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| School_background = [[ヘルシンキ音楽院]]<br />[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]
| Born = [[1865年]][[12月8日]]<br />{{FIN1809}}<br />[[ハメ州]] [[ハメーンリンナ]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1865|12|8|1957|9|20}}<br />{{FIN}}<br />[[ウーシマー州]] [[ヤルヴェンパー]]
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}}
}}{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ジャン・シベリウス'''({{Lang-sv|'''Jean Sibelius'''}} <small>{{発音|Sv-Jean_Sibelius.ogg}}</small>、[[1865年]][[12月8日]]<ref name=Blue>{{Cite book|和書 |author = ブルーガイド編集部 |year = 2015 |title = ブルーガイドわがまま歩き40 フィンランド |publisher = [[実業之日本社]] |page = 35 |isbn = 978-4-408-06013-2}}</ref> - [[1957年]][[9月20日]])は、[[フィンランド]]の[[作曲家]]である。[[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン系]]であり、出生時の[[洗礼名]]はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)。名前は「ヤン」と表記されることもあるが、[[フランス語]]固有の綴りの名前であるため「[[ジャン]]」とする。家族からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風に自称したジャンという名前を、学生時代に譲り受けている。
'''ジャン・シベリウス'''({{Lang-sv|Jean Sibelius}} {{IPAc-en|s|ɪ|ˈ|b|eɪ|l|i|ə|s}};<ref>{{cite web |title=Sibelius |publisher=Dictionary.com |url=http://dictionary.reference.com/browse/sibelius |accessdate=16 July 2015}}</ref> <small>{{発音|Sv-Jean_Sibelius.ogg}}</small> [[1865年]][[12月8日]]<ref name=Blue>{{Cite book|和書 |author = ブルーガイド編集部 |year = 2015 |title = ブルーガイドわがまま歩き40 フィンランド |publisher = [[実業之日本社]] |page = 35 |isbn = 978-4-408-06013-2}}</ref> - [[1957年]][[9月20日]])は、後期[[ロマン派音楽|ロマン派]]から[[近代音楽|近代]]にかけて活躍した[[フィンランド]]の[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]]。フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が[[ロシア帝国|帝政ロシア]]からの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて[[ナショナル・アイデンティティ|国民意識]]の形成に寄与したと看做されることも多い。[[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン系]]であり、出生時の[[洗礼名]]はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった<ref group= "注">{{harvtxt|Tawaststjerna|1997|p=15}}: 1990年代になってシベリウスの本当の(受洗時の)名前の順がヨハン・クリスティアン・ユリウスであることが判明した。彼自身がヨハン・ユリウス・クリスティアンという順を用いており、大半の文献もこれに倣っている。</ref>。名前は「ヤン」と表記されることもあるが、[[フランス語]]固有の綴りの名前であるため本項では「[[ジャン]]」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。
 
作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には『[[フィンランディア]]』、『[[カレリア (シベリウス)|カレリア組曲]]』、『[[悲しきワルツ]]』、[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]、『[[クレルヴォ交響曲]]』、『[[トゥオネラの白鳥]]』(『[[レンミンカイネン組曲]]』より)などがある。これ以外の作品には自然、[[スカンジナビア半島|スカンジナビア]]の神話、フィンランドの[[民族叙事詩]]に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への[[付随音楽]]、[[オペラ]]『[[塔の乙女]]』、[[室内楽曲]]、[[ピアノ曲]]、[[フリーメイソン]]の儀式のための音楽<ref>{{cite web |title=Brother Sibelius |work=The Music of Freemasonry |url=http://www.masonmusic.org/sibelius.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20030620012910/http://www.masonmusic.org/sibelius.html |dead-url=yes |archive-date=20 June 2003 |accessdate=16 October 2011 }}</ref>、21曲の合唱曲がある。
青年期には[[ヴァイオリニスト]]を目指したが、後に作曲に専念した。主要作品は、7曲の[[交響曲]]、多数の[[交響詩|音詩及び交響詩]]、[[ヴァイオリン協奏曲]]などの他、劇音楽・歌曲・ピアノ曲等多岐に及ぶ。
 
[[1920年代]]の半ばまでは多作な作曲家であったが[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]](1924年)、付随音楽『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』(1926年)そして交響詩『[[タピオラ]]』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「[[ヤルヴェンパー]]の沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。
歌曲にはフィンランドの[[詩人]]で、[[スウェーデン語]]で詩を発表している[[ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ]]の詩を用いているものが多い。
 
フィンランドでは、2002年に[[ユーロ]]が導入されるまで100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた<ref name="Setelit.com">{{cite web |title=100 markkaa 1986 |publisher=Setelit.com |url=http://www.setelit.com/raha/201 |accessdate=29 November 2015}}</ref>。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている<ref name="intermin.fi">{{cite web |title=The days the Finnish flag is flown |publisher=Ministry of the Interior |url=http://www.intermin.fi/en/ministry/the_flag_and_arms_of_finland/flying_the_flag |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151111200553/http://www.intermin.fi/en/ministry/the_flag_and_arms_of_finland/flying_the_flag |archivedate=11 November 2015 |deadurl=yes |df=dmy-all |accessdate=2019-02-14}}</ref>。シベリウス生誕150周年となった2015年には、[[ヘルシンキ]]市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された<ref name="Visit-Helsinki">{{cite web |title=Join the Sibelius 150 Celebration in 2015 |website=Visit Helsinki |url=http://www.visithelsinki.fi/en/whats-on/events-in-helsinki/celebrating-sibelius-in-2015 |accessdate=3 June 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150531123915/http://www.visithelsinki.fi/en/whats-on/events-in-helsinki/celebrating-sibelius-in-2015 |archivedate=31 May 2015 |df=dmy-all }}</ref>。
 
== 年譜 ==
* [[1865年]][[12月8日]]に[[ヘルシンキ]]の北方約100kmの[[ハメーンリンナ]]に生まれる。父クリスチャンは[[医師]]であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれ[[ピアノ]]、[[チェロ]]の演奏をした。
* [[1875年]]、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』<ref name=Blue/>。
* [[1885年]]、[[ヘルシンキ音楽院]]で作曲などを学び始める。
* [[1889年]]、[[ベルリン]]に留学。留学中に[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』の初演、[[ハンス・フォン・ビューロー]]の演奏などに直接触れる。さらに、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]において[[カール・ゴルトマルク]]に師事した<ref name=Blue/>。
* [[1891年]]に『[[クレルヴォ交響曲]]』[[作品番号|作品]]7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはなかった。
* [[1892年]]に[[アイノ・シベリウス|アイノ・ヤルネフェルト]]と結婚。6女を儲けるも、1人は2歳で他界<ref name=Blue/>。
* [[1899年]]に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『[[フィンランディア]]』作品26として独立、人気を博した<ref name=Blue/>。<!-- 第x曲と書くと、前奏曲を数えるのか数えないのかわからないので -->
* [[1904年]]にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸[[アイノラ]]を建てる<ref name=Blue/>。
* [[1908年]]に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。
* [[1915年]]、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]が作曲された<ref name=Blue/>。
* [[1915年]]頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。
* [[1923年]]の[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]作品104、[[1924年]]の[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]作品105、[[1925年]]の交響詩『[[タピオラ]]』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。
* [[1957年]]にヤルヴェンパーで[[脳出血]]により没。91歳。[[ヘルシンキ大聖堂]]で[[国葬]]が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた<ref name=Blue/>。
* その後彼の肖像は、[[ユーロ]]導入までのフィンランド100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣に使用された。
 
== 生涯 ==
[[File:Sibélius as a schoolboy.jpg|thumb|upright|11歳のシベリウス 1876年]]
[[1865年]][[12月8日]]に[[ヘルシンキ]]の北方約100kmの[[ハメーンリンナ]]に生まれる。父クリスチャンは[[医師]]であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれ[[ピアノ]]、[[チェロ]]の演奏をした。
 
=== 幼少期 ===
[[1875年]]、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』<ref name=Blue/>。
1865年12月8日、[[ロシア帝国]]の自治領であった[[フィンランド大公国]]の[[ハメーンリンナ]]に生を受けた。[[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン語話者]]の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の祖祖父が所有していた[[東ウーシマー県]]の地所シッベ(Sibbe)に由来している{{sfn|Ringbom|1950|p=8}}。父は1868年7月に[[腸チフス]]によりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった{{sfn|Goss|2009|p=19}}。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった{{sfn|Goss|2009|p=53}}{{sfn|Lagrange|1994|p=905}}。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである{{sfn|Murtomäki|2000}}。
 
幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季を[[ロヴィーサ (フィンランド)|ロヴィーサ]]の海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあった[[アップライトピアノ]]で彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた{{sfn|Barnett|2007|p=4}}。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった<ref group= "注">[[クリスチャン・シベリウス]]は著名な[[精神科医]]となり、フィンランドでは彼の功績は現在も記憶されている。</ref><ref>{{cite web |title=Sibelius |language=Swedish |year=1926 |publisher=Nordisk Familjebok |url=http://runeberg.org/nfcr/0165.html |accessdate=11 June 2015 |p=281}}</ref>。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している{{sfn|Ringbom|1950|pp=10–13}}。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短い[[ピッツィカート]]の楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある{{sfn|Murtomäki|2000}}<ref>{{cite web |title=Music becomes a serious pursuit 1881–1885 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_musiikkiharrastus.htm |accessdate=21 June 2015}}</ref>。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです<ref name="childhood"/>。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる{{sfn|Barnett|2007|p=6}}。偉大なヴァイオリンの[[ヴィルトゥオーソ]]になると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年に[[フェルディナンド・ダヴィッド]]のホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキで[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである{{sfn|Grimley|2004|p=67}}<ref name="sih"/>。
[[1885年]]、[[ヘルシンキ音楽院]]で作曲などを学び始める。
 
母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった<ref name="childhood">{{cite web |title=Childhood 1865–1881 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/ |accessdate=19 June 2015}}</ref>。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た{{sfn|Ringbom|1950|p=14}}。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる{{sfn|Ekman|1972|p=11}}。
[[1889年]]、[[ベルリン]]に留学。留学中に[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』の初演、[[ハンス・フォン・ビューロー]]の演奏する[[ピアノソナタ]]などに直接触れる。さらに、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]において[[カール・ゴルトマルク]]に師事した<ref name=Blue/>。
 
=== キャリア初期 ===
[[1891年]]に[[クレルヴォ交響曲]]作品7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に、独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後はその一部が3度演奏されるにとどまり、生存中全曲が演奏されることはなかった。
[[File:Martin Wegelius.gif|thumb|left|フィンランドでシベリウスを教えた[[マルティン・ヴェゲリウス]]]]
1885年の高校卒業後、[[ヘルシンキ大学]]に進学したシベリウスは[[法学]]を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現[[シベリウス音楽院]])に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献した[[マルティン・ヴェゲリウス]]がいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった{{sfn|Goss|2009|p=75}}。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家の[[フェルッチョ・ブゾーニ]]であり、2人は生涯にわたる友情を育んだ{{sfn|Lagrange|1994|p=985}}。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家の[[アドルフ・パウル]]、指揮者となる[[アルマス・ヤルネフェルト]]もいた<ref group= "注"> ヤルネフェルトは有力な自らの家族をシベリウスに紹介しており、その中には将来シベリウスの伴侶となる妹の[[アイノ・シベリウス|アイノ]]もいた。</ref>{{sfn|Murtomäki|2000}}。この時期の主要作品には[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]を想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=62}}。
 
シベリウスは続いて[[ベルリン]]へ赴き[[アルベルト・ベッカー (作曲家)|アルベルト・ベッカー]]に(1889年-1890年)、さらに[[ウィーン]]へ移って[[ロベルト・フックス]]、そして[[カール・ゴルトマルク]]に師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンでは[[リヒャルト・シュトラウス]]の[[交響詩]]『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。またフィンランドの作曲家である[[ロベルト・カヤヌス]]が自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムで[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮した演奏会を聴いているが、この愛国的な作品がきっかけとなり後年シベリウスが叙事詩『[[カレワラ]]』を題材として作曲することへ関心を持つに至ったという可能性もある{{sfn|Lagrange|1994|p=985}}<ref>{{cite web |title=Kalevala taiteessa – Musiikissa: Ensimmäiset Kalevala-aiheiset sävellykset |language=Finnish |publisher=Kalevalan Kultuuruhistoria |url=http://www.kalevalaseura.fi/kaku/sivu.php?n=p1a1&s=p1a1s1&h=hp1a1&f=fp1s |accessdate=21 June 2015}}</ref>。ウィーン時代には[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなしていた。一方で、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の評価の固まった作品への興味も持ち続けていた。ウィーンにいた時期にはたびたび新しい友人たちとパーティーや賭け事に興じて過ごした。管弦楽曲の作曲に目を向けるようになったのもウィーンの頃であり、序曲 ホ長調や『バレエの情景』に取り組んだ。『カレワラ』に霊感を得た管弦楽作品『[[クレルヴォ交響曲]]』にも取り掛かる一方で体調を崩し、胆石の除去手術を受けて健康を回復している<ref>{{cite web |title=Studies in Vienna 1890–91 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_opinnot_wien.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。ヘルシンキへ戻ると間もなく、ポピュラーコンサートの場で自作の序曲と『バレエの情景』を自ら指揮できる機会に恵まれこれを満喫した<ref>{{cite web |title=Kullervo and the wedding 1891–1892 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kullervo.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。『クレルヴォ交響曲』の仕事を続けることもできるようになり、次第に興味を発展させた彼はすべてをフィンランド語で書き上げたのであった。1892年4月28日にヘルシンキで迎えた初演は大成功で幕を閉じた{{sfn|Murtomäki|2000}}。
[[1892年]]に[[アイノ・ヤルネフェルト]]と結婚。後に六女をもうけるも、1人は2歳で他界<ref name=Blue/>。
 
