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|後継政党 = [[ドイツ社会主義統一党]](SED)(東)<br />[[ドイツ共産党 (DKP)|ドイツ共産党]] (DKP)(西)
|本部所在地 = {{仮リンク|ベルリン・ミッテ地区|de|Berlin-Mitte}}・{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}
|政治的思想・立場 = [[共産主義]]([[マルクス・レーニン主義]]、[[スターリニズム|スターリン主義]]){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}<br>[[プロレタリア独裁]]{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}<br>[[民主集中制]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=25}}<br>[[反資本主義]]{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}<br>反[[社会民主主義]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>[[反ファシズム]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>反[[ヴァイマル共和政]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>反[[ヴェルサイユ条約]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=133}}
|機関紙 = {{仮リンク|ローテ・ファーネ|label=ローテ・ファーネ(赤旗)|de|Die Rote Fahne}}
|公式カラー = [[赤]]
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しかし1929年から1930年にかけて共産党の反社民党機運が高まったことでADGBへの反対派を糾合して共産党系の労働組合を作ろうという試みが盛んにおこなわれるようになり、{{仮リンク|革命的労働組合反対派|de|Revolutionäre Gewerkschafts-Opposition}}(RGO)が結成された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=263}}。そのため1931年8月から9月のADGB第11回大会から共産党の代議員は一人もいなくなった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。
 
RGOは1932年11月には31万2000人の組合員を有していたとされ、確かに一定の影響力はもっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=265}}。しかし結局のところADGBの協力無くしては大規模なストライキは覚束ないレベルでしかなかった{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。共産党RGO、1930年のマンスフェルトやベルリン金属工ストなど大規模ストライキの際ついて「大きなスト全体を共産党意図する方向へ誘導しよう大衆的ストとをゼネ労働組合に先んじてストにまで喚起しかつ突入するのが常だったが、労働合がストの指導を開始するとんどの労働者が組合のストライキ事務所最終的に勝利を導くことに成功登録した。これはストライキ期間中の生活保障やストライキ終了後の職場復帰み意味を持つ」と繰り返し言明していめにはRGO単独正規の交渉団体はせいぜいある労働組合ところ地方的ストを呼び起こせライキ・カードが必要だっにすぎずからであり交渉資格を認めらも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒないRGOのストライキカ内閣が成立しドでは何の効力もなかっ時に共産党。また財政ゼネ貧弱なRGOではストを呼び中の生活保障も現金で渡すことができな時もそれゆえにRGO単独で反響も呼び起こさストはほとんどできなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー斎藤晢|19801997|p=264129}}。
 
共産党はストライキについて「大きなストの波と大衆的ストとをゼネストにまで喚起しかつ組織するとともに最終的に勝利を導くことに成功した時のみ意味を持つ」と繰り返し言明していたが、RGO単独ではせいぜいのところ地方的ストを呼び起こせたにすぎず、それも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒトラー内閣が成立した時に共産党がゼネストを呼びかけた時もそれは何の反響も呼び起こさなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。
 
=== 世界恐慌と共産党の台頭 ===
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1933年1月30日にナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から首相に任命された{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}、2月4日には野党の行動を制限する「{{仮リンク|ドイツ国民保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutze des Deutschen Volkes}}」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた{{sfn|モムゼン|2001|p=481/485}}。
 
さらに選挙期間中の2月27日に[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]が発生し、オランダ共産党員[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]が犯人として逮捕されると、プロイセン内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に制定された事実上の戒厳令「{{仮リンク|国民及び国家保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat}}」が制定された。この大統領緊急令基づきより共産党員は「保護拘禁」(Schutzhaft)されることになり同日中に共産党員4000人逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=220-221}}, {{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}, {{harvnb|高橋三郎|2000|p=25}}</ref>。
 
追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された{{sfn|モムゼン|2001|p=485}}。テールマンは国会議事堂放火事件直後の[[3月3日]]にベルリンの自宅で[[逮捕]]され、11年間[[裁判]]抜きで拘束された後、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]で[[1944年]][[8月17日]]に処刑された{{sfn|阿部良男|2001|p=221-222}}。[[3月5日]]の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の[[3月9日]]に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した{{sfn|阿部良男|2001|p=222}}。
 
[[3月23日]]に全権委任法が成立した後、共産党は[[3月31日]]に制定された『[[ラントとライヒの均制化に関する暫定法律]]』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された{{sfn|阿部良男|2001|p=228}}。
[[File:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr 2110.jpg|180px|thumb|テールマンが逮捕された後の共産党指導者{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}(東ドイツの切手)]]
地下に潜った共産党はテールマンに代わって{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}によって指導されるようになったが、シェーは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=461}}。
 
