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ドックがないのにドック型とはこれいかに
参考文献1冊追加、マレー作戦について補足
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本来の船名たる神州丸(神洲丸)の「'''[[神州]]'''('''神洲''')」とは古来[[日本]]の異称・雅称であり、「[[現人神]]たる[[天皇]]の[[国]]」および「[[神|神々]]の宿る国」という意味である(''[[神国]]'')。日本の異称は「神州」の他にも[[扶桑]]・[[大和]]・[[敷島]]・[[秋津島|秋津島(秋津洲・あきつ)]]・[[八島|八島(八洲)]]・[[瑞穂]]等が存在するが、何れも民間船舶・陸軍船舶・[[大日本帝国海軍艦艇一覧|海軍艦艇]]の船名(艦名)として広く用いられているものである。
 
神州丸と命名されるまで、本船は「'''R1'''」(アールワン運送船)と呼称されていた。これは日本海軍が建造時の艦種番号をA・B・C…とわけていたことにちなみ、いちいち「陸軍の船」と呼んでいては不都合のため、陸軍の[[ローマ字]]表記「'''R'''ikugun」の[[頭文字]]をとって「R(陸軍)1(初めての型)」と呼称したのである{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=261}}。
秘匿船名の「'''GL'''」はその「神州」を[[英語]]に直訳した「'''G'''od '''L'''and(''ゴッド・ランド'')」の[[頭字語]]、「'''MT'''('''M.T.''')」は命名当時の帝国陸軍船舶部隊([[通称号|暁部隊]])のトップたる、[[船舶司令部|第1船舶輸送司令官]]兼[[陸軍運輸部|陸軍運輸部長]][[松田巻平]](初代)・[[田尻昌次]](二代目)両[[中将|陸軍中将]]の姓の[[イニシャル]]「'''M'''atsuda・'''T'''ajiri」から取られたものである<ref>陸軍運輸部[[技師]] 『表紙「特殊船、神州丸、竜城図面」』 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C14020235900</ref><ref>[[陸軍砲工学校]]工兵科長 「特種輸送船見学ノ件」 1936年4月20日、アジ歴、Ref.C01004216900</ref>。神州丸と命名されるまでは「'''R1'''」と称されていた。
秘匿船名の「'''GL'''」はその「神州」を[[英語]]に直訳した「'''G'''od '''L'''and(''[[神|ゴッド]]・[[国|ランド]]'')」の[[頭字語]]{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=262}}、「'''MT'''('''M.T.''')」は命名当時の帝国陸軍船舶部隊([[通称号|暁部隊]])のトップたる、[[船舶司令部|第1船舶輸送司令官]]兼[[陸軍運輸部|陸軍運輸部長]][[松田巻平]](初代)・[[田尻昌次]](二代目)両[[中将|陸軍中将]]の姓の[[イニシャル]]「'''M'''atsuda・'''T'''ajiri」から取られたものである<ref>陸軍運輸部[[技師]] 『表紙「特殊船、神州丸、竜城図面」』 [[アジア歴史資料センター]]、Ref.C14020235900</ref><ref>[[陸軍砲工学校]]工兵科長 「特種輸送船見学ノ件」 1936年4月20日、アジ歴、Ref.C01004216900</ref>。
 
神州丸の建造とほぼ同時期、[[船舶改善助成施設#第一次船舶改善助成施設|第一次船舶改善助成施設]]によって民間海運会社の巴組汽船が本船と同名である中型[[貨物船]]神州丸(4,180[[総トン|総t]])を建造しており、かつ神州丸(貨物船)は太平洋戦争初期には陸軍[[徴用|徴用船]](吾妻汽船へ移籍)として神州丸(特種船)共々[[蘭印作戦#ジャワ島の戦い|ジャワ上陸作戦]]に投入されているため<ref>戦後、[[ウォーターラインシリーズ]]といった艦艇模型等の[[ボックスアート]]画家として活躍する、[[上田毅八郎]]が船砲隊([[陸軍船舶兵|船舶砲兵]])砲手として乗船・従軍。</ref>、本作戦当時の神州丸(特種船)は'''龍城丸'''という船名を使用している{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=157}}{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=277}}(龍城はジャワ上陸作戦のみの秘匿船名とされ、作戦終了後に元の「神州」へと戻っている<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、53項。</ref>)。龍城の名は暫定的なものであったために由来は不明ではあるものの、[[大日本帝国海軍|海軍]]には[[同音異字]]の艦名を持つ[[軽空母|小型航空母艦]][[龍驤 (空母)|龍驤]]が存在しており、あえて建造時期の被る龍驤と船名を被らせる事で特種船の存在秘匿に努めたという説もある。なお、海軍艦艇の艦名と同一ないし類似する船名は特種船を初めとする陸軍船舶および舟艇には珍しい事ではない<ref>のちの量産特種船である甲型1番船[[摩耶山丸]]・甲小型2番船[[日向丸 (特種船)|日向丸]]・M丙型1番船[[熊野丸]]と、重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]・戦艦[[日向 (戦艦)|日向]]・重巡洋艦[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]。[[高速艇甲]](HB-K)初期生産艇愛称等。</ref>([[#秘匿]])。
 
== 建造の経緯 ==
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上陸用舟艇は、波打ち際に乗り上げて将兵や装備を揚陸するために、吃水が浅く小型であるものがほとんどである。このため外洋航行力に乏しく、根拠地から上陸地点までは他の母船によって運ばれる必要がある。[[戦間期]]当時の上陸用舟艇母船は[[宇品丸]]([[陸軍省]]所有船)のように一般の[[貨物船]]([[軍隊輸送船]])と大差無いもので、上甲板に舟艇を搭載し、[[デリック]]・[[ガントリークレーン]]・[[ボートダビット]]・[[クレーン#クレーンの種類|ホイスト]]等で泛水(へんすい・海面に降ろすこと)させる方式をとっていた。泛水時には基本的に舟艇は空船で、将兵は泛水後に母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込み、[[火砲]]や車輛、[[軍馬|馬匹]]等はデリックで舟艇内に吊り降ろしていた。この方式は舟艇が多数の場合に時間がかかるほか、[[波|波浪]]の状態によっては泛水・乗船・積載が難しく、また将兵等が移乗時に落下する危険性もあるため迅速な[[上陸戦]]を行うのに不向きであった。
 
島国である日本の地理的条件、[[第一次世界大戦]]の戦訓([[ガリポリの戦い|ガリポリ上陸作戦]])、在[[フィリピン]]の[[アメリカ軍]]([[アメリカ極東陸軍|極東陸軍]])を[[仮想敵国|仮想敵]]とする[[帝国国防方針|大正12年帝国国防方針]]によって、[[1920年代]]より上陸戦に関心のあった帝国陸軍はその研究に力を入れており、同年代中期から[[1930年代]]初期にかけて機能的な上陸用舟艇である[[小発動艇]](小発)・[[大発動艇]](大発)の各型を実用化していた。それらが投入された[[1932年]](昭和7年)3月1日の[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]による[[七了口上陸作戦]]([[第一次上海事変]])は成功裏に終わったが、戦訓として以下の問題が明らかとなった{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=149}}
* 在来の泛水方式では上陸に時間がかかり奇襲効果が乏しいこと。
* 敵前の洋上で輸送船より舟艇に移乗するため危険なこと。
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[[File:Milne_Bay_026639.jpg|thumb|right|250px|大発(D型)]]
これらの経緯から、上陸用舟艇を大量に積載可能で人員や装備を乗せたまま連続的に泛水できる新鋭の舟艇母船(揚陸艦)の開発を開始、当初は[[軍隊]]や物資の輸送を担当する[[役所|官衙]]たる[[陸軍運輸部]]の独力で着手していた。なお、陸軍が本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の日本海軍は予算不足のため[[戦闘艦]]の整備に傾注さざるを得ず、揚陸艦といっを含め支援・補助艦艇開発する余裕がなかった{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=7-8|ps=第一次大戦からロンドン軍縮会議(昭和五年)前後まで}}。軍令部極めて消極的船団護衛を担当する[[護衛駆逐艦]]や[[海防艦]]を多数量産することを検討したが、[[世界恐慌]]による予算不足立ち消えとなった{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=9-10}}。[[マル3計画]]においてやっと[[占守型海防艦]]4隻の建造が認められたが{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=10-11}}今度は[[支那事変]]([[日中戦争]])で予算を削られて海防艦量産計画は頓挫してしまった{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=11-12|ps=支那事変勃発以降}}。近代戦おいて進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛([[護送船団|船団護衛]])に対して理解が無かった。海軍の予算不足のため、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない。かつ、[[陸軍]]が[[海軍]]とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期の[[アメリカ陸軍]]でも大々的に行われていた行為である<ref>[[21世紀]]初頭現代においても、アメリカ陸軍は大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有している。</ref>。
 
計画・開発されたこの舟艇母船は、従来の単なる輸送船とは全く異なり以下の大きな特徴があった{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=258}}
* 船内に舟艇格納庫を有し大量の大発等の舟艇を搭載、船尾泛水装置等により安全・迅速に一挙に進水可能。
* [[偵察機|偵察]]・[[爆撃機]]をいわゆる[[艦載機]]として搭載、上陸部隊の支援用として多数を運用可能。
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上述の計画から生まれた原案をもとに設計された「'''R1'''(R1輸送船・特種輸送船R1・R1運送船等と呼称)」は、船内に舟艇格納庫を有し、格納庫内部に大発(船尾ハッチから発進)を、上甲板両舷部に小発(各々専用のダビットを用意)を満載した舟艇母船として先進的かつ実用的なものであった反面、船首部に小型の飛行甲板を設けた奇抜な構造であった(更に上甲板中央部に[[カタパルト]]2基を設置)。
 
