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本事件の加害者である[[死刑囚]]M(本事件当時55歳)は、[[1930年]](昭和5年)[[4月10日]]、熊本県[[飽託郡]][[天明町]][[海路口村|海路口]](現・熊本県[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]]海路口町)にて漁師の家に三男として生まれた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.93-94]]</ref>。
 
死刑囚Mは[[1999年]]([[平成]]11年)[[9月10日]][[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により収監先[[福岡拘置所]]で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑執行された]]({{没年齢|1930|4|10|1999|9|10}})<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。
 
=== M生い立ち ===
Mが出生した当時の天明町はかなり気性の荒い土地柄の漁師町で、地元で魚介類漁・海苔漁を行っていたMの父親はMが2歳だった時、漁師同士の些細な喧嘩の際に相手に千枚通しで刺され死亡した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94"/>。
 
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== 最初の殺人事件発生まで ==
=== Mの結婚・妻Xへの暴力 ===
刑務所に入ったり出たりの生活を繰り返していたMだったが、27歳だった[[1958年]](昭和33年)ごろには郷里・熊本に落ち着くようになっており、このころには同い年の女性X(後の妻)との見合い話が持ち上がった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.95]]</ref>。
 
Xは[[日本統治時代]]の[[満州国]]で長女として生まれた、終戦後に両親とともに日本に[[引き揚げ]]たが、兄弟姉妹8人(男女各4人ずつ)という大家族だった上に引き揚げ者であったために生活が苦しくなり、熊本市内で[[ミシン]]の販売業を営んでいた母方の伯父(母の実兄)夫婦の下に預けられ、養父の家業を手伝いながら育った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。この養父、即ちXの母方の伯父こそが、27年後に義理の息子Mによって殺された被害者Aの義兄(Aの夫の実兄)であった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。
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Mはその話し合いの場で「働きもせずに妻Xに暴力を振るっている」と非難されると「なら、金を取ってきてやる」と言い残し、いったん義父母宅を飛び出した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>。実はMはこの後、Y・X母子を殺害するための凶器として近所の金物屋で切り出しナイフを購入していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.100"/>。
 
それからしばらくしてもMが戻ってこなかったため<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>、午後8時ごろになってY・X母子は義父母宅を出て、当時Yが住んでいた甲佐町の実家に戻ろうと[[バス停留所]]に向かった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.99]]</ref>。
 
