え、公判でMが見せた前述の態度の数々を「反省のない態度」と受け取ったことや、被害者遺族も極刑を望んでいることを指摘し、「被告人Mの矯正を期待することは不可能だ」と断じた<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/>。
:この論告求刑までに、公判に証人として出廷した被害者の弟は「被告人に死刑を求める」旨の意見陳述をした上、被害者の母・姉も同様に峻烈な被害感情を示した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:その上で検察側は以下のように主張した。
:* 強姦事件の被害者の心情を思いやることなく、実に身勝手な動機による犯行であり矯正はもはや不可能だ。被害者遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すると、極刑をもって臨むほかない<ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12"/>
:* 犯罪被害者が被害を届け出るのは当然の権利で、それを逆恨みして報復するとは言語道断である。我が国の刑事司法に真っ向から挑戦する反社会性の強い犯行だ<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/>。法秩序が脅威に晒されかねない<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
;1999年3月16日、弁護人最終弁論
本事件では殺害された被害者数は1人だが<ref group="書籍" name="丸山2010"/>、検察側は被告人Mに[[死刑]]を[[求刑]]した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12">『読売新聞』1999年2月12日東京夕刊社会面19面「暴行被害女性への逆恨み殺人 死刑を求刑/東京地裁」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12">『東京新聞』1999年2月12日夕刊第二社会面8面「逆恨み殺人に死刑求刑 東京地裁 『矯正不可能』と検察側」</ref><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
:1999年3月16日、最終弁論公判が開かれ結審した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17">『朝日新聞』1999年3月17日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人、怒声の結審 弁護側『被害者にも落ち度』 傍聴席からは『ふざけるな』 5月27日、東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-03-17">『東京新聞』1999年3月17日朝刊社会面27面「逆恨み殺人 有期刑求める 最終弁論で弁護側」</ref>。
 
:弁護人側は、犯行の動機・殺害方法の残虐性とともに、「殺害された被害者数」を考慮し、「やむを得ない場合に死刑が適用できる」とする、死刑適用基準を示した[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[判例]]「[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]」を引用し、検察側の死刑求刑に反論した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。その上で以下のように述べ、死刑回避を訴えた上で「無期懲役か長期の有期懲役刑が相当だ」と主張した<ref group="新聞" name="東京新聞1999-03-17"/>。
東京地検は、殺人前科・身勝手な動機に加え、公判でMが見せた前述の態度の数々を「反省のない態度」と受け取ったことや、被害者遺族も極刑を望んでいることを指摘し、「Mの改善を期待することは不可能だ」と断じた<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/>。
:* 本事件において殺害された被害者数は1人であり強盗殺人のような利欲犯ではない<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。
 
:* 本事件は[[ストーカー]]的な行為の過程で偶発的に引き起こされたもので、いわゆる「お礼参り殺人」とは異なり、強い計画性はない<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。
この論告求刑までに、公判に証人として出廷した被害者の弟は「被告人に死刑を求める」旨の意見陳述をした上、被害者の母・姉も同様に峻烈な被害感情を示した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:;弁護人・石川弘の「被害者側にも落ち度があった」とする旨の最終弁論に対する罵声
 
::この最終弁論の際、被告人Mの弁護人・[[石川弘 (弁護士)|石川弘]][[弁護士]]は「Mは恨みの気持ちと同時に、一方的ではあるが女性に対し『恋慕に似た感情』も抱いていて、それがかえって『裏切られた』と思い込むことになった」とも主張した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
その上で、「強姦事件の被害者の心情を思いやることなく、実に身勝手な動機による犯行であり、殺人前科があるなど矯正はもはや不可能だ。被害者遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すると、極刑をもって臨むほかない」<ref group="新聞" name="東京新聞1999-02-12"/>、「犯罪被害者が被害を届け出るのは当然の権利で、それを逆恨みして報復するとは言語道断である。我が国の刑事司法に真っ向から挑戦する反社会性の強い犯行で<ref group="新聞" name="読売新聞1999-02-12"/>、法秩序が脅威に晒される」などと主張した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
::その上で石川は、Mが恨みを抱くきっかけとなった前述の強姦事件について、「故人の名誉を傷つけるようだが、事実は事実として述べたい。深夜、偶然出会ったMと2人で飲食し、店を出て深夜の夜道を歩いたのは被害者も軽率で、重大な落ち度だった」と主張した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その上で、「その軽率な行為が強姦事件に結びつき、その後、[[ストーカー]]的に付きまとったMが10万円を要求、警察に逮捕されたことを恨んだMから7年半後に殺される結果になった」と、被害者側に非があったとする主張をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
::しかし、その言葉が終わらないうちに傍聴席<!--にいた被害者遺族(文献では遺族とは明言されていない)-->から、「ふざけるな!」と罵声が飛び<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、廷内は騒然となった<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19">『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号(同年8月5日発売)p.200-203「昭和・平成『女の事件史』 最終弁論も罵声で消えた『レイプお礼参り』殺人裁判」(記者:[[朝倉喬司]])</ref>。
==== 1999年3月16日、弁護人最終弁論 ====
:;最終意見陳述にて被告人Mに対する抗議
1999年3月16日、最終弁論公判が開かれ、結審した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17">『朝日新聞』1999年3月17日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人、怒声の結審 弁護側『被害者にも落ち度』 傍聴席からは『ふざけるな』 5月27日、東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-03-17">『東京新聞』1999年3月17日朝刊社会面27面「逆恨み殺人 有期刑求める 最終弁論で弁護側」</ref>。
::最終弁論後、被告人Mは最終意見陳述の場で「被害者はもちろん、遺族の方々にも申し訳ないことをいたしました」と頭を下げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
::しかし、Mの言葉に納得できなかった傍聴席の女性が「本当にそう思っているんですか」と声を荒らげた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
弁護人側は、犯行の動機・殺害方法の残虐性とともに、「殺害された被害者数」を考慮し、「やむを得ない場合に死刑が適用できる」とする、死刑適用基準を示した[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[判例]]「[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]」を引用し、検察側の死刑求刑に反論した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/>。
::これに対し、山室裁判長は一瞬困惑しつつも<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、「たとえ遺族の方でももう一度、許可なく発言したら退廷させます」と強い口調で注意を促した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
弁護人側は「この事件の被害者数は1人であり、強盗殺人のような利欲犯ではない」、「[[ストーカー]]的な行為の過程で偶発的に引き起こされたもので、いわゆる『お礼参り殺人』とは違う」と述べ、死刑回避を訴えた上で、無期懲役か長期の有期懲役刑が相当だと主張した<ref group="新聞" name="東京新聞1999-03-17"/>。
 
