「戦国時代 (中国)」の版間の差分

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[[File:De stridande staterna animering.gif|thumb|256x256px|戦国時代の勢力変遷<ref>[http://www.mdbg.net/chindict/chindict.php?page=worddict&wdrst=0&wdqb=战国策 ”MDBG”], Sökord: 战国策</ref>|代替文=]]
[[File:ZH-战国七雄地图.jpg|thumb|[[戦国七雄]]|代替文=|240x240ピクセル]]
[[古代中国]]の'''戦国時代'''(せんごくじだい)(中国語:戰國時期|[[ピン音|拼音]]:Zhànguó shíqī)は、[[周|東周春秋戦国時代]]または'''[[春秋戦国周|東周時代]]'''の後半期に区分される時代であり「[[晋 (春秋)|晋]]」が分裂した紀元前5世紀から「[[秦]]」が中国を統一する紀元前221年までの期間を指す。七つの大国とその他の中小国がおよそ200年に渡って興亡を繰り広げた。この戦国時代の呼称は[[前漢|前漢期]]に編纂された歴史書「[[戦国策]]」から取られている。
 
[[春秋時代]]と戦国時代の境目を何時とするかには七つの諸説があり、最も広く採用されてるのは、[[晋 (春秋)|晋]]が[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]]の三国に分裂した紀元前453年とする説と、その三国が[[周王朝]]から正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説である。なお、由来元である「[[戦国策]]」は、晋の分裂前に発生した紀元前455年の{{仮リンク|晋陽の戦い|zh|晉陽之戰}}から書き始められている。
 
[[春秋時代]]の頃は大小合わせて二百以上の諸侯国が存在し、[[周王朝]]の権威と秩序が重んじられる風潮が残っていた事から、相手国を征服しても滅ぼさずに属国とする慣わしがあった。しかし、時代が下って周王朝の権威が失われると、小国は次々と滅ぼされて大国に吸収されるようになり、戦国時代に突入した後は七つの大国と十数の小国を残すのみとなった。弱肉強食の乱世を勝ち残った[[秦]]・[[斉 (春秋)|斉]]・[[楚 (春秋)|楚]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[燕 (春秋)|燕]]の七ヶ国は'''[[戦国七雄]]'''と称された。{{main|春秋戦国時代}}{{中国の歴史}}
 
== 開幕情勢 ==
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[[ファイル:1965-8 1965 渭河平原麦田.jpg|サムネイル|219x219ピクセル|関中]]
[[ファイル:Zhengguo Canal Map zh.png|サムネイル|160x160ピクセル|鄭国渠]]
戦国時代開幕時初期凡庸な大国河西(陝西省東部)を魏過ぎなかっ制圧され、また[[河套]](陝西省北方)の異民族にも押されて衰退していた秦が、終盤には覇権国と化し中国統一を成し遂げた決定的な要因としては、(1)[[商鞅]]による法治化、(2)[[関中]]の地理地形、(3)[[鄭国渠]]の建設の三点が挙げられる。特に[[孝公 (秦)|孝公]]が採用した商鞅の政治改革による法治国家化の影響は大きく、これによって秦は一気に強国化し、以後も他国に対して優勢であり続けた。国家間の競争の中で「'''[[法治国家|法治]]'''」の政治体制を持つ事のアドバンテージは明らかであったが、その徹底は門閥貴族の既得権益と衝突する事になるので実際には実現は難しく、また[[徳治主義|徳治]]と称される既存の身分秩序を重視する[[儒教|儒家]]の影響を受けた政治環境でも風当たりが強かった。
 
「魏」は[[李克]]による法治化で勢力を伸ばしたが、それを採用した[[文侯 (魏)|文侯]]が死ぬと貴族達の利権が幅を利かす旧体制に逆戻りした。同時に法家の[[呉起]]も楚へと去らせた。その後の[[恵王 (魏)|恵王]]は[[孟子]]を始めとする儒家を重んじ、かの[[商鞅]]を秦へと去らせた。「楚」は[[悼王 (楚)|悼王]]が呉起を迎え入れて法治を断行し大いに成果を上げたが、悼王が死ぬと貴族達の反乱が起き法治は否定され、都で利権を貪る貴族の意向が優先されて広大な地方の発展が進まない旧態依然の国家のままとなった。後年には法家の[[李斯]]も秦へと去らせた。「斉」は[[稷下の学士]]を抱える先進的な学問地域であったが、ここでも[[荀子]]を始めとする儒家が重んじられ、また国内に割拠する大夫(地方領主)の力が強かった事から中央集権的な思想を持つ法治は倦厭された。門閥貴族体制が強固な「韓」は法家の[[申不害]]が整備した法治制度を一代で終わらせ、また後年の[[韓非子]]も自ら手放してその才能は秦で活かされている。
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他の諸国と異なり、{{要出典範囲|秦で法治が根付く事が出来た要因としては、貴族達の世襲権力と既得権益体制が比較的強固で無かった事が挙げられており、その背景には建国初期から続く「'''[[殉死]]'''」の風習があった。秦を覇者に押し上げた名君の[[穆公 (秦)|穆公]]が死去した際に多数の名臣を道連れにし国家を衰退させたとして悪名高い殉死であるが、他方で権力構造の新陳代謝を促し世襲利権と既得権益の連鎖を断ち切るという効果もあった。秦では繰り返し殉死禁止令が出されているが、名誉と体面に関わる重圧から殉死を決断する家臣は後を絶たなかった。[[始皇帝]]が造らせた[[兵馬俑]]の一体一体は家臣と思われる者がモデルになってるので、これは殉死の免除を促す狙いがあったとも考えられており、つまり戦国時代末期までこの問題が残っていた事が分かる。君主のリーダーシップで実現した法治を末代まで定着させるには、貴族という既得権益者達の利権構造とその世襲連鎖を弱める必要があり、秦では殉死の風習が結果的にその追い風となっていた。他の国々ではそうはいかず、また当時強い影響力を持っていた儒家の徳治思想は既得権益層を保護したので法治化を妨げる事になった。|date=2019年5月}}
 
法治の徹底は軍隊内の規律も高めて将兵を精強にし恩賞と懲罰の公平さは士気を引き上げた。秦の領地であった「'''[[関中]]'''」はその名の通り周囲を山峡に囲まれて守りに適しており、秦の強大化を恐れた諸国連合軍の反攻を幾度となくはね返して「斉」の様な覇権国からの転落劇を回避出来た。こうして秦軍は諸国随一の戦力を持ち、隣接する韓と魏は風前の灯となったが、当時の農業生産力による補給上の問題から更に遠方にある趙、楚、斉、燕を平定するだけの遠征は不可能であり、数十万人規模の軍勢が斉や燕および楚の東端にまで到達する事態は想定されていなかった。これを可能にしたのが咸陽北部の荒地を潤して関中を一大穀倉地帯に変え、秦国内の穀物収穫量を倍以上に飛躍させた長大な灌漑用水路である「'''[[鄭国渠]]'''」の建設であった。それまでに類を見ない膨大な食糧の備蓄による兵站の確立が、従来は不可能だった中国全土への大規模な遠征を初めて可能にして、秦の中国統一各地に直接兵力と行政機構実現する送り込むという、秦王政が描いた中央集権国家化になっ業を成功へと導いた。
 
== 諸子百家 ==