そのため、開発途中から参加した海軍の技術協力により大幅な設計変更が加えられ<ref>[[#松原 1996|松原 1996]]、91-92頁。</ref>([[海軍艦政本部]]に設計図送付<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、4項。</ref>)、舟艇の運用方法および設計寸法は陸軍原案をそのまま承継しつつ、船首飛行甲板を廃し航空機発進には[[船橋 (船)|船橋]]および前部甲板に設けられた射出口・左右計2基のカタパルトを用いる事とし、新たに両舷側に側方泛水装置(舷側ハッチとホイスト)を新設する等、船型は大きく変更された<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、37項。</ref>。前述のように陸軍側は[[航空母艦]]のよう発着甲板を設けることを要望したがあく20ノット以上の高速が望めないこと・短い甲板からの発着艦は無理との判断から、カタパルト方式になった{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=259}}。で船内た空母として運用するため舟艇格納庫は[[煙突]]有す片舷によせなければならないが、煙炉を罐室内でまげる余裕がないこと、舟艇甲板か居住甲板でまげると(揚陸艦)設計は陸軍余裕がなくなるため、通常発想船舶と同様の直立煙突が艦後部よるうけられた{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=259}}。煙突より後方であ格納庫は狭いため航空機の翼を展開す余裕がなく、予備格納庫となった{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=259}}
なお、あくまで船内に舟艇格納庫を有す舟艇母船(揚陸艦)の設計は陸軍の発想によるものである。特殊船のため、造船所の選定にあたっては機密保持と技術力の双方が重要視された{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=260a|ps=苦労させられた造船所さがし}}。そこで寧海級巡洋艦[[寧海 (巡洋艦)|寧海]]の建造実績をもつ[[IHI|播磨造船所]]が選ばれた{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=260b}}。
 
[[1933年]](昭和8年)4月8日、「R1」は[[IHI|播磨造船所]]で起工<ref name="gakkai767" />。建造中、陸軍は「なんとかして空母式の甲板にできないか」と海軍側に要望したが、既に建造中のため根本的な設計変更は不可能であった{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=264a|ps=空母式甲板をのぞんだ陸軍}}。そこで空母化については第2船以降で検討することになった{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=264b}}。
[[1933年]](昭和8年)4月8日、「R1」は[[IHI|播磨造船所]]で起工、翌[[1934年]](昭和9年)2月8日に'''神州丸'''('''神洲丸''')と命名<ref>[[軍務局#陸軍省軍務局|陸軍省軍務局防備課]] 「特種運送船名ニ関スル件」 1934年2月8日、[[アジア歴史資料センター]]、Ref.C01004029800</ref>、同年3月14日に[[進水式|進水]]し、11月30日に陸軍に引き渡され12月15日に[[竣工]]した<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、37項。</ref><ref name="gakkai767">[[#日本造船学会 1977|日本造船学会 1977]]、767頁。</ref>。
翌[[1934年]](昭和9年)2月8日に'''神州丸'''('''神洲丸''')と命名される<ref>[[軍務局#陸軍省軍務局|陸軍省軍務局防備課]] 「特種運送船名ニ関スル件」 1934年2月8日、[[アジア歴史資料センター]]、Ref.C01004029800</ref>。同年3月14日に[[進水式|進水]]した<ref name="gakkai767" />。神州丸進水と同時期、日本海軍において水雷艇[[友鶴 (水雷艇)|友鶴]]が転覆する[[友鶴事件]]が発生した{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=266-267|ps=友鶴事件でえた大きな教訓}}。日本海軍は対応に追われたが、神州丸の場合は防水区画に海水バラストを注水して重心を下げるだけで充分との判定であり、陸海軍双方の関係者を安堵させた{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=267}}。
11月の海上運転では、軽荷物状態5600トンで20ノットを突破、基準状態7180トンで予定速力19ノットを発揮した{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=267}}。
11月30日に陸軍に引き渡され12月15日に[[竣工]]した<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、37項。</ref><ref name="gakkai767">[[#日本造船学会 1977|日本造船学会 1977]]、767頁。</ref>。
 
竣工後の神州丸は帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり、陸軍運輸部の本部(のちに兼[[船舶司令部]])も置かれている母港たる[[広島県]][[宇品]]([[広島港#宇品港|宇品港]])に移動。[[1935年]](昭和10年)1月にはカタパルトを装備するため近隣の[[呉海軍工廠]]に回航され、射出試験を経た2月26日に宇品に帰還し晴れて完全完成となった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、39項。</ref>。以降、神州丸は小改装・演習・試験・訓練を繰り返し錬成しつつ、[[1937年]](昭和12年)7月の日中戦争勃発を迎える事となった([[#実戦]])。
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==== 戦艦日向の煙突 ====
完成後の神州丸は[[#日中戦争|日中戦争の実戦投入]]前に後述の航空機格納庫(馬欄甲板)の擬装ないし{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=264b}}、同様の特種船を複数保有しているかの如く欺瞞するため<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、5項。</ref>、船体中央部に太い大型[[煙突]]を増設している(本物は船体後部、馬欄甲板を避けるようにやや左舷寄りに設けられた細い小型煙突)。飛行機格納庫であることを偽装するため、[[軍馬]]を乗せる馬欄(ばらん)甲板と呼称した{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|p=264b}}
 
このダミーの大型煙突はもとは海軍の[[伊勢型戦艦]]2番艦[[日向 (戦艦)|日向]]の2番煙突であった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、40項。</ref>{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=36-38|ps=陸軍の空母・神州丸(昭和十年)}}。これは[[1936年]](昭和11年)前後頃に[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]・日向が行った[[伊勢型戦艦#大改装|機関改装等の大改装]]時(従来2本の煙突を1本化、1番煙突を撤去し2番煙突を大型化)の撤去品転用とされている。
{{-}}
 
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=== 航空機運用能力 ===
[[File:306492shinsyu.jpg|thumb|300px|船首付近の外観。航空機発進口のある船橋下部・格納庫前部は[[帆布]]で塞がれている。トラス構造の大型デリックが目立つが、この前部甲板にも各種舟艇を搭載可能]]
優れた舟艇運用能力と並ぶもう一つの大きな特徴として、上陸部隊支援用の航空機の運用能力がある。2層構造の上部構造物内上段に航空機格納庫(秘匿名「馬欄甲板」)を設け、最大12機程の[[戦闘機]]・[[偵察機]](偵察爆撃機)を搭載・使用可能であった。実際に[[九一式戦闘機]] 6機と[[九七式軽爆撃機]] 6機の12機を搭載したことがあったという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=37}}。
離船(発艦)手順は、大型デリックを用い前部甲板の円形台座に設置した秘匿名「KS」こと呉式二号射出機三型改二(海軍製の火薬式カタパルト)に、船橋ブリッジ下部の格納庫開口部に用意した機体を載せ射出となる。[[九二式偵察機]]、[[九四式偵察機]]、[[九八式直接協同偵察機]]の射出実験を行ったことがあった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=37}}
 
神州丸に着船設備はなくまた使用機は[[水上機]]ではない陸上機であるため、機体は占領した敵[[飛行場]]・臨時造成飛行場に着陸、陸上・水上に[[不時着]]・不時着水するか、[[パイロット (航空)|操縦者]]は乗機を捨て[[落下傘]]降下によって収容される{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=154}}。これに類似する運用能力を持つ船舶としては、のちの[[第二次世界大戦]]時に輸送船団護衛のためイギリス海軍が実戦投入した[[CAMシップ]]が該当する。「神州丸」と同じくカタパルトによって発船した戦闘機は、敵機を迎撃した防空戦闘後には陸上の飛行場に向かうか、船団付近に不時着水ないし落下傘降下し操縦者は収容されていた(このCAMシップおよび[[MACシップ]]は一般の輸送船(商船)を臨時に改装したものであり、日本の「神州丸」以下特種船と異なり揚陸艦ではない)。
 
この航空機運用能力は画期的なものであったが、航空機の急速な発達により建造後数年で実質的な意味を失ってしまい、その運用難度からも使用される事は殆どなかった{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=154}}。実戦でKSが使用されたのは日中戦争中の1937年9月23日、[[白河々口]]から乗船した[[独立飛行中隊|独立飛行第4中隊]]が[[上海市|上海]]に向けて洋上離船した例が唯一である<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、5項。</ref>。しかしながら、神州丸はただの揚陸艦から一歩進んだ、総合的な上陸戦遂行能力を持った強襲揚陸艦の先駆的存在であった。のちの第二次大戦時に建造される量産特種船のうち、航空機運用能力を改良・発展させた丙型[[あきつ丸]](およびM丙型[[熊野丸]]等)は、全通式飛行甲板を有す等本格的な航空設備が設けられたより先進的な揚陸艦となっている。
{{-}}
 
