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|casualties2=自沈 1<br>拿捕 1<br>死傷者約1100名
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'''豊島沖海戦'''(ほうとうおきかいせん)は、1894年(明治27年)7月25日、朝鮮半島中部西岸牙山湾の西にある豊島(現[[韓国]][[京畿道]][[安山市]][[檀園区]]豊島洞)沖<ref group="注釈">「挿図第二 豊島海戦ニ於ケル日清両艦隊航跡略図」(明治二十七八年日清戦史 付図・挿図)によると,実際の戦闘はショパイヲール島(蔚島)の南方海域で行われた</ref>にて、日本海軍[[連合艦隊]]と清国海軍[[北洋艦隊|北洋水師]](北洋艦隊)の間で行われた海戦。[[宣戦布告]]前に発生した。
== 豊島沖海戦 ==
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7月16日に[[日英通商航海条約]]が締結された事でイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日の大本営御前会議で清国との開戦を決定した。17日時点での朝鮮国京畿道ソウル周辺には清国兵2000名の駐留に対して日本兵は8000名と優位に立っており、清国側の兵員増派が到着する前に戦端を開こうとする算段だった。しかし16日の日英新条約調印時にイギリス側から暗に戦争回避を求められ、19日にも英国代理公使ラルフ・パジェットから戦争発生時は日本側に責任有りと見なすと通告されるなど、未だイギリスの立場に予断は許されなかった。
[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|サムネイル|223x223px|陸奥宗光外相]]
19日、日本政府は清国政府に対し「24日を過ぎても回答せずに兵員増派するならば我が国に対する威嚇行為と見なす」という内容の最後通牒を送り
23日午前11時、清国陸兵の増派を阻止する海上封鎖の任務を帯びて[[伊東祐亨]]中将率いる連合艦隊が佐世保から朝鮮半島の京畿湾に向けて出港した。[[坪井航三]]少将が指揮する第一遊撃隊「吉野」「秋津洲」「浪速」は先発隊としてソウル南方の牙山湾に向かった。{{要出典範囲|明けて24日、第一遊撃隊は牙山湾内にて清国軍艦「済遠」「広乙」が護送する陸兵1000名を乗せた輸送船「飛鯨号」の船団と出会うが|date=2019-3-4}}、期日前ゆえにそのまま素通りさせた。
[[ファイル:09-09-ansan-en.svg|サムネイル|戦場となった牙山湾]]
同日7時52分、南西方向に進み黄海に出ようとする「済遠」「広乙」と北上する第一遊撃隊「吉野」「秋津洲」「浪速」の双方が距離3000メートルまで近づいた時、豊島沖に轟音が響きどちらかの砲弾が発射された。清国側の主張によると日本艦艇が先に砲撃したとされ、また日本側の報告には「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来たとあった<ref> 25日午前7時、豊島の沖にて出会せり。 「済遠」「広乙」は司令官に礼砲をなさず。且つ戦争準備の模様なるにより、距離3000m、「吉野」即刻開戦砲撃す。アジ暦7月28日 伊東連合艦隊司令長官発 大本営宛 豊島沖海戦詳報【 レファレンスコード 】 C06060813500 </ref>。最初に砲撃したのはどちらなのか真相は定かではないが、清国は直前までイギリスに戦争回避の外交干渉を依頼しており更に当日の戦力も劣っていた事からその動機は薄く、反対に日本の開戦機運が高かった事を鑑みると、日本側が先に仕掛けた可能性を取る方が自然であるとする見方もある。
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[[ファイル:Tsuboi Kozo.jpg|サムネイル|248x248px|第一遊撃隊司令官・坪井航三少将]]
[[ファイル:Fang Boqian.jpg|サムネイル|257x257px|「済遠」管帯・方伯謙副将]]
海戦は彼我の間3000メートルの近距離から開始され、当日の天候は霧が濃く視界が悪かった。
北西方向に
間もなく煤煙の正体が砲艦「操江」と輸送船「高陞号」である事が分かると、第一遊撃隊は再び速度を上げて一気に距離を詰め「済遠」を射程内に捉えた後に速射砲を猛射した。砲弾が降り注ぐ中で方伯謙艦長は「操江」に信号を送って退避行動を取らせると<ref>「高陞号」との信号の間に済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百「メートル」に来る。浪速、側砲を発して之を撃ち。吉野も済遠号を撃つ。アジ暦 豊島沖海戦の詳報 平山八重山艦長【 レファレンスコード 】 C06061829400 </ref>、「済遠」のマストに白旗を上げさせ降服の意思表示をした。それを見た坪井少将は砲撃中止を命じるが「済遠」が停止せずに速度を維持し続けたので結局砲撃を再開させた。輸送船「高陞号」との距離が近づいた時、「済遠」はようやく減速を始めたので坪井少将は再び砲撃中止を命じ「済遠」の動きを注視した。
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===結果===
この海戦による日本側の死傷者は無かった。旗艦「吉野」が機関部に命中弾を得ていたが、
清国側は1100名が死傷したが、その内の900名近くは「高陞号」乗船の陸兵だった。加えて「広乙」を喪失し「済遠」は大破したと発表された。拿捕された「操江」は日本で様々に使用され豊島沖海戦 == 高陞号事件 ==
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人見大尉はカッター船に乗って高陞号に赴き、武器を手に殺気立つ清国兵達に囲まれた中で高陞号船長ガルス・ウォルズウェーと面談した。浪速の砲門が狙いを定めており清国兵も迂闊には手を出せなかった。人見大尉は高陞号の船籍と目的を尋ねて「英国ロンドンのインドシナ汽船会社代理店[[ジャーディン・マセソン]]社所有のイギリス船籍商船である事」と「清国政府にチャーターされ陸軍兵1100名と大砲14門その他を朝鮮国牙山港へ搬送する途中である事」を確認した。続けて高陞号を浪速に随行させるよう求めるとウォルズウェー船長が承諾したので、人見大尉は浪速に帰還しその旨を東郷大佐に報告した。
東郷大佐が自艦浪速に続くよう英文の手旗信号を送ると、高陞号から「重大事態発生」の信号が返って来た。清国兵の反抗を読み取った東郷大佐は再び人見大尉を高陞号に向かわせ、可能ならウォルズウェー船長を浪速に移乗させるよう指示した。しかし清国兵はイギリス人が船を降りるならば殺害すると脅迫しており、ウォルズウェー船長は高陞号を天津・大沽港に引き返させる妥協案を打診した。
高陞号から戻った人見大尉がそれを
===撃沈===
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=== 国際法 ===
帝国主義時代の数々の例で示されてる通り、国際法とはそれ自体が
高陞号に対しては元の天津・大沽港に引き返させるという最も無難で戦略面の不利益も少ない選択肢があり、撃沈時に起こりえる外交的リスクの方がはるかに大きかった。東郷大佐の査問の中でも「何故ただ引き返させなかったのか?」という声は上がっており、4時間も停留させた判断についても疑問が呈されていた。7月28日に行われた[[成歓の戦い]]に於いて旧態依然の清国軍に対する日本軍の近代化が証明された事はイギリスの東洋情勢分析に少なからぬ影響を与えていた。英タイムズ紙に日本擁護の寄稿が掲載されたのはその直後であった。イギリスのアジア戦略の変化次第で結果は全く変わり、25日が宣戦布告前のグレーゾーンである以上、国際法上の解釈も変わっていた可能性があった。
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ファイル:IJN gunboat SOKOU in 1897.jpg|[[操江]]
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== 注釈 ==
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== 脚注 ==
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