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== 概要 ==
[[Fileファイル:Yap Stone Money.jpg|thumb|200px|[[ヤップ島]]の[[石貨 (ヤップ島)|石貨]]。物品貨幣]]
=== 貨幣の起源・機能 ===
貨幣の起源は、古代中国で、市[[市場|場]]や[[貿易]]の起源とは別個にあるとされる。貨幣の機能には、(1)支払い、(2)価値の尺度、(3)蓄蔵、(4)交換手段があり、いずれか1つに用いら使われていれば貨幣と見なせる<ref>{{Sfn|ポランニー (1977) |2005|p=第9章</ref>}}
 
貨幣の4つの機能は、それぞれ異なる起源を持つ。(1)支払いのための貨幣は、責務の決済を起源とする。賠償、貢物、贈物、宗教的犠牲、納税などがこれにあたる。(2)価値尺度のための貨幣は、[[物々交換]]や財政の管理を起源とする。歴史的には単位のみの貨幣もで物理的に存在してきたない貨幣もある。(3)蓄蔵のための貨幣は、財や権力の蓄積を起源とする。食料や家畜、身分を表す財宝などがこれにあたる。(4)交換のための貨幣は、財を入手するための間接的交換を起源とする。売買がこれにあたる。4つの機能をすべて備えた貨幣が用いら使われるようになるのは、文字を持つ社会が発生して以降となる<ref>{{Sfn|ポランニー (1977) |2005|p=第9章</ref>}}
 
前述のように貨幣には4つの機能があり、いずれかに使われていれば貨幣と見なせる。歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせていた。[[バビロニア]]では価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどが使い分けられた{{Sfn|ポランニー|2005|p=第9章}}。中国の[[漢]]では賜与や[[贈り物|贈与]]の目的や立場に応じて、金、[[布帛]]、銅が厳密に使い分けられた{{Sfn|柿沼|2015|p=186}}。日本の[[江戸時代]]では江戸幕府が[[石高制]]のもとで米を価値の尺度として、金・銀・銅(銭)を[[三貨制度]]として統合した{{Sfn|安国|2016|p=31}}。
 
=== 貨幣の素材 ===
貨幣の素材には、現在では一般的な金属や紙の他に、さまざまなものが選ばれてきた。地域の伝統や慣習において富と見なされるものが、貨幣として選ばれていた<ref>{{Sfn|栗本 (|2013) |p=第8章</ref>}}。[[穀物]]や[[家畜]]も貨幣となるが、そうした貨幣は消費して減ってしまうと取引に支障が出る。そのため、取引に用いる財に影響が少ない素材として、金属や紙が多く選ばれるようになった。現在知られている最古の金属貨幣は[[紀元前4300年]]頃の銀リングであるハル、[[硬貨]]は[[紀元前7世紀]]に[[リュディア]]で作られた[[エレクトロン貨]]、最古の紙幣は[[1023年]]から[[北宋]]の政府紙幣として流通した[[交子]]とされる。特定の素材の価値で国家の貨幣を裏付ける制度として本位制があり、[[金本位制]]、[[銀本位制]]、[[金銀複本位制]]などがある{{Sfn|湯浅|1998|p=}}
 
; 物品貨幣
貨幣には装飾的、儀礼的、呪術的な素材も見られ、宗教的背景を持つ場合もある。たとえば古代中国では[[タカラガイ]]が豊産や死者の安寧と結びつけられて神聖とされ、[[貝貨]]となった<ref>山田 (2000) p17</ref>。アフリカの[[ドゴン族]]の神話では貝貨には生きた力があり、取引をする人間の力に対応している。そして市場での貝貨を用いた交換は、言葉の交換に対応すると見なされた<ref>坂井 (1999) p230</ref>。
[[ファイル:Chinese shell money 16th 8th century BCE.jpg|thumb|200px|古代中国の貝貨]]
素材そのものに価値のある貨幣を[[物品貨幣]]や[[実物貨幣]]と呼び、特に初期の貨幣に多い。物品貨幣は、貝殻や石などを用いる自然貨幣と、家畜や穀物などの商品貨幣とに分類される。代表的な物品貨幣に貝貨(古代中国、オセアニア、インド、アフリカ)、[[石貨]](オセアニア)、穀物(バビロニア、日本)、果実(メソアメリカ)、塩(カンボジア)、[[布帛]](日本、中国、朝鮮、ギニア海岸)、[[鼈甲]](古代中国)、鯨歯([[フィジー]])、牛や山羊(東アフリカ)、[[羽毛]]などが存在する。こうした物品貨幣のさまざまな種類は、{{仮リンク|パウル・アインチッヒ|en|Paul Einzig}}の著作『原始貨幣』に集められている{{Sfn|湯浅|1998|p=481}}。
 