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[[File:ShinshuMaru-1938.jpg|thumb|left|250px|1938年10月、[[バイアス湾]]上陸作戦における神州丸]]
[[File:Shinshū Maru1937.jpg|thumb|right|300px|アメリカ海軍によって秘密裏かつ鮮明に撮影された神州丸。特徴的な三角型形状の船橋、航空機発進口を塞ぐ幌布、舷側のハッチ、大型のデリック、多数のダビット、偽装大型煙突が目立つ]]
1937年(昭和12年)5月頃、[[舞鶴海軍工廠]]では[[第四艦隊事件]]で損傷した駆逐艦3隻([[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]])の修理や白露型駆逐艦[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]の建造が終わろうとしていた{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=111-114|ps=陸軍船の改造}}。舞廠造船課長は[[庭田尚三]]造船大佐であった{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=112}}。庭田は造船部員時代に播磨造船所に派遣されて臨時の陸軍運輸部部員となり、神州丸の建造に深く関与していた{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=113}}。当時、日本陸軍は神州丸に[[バルジ]]を装着する意向であったが、[[呉海軍工廠]]に余裕がなかったこと・神州丸建造を監督した庭田が舞鶴で造船課長をしていることから、神州丸の工事を舞鶴海軍工廠で実施することになった{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=113}}。
1937年7月、日中戦争勃発を受けて舞鶴海軍工廠にて水中防御改善のため改装工事中であった神州丸は、これを早々に切り上げ同月17日に宇品へ帰港。完成以降、泛水作業等錬成に励んでいた[[第5師団 (日本軍)|第5師団]][[工兵第5連隊 (日本軍)|工兵第5連隊]]第3中隊は、28日ないし29日に[[独立部隊]]たる独立工兵第6連隊([[連隊|連隊長]]:岩仲広知[[中佐|陸軍工兵中佐]])に改編され隷下に3個[[中隊]]を擁し、神州丸にはこの第1中隊(中隊長:鬼頭将方[[大尉|陸軍工兵大尉]])が乗船し出撃準備にあたった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、41項。</ref>。
 
同年7月7日の[[盧溝橋事件]]に端を発した[[支那事変]]は全面衝突へと発展([[日中戦争]]){{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=38-43|ps=加賀・竜驤・鳳翔・神州丸}}。神州丸は舞鶴での改装工事中を中断し、元の状態に復旧して急遽出動することになった{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=114a}}。この工事に舞廠の造船職工を多数動員したので、建造中の朝潮型駆逐艦[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]の進水は予定より一ヶ月遅れることになった{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=114b|ps=霰は同年11月16日に進水した。}}。一方の神州丸は7月17日に宇品へ帰港。完成以降、泛水作業等錬成に励んでいた[[第5師団 (日本軍)|第5師団]][[工兵第5連隊 (日本軍)|工兵第5連隊]]第3中隊は、28日ないし29日に[[独立部隊]]たる独立工兵第6連隊([[連隊|連隊長]]:岩仲広知[[中佐|陸軍工兵中佐]])に改編され隷下に3個[[中隊]]を擁し、「神州丸」にはこの第1中隊(中隊長:鬼頭将方[[大尉|陸軍工兵大尉]])が乗船し出撃準備にあたった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、41項。</ref>。
中国派遣[[動員]]師団のひとつたる[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]揚陸の一翼を担う神州丸(当時は秘匿名「MT」を使用)は、8月9日までに大発12隻・小発26隻・装甲艇4隻・高速艇甲4隻を搭載し準備を終え、翌10日に第1船舶輸送司令官松田巻平陸軍中将乗船の司令官艇らの見送りを受け宇品を出港した。13日に神州丸以下4隻の第1次上陸船団は上陸先である[[太沽]]沖に到着・投錨、装甲艇・高速艇甲は偵察のため先行出撃している。14日、第2次上陸船団各輸送船の到着をもって揚陸作業に移り神州丸は舟艇を迅速に泛水、同日9時頃に第10師団諸部隊は太沽に上陸した(同地は7月30日に現地陸軍部隊によって制圧済であった事もあり問題なく上陸を終えている)。引き続き15日、第3次上陸船団の揚陸作業を終えた神州丸は前日夜に宇品帰還の命令を受けていたため、20時に太沽を出港し帰路に就いた<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、43項。</ref>。
 
中国派遣[[動員]]師団のひとつたる[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]揚陸の一翼を担う神州丸(当時は秘匿名「MT」を使用)は、8月9日までに大発12隻・小発26隻・装甲艇4隻・高速艇甲4隻を搭載し準備を終え、翌10日に第1船舶輸送司令官松田巻平陸軍中将乗船の司令官艇らの見送りを受け宇品を出港した。
太沽上陸作戦において神州丸はその威力を発揮し活躍、その初陣は成功に終わった(8月14日当時は[[台風]]接近中のため2mもの波浪が各船舶・舟艇を襲う悪条件であったが、神州丸泛水作業隊の働きにより全舟艇の泛水・収容を完了している)。以降、[[川沙鎮]]・[[呉松鎮]]・[[杭州湾]]・[[白茆口]]・[[白那士湾]]等で行われた各上陸作戦に神州丸は投入されるとともに、またその搭載能力を生かし輸送任務にも参加、中国戦線で大活躍した<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、43項。</ref>
13日に神州丸以下4隻の第1次上陸船団は上陸先である[[太沽]]沖に到着・投錨、装甲艇・高速艇甲は偵察のため先行出撃している。14日、第2次上陸船団各輸送船の到着をもって揚陸作業に移り神州丸は舟艇を迅速に泛水、同日9時頃に第10師団諸部隊は太沽に上陸した。同地は7月30日に現地陸軍部隊によって制圧済であった事もあり問題なく上陸を終えている。引き続き15日、第3次上陸船団の揚陸作業を終えた神州丸は前日夜に宇品帰還の命令を受けていたため、20時に太沽を出港し帰路に就いた<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、43項。</ref>。
 
太沽上陸作戦において神州丸はその威力を発揮し活躍、その初陣は成功に終わった。8月14日当時は[[台風]]接近中のため2mもの波浪が各船舶・舟艇を襲う悪条件であったが、神州丸泛水作業隊の働きにより全舟艇の泛水・収容を完了している。以降、[[川沙鎮]]・[[呉松鎮]]・[[杭州湾]]・[[白茆口]]・[[白那士湾]]等で行われた各上陸作戦に神州丸は投入されるとともに、またその搭載能力を生かし輸送任務にも参加、中国戦線で大活躍した<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、43項。</ref>。なお本作戦当時に陸軍支援や[[中華民国空軍]]対策のため投入されていた日本海軍の空母は、[[第一航空戦隊]](空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]、第30駆逐隊)と[[第二航空戦隊]](空母[[加賀 (空母)|加賀]]、第22駆逐隊)であった{{#tag:Ref|空母[[赤城 (空母)|赤城]]は佐世保海軍工廠で[[多段式空母]]から一段全通飛行甲板へ改造中{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=40}}。第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月){{Sfn|日本空母戦史|1977|p=40}}。|group="注"}}。
なお、この日中戦争時に中国沿岸にて投錨中の神州丸のその特異な姿に注目した現地の[[アメリカ海軍]]によって、秘密裏に至近距離からその姿を写真撮影されている(「日本艦船識別表 ONI41-42」収録)<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、40項。</ref>。
なお、この日中戦争時に中国沿岸にて投錨中の神州丸の特異な姿に注目した現地の[[アメリカ海軍]]によって、秘密裏に至近距離からその姿を写真撮影されている(「日本艦船識別表 ONI41-42」収録)<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、40項。</ref>。また[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]の駆逐艦は神州丸を目撃して「[[剣埼型潜水母艦|剣埼型高速給油艦]]の[[祥鳳 (空母)|剣埼(祥鳳)]]か[[瑞鳳 (空母)|高崎(瑞鳳)]]ではないか?」と思ったという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=39}}。
 
つづいて神州丸は[[1940年]](昭和15年)9月以降の[[仏印進駐]]に従事した{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=69a-70|ps=飛竜・蒼竜飛行隊・神州丸}}。陸上からは[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]が、海上からは[[西村琢磨]]陸軍少将が率いる[[近衛師団]]歩兵三個大隊と歩兵第35旅団がフランス領インドシナにむかった{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=39}}。神州丸/竜城丸は陸軍部隊の旗艦で、これを[[遣支艦隊#第二遣支艦隊|第二遣支艦隊]](司令長官[[高須四郎]]海軍中将、旗艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]])麾下の第一水雷戦隊と第三水雷戦隊および第二航空戦隊(司令官[[戸塚道太郎]]少将、空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]、空母[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]{{#tag:Ref|蒼龍は航空隊を飛龍に移し、内地で待機した。|group="注"}}、第11駆逐隊〈吹雪、白雪、初雪〉)が護衛した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=39}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=69b}}。西村少将は神州丸に乗船し、第三水雷戦隊(司令官[[藤田類太郎]]少将、旗艦「川内」)が神州丸船団を護衛した{{#tag:Ref|当時の第三水雷戦隊は、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、狭霧)、第21駆逐隊(初春、子日、初霜、若葉)。三水戦・第21駆逐隊の駆逐艦[[子日 (初春型駆逐艦)|子日]]は同年7月からハノイへ先行進出し、つづいてハイフォンへ移動していた{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=39}}。|group="注"}}。サイゴンには軽巡洋艦[[ラモット・ピケ (軽巡洋艦)|ラモット・ピケ]]を旗艦とするフランス極東艦隊がおり、日本側は警戒する必要があった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=70}}。
 
