削除された内容 追加された内容
リンク修繕
タグ: Refタグつき記述の除去 ビジュアルエディター
(4人の利用者による、間の6版が非表示)
19行目:
|casualties2 = 死傷 約35,000
|}}
'''日清戦争'''(にっしんせんそう)は、[[1894年]]([[明治]]27年)[[7月25日]]から[[1895年]](明治28年)[[4月17日]]にかけて[[大日本帝国|日本]]と[[清国]]の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は[[台湾]]の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。[[李氏朝鮮]]の地位確認と[[朝鮮半島]]の権益を巡る争いが直接の原因となって引き起こされ、事実上の代理戦争状態となり主に[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]および[[黄海]]で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる[[日清講和条約|日清講和条約(下関条約)]]の調印によって終結した。
 
講和条約の中で日本は、清国に[[李氏朝鮮]]に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から[[台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の[[三国干渉]]により[[遼東半島]]は手放す事になった。戦争に勝利した日本は、アジアの[[近代国家]]と認められて国際的地位が向上し、受け取った賠償金は国内産業の発展に活用されて日本は本格的な[[工業化社会|工業化]]の第一歩を踏み出した。
26行目:
 
== 概要 ==
==='''東学農民運動と日清駐兵'''[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63.jpg|代替文===|境界|右|フレームなし]]
[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63.jpg|代替文=|境界|右|フレームなし]]
 
1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の[[東学党]]の下で蜂起し[[甲午農民戦争|農民反乱]]が勃発した。1894年、[[李氏朝鮮]]は、自力での[[東学党の乱]]平定鎮圧が不可能とわかると、清国と大日本帝国に救援な事求めた<ref name="inoki11">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、11頁。</ref>。<!--木村幹『高宗・閔妃: 然らば致し方なし』ミネルヴァ書房、2007年12月、ISBN 978-4-623-05035-2、17、63、64。---><!--東学党によて首都ソウルを脅かされた[[李氏朝鮮|李氏朝鮮政府]]は、5月末に宗主国である清国の来援を仰いだ求めた---><!--主語が高宗ならOK--->清国側の派兵の動きを見た日本政府も[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し5日に[[大本営]]を設置した。日清双方による本側も部隊派遣を送り込んできた事を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全に収まっていないとして15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。
[[ロシア帝国]]は1891年に[[シベリア鉄道]]建設などで[[清国]]進出を開始し、[[南下政策|ロシア南下]]は[[大日本帝国]]にとって脅威となった<ref name="inoki9to17">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、9~17頁。</ref>。イギリスもロシア帝国の南下を警戒していた<ref name="inoki9to17"/>(のち[[日英同盟]]締結<ref name="inoki18to25">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、18~25頁。</ref>)。ロシア帝国は[[ウラジオストク]]基地保護のために[[朝鮮半島]]制圧を意図した<ref name="inoki9to17"/>。
 
==='''日清開戦==='''
[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63.jpg|代替文=|境界|右|フレームなし]]
1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の[[東学党]]の下で蜂起し[[甲午農民戦争|農民反乱]]が勃発した。1894年、[[李氏朝鮮]]は、自力での[[東学党の乱]]平定が不可能とわかると、清国と大日本帝国に救援を求めた<ref name="inoki11">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、11頁。</ref>。<!--木村幹『高宗・閔妃: 然らば致し方なし』ミネルヴァ書房、2007年12月、ISBN 978-4-623-05035-2、17、63、64。---><!--東学党によって首都ソウルを脅かされた[[李氏朝鮮|李氏朝鮮政府]]は、5月末に宗主国である清国の来援を仰いだ。---><!--主語が高宗ならOK--->清国側の派兵の動きを見た日本政府も[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し5日に[[大本営]]を設置した。日清双方による部隊派遣を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全に収まっていないとして、15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言してこれが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。
 
1894年7月9日に開かれた会談は上旬、同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を主張要求する日本側の間で意見が対立して交渉は平行線を辿ったまま決裂し、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に[[日英通商航海条約]]を結ぶ事に成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を事実上占拠して[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。この大義名分の下、7月25日の[[豊島沖海戦|海戦]]と28日の[[成歓の戦い|陸戦]]によって清国駐留部隊を駆逐しソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。
===日清開戦===
1894年7月9日に開かれた会談は、同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、内政改革を主張する日本側の間で意見が対立して決裂し、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その中で日本はイギリスとの外交交渉を続け、7月16日に[[日英通商航海条約]]を結ぶ事に成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を事実上占拠して[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。この大義名分の下、7月25日の[[豊島沖海戦|海戦]]と28日の[[成歓の戦い|陸戦]]によって清国駐留部隊を駆逐しソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。
 