すると、そのバス停の待合室に何故かM本人が待ち伏せていたが、Mは意外なことに、Yに対し「Xとしばらく話をさせてください」と穏やかな口調で求めてきたため、安心したYはM・Xの2人で話し合うことを了解した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99"/>。
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== 仮釈放・お礼参り殺人計画 ==
この施設「湧水寮」では原則として「仮出所中の生活は施設側が管理する」という規定の下、Mは施設から紹介された北九州市内の工事現場などで働き、収入・生活費などを施設に預けて生活していたが、Mはこの寮にいる間<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.105"/>、上から「殺したい順番」として元妻Xらに対する殺害計画を立て、大学ノートに殺害標的の住所・氏名を書き込んだ上、1984年暮れには<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>殺害の手順・逃走ルート・逃走資金の調達方法など、綿密な計画を記していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。あろうことかその復讐心は直接無関係な人間にまで及び、標的の数は30人以上となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.106-107]]</ref>。殺害の手順として考えていたのは「元妻X・被害者A・Xの叔母・Xの養母・自身の叔父夫婦」という順番か、もしくはその逆という2通りだった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.107-108]]</ref>。
# 元妻X - Mが「最も殺したかった」として最大のターゲットにしており、「1962年の事件でXの母親Yしか殺せなかったから『あの時Xも殺しておけばよかった』と悔やんだ」という<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。Mはこのころ、Xへの未練を抱いていた一方、「Xが年下の長距離トラック運転手男性と再婚した」という話を聞いていたため、「俺を捨てて若い男をたぶらかした」とする嫉妬などの感情を抱き、Xをより一層憎悪するようになっていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。その上で、Xの夫が長距離トラック運転手である旨を聞いていたことから「仕事に出てから帰宅まで1,2日かかる夫が仕事に出た直後にXを殺せば事件発覚に時間がかかる」と考えていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>。
# Xの養母(伯母) - 仲人だったXの養父母・養父の実弟を「仲人なのに自分だけを悪者にしてXと離婚させた」として逆恨みしていたが、養父・養父の実弟(Aの夫)はこの時点で既に他界していたため、未亡人たちが標的となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。
# 被害者A - 同上。Mは取り調べの際、「Aには個人的な恨みはないが、自分に冷たく当たっていた上にXのことで親身になってくれなかったし、Aの夫がXを再婚させた。Aの夫への恨みがやがてA自身への恨みに変わった」と供述した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。
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Xの伯母からXの連絡先を聞き出すことには失敗したものの、Mはここで報復計画を諦めることはなく<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.108-111"/>、仕事をせずに熊本市に帰省した当日に訪れた同市内のスナックに入り浸り、実兄の家にも帰らずにスナックのママの住居に泊まるような生活を続けていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.111-113]]</ref>。しかし1985年7月中旬になってもXの居場所は一向に判明しないどころか、[[阿蘇温泉郷]]にスナックのママ・ホステスを連れ込んだり、店の常連客に飲食代をおごるような生活を続けるうちに預金残高・貯金の合計が20万円程度まで減っていたため、Mは「Xの居場所がわからないなら、せめて恨みのあるやつらを次々に殺して家々の金を奪い、Xを殺すための逃走資金を確保する」という計画に変更し、「Xを殺害した後の逃走費用」として10万円を確保した上で殺害計画を実行することを決意した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113"/>。被害者Aが砕石会社を経営していたことから、MはA宅を襲撃した後で現金を奪うこともあらかじめ計算していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.113-116]]</ref>。
 
事件発生2日前の1985年7月22日昼ごろ、Mは「夜間の犯行・及び逃走のための小道具」として懐中電灯・携帯ラジオを持参して実兄の家を出ると、行きつけのスナックに立ち寄って飲酒してからタクシーで金物屋に向かい、店員に「[[ウナギ]]を捌くのに必要になった」と申し出て刃渡り20cmの刺身包丁・千枚通しを購入、同日午後7時ごろにXの伯母宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。しかし侵入を試みたところ、偶然近所から預かっていた犬が吠え出したため、MはXの伯母宅の襲撃を断念して標的を被害者Aに変更、タクシーで甲佐町内に向かった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。
 
午後9時すぎに甲佐町に着いたMは割烹料理店で飲食して1時間ほど過ごしてからA宅に向かったが、この時に郵便受けの名前を見たことで初めて被害者Bの存在を知った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは窓越しにAに「Xの居場所を教えてくれ」と声を掛けたが、Aは「もう遅い」とだけ返事して窓を施錠した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。これに逆上したMは庭に転がっていた石で窓ガラスを叩き割り、A宅に押し入ろうとしたが、近隣住宅の証明が点灯していたことから犯行の露見を恐れて断念した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。その上で家の周りを一通り見て鍵が開いている箇所を探したが発見できなかったため、裏庭の物置に隠れて一夜を過ごし、朝になっていったん熊本市内のスナックに戻った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。
 
1985年7月23日、Mはスナックで仮眠してから夜になって「集金に行ってくる」と言い残し、まずは再びXの伯母宅を尋ねたが留守だったため、甲佐町内の被害者A・B宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。A宅を訪れたMは午後10時30分ごろ、窓越しに部屋を覗き込んでA・B両名が起床していることを確認し、寝静まったころを待って犯行を決行するために裏庭の物置に隠れたが、直前に焼酎を飲酒していたためにアルコールが回ったことで居眠りし、目覚めた際には7月24日午前2時ごろになっていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは眠気覚ましに喫煙し、窓ガラスを割った際に音がしないように布で包んだ石を持って建物に忍び寄った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.117-120">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.117-120]]</ref>。
 