===== 弁護人・石川弘の「被害者側にも落ち度があった」とする旨の最終弁論に対する罵声 =====
この最終弁論の際、弁護人・[[石川弘 (弁護士)|石川弘]][[弁護士]]は、「Mは恨みの気持ちと同時に、一方的ではあるが、女性に対し『恋慕に似た感情』も抱いていて、それがかえって『裏切られた』と思い込むことになった」とも主張した<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
その上で石川は、Mが恨みを抱くきっかけとなった前述の強姦事件について、「故人の名誉を傷つけるようだが、事実は事実として述べたい。深夜、偶然出会ったMと2人で飲食し、店を出て深夜の夜道を歩いたのは被害者も軽率で、重大な落ち度だった」と主張した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。その上で、「その軽率な行為が強姦事件に結びつき、その後、[[ストーカー]]的に付きまとったMが10万円を要求、警察に逮捕されたことを恨んだMから7年半後に殺される結果になった」と、被害者側に非があったとする主張をした<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
しかし、その言葉が終わらないうちに傍聴席<!--にいた被害者遺族(文献では遺族とは明言されていない)-->から、「ふざけるな!」と罵声が飛び<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、廷内は騒然となった<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19">『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号(同年8月5日発売)p.200-203「昭和・平成『女の事件史』 最終弁論も罵声で消えた『レイプお礼参り』殺人裁判」(記者:[[朝倉喬司]])</ref>。
 
===== 最終意見陳述にて、被告人Mに対する抗議 =====
被告人Mは最終意見陳述の場で、「被害者はもちろん、遺族の方々にも申し訳ないことをいたしました」と頭を下げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
しかしMの反省の弁に納得できなかった傍聴席の女性が「本当にそう思っているんですか」と声を荒らげた<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
これに対し、山室裁判長は一瞬困惑しつつも<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、「たとえ遺族の方でももう一度、許可なく発言したら退廷させます」と強い口調で注意を促した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-03-17"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
==== 1999年5月27日、無期懲役判決 ====
1999年5月27日、判決公判が開かれ、東京地裁([[山室惠]]裁判長)は、被告人Mに[[無期刑|無期]]懲役判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27">『朝日新聞』1999年5月27日夕刊第一社会面15面「逆恨み殺人で無期懲役 『身勝手だが人間性も』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27">『中日新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面10面「JT女性社員刺殺 M被告に無期 東京地裁判決 『通報恨み身勝手』」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-05-27">『東京新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面11面「M被告に無期懲役 JT女性社員、逆恨み刺殺 『理不尽な動機』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞">『読売新聞』1999年5月27日東京夕刊社会面19面「JT女性社員の被害届で逮捕… 出所後襲撃 逆恨み殺人に無期判決 /東京地裁」</ref><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
東京地裁は、情状面などの争点についてほぼ全面的に、検察側の主張通りの[[事実認定]]をした上で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、公判中の被告人M・弁護人側による「被害者にも落ち度があった」とする旨の主張に対しては、「被害者に対する被告人の恨みは一方的な決めつけによる逆恨みであり、被害者には何の落ち度もない」と退け、「被害者遺族の気持ちを逆撫でする言語道断ともいうべき責任転嫁の供述」と強く非難した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
[[判決理由]]で殺意については、「被告人Mは『包丁を見て、被害者が警察に届け出たことを謝れば殺す気はなかった』と主張しているが、各種証拠・捜査段階における供述に照らせばとてもその主張は信用できず、確定的な殺意の下に犯行を準備し、実行に至ったことが認められる」と認定した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27"/>。
 