共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52}}。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマール共和国時代、あるいは[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]時代(1930年以降の{{仮リンク|大統領内閣|de|Präsidialkabinett}}時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}。
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1936年には地下組織共産党の最後の指導者{{仮リンク|ヴィルヘルム・ファール|de|Wilhelm Firl}}が逮捕され、[[人民法廷]]にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。
 
保護拘禁された共産党員たちは[[強制収容所 (ナチス)|ナチス強制収容所]]へ収監され、収容所内では政治犯を示す「赤」のバッジを着けた。収容所内では共産党員は[[強制収容所 (ナチス)#囚人の役職|囚人役職]]を務めていることが多かった。収容所の管理者たる[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)が共産主義者の「規律、団結、勇気、冷酷さ」による秩序維持能力を高く買っていたためといわれる{{sfn|高橋三郎|2000|p=159-160}}。事実「緑」(刑事犯)に囚人役職を任せた収容所より「赤」に囚人役職を任せた収容所の方が秩序だった自主管理が行われていたといわれる。ただし「赤」を囚人役職に据えると自分たちの政治的同志ばかり贔屓する不公正な運営を行うことが多かったという{{sfn|高橋三郎|2000|p=160}}。共産党員が囚人役職に登用されやすかったのは、彼らが収容所内のグループの中で最も組織だっていたためでもある。「囚人の中の結束力の強いグループは、収容所内のインフォーマルな組織を掌握することによって、ゲシュタポをひそかに操作することができた」といわれており、囚人職を巡る権力維持闘争においてライバルとなる者を組織的に排除するのが一番容易な立場だった{{sfn|高橋三郎|2000|p=165}}。
党員にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは[[1937年]]頃から始まった[[ヨシフ・スターリン]]の[[大粛清]]で処刑されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。
 
共産党員によって囚人職が独占された収容所の代表格が[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]である。フランスでレジスタンス活動をして[[ゲシュタポ]]に逮捕されたイギリス空軍将校ヨウ・トーマスはブーヘンヴァルトに収容された際に他の囚人から最初に注意されたのは「この収容所内で権力を握っている共産主義者たちは将校や資本家を好まぬから前歴を隠すように」だったことを回想している{{sfn|高橋三郎|2000|p=161-162}}。囚人役職に就いた共産党員たちの中には他の囚人たちの死に深く関与した者たちが多い。親衛隊から実質的に死を意味する人選を命じられた時も彼らは冷徹に自分たちの同志以外の者を指定人数選別しては親衛隊に引き渡した。またPアルクールは「彼ら(囚人役職に就く共産党員)のヘゲモニーに抵抗する手の負えない犯罪者や政治的敵対者が病棟に近づくと、不思議なことに病気にかかり、そして死んだものだった」と回想している{{sfn|高橋三郎|2000|p=164}}。
 
党員の中にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは[[1937年]]頃から始まった[[ヨシフ・スターリン]]の[[大粛清]]で処刑されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。
 
=== 戦後 ===
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1945年秋になるとソ連占領当局は社共を統一させてドイツ分裂阻止の要とすることを企図するようになり、その意を汲んだ共産党は社民党との合同に向けたキャンペーンを展開した。社民党党首[[オットー・グローテヴォール]]が「ロシアの銃剣で突っつかれている」と嘆いたように、それは実質的には強制合併の圧力に他ならなかった。1946年4月に共産党は社民党を合併し、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)と改名した。しかしこれは西側の反発を招き、東西分裂を促進する結果となった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=439-440}}。
 
社会主義統一党結党の際には社共同権が謡われたが、冷戦が深まってくる中の1948年頃から社会主義統一党はソ連共産党を模範とした「幹部政党」への転換と社会民主主義者の排除を押し進めるようになった。1949年には社共同権原則が正式に破棄され、旧社民党員の粛清が吹き荒れた。やがて粛清の嵐は旧社民党員だけではなく旧共産党員にも広がっていった。この時期の粛清の激しさは1948年から1952年にかけて党員数が80万人減少していることからもうかがえる。党を追放された者の多くは監獄や[[ラーゲリ|ソ連の強制収容所]]へ送られていった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=441}}。
 
1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。以降社会主義統一党は[[1989年]]の[[東欧革命]]で打倒されるまで同国において[[民主集中制]]と[[ヘゲモニー政党制]]による独裁体制を敷くことになる{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=446-447}}。
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なお、かつてドイツ共産党の本部だった建物{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}は現在左翼党が使用している。
 
== 選挙結果党の思想 ==
{{仮リンク|オシップ・フレヒトハイム|de|Ossip K. Flechtheim}}は、ほぼ1925年以来固められた共産党の共産主義的信条の本質的教義を以下のとおりに要約している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=322}}。
=== 国会(Reichstag) ===
*全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。
[[ヴァイマル共和政]]期から[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および[[国会 (ドイツ)|国会]](Reichstag)における共産党の党勢。
*国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。
*選挙制度は[[比例代表制]]<ref name="村田">{{cite web|author=村田孝雄|url=https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11565&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=ワイマール憲法下における選挙制定の歴史的考察|work= [https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/ 中京大学学術情報リポジトリ] |accessdate=2018年5月29日}}</ref>
*共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。
*選挙権は20歳以上の男女<ref name="村田"/>
*真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。
*ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。
*資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。
 