神州丸以下陸軍輸送船団は[[海南島]]海口より[[ベトナム]]北部[[ハイフォン]]へ向かい、海軍機は海南島[[三亜市]]の航空基地を拠点に哨戒任務や警戒に従事した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=70}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=71a|ps=第5師団、北部仏印上陸の地図(昭和15年9月)}}。9月23日にハイフォン沖合に到達すると、フランス側から上陸を延期するよう申し入れがあったが、日本陸軍は上陸強行の意向であった{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=39}}。9月24日、子日はハイフォンを脱出し、三水戦に合流した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=40}}。藤田少将は上陸掩護のため[[艦砲射撃]]を行う予定だったが、高須長官(旗艦「鳥海」)は日本陸軍の姿勢に反発して「陸軍に協力するな」と命じる{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=40}}。9月26日、日本陸軍はハイフォンに上陸を完了した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=71b}}。三水戦は陸軍船団護衛をやめて先に帰投したので、後日「ハイフォン沖の船団置き去り事件」と呼ばれた{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=40}}。
 
=== 太平洋戦争 ===
==== マレー作戦 ====
{{see also|マレー作戦}}
日中戦争で活躍した神州丸は、当然1941年末開戦予定の太平洋戦争([[南方作戦]])にも投入される事となった。12月8日太平洋戦争作戦第1号である[[マレー作戦]]、[[タイ王国|タイ]]領[[シンゴラ]]への[[第25軍 (日本軍)|第25軍]](司令官:[[山下奉文]]陸軍中将、軍参謀長[[鈴木宗作]]陸軍中将){{Sfn|生出、辻政信|2007|p=20}}司令部の上陸に携わりこった{{Sfn|生出、辻政信|2007|pp=26-27}}。本作戦において神州丸は「龍城丸」の秘匿名称で呼ばを成功ており、山下奉文第二十五軍司令官や作戦主任参謀要員[[辻政信]]陸軍中佐が乗船していた{{Sfn|変わりダネ軍艦|2017|pp=270-271}}。辻中佐は[[大本営|大本営陸軍部]]([[参謀本部]])作戦課戦力班長だったが、マレー作戦にあたり第二十五軍の作戦主任参謀要員に任命ていた{{Sfn|生出、辻政信|2007|pp=9-10}}
 
マレー半島に上陸する陸軍輸送船団を護衛していたのは、馬来部隊指揮官[[小沢治三郎]]南遣艦隊司令長官(旗艦「鳥海」)麾下の第三水雷戦隊(司令官[[橋本信太郎]]少将、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、第11駆逐隊、第12駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊){{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=54-56}}、練習巡洋艦[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]や海防艦[[占守 (海防艦)|占守]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=106-108}}、第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)などであった{{Sfn|戦場の将器|1997|p=27}}{{Sfn|生出、辻政信|2007|pp=28-29}}。
 
==== 蘭印作戦 ====
[[File:Japanese Landings on Java.jpg|thumb|right|250px|上陸地点4箇所。メラク(地図左端、あきつ丸以下船団)とバンタム(メラクの東部、神州丸以下船団)に[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]主力が上陸する]]
{{see also|蘭印作戦}}
翌1942年(昭和17年)には太平洋戦争の開戦意義である南方資源地帯確保のため、1月11日より始められた[[蘭印作戦]]に動員。蘭印作戦では「[[空の神兵]]」こと[[挺進連隊|第1挺進団]]の活躍によって、最重要戦略的攻略目標である[[パレンバン]]大油田を2月14日に制圧していたが([[パレンバン空挺作戦]])、首都[[バタヴィア|バタビア]]([[ジャカルタ]])や[[バンドン (インドネシア)|バンドン]][[要塞]]を擁し[[オランダ軍]]主力・[[イギリス軍]]・[[オーストラリア軍]]・[[アメリカ軍]]の[[ABDA司令部|ABDA]][[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]将兵約8万強が守備する[[ジャワ島]]の制圧は最終目標となっていた(当時、[[東南アジア]]ほぼ全域を掌握していた日本軍にとってこのジャワ島上陸作戦は南方作戦の総決算と言えるものでもあると同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦であった)。このジャワ上陸作戦には神州丸(当時は秘匿名龍城丸を使用)のみならず竣工間もない[[あきつ丸]](丙型特種船、神州丸に次ぐ特種船第2号)も投入され、[[第16軍 (日本軍)|第16軍]](司令官[[今村均]]陸軍中将、参謀長[[岡崎清三郎]]少将。1941年11月15日新編{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|pp=111-112|ps=第十六軍編成の内命下る}}司令部が座乗する神州丸以下はバンタム、あきつ丸以下はメラクへの上陸に参加する事となった{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=155-160|ps=陸軍空母、沈没(3月1日)―ジャワ作戦の悲劇―}}
 
なお西方攻略部隊の護衛を任じられた第五水雷戦隊司令官[[原顕三郎]]少将は今村中将(旗艦「神州丸」)に対し、現在の軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]と駆逐艦16隻という戦力では護衛を完遂できないと不安を訴えた{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=113a|ps=小沢中将の英断}}。今村は[[南方軍 (日本軍)|南方軍]](総司令官[[寺内寿一]]陸軍大将)に岡崎参謀長と作戦主任参謀を派遣して護衛戦力を増やしてくれるよう要請したが、良い返事はもらえなかった{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=67}}。そこで今村自身が寺内総司令官に直談判しようとしたが、その前に馬来部隊指揮官[[小沢治三郎]]海軍中将([[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]]司令長官、旗艦「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」)に相談したところ、馬来部隊から艦艇を引き抜き第五水雷戦隊に増強すると約束した{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=113b}}。馬来部隊から増強された部隊の中には、第三水雷戦隊{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=107-109|ps=バタビア沖海戦}}、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、第七戦隊司令官[[栗田健男]]少将が指揮する[[最上型重巡洋艦]]4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)の姿もあった{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=68}}{{#tag:Ref|第七戦隊各艦の艦長は、第七戦隊1番艦熊野艦長[[田中菊松]]大佐、第2番艦鈴谷艦長[[木村昌福]]大佐、3番艦三隈艦長[[崎山釈夫]]大佐、4番艦最上艦長[[曾爾章]]大佐{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=254}}。|group="注"}}。
 
{{main|スラバヤ沖海戦}}
2月18日朝10時、西部ジャワ島上陸部隊たる神州丸あきつ丸等とともに総計56隻の大船団を編成し[[フランス領インドシナ|仏印]]の[[カムラン湾]]を出港(19、第五水雷戦隊{{#tag:Ref|第五水雷戦隊の編制は、長良型軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]、第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)、第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月){{Sfn|本水雷戦史|1986|p=108}}。|group="注"}}や由良の護衛下で南進した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=157}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=135a-136|ps=西部ジャワ上陸作戦の由良}}{{#tag:Ref|[[第48師団 (日本軍)|第48師団]]を乗せた東部ジャワ島上陸船団38隻は、第二水雷戦隊や第四水雷戦隊護衛下で2月19日にホロ島を出港)。27した{{Sfn|本軽巡戦史|1989|pp=136a-137|ps=東部ジャワ上陸の長良鬼怒}}。|group="注"}}。日本軍上陸を阻止すべく出撃したABDA連合軍艦隊と、日本海軍[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]と間で数日行動[[スラバヤ沖海戦]]が発生、結果的に日本軍は敵艦多数ボルネオ島西方撃沈し勝利二回も逆航するものの、長時間の戦闘こともかかわらず敵艦隊を全滅させる事が出来ずなりこれがのちの二月末日ジャワ上陸時に問題の予定は不可能となってしまった<ref>[[#奥{{Sfn|完 2011太平洋戦争(上)|奥本 2011]]、51項。</ref>1991|p=114}}
2月27日、哨戒中の[[陸上攻撃機]]がバタビアを出撃してきた連合国軍西方攻撃隊{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=84}}(豪州軽巡[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]]、英軽巡{{仮リンク|ダナエ― (軽巡洋艦)|label=ダナエ―|en|HMS Danae (D44)}}、{{仮リンク|ドラゴン (軽巡洋艦)|label=ドラゴン|en|HMS Dragon (D46)}}、英駆逐艦スカウト、[[テネドス (駆逐艦)|テネドス]])を発見し、日本軍輸送船団は緊迫した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=135b}}。第七戦隊司令官[[栗田健男]]少将(海兵38期)と第三護衛部隊指揮官(第五水雷戦隊司令官原少将、海兵37期)の間で意見が錯綜し、みかねた[[連合艦隊]]は「バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム」と指示した{{Sfn|太平洋戦争の提督たち|1997|pp=85-88|ps=バタビヤ沖の栗田提督}}。連合国軍西方攻撃部隊は日本軍輸送船団が北方へ避退したため接敵できず、バタビアで燃料補給をおこなったあと、[[インド洋]]方面に脱出した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=85}}。
 
同27日、ジャワ島スラバヤにむかっていた東方攻略部隊および護衛部隊(第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]])は、[[カレル・ドールマン]]提督指揮下のABDA艦隊と交戦する{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=85}}([[スラバヤ沖海戦]]){{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|pp=52-53|ps=スラバヤ沖海戦}}。結果的に日本軍は敵艦多数を撃沈し勝利するものの、長時間の戦闘にもかかわらず敵艦隊を全滅させる事が出来ず、これがのちのジャワ上陸時に問題となってしまった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、51項。</ref>。
 