[[File:Sibelius 1891.jpg|thumb|upright|シベリウス 1891年]]
[[1899年]]に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『[[フィンランディア]]』作品26として独立し、人気を博した<ref name=Blue/>。<!-- 第x曲と書くと、前奏曲を数えるのか数えないのかわからないので -->
 
シベリウスが心に抱いてきたヴァイオリニストとなる希望をついに諦めたのはこの頃であった。
[[1904年]]にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸「{{仮リンク|アイノラ|en|Ainola}}」を建てる<ref name=Blue/>。
<blockquote>悲劇だったのは私が何を犠牲にしてでも名高いヴァイオリニストになりたいと思っていたことだった。15歳になって以来、朝から晩まで自分のヴァイオリンを弾いていたも同然だったのだ。ペンとインクなど大嫌いで - 不幸にも上品なヴァイオリンの弓をより好んだ。私のヴァイオリンへの愛情は非常に長く続き、ヴィルトゥオーゾという過酷なキャリアへの訓練としては始めるのが遅すぎたと認めざるを得ないと自覚するのは大変に辛いことだった{{sfn|Kaufman|1938|p=218}}。</blockquote>
 
ウィーンとベルリンで勉学に費やした長い期間に加え(1889年-1891年)、1900年には[[イタリア]]へ入って1年を家族とともに過ごした。[[スカンジナビア半島|スカンジナビア]]の国々、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]で活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後には[[アメリカ合衆国]]へも足を運んでいる{{sfn|Goss|2011|p=162}}。
[[1908年]]に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。
 
=== 結婚と名声の高まり ===
[[1915年]]、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために、[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]が作曲された<ref name=Blue/>。
シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳の[[アイノ・シベリウス|アイノ]]と恋に落ちた。父は[[ヴァーサ]]の長官であった[[アレクサンデル・ヤルネフェルト]]大将、母はバルト諸国の貴族を出自とする[[エリザベト・ヤルネフェルト|エリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルク]]である<ref name="sih">{{cite web |title=Studies in Helsinki 1885–1888 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_opinnot_helsinki.htm |accessdate=7 June 2015}}</ref>。結婚式は1892年6月10日に{{仮リンク|マクスモ|en|Maxmo}}で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地である[[カレリア]]で過ごした。この体験が交響詩『[[エン・サガ]]』、『[[レンミンカイネン組曲]]』、『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』の着想を与えることになる{{sfn|Murtomäki|2000}}。1903年にはヤルヴェンパーの[[トゥースラ湖]]畔に2人の住まいである[[アイノラ]]が完成した。アイノラでの年月の間、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ{{refnest|group= "注"|腸チフスにより幼いうちにこの世を去っている<ref>{{cite book |title=Classical Destinations: An Armchair Guide to Classical Music |year=2006 |page=87 |publisher=Amadeus Press |isbn=978-1-57467-158-2 |url=https://books.google.com/books?id=gtwWttugsyAC&pg=PA87}}</ref>。}}、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである{{sfn|Lew|2010|p=134}}。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の[[最高経営責任者]]となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、[[ヘイディ・ブロムシュテット]]は建築家の{{仮リンク|アウリス・ブロムシュテット|en|Aulis Blomstedt}}の妻となった。マルガレータの夫となった[[ユッシ・ヤラス]]はアウリス・ブロムシュテットの兄弟である<ref>{{cite web |title=The occupants of Ainola |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/ainola/ainolan_asukkaat_eva_paloheimo.html |accessdate=19 June 2015}}</ref>
 
1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家の{{仮リンク|アクセル・トルヌッド|fi|Aksel Törnudd}}が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている{{sfn|Barnett|2007|p=74}}。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た<ref group= "注">1902年の改訂ではそのように短縮が行われた。</ref>。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた<ref name="symposion">{{cite web |title=The Symposion years 1892–1897 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_symbosion.htm |accessdate=21 June 2015}}</ref>。
[[1915年]]この頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。
 
1893年11月13日、[[ヴィボルグ|ヴィープリ]]のセウラホウネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家の[[アクセリ・ガッレン=カッレラ]]と彫刻家の{{仮リンク|エミール・ヴィークストレーム|en|Emil Wikström}}も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている{{sfn|Barnett|2007|p=85}}。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『[[春の歌 (シベリウス)|春の歌]]』(1894年作曲)が、[[トゥルク]]は言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=162}}。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家の[[オスカル・メリカント]]は「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した<ref>{{cite web |title=Sibelius: Spring Song (original 1894) |publisher=ClassicLive |url=http://www.classiclive.com/sibelius-spring-song-original-1984 |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
[[1923年]]の[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]作品104、[[1924年]]の[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]作品105、[[1925年]]の交響詩『[[タピオラ]]』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。
 
[[File:Gallen-Kallela Symposium.jpg|thumb|[[アクセリ・ガッレン=カッレラ]](左)、[[オスカル・メリカント]]、[[ロベルト・カヤヌス]]と交流するシベリウス(右)]]
[[1957年]]にヤルヴェンパーで[[脳出血]]により没。91歳。[[ヘルシンキ大聖堂|ヘルシンキの大聖堂]]で[[国葬]]が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた<ref name=Blue/>。
長期にわたりシベリウスはオペラ『[[船の建造 (オペラ)|船の建造]]』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を受けていたが、その後[[フランツ・リスト|リスト]]による交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている{{sfn|Murtomäki|2000}}。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」における[[コーラングレ]]が「驚くべき長さと退屈さ」だとしている{{sfn|Grimley|2004|p=101}}<ref name="symposion"/>。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=166}}。
 
生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう{{sfn|Lagrange|1994|p=988}}。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲[[クリスティアン2世 (シベリウス)|『クリスティアン2世』への付随音楽]]を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲は[[ストックホルム]]と[[ライプツィヒ]]でも演奏された<ref name="tib">{{cite web |title=Towards an international breakthrough 1897–1899 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kohti_lapimurtoa.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
その後彼の肖像は、[[ユーロ]]導入までのフィンランド100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣に使用された。
 
1899年、シベリウスは[[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]]の作曲に取り掛かる。この頃、[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]がフィンランド大公国に対して[[ロシア化]]の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった<ref name=club/>。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる<ref name="tib"/><ref name=club>{{cite web |title=Works for choir and orchestra |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_kuoro_orkesteri.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった<ref>{{cite web |title=Jean Sibelius Press celebration music (Sanomalehdistön päivien musikki), incidental music for orchestra |publisher=AllMusic |url=http://www.allmusic.com/composition/press-celebration-music-sanomalehdist%C3%B6n-p%C3%A4ivien-musikki-incidental-music-for-orchestra-mc0002453450 |accessdate=22 June 2015}}</ref>。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」とりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『[[フィンランディア]]』となる<ref name=incidental>{{cite web |title=Incidental music |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/nayttamo_sanoma.htm |accessdate=22 June 2015}}</ref>。
== 主な作品 ==
{{Main|シベリウスの楽曲一覧}}
 
[[File:Jean Sibelius (AE, 1904).png|thumb|left|シベリウス {{仮リンク|アルベルト・エングストレーム|en|Albert Engström}}画 1904年]]
=== 交響曲 ===
1900年2月、シベリウス夫妻は末娘を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市は[[ストックホルム]]、[[コペンハーゲン]]、[[ハンブルク]]、ベルリン、[[パリ]]などである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる<ref name="cdib">{{cite web |title=A child's death, and international breakthrough, 1900–1902 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_lapimurto.htm |accessdate=24 June 2015}}</ref>。
クレルヴォ交響曲を除いて、7曲の交響曲が[[1900年]]から[[1924年]]の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿って[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響の下、大規模で[[後期ロマン派]]的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には[[古典派音楽|古典派]]や[[印象派]]の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。
 
1901年に[[イタリア]]の[[ラパッロ]]を一家で訪れたシベリウスは[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]]の作曲に取り掛かる。その際[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[ドン・ジョヴァンニ]]』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、{{仮リンク|エーヴェルト・カティラ|fi|Evert Katila}}は「紛うことなき傑作」と評価した<ref name="cdib"/>。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している{{sfn|Ringbom|1950|p=71}}。
親しみやすい[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]] 作品43が有名である。また、[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]] 作品82は、作曲者の生誕50周年を記念して作曲された荘重なもの。
* [[クレルヴォ交響曲]] ホ短調 作品7
* [[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]] ホ短調 作品39
* [[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]] ニ長調 作品43
* [[交響曲第3番 (シベリウス)|交響曲第3番]] ハ長調 作品52
* [[交響曲第4番 (シベリウス)|交響曲第4番]] イ短調 作品63
* [[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]] 変ホ長調 作品82
* [[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]] 作品104
* [[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]] 作品105
 
夏の間を[[ハンコ]]に程近い{{仮リンク|トヴァルミンネ|fi|Tvärminne}}で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』[[作品番号|作品]]37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる<ref name="cdib"/>。
なお、
*1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。
*交響曲第7番の後にもシベリウスは[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]を書いたが、未発表のまま破棄されたと言われている。
 
1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたる{{仮リンク|アルヴィド・ヤルネフェルト|en|Arvid Järnefelt|FIXME=1}}の著した戯曲『[[クオレマ]]』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめに[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった<ref name=wod>{{cite web |title=The Waltz of Death and the move to Ainola 1903–1904 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kuolemanvalssi.htm |accessdate=2 August 2015}}</ref>。
=== 音詩・交響詩 ===
[[1893年]]の音詩『[[エン・サガ]]』から、[[1925年]]の交響詩『[[タピオラ]]』まで、約30年にわたって作られている。
 
=== アイノラへの移住 ===
1900年の音詩『[[フィンランディア]]』は、愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていた[[ロシア帝国|ロシア]]当局の[[弾圧]]を受け、別名で演奏されたこともある。
[[File:Ainola 1915.jpg|thumb|1915年に撮影された[[アイノラ]]の様子]]
 
1903年11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れた[[トゥースラ湖]]のほとりに[[アイノラ]](アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。建築費用を工面するため、彼は1904年の前半からヘルシンキ、[[トゥルク]]、[[ヴァーサ]]、その他[[タリン]]や[[エストニア]]で演奏会を開き、夏には[[ラトビア]]にも赴いた。一家は1904年9月24日にようやく新居に移ることができ、画家の[[エーロ・ヤルネフェルト]]、{{仮リンク|ペッカ・ハロネン|en|Pekka Halonen}}、小説家の[[ユハニ・アホ]]ら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった<ref name=wod/>。
『[[レンミンカイネン組曲]]』、交響的幻想曲『[[ポホヨラの娘]]』([[ポホヨラ]]は伝説上の地名)、音詩『ルオンノタル』、交響詩『[[タピオラ]]』等、フィンランドの叙事詩文学である『[[カレワラ]]』に基づいている作品が多い。一方で、音詩『エン・サガ』や音詩『吟遊詩人』のように明確な筋書きを持たないものもある。
 
1905年1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて交響曲第2番を自ら指揮した。演奏会自体は成功裏に終了したが論評は賛美一色というわけではなく、非常に好意的な評もあった一方で『Allgemeine Zeitung』や『Berliner Tageblatt』などの評価はそれほど熱のこもったものではなかった。フィンランドに帰国したシベリウスは徐々に人気が出てきつつあった『[[ペレアスとメリザンド (シベリウス)|ペレアスとメリザンド]]』を管弦楽組曲として仕立て直した。11月には初めて[[イギリス]]へと渡り、[[リヴァプール]]で[[ヘンリー・ウッド]]と会っている。12月2日に交響曲第1番と『フィンランディア』を指揮した彼は、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えた<ref name=fya>{{cite web |title=The first years in Ainola 1904–1908 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_ainola.htm |accessdate=28 October 2015}}</ref>。
なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった交響詩『[[タピオラ]]』のみである。
 
1906年、年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。この時期の主要な作品はやはり『カレワラ』を題材に採った交響詩『[[ポホヨラの娘]]』である。その後、同年のうちに付随音楽『[[ベルシャザールの饗宴 (シベリウス)|ベルシャザールの饗宴]]』も完成させ、管弦楽組曲版の制作も行っている。年の締めくくりは自ら指揮した演奏会シリーズで、中でも最大の成功を収めたのは[[サンクトペテルブルク]]の[[マリインスキー劇場]]で行った『ポホヨラの娘』の初となる公開演奏であった<ref name=fya/>。
* 音詩『[[エン・サガ]]』 作品9
* 管弦楽のためのバラード『森の精』 作品15
* 『春の歌』 (春の悲しみ) 作品16
* [[レンミンカイネン組曲]](4つの伝説曲) 作品22
** 『レンミンカイネンと島の乙女たち』 作品22の1
** 『トゥオネラのレンミンカイネン』 作品22の2
** 『[[トゥオネラの白鳥]]』 作品22の3
** 『レンミンカイネンの帰郷』 作品22の4
* 音詩『[[フィンランディア]]』 作品26
* 管弦楽のための音画『木の精』 (ドライアド) 作品45の1
* 交響的幻想曲『[[ポホヨラの娘]]』 作品49
* 音詩『[[夜の騎行と日の出]]』 作品55
* 音詩『[[吟遊詩人_(シベリウス)|吟遊詩人]]』 作品64
* 音詩『ルオンノタル』 作品70 ※ソプラノ独唱付き
* 音詩『[[大洋の女神]]([[波の娘]])』 作品73
* 交響詩『[[タピオラ]]』 作品112
 
