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{{Infobox 作家
| name = アレイスター・クロウリー<br>Aleister Crowley
| image = Aleister Crowley
| caption = OTO主宰時の1919年
| pseudonym = <!--ペンネーム-->
| birth_name = エドワード・アレグザンダー・クロウリー<br>Edward Alexander Crowley
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| footnotes = <!--脚注・小話-->
}}
'''アレイスター・クロウリー
▲'''アレイスター・クロウリー'''('''アレスター・クロウリー'''<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]</ref>、Aleister Crowley [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[英国]]の[[神秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術師|en|Ceremonial magic}}、著述家、登山家。『[[法の書]]』を執筆し、これを聖典とする宗教にして哲学である[[セレマ]]を提唱した。
== 経歴 ==
=== 1875~1904年(少年~青年期) ===
クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。[[福音派|キリスト教福音派]]の敬虔な信徒であった両親の方針で[[ミッションスクール|ミッション系スクール]]で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に尊敬する父親と死別した事も彼を深く打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。
父が残した莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入した彼はそこで数々の秘儀知識を習得したが、1900年に起きた内紛で師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と共に追放されると、[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲し自身の魔術実践スタイルに磨きをかけた。その間に世界一周旅行もして見聞を広めた。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在からの幻聴を「[[法の書]]」として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点となった。
=== 1905~1923年(壮年期) ===
また、フォロワーには[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがおり、[[ビートルズ]]の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにもその姿が見られる。▼
[[ファイル:Crowley Family.png|サムネイル|282x282px|妻ローズと息女ローラ|代替文=]]
ハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争から師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。その中で長女リリスが誕生し喜びに包まれた。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、[[ヒマラヤ山脈]]で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。その為、クロウリーは愛娘を失った悲嘆の矛先をローズに向けてしまい二人の仲も急速に冷え込む事になった。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称して[[セレマ|セレマ思想]]の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。1912年になるとドイツのオカルト団体「[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]」の指導者{{仮リンク|テオドール・ロイス|en|Theodor Reuss}}に見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。1920年にクロウリーは念願の{{仮リンク|セレマ修道院|en|Abbey of Thelema}}を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を送った。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。
=== 1924~1947年(中高年~老年期) ===
イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。前年に死去した[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、1924年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂団の同志に招かれての活動を続けた。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の運営に力を注ぐようになった。[[セレマ神秘主義|セレマ思想]]の伝道にも取り組み続けた。なお、これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産はどんどん目減りしていった。
1939年の[[第二次世界大戦]]勃発直前にクロウリーは母国イギリスに帰還した。この頃のすでに還暦を過ぎたクロウリーはほとんど無一文になっていたので、各地の弟子達に生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。晩年のクロウリーはその波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に、英国[[イーストサセックス]]州の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。享年72歳であった。
=== 没後の世評 ===
[[ファイル:Aleister Crowley abode of Chaos.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|混沌の邸宅]]
生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[異端|現代異端思想]]と[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産「汝の意思することを行なえ」をモットーとする[[セレマ|セレマ思想]]は、その後の[[ウイッカ|ウィッカ]]、[[ネオペイガニズム]]、[[ケイオスマジック]]、そして[[サタニズム]]の根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。
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== 年譜 ==
* [[1875年]][[10月12日]] -
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* 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った魔術結社・[[黄金の夜明け団]]のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。
* 1900年 - 黄金の夜明け団から師[[マグレガー・メイザース|M・メイザース]]とともに追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、[[セイロン島]]を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。
*1902年 - インドから[[ヒマラヤ山脈]]に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。
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* 1905年 - 師[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と仲違いする。長女リリスが誕生する。
* [[1907年]] - ジョージ・セシル・ジョーンズと共同で神秘主義結社[[銀の星]](A∴A∴)を創設。機関誌『春秋分点』を編集し、同誌にて多くの詩や魔術文書を発表する。▼
*1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後に、[[ビルマ]]、中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む。
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*1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し数々の魔術儀式を行なう。
* 1912年 - ドイツの秘教団体・[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]](O.T.O.)の指導者テオドール・ロイスに見込まれてイギリス支部長となる。団内儀式と教義作成もまかされるようになった。
*1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。
*1923年 - O.T.O.の指導者ロイスが死去しその後継者に指名されて団体を受け継ぐ。以降のクロウリーはこの東方聖堂団(O.T.O.)の運営と発展に力を注いだ。
*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。
*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー|I・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。
*1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。
*1939年 - 第二次世界大戦勃発前にイギリスに帰還する。
* 1947年12月1日 - 英国[[イーストサセックス]]州[[ヘイスティングス]]の地で死去。享年72歳。
== 魔法名 ==
魔術結社内で用いられる個人名。ラテン語の銘(モットー)を用いることが多い。
* {{Llang|en|Perdurabo|ペルデュラボー}}<!--ラテン語だが英語読み併記で特殊なラテン文字も含まないので言語コードを英語に指定--> ({{Unicode|0°=0<sup>□</sup>}}, [[黄金の夜明け団|G∴D∴]]) - [[ラテン語]]で「われ耐え忍ばん」。
* {{Llang|grc|ΟΥ ΜΗ|オミクロン・ユプシロン ミュー・エータ}} ({{Unicode|7°=4<sup>□</sup>}}, [[銀の星|A∴A∴]])
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== 登場作品 ==
* [[トマス・ウィーラー]]『[[神秘結社アルカーヌム]]』
* [[ランダル・コリンズ]]『[[シャーロック・ホームズ対オカルト怪人]]』
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* [[鎌池和馬]]『[[とある魔術の禁書目録]]』 - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アレイスター本人が現代まで生き延びたという設定であり、作品の根幹を担うキーキャラクターである。アニメ版の担当[[声優]]は[[関俊彦]]。
* [[氷室奈美]]『タロットウォーズ』 - 死後のクロウリーが幽体(アストラル体)で登場。
* [[星野桂]]『[[D.Gray-man]]』 - 吸血鬼のような[[エクソシスト]]がアレイスター・クロウリー三世という名で登場。作者はキャラクター設定において、「[[ユースケ・サンタマリア]]がモデルだ」と公言している。
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* [[外薗昌也]]『[[犬神 (漫画)|犬神]]』 - 作中に登場する「23細胞」命名の由来となる「生命の樹宇宙論」の提唱者。
* 『[[Bible Black|新・バイブルブラック]]』 - アレイスターの孫娘、ジョディ・クロウリーが登場。
* 『[[真・女神転生II]]』 - 魔界ネツァクのボスとして登場。
* 『[[木曜の怪談]]』 - 怪奇倶楽部の小学生編でクラスターに解説された。
* 「Mr. Crowley」 - [[オジー・オズボーン]]の楽曲。アルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説]]』に収録。
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