[[File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Japanse invasie op Java TMnr 10001990.jpg|thumb|right|250px|ジャワ島へ上陸する日本軍]]
{{main|バタビア沖海戦}}
イギリス巡洋艦部隊はバタビア方面に向かって撤退し(前述)、由良等が西部ジャワ攻略部隊東方を警戒した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=136b}}。[[2月28日]]夜、西部ジャワ攻略部隊はバンタム湾に到着し、駆逐艦がオランダ政庁の小型艦艇を掃討した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=109}}。第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)はバタビア方面にむかった{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=110-115|ps=バタビア沖海戦}}。
3月1日0時、バンタム湾に入った神州丸以下(およびメラク湾に入ったあきつ丸以下)の船団は投錨し揚陸作業を開始。0時30頃には赤色の[[彩光弾|信号弾]]が空に上がり第1次上陸部隊はジャワ島に無血上陸した。しかし、スラバヤ沖海戦で逃したアメリカ海軍重巡洋艦[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]および、[[オーストラリア海軍]][[軽巡洋艦]][[パース (軽巡洋艦)|パース]]がこれら上陸船団を発見、0時37分に砲撃を開始(遠距離のため上陸船団へは命中せず)。これに先立つ0時9分、バビ島東方においてヒューストン、パースを発見、追尾していた[[駆逐艦]]の[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]が0時44分に雷撃を敢行(のち離脱)、ここに[[バタビア沖海戦]]が発生した。上陸船団の護衛にあたっていた、軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]を旗艦とする第3護衛隊(司令官:[[原顕三郎]][[少将|海軍少将]])隷下の各駆逐隊も、原海軍少将の突撃命令を受けヒューストン、パースと交戦、また北方哨戒中の第7戦隊の重巡最上・[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]も参戦した。各艦は砲雷撃を行い1時47分にパースが、2時6分にヒューストンがそれぞれ沈没し、日本軍は同海戦に勝利した。
西部ジャワ攻略部隊は神州丸(龍城丸)以下バンタム湾上陸部隊と、[[あきつ丸]]などメラク湾上陸部隊の二手にわかれた{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|pp=55a-57|ps=バタビア沖海戦}}。
[[3月1日]]午前0時、バンタム湾上陸部隊は投錨し、揚陸作業を開始した{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|p=55b}}。0時30頃には赤色の[[彩光弾|信号弾]]が空に上がり、第1次上陸部隊はジャワ島に無血上陸した。しかし、スラバヤ沖海戦で逃したアメリカ海軍重巡洋艦[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]および[[オーストラリア海軍]][[軽巡洋艦]][[パース (軽巡洋艦)|パース]]がこれら上陸船団を発見、泊地に侵入してきた{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|p=56a|ps=バタビア沖海戦関係図(昭和17年3月1日)}}。同1日0時9分、バビ島東方において哨戒中の駆逐艦[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]](第三水雷戦隊、第11駆逐隊)がヒューストンとパースを発見し、追跡を開始した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=111}}。0時37分、ヒューストンとパースは砲撃を開始した{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|p=56b}}。吹雪は0時44分に雷撃を敢行した{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|p=57a|ps=バタビア沖海戦合戦図(第1次、第2次)}}。これをきっかけに[[バタビア沖海戦]]が発生した。上陸船団の護衛にあたっていた軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]を旗艦とする第3護衛隊(指揮官[[原顕三郎]]第五水雷戦隊司令官)指揮下の駆逐隊や敷設艦[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]]が戦闘に加入し、ヒューストンおよびパースと交戦した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=112}}。また北方哨戒中だった三隈艦長指揮下の3隻(重巡[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、重巡[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]〈第19駆逐隊〉)も参戦した{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=270}}。0120、三隈艦長は「ワレ今ヨリ敵ノトドメヲサス」と宣言して砲火を浴びせた{{Sfn|勇躍インド洋作戦|1994|p=56}}。最上は1時27分に酸素魚雷を発射した{{Sfn|日本水雷戦史|1986|pp=113b-114|ps=味方の魚雷が命中}}。パースは1時47分に、ヒューストンは2時6分にそれぞれ沈没し、日本軍は同海戦に勝利した{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=271}}。
 
しかし戦闘中の1時35分、バンタム湾上陸船団の直掩である[[第二号掃海艇]]が突如轟沈した。1時38分には輸送船の[[S型貨物船|佐倉丸]](神州丸とともに軍司令部指定船)、続いて[[病院船]]の[[蓬莱丸]]、そして神州丸/龍城丸も魚雷を受けて大破した{{#tag:Ref|佐倉丸・神州丸および、魚雷を回避しようと急旋回した輸送船[[龍野丸]]は船体が傾斜した状態で着底、蓬莱丸は水平状態で着底。|group="注"}}。当時、神州丸は第16軍司令部要員が上陸のため前部甲板にて舟艇へ移乗中であったが、右舷中央に被雷し急速に約45度傾斜したた今村陸軍中将以下の将兵は[[重油]]の流出した海に転落・漂流、した{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|pp=115a-116|ps=軍司令官海を泳ぐ}}。約3時間後{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=116}}に泛水作業隊らによって救助されたものの遠距離用[[無線機]]と[[暗号|暗号書]]が海没してしまった{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=117}}。この椿事により、ジャワ島中部バトロールおよび東部クラガンに上陸した別働隊との直接通信が(無線機が3月5日に空輸されるまで)不能となってしまった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、52・53項。</ref>。しかしながら[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]を筆頭に各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し7日には要衝バンドンに進出した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=65}}。これによりバンドン地区防衛兵団は[[降伏]]した。8日より蘭印総督との間で降伏交渉が行われ翌9日無条件降伏が確定する{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=121}}。今村陸軍中将以下第16軍は3月10日の[[陸軍記念日]]にバンドン入城をはたし、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わった{{Sfn|完本太平洋戦争(上)|1991|p=122}}
 
バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊であるあきつ丸以下は、敵艦隊との遭遇も無く[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]を無事に上陸を成功させ{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=159}}、帰路に就いている<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、53項。</ref>。
{{-}}
 
===== 重巡最上の誤射 =====
[[File:Mogami running trials in 1935.jpg|thumb|right|250px|[[同士討ち|誤射]]により神州丸以下複数の友軍船を撃沈してしまった重巡最上]]
戦闘後の調査によって、神州丸以下に直撃した魚雷は日本海軍の[[酸素魚雷|九三式魚雷]](酸素魚雷)である事が判明した。これは3月1日1時27分、最上がヒューストンに対し放った筈の複数本の魚雷が、射線延長線上の神州丸以下船団に命中してしまった[[同士討ち]](誤射)であった{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=113a}}{{#tag:Ref|[[サミュエル・モリソン|モリソン]]博士の『太平洋の旭日』では「駆逐艦[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]の魚雷が神州丸などを撃沈した」と記述しており、[[木俣滋郎]]著『日本空母戦史(1977)』158頁ではモリソン書の記述を採用している{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=158}}。木俣著『日本水雷戦史(1986)』114頁では「最上の魚雷」として『日本空母戦史』の記述を訂正している{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=114}}。|group="注"}}。神州丸は優秀な上陸戦遂行能力のみならず旗艦的な司令部機能を有する日本軍にとって虎の子的存在であり、それを輸送船2隻・病院船1隻・掃海艇1隻とともに「撃沈」してしまった海軍の失態は大きなものであった(佐倉丸・第二号掃海艇は沈没、神州丸・蓬莱丸・龍野丸は大破着底)。かつ、神州丸沈没によって座乗していた司令官以下第16軍司令部は上陸前にあわや全滅という危機に陥り、中・東部上陸部隊の直接指揮に必要な遠距離用無線機を喪失している。バンタム湾は浅瀬の[[泊地]]であるため船は完全沈下せずに着底し、被雷は第1次上陸部隊の揚陸後で、当日は[[月齢]]13と非常に明るい夜であったため人的被害は最小限に食い止められたが、それでも約100名が死亡した。
なお『戦史叢書第26巻、蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』では「最上」の誤射としているが、当時の初雪砲術長は第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)が発射した魚雷だった可能性を指摘している{{Sfn|大和反転の真相|2018|p=76}}。当時の[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]駆逐艦長は、第5駆逐隊(朝風、旗風、春風){{#tag:Ref|第5駆逐隊所属の駆逐艦[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]は、この時点で空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]を護衛しており別働中だった。|group="注"}}や他艦の発射した魚雷も命中しなかったか、味方輸送船団の方向に流れていったと回想している{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=279-280|ps=魚雷命中の記録はウソ}}。第五水雷戦隊の消費弾数は、名取(主砲29発、魚雷4本)、第5駆逐隊(主砲16発、魚雷17本)、第12駆逐隊(主砲37発、魚雷18本)、第11駆逐隊(主砲116発、魚雷4本)と記録されている{{Sfn|日本水雷戦史|1986|p=113a}}。
 
しかしながら帝国陸軍はこのバタビア沖海戦における誤射事件を不問に処し、帝国海軍の名誉に傷をつけぬよう神州丸以下の沈没は敵軍の攻撃によるものにすることを提案、かつ責任追及も行っていない。「人情将軍」と謳われた人格者たる名将今村陸軍中将も、後日司令部揃って謝罪に参った海軍指揮官関係者を快く赦している。のちの陸軍による神州丸[[海{{Sfn|勇躍インドサルベージ作戦|サルベージ]]作業中1994|p=57|ps=今村司令官の漂流秘話}}。戦後今村中将は九三式」2隻刻印がある九三式高速魚雷の破片が船倉[[ヘドロ]]内より発見さ艇にやられたがこれはバンタム湾に投棄され証拠隠滅<ref>[[#奥」と回想している{{Sfn|完 2011太平洋戦争(上)|奥本 2011]]、55項1991|p=115b}}</ref>、陸軍省が企画し対外用公刊戦史大東亜戦史 ジャワ作戦提督小沢治三郎伝(1942年11月)で、連合軍今村駆逐艦や爆撃機の攻撃によっ感謝が述べられ神州丸以下は沈没したいるが{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=68}}、の「大巡二隻」が三隈になってい最上であ{{Sfn|戦場の将器|1997|p=29}}
 
