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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2016年10月
| 脚注の不足 = 2016年10月
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{{基礎情報 君主
| 人名 = ゼノン
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| サイン =
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'''ゼノン'''(Ζήνων, Zenon, [[426年]] - [[491年]][[4月9日]])は、[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]](在位:[[474年]] - 491年)。[[アナトリア半島]][[イサウリア]]地方の少数民族{{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長で、名は'''タラシコデッサ'''。
 
== 概要 ==
 
ゼノンは旧名を'''タラシコデッサ'''という{{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長で、[[5世紀]]に[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]]となった人物。ゼノンの時代に西方正帝([[西ローマ帝国|西方]]担当の皇帝)が廃止されたため、東方正帝(東方担当の皇帝)だったゼノンは[[ローマ帝国]]で唯一の正帝となった。皇帝としての治世中には数々の陰謀や内乱があったが、ゼノンは[[491年]]に没するまで自身の地位を守ることに成功した<ref name="オストロゴルスキー2001p88" />。
 
== 生涯 ==
=== 即位以前 ===
皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]の下で実権を握っていた[[ゲルマン人]]の[[アスパル]]父子を倒した功績で、皇女アリアドネの婿となり、レオ2世とヒラリアの1男1女を儲ける。なお、前妻アルカディアとの間にゼノンという息子が、弟にゼノンの死後に皇位を狙って反乱を起こして敗れたロンギヌスがいる。レオ1世の死後アリアドネとの息子レオ2世の後見役となるが、レオ2世が夭折したため自ら即位。即位間もない475年、反乱によって[[バシリスクス]]に帝位を追われるが、1年後には小アジアからイサウリア族を率いてコンスタンティノポリスへ攻め寄せ、帝位を奪回することに成功した。
ゼノンは[[アナトリア半島]][[イサウリア]]地方の少数民族{{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長だった人物で、旧名は'''タラシコデッサ'''だった<ref name="尚樹1999p123">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.123。</ref>。
 
ゼノン(当時はタラシコデッサ)の初期の経歴は不明だが、[[460年代]]になってイサウリア人の大規模な雇用を開始した東ローマ皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]によってゼノンも雇用された。ゼノンは[[466年]]に皇帝レオ1世と不仲であった[[アラン人]]の将軍[[アスパル]]の長男{{仮リンク|アルダブリウス (447年の執政官)|en|Ardabur (consul 447)|label=アルダブリウス}}を[[サーサーン朝]]との内通の嫌疑で告発することでレオ1世に取り入り<ref name="尚樹1999p123" />、レオ1世の娘{{仮リンク|アエリア・アリアドネ|en|Ariadne (empress)}}と結婚してギリシア語で'''ゼノン'''と名乗るようになった<ref name="尚樹1999p123" />。[[467年]]にはアエリア・アリアドネとの間に[[レオ2世 (東ローマ皇帝)|レオ2世]]が生まれ<ref name="尚樹1999p124" />、まもなくゼノンは[[トラキア]]の軍司令官に取り立てられ<ref name="尚樹1999p124" />、[[469年]]には最高官職である[[執政官]]にも就任した<ref name="尚樹1999p124" />。
 
しかしゼノンは[[469年]]にトラキアで反乱鎮圧に失敗し、命からがら逃亡する醜態をさらして軍司令官から罷免されてしまう<ref name="尚樹1999p124">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.124。</ref>。[[468年]]には皇帝レオ1世も、先に失脚させたアスパルの反対を押し切って[[アフリカ]]へ[[ヴァンダル族]]討伐の大船団{{Refnest|group="注"|指揮官はレオ1世の義弟[[バシリスクス]]<ref name="尚樹1999p124" />。}}を派遣して、船団の半数を失う大敗を喫していた<ref name="尚樹1999p124" /><ref name="オストロゴルスキー2001p85" />。こうしたレオ1世とゼノンの失態により東ローマ帝国では再びアスパルが名声を取り戻し<ref name="オストロゴルスキー2001p85">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.85。</ref><ref name="パランク1976p129">[[#パランク1976|パランク1976]]、p.129。</ref>、アスパルの次男{{仮リンク|ユリウス・パトリキウス|en|Patricius (Caesar)}}がレオ1世の娘{{仮リンク|レオンティア|en|Leontia Porphyrogenita}}と婚約して[[副帝]]と宣言された<ref name="オストロゴルスキー2001p85" /><ref name="尚樹1999pp124-125">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.124-125。</ref>。ゼノンは[[471年]]に[[コンスタンティノープル]]の市民を扇動してアスパルとアルダブリウスを襲わせ<ref group="注">アスパルとアルダブリウスは[[アリウス派]]を信仰していたので、[[カルケドン派]]の市民はアリウス派の皇帝が誕生することを恐れていた。</ref>、[[カルケドン]]の[[聖エウフェミア]]教会へ逃れたアスパルとアルダブリウスを殺害して競争者を取り除いた。
 