一方で、殺害の計画性については「計画性自体は認められるが、検察側が主張したような『緻密で周到な計画に基づく犯行』とは言い難い」と指摘した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
また、検察側が「今回のようなお礼参り的事件が続発すると、犯罪被害者が報復を恐れて届け出なくなる恐れがある」として死刑を求刑したことについて、東京地裁は、「犯罪被害者保護の問題は、立法や行政上措置に委ねるのが適切で、今回の量刑で考慮するには限界がある」と指摘した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
その上で、[[量刑]]理由については、「永山基準」を引用した上で「被害を警察に届け出た当然の行動を裏切りと決めつけて筋違いの恨みを抱き、女性を殺害した犯行は、身勝手・理不尽で、刑事責任は重く、社会に与えた影響も大きいが、動機は個人的な恨みに基づくもので、利欲的なものではない」<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/>、「被害者数は1名であり、Mは公判が進むにつれて反省の態度を示し始めており、法廷での謝罪の言葉も口先だけとは断定できず、死刑を適用するには躊躇せざるを得ない」と結論付けた<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
;1999年5月27日、無期懲役判決
加えて、被告人Mの殺人前科については「20年以上前に起こした衝動的な単純殺人の事案である」として、特に重視しなかった<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:1999年5月27日、判決公判が開かれ、東京地裁([[山室惠]]裁判長)は被告人Mに[[無期刑|無期]]懲役判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27">『朝日新聞』1999年5月27日夕刊第一社会面15面「逆恨み殺人で無期懲役 『身勝手だが人間性も』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27">『中日新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面10面「JT女性社員刺殺 M被告に無期 東京地裁判決 『通報恨み身勝手』」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞1999-05-27">『東京新聞』1999年5月27日夕刊第二社会面11面「M被告に無期懲役 JT女性社員、逆恨み刺殺 『理不尽な動機』 東京地裁判決」</ref><ref group="新聞">『読売新聞』1999年5月27日東京夕刊社会面19面「JT女性社員の被害届で逮捕… 出所後襲撃 逆恨み殺人に無期判決 /東京地裁」</ref><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
:東京地裁は、情状面などの争点についてほぼ全面的に検察側の主張通りの[[事実認定]]をした上で<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>、公判中の被告人M・弁護人側による「被害者にも落ち度があった」とする旨の主張に対しては、「被害者に対する被告人の恨みは一方的な決めつけによる逆恨みであり、被害者には何の落ち度もない」と退け、「被害者遺族の気持ちを逆撫でする言語道断ともいうべき責任転嫁の供述」と強く非難した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:その上で、[[判決理由]]において殺意について「被告人Mは『被害者が包丁を見て、警察に届け出たことを謝れば殺す気はなかった』と主張しているが、各種証拠・捜査段階における供述に照らせばその主張は到底信用できず、確定的な殺意の下に犯行を準備して実行に至ったことが認められる」と認定した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="新聞" name="中日新聞1999-05-27"/>。一方で、殺害の計画性については「計画性自体は認められるが、検察側が主張したような『緻密で周到な計画に基づく犯行』とは言い難い」と指摘した<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:また、検察側が「今回のようなお礼参り的事件が続発すると、犯罪被害者が報復を恐れて届け出なくなる恐れがある」として死刑を求刑したことについて、東京地裁は「犯罪被害者保護の問題は、立法や行政上措置に委ねるのが適切で、今回の量刑で考慮するには限界がある」と指摘した<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:そして[[量刑]]理由については、「永山基準」を引用した上で以下のように結論付けた。
:* 被害を警察に届け出た当然の行動を裏切りと決めつけて筋違いの恨みを抱き、女性を殺害した犯行は身勝手・理不尽だ。刑事責任は重大で社会に与えた影響も大きいが、動機は個人的な恨みに基づくもので利欲的なものではない<ref group="新聞" name="朝日新聞1999-05-27"/><ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:* 被害者数は1名であり、Mは公判が進むにつれて反省の態度を示し始めており、法廷での謝罪の言葉も口先だけとは断定できず、死刑を適用するには躊躇せざるを得ない<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
:* 被告人Mの殺人前科については「20年以上前に起こした衝動的な単純殺人の事案であり、過度に重視すべきではない」<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>。
 
==== ;1999年6月4日、検察側控訴 ====
:東京地検はこの判決に対し、以下のように量刑不当として不服を訴え、1999年6月4日付で[[東京高等裁判所]]に[[控訴]]した<ref group="新聞">『中日新聞』1999年6月4日夕刊第二社会面12面「警察通報を恨み殺人 『無期懲役軽すぎる』 検察側控訴」</ref><ref group="新聞">『東京新聞』1999年6月5日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人で検察控訴」</ref><ref group="新聞">『読売新聞』1999年6月4日東京夕刊第二社会面18面「暴行被害女性逆恨み殺人に無期懲役判決 検察側が東京高裁に控訴」</ref>。控訴趣意書の内容は以下の通り。
:* 「『極めて悪質・理不尽な動機』、『執拗・残忍な犯行態様』、『無惨な結果』、『被害者遺族の峻烈な被害感情』など、本来重視されて然るべき情状を不当に軽く評価した」<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>
:* 「『殺害された被害者数が1人であること』、『殺害動機が利欲的でないこと』、『緻密・周到な計画的犯行とは言い難いこと』など、承服し難い情状を不当に重視して死刑選択を回避した上、死刑が適用された同種事案と比較しても、量刑の均衡を著しく欠いたものである」<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>
 