=== 劇音楽浮き沈み ===
シベリウスは1907年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに[[交響曲第3番 (シベリウス)|交響曲第3番]]の作曲へと意識を集中させた。作品を完成させた彼は9月25日にヘルシンキでの初演に臨んだ<ref>http://www.classiclive.com/Sibelius-Symphony-No3</ref>。古典的性格が増した作風は聴衆へ驚きを与えたが、フロディンは作品が「内面的に新しく、また革命的」であったと述べている<ref name=fya/>。
全創作期間を通して、交響曲よりも長い期間にわたって、劇音楽の創作が続けられている。
 
そのすぐ後、シベリウスはヘルシンキを訪れた[[グスタフ・マーラー]]と出会っている。2人は新しい交響曲を出すたびに過去の作品のファンであった人々を失ってしまう、という点で意見の一致を見た。1907年11月にサンクトペテルブルクで第3交響曲が演奏されると、まさにこれが現実となって否定的な論評を浴びることとなる。[[モスクワ]]での評判はまだ前向きなものであった<ref name=fya/>。
音詩『[[フィンランディア]]』の原曲が『愛国記念劇』の1曲として作曲されたほか、[[1898年]]の『クリスチャン2世』作品27に付随して作曲された「鬼蜘蛛の歌」、[[1903年]]の『[[クオレマ|クオレマ(死)]]』作品44に付随して作曲された「悲しきワルツ」などが有名。
 
[[File:Jean Sibelius 15 Gloucester Walk blue plaque.jpg|thumb|[[ロンドン]]、[[ケンジントン]]、グロスター・ウォーク15に掲げられた[[ブルー・プラーク]]。1909年、シベリウスがこの場所に暮らした。]]
[[1893年]]に野外劇のため作曲された劇付随音楽『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』(全9曲)はその後すぐに、『カレリア』序曲 作品10と、「[[間奏曲]]」「[[バラード]]」「行進曲風に」の3曲からなる『カレリア』組曲 作品11に改編された。<!--今日では[[組曲]]がしばしば、序曲がまれに演奏される※要出典-->
1907年、シベリウスは[[頭頸部癌|喉の癌]]の疑いにより大きな手術を受けおり、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなったのである。[[ローマ]]、[[ワルシャワ]]そしてベルリンでのコンサートは中止しながらもロンドンの契約は守ったが、ここでも第3交響曲は評論家の関心を獲得するには至らなかった。5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てたのであった<ref name=fya/>。こうして死を間近に体験した衝撃が交響詩『ルオンノタル』や交響曲第4番など、以降数年のうちに作曲された作品に着想を与えたといわれている{{sfn|Woodstra|2005|pp=1279–1282}}。
* 『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』の劇音楽
** 『カレリア』序曲 作品10
** 『カレリア』組曲 作品11
* 『愛国記念劇』のための音楽
** 組曲『歴史的情景』第1番 作品25
** 交響詩『[[フィンランディア]]』 作品26
* 『クリスチャン2世』の劇音楽 / 組曲 作品27
* 『[[クオレマ|クオレマ(死)]]』の劇音楽
** 『悲しきワルツ』 作品44の1
** 『鶴のいる情景』 作品44の2
** 『カンツォネッタ』 作品62a
** 『ロマンティックなワルツ』 作品62b
* 『[[ペレアスとメリザンド (シベリウス)|ペレアスとメリザンド]]』の劇音楽 / 組曲 作品46
* 『[[ベルシャザールの饗宴]]』の劇音楽 / 組曲 作品51
* 『[[白鳥姫 (シベリウス)|白鳥姫]]』の劇音楽 / 組曲 作品54
* 『[[イェーダーマン]]』の劇音楽 作品83
* 『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]](嵐)』の劇音楽 作品109
** 序曲 作品109の1
** 組曲第1番 作品109の2
** 組曲第2番 作品109の3
 
=== 喜ばしい時間 ===
=== その他の管弦楽曲、弦楽合奏曲 ===
[[File:Finlandia première édition.gif|thumb|『[[フィンランディア]]』初版]]
* 組曲『歴史的情景』第2番 作品66
1909年、喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにしていた。イギリスにおいても自らタクトを握って『エン・サガ』、『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、『春の歌』を熱狂する聴衆に届けており、彼の体調は歓迎された。[[クロード・ドビュッシー]]との出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かった彼は、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する<ref name=iv>{{cite web |title=Inner voices 1908–1914 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_sisaisia_aania.htm |accessdate=6 November 2015}}</ref>。
** 当初から演奏会用作品として書かれた。作品25、26と直接の関連はない。
* [[恋する人 (シベリウス)|『ラカスタヴァ』(恋する人)]] 作品14
** 弦楽合奏曲: 男声合唱曲からの編曲(1911年)
* [[アンダンテ・フェスティーヴォ]](弦楽四重奏版: 1922年、弦楽合奏版: 1930年)
* 組曲『美しい組曲: Mignonnne』作品98a(1921年)1) Petite scéne 2) Polka 3) Epilogue
* 組曲『田園組曲: Champétre』作品98b(1921年)1) Piece caractéristique 2) Mélodie élégiaque 3) Danse
 
[[交響曲第4番 (シベリウス)|交響曲第4番]]には1910年のはじめに着手していたものの、資金が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。10月に[[オスロ|クリスチャニア]](現オスロ)で開かれた演奏会では『[[森の精 (交響詩)|森の精]]』と『[[追憶のために]]』を自分の手で初演する。『悲しきワルツ』や第2交響曲はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて第4交響曲の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ<ref name=iv/>。
=== 協奏曲 ===
青年期に[[ヴァイオリニスト]]を志望し、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]のオーディションも受けたこともあるシベリウスは[[1903年]]夏、最初で最後の協奏曲となるヴァイオリン協奏曲(作品47)を完成させている。[[1904年]]2月に行われた初演は成功したとはいえず、当時の批評は「美しい部分は多々あるものの、全体的に冗長である」というようなものが大半だった。その後シベリウスは作品を大幅に改訂し、より交響的で密度の凝縮したものとしている。[[1905年]]10月19日に[[リヒャルト・シュトラウス|R・シュトラウス]]の指揮で[[ドイツ]]で行われた改訂版での初演は成功し(それでもソリストを務めた[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]はとてもつまらなかったと評したという)、以後時が経つとともにこの曲を評価する声が高まっていった。現在では[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]]や音詩『[[フィンランディア]]』と併せ、シベリウスの代表曲の一つとなっている。
 
スウェーデンでの初めてのコンサートで1911年の初頭に指揮台に上り、交響曲第3番までもが評論家から好評を得た。4月には交響曲第4番が完成するが、彼自身も予想していたとおりヘルシンキでの初演においてはその内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こした。[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』を楽しんだパリへの旅行を除き、同年の残りはほとんど何もなく終わった。1912年に入り『英雄的情景』第2番が完成する。この作品は3月に初演を迎えており、同じ演奏会では第4交響曲も演奏された。この演奏会はロベルト・カヤヌスをはじめとする熱狂的な評論家、そして聴衆へ向けて2回再演されることになった。第4交響曲第は9月の[[バーミンガム]]でも好意的な評価を獲得した。同交響曲は1913年3月にニューヨークでも演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまい、10月に[[カール・ムック]]が指揮した際には『ボストン・アメリカン』紙が「哀れな失敗作」の烙印を押した<ref name=iv/>。
* [[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]] ニ短調 作品47
** シベリウスは、第1楽章の冒頭部分に関して、「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。
 
1913年の最初の重要作品は交響詩『[[吟遊詩人 (シベリウス)|吟遊詩人]]』であり、シベリウスは3月にヘルシンキでこの作品を礼儀正しい聴衆に向けて指揮した。続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『[[ルオンノタル (シベリウス)|ルオンノタル]]』である。初演は1913年に[[イングランド]]の[[グロスター]]で開催された[[スリー・クアイアズ・フェスティバル]]において[[アイノ・アクテ]]のフィンランド語による独唱で行われた<ref name=iv/><ref>{{cite web |author=Ozorio, Anne |title=Appreciating Sibelius's Luonnotar Op. 70 by Anne Ozorio |publisher=MusicWeb |url=http://www.musicweb-international.com/classrev/2007/mar07/Luonnotar.htm |accessdate=13 November 2015}}</ref><ref group= "注">作品は彼女に献呈された。</ref>。1914年のはじめにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけ[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]に惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルから[[ノーフォーク室内楽音楽祭]]のためにと委嘱された『[[大洋の女神]]』の作曲を開始する。変ニ長調で書き始めたものの大規模な改訂を行った結果、ノーフォークへはニ長調の版が持ち込まれることになった。この作品は『フィンランディア』や『悲しきワルツ』同様の喝采を浴びることとなった。音楽批評家の[[ヘンリー・エドワード・クレービール]]は『大洋の女神』がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカで[[イェール大学]]から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、[[ヘルシンキ大学]]ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた<ref name=iv/>。
他に「[[セレナード (シベリウス)|セレナード]]」2曲、「[[ユーモレスク (シベリウス)|ユーモレスク]]」6曲など、ヴァイオリン独奏とオーケストラのための小品が多数書かれている。
 
=== ピアノ曲第一次世界大戦 ===
米国からの帰途、シベリウスは[[第一次世界大戦]]勃発の引き金となる[[サラエボ事件]]について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、彼はフィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた。1915年3月に尋ねたスウェーデンの[[ヨーテボリ]]では『大洋の女神』が非常に高い評価を受けた。彼は4月に[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残している。交響曲に関する夏の間の進捗はわずかだったものの、50歳の誕生日を迎える12月8日までには曲を完成させることができた<ref name=wfs>{{cite web |title=The war and the fifth symphony 1915–1919 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_viides_sinfonia.htm |accessdate=13 November 2015}}</ref>。
あまり大規模なものはないが、青年期の習作から[[1929年]]の『5つのスケッチ』作品114まで、ほぼ絶え間なく作曲されている。
<!--
中でも有名なものは、[[1914年]]の『5つの小品(樹の組曲)』作品75であろう。「ピヒラヤの花咲く時」「孤独なモミの木」「ポプラ」「白樺」「樅の木」の5曲から成る。なお、「樹の組曲」という愛称は日本の[[舘野泉]]によるものである。※主観的記述、要出典。冒頭文が主観のため、節を維持できない-->
 
誕生日の晩、シベリウスは{{仮リンク|ヘルシンキ証券取引所|en|Helsinki Stock Exchange}}のホールにて自らの指揮で交響曲第5番を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手の[[イダ・エクマン]]が基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった<ref name=wfs/>。
また、オーケストラ作品からのピアノ編曲も多い。この中ではとりわけ『悲しきワルツ』の編曲が有名である。
* 6つの即興曲 作品5
* ピアノソナタ ヘ長調 作品12
* ピアノのための10の作品集 作品24
* 10のバガテル 作品34
* 抒情的瞑想 作品40
* 組曲『キュッリッキ』 作品41
* 10の小曲集 作品58
* 3つのソナチネ 作品67
* 2つのロンディーノ 作品68
* 4つの抒情的小品集 作品74
* 5つの小品(樹の組曲) 作品75
** 第5曲「樅の木」が有名。
* 13のピアノ小曲集 作品76
* 花の組曲 作品85
* 6つの小品 作品94
* 6つのバガテル 作品97
* 5つのロマンティックな小品 作品101
* 5つの性格的小品曲 作品103
* 5つのスケッチ 作品114
 
1年後の1916年12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の第5交響曲を披露した。これは最初の2つの楽章を結合させ、終楽章を簡素化したものであった。1週間後のヘルシンキでの演奏ではカティラが非常に好意的だったのに対してワゼニウス(Wasenius)は変更に否定的であり、これによって彼は再度の改訂を行うことになった<ref name=wfs/>。
=== 室内楽曲 ===
<!--いくつか書かれているが、有名なものは弦楽四重奏曲『親しき声』である。※要出典-->弦楽四重奏曲の他に、ヴォイオリンやチェロのための作品がある。
* 弦楽四重奏曲(全4曲、うち作品番号付きは2曲)
** 変ホ長調(1885年)
** イ短調(1889年)
** 変ロ長調 作品4(1890年)
** [[弦楽四重奏曲op.56 (シベリウス)|ニ短調『内なる声』]] 作品56(1909年)
* ピアノ三重奏曲 ハ長調 'Lovisa Trio'
* ピアノ五重奏曲 ト短調
 
1917年のはじめからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。[[ロシア革命]]が勃発するとその興奮により2人の仲は改善する。同年の暮れまでにシベリウスは『[[フィンランド軽歩兵隊の行進曲]]』を作曲、1917年12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』の初演は1918年1月19日のことで、1月27日の[[フィンランド内戦]]の幕開けまでのわずかな間、ヘルシンキのエリート層を喜ばせた<ref name=wfs/>。シベリウスは自然と{{仮リンク|白衛軍 (フィンランド)|label=白衛軍|en|White Guard (Finland)}}の支援に回ったが、[[トルストイ運動|トルストイ運動家]]であったアイノは{{仮リンク|赤衛軍 (フィンランド)|label=赤衛軍|en|Red Guards (Finland)}}にも幾ばくか共鳴するところがあった{{sfn|Tawaststjerna|2008|p=}}。
=== 歌曲 ===
ピアノ伴奏の歌曲も、ほぼ全創作期間に作曲されている。管弦楽伴奏による作品もある。当時のフィンランドの言語事情を反映して、歌曲は[[スウェーデン語]]の作品が多く、合唱曲は[[フィンランド語]]の作品が多い。[[ドイツ語]]詩による歌曲も多い。
* 『もはや私は問わなかった』 作品17の1
* 『川面の木屑』 作品17の7
* 『テオドーラ』 作品35の2
* 『葦よそよげ』 作品36の4
* 『3月の雪の上のダイヤモンド』 作品36の6
* 『それは夢か』 作品37の4
* 『逢引きから帰った乙女』 作品37の5
* 『海辺のベランダで』 作品38の2
 