[[474年]]にレオ1世が死ぬと、ゼノンとレオ2世の親子が新たに皇帝を名乗ったが、レオ2世は同年冬に死亡した<ref name="尚樹1999pp126-127">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.126-127。</ref>。
 
=== 即位後 ===
 
即位した当初からゼノンの地位は不安定だった<ref name="尚樹1999p127">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.127。</ref>。コンスタンティノープルの市民はイサウリア人を野蛮人とみなしていたのでイサウリア人のゼノンに対して好感を持っていなかったし<ref name="尚樹1999p127" /><ref name="オストロゴルスキー2001p86">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.86。</ref>{{Refnest|group="注"|ゼノンが連れてきたイサウリア人は、アスパルが率いていたゴート人たちと比べると遙かにローマ化の度合いが低かった<ref name="オストロゴルスキー2001p86" />。}}、貴族層もゼノンを成り上がり者として軽蔑していた<ref name="尚樹1999p127" />。軍隊にもゼノンが殺害したアスパルと結びつきが強い[[ゴート人]]の兵士が多かった<ref name="尚樹1999p127" />。
 
==== バシリスクスらによる反乱(475年) ====
 
即位して間もない[[475年]]、ゼノンに対する大規模な反乱が起きた<ref name="尚樹1999p127" /><ref name="オストロゴルスキー2001p86" />。反乱を起こしたのはレオ1世の妻{{仮リンク|ウェリナ|en|Verina}}、レオ1世の義弟[[バシリスクス]]、バシリスクスの甥{{仮リンク|アルマトゥス|en|Armatus}}、ゼノンの盟友だったイサウリア人の将軍{{仮リンク|イルス|en|Illus}}、アスパルの姻戚で「全ゴート人の王」と呼ばれていたゴート人の将軍[[テオドリック・ストラボ]]らの連合勢力だった<ref name="尚樹1999p127" />。ゼノンは反乱軍と対決することを避け、可能な限りの金銭をかき集めて故郷[[イサウリア]]へと逃亡した<ref name="尚樹1999pp127-128">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.127-128。</ref>。このときゼノンの弟{{仮リンク|ロンギヌス (486年の執政官)|en|Longinus (consul 486)|label=ロンギヌス}}が逃げ遅れてイルスの捕虜となった。反乱軍は抵抗にあうことなくコンスタンティノープルへと入城したが、コンスタンティノープルの金銭を当てにしていた連合勢力は当面の費用に困ることになった<ref name="尚樹1999p128">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.128。</ref>。ウェリナは彼女の愛人を皇帝にすることを弟のバシリスクスに求めたが、バシリスクスは自ら皇帝を名乗り、息子の{{仮リンク|マルクス (バシリスクスの子)|en|Marcus (son of Basiliscus)|label=マルクス}}を共同皇帝に任命し、ウェリナの愛人を処刑した<ref name="尚樹1999pp127-128" />。皇帝となったバシリスクスは甥の{{仮リンク|アルマトゥス|en|Armatus}}にも[[マギステル・ミリトゥム]]の地位を与えようとしたが、これはアスパルの後任としてマギステル・ミリトゥムの地位にあったテオドリック・ストラボを激怒させた<ref name="尚樹1999p127" />。またバシリスクスはコンスタンティノープルで嫌われていたイサウリア人を虐殺したが、これはイサウリア人の将軍イルスに不満を抱かせることになった<ref name="尚樹1999p127" />。バシリスクスの陣営からはテオドリック・ストラボが離脱し、ゼノン討伐のためにイサウリアへと向かっていたイルスもゼノンに寝返ってゼノンとともにコンスタンティノープルへと進軍を開始した<ref name="尚樹1999p128" />。バシリスクスは防戦のためにアルマトゥスを派遣したが、ゼノンはアルマトゥスに[[マギステル・ミリトゥム]]の地位とアルマトゥスの息子{{仮リンク|バシリスクス (アルマトゥスの子)|en|Basiliscus (Caesar)|label=バシリスクス}}を[[副帝]]に取り立てることを約束してアルマトゥスを寝返らせた<ref name="尚樹1999p128" />。翌[[476年]]、ゼノンは何の抵抗も受けずにコンスタンティノープルへと入城し、バシリスクスとマルクスの両皇帝を捕らえて処刑した<ref name="尚樹1999p128" />。ゼノンはアルマトゥスとバシリスクスの親子を副帝に取り立てたが、翌[[477年]]にはアルマトゥスを暗殺し、子のバシリスクスも[[修道院]]へ入れて副帝の地位を剥奪した<ref name="尚樹1999p128" />。イルスはゼノンの弟ロンギヌスを人質として確保していたこともあり元の地位に留まることができた。
 