'''戦争の推移'''[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63First_Chinese_Japanese_war_map_of_battles_Ja.jpgpng|代替文=|境界|右|フレームなし|236x236ピクセル]]
===戦争の推移===
1894年8月から日本帝国陸軍は清国陸軍を撃破しつつ[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]を制圧し、日本帝国海軍は9月の[[黄海海戦 (日清戦争)|艦隊決戦]]に勝利した後に[[旅順港]]と[[威海衛]]を攻略して翌年2月に[[黄海]]と[[渤海]]の制海権を掌握した。近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになったことで、清国の首都[[北京市|北京]]と[[天津市|天津]]一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地となったのは、[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]と[[満州]]最南部および[[黄海]]と[[山東半島]]東端であった。
[[ファイル:First_Chinese_Japanese_war_map_of_battles_Ja.png|代替文=|境界|右|フレームなし|236x236ピクセル]]
1894年8月から大日本帝国陸軍は清国陸軍を撃破しつつ[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]を制圧し、大日本帝国海軍は9月の[[黄海海戦 (日清戦争)|艦隊決戦]]に勝利した後に[[旅順港]]と[[威海衛]]を攻略して翌年2月に[[黄海]]と[[渤海]]の制海権を掌握した。近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになったことで、清国の首都[[北京市|北京]]と[[天津市|天津]]一帯は丸裸同然となり、清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地となったのは、[[朝鮮半島]]と[[遼東半島]]と[[満州]]最南部および[[黄海]]と[[山東半島]]東端であった。
 
==='''講和条約の調印==='''
6月8日、清国は1500名の兵員を牙山に上陸させ、6月9日、大日本帝国の大鳥圭介公使が300名の陸戦隊とともに漢城に帰任し、7000余名の混成旅団も派遣された<ref name="inoki11"/>。
 
1895年(明治28年)4月17日に調印された[[下関条約|日清講和条約]]の中で、日本は[[李氏朝鮮]]の独立を清国に認めさせた。また[[台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲させ<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、3~5頁。</ref>、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する[[最恵国待遇]]も承認させた。講和直後の23日に[[三国干渉|露仏独三国の外交要求]]が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に[[大本営]]が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。
大日本帝国は清国に共同での李氏朝鮮の内政改革を提案したが、清国が拒絶して[[日清戦争]]が勃発した<ref name="inoki12">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、12頁。</ref>。
 
===講和条約の調印===
1895年(明治28年)4月17日に調印された[[下関条約|日清講和条約]]の中で、日本は[[李氏朝鮮]]の独立を清国に認めさせた。また[[台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲させ<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、3~5頁。</ref>、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する[[最恵国待遇]]も承認させた。講和直後の23日に[[三国干渉|露仏独三国の外交要求]]が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に[[大本営]]が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。
 
== 戦争目的と動機 ==
110 ⟶ 103行目:
旧来、朝鮮の対外的な[[安全保障政策]]は、宗主国の清一辺倒であった<ref>以下、明記されていない出典は、岡本 (2008)、125-136頁。</ref>。しかし、[[1882年]](明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力<ref group="*">[[1881年]](光緒7年)、清の[[北洋通商大臣]][[李鴻章]]は、イリ地方の紛争に対して武力鎮圧を決断し、その行動の結果、自国に有利な条件でロシアと[[イリ条約]]を結んだ。そして同年、対朝鮮政策の所管を[[礼部]]から北洋通商大臣の直轄にかえ、翌1882年の壬午事変で派遣した部隊(3,000名)をそのまま朝鮮に駐留させた。加藤 (2009)、93-96頁。</ref>が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ<ref group="*">1881年末から朝鮮とアメリカの間で条約締結交渉が始まると、李鴻章と朝鮮の吏曹参議[[金允植]]が協議し、朝鮮側の条約草案が作成された。草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。岡本 (2008)、76頁。</ref>。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。
 