{{quotation|
 この提督は、万一にも連合艦隊の不承認があったらいけないと思ってか、全くの独断によりこの大きな兵力転用を断行しようとしている。<br/> 右の艦艇増加により私の軍の輸送船団は二月十八日カムラン湾を出航し、巡洋艦一隻、駆逐艦三十二隻{{#tag:Ref|注・第三水雷戦隊が参加。|group="注"}}に護衛され、赤道を越え南へ南へと進んだ。<br/> 小沢長官はそれでも<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>私の軍の上を案じ、更に大巡二隻を増派してくれた。<br/> バタビヤに近いバンタム湾付近の海戦で、わが駆逐艦が敵巡洋艦二隻と交戦している最中、突如わが大巡二隻{{#tag:Ref|注・第七戦隊の最上、三隈。|group="注"}}がかけつけ、米巡洋艦ヒューストン(一万トン級)と豪巡洋艦パース号(七千トン級)と交戦、見事に撃沈した。このため輸送船団は僅か四隻沈没百名戦死しただけで上陸作戦に成功した。<br/> もし小沢長官の独断専行の協力がなかったとしたら、どんな大きな犠牲が生じたか、また上陸そのものが可能だったかどうかもわからなかっただろう。<br/> 第十六軍主力方面の上陸作戦の成功は、全く小沢長官の<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby><ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>だったので、私は今にその時の感激を忘れないでいる。
|生出寿『智将 小沢治三郎』68ページ、『提督小沢治三郎伝』掲載の今村均回想より引用}}
 
第十六軍参謀長[[岡崎清三郎]]陸軍少将と最上艦長[[曾爾章]]大佐は、同じ[[中学校]]の先輩と後輩という関係であった{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=268}}。最上艦長によれば、太平洋戦争後の岡崎は曾爾に「船上からまたとない珍しい海戦を見物させてもらった」と笑ったという{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=272}}。曾爾自身は、ジャワ方面の行動で最も残念だったのは(バタビア沖海戦の誤射ではなく)知床型給油艦[[鶴見 (給油艦)|鶴見]]が補給任務後に潜水艦([[:nl:Hr. Ms. K XV|K-15]])によって撃沈され多数の戦死者を出した事……と回想している{{#tag:Ref|曾爾「重巡最上出撃せよ」268頁では、鶴見は3月4日に潜水艦の雷撃で沈没したと記述している{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|p=268}}。実際は3月1日に雷撃されて中破して内地へ帰投、修理後の鶴見は[[ミッドウェー作戦]]にも参加した。1944年(昭和19年)8月5日、鶴見は潜水艦[[セロ (潜水艦)|セロ]]の雷撃で沈没した。なおバタビア沖海戦時、鶴見と同型艦の知床型給油艦[[襟裳 (給油艦)|襟裳]]が付近を行動しており、最上等に対し補給を実施していた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=136b}}。3月4日、襟裳は潜水艦[[S-39 (潜水艦)|S-39]]の雷撃で撃沈され、由良や松風が乗組員を救助している{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=136b}}。|group="注"}}。
 
のちの陸軍による神州丸[[海洋サルベージ|サルベージ]]作業中、「九三式」の刻印がある九三式魚雷の破片が船倉[[ヘドロ]]内より発見されたがこれはバンタム湾に投棄され証拠隠滅<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、55項。</ref>、陸軍省が企画した対外用公刊戦史『大東亜戦史 ジャワ作戦』(1942年11月)では、連合軍の駆逐艦や爆撃機の攻撃によって神州丸以下は沈没したことになっている。
 
以下は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍に対して第16軍司令官今村均陸軍中将と[[船舶司令部#隷下部隊|第1揚陸団]]長[[伊藤忍 (陸軍軍人)|伊藤忍]][[少将|陸軍少将]]が送った謝辞である<ref>第5水雷戦隊司令部「昭和十七年一月一日~昭和十七年三月十九日 第五水雷戦隊戦時日誌」 アジ歴、Ref.C08030119100</ref>。
203 ⟶ 233行目:
サルベージはまず右舷船底のヘドロを除去し破口を木材にて密封、これは8月中旬までに完了。9月には船内の排水作業を行いつつ傾斜を復元させ23日に船体は浮上、船内の洗浄・消毒・整備を経て12月13日に総合運転試験をパスした。破口はあくまで応急修理であるため日本本土への回航は不安視されたため、12月25日にシンガポールの海軍のドック(セレタードック)に移送、約2ヶ月後に[[入渠]]し[[1943年]](昭和18年)4月30日まで各部の補強を受けた。なお、当時セレタードックは海軍艦艇の修理で手一杯であったが、海軍に沈められた神州丸は(入渠に約2ヶ月要しているものの)優先して修理されることになっていた<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、55項。</ref>。
 
5月1日、「お色直し」がされ出渠した神州丸は[[ゴム|生ゴム]]1,000t分の資源と本土帰還者を乗せた。6日護衛神州丸(龍城)は峯風型駆逐艦1隻とともに6日[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]護衛されてシンガポールを出港する<ref>[[#S1803一海護日誌(2)]]pp.14-16(昭和18年5月10作戰経過概要)(5月6項)「潮風(龍城)昭南発」</ref>。12日、[[台湾]]の[[馬公市|馬公]]寄港する<ref>[[#S1803一海護日誌(2)]]pp.14-16(昭和18年5月、作戰経過概要)(5月12日項)「潮風(龍城)馬公着」</ref>。佐々木船長の機転で土産として[[バナナ]]を大量に積み込んだ。14日15馬公を出発<ref>[[#S1803一海護には誌(2)]]pp.14-16(昭和18年5月、作戰経過概要)(5月14日項)「潮風(龍城)馬公発」</ref>。まもなく[[九州]]の[[門司区|門司]]に到着した<ref>[[#S1803一海護日誌(2)]]pp.14-16(昭和18年5月、作戰経過概要)(5月17日項)「潮風(龍城)門司着」</ref>。[[似島検疫所]]を経て18日に宇品へ帰還したが、7月中旬から10月頃にかけて播磨造船所に入渠し修繕工事が行われている<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、55項。</ref>。
 
==== 輸送・揚陸作戦 ====
1943年11月、完全復帰した神州丸はその搭載能力を生かし数々の輸送任務に投入され、[[1944年]](昭和19年)5月までに[[パラオ]]・[[高雄市|高雄]]・シンガポール・[[釜山広域市|釜山]]等各方面を巡っている。
 
===== ヒ57船団 =====
[[1944年]](昭和19年)4月上旬、神州丸は[[ヒ57船団]]([[ヒ船団]])に加入した{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=683-684|ps=(ヒ57船団編成表)}}。神州丸を含む加入船舶9隻を、大鷹型航空母艦[[海鷹 (空母)|海鷹]](元[[あるぜんちな丸]])と海防艦([[択捉 (海防艦)|択捉]]、[[壱岐 (海防艦)|壱岐]]、[[占守 (海防艦)|占守]]、[[第八号海防艦|第8号]]、[[第九号海防艦|第9号]])他で護衛した{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=378a-379|ps=海鷹(旧名あるぜんちな丸)(一)ヒ五七船団}}。旗艦は択捉で、海鷹は[[第九三一海軍航空隊]]の[[九七式艦上攻撃機]] 12機を搭載していた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=684}}。4月1日、ヒ57船団は門司を出撃、16日シンガポールに到着した{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=378b-379}}。帰路は[[ヒ58船団]]となり{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=684}}、神州丸を含む加入船舶7隻を海鷹および海防艦(択捉、壱岐、占守、第9号)が護衛した{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=379a|ps=海鷹(二)ヒ五八船団}}。4月21日、ヒ58船団はシンガポールを出発する{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=379b}}。4月24日、サイゴン沖合を潜水艦[[ロバロー (潜水艦)|ロバロ―]]が航行しており、同海域にヒ58船団が接近していた{{Sfn|潜水艦攻撃|2016|pp=246a-247|ps=●米潜水艦ロバロ(1944年4月24日)}}{{#tag:Ref|ロバロ―艦長は、真珠湾攻撃時の太平洋艦隊司令長官[[ハズバンド・キンメル]]大将の長男[[マニング・キンメル]]少佐であった{{Sfn|潜水艦攻撃|2016|p=247}}。|group="注"}}。海鷹より発進した九七艦攻はロバロ―を爆撃し、同艦は損傷した{{Sfn|潜水艦攻撃|2016|p=246b}}。5月3日、ヒ58船団は門司に到着した{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=379b}}。
 