ゼノンは反乱に参加していたテオドリック・ストラボをマギステル・ミリトゥムから罷免し、代わりに[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]をマギステル・ミリトゥムに任命した<ref name="尚樹1999p128" />。ゼノンはテオドリックを[[パトリキ]](貴族)に取り立て<ref name="岡地1995pp82-83">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.82-83。</ref><ref name="尚樹1999p128" />、テオドリック・ストラボの討伐を命じた<ref name="尚樹1999p128" />。しかしテオドリックがゴート人を率いて戦場へと到着すると、合流するはずであったローマ人の軍団は到着していなかった<ref name="尚樹1999pp128-129">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.128-129。</ref>。何の援軍もなしにテオドリック・ストラボの軍団と対峙することになったテオドリックはテオドリック・ストラボによって巧みに説得され、テオドリック・ストラボの陣営へと降った<ref name="尚樹1999p129">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.129。</ref>。ゼノンは初め[[金]]1000リーブラ、[[銀]]1万リーブラ、年額1万[[ソリドゥス金貨|ソリドゥス]]の条件を提示してテオドリック・ストラボからテオドリックを切り離そうと試みたが、この交渉は失敗に終わった<ref name="尚樹1999p129" />。次にゼノンはテオドリック・ストラボとの交渉を行い、[[478年]]に彼をマギステル・ミリトゥムの地位に復帰させる条件でテオドリック・ストラボとの和解を実現した<ref name="尚樹1999p129" />。
 
==== 西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位(476年) ====
 
[[476年]]、[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]において[[ローマ皇帝]][[ロムルス・アウグストゥルス]]が廃位された<ref name="パランク1976p130">[[#パランク1976|パランク1976]]、p.130。</ref>。レオ1世は[[474年]]に姻戚の[[ユリウス・ネポス]]に西ローマ皇帝を名乗らせてイタリア本土へと送り込んでいたが<ref name="パランク1976p130" /><ref name="尚樹1999p130">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.130。</ref>、結局はネポスをイタリア本土の人々に上手く押し付けることができず<ref name="パランク1976p130" />、ユリウス・ネポスは[[475年]]に[[西ローマ帝国]]の軍司令官[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]によって追放され<ref name="パランク1976p130" />、代わりにオレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスがローマ皇帝として宣言されていた<ref name="パランク1976p130" />。しかしゼノンはロムルス・アウグストゥルスを正当な西方正帝とは認識していなかったし、イタリアを追放されたユリウス・ネポスも逃亡先の[[ダルマティア]]で依然として西ローマ皇帝を名乗り続けていたので、コンスタンティノープルの宮廷から見ればロムルス・アウグストゥルスの廃位は正当な行為だった<ref name="パランク1976p130" />。
 
