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本事件の加害者である[[死刑囚]]M(本事件当時55歳)は、[[1930年]](昭和5年)[[4月10日]]、熊本県[[飽託郡]][[天明町]][[海路口村|海路口]](現・熊本県[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]]海路口町)にて漁師の家に三男として生まれた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.93-94]]</ref>。
死刑囚Mは[[1999年]]([[平成]]11年)[[9月10日]]
===
Mが出生した当時の天明町はかなり気性の荒い土地柄の漁師町で、地元で魚介類漁・海苔漁を行っていたMの父親はMが2歳だった時、漁師同士の些細な喧嘩の際に相手に千枚通しで刺され死亡した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94"/>。
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== 最初の殺人事件発生まで ==
=== Mの結婚・妻Xへの暴力 ===
刑務所に入ったり出たりの生活を繰り返していたMだったが、27歳だった[[1958年]](昭和33年)
Xは[[日本統治時代]]の[[満州国]]で長女として生まれた、終戦後に両親とともに日本に[[引き揚げ]]たが、兄弟姉妹8人(男女各4人ずつ)という大家族だった上に引き揚げ者であったために生活が苦しくなり、熊本市内で[[ミシン]]の販売業を営んでいた母方の伯父(母の実兄)夫婦の下に預けられ、養父の家業を手伝いながら育った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。この養父、即ちXの母方の伯父こそが、27年後に義理の息子Mによって殺された被害者Aの義兄(Aの夫の実兄)であった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。
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Mはその話し合いの場で「働きもせずに妻Xに暴力を振るっている」と非難されると「なら、金を取ってきてやる」と言い残し、いったん義父母宅を飛び出した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>。実はMはこの後、Y・X母子を殺害するための凶器として近所の金物屋で切り出しナイフを購入していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.100"/>。
それからしばらくしてもMが戻ってこなかったため<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>、午後8時
すると、そのバス停の待合室に何故かM本人が待ち伏せていたが、Mは意外なことに、Yに対し「Xとしばらく話をさせてください」と穏やかな口調で求めてきたため、安心したYはM・Xの2人で話し合うことを了解した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99"/>。
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== 仮釈放・お礼参り殺人計画 ==
この施設「湧水寮」では原則として「仮出所中の生活は施設側が管理する」という規定の下、Mは施設から紹介された北九州市内の工事現場などで働き、収入・生活費などを施設に預けて生活していたが、Mはこの寮にいる間<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.105"/>、上から「殺したい順番」として元妻Xらに対する殺害計画を立て、大学ノートに殺害標的の住所・氏名を書き込んだ上、1984年暮れには<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>殺害の手順・逃走ルート・逃走資金の調達方法など、綿密な計画を記していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。あろうことかその復讐心は直接無関係な人間にまで及び、標的の数は30人以上となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.106-107]]</ref>。殺害の手順として考えていたのは「元妻X・被害者A・Xの叔母・Xの養母・自身の叔父夫婦」という順番か、もしくはその逆という2通りだった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.107-108]]</ref>。
# 元妻X - Mが「最も殺したかった」として最大のターゲットにしており、「1962年の事件でXの母親Yしか殺せなかったから『あの時にXも殺しておけばよかった』と悔やんだ」という<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。Mはこの
# Xの養母(伯母) - 仲人だったXの養父母・養父の実弟を「仲人なのに自分だけを悪者にしてXと離婚させた」として逆恨みしていたが、養父・養父の実弟(Aの夫)はこの時点で既に他界していたため、未亡人たちが標的となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。
# 被害者A - 同上。Mは取り調べの際、「Aには個人的な恨みはないが、自分に冷たく当たっていた上にXのことで親身になってくれなかったし、Aの夫がXを再婚させた。Aの夫への恨みがやがてA自身への恨みに変わった」と供述した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。
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Xの伯母からXの連絡先を聞き出すことには失敗したものの、Mはここで報復計画を諦めることはなく<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.108-111"/>、仕事をせずに熊本市に帰省した当日に訪れた同市内のスナックに入り浸り、実兄の家にも帰らずにスナックのママの住居に泊まるような生活を続けていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.111-113]]</ref>。しかし1985年7月中旬になってもXの居場所は一向に判明しないどころか、[[阿蘇温泉郷]]にスナックのママ・ホステスを連れ込んだり、店の常連客に飲食代をおごるような生活を続けるうちに預金残高・貯金の合計が20万円程度まで減っていたため、Mは「Xの居場所がわからないなら、せめて恨みのあるやつらを次々に殺して家々の金を奪い、Xを殺すための逃走資金を確保する」という計画に変更し、「Xを殺害した後の逃走費用」として10万円を確保した上で殺害計画を実行することを決意した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113"/>。被害者Aが砕石会社を経営していたことから、MはA宅を襲撃した後で現金を奪うこともあらかじめ計算していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.113-116]]</ref>。
事件発生2日前の1985年7月22日昼