; 金属貨幣
=== 貨幣の使い分け ===
[[ファイル:Fiorino 1347.jpg|right|thumb|240px|近代貨幣制度を確立したフローリン金貨。1347年]]
前述のように貨幣には4つの機能があり、いずれかに用いられていれば貨幣と見なせる。歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせて用いられてきた<ref>ポランニー (1977) 第9章</ref>。たとえば[[バビロニア]]では価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどが使い分けられた。中国の[[漢]]では賜与や[[贈り物|贈与]]の目的や立場に応じて、金、[[布帛]]、銅が厳密に使い分けられた<ref>柿沼 (2015) p186</ref>。中世の西ヨーロッパはバンク・マネーとも呼ばれる計算用の貨幣を尺度として支払用の複数の貨幣を管理した<ref>名城 (2008)</ref>。日本の[[江戸時代]]では[[石高制]]のもとで米を価値の尺度として、支払いには主に金、銀、銅を用いた。
金属は保存性・等質性・分割性・運搬性において貨幣に適した性質があり、[[金貨]]、[[銀貨]]、[[銅貨]]、[[鉄貨]]などが作られた。このうち銅貨は実際には青銅貨である場合が多い。金、銀、銅は腐食しにくい点も貨幣に使われやすい理由となった{{Sfn|比佐|2018|p=}}{{Sfn|湯浅|1998|p=}}。金属貨幣は、はじめは[[地金]]を秤って使った。これを[[秤量貨幣]]と呼ぶ。やがて、打刻貨幣又は[[鋳造貨幣]]すなわち[[硬貨]]が現れた。硬貨のように一定の形状・質・重量を持っている貨幣を[[計数貨幣]]とも呼ぶ。古代から近世にかけての貨幣制度は金属資源の採掘量に左右され、金属貨幣の不足は、[[小切手]]、[[為替手形]]、紙幣などの発生にも影響を与えた{{Sfn|湯浅|1998|p=}}。
 
地中海や西ヨーロッパでは硬貨の素材として主に金銀を選び、中国や古代・中世の日本では銅を選んだ。西ヨーロッパでは領主や商人の交易に銀貨を中心に多用したが、中国では農民の地域市場での取引に銅貨が多用されていた{{Sfn|黒田|2014|p=58}}。
身分や性別によって特定の貨幣が使われる場合もある。たとえば[[ルイジアード諸島|ロッセル島]]にはンダップという男性用の貨幣とンコという女性用の貨幣があり、ンダップは23種類、ンコは16種類の異なる価値を備えていた<ref>湯浅 (1998) p39</ref>。[[サモア]]には女性が生産するトガ財(編みゴザ、ヤシ油等)と男性が生産するオロア財(豚、武器等)があり、交換手段の貨幣が浸透するとオロア財が優先して貨幣で買えるようになった<ref>山本・山本 (1996)</ref>。[[トロブリアンド諸島]]では、[[クラ (交易)|クラ交易]]に用いるクラ財は貨幣で買えないが、クラ財と交換できる豚や[[ヤムイモ]]は貨幣で買える。このため、女性や若者など貨幣収入を得やすい者がクラ交易への影響を強めた<ref>Leach (1983)</ref>。また、15世紀から16世紀のメソアメリカでは、斧型銅貨等の他に、食物である[[カカオ]]が貨幣としても流通した。[[アステカ]]ではカカオの飲食は貴族、戦士、商人などの階級に限られていた<ref>コウ (1996)</ref>。
 
; 紙幣
[[ファイル:Jiao zi.jpg|150px|thumb|最初の紙幣とされる交子。]]
中世には、名目貨幣である[[紙幣]]が登場した。紙幣は運びやすく、原料とコストの面で利点が多かったが、発行が容易なためにインフレーションも発生しやすく、しばしば国家の弱体化につながった。現在の紙幣は、中央銀行が発行する[[銀行券]]と政府が発行する[[政府紙幣]]に大きく分かれるが、その他にも民間でも紙幣が発行されてきた。最初の政府紙幣は宋政府、最初の銀行券はスウェーデンのストックホルム銀行が発行した{{Sfn|植村|1994|p=28}}。
 