同年中に首都[[ローマ]]の[[元老院 (ローマ)|元老院]]からゼノンのもとへ「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする元老院決議が、西ローマ皇帝の帝冠や紫衣とともに届けられた。ゼノンはロムルス・アウグストゥルスの廃位に功績のあった{{仮リンク|スキリア人|en|Scirii}}の将軍[[オドアケル]]に報奨として[[パトリキ]]の地位およびローマ皇帝の代官としてイタリア本土を統治する法的権限を与えた<ref name="オストロゴルスキー2001p86" /><ref name="パランク1976p127">[[#パランク1976|パランク1976]]、p.127。</ref>。使者との会見にはダルマティアで西ローマ皇帝を名乗っていたユリウス・ネポスも同席していたので<ref name="尚樹1999p130" />、ゼノンはユリウス・ネポスの顔も立てて{{Refnest|group="注"|ゼノンはユリウス・ネポスの風評が悪いことを気にしており、ユリウス・ネポスを全面的には支持していなかった<ref name="尚樹1999p130" />。}}、ユリウス・ネポスを西ローマ皇帝として受け入れてはどうかと提案した<ref name="尚樹1999p130" />。元老院はゼノンの提案に反対したが、オドアケルは妥協してゼノンの提案を受け入れた。オドアケルはユリウス・ネポスへの忠誠の証として新たに発行した[[金貨]]にユリウス・ネポスの名前と[[肖像]]を刻印したが、結局はユリウス・ネポスをイタリア本土へ迎え入れようとはしなかった。[[480年]]にはユリウス・ネポスも何者かによって殺害されたため、東方担当の皇帝であるゼノンがローマ帝国で唯一の皇帝となった。オドアケルはゼノンのためにユリウス・ネポス没後のダルマティアの混乱を回復し<ref name="リシェ1974p90" /><ref name="ブリタニカ国際大百科事典_オドアケル" />、[[ヴァンダル王国]]の王[[ガイセリック]]と交渉して[[シチリア島]]の一部を西ローマ帝国へ返還させ<ref name="リシェ1974p90" />、[[487年]]にはイタリアへ侵入した{{仮リンク|ルギー族|en|Rugii}}の王{{仮リンク|ファワ|en|Feletheus}}を降伏させて連れ去られていたローマ市民を取り戻した<ref name="リシェ1974p90" /><ref name="ブリタニカ国際大百科事典_オドアケル">[オドアケル]『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』[[TBSブリタニカ]]。</ref>。こうしてゼノンとオドアケルは少なくとも[[488年]]まで良好な関係を築いた<ref name="リシェ1974p90">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.90。</ref>
 
==== レオンティアとマルキアヌスらによる反乱(479年) ====
 
[[479年]]、今度はレオ1世の娘{{仮リンク|レオンティア|en|Leontia Porphyrogenita}}とレオンティアの夫{{仮リンク|マルキアヌス (アンテミウスの子)|en|Marcian (usurper)|label=マルキアヌス}}がゼノンに対して反乱を起こした<ref name="尚樹1999p131">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.131。</ref>{{Refnest|group="注"|レオンティアはアスパルの次男ユリウス・パトリキウスと婚約していたが<ref name="尚樹1999pp124-125">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.124-125。</ref>、ゼノンがアスパルを殺害した後に婚姻は無効とされ<ref name="尚樹1999p125">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.125。</ref>、後にマルキアヌスと結婚していた<ref name="尚樹1999p127" />。}}。守備隊の支持を得た反乱軍は一時はコンスタンティノープルの掌握に成功しかけたが、イサウリア人を引き連れて救援に訪れた将軍イルスの活躍によって鎮圧された<ref name="尚樹1999p131" />。マルキアヌスは捕らえられ、聖職者にされて[[カッパドキア]]へ追放された<ref name="尚樹1999p131" />。このときウェリナが暗躍してイルスの暗殺を企てたが、イルスは彼女の企てを見破りウェリナを捕らえて牢に入れた<ref name="尚樹1999p131" />。ウェリナの娘であったゼノンの妻アエリア・アリアドネは母ウェリナの解放を求めたが、これをイルスが拒絶したためアリアドネはイルスの殺害を企てた<ref name="尚樹1999p131" />。イルスはゼノンと相談して東方軍司令官に就任することでコンスタンティノープルを離れることにした<ref name="尚樹1999p131" />。
 