仲人だったXの伯母を狙う
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1985年7月24日午前2時ごろ、[[犯人]]M(当時55歳)は熊本県[[上益城郡]]在住のMの遠縁にあたる会社役員の女性(当時63歳)が自宅で寝ているところを襲って殺害。さらに女性の養女(当時22歳)も殺害した。2女性とも[[包丁]]で首や頭など合計76箇所も刺されていた。Mはさらに[[現金]]数十万円や[[指輪]]などを奪って[[逃亡|逃走]]。
 
事件から5日後の7月28日、Mは[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[住居侵入罪|住居侵入]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反などの罪で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された。逮捕されるまでの間、奪った金を使って豪遊していたという。
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== 捜査 ==
=== 事件発覚 ===
1985年7月24日午前8時20分ごろ、男女2人の砕石会社従業員が会社に出勤したところ、通常は午前7時30分に白い[[原動機付自転車]](原付)で出社していた同社役員の被害者Aの姿がなかった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.90-93]]</ref>。
 
そのため2人が被害者A宅を訪れたところ、Aが通勤で用いていた原付が玄関横の車庫に駐車してあった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93"/>。
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熊本県警御船署が現場を確認したところ、現場から凶器は発見されなかった一方、室内・廊下には血痕が飛散していた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。また、事件現場となったA宅の玄関・勝手口は施錠されていたが、被害者Bの部屋の窓だけが施錠されていなかったため、御船署は「犯人は施錠されていなかった被害者Bの部屋の窓から侵入・逃走した」と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。
 
被害者Aは前日夕方まで会社に勤務していたことから、御船署は犯行時間を「7月23日午後8時頃から - 7月24日午前8時ごろ」の間と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。
 
A宅は庭を隔てて隣家と接していたが、「事件発覚前日の23日から翌朝にかけて不審者の出入り・争うような物音を見聞きした」という証言は得られなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。しかし、近隣住民は聞き込みに対し「被害者Aの親類の男(後にMと判明する男)が事件2,3日前からA宅付近をうろついていたのを見た」と証言したほか、被害者A自身も「(Mが)心配で恐ろしい」と漏らしていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。
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目的地の荒尾競馬場に到着すると、Mはタクシー料金3290円に対し1万円札を出したが、運転手が釣り銭を持っていなかったため、Mは連れの女性とともに「何か食べよう」と運転手を誘い、近くの[[寿司屋]]で[[寿司]]を食べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。
 
寿司屋で食事を摂っていた途中、運転手は何気なく男の顔を見たことで、男が甲佐町の強盗殺人事件で指名手配中のMに似ていることに気付いた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。食事を終えた運転手は、男と連れの女性からタクシー代を受け取って会社に帰り、午後0時40分頃、ごろ帰社直後に「手配書に載っていた男とよく似た男を、客として玉名市内のホテルからの荒尾競馬場まで乗せた」と熊本県警[[玉名警察署]]に110番通報した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。
 
110番通報を受けて熊本県警捜査本部、玉名署・[[荒尾警察署]]などから召集された捜査員70人が競馬場付近を警戒していたところ、警戒に当たっていた熊本県警荒尾署員が午後1時10分頃、ごろに入口付近で女性を連れたMに似た男を発見して[[職務質問]]した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。これに対し男は観念した様子で「事件現場までタクシーで乗り付け、被害者2人を刺身包丁で刺殺した」と供述し、自らがMであること・犯行に関与したことを認めたため、そのまま荒尾署員に指名手配容疑の強盗殺人容疑で逮捕された<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29">『朝日新聞』1985年7月29日西部朝刊第一社会面21面「母娘殺害犯を逮捕 競馬場にノコノコ 熊本県荒尾 タクシー運転手通報」</ref>。Mは逮捕時、現金10万円・着替えの服が入ったバッグを持っていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。
 