; 電子マネー
[[1990年代]]から[[電子決済]]による[[電子マネー]]の運用が始まり、現在は[[ICカード]]を使う形態が普及している。携帯電話による決済も急速に普及しており、現金を使わない[[キャッシュレス]]の社会が拡大している{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=634, 664}}{{Sfn|ナラヤナン他|2016|p=}}。
 
=== 単位 ===
物々交換において、交換比率を決める尺度として貨幣を用いる場合があった。[[バーター]]が効率よく行われるために尺度としての貨幣が役立った。手形などの信用取引の手法は、古代から物々交換でも使われて複雑な現物決済を可能としていた。物々交換には信用取引を活発にする効果もあり、単位のみの貨幣も使われる{{Sfn|ポランニー|2005|p=第9章}}{{Sfn|ブローデル|1986|p=}}。単位のみの貨幣としては古代ギリシャの[[タラントン]]、中世ジュネーヴの[[エキュー]]、日本の[[厘#金銭の単位|厘]]などがある。
 
9世紀のバルト海の[[ヴァイキング]]は、イスラーム帝国の[[ウマイヤ朝]]の分銅を価値尺度の貨幣とした{{Sfn|角谷|2006|p=第2章}}。中世の西ヨーロッパは複雑な貨幣の流通をまとめるために、バンク・マネーとも呼ばれる計算用の貨幣で管理した{{Sfn|名城|2008|p=}}。アムール川流域の[[山丹交易]]では物々交換が行われ、山丹人([[ウリチ]]や[[ニヴフ]])と清の取引では、現地で使われていない中国の銅貨を尺度とした。山丹人と日本の取引では、[[クロテン]]の毛皮を尺度にして商品の価値を計った{{Sfn|佐々木|1996|p=210}}。
 
含有率や重量がさまざまな貨幣が流通する地域では、[[両替商]]の存在が重要とされた。[[古代ギリシャ]]の{{仮リンク|トラペジーテース|en|Banker (ancient)#Ancient Greek}}、中国の宋代の[[銭荘|兌房]]、イスラーム世界のサッラーフ(şarrāf)、江戸時代の本両替と銭両替などがある。都市には両替市場が設けられたり、大規模な定期市である年市には両替商が滞在して、現在の銀行にあたる業務を行う者も現れた。中世イタリアの両替商が仕事に使ったバンコ(banco)という台は、銀行を表すバンク(bank)の語源ともなった{{Sfn|湯浅|1998|p=}}。
 
=== 貨幣と使用者 ===
身分や性別によって特定の貨幣が使われる場合もある。[[ルイジアード諸島|ロッセル島]]にはンダップという男性用の貨幣とンコという女性用の貨幣があり、ンダップは23種類、ンコは16種類の異なる価値を備えていた{{Sfn|湯浅|1998|p=39}}。[[サモア]]には女性が生産するトガ財(編みゴザ、ヤシ油等)と男性が生産するオロア財(豚、武器等)があり、交換手段の貨幣が浸透するとオロア財が優先して貨幣で買えるようになった{{Sfn|山本|1996|p=}}。[[トロブリアンド諸島]]では、[[クラ (交易)|クラ交易]]に用いるクラ財は貨幣で買えないが、クラ財と交換できる豚や[[ヤムイモ]]は貨幣で買える。このため、女性や若者など貨幣収入を得やすい者がクラ交易への影響を強めた{{Sfn|Leach|1983|p=}}。
 
後払いの決済である[[クレジットカード]]では、個人の[[信用情報]]をもとに使用可能であるかを決定する審査がある。IT技術にもとづく決済仲介システムでは、取引情報が[[社会信用システム]]に活用されて、個人や企業への融資を評価するサービスも行われている{{Sfn|梶谷|2018|p=215}}。仮想通貨のビットコインでは非中央集権のシステムを運用しており、識別情報がない{{Sfn|ナラヤナン他|2016|p=89}}。
 