2月、アイノラは2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受けた。開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医の[[クリスティアン・シベリウス]]は前線で[[戦闘ストレス反応|戦争神経症]]を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官{{仮リンク|エーロ・ハーパライネン|en|Eero Haapalainen}}と交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。最終的には4月12日、13日に{{仮リンク|ヘルシンキの戦い|en|Battle of Helsinki}}でドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]がドイツの指揮官{{仮リンク|リューディガー・フォン・デア・ゴルツ|en|Rüdiger von der Goltz}}を称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』にて幕を閉じた{{sfn|Tawaststjerna|2008|p=}}。
=== その他の声楽曲 ===
歌曲以外の声楽曲は、管弦楽伴奏の独唱曲、「[[メロドラマ]]」と称される詠唱の入るもの、愛国的な[[カンタータ]]、合唱曲など多種多様である。とりわけ、[[1893年]]に作曲された無伴奏男声合唱曲[[恋する人 (シベリウス)|『ラカスタヴァ』(恋する人)]] 作品14は、翌年に弦楽合奏つきのヴァージョンができた他、混声合唱曲、弦楽合奏曲にも編曲され、これらによっても親しまれている。
 
=== 回復した運勢 ===
[[ヘルシンキ大学合唱団]]はシベリウスの多くの男声合唱曲の初演にたずさわり、2種類の「無伴奏男声合唱曲全集」を録音した。
[[File:Jean Sibelius 1923.gif|thumb|upright|シベリウス 1923年]]
 
1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]の仕事を進めていた<ref name=wfs/>。
[[オペラ]]は『塔の乙女』という短い作品がある。
 
1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオネン・ラウル合唱団のために詩人の[[エイノ・レイノ]]の詞を基に[[カンタータ]]『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を[[管弦楽法|管弦楽編曲]]した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金は[[テノール]]の{{仮リンク|ワイネ・ソラ|fi|Wäinö Sola}}がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ<ref name=lmp>{{cite web |title=The last masterpieces 1920–1927 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_viimeiset.htm |accessdate=15 November 2015}}</ref>。
== 謎の沈黙とタピオラ以後の作品 ==
1925年に交響詩『[[タピオラ]]』を発表後も、創作をやめることはなかった。しかし、自己批判的性向が年を追って高まり、なかなか作品を発表することができなくなっていった。
 
1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度は[[ノルウェー]]で第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『[[レンミンカイネン組曲|レンミンカイネンの帰郷]]』と第5交響曲を披露する<ref name=lmp/>。
世間では、[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]以後、いやでも交響曲第8番への期待が高まった。シベリウスの手紙に「交響曲第8番は括弧つきでの話だが何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」と記されている。
 
1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドの[[フリーメイソン]]に加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスは[[ダンネブロ勲章]]のナイトに叙される栄誉に与った<ref name=lmp/>。
2011年に、[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]のスケッチが[[ヘルシンキ大学]]図書館で発見された。
 
この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、[[デンマーク]]の出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの[[王立劇場 (コペンハーゲン)|王立劇場]]が[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた<ref name=lmp/>。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった<ref>{{cite web |title=Incidental music: Sibelius: Music for "The Tempest" by William Shakespeare, op. 109 (1925–26) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/nayttamo_myrsky.htm |accessdate=18 November 2015}}</ref>。
== 主な演奏家 ==
=== 管弦楽曲 ===
シベリウスは、[[クレルヴォ交響曲]]以来、全7曲の交響曲、主要な管弦楽作品を自ら指揮して初演している。しかしながら、彼による録音はほとんど残っていない。[[1939年]]に『祝祭アンダンテ([[アンダンテ・フェスティーヴォ]])』を[[フィンランド放送交響楽団]]と演奏したものが残っているが、それは別の指揮者(不明)のものとすり替わってしまった(そして、長らくの間後者の音源が自作自演だとみなされていた。ONDINEの『Sibelius Favourites』ライナーノーツによる)。
[[File:SibeliusAndOrmandy1951.jpg|thumb|250px|シベリウス(左)とオーマンディ(右)]]
シベリウス存命中は、[[ロベルト・カヤヌス]]、[[タウノ・ハンニカイネン]]、[[アルマス・ヤルネフェルト]](妻の兄)、[[ユッシ・ヤラス]](娘婿)などのフィンランドの指揮者が作品を取り上げた他、[[イギリス]]の[[エイドリアン・ボールト]]、アンソニー・コリンズ、[[トーマス・ビーチャム|ビーチャム]]、ハンガリー系アメリカ人の[[ユージン・オーマンディ]]らが録音を残している。
 
=== 最後の大規模作品 ===
この他、現在に至るまで、北欧系・イギリス系の指揮者による演奏・録音がほとんどであり、ドイツ・オーストリア系の指揮者は、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]、[[クルト・ザンデルリング]]など少数である。
[[File:Sibelius-puolisot kesäiltana kasvitarhan penkillä, 1940-1945, (d2005 167 6 101) Suomen valokuvataiteen museo.jpg|thumb|[[ヤルヴェンパー]]でのシベリウスと[[アイノ・シベリウス|アイノ]] 1940年代のはじめ]]
 
1926年にはシベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残りの生涯のうちに規模の大きな楽曲はわずかな数しか生み出さなかったのである。そうした中の2つの最重要作品は間違いなく『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』と交響詩『[[タピオラ]]』である{{sfn|Botstein|2011}}。残りの人生30年間の大部分をシベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごした{{sfn|Mäkelä|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA67 67–68]}}。
[[パーヴォ・ベルグルンド]]は、3つの管弦楽団による交響曲全曲の録音を手がけたほか、シベリウスの自筆譜を詳細に検討し、出版された楽譜の校訂を行っている。彼はシベリウスの晩年に暗い自宅を訪問していて、いきなり聞かれたのが「[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]をどう思うか?」という質問だった。彼は今まで[[新ウィーン楽派]]に対立していたので、指揮者が答えに困っていると本人は「彼をやっぱり支持するよ。」と言ったという逸話がある。[[オスモ・ヴァンスカ]]は、小都市にある[[ラハティ交響楽団]]の演奏技術を飛躍的に高め、これまで演奏不可能とされていた交響曲第5番の初稿版・ヴァイオリン協奏曲の初稿版・交響詩『森の精』(作品15)などの録音を行っている。
 
シベリウスが[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]に取り組んでいたことを示す数多くの証拠が残されている。彼は1931年及び1932年に[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]に対してこの交響曲の初演を約束しており、[[ベイジル・キャメロン]]指揮による1933年のロンドンでの演奏は一般告知されすらした。この交響曲が存在したことを紙の状態で伝える具体的な証拠は、1933年に発行された第1楽章の浄書にかかった費用の請求書、並びに2011年に初めて出版、演奏された下書き段階の短い断片のみである{{sfn|Kilpeläinen|1995}}{{sfn|Sirén|2011a}}{{sfn|Sirén|2011b}}{{sfn|Stearns|2012}}。シベリウスは常に厳しい自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。草稿が現存しないことから、各種文献ではシベリウスが楽譜の痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウスが多量の書類を焼却したことが確実である1945年と考えられる<ref>{{cite web |title=The war and the destruction of the eighth symphony 1939–1945 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kahdeksannen_tuhoaminen.htm |accessdate=2019-03-24}}</ref>。妻のアイノは次のように回想している。
日本では、母親が[[フィンランド人]]である[[渡邉暁雄]]がシベリウス作品を得意とし、[[ステレオ]]による交響曲全曲の初録音、[[デジタル]]録音による全曲の初録音を残している。
<blockquote>1940年代にアイノラで大規模な[[アウト・デ・フェ]]が行われました。夫は洗濯かごの中に大量の原稿を集め、それらをダイニングの暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日、引きちぎられたページの破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしました。ですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第に雰囲気も明るくなっていったのです{{sfn|Ross|2009}}。</blockquote>
 
1939年1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で『[[アンダンテ・フェスティーヴォ]]』を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうと思われる<ref>{{cite web |title=Inkpot Classical Music Reviews: Sibelius Karelia Suite. Luonnotar. Andante Festivo. The Oceanides. King Christian II Suite. Finlandia. Gothenburg SO/Järvi (DG) |publisher=Inkpot.com |url=http://inkpot.com/classical/sibjarvi.html |accessdate=30 January 2012 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120309132529/http://inkpot.com/classical/sibjarvi.html |archivedate=9 March 2012 |df=dmy-all }}</ref>。
==== シベリウスの交響曲全集(番号付きのもの)のCD ====
* [[シクステン・エールリンク]]指揮[[ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団]] (1952-1953)
* [[アンソニー・コリンズ]]指揮[[ロンドン交響楽団]] (1952-1955)
* [[レナード・バーンスタイン]]指揮[[ニューヨーク・フィルハーモニック]] (1960-1966)
* [[渡邉暁雄]]指揮[[日本フィルハーモニー交響楽団]] (1962)
* [[ロリン・マゼール]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]] (1963-1968)
* [[ジョン・バルビローリ]]指揮[[ハレ管弦楽団]] (1966-1970)
* [[ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー]]指揮[[モスクワ放送交響楽団]] (1966-1970)
* [[クルト・ザンデルリング]]指揮[[ベルリン交響楽団]] (1970-1974)
* [[パーヴォ・ベルグルンド]]指揮[[ボーンマス交響楽団]] (1972-1976)
* [[モーリス・アブラヴァネル]]指揮[[ユタ交響楽団]] (1975-1976)
* [[コリン・デイヴィス]]指揮[[ボストン交響楽団]] (1975-1976)
* [[ウラディーミル・アシュケナージ]]指揮[[フィルハーモニア管弦楽団]] (1979-1984)
* [[渡邉暁雄]]指揮日本フィルハーモニー交響楽団 (1981)
* [[サイモン・ラトル]]指揮[[バーミンガム市交響楽団]] (1981-1987)
* [[アレクサンダー・ギブソン]]指揮[[ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団]] (1982-1984)
* [[ネーメ・ヤルヴィ]]指揮[[エーテボリ交響楽団]] (1982-1985)
* [[パーヴォ・ベルグルンド]]指揮[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]] (1984-1987)
* [[ユッカ=ペッカ・サラステ]]指揮[[フィンランド放送交響楽団]] (1987-1989)
* [[エイドリアン・リーパー]]指揮[[スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団]] (1989-1990)
* [[ヘルベルト・ブロムシュテット]]指揮[[サンフランシスコ交響楽団]] (1989-1995)
* [[ロリン・マゼール]]指揮[[ピッツバーグ交響楽団]] (1990-1992)
* [[レイフ・セーゲルスタム]]指揮[[デンマーク国立放送交響楽団]] (1991-1992)
* [[コリン・デイヴィス]]指揮ロンドン交響楽団 (1992-1994)
* [[ユッカ=ペッカ・サラステ]]指揮フィンランド放送交響楽団 (1993)
* [[パーヴォ・ベルグルンド]]指揮[[ヨーロッパ室内管弦楽団]] (1995-1996)
* [[オスモ・ヴァンスカ]]指揮[[ラハティ交響楽団]] (1996-1997)
* [[ペトリ・サカリ]]指揮[[アイスランド交響楽団]] (1996-2000)
* [[サカリ・オラモ]]指揮バーミンガム市交響楽団 (2000-2003)
* [[レイフ・セーゲルスタム]]指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団 (2002-2004)
* [[ネーメ・ヤルヴィ]]指揮[[エーテボリ交響楽団]] (2001-2005)
* [[コリン・デイヴィス]]指揮ロンドン交響楽団 (2003-2006)
* [[ウラディーミル・アシュケナージ]]指揮[[ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団]] (2006-2007)
* [[アルヴォ・ヴォルメル]]指揮アデレード交響楽団 (2007-2008)
* [[ピエタリ・インキネン]]指揮[[ニュージーランド交響楽団]] (2008-2009)
* [[オスモ・ヴァンスカ]]指揮[[ミネソタ管弦楽団]] (2011-2015)
* ヨン・ストゥールゴールズ指揮[[BBCフィルハーモニック]](2012-2013)
* [[オッコ・カム]]指揮[[ラハティ交響楽団]] (2012-2014)
* [[ピエタリ・インキネン]]指揮[[日本フィルハーモニー交響楽団]](2013)
* [[尾高忠明]]指揮[[札幌交響楽団]](2013-2015)
* [[サイモン・ラトル]]指揮[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]] (2014-2015)
 
=== ピアノ曲晩年と最期 ===
[[File:Jean Sibelius 1939.jpg|thumb|left|シベリウス 1939年]]
シベリウス自身は、本格的にピアノを練習したことはなく、人前で演奏したことはなかったが、自作の演奏は「作曲家として普通のレベル」であったと伝えられる。
 
1903年以降長年にわたってシベリウスは田舎に居を構えてきた。1939年から彼とアイノは再びヘルシンキに住まいを持っていたが、1941年からはアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけとなった。戦後、彼がヘルシンキに姿を見せたのはわずか数回のみである。数え切れないほどの公式の客人や同僚に加え、彼の孫やひ孫が休暇をアイノラで過ごす中、いわゆる「ヤルヴェンパーの沈黙」は神話のようなものとなっていったのである<ref name=war>{{cite web |title=The war and the destruction of the eighth symphony 1939–1945 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kahdeksannen_tuhoaminen.htm |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
シベリウスのピアノ作品(作品番号付きのもの)を全曲録音したピアニストは、
* エーリク・タヴァッシェルナ(フィンランド)
* アネット・セルヴァディ(イギリス)
* エーロ・ヘイノネン(フィンランド)
* ホーヴァル・ギムセ(ノルウェー)
がいる。
 