捜査本部は逮捕後も凶器の発見・Mの犯行動機追及に全力を挙げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。その後、被疑者Mの[[送検]]を受けた[[熊本地方検察庁]]がMを強盗殺人容疑で[[熊本地方裁判所]]に[[起訴]]した。
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== 刑事裁判 ==
=== 第一審・熊本地裁 ===
[[1986年]](昭和61年)[[8月5日]]、[[熊本地方裁判所]](荒木勝己[[裁判長]])は[[1986年]](昭和61年)[[8月5日]]に開かれた第一審判決公判で検察側の求刑通り[[被告人]]Mに死刑判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05">『朝日新聞』1986年8月5日西部夕刊第二社会面6面「母子強殺男に死刑 熊本地裁 『情状くむ余地なし』」</ref>。
 
[[判決理由]]で熊本地裁は犯罪事実を以下のように[[事実認定]]した。
* 1984年2月に無期懲役刑の仮釈放を受けて刑務所を仮出所したが、その後もわかれた元妻への恨みを忘れられず、元妻の親族だった被害者Aを脅迫して元妻の居所を聞き出した上、犯行を隠蔽するためにA・Bを殺害して現金を奪うことを画策した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
* 凶器として刺身包丁を持参した上で施錠されていなかった窓から被害者A宅に侵入し、就寝中だったA・B両被害者をそれぞれ数十回刺して殺害、現金約70万円・腕時計・指輪などを奪った<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
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=== 控訴審・福岡高裁 ===
[[福岡高等裁判所]](浅野芳朗裁判長)は[[1987年]](昭和62年)[[6月22日]]、[[福岡高等裁に開かれた控訴審所]](浅野芳朗裁決公長)は第一審・死刑判決を支持し被告人M・弁護人側の[[控訴]]を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1987-06-22">『朝日新聞』1987年6月22日西部夕刊第一社会面7面「熊本の強盗殺人控訴審 『冷酷で残虐』 一審の死刑支持」</ref>。
 
福岡高裁は量刑理由で「犯行は冷酷・計画的で残虐の限りを尽くした。死刑を適用した第一審判決は当を得たものだ」として、被告人Mの控訴を退けた<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
 
=== 上告審・最高裁第一小法廷 ===
[[1992年]](平成4年)[[9月24日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]([[大堀誠一]]裁判長)は[[1992年]](平成4年)[[9月24日]]に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の[[上告]]を棄却する判決を言い渡した<ref group="新聞" name="読売新聞1992-09-25">『読売新聞』1992年9月25日東京朝刊第二社会面30面「仮釈放中の殺人 死刑判決確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-09-25">『朝日新聞』1992年9月25日朝刊第二社会面30面「上告棄却でM被告の死刑が確定 強盗殺人事件」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1992-09-25">『毎日新聞』1992年9月25日東京朝刊第一社会面31面「仮釈放中に強盗殺人 上告棄却、死刑確定へ--最高裁」</ref>。
 
この上告審判決により被告人Mの死刑が確定した。
 
== 死刑執行 ==
[[1999年]]([[平成]]11年)9月1日、[[福岡県]][[福岡市]]の[[死刑存廃問題|死刑廃止運動]][[市民団体]]「死刑廃止・たんぽぽの会」(代表・山崎博之)が[[福岡県]][[福岡市]])は[[1999年]]([[平成]]11年)9月1日に「1991年から1992年に死刑が確定した拘置中の死刑囚4人について「近く死刑が執行される危険がある」として、当該死刑囚4人の人身保護請求を福岡地裁に申し立てた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02">『毎日新聞』1999年9月2日西部朝刊社会面「死刑囚の人身保護、福岡地裁に申し立て--廃止団体代表」</ref>。
 
その保護請求対象は本事件の死刑囚Mを含め[[東京都北区幼女殺害事件]]・[[大宮母子殺人事件]]の両死刑囚(いずれも[[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]の死刑囚([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])の計4人で<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>、死刑廃止運動関係者の間ではこの4人について「近く死刑が執行される可能性がある」と噂されていたため<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>、山崎らは各収監先の拘置所・拘置支所署長を相手に人身保護請求を申し立てた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。
 