===== ヒ65船団 =====
[[1944年]](昭和19年)5月下旬、神州丸は第七護衛船団司令官[[松山光治]]少将を指揮官とする[[ヒ65船団]]に加入した{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=379c|ps=海鷹(三)ヒ65船団}}。神州丸をふくむ加入船舶12隻を、練習巡洋艦[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]と軽空母[[海鷹 (空母)|海鷹]]などが護衛した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=685a|ps=(ヒ65船団編成表)}}。松山少将は香椎を旗艦とした{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=555-556|ps=(ヒ65船団編成表)}}{{#tag:Ref|松山光治少将は[[1942年]](昭和17年)8月当時の第十八戦隊([[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]])司令官で、外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]中将([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官、旗艦「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」)の[[ガダルカナル島]]突入作戦に直訴して同行を許可され{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=256-257|ps=坐り込み強訴(1942年8月)}}、天龍と臨時指揮下の[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]と[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]を率いて[[第一次ソロモン海戦]]に参加した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=258-259}}。|group="注"}}。
シンガポール行き[[ヒ65船団]]([[ヒ船団]])に加入し南下中の6月2日、[[バシー海峡]]にてアメリカ海軍の潜水艦[[ピクーダ (潜水艦)|ピクーダ]]の魚雷攻撃を回避しようとした僚船たる輸送船の[[有馬山丸]]が神州丸の船尾に衝突、[[対潜戦|対潜]]用に搭載していた爆雷が誘爆し、約200名が死亡する事故が起きた。大破した神州丸は[[香取型練習巡洋艦]]の[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]に曳航され[[基隆市|基隆]]で7月末まで修理を受け、8月の宇品帰還後は、11月まで釜山への輸送任務を幾度も行っている。
5月29日、ヒ65船団は北九州[[門司港|門司]]を出発する{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=685b}}。シンガポールを目指して[[バシー海峡]]を南下中の6月2日、護衛の海防艦[[淡路 (海防艦)|淡路]]がアメリカ潜水艦[[ギターロ (ガトー級潜水艦)|ギターロ]]により撃沈された{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=557}}{{Sfn|海防艦激闘記|2017|p=231|ps=淡路(あわじ)}}。当時は[[雨]]で視界は不良、船団は[[単縦陣]]で側面を海防艦が護衛していたという{{Sfn|海防艦激闘記|2017|pp=154-157|ps=船団の身代わりとなった淡路}}。つづいて魚雷攻撃を回避しようとした輸送船[[有馬山丸]](三井商船、8,967総トン)が神州丸の船尾に衝突する{{#tag:Ref|『日本空母戦史』685頁や『日本軽巡戦史』557頁では「ギタローの雷撃を回避しようとした有馬山丸が神州丸に衝突した」と記述し、潜水艦[[ピクーダ (潜水艦)|ピクーダ]]の襲撃については触れていない。|group="注"}}。有馬山丸には魚雷が命中していたが、早爆か不発のため小破であった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=686}}。一方、神州丸では[[対潜戦|対潜]]用に搭載していた爆雷が誘爆し、航行不能になった。積荷の[[カーバイト]]に引火したという回想もある{{Sfn|海防艦激闘記|2017|p=156}}。約200名が死亡した。神州丸は香椎に曳航され、海防艦[[千振 (海防艦)|千振]]と[[第十九号海防艦|19号]]{{#tag:Ref|『日本軽巡戦史』557頁では香椎と神州丸の護衛は千振のみとし、第19号海防艦については記載していない{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=557}}。|group="注"}}に護衛されて[[基隆市|基隆]]にむかった{{Sfn|海防艦激闘記|2017|p=156}}。高雄到着後、香椎等はヒ65船団に戻っていった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=557}}。神州丸は同地で7月末まで修理を受け、8月の宇品帰還後は、11月まで釜山への輸送任務を幾度も行っている。
 
これ以降の[[フィリピン]]輸送作戦は、揚陸艦として建造された神州丸以下特種船達の揚陸能力を最大限に生かす最後の作戦となった<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、65項。</ref>。
 
===== ヒ81船団(タマ33船団) =====
[[File:AkitsuMaru.jpg|thumb|right|250px|丙型特種船あきつ丸。[[対潜哨戒機]]を運用可能な揚陸艦兼[[護衛空母]]への改装後の撮影]]
{{main|ヒ81船団}}
11月、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピン防衛戦]]のため精鋭[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]を緊急輸送する任務が<ref>[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]|1970|pp=468-469頁『|ps=十七日の大本營陸海両部の合同と当時の状況』</ref>}}、神州丸およびあきつ丸(丙型)・摩耶山丸(甲型)・[[吉備津丸]](甲型)の特種船に与えられた<ref name="叢書四一469">[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]469|1970|pp=469a-470頁『|ps=第二十三師団主力海難の報到る』</ref>}}このため、日本軍は[[ルソン]]島[[マニラ]]行き神州丸以下特種船々団と、本来のシンガポール行き[[タンカー]]船団ととも複数隻より、[[ヒ81船団]]を編成、14した{{Sfn|本空母戦史|1977|pp=817-823|ps=神鷹・あきつ丸・神州丸}}(指揮官は第八護衛船団司令官[[伊万里湾佐藤勉 (軍人)|佐藤勉]]を出港した(本船団は少将、旗艦「[[聖川丸 (設水上機母艦)|聖川丸]]」){{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=381a-382|ps=神鷹(旧獨商と高速タシャルカーが主体となり、ホルスト号)(五)ヒ八一船団}}。[[護衛船団|護衛]]には海軍の[[大鷹型航空母艦|軽空母]]の[[神鷹 (空母)|神鷹]]、松型駆逐艦[[樫 (松型駆逐艦)|樫]]および[[海防艦]]5隻([[対馬 (海防艦)|対馬]]、[[択捉 (海防艦)|択捉]]、[[昭南 (海防艦)|昭南]]、[[久米 (海防艦)|久米]]、[[大東 (海防艦)|大東]])が就く日本軍としては極めて豪華な編制であっ)<ref name="{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=381b}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=818a-819|ps=(ヒ八十469" />船団編成表)}}
 
空母神鷹には対潜飛行部隊として[[第九三一海軍航空隊]]の[[九七式艦上攻撃機]]14機が搭載され{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=819}}、目視が可能な昼間には2機が常時飛行し哨戒と警戒にあたった{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=259}}。また神州丸・あきつ丸および護衛各艦も水中聴音機を使用し敵潜水艦を警戒していた。なお、当時の「あきつ丸」は対潜用[[護衛空母]]として改装後の姿であったが、護衛に神鷹があることと大規模な軍隊輸送のため対潜飛行部隊([[独立飛行第1中隊]]・[[三式指揮連絡機]])は陸揚げされ、飛行甲板や舟艇用格納庫には[[四式肉薄攻撃艇]]を{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=262|ps=同著では特攻ボート[[震洋]]100隻搭載と記述。}}、航空機格納庫には物資等を満載している{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=818b}}
 
11月14日、ヒ81船団は[[伊万里湾]]を出港した{{Sfn|戦史叢書46|1971|p=382}}。
しかし15日正午頃、[[五島列島]]沖において護衛各艦および九三一空機の哨戒の隙を突かれ、あきつ丸がアメリカの潜水艦[[クイーンフィッシュ (潜水艦)|クイーンフィッシュ]]の雷撃で輸送弾薬が誘爆炎上、転覆[[轟沈]]した<ref name="叢書四一469" />。また17日18時に摩耶山丸がピクーダ、同日23時に神鷹が[[スペードフィッシュ (潜水艦)|スペードフィッシュ]]の雷撃でそれぞれ撃沈された<ref name="叢書四一469" />。これにより輸送部隊の半分を喪失、3隻合計で約6,200ないし6,700名が戦死した。
11月15日正午頃、[[五島列島]]沖において、あきつ丸がアメリカ潜水艦([[クイーンフィッシュ (潜水艦)|クイーンフィッシュ]])の雷撃で炎上、沈没した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=221}}。また17日18時に摩耶山丸が米潜水艦([[ピクーダ (潜水艦)|ピクーダ]])の雷撃で沈没した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=221}}。同日23時には、神鷹が米潜水艦[[スペードフィッシュ (潜水艦)|スペードフィッシュ]]の雷撃で沈没した{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=260}}{{Sfn|海防艦激闘記|2017|pp=121-122|ps=護衛空母「神鷹」」艦長}}。これにより輸送部隊の半分を喪失、3隻合計で約6,200ないし6,700名が戦死した{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=469a-470|ps=第二十三師団主力海難の報到る}}。
 
===== タマ33船団 =====
[[File:Kibitsu Maru.jpg|thumb|right|250px|甲型特種船吉備津丸。重武装の特種船であり[[レーダー]]も装備していた]]
眼前で僚船を撃沈された神州丸・吉備津丸に被害は無く、11月21日に上海沖合で沈没艦生存者をおろした{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=823}}。25日に同じく無傷のタンカー船団(ヒ81船団)と分離したのち、26日と28日に[[高雄港]](台湾)到着<ref name="叢書四一487">[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]|1970|pp=487-488頁</ref><ref name="叢書四一503">[[#叢書41}}{{Sfn|戦史叢書41巻]]503頁『|1970|p=503a|ps=注、吉備津丸、神州丸に移載時の第二十三師団主力の惨状』</ref>}}。タマ33船団に改編した。
当時のフィリピン戦線では輸送船や[[機帆船]]はもちろん、[[駆逐艦]]や[[輸送艦]]([[第一号型輸送艦]]、[[第百一号型輸送艦|SB艇]])すら次々に撃沈され、陸兵の輸送用船舶確保すら困難になっていた<ref name="叢書四一470">[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]470|1970|pp=470a-471頁『|ps=陸軍部苦慮』</ref>}}。このため、吉備津丸・神州丸(途中から青葉山丸を追加)<ref name="{{Sfn|戦史叢書四一470" />41|1970|p=470b}}による第二十三師団、第十師団、第十九師団の高雄~ルソン折り返し輸送の計画がたてられた<ref>[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]|1970|p=485頁『|ps=陸命第千百八十七-八号(二十日)(要約)』</ref><ref name="叢書四一495">[[#叢書41}}{{Sfn|戦史叢書41巻]]|1970|pp=495-496頁『|ps=大本營陸軍部の船舶についての苦慮』</ref>}}。しかしフィリピン戦線の状況は日々悪化し、[[大本営]]の憂慮は深まるばかりだった<ref name="{{Sfn|戦史叢書四一41|1970|pp=487" />-488}}
 