== 党の分析・評価 ==
共産党は「唯一の労働者党」を自称し、労働者階級の多数派を自党の下に置くことを目指した。しかし労働者階級の多数の獲得を目標を掲げていること自体、共産党が労働者の少数派しか獲得できていないことを示している。またヴァイマル共和政末期についていえば共産党の党員の大多数は失業者であって、経営に属する労働者はわずかしかいなかった(詳しくは[[#党員の職業考察|後述]]){{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。
 
選挙結果で見ると共産党に投票した層は明らかに労働者階級の範囲を超えている。ナチスほどではないにせよ、共産党にも包括政党の面があった事は否定できない{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。[[1932年]]に[[ジグムント・ノイマン]]は、共産党の性質についてその独裁体質と階級を超えた不満層の包括政党になっている面から、ナチ党とともに「絶対主義的統合政党」に分類する分析を行った{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}。
 
フレヒトハイムは、ドイツ共産党は他国の共産党と違って[[十月革命|ロシア10月革命]]の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツの国内状況から独自に誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方では[[ルクセンブルク主義]]の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマール体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=350}}。
 
== 他党との関係 ==
共産党は自党以外の全ての政治勢力を攻撃した。とりわけ[[ドイツ社会民主党|社民党]](SPD)や[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)とは労働者階級の利益をめぐって激しい競合関係にあった。この3党の対立関係はイデオロギーだけではなく、経営や街頭における労働者や失業者の組織のうえでも激しいものだった{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。
 
共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、[[ルンペンプロレタリアート]]の党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=317-318}}。
 
ブルジョワ政党からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、大連合(大連立)政権を作るための枠組み交渉において常に対象外という政界の鼻つまみ者のようになっていた。例えばヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=204}}。
 
== 党の組織 ==
=== 党組織に関する党規約 ===
{| class="wikitable"
!選挙日!!得票!!得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
! style="white-space:nowrap" rowspan="4" |6条
|[[1920年ドイツ国会選挙|1920年6月6日]]||align="right"|589,454票||align="right"|2.1%||align="right"|4議席 (459議席)||第8党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[ドイツ人民党]](DVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) 、[[ドイツ民主党]](DDP)、[[バイエルン人民党]](BVP)に次ぐ}}
| colspan="2"|ドイツ共産党は、コミンテルンの全ての支部と同じく[[民主集中制|民主主義的中央集権主義(民主集中制)]]の原理に基づいて構成されている。その基本原理は次のとおりである。
|-
|style="white-space:nowrap"|a項
|[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月4日]]||align="right"|3,693,280票||align="right"|12.6%||align="right"|62議席 (472議席)||第4党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) に次ぐ|name=注釈1}}
|下級および上級の党機関の選挙は全党員集会、全国協議会、ならびに党大会で行われる。
|-
|style="white-space:nowrap"|b項
|[[1924年12月ドイツ国会選挙|1924年12月7日]]||align="right"|2,709,086票||align="right" |8.9%||align="right"|45議席 (493議席)||第5党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum)、[[ドイツ人民党]](DVVP)に次ぐ}}
|党機関の会計報告は、その選挙に先立って定期的に行われる。
|-
|style="white-space:nowrap"|c項
|[[1928年ドイツ国会選挙|1928年5月20日]]||align="right"|3,264,793票||align="right"|10.6%||align="right"|54議席 (491議席)||第4党{{efn|name=注釈1}}
|上級機関の決議の下級機関による承認の義務、厳格な党規律、コミンテルン中央執行委員会及び指導的党機関の決議の迅速で確実な履行。その活動をある種の地域に及ぼす機関は、その活動を単にこの地域の個々の部分に限る機関に対し、上級機関とみなされる。党問題についての論争は党員によって当該機関による決定までの間のみなされる。コミンテルン大会、党大会もしくは指導部的党機関によって決議がなされたのちは、この決議は党員の一部もしくは地方的党機関の一部がそれに同意しない時においても無条件に実行されなければならない。
|-
! style="white-space:nowrap" |7条
|[[1930年ドイツ国会選挙|1930年9月14日]]||align="right"|4,590,160票||align="right"|13.1%||align="right"|77議席 (577議席)||第3党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)に次ぐ}}
| colspan="2"|異常の状態の下においては、下部党機関の上部党機関による任命もしくは上級党機関の承認による指導部の自己補充は許される。この処置は、そのための可能性が存するやただちに、後から機関に提出し決議を得なければならない。
|-
! style="white-space:nowrap" |8条
|[[1932年7月ドイツ国会選挙|1932年7月31日]]||align="right"|5,282,636票||align="right"|14.3%||align="right"|89議席 (608議席)||第3党{{efn|[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に次ぐ|name=注釈2}}
| colspan="2"|党機関は、コミンテルンおよび党の既存の決議の枠内において地方問題においては自立的である。
|-
! style="white-space:nowrap" |9条
|[[1932年11月ドイツ国会選挙|1932年11月6日]]||align="right"|5,980,239票||align="right"|16.9%||align="right"|100議席 (584議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
| colspan="2"|あらゆる機関の最高決定機関は党員集会、協議会もしくは党大会である。
|-
! style="white-space:nowrap" |10条
|[[1933年3月ドイツ国会選挙|1933年3月5日]]||align="right"|4,848,058票||align="right"|12.3%||align="right"|81議席 (647議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
| colspan="2"|全員集会、協議会もしくは党大会は、その中間の期間の指導機関として、当該機関の日常の活動を行う当該指導部を選出する。
|-
! style="white-space:nowrap" rowspan="8" |11条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Uebersicht_RTW.html Gonschior.de]
| colspan="2"|党構成の図式は次のとおりである。
|-
|style="white-space:nowrap"|a項
|個々の工場、作業場、事務所、店舗、農場、市街等々については細胞集会―細胞指導部。
|-
|style="white-space:nowrap"|b項
|小都市、村落等の地域については、地区細胞会議(村落細胞会議)もしくは地区集会(村落集会)―地区指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|c項
|市区の地域については、市区協議会―市区指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|d項
|下位地方地域については、下位地域会議―下位地域指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|e項
|地域については、地域大会―地域指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|f項
|国土全域については、党大会―中央委員会
|-
| colspan="2"|注 経営細胞の次の上位の組織段階は細胞グループである。市区の大きさによっては、一つの市区の中に多くの細胞グループのあることもある。 組織のこれ以上の区分は、組織の特別の状態と個々の地区の特殊の情勢に応じて規整されなければならない。
|-
| align="center" colspan=3|1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=348-355/445}}
|}
 
