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|name=ユナイテッド航空232便不時着事故
|image=File:UA232precrash.gif
|Image caption=着陸直前に撮影された事故機の写真<br>(赤色で示された部分が損傷個所
|date=[[1989年]][[7月19日]]
|type=破損したエンジンの破片が全ての油圧系統を損傷し、操縦不能に陥った
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}}
 
'''ユナイテッド航空232便不時着事故'''(ユナイテッドこうくう232びんふじちゃくじこ、{{lang-en|'''United Airlines Flight 232'''}})は、[[1989年]][[7月19日]]に[[ユナイテッド航空]]の定期232便が[[アメリカ合衆国]][[アイオワ州]][[スーシティ (アイオワ州)|スーシティ]]の[[スー・ゲートウェイ空港]]に緊急着陸を試み大破した[[航空事故]]である。
 
事故機は[[マクドネル・ダグラス]]製[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10型機]]だった。[[ステープルトン国際空港]]から[[シカゴ・オヘア国際空港]]へ向けて飛行中に第2エンジンのファン・ディスクが破断し、設計上の保護水準を超えたエネルギーで破片が飛散した。これにより全ての[[油圧]]操縦系統が機能しなくなり[[操縦翼面]]を操作できなくなった。偶然、事故機にはDC-10型機の機長資格を持つ訓練審査官が[[デッドヘッド|非番で搭乗]]しており正規の乗務員と協力して操縦にあたった。パイロット達は左右2基のエンジン[[推力]]の調整により操縦を試み、機体はスー・ゲートウェイ空港まで辿り着いたものの、着陸寸前に機体姿勢が崩れて右翼端から接地して横転しながら大破炎上した。待機していた消防救助隊が直ちに救出活動を開始し、乗客乗員296人の半数以上が救助されたが最終的に112人が死亡した{{efn|name="nbDiedLater"}}。
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事故調査の結果、ファン・ディスク破砕の原因は、材料の[[チタン合金]]製造時における欠陥に起因することが判明した。この欠陥から[[疲労 (材料)|疲労]]亀裂が成長し最終的に破断に至った。ファン・ディスクは定期検査を受けていたが亀裂は見逃されていた。整備における[[ヒューマンファクター|人的要因]]の考慮が不十分だったためと結論された。
 
事故機の状況はさらに多くの犠牲者が出てもおかしくなかったため、184人が生存でき出来たことは航空界を驚かせた。事故後の[[フライトシミュレーター|シミュレーター]]試験では、油圧系統が完全に機能喪失した場合に安全に着陸させることは困難という結論に至った。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記し、本事故は[[クルー・リソース・マネジメント]]の成功例として知られることとなった。
 
== 事故当日のユナイテッド航空232便==
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機長の{{仮リンク|アルフレッド・C・ヘインズ|en|Alfred C. Haynes}} (Alfred C. Haynes) は57歳で、1956年2月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。同航空での飛行時間は29,967時間で、そのうち7,190時間がDC-10型機での飛行である{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10と[[ボーイング727]]の運航資格を保有し、1987年4月にDC-10の機長の資格を取得していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
 
副操縦士のウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) は48歳で1969年8月に[[ナショナル航空]]に入社、その後[[パンアメリカン航空]]を経て1985年12月にユナイテッド航空への転職教育を完了した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。レコーズの総飛行時間は約20,000時間で、DC-10と[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011]]の運航資格を取得していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。ユナイテッド航空でDC-10の副操縦士として665時間飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
 
航空機関士のダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) は51歳で1986年5月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。総飛行時間は15,000時間で、ユナイテッド航空入社後は航空機関士としてボーイング727で1,903時間、DC-10で33時間飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
 