=== 控訴審・東京高裁 ===
429 ⟶ 289行目:
また、被告人Mは第一審同様、控訴審でも確定的殺意に基づく高度な計画性を否定し、「殺害は被害者の出方次第で、警察に届け出たことを謝罪すれば殺害するつもりはなかった」とする主張を行った<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
==== ;2000年2月28日、第一審破棄・死刑判決 ====
:[[2000年]](平成12年)2月28日、東京高裁([[仁田陸郎]]裁判長)は、[[2000年]](平成12年)2月28日に開かれた判決公判で第一審の無期懲役判決を[[取消し|破棄]]し、検察側の求刑通り被告人Mに死刑判決を言い渡した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28">[[#東京高裁判決(2000-02-28)|東京高裁判決(2000-02-28)]]</ref><ref group="新聞" name="中日新聞2000-02-28">『中日新聞』2000年2月28日夕刊社会面11面「JT女性社員刺殺 逆恨み殺害に死刑 東京高裁控訴審判決 『被害申告に悪影響』」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2000-02-28">『東京新聞』2000年2月28日夕刊1面「JT・OL殺害 逆恨み殺人に『死刑』 東京高裁 控訴審判決 『身勝手』と無期破棄」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2000-02-28 p.8">『東京新聞』2000年2月28日夕刊第二社会面8面「逆恨み殺人判決 迫られる再被害防止対策 出所後の情報提供なども」</ref><ref group="新聞">『朝日新聞』2000年2月28日夕刊第一社会面23面「M被告に死刑判決 警察に届け出女性を逆恨み殺害事件 東京高裁」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞2000-02-28">『毎日新聞』2000年2月28日夕刊社会面9面「JT女性社員逆恨み殺人 1審を破棄、死刑判決 東京高裁『被害申し立てに悪影響』」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2000-02-28 p.1">『読売新聞』2000年2月28日東京夕刊1面「被害者の女性を逆恨み殺人 無期破棄し死刑判決 被害者1人でも極刑/東京高裁」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2000-02-28 p.2">『読売新聞』2000年2月28日東京夕刊2面「『逆恨み殺人』判決の要旨」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2000-02-28 p.15">『読売新聞』2000年2月28日東京夕刊社会面15面「婦女暴行逆恨み殺人判決 『勇気ある告発』保護 死刑やむをえない/東京高裁」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
:東京高裁は犯行の背景について、「被告人Mは出所直後から被害者宅を探し始めた上で、あらかじめ包丁を購入し、包丁の柄に滑り止めのテープを巻き付けたりしていた」と事実認定し<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、第一審同様、「確定的な殺意が認められる」と認定した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。その上で、第一審判決が「検察側が主張するような『緻密で周到な計画に基づく犯行』とは言い難い」と指摘した点について<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、「一連の事件の経緯・被告人Mの供述などから判断すれば、執念深く強固な殺害意志とともに、周到で高度な計画性が認められる」として、検察側の控訴趣意書主張を採用した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
:そして犯行の動機について、「なんら落ち度のない被害者に極めて理不尽・身勝手な逆恨みの感情を抱き、高度な計画性の下に殺害した本件の動機は、殺害そのものを自己目的としたものである。その動機の悪質さは、[[保険金殺人]]・[[身代金]]目的の[[誘拐]]殺人と何ら変わらない」と断じた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
東京高裁は犯行の背景について、「被告人Mは出所直後から被害者宅を探し始めた上で、あらかじめ包丁を購入し、包丁の柄に滑り止めのテープを巻き付けたりしていた」と事実認定し<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、第一審同様、「確定的な殺意が認められる」と認定した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。その上で、第一審判決が「検察側が主張するような『緻密で周到な計画に基づく犯行』とは言い難い」と指摘した点について<ref group="判決文" name="東京地裁1999-05-27"/>、「一連の事件の経緯・被告人Mの供述などから判断すれば、執念深く強固な殺害意志とともに、周到で高度な計画性が認められる」として、検察側の控訴趣意書主張を採用した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
:また被告人Mの反省の情についても、「第一審から控訴審に至るまで、取り調べで捜査官の出方を窺うような態度を取ったり、確定的殺意を否定するなど、客観的事実に反する供述を繰り返している。また、第一審の最終陳述・控訴審公判において、被害者やその遺族に対する謝罪・反省の言葉を述べてはいるが、現時点で実際に被害者の冥福を祈っているとしても、第一審公判で『被害者にも落ち度があった』とする『言語道断というべき責任転嫁の供述』をしている上、殺意を抱いた過程について事実に即した反省をしていないまま述べた謝罪の言葉である。Mが被害者遺族に対し、現時点までにまったく慰謝の措置を取っていないことなども併せて考慮すると、心底からの真摯な反省の情とは認められない」と非難した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
そして:その動機について、上で何ら落ち度のない被害者に極め対し理不尽・身勝手な逆恨み『7年前感情こと抱き覚えているか』と脅し高度な計画性の下に恐怖心を煽ってから殺害した本件の動機はこと」「1976年に害そのもの人事件自己目的と起こし服役したもので前科がある。そこと」など、様々な情状を考慮した上で<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、「利欲目的ではないとはいえ、本件の動機の悪質さ、[[保険金殺人]]理不尽[[代金]]目的勝手[[誘拐]]殺極みであり、被害者の申告にも悪影響を与えかねない。被害者が1と何ら変わらでも死刑がやむを得ない場合はあり、極刑をもって臨むのはやむを得ない」と断じ結論付けた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
:Mには殺人前科があるとはいえ、[[身代金]][[誘拐]]・[[保険金殺人]]・無期懲役囚の[[仮釈放]]中再犯事例を除くと、最高裁から1983年に死刑適用基準として「永山基準」が示されて以降では、殺害被害者数1人の事件に対する死刑判決は極めて稀なケースだったが、[[マスメディア]]はこの判決を、「被害者保護」を重視した判決として評価した<ref group="書籍" name="福田2001"/>。
 