シベリウス本人は公に他の作曲家に関して発言をすることを避けていたが、[[エーリク・タヴァッシェルナ]]やシベリウスの秘書だった[[サンテリ・レヴァス]]{{sfn|Bullock|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=S2dV9h7dR8QC&pg=PA234 233–234 note 3]}}の記録によると彼は私的な会話の中でリヒャルト・シュトラウスを賛美していた他、[[バルトーク・ベーラ]]や[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]を若い世代の最も才能ある作曲家と考えていたという{{sfn|Mäkelä|2011|pp=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA13 13–14]}}。1950年代にはフィンランドの新鋭作曲家であった[[エイノユハニ・ラウタヴァーラ]]の名前を広めようとしている<ref>{{cite book | author=Rautavaara, Einojuhani | title=Omakuva | location=Helsinki | publisher=WSOY | year=1989 | isbn=951-0-16015-6 | pages=116–118 | language=Finnish | trans-title=Self-portrait }}</ref>。
日本人では、[[舘野泉]]が1960年代よりフィンランドで活躍し、数々の演奏会・録音を行っている。シベリウスが実際に作曲に用いたアイノラのピアノによる演奏の[[コンパクトディスク|CD]]もリリースしている。
 
90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、[[ユージン・オーマンディ]]の指揮する[[フィラデルフィア管弦楽団]]、[[トーマス・ビーチャム]]の指揮する[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った<ref>{{cite web|url=http://www.discogs.com/Sibelius-Eugene-Ormandy-Conducting-Philadelphia-Orchestra-Symphony-No-4-In-A-Minor-Op-63-Syphony-No-/release/3375951|title= Sibelius* / Eugene Ormandy Conducting The Philadelphia Orchestra – Symphony No. 4 In A Minor, Op. 63 / Syphony No. 5 In E-Flat Major, Op. 82 |publisher=Discogs|accessdate=9 December 2015 |language=}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.classicstoday.com/review/review-4118/|title=Beecham Sibelius Birthday C|author=Hurwitz, David|publisher=Classics Today|accessdate=9 December 2015 |language=}}</ref>。
また[[渡邉規久雄]]([[渡邉暁雄]]の次男)も、最近演奏会のCDを発表した。
 
タヴァッシェルナはシベリウスの死に関係する逸話を紹介している<ref>{{cite web |title=Proms feature #3: Sibelius and the swans |publisher=Natural Light |url=http://www.naturemusicpoetry.com/proms-2014/proms-feature-3-sibelius-and-the-swans |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
=== シベリウスに対する評価・研究 ===
<blockquote>[彼が]習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。</blockquote>
シベリウスが対独協力関与の疑いのあることから、[[ルネ・レイボヴィッツ]]は「世界最低の作曲家」と斬って捨てた。<ref>[https://archive.is/20170807134551/http://www.sibelius.fi/english/musiikki/js_saveltajana_03.html 外部リンク]</ref>
 
[[File:Jean Sibelius funeral 1957.jpg|thumb|[[ヘルシンキ]]でのシベリウスの葬儀 1957年]]
フィンランドでは、エーリク・タヴァッシェルナによる(原典では3巻からなる)評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。この評伝では、特にピアノ作品の詳細な研究が有名である。
その2日後の1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラにて91年の生涯を閉じた。死因は[[脳内出血]]だった。彼が息を引き取ったその時、[[マルコム・サージェント]]の指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた[[国際連合総会|国連総会]]では、議長で[[ニュージーランド]]代表の{{仮リンク|レスリー・マンロー|en|Leslie Munro}}が[[黙祷]]を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです<ref>{{cite web |title=SibEUlius – Jean Sibelius 150 Years |url=http://www.finncult.be/sibeulius150-jean-sibelius/?lang=en |website=Finnish Cultural Institute for the Benelux |accessdate=23 August 2018}}</ref>。」同じ日にはやはり著名なフィンランドの作曲家だった[[ヘイノ・カスキ]]が永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。シベリウスは[[国葬]]によって葬られ、アイノラの庭へと埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.ainola.fi/eng_jean_sibelius_elamanvaiheet.php|title=Ainola - Jean Sibelius - Chronological Overview: Jean Sibelius 1865–1957|website=www.ainola.fi |accessdate=2019-03-24}}</ref>。アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている<ref>{{cite web |title=Death and funeral 1957 |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/elamankaari/sib_kuolema.htm |accessdate=19 November 2015}}</ref>。
 
== 音楽 ==
フィンランド以外では、[[イギリス]]における評価が高く、イギリスの音楽評論家、セシル・グレイは、シベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。
{{See also|シベリウスの楽曲一覧}}
 
シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『[[フィンランディア]]』や『[[カレリア (シベリウス)|カレリア組曲]]』によって広く知られている。フィンランドにおけるその名声は1890年代に合唱交響曲『クレルヴォ交響曲』によって高まった。この作品はその後の多くの作品と同様に叙事詩『[[カレワラ]]』を描いたものである。[[交響曲第1番]]は1899年、フィンランドにナショナリズムが興っていた時期に初演され、聴衆の熱狂に迎えられた。これ以外の6曲の交響曲に加えて彼は付随音楽やその他の交響詩、とりわけ『[[エン・サガ]]』、『[[トゥオネラの白鳥]]』、『[[悲しきワルツ]]』によって国内外で人気を獲得していく<ref name=alexross>{{cite web |last=Ross |first=Alex |date=9 July 2007 |title=Sibelius: Apparition from the Woods |work=The New Yorker |url=http://www.therestisnoise.com/2007/07/sibelius-chapte.html |accessdate=24 November 2015}}</ref>。また、[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]を含むヴァイオリンと管弦楽のための作品群、[[オペラ]]『[[塔の乙女]]』、小規模な管弦楽作品、室内楽曲、ヴァイオリンとピアノのための作品、合唱作品と数多くの歌曲を作曲した{{sfn|Poroila|2012}}。
[[日本]]においては、[[菅野浩和]]が[[1977年]]に『シベリウス -生涯と作品-』([[音楽之友社]]刊)を上梓している(現在は絶版)。[[1986年]]には、H.I.ランピラ([[稲垣美晴]]訳)『シベリウスの生涯』([[筑摩書房]])が訳出されている(現在は絶版)。
 
1920年代半ば、[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]と[[交響曲第7番 (シベリウス)|第7番]]の完成後に、交響詩『[[タピオラ]]』と付随音楽『[[テンペスト (シベリウス)|テンペスト]]』を書き上げた。これ以降、彼は1957年まで生きたものの特筆すべき作品は何ひとつ世に出さなかった。数年間取り組んでいた[[交響曲第8番 (シベリウス)|交響曲第8番]]は彼が自ら焼却してしまっている<ref>{{cite web |title=Jean Sibelius |publisher=Gramophone |url=http://www.gramophone.co.uk/composers/jean-sibelius-39924 |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
その他、現在入手できる資料は、下記に記したものである。
 
音楽様式については、交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲のような初期作品において[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の影響が特に顕著である{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=209}}。一方でとりわけオペラに取り組んでいた一時期については[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の虜になっていた。これら以上に長期的な影響を与えたのは[[フェルッチョ・ブゾーニ]]と[[アントン・ブルックナー]]であった。しかし交響詩に関してはなにより[[フランツ・リスト|リスト]]に触発されていた<ref name="symposion"/>{{sfn|Jackson|2001|p=102}}。ブルックナーとの類似性は管弦楽曲で金管楽器の活躍が目立つことや、彼の音楽が概して遅いテンポを取ることに見出される{{sfn|Barnett|2007|p=[https://books.google.com/books?id=vkIWs6nvRs8C&pg=PA63 63]}}<ref>{{cite web |author=Kalamidas, Thanos |date=12 August 2009 |title=Jean Sibelius |work=Ovi Magazine |url=http://www.ovimagazine.com/art/5165 |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
日本では[[1984年]]に日本シベリウス協会が発足し、初代会長は渡邉暁雄が務めた。現会長(3代目)は、[[新田ユリ]]である。
 
シベリウスは自作から[[ソナタ形式]]の型として決まったものを取り除いていく形で進化を遂げ、複数の主題を対比するのではなく、小さな塊や断片的な主題が持続的に発展していき頂点において大きく提示されるという発想に目を向けた。彼の後期作品は主題を置換しつつ派生させていくという方法により進む、その途切れることのない展開の感覚という点で注目される。この合成過程が完璧であり有機的に感じられることから、シベリウスが最終的な主題提示から遡る形で作品を書いたのではないかと主張する者もいた。しかし、その逆に現実には3音もしくは4音から成る塊や旋律の断片が発展、拡大して大きな「主題」へと至ったのだということが分析により証明されている{{sfn|Pike|1978|page=93}}。
== 参考文献 ==
* 『作曲家別名曲解説ライブラリー18 北欧の巨匠』[[音楽之友社]]、1994年
* マッティ・フットゥネン『シベリウス - 写真でたどる生涯』[[菅野浩和]]訳、[[舘野泉]]監修、音楽之友社、2000年
* Andrew Barnett "Sibelius" Yale University Press 2007年
* 松原千振『ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯』 アルテス・パブリッシング 2013年
 
[[File:Jean Sibelius by Eero Järnefelt 1892.jpg|thumb|upright|義兄[[エーロ・ヤルネフェルト]]によるシベリウスの肖像 1892年]]
== 関連項目 ==
この自己完結型の構造は交響曲の分野でシベリウスの第一の好敵手であった[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の交響曲の様式と著しい対照を成す{{sfn|Botstein|2011}}。両作曲家の作品では主題の変奏が主要な役割を果たすが、マーラーの方法論では不連続で急激に変化して対比を生み出す主題が用いられたのに対し、シベリウスは主題要素を時間をかけて変化させるよう努めた。1907年11月にマーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。シベリウスは次のようにコメントを残している。
{{Commons|Jean Sibelius}}
<blockquote>私は[その交響曲の]様式の厳格さと論理の深遠さが全てのモチーフの間に内的な結びつきを生み出していることを称賛した(中略)マーラーの意見はちょうど正反対であった。「いえ、交響曲というものは世界でなくてはならないのです。ありとあらゆるものを内包していなくてはなりません{{sfn|James|1989|p=41}}。」</blockquote>
* [[シベリウス音楽院]]
 
* [[ラウリ・ポラー|ラウリ・ポッラ]]([[ヘヴィメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]、[[ストラトヴァリウス]]のベーシスト。シベリウスの曾孫に当たる)
=== 交響曲 ===
* [[ダイ・ハード2]](映画)エンディングに「フィンランディア」が使用されている。
[[File:Robert Kajanus (14854805748).jpg|left|thumb|[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]の創設者であり首席指揮者であった[[ロベルト・カヤヌス]]。シベリウスの交響曲の解釈で知られていた。]]
* [[牧場の少女カトリ]] - 使用されたBGMのほぼ全曲がシベリウスの作品からの編曲。
 
『[[クレルヴォ交響曲]]』を除いて、7曲の交響曲が[[1900年]]から[[1924年]]の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿って[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響の下、大規模で[[後期ロマン派]]的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には[[古典派音楽|古典派]]や[[印象派]]の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。
 
シベリウスは1898年に[[交響曲第1番 (シベリウス)|交響曲第1番]] [[ホ短調]] [[作品番号|作品]]39の作曲に取り掛かり、1899年の初頭、33歳でこれを完成させている。初演は1899年4月26日に作曲者自身の指揮により[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏で行われて好評を博した。この時に演奏されたオリジナル版は現存してない。初演後にシベリウスはいくつかの改訂を加えており、これが今日演奏される版となっている。改訂は1900年の春から夏にかけて完了し、1900年7月18日、[[ベルリン]]で[[ロベルト・カヤヌス]]指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された<ref>David Ewen, ''Music for the Millions – The Encyclopedia of Musical Masterpieces'' (READ Books, 2007) p533</ref>。この交響曲は控えめな[[ティンパニ]]を伴った[[クラリネット]]の非常に独創的でやや侘しげな[[ソロ (音楽)|独奏]]で開始する<ref>{{cite web |title=First symphony op. 39 (1899–1900) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_01.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
 
シベリウスの交響曲の中で最も人気が高く録音機会の多い[[交響曲第2番 (シベリウス)|交響曲第2番]]は、1902年3月8日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演された。開始部の上昇形の和音が作品全体のモチーフとなっている。フィナーレにおける3音からなる英雄的な主題は、最初に登場した際は木管楽器で奏されていたものがここでは[[トランペット]]により奏でられる。[[ロシア帝国]]による抑圧下にあって曲はシベリウスの名声を国民的英雄にまで高めた。彼は初演後にいくつかの改訂を施しており、改訂版は1903年11月10日に[[ストックホルム]]において[[アルマス・ヤルネフェルト]]の指揮により初演された<ref>{{cite web |title=Second symphony op. 43 (1902)
|work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_02.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
 
[[交響曲第3番 (シベリウス)|交響曲第3番]]は耳触りがよく、大団円で終結するが、そうとは見せず簡素な響きを持った作品である。初演は1907年9月25日、作曲者自身の指揮の下、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で行われた。作品のはじめに出てくる和音にはフィンランドの民謡から採られた主題がある。[[アイノラ]]へ移り住んだすぐ後に書かれたこの作品では、フィナーレの行進曲的な曲調へと発展していく表現方法が明瞭に示されており、先の2曲の交響曲とは際立った対比を成している<ref name=alexross/><ref>{{cite web |title=Third symphony op. 52 (1907) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_03.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。[[交響曲第4番 (シベリウス)|交響曲第4番]]は1911年4月3日、ヘルシンキにて作曲者の指揮、フィルハーモニア協会の演奏で初演された。曲が書かれた時期にシベリウスは喉からの腫瘍を除去するための数回の手術を経験していた。この曲の持つ凄味は禁酒の決意からくる反応と説明することも可能といえる。[[チェロ]]、[[コントラバス]]、[[ファゴット]]で開始するはじめの数小節では[[拍子]]に対して新たなアプローチが試みられている。その後はポー(Poe)の『The Raven』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する<ref name=alexross/>。
 
