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3度にわたる高句麗遠征が失敗に終わった後、中国では隋が倒れ新たに唐が成立した(618年)。百済は624年には高句麗、新羅などと同じく唐に入朝した{{Sfn|井上|1972|pp=189-192}}。唐は当初三国へ自制と和解を求め圧力をかけたが、645年頃には対高句麗で積極策に転じ、高句麗への遠征を繰り返した{{Sfn|井上|1972|pp=201-203}}。百済はその間に新羅に大勝し、その領土を大きく削ったが、数次にわたる対高句麗戦が不首尾に終わった唐が、状況の打開策として新羅からの救援要請を入れて百済への遠征を決定したことが、最終的に百済の滅亡へと繋がることになった{{Sfn|井上|1972|pp=201-203}}。
 
;略譜
* 384年(百済枕流王1年)、中国南朝の東晋より摩羅難陀が百済に仏教を伝える。
* 385年(百済枕流王2年)、王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
* 526年(百済聖王4年)、百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
* 541年(聖王19年)、百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。
 
=== 高句麗との関係 ===
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倭国の領域であった日本列島には数次にわたり朝鮮半島からの移住の波があった{{Sfn|熊谷|2008|pp=48-49}}。その主たる要因は朝鮮半島の戦乱であったと考えられ、大規模な倭国への移住の波は朝鮮半島における戦乱の時期と概ね一致している{{Sfn|熊谷|2008|pp=51-52}}。この中には、技術や知識の導入のため倭王権の掌握下で保有する技能を持って仕えた人々がその第一波からいたことが考古資料によって裏付けられている{{Sfn|熊谷|2008|pp=51-52}}{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。しかし、考古学的な調査結果からは、倭国での朝鮮半島系の移住者の痕跡は圧倒的に[[伽耶]]南部に関係するものの割合が高く、百済人の活動を導き出す事ができるものは限られる{{Sfn|熊谷|2008|pp=56-61}}{{Sfn|武田|2005|pp=141-142}}。4世紀以前における百済系の系譜を持つ可能性がある日本列島の遺構としては[[大阪府]]の[[松岳山古墳]]で発見された瓶型土器や[[兵庫県]]にある日本最古の[[須恵器]]窯跡である[[出合窯跡]]などがある{{Sfn|武田|2005|pp=141-142}}。5世紀前半では全羅南道系の土器の系譜を持つと見られる須恵器の器形が複数確認されている{{Sfn|武田|2005|pp=141-142}}。同じく5世紀前半から展開する北部[[九州]]型横穴式石室は、ソウル周辺の横穴石室と関係すると考えられ、大阪府では百済系の技術工人の長が被葬者であると考えられる[[高井田山古墳]]が発見されている{{Sfn|武田|2005|pp=142-144}}。6世紀には日本列島における百済系の痕跡はあまりはっきりしないが、7世紀では[[飛鳥]]の[[酒船石遺跡]]の亀形石を始めとする花崗岩製の石造物が百済と密接な関わりを持つと考えられる{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。これらの石造物は造形が百済の益山で発見された石造物と非常に類似しており、また当時の倭国において花崗岩製の石造物は極めて珍しいものであったことから、百済系工人によってこれらの石造物が造られた可能性がある{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。これに関連するかもしれない記録が『日本書紀』「推古紀」の612年に百済から来た路子工(別名:芝耆摩呂)が[[須弥山]]の形や呉橋を作ったとあるものである{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。また、西日本各地に残る[[朝鮮式山城]]は百済滅亡後に日本に亡命してきた百済人の指導で建設されたことが『日本書紀』「天智紀」に見える{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。上記の通り、考古学的な痕跡は無いわけではないが、6世紀前半までは伽耶系のそれと比較して百済系の痕跡は限定的である{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。7世紀に入る頃から伽耶系の史料が減少するのに伴い、百済系の史料が相対的に目立つようになり始める{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}。
 