== 党の財政 ==
=== 大統領選挙(Reichspräsidentenwahl) ===
共産党の金庫には「うなる程の[[ルーブル]]がある」という噂があったが、{{仮リンク|リヒャルト・レヴィンゾーン|de|Richard Lewinsohn}}は著書の中で「モスクワの中央部は、大きな特別行動のために時には資金を出すことはある。だがコミンテルンは、幾百万ルーブルという大金を浪費はしない。というのはコミンテルン自身の財政と言えども限られたものであって、モスクワからの比較的大きな援助は、急進的な労働者大衆がまだ組織されていないところへだけ向けられるのが常だからである」としてこの噂を否定している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=232-233}}
 
共産党の財政は党費と寄付が主だったと見られる。党費は1923年には月額1時間分の賃金と規定されたが、1924年には三段階(20ペニヒ、15ペニヒ、5ペニヒの三段階)に分けられた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。1925年にはさらに引き上げられる形で最低平均収入の1%と規定された{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=354}}。しかし共産党の党員は収入の少ない労働者や失業者が大半であるため、党費から得られる収入はさほど多くなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。これに対して議員による党への拠金はかなりの金額に及んだ。共産党の国会議員は月々の750ライヒスマルクの歳費のうち約300ライヒスマルクを党会計に納入することが義務付けられていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。
 
募金からもかなりの金額を集めていた。特に選挙前になると党の各居住グループと地区が競い合うように党のシンパを使って募金の調達を行った{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。1928年5月の総選挙直前に党中央機関紙『ローテ・ファーネ』は「ベルリンで1万2547ライヒスマルクが集まった」と報じている{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。
 
さらに党は自営の企業群を保有していた。その重要なものは党機関紙にかかるもので、1923年10月時点で党は34の日刊紙と19の印刷所を持っていた。印刷所のうち16は党所有の建物の中に存在した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。だが1929年に赤色戦線戦士同盟が非合法化された後、党指導部は国家による党財産の接収を恐れるようになり、党の主要財産、特に党機関紙と党本部カール・リープクネヒト・ハウスを守るために名目上の売却を行って「脱政治化」に着手した。その際に党本部と印刷所の価格は850万ライヒスマルクと評価されている。しかしこのような偽装も1933年に成立したナチ党政権には通用せず、結局党財産は接収されることになった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。
 