貨幣には装飾的、儀礼的、呪術的な素材も見られ、宗教的背景を持つ場合もある。古代中国では[[タカラガイ]]が豊産や死者の安寧と結びつけられて神聖とされ、[[貝貨]]となった{{Sfn|山田|2000|p=17}}。アフリカの[[ドゴン族]]の神話では貝貨には生きた力があり、取引をする人間の力に対応している。そして市場での貝貨を使った交換は、言葉の交換に対応すると見なされた{{Sfn|坂井|1999|p=230}}。死者の埋葬に使う[[冥銭]]という習慣もある([[貨幣史#特殊な貨幣|後述]])。
 
=== 貨幣と地域 ===
[[ファイル:MTThaler.png|thumb|300px|マリア・テレジア・ターラー、発行年を[[1780年]]に固定して現代まで発行されており、アフリカ等で使用された]]
貨幣には地域内での使用と、貿易や地域間の交易での使用があり、内外で異なる貨幣が定められる場合もある。この違いは貨幣が必要となる周期や取引の大小によって決まり、地域内の貨幣は小額面で周期的であり、貿易の貨幣は高額面で非周期的となる。たとえば[[18世紀]]の[[ベンガル]]では、穀物の先物取引には[[ルピー]]銀貨を用い、穀物を地域内の市場で買うには小額取引に適した貝貨が用いられた。さらに、納税と穀物取引では異なるルピー銀貨が用いられた<ref>黒田 (2014) p81</ref>。
貨幣には地域内での使用と、地域を越えた交易での使用があり、内外で異なる貨幣が定められる場合がある。地域内の貨幣は小額で周期的であり、貿易の貨幣は高額で非周期的となる。18世紀の[[ムガル帝国]]治下の[[ベンガル]]では、穀物の先物取引では[[ルピー]]銀貨を用い、地域内の市場で穀物を買う時には小額取引に適した貝貨を使った。さらに、納税と穀物取引では異なるルピー銀貨を使った{{Sfn|黒田|2014|p=81}}。
 
現在では1国1通貨の制度が普及しており、これは国際金本位制に起源を持つ。それ以前は、貿易用の貨幣は発行者の国を超えて複数の国や地域で流通した。古代ギリシャの[[ドラクマ]]、中世イスラーム世界の[[ディナール]]や[[ディルハム]]、中国の[[宋銭]]、[[貿易銀]]と呼ばれるラテンアメリカの[[メキシコドル]]やオーストリアの[[ターラー (通貨)|マリア・テレジア銀貨]]がそれにあたる。現在は国際決済に多く使われる[[国際通貨]]や[[基軸通貨]]と呼ばれる貨幣がある{{Refnest|group="†"|[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]($)、[[ユーロ]](€)、[[円 (通貨)|日本円]](¥)、[[スターリング・ポンド|英ポンド]](£)、[[スイス・フラン]](₣)、[[人民元]](¥)などが国際通貨にあたる。}}{{Sfn|黒田|2014|p=17}}。異なる地域が通貨を共有する[[通貨同盟]]や[[経済通貨同盟]]もある。
[[Image:MTThaler.png|thumb|300px|マリア・テレジア・ターラー、発行年を[[1780年]]に固定して現代まで発行されており、アフリカ等で使用された]]
現在では1国1通貨の制度が普及しており、これは後述のように国際金本位制に起源を持つ。それ以前は、貿易用の貨幣は発行者の国を超えて複数の国や地域で用いられた。たとえば[[古代ギリシア]]の[[ドラクマ]]、中世イスラーム世界の[[ディナール]]や[[ディルハム]]、中国の[[宋銭]]、[[貿易銀]]と呼ばれるラテンアメリカの[[メキシコドル]]やオーストリアの[[ターラー (通貨)|マリア・テレジア銀貨]]がそれにあたる<ref>黒田 (2014) p17</ref>。
 
1国1通貨の制度が普及する以前は、地域内で用いられ流通する[[地域通貨]]も多数存在した。たとえば穀物や家畜を用い使った各地の物品貨幣や、日本の[[伊勢神宮]]の所領を中心とした[[山田羽書]]、中国の民間紙幣である[[銭票]]などが知られている。地域通貨が政府や民間業者の保証なしに流通する場合は、地元で取引される商品の販売可能性によって成り立っていた{{Sfn|黒田|2014|p=17}}
 