[[交響曲第5番 (シベリウス)|交響曲第5番]]は1915年12月8日、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身により初演されて大絶賛を浴びた。今日最も一般的に演奏されるのは1919年に発表された、全3楽章からなる最終稿である。第5番はシベリウスの交響曲の中で唯一全曲を通して長調をとる。[[ホルン]]による柔らかい冒頭部に開始した曲は、様々な主題を大きく変化を加えつつ交代で繰り返しつつ展開し、終楽章でトランペットが奏する賛歌へと発展していく<ref name=alexross/><ref>{{cite web |title=Fifth symphony op. 82 (1915–1919) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_05.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。第5交響曲の時点で既にソナタ形式から離れる方向へと舵を切りはじめていたが、1923年に作曲者自身が初演した[[交響曲第6番 (シベリウス)|交響曲第6番]]ではさらに一層伝統的な規則を排することになった。[[エーリク・タヴァッシェルナ]]は「[終楽章の]構造はよく知られた形式には従っていない」と述べている{{sfn|Jackson|2001|p=322}}。[[ドリア旋法]]で書かれたこの曲には、第5交響曲の作曲中に着想を得た主題群や抒情的なヴァイオリン協奏曲に用いられる予定だった素材などが転用されている。純化された方法論を取るにあたって、シベリウスは第5交響曲の重厚な金管楽器に変えて[[フルート]]と弦楽器を使用し、カクテルではなく「春の水」を提供しようとしたのである<ref>{{cite web |title=Sixth symphony op. 104 (1923) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_06.htm |accessdate=26 November 2015}}</ref>。
 
[[交響曲第7番 (シベリウス)|交響曲第7番]]は交響曲の中では最後に出版された作品となった。1924年に完成されたこの作品は単一楽章形式であることが特筆される。「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」と形容される{{sfn|Layton|2002|p=479}}。またこの作品は「シベリウスが作曲した最も優れた偉業」とも言われる<ref>{{harvnb|Hepokoski|2001}}. Quoted by {{harvnb|Whittall|2004|p=61}}.</ref>。当初は『交響的幻想曲』と名付けられ、1924年3月にストックホルムでシベリウス自身の手で初演された。楽曲は彼が10年近く前にスケッチしていた[[wikt:adagio|アダージョ]]の楽章に基づいている。弦楽器が主体となるが、[[トロンボーン]]による特徴のある主題も聞かれる<ref>{{cite web |title=Seventh symphony op. 105 (1924) |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_sinf_07.htm |accessdate=26 November 2015}}</ref>。
 
=== 音詩・交響詩 ===
7曲の交響曲とヴァイオリン協奏曲に次いでシベリウスの13曲の交響詩は彼の最も重要な管弦楽作品であり、[[リヒャルト・シュトラウス]]の交響詩に並んでリストが創始したジャンルを代表する最重要の作品群を形成している。全体としてみると交響詩の創作はシベリウスの芸術家としてのキャリア全般に及んでおり<ref group= "注">最初の1892年、最後が1925年に世に出される。</ref>、彼がいかに自然とフィンランド神話、特に『カレワラ』に魅了されていたのかが窺い知れる。また、これらによって彼の作風が時とともに成熟していく様を余すことなくつぶさに知ることができる{{sfn|Layton|1965|p=95}}。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった『タピオラ』のみである。
 
『[[エン・サガ]]』(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮で1893年に初演された。この単一楽章の交響詩は[[アイスランド]]の神話的作品である『[[スノッリのエッダ|エッダ]]』から影響を受けている可能性も考えられるが、作曲者本人は単に「[自分の]心の状態の表出」であると語っている。弦楽器による夢見るような主題に始まると木管楽器、次いで金管楽器と[[ヴィオラ]]と発展していき、シベリウスのオーケストラ操作能力が示される<ref>{{cite web |title=En Saga |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_satu.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。この作品は彼にとって初めての重要な管弦楽作品であり、ブゾーニの招きによりベルリンで自作を演奏することになった1902年に改訂されている。この時の成功に勇気づけられた彼は[[アイノ・シベリウス|アイノ]]に次のように書き送った。「私は熟達した『芸術家』として認められたよ{{sfn|Wicklund|2014|p=30}}。」
 
『[[森の精 (管弦楽のためのバラード)|森の精]]』は管弦楽のための単一楽章の交響詩で、[[スウェーデン]]の詩人{{仮リンク|ヴィクトル・リュードベリ|en|Viktor Rydberg}}の同名の作品に霊感を受けて1894年に作曲された。初演は1895年4月にヘルシンキにてシベリウス自身の指揮で行われた。構成的には4つの部分に分けることが可能であり、それぞれが詩の4つの節に対応してそこに描かれた物語の雰囲気を想起させる。一つ目が英雄の活力、二つ目が熱狂的な行動、三つ目は官能的な愛、四つ目が癒すことのできない悲しみである。音楽自体は美しい仕上がりであるが、多くの批評家はシベリウスが題材とした物語の構造に「過度に依存」していると非難している{{sfn|Kurki|1999}}<ref>{{cite web |title=Other orchestral works |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_muita_metsanhaltijatar.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
 
『[[レンミンカイネン組曲]]』は1890年代初頭に書き上げられた。元々は神話に題材を採ったオペラ『[[船の建造 (オペラ)|船の建造]]』として、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ#ヴァーグナー|楽劇]]に匹敵する規模の作品として構想された。しかしシベリウスは後に考えを改め、作品は4つの楽章から成る管弦楽作品となった。この組曲はフィンランドの民族[[叙事詩]]『カレワラ』の登場人物レンミンカイネンに基づいている。この作品は連作交響詩であると捉えることもできる。第2曲(発表時は第3曲)の『[[トゥオネラの白鳥]]』は単独でもしばしば演奏される<ref>{{cite web |title=Lemminkäinen |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_lemminkainen.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。
 
『[[フィンランディア]]』は非常に愛国的な作品であり、シベリウスの全作品の中でもおそらく最も人口に膾炙した楽曲である。初演が行われたのは1899年11月で、当初は新聞の日を祝うための一連の作品のうちのひとつだった。改訂版は1900年7月に初演されている<ref name=incidental/>。現在の表題が出てきたのはさらに後のことで、最初はピアノ編曲版がそう呼ばれ、その後1901年にカヤヌスが管弦楽版を演奏した際に『フィンランディア』という名称を用いた。シベリウス自身は本来管弦楽曲であると強調していたが、特に賛歌としてのエピソードによりこの作品は合唱曲としても世界的な人気を獲得した。ついには作曲者自身も同意し1937年に[[フリーメイソン]]のために、1940年により一般的に使用できるよう賛歌として歌詞を加えることを認めた<ref>{{cite web |title=Finlandia |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_finlandia.htm |accessdate=24 November 2015}}</ref>。愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていた[[ロシア帝国|ロシア]]当局の[[弾圧]]を受けた結果、別名で演奏されたこともある。
 
『[[大洋の女神]]』は1913年から1914年にかけて作曲された単一楽章の交響詩である。表題は[[ギリシア神話]]において[[地中海]]に住むとされる[[オーケアニス]]のことを指している。初演は1914年6月4日に[[アメリカ合衆国]]、[[コネチカット州]]の{{仮リンク|ノーフォーク (コネチカット州)|label=ノーフォーク|en|Norfolk, Connecticut}}で催された[[ノーフォーク室内楽音楽祭]]においてシベリウス自身の指揮によって行われた。初演の際に「これまで音楽で行われた中で海を想起させる最良のもの」と称賛されたこの作品は{{sfn|Barnett|2007|p=242}}、厳格でない3つの部分で2つの主題が次第に展開されることによって進行する。第1の部分が穏やかな海、第2の部分が激しさを増す嵐、第3の部分が雷鳴のごとく打ち付ける波によるクライマックスである。嵐が静まり、最後の和音が海の巨大な力と限りない広がりを象徴するように響く{{sfn| Kilpeläinen|2012|p=viii}}。
 
『[[タピオラ]]』は最後の主要な管弦楽作品となった楽曲である。[[ウォルター・ダムロッシュ]]により[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニック協会]]のためにとして委嘱され、同管弦楽団により1926年12月26日に初演された。曲は『カレワラ』に登場する精霊である[[タピオ]]に着想を得ている。アメリカの音楽評論家[[アレックス・ロス (音楽評論家)|アレックス・ロス]]の言葉を引用すると、この作品は「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現となった<ref name=alexross/>。」作曲家で伝記作家の[[セシル・グレイ (作曲家)|セシル・グレイ]]は一層強い調子で次のように断言している。「たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう<ref>{{cite web |title=Tapiola |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_tapiola.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。」
 
=== その他主要作品 ===
『[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]』はシベリウスの初期作品のひとつであり、[[ヴィープリ]]の学生団体のために書かれ1893年11月13日に騒がしい聴衆へ向けて初演された。組曲版は11月23日の演奏会に序曲と3曲からなる形で登場し、作品11の『カレリア組曲』として出版された。この作品はシベリウスの楽曲でも指折りの人気作品であり続けている<ref>{{cite web |title=Other orchestral works: Karelia Music, Overture and Suite |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_muita_karelia.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。
 
『[[クオレマ|悲しきワルツ]]』は元来、シベリウスの義理の兄にあたる{{仮リンク|アルヴィド・ヤルネフェルト|en|Arvid Järnefelt}}による1903年の戯曲『[[クオレマ]]』のために書かれた[[付随音楽]]だった。現在では独立した演奏会用作品としてより広く知られている。シベリウスは1903年12月2日の『クオレマ』上演のために6つの楽曲を作曲した。ワルツが使われるのは女性が死の床から起き上がり幽霊と踊る場面である。1904年、シベリウスは4月25日のヘルシンキでの演奏のために手直しを行っており、その際に曲は『悲しきワルツ』と銘打たれた。瞬く間に成功を収めた本作は単独でも取り上げられるようになり、今もなおシベリウスの代表作としての地位を保っている<ref name=wod/><ref>{{cite web |author=Steinberg, Michael |title=Sibelius: Valse Triste, Opus 44 |publisher=San Francisco Symphony |url=https://www.sfsymphony.org/Watch-Listen-Learn/Read-Program-Notes/Program-Notes/Sibelius-Valse-triste.aspx |accessdate=28 November 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208060752/https://www.sfsymphony.org/Watch-Listen-Learn/Read-Program-Notes/Program-Notes/Sibelius-Valse-triste.aspx |archivedate=8 December 2015 |df=dmy-all }}</ref>。
 
[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]] ニ短調は[[ヴィクトル・ノヴァチェク]]の[[ソロ (音楽)|独奏]]で1904年2月8日に初演された。シベリウスが曲を完成させたのが初演間際であったためノヴァチェクは十分な練習時間を取ることができず、その結果初演は悲惨なものとなってしまった。大幅な改訂を経て、新たな版が1905年10月19日に[[リヒャルト・シュトラウス]]の指揮する[[シュターツカペレ・ベルリン|ベルリン王立宮廷楽団]]により初演されている。[[カレル・ハリーシュ]]が管弦楽のコンサートマスターと独奏を兼務し、曲は大成功を収めた<ref name="Madison Symphony">{{cite web |author=Allsen, J. Michael |title=Madison Symphony Orchestra Program Notes |publisher=University of Wisconsin-Whitewater |url=http://facstaff.uww.edu/allsenj/MSO/NOTES/0809/5.Jan09.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090504020346/http://facstaff.uww.edu/allsenj/MSO/NOTES/0809/5.Jan09.html |archivedate=4 May 2009 |accessdate=2019-04-04}}</ref>。以降徐々に人気を獲得したこの作品は、現在では20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲の中でも有数の録音頻度を誇るまでになっている<ref>{{cite web |title=Violin concerto |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_viulukonsertto.htm |accessdate=28 November 2015}}</ref>。
 
『[[クレルヴォ交響曲]]』もシベリウス初期作品のひとつで、[[合唱交響曲]]であるとされることも多いが交響詩風の5つの管弦楽曲から成る組曲とした方がより正確である{{sfn|Eden|2010|p=[https://books.google.com/books?id=AOS74uZTasYC&pg=PA149 149]}}。『カレワラ』の登場人物である[[クッレルヴォ]]を題材としている。初演は1892年4月28日、[[エミー・アクテ]]と{{仮リンク|アブラハム・オヤンペラ|fi|Abraham Ojanperä}}を独唱者に据え、シベリウス自身が設立間もないヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱を指揮して行われた。この作品はシベリウスの生前には5回しか演奏されることがなかったが、1990年代以降は演奏会と録音の両面で人気の高まりを見せている<ref>{{cite web |title=Kullervo |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/ork_kullervo.htm |accessdate=29 November 2015}}</ref>。
 
== フリーメイソン ==
ロシア統治下では禁止されていたフリーメイソンが復活を遂げると、シベリウスは1922年にスモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつである<ref>{{cite web |title=Music for Freemasonry |work=Jean Sibelius |publisher=Finnish Club of Helsinki |url=http://www.sibelius.fi/english/musiikki/vapaamuurari.ht |accessdate=11 November 2015 }}{{dead link|date=December 2017 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。
 