== 党員について ==
=== 党員に関する党規約 ===
{| class="wikitable"
!選挙日!!党の大統領候補!!得票!!得票率!!結果
|-
! style="white-space:nowrap" |2条
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年3月29日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,871,815票||align="right"|7.0%||落選{{efn|{{仮リンク|カール・ヤーレス|de|Karl Jarres}}、[[オットー・ブラウン]]、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|コミンテルンおよび共産党の綱領と規約を承認し、党の基本的下部組織の成員で、ここにおいて積極的に活動し、党内におけるコミンテルンの全ての決議に服従し、規則正しく党費を収める者は党員たりうる。
|-
! style="white-space:nowrap" |3条
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年4月26日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,931,151票||align="right"|6.4%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|新しい党員の採用は党細胞によってなされる。新採用は都市地区指導部もしくは地区指導部の確認を要する
|-
! style="white-space:nowrap" |4条
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年3月13日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|4,938,341票||align="right"|13.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|他の政治組織のまとまったグループもしくは政治組織全体が共産党に入党しようとするときには中央委員会の決議による。
|-
! style="white-space:nowrap" |5条
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年4月10日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|3,706,759票||align="right"|10.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|勤務先を変更するときは経営細胞党員は、経営細胞指導部に報告すべき義務を負う。居住地の変更に際して党員は、細胞グループ指導部に報告すべき義務を有する。他州へ移住する際には党の中央委員会の許可を得なければならない。これに関する照会は党機関を通してなされる。
|-
! style="white-space:nowrap" |42条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Praesidenten.html Gonschior.de]
|党規律違反は当該党組織の側での罰則をともなう。(略)個々の党員には次の罰則が適用される。党内戒告、外部への戒告、活動の停止、期限付き除名、決定的除名。
|}
 
=== 連邦議会(Bundestag) ===
[[西ドイツ]]の[[ドイツ連邦議会|連邦議会]](Bundestag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[小選挙区比例代表併用制]]
*選挙権は21歳以上の男女<ref name="国立">{{cite web|author1=佐藤令|author2=大月晶代|author3=落美都里|author4=澤村典子|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2008/200806.pdf|title=主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に|work= 国立国家図書館調査及び立法考査局|accessdate=2018年5月29日}}</ref>
{| class="wikitable"
!選挙日!!選挙区得票<br>比例得票!!選挙区得票率<br>比例得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
! style="white-space:nowrap" |44条
|[[1949年ドイツ連邦議会選挙|1949年8月14日]]||align="right"|1,361,706票||align="right"|5,7%||align="right"|15議席 (402議席)||第6党{{efn|[[ドイツキリスト教民主同盟]]/[[キリスト教社会同盟]](CDU/CSU)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)、[[バイエルン民族党]](BP)、[[ドイツ党]](DP)に次ぐ}}
|党員除名の問題は当該党機関(細胞)の集会によってその上級の党指導部に提案される。除名決議は地域指導部が承認したのちに効力を発する。控訴は最高機関にまですることができる。除名の確認がなされるまでは、当該者は党活動を停止される。除名決議は通例党機関紙に公表される。除名された者の再入党は除名を行った組織が再入党を認めたときのみ為すことができる。
|-
! style="white-space:nowrap" |47条
|[[1953年ドイツ連邦議会選挙|1953年9月6日]]||align="right"|611,317票<br>607,860票||align="right"|2.2%<br>2.2%||align="right"|0議席 (509議席)||議席無
|党費は最低平均収入の1%とする。(以下略)
|-
! style="white-space:nowrap" |48条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.election.de/cgi-bin/content.pl?url=/btw.html Bundestagswahlen]
|十分な理由を示すことなしに三か月にわたって党費を納入しない党員は、警告を行っても効果のないとき、離党したものと見做される。このことは党員集会および当該党員に通報される。
|-
| align="center" colspan=2| 1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=348-355/445}}
|}
 
=== 党思想職業考察 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00888, Berlin, Wahlwerbung für KPD.jpg|thumb|1924年12月の[[1924年12月ドイツ国会選挙|国会選挙]]で活動する共産党員たち]]
ほぼ1925年以来固められた共産主義的信条の本質的教義は以下のとおりである{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=322}}。
1929年の世界恐慌以前の共産党の党員は工場労働者を主として構成されていた。1927年の党員点検によれば党員の68%は工場労働者であったという。これは社民党の同比率より高い数字を示す。農業労働者や職人も加えれば広義の労働者は共産党全党員の80%に及ぶと見られる。また党員の53%が経営に属していたが、そのうち36%(つまり全党員の約19%)は従業員数50人以下の小経営に属しており、従業員数1000人以上の大経営に属する党員は全党員の15%にとどまる。大経営の中における共産党の足場は極めて脆弱であった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。
*全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。
*国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。
*共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。
*真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。
*ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。
*資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。
 