=== 貨幣の発行 ===
; 貨幣発行の利益
[[貨幣発行益]]は、古くから政府や造幣者に注目されてきた。発行した貨幣を用いて財や労働を調達できるほか、貨幣の普及により税の徴収が楽になるという利点がある。また、[[地金]]の値段よりも額面が高い貨幣を作れば、差額によってさらに利益は大きい。多くの国家で大量の貨幣が発行され、たとえばペルシアの[[アケメネス朝]]や[[ローマ帝国]]では兵士への支払いに硬貨が多用された<ref>湯浅 (1998) 第3章</ref>。貨幣発行益を得るための造幣は、時として貨幣や政府への信用に影響する。たとえば日本の朝廷が発行した[[皇朝十二銭]]は、[[貨幣改鋳|改鋳]]のたびに目方と質が低下した新貨が出たため、信用の低下につながった<ref>東野 (1997) p70</ref>。
[[貨幣発行益]]は、古くから政府や造幣者に注目されてきた。発行した貨幣を用いて財や労働を調達できるほか、貨幣の普及により税の徴収が楽になるという利点がある。また、[[地金]]の値段よりも額面が高い貨幣を作れば、差額によってさらに利益は大きい。多くの国家で大量の貨幣が発行され、ペルシアの[[アケメネス朝]]や[[ローマ帝国]]をはじめ古代から兵士への支払いに硬貨が多用された{{Sfn|湯浅|1998|p=第3章}}。貨幣発行益を得るための造幣は、貨幣や政府への信用に影響する。日本の朝廷が発行した[[皇朝十二銭]]は、[[貨幣改鋳|改鋳]]のたびに目方と質が低下した新貨が出たため、信用の低下と銭離れにつながった{{Sfn|東野|1997|p=70}}。現代は中央銀行が銀行券を発行する国家が多く、その場合は製造コストと額面の差額は貨幣発行益とはならない{{Sfn|小栗|2006|p=}}。発行益の大きい貨幣が存在すると、贋金の増加にもつながった{{Sfn|植村|2004|p=}}。
 
; 貨幣発行の権利
貨幣を発行する[[造幣権]]は基本的に政府や領主に管理され、無断で作る[[私鋳銭|私鋳]]は厳しく取り締まられた。しかし漢の[[劉邦]]は、[[西楚|楚]]との戦争時に民間の造幣を許可し、半両銭が普及する後押しとなった。許可の理由として、小額貨幣の推進、[[算賦]]という銭を納める人頭税の推進、民間造幣業者の大地主や任侠を味方に引き入れるためなどの説がある<ref>柿沼 (2015) p62</ref>。緊急時においては短期間で地域通貨が発行され、たとえば泉州での飢饉の際の[[私鋳銭]]、銅不足によって作られた[[アーマダバード]]の鉄貨、[[世界恐慌]]が起きたあとのワシントン州の木片などがある<ref>黒田 (2014) p50</ref>。[[1685年]]の[[ヌーベルフランス|フランス領カナダ]]では、銀貨不足のために[[トランプ]]を切って作った{{仮リンク|カルタ貨幣|en|card money}}が通用し、これをアメリカ大陸初の紙幣とする説もある<ref>植村 (1994) p91</ref>。
貨幣を発行する[[造幣権]]は政府や領主に管理され、民間が発行する貨幣の多くは[[私鋳銭|私鋳]]と呼ばれて取り締まられた。例外として漢の[[劉邦]]は[[西楚|楚]]との戦争時に民間の造幣を許可し、半両銭が普及する後押しとなった{{Refnest|group="†"|許可の理由として、小額貨幣の推進、[[算賦]]という銭を納める人頭税の推進、民間造幣業者の大地主や任侠を味方に引き入れるためなどの説がある。}}{{Sfn|柿沼|2015|p=62}}。またアメリカ合衆国では、個人や団体が自由に銀行を設立して銀行券を発行できる自由銀行時代もあった{{Sfn|秋元|2018|p=9}}。
 