当該機には、DC-10の機長の資格を持つ{{仮リンク|デニス・E・フィッチ|en|Dennis E. Fitch}} (Dennis E. Fitch) も非番で[[ファーストクラス]]に搭乗していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。フィッチは46歳で1968年1月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。同航空への入社前に、[[空軍州兵]]として1,400から1,500時間の飛行経験があった{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10の飛行時間は2,987時間であり、そのうちで1943時間を航空機関士、965時間を副操縦士、79時間を機長として飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10の訓練審査官 (Training Check Airman; TCA) の資格も保有しており、ユナイテッド航空のフライト・トレーニング・センターに勤務していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。以降、彼のことをTCA機長と呼ぶ。
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[[File:Dc10-ua2jp.png|thumb|250px|UAL232便の油圧系統の破損状況を示した模式図。]]
15時20分、乗員は[[ミネアポリス]]の航空路交通管制センター (Air Route Traffic Control Center) に無線連絡し、緊急援助と最も近い飛行場への進路誘導を要請した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。この時、管制センターは、[[デモイン国際空港]]へ向かうことを提案した{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}{{sfn|加藤|2001|p=221}}。[[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]は[[アイオワ州]]の州都で、デンバーとシカゴを結ぶ線上にあたる{{sfn|加藤|2001|p=221}}。15時22分、[[航空管制官|管制官]]は乗員にUAL232便が[[スーシティ (アイオワ州)|スーシティ]]の方角へ飛行していると知らせた{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}。そして、管制官はスーシティに向かうか尋ね、乗員はそうすると回答した{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}。UAL232便がスーシティのスー・ゲートウェイ空港に針路をとるよう、[[航空交通管制]]のレーダー誘導が始まった{{sfn|加藤|2001|p=222}}。
 
この間の15時21分、乗員は、ユナイテッド航空の運航管理部門にACARS(航空機と地上を結ぶ文字データを中心とした無線データ通信システム<ref name=encyclopedia-414/>)でメッセージを送信した{{sfn|加藤|2001|pp=221–222}}。そして無線交信を要請し、2分後に交信に成功した{{sfn|加藤|2001|p=222}}。15時25分、乗員は運航管理部門との交信において同航空の整備施設に直ちに繋いでほしいと要請し、同時に救難信号の「[[メーデー (遭難信号)|メーデー]]」を発信した{{sfn|加藤|2001|p=222}}。
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=== 最終進入まで ===
15時51分、管制官はUAL232便が空港の北21マイル(約39キロメートル)の地点にいると知らせた{{sfn|加藤|2001|p=230}}。続けて、旋回を少し広げて経路を左へ向けることを求めた{{sfn|加藤|2001|p=230}}{{sfn|NTSB|1990|p=22}}。これは、UAL232便が最終進入経路に入るためであり、当該機を市街地から遠ざけることもできるためであった{{sfn|加藤|2001|p=230}}。これに対し機長は、何であれ当該機を市街地から離して欲しいと応答した{{sfn|加藤|2001|p=230}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=10}}。数秒後、管制官はUAL232便に方位180度へ旋回するよう求めた{{sfn|加藤|2001|p=230}}。15時52分には進行方向右側に高さ約100メートル前後の障害物があると注意喚起した{{sfn|加藤|2001|p=230}}。続けて、管制官はどの程度急な右旋回が可能か質問した{{sfn|加藤|2001|p=231}}。機長は[[ローリング|バンク]]角30度を試みていると答えたが、乗員の1人はそんな急バンクはできないと発言している{{sfn|加藤|2001|p=231}}。
 
15時55分ごろ、機長は「放送して彼らにあと4分と伝えよ」と指示{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。副操縦士が管制官に「あと3、4分で到着」と通信したが、機長はすぐに「放送、放送。乗客に伝えよ」と正した{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。これを受けて航空機関士が「あと4分で着陸」と機内放送した{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。
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また、1歳11か月の子供と搭乗していた母親は次のように語った{{sfn|マクファーソン|1999|p=364}}:
{{Quotation|息子が宙に投げ出され、私は夢中で息子のウエストを掴んで受け止めまし。飛行機が停止するまで息子は何度も頭をぶつけまし。そして私の腕から抜け落ちそうになるたびに、ぐいっと引き戻したのです。}}
 