:被告人Mの弁護人は判決を不服として、2000年3月8日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]した<ref group="新聞">『東京新聞』2000年3月9日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人の被告側上告」</ref><ref group="新聞">『朝日新聞』2000年3月9日朝刊第三社会面37面「東京・江東区『逆恨み殺人』の被告が上告」</ref>。
また、被告人Mの反省の情についても、「第一審から控訴審に至るまで、取り調べで捜査官の出方を窺うような態度を取ったり、確定的殺意を否定するなど、客観的事実に反する供述を繰り返している。また、第一審の最終陳述・控訴審公判において、被害者やその遺族に対する謝罪・反省の言葉を述べてはいるが、現時点で実際に被害者の冥福を祈っているとしても、第一審公判で『被害者にも落ち度があった』とする『言語道断というべき責任転嫁の供述』をしている上、殺意を抱いた過程について事実に即した反省をしていないまま述べた謝罪の言葉である。Mが被害者遺族に対し、現時点までにまったく慰謝の措置を取っていないことなども併せて考慮すると、心底からの真摯な反省の情とは認められない」と非難した<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
その上で、「被害者に対して『7年前のことを覚えているか』と脅し、恐怖心を煽ってから殺害したこと」、「1976年に殺人事件を起こし服役した前科があること」など、様々な情状を考慮した上で<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>、「利欲目的ではないとはいえ、本件の動機は理不尽・身勝手の極みであり、被害者の申告にも悪影響を与えかねない。被害者が1人でも死刑がやむを得ない場合はあり、極刑をもって臨むのはやむを得ない」と結論付けた<ref group="判決文" name="東京高裁2000-02-28"/>。
 
Mには殺人前科があるとはいえ、[[身代金]][[誘拐]]・[[保険金殺人]]や無期懲役囚の[[仮釈放]]中の再犯事例を除くと、最高裁から1983年に死刑適用基準として「永山基準」が示されて以降では、殺害被害者数1人の事件に対する死刑判決は極めて稀なケースだったが、[[マスメディア]]は「被害者保護」を重視した判決として、この判決を評価した<ref group="書籍" name="福田2001"/>。
 
==== 2000年3月8日、弁護人上告 ====
被告人Mの弁護人は判決を不服として、2000年3月8日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]した<ref group="新聞">『東京新聞』2000年3月9日朝刊第二社会面26面「逆恨み殺人の被告側上告」</ref><ref group="新聞">『朝日新聞』2000年3月9日朝刊第三社会面37面「東京・江東区『逆恨み殺人』の被告が上告」</ref><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
=== 上告審・最高裁第二小法廷 ===
==== ;2004年6月14日まで、上告審口頭弁論公判期日指定 ====
:[[2004年]](平成16年)6月14日までに[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二[[小法廷]]([[滝井繁男]]裁判長)は上告審[[口頭弁論]]公判の開廷期日を2004年7月16日に指定し、関係者に通知した<ref group="新聞">『[[産経新聞]]』2004年6月14日大阪夕刊社会面「逆恨み殺人で最高裁が弁論」</ref><ref group="新聞">『産経新聞』2004年6月15日東京朝刊社会面「逆恨み殺人で最高裁、7月に弁論」</ref>。
 
==== 2004年7月16日、上告審口頭弁論公判開廷 ====
2004年7月16日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、結審した<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16">『[[毎日新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面12面「JT女性社員刺殺 双方が弁論し結審 最高裁」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16">『[[日本経済新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面15面「逆恨み殺人上告審で弁論 最高裁」</ref><ref group="新聞">『日本経済新聞』2004年7月16日西部夕刊社会面20面「弁護側、死刑回避求める 逆恨み殺人上告審」</ref>。
 
弁護人側は、「場当たり的で計画性がなく、強固な殺意もなかった。動機は単なる恨みであり、利欲的な動機はない」と主張し、控訴審の死刑判決を破棄するよう訴えた<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16"/>。
 
一方で、検察側は、「強固な殺意は明らかで、殺害された被害者数が1人で死刑が確定した他の事案と比べても、勝るとも劣らない非道な犯行だ。報復殺人は、犯罪を助長させ、治安の根幹を揺るがせかねない」として、控訴審の死刑判決を支持した上で、被告人M・弁護人側の上告を[[棄却]]するよう求めた<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16"/>。
 
==== 2004年9月22日まで、上告審判決公判期日指定 ====
2004年9月22日までに最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は、上告審判決公判開廷期日を2004年10月13日に指定し、関係者に通知した<ref group="新聞">『産経新聞』2004年9月23日東京朝刊社会面「“お礼参り”殺人、来月13日に判決 最高裁が通知」</ref><ref group="新聞">『日本経済新聞』2004年9月23日朝刊社会面35面「来月13日に最高裁判決 逆恨み殺人事件」</ref>。
 
裁判長を務めた滝井は、「身勝手な動機は許せないが、Mを目の前でよく見ている一審の判断は重い。死刑以外の選択肢はないのか」、「被告人はこれ以上上訴できない。最終審として、責任は重大だ」と悩み抜いた末、「もう後戻りできない。これで本当に死刑が確定する」との思いを抱えつつ、上告棄却の結論を出し、裁判長として判決文に署名したという<ref group="新聞">『読売新聞』2009年3月7日東京朝刊第二社会面38面「[死刑]選択の重さ(7) 3審、それぞれの苦悩(連載)」</ref><ref group="書籍">{{Cite book |和書 |author=[[読売新聞]]社会部 |title=死刑 |publisher=[[浅海保]]、[[中央公論新社]] |date=2009-10-10 |pages=184-185 |isbn=978-4120040634 }}</ref>。
 
==== 2004年10月13日、上告審判決公判 ====
2004年10月13日、上告審判決公判が開かれた<ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/><ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>。
 
最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は、控訴審の死刑判決を支持し、被告人M・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14"/><ref group="書籍" name="丸山2010"/>。
 