午後9時すぎに甲佐町に着いたMは割烹料理店で飲食して1時間ほど過ごしてからA宅に向かったが、この時に郵便受けの名前を見たことで初めて被害者Bの存在を知った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは窓越しにAに「Xの居場所を教えてくれ」と声を掛けたが、Aは「もう遅い」とだけ返事して窓を施錠した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。これに逆上したMは庭に転がっていた石で窓ガラスを叩き割り、A宅に押し入ろうとしたが、近隣住宅の証明が点灯していたことから犯行の露見を恐れて断念した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。その上で家の周りを一通り見て鍵が開いている箇所を探したが発見できなかったため、裏庭の物置に隠れて一夜を過ごし、朝になっていったん熊本市内のスナックに戻った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。
1985年7月23日、Mはスナックで仮眠してから夜になって「集金に行ってくる」と言い残し、まずは再びXの伯母宅を尋ねたが留守だったため、甲佐町内の被害者A・B宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。A宅を訪れたMは午後10時30分
仲人だったXの伯母を狙う
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1985年7月24日午前2時
事件から5日後の7月28日、Mは[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[住居侵入罪|住居侵入]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反などの罪で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された。逮捕されるまでの間、奪った金を使って豪遊していたという。
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== 捜査 ==
=== 事件発覚 ===
1985年7月24日午前8時20分
そのため2人が被害者A宅を訪れたところ、Aが通勤で用いていた原付が玄関横の車庫に駐車してあった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93"/>。
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熊本県警御船署が現場を確認したところ、現場から凶器は発見されなかった一方、室内・廊下には血痕が飛散していた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。また、事件現場となったA宅の玄関・勝手口は施錠されていたが、被害者Bの部屋の窓だけが施錠されていなかったため、御船署は「犯人は施錠されていなかった被害者Bの部屋の窓から侵入・逃走した」と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。
被害者Aは前日夕方まで会社に勤務していたことから、御船署は犯行時間を「7月23日午後8時
A宅は庭を隔てて隣家と接していたが、「事件発覚前日の23日から翌朝にかけて不審者の出入り・争うような物音を見聞きした」という証言は得られなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。しかし、近隣住民は聞き込みに対し「被害者Aの親類の男(後にMと判明する男)が事件2,3日前からA宅付近をうろついていたのを見た」と証言したほか、被害者A自身も「(Mが)心配で恐ろしい」と漏らしていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。
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目的地の荒尾競馬場に到着すると、Mはタクシー料金3290円に対し1万円札を出したが、運転手が釣り銭を持っていなかったため、Mは連れの女性とともに「何か食べよう」と運転手を誘い、近くの[[寿司屋]]で[[寿司]]を食べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。
寿司屋で食事を摂っていた途中、運転手は何気なく男の顔を見たことで、男が甲佐町の強盗殺人事件で指名手配中のMに似ていることに気付いた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。食事を終えた運転手は、男と連れの女性からタクシー代を受け取って会社に帰り、午後0時40分
110番通報を受けて熊本県警捜査本部、玉名署・[[荒尾警察署]]などから召集された捜査員70人が競馬場付近を警戒していたところ、警戒に当たっていた熊本県警荒尾署員が午後1時10分
捜査本部は逮捕後も凶器の発見・Mの犯行動機追及に全力を挙げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。その後、被疑者Mの[[送検]]を受けた[[熊本地方検察庁]]がMを強盗殺人容疑で[[熊本地方裁判所]]に[[起訴]]した。
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== 刑事裁判 ==
=== 第一審・熊本地裁 ===
[[判決理由]]で熊本地裁は
* 1984年2月に無期懲役刑の仮釈放を受けて刑務所を仮出所したが、その後もわかれた元妻への恨みを忘れられず、元妻の親族だった被害者Aを脅迫して元妻の居所を聞き出した上、犯行を隠蔽するためにA・Bを殺害して現金を奪うことを画策した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
* 凶器として刺身包丁を持参した上で施錠されていなかった窓から被害者A宅に侵入し、就寝中だったA・B両被害者をそれぞれ数十回刺して殺害、現金約70万円・腕時計・指輪などを奪った<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
237行目:
=== 控訴審・福岡高裁 ===
[[福岡高等裁判所]](浅野芳朗裁判長)は[[1987年]](昭和62年)[[6月22日]]
福岡高裁は量刑理由で「犯行は冷酷・計画的で残虐の限りを尽くした。死刑を適用した第一審判決は当を得たものだ」として、被告人Mの控訴を退けた<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。
=== 上告審・最高裁第一小法廷 ===
この上告審判決により
== 死刑執行 ==
その保護請求対象は本事件の死刑囚Mを含め
申立書で
しかし
人身保護請求棄却決定直後の1999年[[9月10日]]、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により
これら死刑囚3人はいずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。死刑執行を受けて死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『[[裁判を受ける権利]]』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11"/>。また山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは死刑囚3人・山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
▲翌1999年9月11日、「たんぽぽの会」など死刑廃止を訴える市民団体のメンバーら15人が福岡市[[早良区]][[百道]]の福岡拘置所前で抗議活動を行い、「死刑は暴挙だ。直ちにこれ以上の死刑執行を停止し、死刑制度廃止に向けて努力すべきだ」と声を上げ、同拘置所長・吉田賢治(当時)宛の抗議文を渡した<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-11">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第二社会面10面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。
== 参考文献 ==
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