== 自然 ==
シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となった。彼は自らの交響曲第6番について「[曲は]いつも私に初雪のにおいを思い出させる」と語っていた。アイノラを囲む森が彼に『タピオラ』の霊感を与えたと言われることも多い。彼の伝記作家であるタヴァッシェルナは、シベリウスの自然との結びつきについて次のように記している。
<blockquote>北欧の基準で考えたとしても、シベリウスは自然がもたらす空気と四季の変化に対して例外的な熱意でもって応じていた。彼は双眼鏡を手に湖の氷の上を渡る[[雁|ガン]]を眺め、[[ツル]]の金切り声に耳を傾け、アイノラのすぐ下の湿地からこだましてくる[[シギ科|シギ]]の鳴き声を聞いていた。春の花を余すところなく味わうのは秋のにおいと色使いに対しても同じだった{{sfn|Tawaststjerna|1976|p=21}}。</blockquote>
 
== 評価 ==
[[File:Leevi Madetoja (circa 1930s).jpg|thumb|left|シベリウスの高弟、批評家で師の作品を擁護した[[レーヴィ・マデトヤ]]]]
[[File:Musik Meile Wien, Jean Sibelius (22).jpg|thumb|ウィーン、ムジーク・マイレのシベリウスの星板。]]
シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。フィンランドの交響曲作曲家であった[[レーヴィ・マデトヤ]]はシベリウスの弟子だった。イギリスでは[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]が[[交響曲第5番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|交響曲第5番]]、[[アーノルド・バックス]]も[[交響曲第5番 (バックス)|交響曲第5番]]と両名がともに交響曲第5番をシベリウスに献呈している。さらに、『タピオラ』の影響はバックスの[[交響曲第6番 (バックス)|交響曲第6番]]と[[アーネスト・ジョン・モーラン]]の[[交響曲 (モーラン)|交響曲]]に色濃く表れている<ref>{{cite web |title=Sir Arnold Bax |publisher=Chandos |url=http://www.chandos.net/pdf/CHAN%2010122.pdf |accessdate=5 December 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923202420/http://www.chandos.net/pdf/CHAN%2010122.pdf |archivedate=23 September 2015 |df=dmy-all }}</ref>{{sfn|Schaarwächter|2015|p=[https://books.google.com/books?id=EIvoCQAAQBAJ&pg=PA494 494]}}。また[[ウィリアム・ウォルトン]]の[[交響曲第1番 (ウォルトン)|交響曲第1番]]からもシベリウスの作曲法の影響が強く感じられる{{sfn|Freed|1995}}。これらやその他のイギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏には[[トーマス・ビーチャム]]や[[ジョン・バルビローリ]]らのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。ウォルトンの友人の作曲家[[コンスタント・ランバート]]はシベリウスが「頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できる[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]以来はじめての偉大な作曲家」であると言い切っていた{{sfn|Lambert|1934|p=318}}。それ以前にも[[グランヴィル・バントック]]がシベリウスを擁護している<ref group= "注">彼らは互いに尊重し合っており、シベリウスは交響曲第3番をバントックに献呈した他、1946年にはバントック協会の初代会長に就任している。</ref>。さらに最近では、[[ロバート・シンプソン]]が擁護した作曲家の中にシベリウスも入っていた。[[マルコム・アーノルド]]はシベリウスからの影響を認めており、[[アーサー・バターワース]]はシベリウスの音楽が自作の着想の源であると看做していた{{sfn|Walker|2008}}。[[セシル・グレイ (作曲家)|セシル・グレイ]]はシベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。
 
[[ユージン・オーマンディ]]と、貢献度は下がるが[[フィラデルフィア管弦楽団]]で彼の前任者だった[[レオポルド・ストコフスキー]]は、シベリウスの作品を頻繁にプログラムに取り入れることによってその音楽がアメリカの聴衆へ届けられることを助けた。オーマンディはシベリウスと生涯を通じた親交を築いている。後半生においてシベリウスはアメリカの評論家[[オーリン・ダウンズ]]からも擁護されており、ダウンズはシベリウスの伝記も著している{{sfn|Goss|1995}}。
 
[[テオドール・アドルノ]]は1938年に発表した批判的論評において、次のような非難を行ったことで悪名高い。「もしシベリウスがよいというのであれば、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]から[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]まで連綿と受け継がれた音楽の特質は無効化されてしまうだろう。それは内的な繋がりの豊かさ、[[アーティキュレーション (音楽)|アーティキュレーション]]、多様性の中にある統一性、『単一性』の中にある『多面性』である{{sfn|Adorno|1938}}。」アドルノは当時『{{仮リンク|ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン|en|New York Herald Tribune}}』紙の音楽評論家を務めていた[[ヴァージル・トムソン]]に自らの論評を送付している。トムソン自身もシベリウスに批判的であったにもかかわらず、彼は論評の情緒面に同意しつつもアドルノに対して「その論調がシベリウスに対してではない[アドルノへの]敵対心の方をより多く生み出し[た]」と明言している{{sfn|Ross|2009}}。その後、この両者と指揮者の[[ルネ・レイボヴィッツ]]は1955年の小冊子の表題でシベリウスを「世界最低の作曲家」と書きすらした{{sfn|Leibowitz|1955}}。
 
シベリウスが評論家から称賛と怒りの両方を集めた理由のひとつには、彼が7曲の交響曲の各々において独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだということがあるのだろう。彼の交響曲(及び調性)の創造は新奇なものであったが故に、音楽は異なる道を辿っていくべきだと考える者もいたのである{{sfn|Mäkelä|2011|p=[https://books.google.com/books?id=KZbZJHaL_9AC&pg=PA269 269]}}。批判に対する彼の反応はそっけないものだった。「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建れられたことなどないのだから<ref name=alexross/>。」
 
[[File:Hameenlinna Sibelius House 1.jpg|thumb|[[ハメーンリンナ]]にあるシベリウスの生家。]]
20世紀の終わり数十年までくると、シベリウスは一層好意的に取られられるようになってきた。[[作家]]の[[ミラン・クンデラ]]によるとシベリウスの取り組み方は状況の絶え間ない進展の外部に立脚した「アンチモダンなモダニズム」のそれであるという{{sfn|Ross|2009}}。1990年には作曲家の[[シア・マスグレイヴ]]はヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団からシベリウスの生誕125周年を記念した作品の委嘱を受け、書き上げられた『Song of the Enchanter』が1991年2月14日に初演された<ref>{{cite web |title=Song of the Enchanter |publisher=Thea Musgrave |url=http://www.theamusgrave.com/html/song_of_the_enchanter.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150610024749/http://www.theamusgrave.com/html/song_of_the_enchanter.html |archivedate=10 June 2015 |accessdate=2019-04-04}}</ref>。1984年、アメリカの[[アヴァンギャルド|前衛]]作曲家[[モートン・フェルドマン]]はドイツの[[ダルムシュタット]]で行った講義の中で「皆さんが急進的だと考える人物は実のところ保守的だということもあるかもしれませんし - 皆さんが保守的だと考える人物が実のところ急進的だということもあるかもしれません」と語ったところでシベリウスの第5交響曲を鼻歌で歌い始めた{{sfn|Ross|2009}}。
 
[[ピューリッツァー賞]]を受賞した音楽評論家の[[ティム・ペイジ (音楽評論家)|ティム・ペイジ]]は1996年、次のように書いている。「シベリウスについてすぐさま言わねばならないことが2つある。ひとつは彼がひどく不均衡だということ(彼の室内楽曲、多数の歌曲、そして大量のピアノ音楽の多くが19世紀の2流のサロン作曲家に混ざる形で、午後の時間に時折演奏される程度だったのではなかろうか)。もうひとつは、最良の状態にあっても彼はしばしば奇妙であるということだ<ref>{{cite web |last=Page |first=Tim |date=29 September 1996 |title=FINN DE SIECLE |work=The Washington Post |url=https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/style/1996/09/29/finn-de-siecle/3c8f1482-a6f8-4605-b0d1-f9e2f06bac8d/ |accessdate=11 January 2016}}</ref>。」シベリウスのピアノ音楽に対するペイジの査定を埋め合わせするのはピアニストの[[レイフ・オヴェ・アンスネス]]である。彼はこの作品群の出来がまちまちであることを認めつつも、批評の対象とされないことが常態化している現状は不当であると考えている。一部のピアノ作品を選んで演奏した際に彼が気付くのは、聴衆が「有名作曲家にこれほどまでに美しく、理解しやすいにもかかわらず知られていない音楽があろうとは、と驚く」ことである<ref>Andsnes, Leif, liner notes for "Leif Ove Andsnes, Sibelius" Sony Classical CD 88985408502 © 2017</ref>。
 
2015年12月8日のシベリウス生誕150周年に合わせ、ヘルシンキ・ミュージック・センターは図解と語りによる『シベリウス・フィンランド・エクスペリエンス・ショー』を2015年の夏季に毎日開催することを計画した。企画は2016年、2017年にも延長開催となった<ref>{{cite web |title=Sibelius Finland Experience |publisher=Musiikkitalo |url=https://www.musiikkitalo.fi/en/event/sibelius-finland-experience |accessdate=5 December 2015}}</ref>。12月8日当日には[[ヨン・ストルゴールズ]]指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で『エン・サガ』、『ルオンノタル』と交響曲第7番を取り上げた記念演奏会が開催された<ref>{{cite web |title=Sibelius 150 |publisher=Helsinki Philharmonic Orchestra |url=http://helsinginkaupunginorkesteri.fi/en/node/159 |accessdate=6 December 2015}}</ref>。
 
[[日本]]においては[[菅野浩和]]が1967年に『シベリウス -生涯と作品-』([[音楽之友社]])を上梓している。[[1986年]]には、H.I.ランピラの『シベリウスの生涯』([[稲垣美晴]]訳、[[筑摩書房]])が訳出されている<ref>{{Cite web|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480870889/ |title=シベリウスの生涯 |publisher=[[筑摩書房]] |accessdate=2019-04-08}}</ref>。[[1984年]]には日本シベリウス協会が発足し、[[渡邉暁雄]]が初代会長を務めた。
 
== 遺されたもの ==
1972年、存命のシベリウスの娘たちが[[アイノラ]]をフィンランド政府へと売却した。教育省と[[フィンランド・シベリウス協会]]が1974年から施設を博物館として公開している。フィンランド100[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]紙幣には、2002年の[[ユーロ]]導入までシベリウスの肖像が描かれていた<ref name="Setelit.com"/>。2011年からはフィンランドでは彼の誕生日である12月8日を旗の日として祝っており、この日は「フィンランド音楽の日」としても知られている<ref name="intermin.fi"/>。生誕150周年にあたる2015年にはヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会や行事が行われた<ref name="Visit-Helsinki"/>。
 
1965年の第1回から年ごとに開催されている[[シベリウス国際ヴァイオリン・コンクール]]、1967年に除幕されたヘルシンキの[[シベリウス公園]]の[[シベリウス・モニュメント]]、1968年に開館を迎えた[[トゥルク]]の[[シベリウス博物館]]、2000年のこけら落としとなった[[ラハティ]]の[[シベリウス・ホール]]は全てシベリウスを記念して名付けられたものである。小惑星[[シベリウス (小惑星)|シベリウス]]も同様である<ref name="MPC-Sibelius">{{cite web |title=1405 Sibelius (1936 RE) |work=Minor Planet Center |url=http://www.minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=1405 |accessdate=22 November 2015}}</ref>。
 
シベリウスは1909年から1944年にかけて日記を付けており、2005年に遺族から未省略での出版の許可が出された。そこで{{仮リンク|ファビアン・ダールストレム|fi|Fabian Dahlström}}が編集を行い、同年にスウェーデン語版が出版されている<ref>{{cite book | author=Sibelius, Jean | editor=Fabian Dahlström | title=Dagbok 1909–1944 | publisher=Svenska litteratursällskapet i Finland | location=Helsingfors | year=2005 | isbn=951-583-125-3 | language=Swedish }}</ref>。またシベリウス生誕150周年の記念として、2015年にはフィンランド語でも日記の全編が出版されている<ref>{{cite book | author=Sibelius, Jean | editor=Fabian Dahlström | title=Päiväkirja 1909–1944 | publisher=Svenska litteratursällskapet i Finland | location=Helsinki | year=2015 | isbn=978-951-583-288-7 | language=Finnish }}</ref>。シベリウスの書簡集についても、数巻分が編集されてスウェーデン語、フィンランド語、英語にて出版されている。
 
フィンランド語で[[エーリク・タヴァッシェルナ]]が著した3巻からなる評伝があり、ロバート・レイトンにより英訳もされている。
 
== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Reflist|group= "注"}}
'''出典'''
{{Reflist|30em}}
 