;2004年7月16日、上告審口頭弁論公判開廷
これにより、被告人Mの死刑判決が[[確定判決|確定]]することとなった<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13">[[#最高裁第二小法廷判決(2004-10-13)|最高裁第二小法廷判決(2004-10-13)]]</ref><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14">『中日新聞』2004年10月14日朝刊社会面31面「逆恨み殺人 死刑確定へ 暴行被害通報 女性を刺殺 最高裁『理不尽な犯行』」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14">『朝日新聞』2004年10月14日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人のM被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14">『[[読売新聞]]』2004年10月14日東京朝刊社会面39面「被害届女性逆恨み殺人 最高裁も死刑 上告を棄却 被害者1人でも」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14">『日本経済新聞』2004年10月14日朝刊社会面43面「逆恨み殺人 被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14 西部">『日本経済新聞』2004年10月14日西部朝刊社会面17面「暴行届け出逆恨み、女性刺殺 被告の死刑確定 最高裁、上告を棄却」</ref>。
:2004年7月16日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、結審した<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16">『[[毎日新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面12面「JT女性社員刺殺 双方が弁論し結審 最高裁」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16">『[[日本経済新聞]]』2004年7月16日夕刊社会面15面「逆恨み殺人上告審で弁論 最高裁」</ref><ref group="新聞">『日本経済新聞』2004年7月16日西部夕刊社会面20面「弁護側、死刑回避求める 逆恨み殺人上告審」</ref>。
:弁護人側は「場当たり的で計画性がなく、強固な殺意もなかった。動機は単なる恨みであり、利欲的な動機はない」と主張し、控訴審の死刑判決を破棄するよう訴えた<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16"/>。
:一方で検察側は「強固な殺意は明らかで、殺害された被害者数が1人で死刑が確定した他の事案と比べても勝るとも劣らない非道な犯行だ。報復殺人は犯罪を助長させ、治安の根幹を揺るがせかねない」として、控訴審の死刑判決を支持した上で被告人M・弁護人側の上告を[[棄却]]するよう求めた<ref group="新聞" name="毎日新聞2004-07-16"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-07-16"/>。
 
;2004年9月22日まで、上告審判決公判期日指定
同小法廷は、「特異な動機に基づく、誠に理不尽かつ身勝手な犯行であり、犯行に至る経緯に酌量の余地はない」、「その犯行は、計画性が高く、強固な殺意に基づくものであって、殺傷能力の高い刃物を用いた犯行の態様も冷酷かつ残虐である。被害者の生命を奪った結果は重大で、被害者遺族の被害感情は極めて厳しく、社会に与えた影響も大きい。殺人前科の存在も考慮すれば、死刑の判断は是認せざるを得ない」と事実認定した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>。
:2004年9月22日までに最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は、上告審判決公判開廷期日を2004年10月13日に指定し、関係者に通知した<ref group="新聞">『産経新聞』2004年9月23日東京朝刊社会面「“お礼参り”殺人、来月13日に判決 最高裁が通知」</ref><ref group="新聞">『日本経済新聞』2004年9月23日朝刊社会面35面「来月13日に最高裁判決 逆恨み殺人事件」</ref>。
:裁判長を務めた滝井は「犯行の身勝手な動機は許せないが、被告人Mを目の前でよく見ている一審の判断は重い。死刑以外の選択肢はないのだろうか?仮にこの判決で上告を棄却し、死刑判決を確定させれば被告人はこれ以上上訴できない。最終審として責任は重大だ」と悩み抜いた末、「もう後戻りできない」との思いを抱えつつ、上告棄却の結論を出した上で裁判長として判決文に署名した<ref group="新聞">『読売新聞』2009年3月7日東京朝刊第二社会面38面「[死刑]選択の重さ(7) 3審、それぞれの苦悩(連載)」</ref><ref group="書籍">{{Cite book |和書 |author=[[読売新聞]]社会部 |title=死刑 |publisher=[[浅海保]]、[[中央公論新社]] |date=2009-10-10 |pages=184-185 |isbn=978-4120040634 }}</ref>。
 
==== ;2004年11月10月13死刑上告審判決確定 ====公判
被告人Mは:2004年10月13日、上告審判決を不服として、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁長)に対し判決の訂正を申し立てが開かれ<ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-1110-1214"/><ref group="新聞" name="本経済新聞2004-1110-14"/><ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-1213"/>。
:最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は控訴審の死刑判決を支持し、被告人M・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14"/><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14"/>。
:これにより、被告人Mの死刑判決が[[確定判決|確定]]することとなった<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13">[[#最高裁第二小法廷判決(2004-10-13)|最高裁第二小法廷判決(2004-10-13)]]</ref><ref group="新聞" name="中日新聞2004-10-14">『中日新聞』2004年10月14日朝刊社会面31面「逆恨み殺人 死刑確定へ 暴行被害通報 女性を刺殺 最高裁『理不尽な犯行』」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞2004-10-14">『朝日新聞』2004年10月14日朝刊第一社会面39面「逆恨み殺人のM被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="読売新聞2004-10-14">『[[読売新聞]]』2004年10月14日東京朝刊社会面39面「被害届女性逆恨み殺人 最高裁も死刑 上告を棄却 被害者1人でも」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14">『日本経済新聞』2004年10月14日朝刊社会面43面「逆恨み殺人 被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞2004-10-14 西部">『日本経済新聞』2004年10月14日西部朝刊社会面17面「暴行届け出逆恨み、女性刺殺 被告の死刑確定 最高裁、上告を棄却」</ref>。
:同小法廷は、「特異な動機に基づく、誠に理不尽かつ身勝手な犯行であり、犯行に至る経緯に酌量の余地はない」、「その犯行は、計画性が高く、強固な殺意に基づくものであって、殺傷能力の高い刃物を用いた犯行の態様も冷酷かつ残虐である。被害者の生命を奪った結果は重大で、被害者遺族の被害感情は極めて厳しく、社会に与えた影響も大きい。殺人前科の存在も考慮すれば、死刑の判断は是認せざるを得ない」と事実認定した<ref group="判決文" name="最高裁第二小法廷2004-10-13"/>。
 