1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者党員が急速に増加し、経営における共産党員を狙い撃ちにした解雇も増えた{{sfn|斎藤晢|1998|p=110}}。1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、失業者は78%に及んだ。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達している。世界恐慌後の共産党は「労働者党」というより「失業者党」と化していた<ref>{{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54/310}}、{{harvnb|斎藤晢|1997|p=119/121}}</ref>。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持基盤とする社民党と最貧層の失業者を支持基盤とする共産党の対立という側面があった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=174}}。ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54}}。
== 党の分析・評価 ==
[[1932年]]に[[ジグムント・ノイマン]]は共産党の性質について、その独裁体質と不満層の貯水槽になっている面から、ナチ党と同様の「絶対主義的統合政党」であると分析している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}。
 
共産党は1931年まで経営に属していない党員の調査を行っていなかったが、これは党の重点はあくまで経営の中にあるべきと党が考えていたためである。それがヴァイマル末期になって経営外党員の調査を開始したことは、党自身がもはや党の重点は経営の中にないことを認めたに他ならない{{sfn|斎藤晢|1997|p=119}}。ただ失業者党員は25歳から40歳が中心を占めていたので、就労経験を持つ者が多かった。そのため法的には失業者であっても意識の上では自分を「労働者」と捉えている者が多かったといわれる{{sfn|斎藤晢|1997|p=123-124}}。
{{仮リンク|オシップ・フレヒトハイム|de|Ossip K. Flechtheim}}は、ドイツ共産党は他国の共産党と違って[[十月革命|ロシア10月革命]]の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツ国内状況から誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方では[[ルクセンブルク主義]]の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマール体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=350}}。
 
フレヒトハイムはヴァイマル末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたのではないかと推測しているが{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=310}}、{{仮リンク|ハルトマン・ヴンデラー|de|Hartmann Wunderer}}は失業から直ちに特定の政治的な行動形態が生まれるわけではないとしてヴァイマル末期の共産党の急進的行動を失業者党員の増加から説明づけることに反対している{{sfn|斎藤晢|1997|p=119}}。
== 他党との関係 ==
共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、[[ルンペンプロレタリアート]]の党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=317-318}}。
 
=== 党員の年齢層考察 ===
社民党以外からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、政界の鼻つまみ者のようになっていた。ヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=204}}。
[[File:Bundesarchiv Bild 102-13592, Berlin, Verhaftung von Demonstranten.jpg|thumb|デモを起こして警察に逮捕される共産党員(1932年6月ベルリン)]]
共産党の党員は若年層が多かった。1927年時の全党員の中に占める40歳以下の党員の割合は63.5%であり{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}、この比率は、総人口中に占める40歳以下の比率と比較すると二倍以上である{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。
 
一方帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化しており{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}、社民党員のうち40歳以下の者の割合は44.6%(1930年時)に過ぎなかった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。国会議員層を見ても社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員で50代以上は1割にも満たなかった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
== 党員について ==
共産党の党員は1928年の時点では産業労働者が70%以上を占めていた。そのうち40%が熟練労働者で28%が未熟練労働者だった。熟練労働者の中では金属と建築関連の労働者が多かったといわれる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=307}}。
 
この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党([[ドイツ国家人民党|国家人民党]]など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
しかし1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者が急速に増大し、1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、対して失業者は78%にも達している。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達した。もはや「労働者の党」というより「失業者の党」と化していた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54/310}}。ヴァイマル共和政末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたことが推測される{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=310}}。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持層とする社民党と失業者を支持層とする共産党の対立という側面があった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=174}}。
 
共産党とナチ党を比較すると、ナチ党の方がより若者が多い傾向があった。ナチ党は党員の69.9%が40歳以下(1933年時)であり、この数字は共産党を上回る。ナチ党は25歳以下の青年層からも根強い支持を受けていたが、共産党は25歳以下については最もわずかな数しか組織できなかった。恐慌期に党員が急増していた時期でさえ25歳以下の青年層が共産党へ流れてくることはほとんどなかった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。
ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54}}。
 
=== 党員の性別的考察 ===
年齢層でいうと若年層の党員が多かった。全党員の中に占める40歳未満の党員の比率は、総人口中に占める40歳未満の比率と比較すると二倍以上である{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。一方帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化していた{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。国会議員層を見ても、社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員は50代以上は1割にも満たなかった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党([[ドイツ国家人民党|国家人民党]]など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
共産党の党員中の女性の比率は最も高い1929年末でも17%に留まる。また1933年までの全ての選挙で共産党に投票したのは男性が女性より20%多かった。党員と支持者どちらの構成から見ても共産党は圧倒的に「男性の党」だったということができる{{sfn|斎藤晢|1997|p=107-108}}。
 
共産党は「女性解放」を掲げて、男女の経済的・社会的・文化的・政治的な同権、妊産婦と母性の保護、中絶の自由、結婚生活における妻の自己決定権などを要求していたが、共産党が女性に受け入れられたとは言い難い{{sfn|斎藤晢|1998|p=107}}。女性労働者の間では共産党に対する不安や恐怖感がきわめて根強かった{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。
 