緊急時においては短期間で地域通貨が発行され、泉州での飢饉の際の私鋳銭、銅不足によって作られた[[アーマダバード]]の鉄貨、[[世界恐慌]]が起きたあとのワシントン州の木片などがある{{Sfn|黒田|2014|p=50}}。歴史的には、さまざまな銀行が銀行券を発行できたが、現在では[[中央銀行]]が銀行券の発行を独占している国が多い{{Sfn|岩田|2000|p=222}}。仮想通貨のビットコインでは発行者はマイナー(採掘者)と呼ばれ、作成報酬や取引手数料を受け取る{{Sfn|ナラヤナン他|2016|p=99}}。
金属貨幣の発行には大量の金属を必要とし、鉱山での過酷な採掘も伝えられている。アテナイの[[ラウレイオン|ラウレイオン銀山]]は奴隷の労働としてもっとも過酷と言われ、[[ペルー副王領]]の[[ポトシ|ポトシ銀山]]では、インカ時代の賦役をもとにした[[ミタ制]]によって[[インディオ|先住民]]が酷使され、多数が命を落とした<ref>湯浅 (1998) p265</ref>。
 
; 鉱業
=== 両替商 ===
金属貨幣の発行には大量の金属を必要とした。有名な産地として、アテナイの[[ラウレイオン|ラウリオン]]、ペルーの[[ポトシ]]、日本の[[石見銀山]]、ブラジルの[[ミナスジェライス州|ミナスジェライス]]、ゴールドラッシュが起きた[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ|カリフォルニア]]などがある。鉱山での過酷な採掘も記録に残っており、ラウリオン銀山は古代ギリシャの奴隷労働としてもっとも過酷と言われた{{Sfn|前沢|1998|p=}}。ポトシ銀山は[[ペルー副王領]]の時代に[[インディオ]]が酷使され、多数が命を落とした{{Sfn|網野|2018|p=198, 200}}。
含有率や重量がさまざまな貨幣が流通する地域では、[[両替商]]の存在が重要とされた。古代ギリシアのポリスにおけるトラペジーテース、中国の宋代の[[銭荘|兌房]]、中世イスラーム世界のサッラーフ、日本の江戸時代の本両替と銭両替などがある。都市には両替市場が設けられたり、大規模な定期市である年市には両替商が滞在した。ヨーロッパの両替商の中には、現在の銀行にあたる業績を行う者も現れた。中世ヨーロッパの両替商が仕事に用いたバンコという台は、銀行を表すバンクの語源ともなった。
 
<gallery>
=== 貨幣史と学説 ===
ファイル:Lavrion499.JPG|アテナイのラウリオン鉱山の選別台の跡
[[グレシャムの法則]]や、[[貨幣数量説]]などの貨幣に関する説は限定的であるか、史実に当てはまらない場合がある。グレシャムの法則は金貨については有効だが、良貨にあたる官銭が悪貨を抑制した中国の銅貨には当てはまらない。また、複数の貨幣が流通して多元的に評価されていると、貨幣の総量を測る意味がなく、貨幣数量説の前提が成立しない<ref>黒田 (2014) 序章</ref>。
ファイル:Tomimotosen Tobishimaike end of 7th century copper and antimony.jpg|thumb|日本の[[富本銭]]と鋳棹(複製品、[[貨幣博物館]])
ファイル:Minage de crypto-monnaie (2).jpg|thumb|ビットコインのマイニング機材の一例。[[GPU]]を使用している
</gallery>
 
=== 貨幣の形態・デザイン ===
硬貨のデザインは地域によって大きく異なる。ヨーロッパの硬貨は権力者の肖像などの図像を入れているが、中国や日本では銭(ぜに)と呼ばれる中心に穴の空いた硬貨を作った。銭は円形方孔といって穴が四角く、これは古代の宇宙観である[[天円地方]]の思想にもとづいている。この穴は、鋳造後にバリを削るときの道具を通すために使ったほか、紐を通して大量の枚数をまとめるのにも活用され、小額面の貨幣を運ぶには便利だった{{Sfn|柿沼|2015|p=43}}。一方、硬貨に穴がないヨーロッパでは運ぶための財布が発達したとも言われ、アテナイでは一般市民は財布を持たず、小額の硬貨は口に入れて運んだという記録もある{{Sfn|前沢|1998|p=12}}。イスラーム世界の硬貨は、偶像崇拝を避けるために文字や図柄だけを刻印した。
[[ファイル:Alexander III, Lysimachos.jpg|thumb|left|150px|アレクサンダー3世の肖像、テトラドラクマ銀貨]]
[[画像:Kaitsugenpo.jpg|thumb|right|150px|開元通宝]]
硬貨の歴史において、ヨーロッパと中国ではデザインが大きく異なる。ヨーロッパの硬貨は権力者の肖像などの図像を入れているが、中国や日本では中心に穴の空いた硬貨を作った。中国の硬貨は円形方孔といって穴が四角く、これは古代の宇宙観である[[天円地方]]の思想にもとづいている。この穴は、鋳造後にバリを削るときの道具を通すために用いられたほか、紐を通して大量の枚数をまとめるのにも活用され、小額面の貨幣を運ぶには便利だった<ref>柿沼 (2015) p43</ref>。一方、硬貨に穴がないヨーロッパでは運ぶための財布が発達したとも言われ、アテナイでは一般市民は財布を持たず、小額の硬貨は口に入れて運んだという記録もある<ref>前沢 (1998) p12</ref>。イスラーム世界の硬貨は、一部の例外を除いて、偶像崇拝を避けるために文字や図柄だけを刻印した。
 