機内には黒い煙が立ち込め、歩ける乗客乗員は上下逆さまになった天井を歩き、機体に空いた穴から脱出した{{sfn|マクファーソン|1999|pp=362–365}}{{sfn|フェイス|1998|pp=266–267}}。
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[[File:Turbofan640.jpg|alt=カウリングを外した状態のCF6エンジンの写真。|thumb|left|CF6エンジンの外観。写真右側が進行方向で、黄色の円筒部がコンテインメント・リングである。]]
ファンは直径も重量も大きいため、エンジンにはファンが壊れた際に破片が飛び出すのを防ぐ「コンテインメント・リング」(封じ込めリング)が設けられている{{sfn|加藤|2001|p=249}}。前方のコンテインメント・リングは、[[ステンレス鋼]]製の円筒形で、直径が86インチ(約2.18メートル)、軸方向の長さが16インチ(約0.41メートル)である{{sfn|加藤|2001|p=249}}{{sfn|NTSB|1990|p=47}}。このコンテインメント・リングは、ファン・ブレード1枚とその付随物の飛散に対処できるよう設計されていたが、本事故で飛散したのはブレード1枚ではなかった{{sfn|加藤|2001|p=249}}。
 
[[File:UA232damage.png|thumb|250px|機体尾部と油圧系統を上面から見た図。上が進行方向。太線が3つの油圧系統 (Hydraulics1, 2, 3)を示し、'''Fan Disk''' の矢印がファン・ディスクの位置を指す。'''Severed Line''' が切断部位、'''Area Missing From Airplane''' は、機体から失われた部位である。]]
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ユナイテッド航空は、ショットピーニング処理により、材料に亀裂を閉じる力が働き、浸透液が亀裂に浸透しなかったと主張した{{sfn|藤原|1996|p=6}}。しかし、[[破壊力学]]や金属学、非破壊検査の専門家らの検討により、12ミリメートル程度の亀裂であれば、ショットピーニング処理は発見確率にほとんど影響しないとの結論に至った{{sfn|藤原|1996|p=6}}。
 
ファン・ディスクはGE社での製造時にも[[超音波探傷検査]]、マクロエッチ検査(腐食を用いた巨視的表面組織検査法)、そして蛍光浸透探傷検査を受けていた{{sfn|加藤|2001|p=250}}。しかし、これらの検査が実施されたのは、最終機械加工の前だった{{sfn|加藤|2001|p=250}}。事故調査報告書では、加工後にマクロエッチ検査を実施していれば、キャビティを発見できただろうと述べている{{sfn|加藤|2001|p=250}}。
 
=== シミュレーター試験===
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=== 油圧系統の設計変更===
1989年9月15日、事故を受けてマクドネル・ダグラス社は全てのDC-10型機に対する設計変更を発表した{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。全ての油圧系統に遮断バルブを追加し、油圧低下を検出した際にバルブを閉じるようにした{{sfn|"No Left Turns"|pp=3–4}}。これにより、本事故と同様の事象が発生した場合に、最小限の油圧と飛行制御を確保できるようにした{{sfn|"No Left Turns"|pp=3–4}}。
 
=== エンジン制御による操縦の研究===
前述のとおり、NTSBのシミュレーター試験により全油圧を失った場合の操縦法を訓練するのは非現実的という結論に至った。[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) は本事故を一つのきっかけとして、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している{{sfn|フェイス|1998|p=190}}<ref>{{Cite web |url=http://www.nasa.gov/centers/dryden/history/pastprojects/PCA/#.VIC3QHu7a1s |title=Propulsion Controlled Aircraft (PCA) |publisher=NASA |date=2009-08-21 |accessdate=2017-01-05}}</ref>。また、日本の[[三菱重工業|三菱重工]]でも同様の研究が行われている<ref>{{Citation |和書 |title=全舵面不作動時に推力増減のみで航空機を制御する技術 |journal=三菱重工技報 |publisher=三菱重工業 |year=2011 |volume=48 |number=4 |pages=2–7 |format=PDF |url=http://www.mhi.co.jp/technology/review/pdf/484/484002.pdf |accessdate=2014-12-05}}</ref>。
 
=== 乳幼児の安全性向上===