一方、『日本書紀』には6世紀に百済から倭国へ派遣された知識人や技術者についての記録が多数残る。彼らは古代の日本の学術・文化に大きな影響を残した。まず挙げられるのが『日本書紀』「応神紀」に登場する[[王仁]](和邇吉師)であり、日本に『千字文』と『[[論語]]』を伝えたとされる{{Sfn|熊谷|2008|pp=49-50}}。また、6世紀に軍事支援の代償として派遣されたと見られる五経博士についての記録がある{{Sfn|田中|2008|pp=163-165}}。513年(継体天皇7年)に[[段楊爾]]が派遣されたのを始めとし、[[漢高安茂]]、[[馬丁安]]、[[王柳貴]]らの五経博士らが交代で百済から派遣され倭王権に仕えた{{Sfn|田中|2008|pp=163-165}}。また、彼らと共に医、易、暦の諸博士や[[曇慧]]などの僧侶、律師、[[比丘尼]]、造仏工、造寺工なども倭国へ贈られた{{Sfn|田中|2008|pp=163-165}}。船氏の祖とする[[王辰爾]]は百済に出自するという説話が残されている{{Sfn|田中|2008|pp=166-173}}。王仁については『千字文』が実際に編纂されたのは応神朝よりもかなり後の時代であるため{{Sfn|熊谷|2008|pp=49-50}}、その記録は伝説に過ぎないと見られるが、日本列島における初期の漢字の導入が百済系を中心とした渡来人を経由して行われたことが『日本書紀』に見え、また『日本書紀』や他の古い文献の用字法などからもほぼ確認されている{{Sfn|遠藤|2015|pp=197-202}}{{Sfn|木下|1993|pp=135-174}}{{refnest|group="注釈"|『日本書紀』における百済系史料の史料的価値の確認とその使用箇所を字音仮名の分析から行った[[木下礼仁]]は、[[稲荷山鉄剣]]銘に代表される5世紀から6世紀にかけての倭国の[[金石文]]の用字法が、[[推古朝遺文]]や、『日本書紀』に引用される『[[百済三書]]』等の用字法と類似しており、これらが百済文化との関連性で捉えられるとしている。一方で、『[[釈日本紀]]』に[[新羅]]に使者を出して文字を習ったとする記録がある事や、朝鮮半島に残る新羅の金石文もまた同様の字音体系を持つことから、稲荷山鉄剣銘や[[江田船山古墳]]大刀銘の表記法体系が広く朝鮮半島の文化要素を受容したものであることを指摘している{{Sfn|木下|1993|pp=135-174}}。}}。[[白村江の戦い]]の後の百済滅亡後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から[[百済王氏|百済王]](くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏が形成された。彼らの中のある者はやはり知識人・技術者として倭王権に仕えたが、彼らは一定期間のみで交代する派遣技術者ではなく、その意味で倭国にとって極めて貴重な存在であった{{Sfn|坂元|1993|pp=102-105}}{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}{{refnest|group="注釈"|倭国において彼ら百済系の渡来氏族は、倭王権に仕える諸蕃として「保存」され、異国人として歌舞の上奏などを行った。これによって諸蕃を支配するという倭王権の体裁を整える役割を果たし、一方では倭国における課役の免除や官吏としての任用などにおける特殊な地位を維持した。このことに意識的であった百済王氏や、百済系氏族の津氏は、延暦9年(790年)の段階の上奏においてなお日本を「貴国」と呼称したことが『続日本紀』に記録されており、百済出自であるという自己認識を維持し続けたことが確認できる{{Sfn|遠藤|2005|pp=214-220}}}}。
 
全体として、百済から倭国への人と技術の流れは文献史料に多数登場するのに対し考古学的な痕跡は薄い。これは[[竈]]や土器など生活文化に密着した関係性がはっきりと見られる伽耶系の要素とは好対照をなしている。これらのことから、百済と倭国との関係は、一般の人々の大規模な移住をもたらすような関係ではなく、国家間の、或いは支配階層間で行われる文物や技術面での関係が中心であり、考古資料としては残りづらいものであったと考えられる{{Sfn|武田|2005|pp=144-148}}{{Sfn|熊谷|2008|pp=59-61}}。
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==== 倭系百済官僚 ====
倭国における百済人の活動は『日本書紀』を筆頭に多数の記録が残されているのに対し、百済における倭人の活動についての文献史料は乏しい。『三国史記』「百済本紀」には倭国との国家間の関係については言及があるものの、百済内で活動した特定の個人や集団としての倭人についての記録は存在しない。しかも「百済本紀」における倭関係記事は397年から428年までの30年間に集中しており、その後7世紀まで言及がない{{Sfn|武田|2005|pp=91-92}}。『隋書』東夷伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」との記録があり、『日本書紀』にも百済への兵や労働者の派遣の記録がある。また考古学的には百済後半期にその支配下に入る全羅南道を中心に倭系文物が発見されていることなどから、倭人が百済の領域に一定数居住していたことは確実である。
 