申立書で山崎は「死刑囚4人は不当に面会・外部交通権を制限されるなど、違法な拘束で[[基本的人権]][[人権侵害|侵害]]を受けており、それらが改善されない限り死刑執行は停止すべきである」と求めた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>。
 
しかし福岡地裁は死刑執行3日前の1999年9月7日付で<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部"/>、山崎による人身保護請求を棄却する決定を出したため<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>、山崎は1999年9月13日にも最高裁に[[特別抗告]]する予定だった<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11">『毎日新聞』1999年9月11日西部朝刊社会面「死刑執行に抗議--福岡の市民団体」</ref>。
 
人身保護請求棄却決定直後の1999年[[9月10日]]、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により収監先・[[福岡拘置所]]で死刑囚M({{没年齢|1930|4|10|1999|9|10}})の[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑が執行された]]<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10">『[[読売新聞]]』1999年9月10日東京夕刊1面「東京、福岡、仙台で3人に死刑執行」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10">『[[朝日新聞]]』1999年9月10日夕刊1面「東京・福岡・仙台の死刑囚3人に死刑執行 法務省発表」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10">『[[毎日新聞]]』1999年9月10日東京夕刊1面「東京・仙台・福岡で、3人の死刑執行--女児殺害の××死刑囚ら」(※記事の見出しに[[東京都北区幼女殺害事件]]で死刑が確定した死刑囚の実名が使用されていたため、その箇所を伏字に置き換えた。)</ref>。同日には[[東京都北区幼女殺害事件]]([[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])両事件の死刑囚の死刑も執行されたため、前述のように「死刑廃止・たんぽぽの会」が1999年9月1日に人身保護請求を申し立てていた死刑囚4人のうち[[大宮母子殺人事件]]の死刑囚<ref group="注釈">同日は死刑執行されなかったが、3か月後の1999年12月17日に[[臼井日出男]]法務大臣の死刑執行命令により[[東京拘置所]]で死刑を執行された。</ref>を除く3人の死刑囚に刑が執行された<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。
 
これら死刑囚3人はいずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。死刑執行を受けて死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『[[裁判を受ける権利]]』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11"/>。また山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは死刑囚3人・山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
同日には[[東京都北区幼女殺害事件]]([[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])両事件の死刑囚の死刑も執行されたため、計3人の死刑執行となった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。
 
翌1999年9月11日、「たんぽぽの会」など死刑廃止を訴える市民団体のメンバーら15人は翌1999年9月11日、福岡市[[早良区]][[百道]]の福岡拘置所前で抗議活動を行い「死刑は暴挙だ。直ちにこれ以上の死刑執行を停止し死刑制度廃止に向けて努力すべきだ」と声を上げ、同拘置所長・吉田賢治(当時)宛の抗議文を渡した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-11">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第二社会面10面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
本事件を含め同日に死刑を執行された死刑囚3人は、いずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず、仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。そして、前述のように「死刑廃止・たんぽぽの会」が1999年9月1日に人身保護請求を申し立てていた死刑囚4人のうち、[[大宮母子殺人事件]]の死刑囚<ref group="注釈">同日は死刑執行されなかったが、3か月後の1999年12月17日、[[臼井日出男]]法務大臣の死刑執行命令により[[東京拘置所]]で死刑執行された。</ref>を除く3人だった<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。
 
死刑執行を受け、死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は、「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『[[裁判を受ける権利]]』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11"/>。
 
山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは、死刑囚3人や山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので、法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
 
翌1999年9月11日、「たんぽぽの会」など死刑廃止を訴える市民団体のメンバーら15人が福岡市[[早良区]][[百道]]の福岡拘置所前で抗議活動を行い、「死刑は暴挙だ。直ちにこれ以上の死刑執行を停止し、死刑制度廃止に向けて努力すべきだ」と声を上げ、同拘置所長・吉田賢治(当時)宛の抗議文を渡した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-11">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第二社会面10面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
 
== 参考文献 ==