吉備津丸と神州丸は第二十三師団残余のみを搭載し<ref name="叢書四一503" />、30日に高雄を出発<ref name="叢書四一487" />。12月2日[[サンフェルナンド (ラ・ウニョン州)|北サンフェルナンド]](当初のマニラより変更)へ到着、輸送部隊を揚陸し任務を達成した<ref name="叢書四一487" /><ref name="叢書四一495" />。12月4日、北サンフェルナンドを出発した<ref name="叢書四一487" />。
吉備津丸と神州丸は第二十三師団残余のみを搭載し{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=503b}}、30日に高雄を出発{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=487-488}}。12月2日、[[ルソン島]][[サンフェルナンド (ラ・ウニョン州)|北サンフェルナンド]](当初のマニラより変更)へ到着、輸送部隊を揚陸し任務を達成した{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=487-488}}。12月4日、北サンフェルナンドを出発した{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=487-488}}。
 
===== タマ38船団 =====
{{main|ヒ85船団#ルソン島分遣船団}}
12月、同じくルソン島への精鋭部隊([[第19師団 (日本軍)|第19師団]]・[[第1挺進集団]])輸送任務が神州丸および吉備津丸・[[日向丸 (特種船)|日向丸]](M甲型) に与えられた{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=824a-826|ps=陸軍空母神州丸の沈没(昭和20年1月3日)―米空母機により}}。第十九師団(虎兵団)第一梯団は12月18日に門司を出発<ref name="叢書六〇31">[[#叢書60する{{Sfn|戦史叢書60巻]]31頁〔|1972|p=31a|ps=(挿図〕</ref>)}}。日向丸と青葉山丸には、[[第1挺進集団]]の第二滑空聯隊が乗船していた<ref>[[#叢書41{{Sfn|戦史叢書41巻]]|1970|pp=558-559頁〔|ps=挿図〕</ref>。[[ヒ85船団|タマ38船団]]は26日に高雄を出港、特種船3隻と1隻の輸送船[[青葉山丸]]は数隻の海防艦に護衛され、29日北サンフェルナンドへ到着<ref name="叢書六〇31" /><ref name="叢書六〇84">[[#叢書60|戦史叢書60巻]]84-85頁『虎兵団』</ref>。揚陸作業中に[[アメリカ陸軍航空軍]][[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]の攻撃を受け青葉山丸が沈没するも<ref name="叢書六〇84" />、神州丸以下は31日深夜までに輸送物件の大半を無事に揚陸、輸送任務は成功した<ref name="叢書六〇84" />}}
特殊輸送船4隻(神州丸、吉備津丸、日向丸、青葉山丸)、海防艦[[三宅 (海防艦)|三宅]]以下数隻の海防艦で編成された[[ヒ85船団|タマ38船団]]は26日に高雄を出港する{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=824b|ps=(タマ38船団編成表)}}{{Sfn|三宅戦記|2013|p=119}}。29日、ルソン島北サンフェルナンドへ到着{{Sfn|戦史叢書60|1972|p=31b}}{{Sfn|戦史叢書60|1972|pp=84a-85|ps=虎兵団}}。揚陸作業中に[[アメリカ陸軍航空軍]][[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]の双発攻撃機{{#tag:Ref|『日本空母戦史』825頁によれば、南ミンドロ島より発進した[[A-20 (航空機)|A-20双発地上襲撃機 ハボック]]で、日本側は双発の[[B-25 (航空機)|B-25型中爆撃機]]と誤認した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=825}}。|group="注"}}。攻撃を受け、[[青葉山丸]]と[[第二十号海防艦]]が沈没する{{Sfn|三宅戦記|2013|pp=124-125}}。神州丸以下は31日深夜までに輸送物件の大半を無事に揚陸、輸送任務は成功した{{Sfn|戦史叢書60|1972|pp=84b-85}}。
 
===== 最期(マタ40船団) =====
[[File:ShinshuMaru-1945.jpg|thumb|right|200px|1945年1月3日、ホーネット他艦載機の空襲を受ける'''僚船たる吉備津丸または日向丸''']]
{{main|ヒ85船団#ルソン島分遣船団}}
同時期、フィリピン近海には[[第38任務部隊]]が接近しており、戦艦[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]に将旗を掲げる[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督は「小沢機動部隊の最後の生き残りである航空戦艦[[日向 (戦艦)|日向]]と[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]を撃沈してやろう」と闘志を燃やしていた{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=806-809|ps=日向、伊勢をキャッチせよ(一月)}}。
年が明けた[[1945年]](昭和20年)1月1日3時55分、タマ38船団で揚陸任務を成功させた神州丸および吉備津丸・日向丸は帰還便乗者数百名を乗せ、海防艦[[三宅 (海防艦)|三宅]]以下6隻を護衛としマタ40船団を編成、サンフェルナンドを出港した。
年が明けた[[1945年]](昭和20年)1月1日3時55分、タマ38船団で揚陸任務を成功させた神州丸および吉備津丸・日向丸は帰還便乗者数百名を乗せ、海防艦[[三宅 (海防艦)|三宅]]以下6隻を護衛としマタ40船団を編成、サンフェルナンドを出港した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=714}}。海防艦[[干珠 (海防艦)|干珠]]と[[生名 (海防艦)|生名]]はマタ38A船団からマタ40船団に編入されていた{{Sfn|三宅戦記|2013|p=126}}。
 
3日0時30分、バシー海峡を突破した船団は高雄沖に到着し投錨した{{Sfn|三宅戦記|2013|p=127}}7時、高雄入港のため抜錨するところ台湾はアメリカ海軍[[空母機動部隊]]([[第38任務部隊]])の搭載機により空襲中との情報を入手されていた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=825}}。回避のため中国本土へ変針したが、7時50分に第38任務部隊の索敵機2機と遭遇、索敵機は船団警戒のため出撃していた海軍の[[飛行艇]]([[第九〇一海軍航空隊]]の[[九七式艦上攻撃機]]とも){{Sfn|三宅戦記|2013|p=128}}を撃墜し去った。こののち爆装した敵[[艦上爆撃機]]3機が飛来するも、神州丸以下は対空戦闘を敢行しこれを撃退<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、63項。</ref>。
 
11時30分、空母[[ホーネット (CV-12)]]他より約50機の敵大編隊が襲来、爆撃機・[[雷撃機]]が船団の中でもひときわ異様な船型の神州丸を集中攻撃していった。神州丸は巧みな操船と船砲隊の対空戦闘により十数発の爆弾・魚雷を回避するも、戦闘開始約10分後ついに船橋付近と煙突付近に爆弾が直撃。爆弾は馬欄甲板(旧:航空機格納庫)を貫き上甲板上で爆発し火災が発生した。攻撃は15分程で終わり敵機も空母に帰還したが、神州丸の延焼を防ぐことは出来ず搭載弾薬も誘爆したため、中村船長は総員退船命令を発し同じく12時30分には今野船砲隊長も退船命令を発令、神州丸は放棄された。戦死者は船員33名・船砲隊66名・便乗者283名に上る<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、65項。</ref>。生還した神州丸の乗員は海防艦に救助され、また僚船の吉備津丸は3発の直撃弾を受けていたが日向丸ともども健在であり、これら残ったマタ40船団は目的地高雄に入港した<ref>[[#奥本 2011|奥本 2011]]、63・65項。</ref>。
 
放棄された神州丸は[[喫水|水線下]]には被害を受けていなかったため、沈むことなく炎上を続けながら[[漂流]]した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=826}}。しかし約12時間後、夜間で炎に照らされるその姿が目標となり、1945年1月3日23時37分にアメリカ海軍の潜水艦[[アスプロ (潜水艦)|アスプロ]]の雷撃を受け高雄沖南南西約90km、北緯21度57分・東経119度44分の地点で沈没した。
 
== 主要船歴 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''参照'''
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
{{Commonscat|Shinshū Maru (ship, 1934)}}
<!--ウィキペディア[[参考文献を明記する]]により、著者五十音順 -->
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*<!--ホウエイチョウ41 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) {{small|レイテ決戦}}|volume=第41巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書41}}
 
*<!--ホウエイチョウ60 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 捷号陸軍作戦(2) {{small|ルソン決戦}}|volume=第60巻|year=1972|month=11|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書60}}
 
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
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** 陸軍運輸部 「神州丸用探照灯保管転換ノ件」 1936年4月8日、アジ歴、Ref.C01004243600
** 陸軍運輸部 「神州丸無線電信所開設ノ件」 1934年12月10日、アジ歴、Ref.C01004129900
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030139400|title=昭和18年3月1日~昭和18年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)|ref=S1803一海護日誌(2)}}
 
== 関連項目 ==
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[[Category:IHIが建造した船舶]]
[[Category:第二次世界大戦の沈没船]]