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[[ファイル:Nomugi Pass Masai Mine and Masai Tatsujiro statue.jpg|right|140px|thumb|辰次郎に背負われるみねの像(野麦峠にて)]]
みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳<!-- ←? -->になった[[1903年]][[2月]]。交通の難所として名高い野麦峠の中でも[[寒冬|厳冬]]の時期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である。(後に雪が赤く染る理由は女工達の着物の染料だと分かっ足を踏み外して谷恐らくその中滑落する者は女工の血液も含まれていた)また、峠の宿(お助け茶屋)に入りきらずに[[吹雪]]なか外で夜を明かす者もいたという。
 
製糸工場、山一林組で働く事となったみねを待っていたものは、現在とは比較にならないほど劣悪な環境下での労働であった。15時間にも及ぶ長時間労働に加えに至ることもあったが蒸し暑さや悪臭など当時の製糸業漂う工場で実家労働は生半可農作業に比べ比較にものらない高収入はなくあったことや工女の逃亡を防ぐため同じ工場に鉄製男性労働者よりも賃金張ら高かったこと等複雑な背景が描かれているという[[監獄]]にも近い状態であったが、みねを含め多くの少女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できる事を信じ、歯を食いしばって耐えたのである。(その結果、当時の生糸の輸出は日本の総輸出量の3分の1にもなった)<ref>[[続・あゝ野麦峠]]</ref>
 
時は経ち、工女の模範となって年収が百円を超えた(通称、百円工女、当時の百円は現在の一千万~三千万円程<!-- ←? -->)みねに突然訪れた[[病気|病]]、それは重度の[[腹膜炎]]であった。知らせを受け、みねを引き取りに来た兄・辰次郎は[[松本市|松本]]で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。帰路の途中、多くの女工が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「あぁ、飛騨が見える」と言い残し、息を引き取った。[[1909年]][[11月20日]]<!-- 専勝寺のみねの墓の前に立てられてる看板には11月21日とあるようです。要検討-->[[午後]]2時、わずか21歳での死であった。<!--なお、後にみねの妹「ふよ」も同じ病で亡くなっている。-->
 
この史実は[[山本茂実]]の小説「[[あゝ野麦峠]]」([[大竹しのぶ]]主演で映画化、その後[[森下愛子]]主演でテレビドラマ化)で有名になったもので、野麦峠にある慰霊碑や飛騨市河合町角川の[[専勝寺]]にある墓には、死後100年を経過した現在でもその死を悼んで訪れる人がいる。