ゼノンはコンスタンティノープルにイルスより遅れて到着したテオドリック・ストラボに反乱への加担の疑いをかけてマギステル・ミリトゥムから罷免した<ref name="尚樹1999p131" />。これを不満としたテオドリック・ストラボはテオドリックを従えて[[トラキア]]を荒らし回った<ref name="尚樹1999p131" />。ゼノンは[[ブルガール人]]にトラキアを与えることを約束してテオドリック・ストラボの討伐を依頼したが、ブルガール人はテオドリック・ストラボとテオドリックによって撃退されてしまった。しかし[[481年]]、テオドリック・ストラボは[[ギリシャ]]への移動中に野営地で事故死した<ref name="尚樹1999p131" />。ゼノンはテオドリックとの和解交渉を開始し、テオドリックをマギステル・ミリトゥムの地位に復帰させる条件で和解を成立させた<ref name="尚樹1999p131" />。ゼノンは[[484年]]にはテオドリックに最高官職である[[執政官]]の地位を与え<ref name="岡地1995pp82-83" /><ref name="尚樹1999p131" />、[[485年]]にはテオドリックを養子として迎え入れて皇帝の一族の証である「[[フラウィウス]]」の[[ノーメン]]を与えるなど<ref>{{Cite book|和書|author=[[佐藤彰一]]・[[池上俊一]]|year=2008|title=世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784122050983|page=54-55}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[ジュール・ミシュレ]]|translator=[[桐村泰次]]|year=2016|title=フランス史[中世]Ⅰ|publisher=[[論創社]]|isbn=9784846015541|page=193}}</ref>、テオドリックとの関係の維持に努めた<ref name="パランク1976p131">[[#パランク1976|パランク1976]]、p.131。</ref>。
 
==== イルスとレオンティウスらによる反乱(484年) ====
 
一方、東方軍司令官に任命されたイサウリア人の将軍イルスは、東方で自分の地位を固めていた<ref name="尚樹1999p131" />。イルスはウェリナとロンギヌスを人質としたままだったので、ゼノンはイサウリア人の将軍{{仮リンク|レオンティウス|en|Leontius (usurper)}}を使者として派遣してイルスに人質の解放を求めた<ref name="尚樹1999p132" />。しかしレオンティウスはイルスを説得してウェリナを解放させるのではなくウェリナに説得されてウェリナとイルスの仲を取り持ち、イルスも人質の解放を拒んだため、ゼノンはコンスタンティノープルに残っていたイルスの一族から財産を没収して彼らをコンスタンティノープルから追放した<ref name="尚樹1999p132" />。これに対してウェリナとイルスは[[484年]]にゼノンの廃位とレオンティウスの皇帝就任とを宣言してゼノンへの反乱を起こした<ref name="尚樹1999p132" />。ゼノンはイルスを東方軍司令官から解任して新たに[[スキタイ人]]の将軍{{仮リンク|スキタイ人のヨハネス (498年の執政官)|en|John the Scythian|label=ヨハネス}}を東方軍司令官に任命し<ref name="尚樹1999p132">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.132。</ref>、ヨハネスにテオドリックが率いていたゴート人の軍団を与えてイルスとレオンティウスの討伐を命じた<ref name="尚樹1999p132" />。イルスとレオンティウスは故郷のイサウリアで籠城し、ヨハネスはイルスとレオンティウスの攻略に4年を費やした<ref name="尚樹1999p132" />。
 