清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)<ref group="*">[[1882年]](明治15年)[[11月]](光緒8年[[10月 (旧暦)|]])から[[#日本政府内の朝鮮政策をめぐる路線対立|山縣有朋の意を汲んだ井上馨]]は、外務省を通して朝鮮中立化に動いており、この日本側の構想は卓抜していた。しかし、朝鮮の従属化を望む清、条約の批准もまだで時期尚早とする西洋諸国の反応がよくなかった。そして外交上の進展がないまま日本は、甲申政変を迎えた。岡本 (2008)、125-128頁。井上 (2010)。</ref>、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副[[領事]]ブドラーの朝鮮中立化案、のちに[[露朝密約事件#第一次露朝密約事件|露朝密約事件]]の当事者になる[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]のロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアと[[グレート・ゲーム]]を繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして[[1885年]](光緒11年)、[[アフガニスタン]]での紛争をきっかけに、ロシア艦隊による[[永興湾要塞|永興湾]]([[元山市|元山]]沖)一帯の占領の機先を制するため、[[4月15日]]([[3月1日 (旧暦)|3月1日]])に[[巨文島]]を占領した<ref group="*">巨文島の占領についてイギリスは、朝鮮に通告せず、清(宗主国)の駐英[[外交官]]に伝えて了承を得ていた。もっとも、この外交官は、清にも朝鮮にも連絡をしなかった。また朝鮮は、日本から知らされるまでイギリス艦隊が巨文島に集結していることに気づかず、抗議など政治行動もとらなかった。しかし、李鴻章の警告書により、ようやく認識を改め、事態の収拾を図るものの、相手にされないなど効果がなかった。その後、清がイギリスとロシアの両者に働きかけ、前者による巨文島の占領が終わった([[1885年]]4月 - [[1887年]]3月)。呉 (2000)、152-154頁。</ref>。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫<ref group="*">[[1891年]](明治24年)、ロシアがフランス資本などの資金援助を受けながら、[[シベリア鉄道|シベリア横断鉄道]]の建設に着手した。この鉄道建設は、[[シベリア鉄道#歴史|イギリスに大きな衝撃を与えた]]。やがて日本にも、[[日露戦争#背景|危機感を抱かせることになる]]。</ref>してしまう。ロシアは[[ウラジオストク]]基地保護のために[[朝鮮半島]]制圧を意図した<ref name="inoki9to17">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、9~17頁。</ref>。
 
朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、[[1891年]](明治24年)の[[露仏同盟]]やフランス資本の資金援助による[[シベリア鉄道]]建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の[[1894年]](明治27年)[[7月16日]]、[[日英通商航海条約]]に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる<ref>原田 (2007)、47頁。</ref>。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった<ref>日清関係は[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]で、清露関係は李鴻章・ラデュジェンスキーの秘密合意(相互不可侵)で結ばれており、清朝関係は「属国」と「自主」が拮抗していた。</ref>。
170 ⟶ 163行目:
 
==== 豊島沖海戦・高陞号事件 ====
[[File:Naval battle.ogv|thumb|1894年当時の海戦の映像]]
[[画像:Chinese vessel sinking SinoJap War.jpg|thumb|150px|高陞号撃沈の場面を描いた絵]]
{{Main|豊島沖海戦}}
228 ⟶ 220行目:
 
==== 東学農民軍の再蜂起と鎮圧 ====
朝鮮では、[[東学]]が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、[[兵站]]部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。[[10月9日]]、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も[[開化]]も斥ける)をスローガンに、[[全ボン準|全琫準]]率いる[[甲午農民戦争#第二次蜂起|東学農民軍が再蜂起]]した<ref>呉 (2000)、162頁。</ref>。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の[[役種#日本陸軍|後備]]歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の[[両班]]士族や土豪などが参加する[[民堡]]{{small|(みんぽ)}}で編成された。11月下旬からの[[公州]]攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端[[海南]]・[[珍島]]まで追いつめて殲滅{{small|(せんめつ)}}した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている<ref>「知っておきたい韓国・朝鮮」歴史教育者協議会編 青木書店ISBN 4250920046。原田(2007)、71-72頁。</ref>。
 
=== 講和期 ===
241 ⟶ 233行目:
[[画像:First Sino-Japanese War Keio University.jpg|right|thumb|[[1895年]](明治28年)に戦勝祝賀を行う[[慶應義塾大学]]の炬火行列大運動会(カンテラ行列)]]
[[File:Weihaiwei surrender.jpg|thumb|「威海衝陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」 [[右田年英]]画 1895年(明治28年)。外国軍顧問団を連れて降伏する丁を描いた絵。ただし、丁は降伏せずに自殺しており、この絵は想像で描かれたもの。]]
[[File:Generals Pyongyang MigitaToshihide October1894.jpg|thumb|中国の「平壌大捷清軍は日本人に降伏する。日清戦争生捕之図」 [[右田年英]]画 189410日:1894年 – 1895年]]
[[File:Admiral Ding Juchang of the Chinese Beiyang Fleet, Totally Destroyed at Weihaiwei,.jpg|thumb|「提督丁汝昌於官宅自殺図」 [[水野年方]]画 1895年(明治28年)]]
{{Main|威海衛の戦い}}