党指導部は女性党員を積極的に党活動に参加させる必要性を繰り返し強調したものの、党員レベルでは自分の妻が家の外で働いたり、党集会に参加したり、政治に関わりを持つことを好まない人が多かった{{sfn|斎藤晢|1998|p=109}}。ヴァイマル共和政期のドイツ社会は、一次大戦の戦時中の女性就労、1920年代に現れた所謂「新しい女性」の登場などによりジェンダーの混乱が見られた時期で、少なくない人々がその状況に不安を抱いていた。共産党の「女性解放」運動もそうした混乱に拍車をかける物として捉えられて忌避される傾向があった{{sfn|斎藤晢|1998|p=115}}。
 
さらに共産党の党活動はストライキや街頭闘争(敵対政治勢力や警察との暴力闘争を伴う)を重視するものであるため、どうしても男性中心にならざるをえなかった{{sfn|斎藤晢|1998|p=110-111}}。特に街頭闘争は完全に男性の暴力頼みの党活動なので女性から忌避されていたと見られる{{sfn|斎藤晢|1998|p=131-132}}。
 
=== 党員の地域的考察 ===
共産党の勢力・党員構成は地区ごとに大きな差異があった。1929年時点で27の地区党のうち8か所({{仮リンク|ベルリン=ブランデンブルク|de|Berlin-Brandenburg}}、{{仮リンク|ハレ=メルゼブルク県|label=ハレ=メルゼブルク|de|Provinz Halle-Merseburg}}、沿海地域、[[ライン川|ライン]]下流、[[エルツ山地]]={{仮リンク|フォークトラント|de|Vogtlandkreis}}、[[ルール地方|ルール]]、西[[ザクセン]]、[[テューリンゲン]])に党員の三分の二が集中していた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。中部ドイツやライン=ルール、ベルリン、ハンブルクといった人口が密集した工業地域に共産党員が多かったのだが、同時にそれらの地域には共産党反対派(KPD-O)も根を張っていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。
 
=== 党員変動の激しさ ===
党員の出入りが激しく、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。1927年時点の党員で1920年から党員だったのはわずかに四分の一である。世界恐慌後はさらに激しくなり、党の公式報告によれば、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったという{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。
共産党は党員の出入りが激しい党であり、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。1927年時点の党員で1920年から党員だったのはわずかに四分の一にすぎない{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。世界恐慌後には党員変動はさらに激しくなった。例えば1930年1月時点での党員数は13万3000人であり、この年に14万3000人の新規入党があったにもかかわらず、年末の党員数は18万人にとどまっている。すわなち9万5000人以上が離党している計算になる{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}。党の公式報告によっても、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったことを認めている{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。
 
毎年膨大な離党者が出ることは党にとっても深刻な問題だったので党組織の様々なレベルで離党理由の調査が行われた。それらの調査によれば離党理由で最も多いのは「金にならないから」だった。これは共産党入党者のうち少なくない数の者が何らかの経済的事情の好転を期待して入党したことを意味する。共産党への入党で就職が有利になるということはありえないため、党活動への参加に対する物質的な見返りがないこと、あるいは有給の党専従職員になる道が極めて狭き門だったことに対する不満だったと考えられる{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。
 
ナチ党の[[突撃隊]]は失業中の同志に対してバラックや簡単な給養の提供を行うことで知られていた。そのため共産党員の間にもそうした給付への期待感は強かったと思われる{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。党自身もあたかもそうした期待に応えられるかのようなプロパガンダを行っていた。しかし実際にはほとんど期待に応えることはできなかったため、直接的利益を期待して入党してきた者たちからはすぐに愛想をつかされてしまったのである{{sfn|斎藤晢|1997|p=129}}。
 
=== 党員数の変遷 ===
{| class="wikitable"
|+ 共産党の党員数の変遷
469 ⟶ 544行目:
|-
|1928年末||align="right"|130,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|1930年1月||align="right"|133,000人||{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}
|-
|1930年9月||align="right"|120,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|1930年末||align="right"|180,000人||{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}
|-
|1931年初頭||align="right"|200,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|1932年11月||align="right"|360,000人||<ref name="Epstein"/>
|}
 