==== テオドリックとの不和(486年) ====
 
484年に起こったイルスとレオンティウスによる反乱では、ゼノンはテオドリックの裏切りを警戒してテオドリックをコンスタンティノープルの宮廷に留め置き、かわりにスキタイ人の将軍ヨハネスにテオドリックに従っていたゴート人の軍団の指揮を任せた<ref name="尚樹1999p132">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.132。</ref>。しかし、このことがかえってテオドリックの感情を害することになった<ref name="尚樹1999p132" />。さらにゼノンがイサウリア人を懐柔しようとしてイサウリア人の将軍[[コトメネス]]にマギステル・ミリトゥムの地位を与えると約束したとき<ref name="尚樹1999p132" />、ついにはテオドリックの我慢も限界に達した。[[486年]]にテオドリックはトラキアを荒らし回り<ref name="尚樹1999p132" />、[[487年]]にはコンスタンティノープルを攻囲した<ref name="尚樹1999p132" />。ゼノンはテオドリックに和解の提案を行い、テオドリックを[[副帝]]として[[西ローマ帝国|帝国西半]]の統治を委ねるかわりに、レオンティウスの反乱を支持していたとされるイタリア領主[[オドアケル]]の討伐を依頼した{{Refnest|group="注"|実際にオドアケルとイルスとの間に密約があったとも<ref name="尚樹1999pp131-132">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.131-132。</ref>、テオドリックを説得するためオドアケルに着せられた濡れ衣であったとも言われる<ref name="リシェ1974p90" />。}}。テオドリックはゼノンの提案に合意したが<ref name="岡地1995p83">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.83。</ref>、ゴート人の多くはテオドリックと分かれて東ローマ帝国に残ることを選択した<ref name="岡地1995p81">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.81。</ref>。[[488年]]、テオドリックは彼に同意した僅かな者たちだけでイタリアへ向けて出発していった<ref name="岡地1995p81" />{{Refnest|group="注"|このときテオドリックが[[イタリア遠征]]のために新たに組織した集団が後に[[東ゴート人]]と呼ばれるようになるのだが、この集団はゴート人を中心としつつも[[ローマ人]]や{{仮リンク|ルギー族|en|Rugii}}等からなる混成集団であり、もともとはゴート人ではなかった者も多かった<ref name="岡地1995p81" />。すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団({{仮リンク|グルトゥンギ|en|Greuthungi}})と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである<ref name="岡地1995pp80-81">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.80-81。</ref><ref name="南川2013pp159-161">{{Cite book|和書|author=[[南川高志]]|year=2013|title=新・ローマ帝国衰亡史|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784004314264|page=159-161}}</ref>。これは[[西ゴート人]]と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的に[[イスパニア]]に定着した西ゴート人と[[アラリック1世]]が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団({{仮リンク|テルウィンギ|en|Thervingi}})は異なる集団だった<ref name="南川2013pp159-161" />。}}。
 
[[491年]]、ゼノンはテオドリックの[[イタリア遠征]]の結果を見ることなく波乱に満ちた生涯を終えた<ref name="尚樹1999p132" />。
 
== 宗教政策 ==
{{main|ヘノティコン|アカキオスの分離}}
 
当時の東ローマ帝国では、コンスタンティノープルでは[[両性説]]が、地方の属州都市では[[単性説]]が優勢だった<ref name="オストロゴルスキー2001pp87-88">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.87-88。</ref>。ゼノン自身は単性説に同情的だったようだが<ref name="尚樹1999p133">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.133。</ref>、単性説を断罪した[[451年]]の[[カルケドン公会議]]の決定を無視することもできず<ref name="オストロゴルスキー2001pp87-88" />、ゼノンは単性説と両性説に折衷案を持ち込んで妥協を図ろうとした<ref name="オストロゴルスキー2001p88">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.88。</ref>。
 