紙幣は、最初の紙幣とされる宋の交子をはじめとして中国や日本では縦長であった。これは文字が縦書きであったことに由来する。ヨーロッパの初期の紙幣は北欧を中心に縦長であり、[[オーストリア・ハンガリー]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]、[[ブルガリア]]などでは19世紀や20世紀まで縦長の紙幣が時折発行されていた。正方形の紙幣としては、[[スウェーデン]]、[[フィンランド]]、[[ノルウェー]]などがある。現在では横長の紙幣が一般的となっている<ref>{{Sfn|植村 (|1994) p299</ref>|p=299}}
 
貨幣のデザインは発行された時代の芸術とも関連がある。19世紀末から20世紀前半にかけては[[アール・ヌーヴォー]]や[[アール・デコ]]様式の紙幣がオーストリア・ハンガリー、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[フランス第三共和政|フランス]]、ポーランドなどで発行された。オーストリア・ハンガリーでは、[[1881年]]発行の5[[フローリン|グルデン]]札のデザインを[[グスタフ・クリムト]]が指導している<ref>{{Sfn|植村 (|1994) p142</ref>|p=142}}。[[1945年]]に日本の新紙幣のデザインを公募した際には、審査員としてには[[藤田嗣治]]や[[杉浦非水]]が参加した<ref>{{Sfn|植村 (|1994) p25</ref>|p=25}}
 
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=== 物々交換と貨幣 ===
ファイル:Alexander III, Lysimachos.jpg|ヨーロッパの硬貨、テトラドラクマ銀貨。[[アレクサンダー3世]]の肖像入り。
物々交換において、交換比率を決める尺度として貨幣を用いる場合があった。[[バーター]]が効率よく行われるために尺度としての貨幣が役立った<ref>ポランニー (1977) 第9章</ref>。
ファイル:Kaitsugenpo.jpg|中国の唐代の硬貨、[[開元通宝]]。初鋳621年
ファイル:Barsbay gold ashrafi 1422 1438.jpg|イスラーム世界の硬貨、アシュラフィー金貨。
</gallery>
 
=== 貨幣史と学説・政策 ===
バビロニアの物々交換で土地と物財を交換する場合、まず土地を銀の価値で計り、次にその銀の価値と同じだけの物財をそろえて交換した<ref>ポランニー (1968) p96</ref>。また、アムール川流域の[[山丹交易]]では物々交換が行われていたが、[[ウリチ]]や[[ニヴフ]]などの山丹人が清と取引をする際、現地で使われていない中国の銅貨を尺度としていた。さらに山丹人と日本の取引では、[[クロテン]]の毛皮を尺度にして商品の価値を計った<ref>佐々木 (1996) p210</ref>。
; 学説と貨幣史
[[グレシャムの法則]]や、[[貨幣数量説]]などの貨幣に関する説は限定的であるか、史実に当てはまらない場合がある。グレシャムの法則は金貨については有効だが、良貨にあたる官銭が悪貨を抑制した中国の銅貨には当てはまらない。また、複数の貨幣が流通して多元的に評価されていると、貨幣の総量を測る意味がなく、貨幣数量説の前提が成立しない{{Sfn|黒田|2014|p=序章}}。
 