時代が進むと、百済の権力層に倭国系の[[姓氏]]を帯びる集団がでてくるが、これは倭国との連携が強化されたことと関わり、百済は楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込むことにより、発展を遂げた<ref name="李成市">{{Cite book|和書|author=[[李成市]]|authorlink=|date=1998-03-25|title=古代東アジアの民族と国家|series=|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000029032|page=31}}</ref>。
 
『日本書紀』の記録から注目されるのが現在「倭系百済官僚」と呼ばれる人々である。これはその名の通り、倭人であるが百済王権に仕えた人々を指す現代歴史学の用語である{{Sfn|李|2004|p=33}}。その歴史的性格を巡っては未だ議論の最中にあるが、上部徳率科野次酒、物部連奈率用歌多、紀臣奈率弥麻沙などのように、倭系の氏(科野、物部、紀、等)を持つ人物が百済の官職(徳率、奈率)を帯びていることによって判別される{{Sfn|李|2004|p=33}}。また、氏名に倭系の要素が含まれない人物や、百済の官職が明示されない者の中にも、倭系百済官僚と見做せるものがおり、研究者の見解によって相違するものの十数名の倭系百済官僚を『日本書紀』から拾うことができる{{Sfn|李|2004|pp=34-39}}。古代史研究者の[[李在碩]]は、こういった倭系百済官僚の属性について、ヤマト朝廷における政治的地位を示すウジ・カバネを持ち、同時に百済の官職を保有することから、倭・百済双方の王権への両属性を持つことがその本質であったとしている{{Sfn|李|2004|pp=34-39}}。彼らは百済と倭国との外交で大きな役割を果たしたことが記録されているが、それがどのように誕生し、また終わりを迎えたほかはわかっていない{{Sfn|李|2004|pp=43-50}}。
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百済の仏教の教義については一般に律蔵仏教の伝統を受け継いでいると言われている{{Sfn|金|2015|p=63}}。仏教公伝の当初から[[出家]]を認める戒壇と律法が伝わっていたと推定されることや、日本の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に百済における僧侶出家の際の受戒作法の詳細が記録されていること、526年に[[インド]]から帰国した僧侶譲益が梵本律蔵を訳したとする記録、そして『日本書紀』に百済から倭国への律師派遣や、戒法修学のために百済へ留学僧を派遣した記録が見られることなどから、百済が律学を重視し発展させていたことが概ね認められる{{Sfn|金|2015|p=63}}。また、{{JIS2004フォント|泗沘}}への遷都に際しては、中国の南朝へ『[[涅槃経]]』を始めとした経典、工匠、画師などの造寺工を求めていることが多数中国の正史の記録に残されていることから、{{JIS2004フォント|泗沘}}造営には南朝の技術と仏教思想が深く関わっていたと推定される{{Sfn|金|2015|p=64}}。
 
== 帰属の問題 ==
中国は、百済は歴史上中国の一部であると主張しており、中国政府の[[シンクタンク]]である[[中国社会科学院]]の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と定義している<ref>[http://megalodon.jp/2008-1114-1116-55/www.chosunonline.com/article/20070604000018 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院](archive) 『朝鮮日報』2007年6月4日</ref>。中国の[[歴史学者]]の李大龍は「百済は扶余族が建てた国なので、百済は中国民族が建てた国だ」と主張している<ref>[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007081836478 ああ、高句麗]東亜日報 2007年8月18日</ref>。
 
== 注釈 ==