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[[ファイル:Nomugi Pass Masai Mine and Masai Tatsujiro statue.jpg|right|140px|thumb|辰次郎に背負われるみねの像(野麦峠にて)]]
みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳<!-- ←? -->になった[[1903年]][[2月]]。交通の難所として名高い野麦峠の中でも[[寒冬|厳冬]]の時期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である。(後に雪が赤く染まる理由は女工達の着物の染料だと分かったが、
製糸工場、山一林組で働く事となったみねを待っていたものは、
時は経ち、工女の模範となって年収が百円を超えた(通称、百円工女、当時の百円は現在の一千万~三千万円程<!-- ←? -->)みねに突然訪れた[[病気|病]]、それは重度の[[腹膜炎]]であった。知らせを受け、みねを引き取りに来た兄・辰次郎は[[松本市|松本]]で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。帰路の途中、多くの女工が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「あぁ、飛騨が見える」と言い残し、息を引き取った。[[1909年]][[11月20日]]<!-- 専勝寺のみねの墓の前に立てられてる看板には11月21日とあるようです。要検討-->[[午後]]2時、わずか21歳での死であった。<!--なお、後にみねの妹「ふよ」も同じ病で亡くなっている。-->
この史実は[[山本茂実]]の小説「[[あゝ野麦峠]]」([[大竹しのぶ]]主演で映画化、その後[[森下愛子]]主演でテレビドラマ化)で有名になったもので、野麦峠にある慰霊碑や飛騨市河合町角川の[[専勝寺]]にある墓には、死後100年を経過した現在でもその死を悼んで訪れる人がいる。
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