== 文献 ==
=== 参考文献 ===
{{refbegin |colwidth=30em}}
* {{Cite book |和書 |year=1994 |title=作曲家別名曲解説ライブラリー18 北欧の巨匠 |publisher=[[音楽之友社]]}}
* {{Cite book |和書 |author=マッティ・フットゥネン |others=[[菅野浩和]]訳、[[舘野泉]]監修 |year=2000 |title=シベリウス - 写真でたどる生涯 |publisher=音楽之友社}}
* {{Cite book |和書 |author=松原千振 |year=2013 |title=ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯 |publisher=アルテス・パブリッシング}}
* {{cite journal |last=Adorno |first=Theodor |year=1938 |pages=460–463 |title=Törne, B. de, Sibelius; A Close Up |journal=Zeitschrift für Sozialforschung |volume=7 |ref=harv}} Later reprinted as "Glosse über Sibelius". Cited and translated in {{cite book |last=Jackson |first=Timothy L. |year=2001 |page=xviii |title=Sibelius Studies |contribution=Preface |editor1-last=Jackson |editor1-first=Timothy L. |editor2-last=Murtomäki |editor2-first=Veijo |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=978-0-521-62416-9 |url=https://books.google.com/books?id=6p9lAkbz7fAC&pg=PR18&vq=%22if+sibelius+is+good%22&dq=%22sibelius+studies%22}}
* {{cite book |last=Barnett |first=Andrew |year=2007 |title=Sibelius |publisher=Yale University Press |isbn=978-0-300-11159-0 |ref=harv}}
* {{cite news |last=Botstein |first=Leon |date=14 August 2011 |title=The Transformative Paradoxes of Jean Sibelius |work=The Chronicle of Higher Education |url=http://chronicle.com/article/The-Transformative-Paradoxes/128563/ |accessdate=21 January 2014 |ref=harv |author-link=レオン・ボットスタイン}}
* {{cite book |last=Bullock |first=Philip Ross |year=2011 |title=The Correspondence of Jean Sibelius and Rosa Newmarch, 1906–1939 |location=Woodbridge |publisher=Boydell & Brewer |isbn=978-1-84383-683-4 |url=https://books.google.com/books?id=S2dV9h7dR8QC&pg=PA234 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Eden |first=Bradford Lee |year=2010 |title=Middle-earth Minstrel: Essays on Music in Tolkien |publisher=McFarland |isbn=978-0-7864-5660-4 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Ekman |first=Karl |year=1972 |title=Jean Sibelius, his Life and Personality |publisher=Greenwood Press |isbn=978-0-8371-6027-6 |ref=harv}}
* {{cite web |last=Freed |first=William |year=1995 |title=William Walton, Symphony No. 1 in B-flat minor, 1968 version&#93; |publisher=The Kennedy Center for Performing Arts |url=http://www.kennedy-center.org/calendar/?fuseaction=composition&composition_id=3158 |accessdate=29 June 2011 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=1995 |title=Jean Sibelius and Olin Downes: music, friendship, criticism |publisher=Northeastern University Press |isbn=978-1-55553-200-0 |url=https://books.google.com/books?id=gPsXAQAAIAAJ |ref=harv}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=2009 |title=Sibelius: A Composer's Life and the Awakening of Finland |publisher=University of Chicago Press |isbn=978-0-226-30479-3 |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia |last=Goss |first=Glenda Dawn |year=2011 |title=Jean Sibelius and His American Connections |editor-last=Grimley |editor-first=Daniel M. |work=Jean Sibelius and His World |publisher=[[プリンストン大学出版局|Princeton University Press]] |isbn=978-0-691-15280-6 |url=https://books.google.com/books?id=zmBZuyWlv4cC&pg=PA162 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Grimley |first=Daniel M. |year=2004 |title=The Cambridge Companion to Sibelius |series=Cambridge Companions to Music |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-89460-9 |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia |last=Hepokoski |first=James |year=2001 |pages=319–47 |title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典|The New Grove Dictionary of Music and Musicians]] |contribution=Sibelius |editor-last=Sadie |editor-first=Stanley |editor2-last=Tyrrell |editor2-first=John |volume=xxiii |publisher=Macmillan |edition=Second |isbn=978-0-333-23111-1 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Jackson |first=Timothy L. |date=2001 |title=Sibelius Studies |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-62416-9 |url=https://books.google.com/books?id=6p9lAkbz7fAC&pg=PA102 |ref=harv}}
* {{cite book |last=James |first=David Burnett |year=1989 |title=Sibelius |publisher=Omnibus Press |isbn=978-0-7119-1683-8 |ref=harv}}
* {{cite book |last1=Kaufman |first1=Schima |year=1938 |title=Everybody's music |publisher=Columbia Broadcasting System: Thomas Y. Crowell Company |ref=harv}}
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* {{cite web |last=Kurki |first=Eija |date=1999 |title=The Continuing Adventures of Sibelius's Wood-Nymphs: The Story So Far |website=Music Finland |url=http://composers.musicfinland.fi/musicfinland/fimic.nsf/0/2CC386D18882DDEEC22575370041A081?opendocument |accessdate=26 November 2015 |ref=harv |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151127061914/http://composers.musicfinland.fi/musicfinland/fimic.nsf/0/2CC386D18882DDEEC22575370041A081?opendocument |archivedate=27 November 2015 |df=dmy-all }}
* {{cite book |last=Lagrange |first=Christophe |year=1994 |title=Au coeur du classique: Les Grands compositeurs et leur musique |language=French |volume=5 |publisher=Little Big Man |isbn=978-2-7365-0029-0 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Lambert |first=Constant |year=1934 |title=Music Ho! |location=New York |publisher=Charles Scribner |url=https://www.fadedpage.com/showbook.php?pid=20090115 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Layton |first=Robert |year=1965 |title=Sibelius |publisher=Schirmer Books |isbn=978-0-02-871322-9 |url=https://books.google.com/books?id=oBEwAQAAIAAJ |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia |last=Layton |first=Robert |year=2002 |pages=478–479 |contribution=Sibelius |editor-last=Wintle |editor-first=Justin |work=Makers of Modern Culture |publisher=Routledge |isbn=978-0-415-26583-6 |ref=harv |contribution-url=https://books.google.com/books?id=991tT3wSot0C&pg=PA478}}
* {{cite book |last=Leibowitz |first=René |year=1955 |title=Sibelius, le plus mauvais compositeur du monde |location=Liège, Belgium |publisher=Éditions Dynamo |ref=harv |oclc=28594116}}
* {{cite book |last=Lew |first=Douglas |year=2010 |title=Great Composers in Watercolor |publisher=Trafford Publishing |isbn=978-1-4269-3437-7 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Mäkelä |first=Tomi |year=2011 |title=Jean Sibelius |publisher=Boydell & Brewer Ltd |isbn=978-1-84383-688-9 |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia |last=Murtomäki |first=Veijo |year=2000 |title=Sibelius, Jean (1865–1957) |others=Translated by Roderick Fletcher |editor-last=Marjomaa |editor-first=Ulpu |work=100 Faces from Finland: A Biographical Kaleidoscope |publisher=Suomalaisen Kirjallisuuden Seura [The Finnish Literature Society] |isbn=978-951-746-215-0 |url=http://www.kansallisbiografia.fi/english/?id=3630 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150621185326/http://www.kansallisbiografia.fi/english/?id=3630 |archivedate=21 June 2015 |deadurl=no |ref=harv}}
* {{cite book |last=Pike |first=Lionel |year=1978 |title=Beethoven, Sibelius and 'the Profound Logic': Studies in Symphonic Analysis |publisher=Athlone Press |isbn=978-0-485-11178-1 |ref=harv}}
* {{cite web |last=Poroila |first=Heikki |year=2012 |title=Yhtenäistetty Jean Sibelius Teosten yhtenäistettyjen nimekkeiden ohjeluettelo |trans-title=Uniform Jean Sibelius: list of works with harmonised titles |language=fi |edition=Fourth, online |publisher=Suomen musiikkikirjastoyhdistys [Finnish Music Library Association] |isbn=978-952-5363-14-2 |url=http://www.kirjastot.fi/sites/default/files/ohjeluettelo/Sibelius.pdf |accessdate=24 November 2015 |ref=harv |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304073842/http://www.kirjastot.fi/sites/default/files/ohjeluettelo/Sibelius.pdf |archivedate=4 March 2016 |df=dmy-all }}<!--latest in print, 2nd edition 1996, ISBN 978-951-8903-49-2-->
* {{cite book |last=Ringbom |first=Nils-Eric |year=1950 |title=Sibelius |language=Danish |others=translated from the Swedish by Johan Koch |publisher=Nyt Nordisk Forlag Arnold Busck |ref=harv}}
* {{cite book |last=Ross |first=Alex |year=2009 |chapter=5 |title=The Rest Is Noise: Listening to the Twentieth Century |publisher=Harper Perennial |edition=3rd |isbn=978-1-84115-476-3 |ref=harv |author-link=アレックス・ロス (音楽評論家) |origyear=First published 2007}}
* {{cite book |last=Schaarwächter |first=Jürgen |year=2015 |title=Two Centuries of British Symphonism: From the beginnings to 1945. A preliminary survey. |others=With a foreword by Lewis Foreman |volume=1 |publisher=Georg Olms Verlag |isbn=978-3-487-15227-1 |ref=harv}}
* {{cite news |last=Sirén |first=Vesa |date=October 2011a |title=Is this the sound of Sibelius' lost Eighth Symphony? |work=Helsingin Sanomat |ref=harv}}
* {{cite news |last=Sirén |first=Vesa |date=30 October 2011b |title=Soiko HS.fi:n videolla Sibeliuksen kadonnut sinfonia? |language=fi |work=Helsingin Sanomat |url=http://www.hs.fi/kulttuuri/a1305548269034 |accessdate=11 January 2015 |ref=harv}}
* {{cite web |last=Stearns |first=David Patrick |date=3 January 2012 |title=One last Sibelius symphony after all? |work=Philadelphia Inquirer |url=http://articles.philly.com/2012-01-03/entertainment/30583650_1_finnish-composer-jean-sibelius-symphony-helsinki-philharmonic |accessdate=11 January 2015 |ref=harv}}
* {{cite book |last=Tawaststjerna |first=Erik W. |year=1976 |title=Sibelius: 1865–1905 |publisher=University of California Press |isbn=978-0-520-03014-5 |ref=harv |author-link=エーリク・タヴァッシェルナ}}
* {{cite book |last=Tawaststjerna |first=Erik W. |year=1997 |title=Sibelius |language=Finnish |editor=Tawaststjerna, Erik T. |location=Helsinki |publisher=Otava |isbn=978-951-1-14231-7 |ref=harv}}
*{{Cite book|last=Tawaststjerna |first=Erik W. |year=2008 |title=Sibelius Volume III: 1914-1957 |chapter=Civil War |publisher=Faber and Faber |isbn= 978-057-12477-4-5 |location=London |pages= |url=https://books.google.fi/books?id=wZUItERMn-wC&printsec=frontcover&hl=fi&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false|ref=harv}}
* {{cite web |last=Walker |first=Lynne |year=2008 |title=King Arthur |work=MusicWeb International |url=http://www.musicweb-international.com/classrev/2008/Sept08/King_Arthur.htm |accessdate=1 July 2011 |ref=harv}}
*{{cite encyclopedia |last=Whittall |first=Arnold |year=2004 |title=The later symphonies |editor-last=Grimley |editor-first=Daniel M. |work=The Cambridge Companion to Sibelius |series=Cambridge Companions to Music |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-0-521-89460-9 |ref=harv}}
* {{cite thesis |last=Wicklund |first=Tuija |date=2014 |title=Jean Sibelius's ''En saga'' and Its Two Versions: Genesis, Reception, Edition, and Form |journal=Studia Musica |volume=57 |publisher=University of the Arts Helsinki, Sibelius Academy |url=http://ethesis.siba.fi/files/wicklund_vaitoskirja_vari.pdf |ref=harv}}
* {{cite journal |last=Woodstra |first=Chris |year=2005 |pages=1279–1282 |title=All Music Guide to Classical Music: The Definitive Guide to Classical Music |publisher=[[ハル・レナード・コーポレーション|Backbeat Books]] |isbn=978-0-87930-865-0 |ref=harv}}
{{refend}}
 
=== 関連文献 ===
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* {{cite book |last=de Gorog |first=Lisa |date=1989 |title=From Sibelius to Sallinen: Finnish Nationalism and the Music of Finland |others=With the collaboration of Ralph de Gorog |location=New York |publisher=Greenwood Press |isbn=978-0-313-26740-6}}
* {{cite book |last=Goss |first=Glenda |date=1998 |title=Jean Sibelius: Guide to Research |location=New York |publisher=Garland Press |isbn=978-0-8153-1171-3}}
* {{cite book |last=Johnson |first=Harold E. |year=1959 |title=Jean Sibelius |location=New York |publisher=Knopf |oclc=603128}}
* {{cite book |last=Layton |first=Robert |date=1993 |title=Sibelius |series=Master Musicians Series |location=New York |publisher=Schirmer Books |isbn=978-0-02-871322-9}}
* {{cite book |last=Levas |first=Santeri |date=1972 |title=Sibelius: a personal portrait |location=London |publisher=Dent |isbn=978-0-460-03978-9}}
* {{cite book |last=Rickards |first=Guy |date=1997 |title=Jean Sibelius |location=London and New York |publisher=Phaidon Press |isbn=978-0-7148-4776-4}}
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== 外部リンク ==
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{{Library resources box |by=yes |onlinebooksby=yes |viaf=59270886}}
* {{IMSLP |id=Sibelius, Jean}}
* [http://www.sibelius.fi/english/index.htm Jean Sibelius&nbsp;– the website] {{en icon}}
* [http://www2.siba.fi/sibeliussociety/ フィンランドシベリウス協会] {{en icon}}
* [http://www.sib-jp.org/index.html 日本シベリウス協会]
* [https://web.archive.org/web/20060715005106/http://www.abo.fi/fak/hf/musik/index_eng.php シベリウス博物館] {{en icon}}
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* [http://finland.fi/public/default.aspx?contentid=160075&contentlan=2&culture=en-US thisisFINLAND] 『フィンランディア』の歌詞など {{en icon}}
* {{BBC composer page |sibelius |Sibelius}} {{en icon}}
* {{allmusic|class=artist |id=mn0000690353}}
* {{findagrave |1376}}
* {{PM20|FID=pe/016468|NAME=Jean Sibelius}}
* {{DNB-Portal|118642405|TEXT=Werke von und über}}
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* {{NPG name}}
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[[Category:シベリウス]]
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