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[[ファイル:HMSRodneyGunsElevated1940.jpg|thumb|300px260x260px|イギリス戦艦「[[ロドニー (戦艦)|ロドネイ]]」の主砲(1940年)|代替文=]]
'''大艦巨砲主義'''(たいかんきょほうしゅぎ)とは、砲撃戦を重視し、より巨大な[[砲]]を搭載出来る、より大型の船体を持った[[軍艦]]が海上戦闘搭載するおいて優位に立つと定義した海軍戦略思想である。長大な射程上の砲撃戦を重視しており、大型の船体は同時により重厚な装甲で被覆可能となった<ref>歴史博学倶楽部『世界の軍艦 WWI/WWII篇』竹書房100頁</ref>。
 
大艦巨砲主義の対極に位置する思想に小型軍艦の運用を重視した[[ジューヌ・エコール]]がある。日本海軍も[[日清戦争]]開戦前年の1893年まではこちらを採用していた。
 
== 思想 ==
=== 背景 ===
19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるようになった。同時に[[艦砲]]は大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。そこで大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた<ref>奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』まえがき</ref>。
 
[[第一次世界大戦]]の[[ジュットランド海戦]]でイギリスとドイツが[[弩級戦艦]]・[[超弩級戦艦]]を含む[[艦隊]]で衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まった<ref>歴史博学倶楽部『世界の軍艦 WWI/WWII篇』竹書房100頁</ref>。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]でも、[[日露戦争]]時の[[日本海海戦]]で大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された([[海戦要務令]])。その後も[[太平洋戦争]]後半期まで[[軍令]]・[[戦術]]上の主流となった。長駆[[侵攻]]してくる[[敵]]艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、[[航空母艦]]・[[巡洋艦]]・[[駆逐艦]]等は脇役に過ぎないという思想があった。
 
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== 歴史 ==
大砲技術が発達し[[艦砲]]で[[撃沈]]が可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。そのため砲数を減らし、一門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施す事となり、[[装甲艦]]の時代となった。技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。[[戦列艦]]から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・[[造船]]技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型の[[偵察]]などを目的とする巡洋艦へと分岐した。
 
[[File:Battleship building scatter graph 1905 onwards.png|thumb|right|1905年から1945年までに建造された戦艦の排水量グラフ。[[軍艦]]のサイズやパワーは第一次世界大戦をはさんで急速に増大した。多くの海軍国による[[建艦競争]]は1922年の[[ワシントン軍縮条約]]でいったん終わりを迎えた|400px]]
 
近代戦艦の始祖とされるのは[[ロイヤル・サブリン級戦艦]]である。なお、[[1895年]]から順次竣工した[[マジェスティック級戦艦]]が、30.5 cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ、[[前弩級戦艦]]の基本形を確立した。しばらくは各国ともこの様式で戦艦を建造したが、[[1906年]]に[[イギリス]]で完成した「[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]」によって主砲4門の枠が外された。この艦は従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。そのためこれ以後世界の海軍は「ドレッドノート」を基準とし、これらを[[弩級戦艦]]と称する。
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== 関連項目 ==
* [[海軍]]
*[[ジューヌ・エコール]] - 大艦巨砲主義とは反対に新兵器搭載の小型艦を重視する戦略構想
 
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