== 選挙結果 ==
=== 国会(Reichstag) ===
[[ヴァイマル共和政]]期から[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および[[国会 (ドイツ)|国会]](Reichstag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[比例代表制]]<ref name="村田">{{cite web|author=村田孝雄|url=https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11565&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=ワイマール憲法下における選挙制定の歴史的考察|work= [https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/ 中京大学学術情報リポジトリ] |accessdate=2018年5月29日}}</ref>
*選挙権は20歳以上の男女<ref name="村田"/>
{| class="wikitable"
!選挙日!!得票!!得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|[[1920年ドイツ国会選挙|1920年6月6日]]||align="right"|589,454票||align="right"|2.1%||align="right"|4議席 (459議席)||第8党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[ドイツ人民党]](DVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) 、[[ドイツ民主党]](DDP)、[[バイエルン人民党]](BVP)に次ぐ}}
|-
|[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月4日]]||align="right"|3,693,280票||align="right"|12.6%||align="right"|62議席 (472議席)||第4党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) に次ぐ|name=注釈1}}
|-
|[[1924年12月ドイツ国会選挙|1924年12月7日]]||align="right"|2,709,086票||align="right" |8.9%||align="right"|45議席 (493議席)||第5党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum)、[[ドイツ人民党]](DVVP)に次ぐ}}
|-
|[[1928年ドイツ国会選挙|1928年5月20日]]||align="right"|3,264,793票||align="right"|10.6%||align="right"|54議席 (491議席)||第4党{{efn|name=注釈1}}
|-
|[[1930年ドイツ国会選挙|1930年9月14日]]||align="right"|4,590,160票||align="right"|13.1%||align="right"|77議席 (577議席)||第3党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)に次ぐ}}
|-
|[[1932年7月ドイツ国会選挙|1932年7月31日]]||align="right"|5,282,636票||align="right"|14.3%||align="right"|89議席 (608議席)||第3党{{efn|[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に次ぐ|name=注釈2}}
|-
|[[1932年11月ドイツ国会選挙|1932年11月6日]]||align="right"|5,980,239票||align="right"|16.9%||align="right"|100議席 (584議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
|-
|[[1933年3月ドイツ国会選挙|1933年3月5日]]||align="right"|4,848,058票||align="right"|12.3%||align="right"|81議席 (647議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Uebersicht_RTW.html Gonschior.de]
|}
 
=== 大統領選挙(Reichspräsidentenwahl) ===
{| class="wikitable"
!選挙日!!党の大統領候補!!得票!!得票率!!結果
|-
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年3月29日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,871,815票||align="right"|7.0%||落選{{efn|{{仮リンク|カール・ヤーレス|de|Karl Jarres}}、[[オットー・ブラウン]]、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年4月26日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,931,151票||align="right"|6.4%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年3月13日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|4,938,341票||align="right"|13.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年4月10日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|3,706,759票||align="right"|10.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Praesidenten.html Gonschior.de]
|}
 
=== 連邦議会(Bundestag) ===
[[西ドイツ]]の[[ドイツ連邦議会|連邦議会]](Bundestag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[小選挙区比例代表併用制]]
*選挙権は21歳以上の男女<ref name="国立">{{cite web|author1=佐藤令|author2=大月晶代|author3=落美都里|author4=澤村典子|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2008/200806.pdf|title=主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に|work= 国立国家図書館調査及び立法考査局|accessdate=2018年5月29日}}</ref>
{| class="wikitable"
!選挙日!!選挙区得票<br>比例得票!!選挙区得票率<br>比例得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|[[1949年ドイツ連邦議会選挙|1949年8月14日]]||align="right"|1,361,706票||align="right"|5,7%||align="right"|15議席 (402議席)||第6党{{efn|[[ドイツキリスト教民主同盟]]/[[キリスト教社会同盟]](CDU/CSU)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)、[[バイエルン民族党]](BP)、[[ドイツ党]](DP)に次ぐ}}
|-
|[[1953年ドイツ連邦議会選挙|1953年9月6日]]||align="right"|611,317票<br>607,860票||align="right"|2.2%<br>2.2%||align="right"|0議席 (509議席)||議席無
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.election.de/cgi-bin/content.pl?url=/btw.html Bundestagswahlen]
|}
 
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[斎藤晢]]|year=1997|title=ヴァイマル共和国時代末期のドイツ共産党とその経営内活動|url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/10506|format=PDF|journal=明治大学社会科学研究所紀要36巻1号|publisher=[[明治大学]]|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=斎藤晢|year=1998|title=ヴァイマル時代末期のドイツ共産党とジェンダー|url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/8409|format=PDF|journal=政經論叢67巻1-2号|publisher=明治大学|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[佐瀬昌盛]]|year=1979|title=西ドイツ戦う民主主義 ワイマールは遠いか|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569203171|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[高橋三郎 (社会学者)|高橋三郎]]|year=2000|title=強制収容所における「生」|series=SEKAISHISO SEMINAR|publisher=[[世界思想社]]|isbn=978-4790708285|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]|author2=[[山田欣吾]]|author3=[[木村靖二]]|year=1997|title=ドイツ史〈3〉1890年~現在|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461406|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first1=ジャン=ジャック|last1=ベッケール|first2=ゲルト|last2=クルマイヒ|translator=[[剣持久木]]、[[西山暁義]]|year=2001上|title=仏独共同通史 第一次世界大戦(上)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000237963|ref=harv}}