;2004年11月10日付、死刑判決確定
しかし2004年11月10日付で、同小法廷から申し立てを棄却する決定がなされたことにより、死刑判決が確定した<ref group="新聞" name="読売新聞2004-11-12">『読売新聞』2004年11月12日東京朝刊第二社会面34面「婦女暴行逆恨み殺人 M被告の死刑確定/最高裁」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞2004-11-12">『毎日新聞』2004年11月12日朝刊社会面28面「JT女性社員逆恨み殺人 被告の死刑判決確定 最高裁」</ref>。
被告人Mは上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)に判決の訂正を申し立てたが、同小法廷から2004年11月10日付で申し立てを棄却する決定がなされたことにより死刑判決が正式に確定した<ref group="新聞" name="読売新聞2004-11-12">『読売新聞』2004年11月12日東京朝刊第二社会面34面「婦女暴行逆恨み殺人 M被告の死刑確定/最高裁」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞2004-11-12">『毎日新聞』2004年11月12日朝刊社会面28面「JT女性社員逆恨み殺人 被告の死刑判決確定 最高裁」</ref>。
 
== 死刑執行 ==
=== 2008年2月1日、死刑囚Mほか2人の死刑執行 ===
[[2008年]](平成20年)2月1日、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[鳩山邦夫]])の死刑執行命令により、[[東京拘置所]]で[[死刑囚]]Mの死刑が執行された({{没年齢|1942|5|15|2008|2|1}})<ref group="新聞" name="中日新聞2008-02-01">『[[中日新聞]]』2008年2月1日夕刊1面「3人の死刑執行 刈谷の主婦強殺犯ら」</ref><ref group="新聞" name="東京新聞2008-02-01">『[[東京新聞]]』2008年2月1日夕刊1面「3人の死刑執行 逆恨み殺人 M確定囚ら」</ref>。
 
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事件から1年となる1998年4月中旬、「東京ウィメンズプラザ」(東京都渋谷区)にて被害者女性の友人ら約100人が、被害者女性を偲んで「わたしたちは忘れない わたしたちは許さない 女性への暴力」と題した集会を行った<ref group="新聞" name="朝日新聞1998-04-30">『朝日新聞』1998年4月30日朝刊第一家庭面29面「犯罪被害者どう守る 『法的措置が必要』 女性たちが東京で集会」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1998-05-01">『朝日新聞』1998年5月1日朝刊第一家庭面17面「救済法や支援ほしい 東京で報復殺人『許さぬ』集会 【大阪】」</ref>。
 
集会では評論家・[[柳沢由実子|ヤンソン柳沢由実子]]が、「この事件は女性に対する暴力の普遍的な問題だ」と指摘し、「性暴力は性という手段を使った一方的な襲撃だ。身近な人に相談された時は訴えた人の話を信じ、終始一貫して支持することが大切だ」「泣き寝入りしたくない女性は裁判などの知識を得たり、住所・職場を変えたりなどの対策も必要」と訴えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1998-04-30"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1998-05-01"/>。
 
続いて、弁護士・[[中島通子]]が被害者の人権を保護する方法について、「日本には[[犯罪被害給付制度]]以外に犯罪被害者を守る法的措置がないという現状がある」と指摘した<ref group="新聞" name="朝日新聞1998-04-30"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1998-05-01"/>。また、落ち度を責められるなどの「セカンドレイプ」から被害者を守るための方策として、「犯罪被害者救済法<ref group="注釈">犯罪被害者救済を想定した法令については2004年に[[犯罪被害者等基本法]]が制定されたほか、一部地方自治体は[[犯罪被害者等支援条例]]を制定している。</ref>・性暴力禁止法などを制定し、人権侵害を禁止する項目を作る」「サポートセンターを設立する」などを提言した<ref group="新聞" name="朝日新聞1998-04-30"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1998-05-01"/>。
 
=== 出所情報通知制度 ===
==== 警察庁の発表 ====
[[警察庁]]はこの事件を重視し、1997年9月29日午後に開かれた「全国捜査鑑識関係課長会議」で、全国の都道府県警察本部に「再被害を視野に入れた凶悪事件の捜査、全国の都道府県警察本部に指示した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
 
その上で「再被害の恐れが強いと判断された場合には、加害者の出所時期を事前に被害者に通知する場合もある」などの方針を発表した<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29">『東京新聞』1997年9月29日夕刊1面「犯罪者の『お礼参り』防止へ出所時期通知 居住地や勤務先は原則非公開 警察庁が初対策」</ref>。
 
この方針は「所轄警察署が殺人・性犯罪などを摘発した際、報復犯罪が発生する可能性がある事件を各警察本部に登録し、被害者への警戒活動を行うとともに必要な場合は加害者の出所情報を連絡する」というものだった<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
 