ゼノンは[[482年]]に、[[コンスタンティノープル総主教]]{{仮リンク|アカキオス (コンスタンティノープル総主教)|en|Acacius of Constantinople|label=アカキオス}}の同意を得て<ref name="オストロゴルスキー2001p88" />、単性とも両性とも明言しない曖昧な『信仰統一勅令』({{仮リンク|ヘノティコン|en|Henotikon}})を発した<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="尚樹1999p133" /><ref name="ルメルル2003pp53-54">[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、pp.53-54。</ref><ref name="シンメルペニッヒ2017p60">{{Cite book|和書|author=[[ベルンハルト・シンメルペニッヒ]]|translator=[[甚野尚志]]・[[成川岳大]]・[[小林亜沙美]]|year=2017|title=ローマ教皇庁の歴史|publisher=[[刀水書房]]|isbn=9784887084322|page=60}}</ref>。しかし、この勅令は単性説派も両性説派も満足させることができないものだった<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="尚樹1999p133" /><ref name="ルメルル2003pp53-54" />。両性説派の[[ローマ教皇]][[フェリックス3世]]は『信仰統一勅令』の無効を宣言し<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="パランク1976p137">[[#パランク1976|パランク1976]]、p.137。</ref>、『信仰統一勅令』を支持するコンスタンティノープル総主教アカキオスを[[484年]]に[[破門]]した<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="尚樹1999p134">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.134。</ref><ref name="シンメルペニッヒ2017p60" /><ref name="ルメルル2003p54">[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、p.54。</ref>。アカキオスは教皇による破門宣告を無視し、教皇の名前を[[ディプティク|二枚板]]{{Refnest|group="注"|[[代祷]]や[[聖餐式]]で読み上げられる名前を記した蝶番で折り畳める二つ折りの板のこと<ref name="オストロゴルスキー2001p88" />。}}から削除してみせることで教皇に対抗した<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="ルメルル2003p54" />。こうして{{仮リンク|アカキオスの分離|en|Acacian schism}}と呼ばれるローマ教会とコンスタンティノープル教会との深刻な断交が始まり、こうした状況が30年以上も続いた<ref name="オストロゴルスキー2001p88" /><ref name="尚樹1999p134" /><ref name="シンメルペニッヒ2017p60" /><ref name="ルメルル2003p54" />。
その後も数々の謀反の陰謀などがあったにもかかわらず、皇位にあるまま生涯を終えることに成功した。ゼノンは民衆の信望も薄く、その治世は人気取りのためのばら撒き財政などに終始した。一説によるとゼノンは棺に納められた後に中で息を吹き返し、「許してくれ!」と三日間叫んだが、皆がゼノンを憎んでいたため無視してそのまま葬ったと言う<ref>ジョン・フリーリ著、長縄忠訳、鈴木董監修『イスタンブール―三つの顔をもつ帝都』2005年 [[NTT出版]] P100より。なお、同書のP126によれば、後の皇帝[[ヘラクレイオス]]は、ゼノンのようになるのを恐れ、死後三日間は棺に封をしないよう遺言したという。</ref>。
 
== 逸話 ==
ゼノンの時代に[[オドアケル]]によって[[西ローマ帝国|西方帝位]]が献上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた全[[ローマ帝国]]の皇帝となった。[[488年]]に東ゴート王の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]大王にオドアケル討伐を命じた。テオドリックはオドアケルを倒したが、すでにゼノンは[[491年]]に死去していたため、その統治権を復する事が出来なかった。
その後も数々の謀反の陰謀などがあったにもかかわらず、皇位にあるまま生涯を終えることに成功した。ゼノンは民衆の信望も薄く、その治世は人気取りのためのばら撒き財政などに終始した。一説によるとゼノンは棺に納められた後に中で息を吹き返し、「許してくれ!」と三日間叫んだが、皆がゼノンを憎んでいたため無視してそのまま葬ったと言う<ref group="注">ジョン・フリーリ著、長縄忠訳、鈴木董監修『イスタンブール―三つの顔をもつ帝都』2005年 [[NTT出版]] P100より。なお、同書のP126によれば、後の皇帝[[ヘラクレイオス]]は、ゼノンのようになるのを恐れ、死後三日間は棺に封をしないよう遺言したという。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
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{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[岡地稔]]|editor=[[佐藤彰一]]・[[早川良弥]]|year=1995|chapter=ゲルマン部族王権の成立|title=西欧中世史 [上] 継承と創造|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=4623025209|ref=岡地1995}}
* {{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・オストロゴルスキー]]|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[尚樹啓太郎]]|year=1999|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|isbn=4486014316|ref=尚樹1999}}
* {{Cite book|和書|author=[[ジャン・レミ・パランク]]|translator=[[久野浩]]|year=1976|title=末期ローマ帝国|publisher=[[白水社]]|ref=パランク1976}}
*{{Cite book|和書|author=[[ピエール・リシェ]]|translator=[[久野浩]]|year=1974|title=蛮族の侵入 ゲルマン大移動時代|publisher=[[白水社]]|ref=リシェ1974}}
* {{Cite book|和書|author=[[ポール・ルメルル]]|translator=[[西村六郎]]|year=2003|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[白水社]]|isbn=4560058709|ref=ルメルル2003}}
 
== 関連項目 ==