ただし、刑期を満了した者のプライバシー侵害や、被害者による加害者への復讐の助長につながるため、警察庁は「出所後の居住地が被害者と近接しているなどの特別な場合を除き、出所者の居住地・勤務先は教えない」とした<ref group="新聞" name="東京新聞1997-09-29"/>。
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=== 朝倉喬司の評価 ===
[[朝倉喬司]]は本事件について扱った『[[週刊実話]]』([[日本ジャーナル出版]])1999年8月19日号記事中にて、被告人Mの犯行動機・公判中の態度、弁護人・石川による最終弁論を非難した上で、同種のお礼参り事件を阻止するための提言を含め、以下のように述べた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
* 「(最終弁論の際の罵声について)傍聴席の誰の発言だったにせよ、怒りたくなるのも無理はない。Mのしでかしたことはそれくらい理不尽で手前勝手な犯罪だった。たとえMが被害者に対して『恋慕に似た感情』を持っていたとしても、身勝手な思い込みであり到底情状に加味されるような事柄ではない」<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>
: 「『被害を通報した人間を、加害者が逆恨みして殺す』ということがまかり通れば、届け出を躊躇う風潮につながり、検察側の主張した通り『法秩序が脅威にさらされる』ことになりかねない」
* 「警察は『被害者の保護についてちゃんと考えていたのか』が問われる場面だが、今回の事件の場合はせめて被害者に対し、事前に引っ越すことなどをアドバイスできなかったかと思う。仮に被害者が都内でも近県でも、どこか全く方向の違う場所へ引っ越していたら、Mの『調査能力』程度ではおそらく突き止められなかっただろう。警察としては被害者をつきっきりで四六時中守るという訳にもいかないだろうが、非業のうちに亡くなった被害者へのせめてもの供養として、できることから直ちに実施に移してもらいたい」<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
 
== 脚注 ==
記事中で朝倉は、「(最終弁論の際の罵声について)傍聴席の誰の発言だったにせよ、怒りたくなるのも無理はない。Mのしでかしたことは、それくらい理不尽で手前勝手な犯罪だった」、「たとえMが、被害者に対して『恋慕に似た感情』を持っていたとしても、身勝手な思い込みであり、到底情状に加味されるような事柄ではない」と述べた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
その上で、「被害を通報した人間を、当の加害者が、そのことを理由に殺す―こんなことがまかり通れば、届け出を躊躇う風潮につながり、検察側の主張した通り『法秩序が脅威にさらされる』ことになりかねない」、「警察は、被害者の保護についてちゃんと考えていたのかが問われる場面だが、今回の事件の場合、せめて被害者に対し、事前に引っ越すことなどをアドバイスできなかったかと思う。仮に彼女(被害者)が、都内でも近県でも、どこか全く方向の違う場所へ引っ越していたら、Mの『調査能力』からすれば、おそらく突き止められなかっただろう。警察としては、被害者をつきっきりで四六時中守るという訳にもいかないだろうが、できることから直ちに実施に移してもらいたい。それが、非業のうちに亡くなった被害者への、せめてもの供養というものだ」と述べた<ref group="雑誌" name="週刊実話1999-08-19"/>。
=== 出典 ===
==== 刑事裁判の判決文 ====
{{Reflist|group="判決文"}}
==== 新聞記事出典 ====
;以下の出典において、記事名に死刑囚の実名が使われている場合、その箇所を本項目で用いているイニシャル「M」に置き換えている。
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 雑誌記事出典 ====
{{Reflist|group="雑誌"}}
==== 書籍出典 ====
{{Reflist|group="書籍"}}
 
== 参考文献 ==
573 ⟶ 430行目:
* {{Cite book |和書 |author=[[丸山佑介]] |title=判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher=[[彩図社]] |date=2010-01-20 |pages=77-85 |isbn=978-4883927180 |ref={{Sfn|丸山|2010}} }}「8【強盗殺人】逆恨み殺人事件」
* {{Cite book |和書 |author=[[宇野津光緒]] |title=法廷ドキュメント 23の事件と被告たち |publisher=[[恒友出版]] |date=1998-05-15 |pages=28-41 |isbn=978-4765281256 |ref={{Sfn|宇野津|1998}} }}
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
==== 刑事裁判の判決文 ====
{{Reflist|group="判決文"}}
==== 新聞記事出典 ====
;以下の出典において、記事名に死刑囚の実名が使われている場合、その箇所を本項目で用いているイニシャル「M」に置き換えている。
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 雑誌記事出典 ====
{{Reflist|group="雑誌"}}
==== 書籍出典 ====
{{Reflist|group="書籍"}}
 
== 関連項目 ==
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* [[逆恨み]]
* [[性犯罪#「第二の被害」]](セカンドレイプ)
* [[熊本母娘殺人事件]](本事件と同じく逆恨みによるお礼参りで死刑が確定した事件)
* [[日本たばこ産業]](JT)(JT)
 
=== ;「永山基準」以降において「殺害された被害者数が1人」で最高裁で死刑判決が確定した害された被害者数が1事件 ===
:※無期懲役刑に処された前科があるもの、[[身代金]][[誘拐]]・[[保険金殺人]]は含まない。
:* [[名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件]](殺人前科あり、強盗殺人。前科は単純殺人ではあるが死刑に処された事件と経緯・手口が酷似した犯行)
:* [[三島女子短大生焼殺事件]](殺人前科・利欲目的・高度な計画性のいずれもなし)
:* [[渋谷駅駅員銃撃事件|横浜中華街料理店主射殺事件]](殺人前科なし。強盗殺人1件以外にも強盗殺人未遂、放火の余罪あり、[[銃犯罪|銃を使用した犯行]])
 
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