; 通貨の定義
== 物品貨幣 ==
現在では、国家は流通の安定のために法律によって貨幣に[[強制通用力]]を持たせている。これを特に[[法定通貨]]・[[信用貨幣]]という。この法定通貨は支払完了性を有しており、取引を無条件に完了させる決済手段となる。このため、所定の通貨の使用を拒否することはできない{{Sfn|岩田|2000|p=第1章}}。
[[ファイル:Chinese shell money 16th 8th century BCE.jpg|thumb|200px|古代中国の貝貨]]
素材そのものに価値のある貨幣を[[物品貨幣]]や[[実物貨幣]]と呼び、特に初期の貨幣に多い。物品貨幣は、貝殻や石などを用いる自然貨幣と、家畜や穀物などの商品貨幣とに分類される。代表的な物品貨幣にタカラガイなどを用いた[[貝貨]](古代中国、オセアニア、インド)、[[石貨]](オセアニア)、大麦(バビロニア)、[[布帛]](日本、中国、朝鮮)、[[鼈甲]](古代中国)、鯨歯([[フィジー]])、牛や山羊([[東アフリカ]])、[[羽毛]]などが存在する。古代ギリシアの叙事詩である『[[イリアス]]』や『[[オデュッセイア]]』では、牡牛が価値の尺度として用いられている。8世紀の中央アジアは絹が帛練と呼ばれる[[物品貨幣]]にもなり、絹の品質に応じていくつかの価格帯が定められた<ref>荒川 (2010) 第10章</ref>。こうした物品貨幣のさまざまな種類は、{{仮リンク|パウル・アインチッヒ|en|Paul Einzig}}の著作『原始貨幣』に集められている<ref>湯浅 (1998) p481</ref>。
 
; 経済政策
=== 中世 ===
中央銀行は、[[物価]]の安定、[[雇用]]の維持、[[経済成長]]の維持、[[為替レート]]の安定などを目的として[[金融政策]]を行っている{{Sfn|岩田|2000|p=222}}。経済政策においては、(1)[[為替レート]]の安定化、(2)[[資本自由化|国際資本移動]]の自由化、(3)独立した[[金融政策]]という3つの選択肢の全てを同時に達成することは不可能とされており、[[国際金融のトリレンマ]]と呼ばれる。達成可能なのは3つのうち2つの選択であり、(1)為替レートの安定化と国際資本移動の自由化、(2)独立した金融政策と国際資本移動の自由化、(3)為替レートの安定化と独立した金融政策のいずれかとなる。歴史的には、金本位制では(1)為替レートの安定化と国際資本移動の自由化、変動相場制では(2)独立した金融政策と国際資本移動の自由化、固定相場制では(3)為替レートの安定化と独立した金融政策がおおむね選択されてきた{{Refnest|group="†"|国際金融のトリレンマは[[マンデルフレミングモデル]]にもとづいている。このモデルでは固定相場制や変動相場制のもとで金融政策や財政政策が国民所得に与える影響を分析する。}}{{Sfn|片岡|2012|p=85}}{{Sfn|梶谷|2018|p=40, 43}}。
文化的、地理的な条件により、カカオ(アステカ、[[プトゥン人|プトゥン・マヤ]])、羊毛布や[[バカラオ|干しタラ]](アイスランド)、タカラガイ([[西アフリカ]])、[[米]](日本、中国、朝鮮)などの貨幣は中世以降も流通した。[[モルディブ諸島]]で産するタカラガイは、インドの他に14世紀からアフリカの[[ダホメ王国]]や[[コンゴ王国]]にも運ばれて貨幣となった。中世ヨーロッパでは、物品貨幣に加えて計算貨幣を尺度とする信用決済が行われた。日本、中国、朝鮮では16世紀までの地域市場において物品貨幣が取引に用いられた<ref>黒田 (2014) p55</ref>。北アメリカ東部の海岸沿いの[[レナペ族]]などの[[インディアン]]は、ポーマノック([[ロングアイランド]])で採れる貝から{{仮リンク|ウォンパム|en|Wampum}}という[[ビーズ]]の装身具を作り、内陸の部族との交易や、情報の伝達に用いた。また、日常取引に必要な硬貨が不足すると物品貨幣によって補われる場合もあった。たとえば中国では竹や布の貨幣が作られたり<ref>黒田 (2014) 第2章</ref>、日本では[[貫高制]]にかわって[[石高制]]が普及する一因にもなった。
 
政治制度も通貨に影響を与える。19世紀の[[金本位制|国際金本位制]]は、国際均衡が国内均衡に優先することも意味しており、そうした制度は[[普通選挙]]が普及しておらず国民が発言力を持たない時代に可能だったとされる{{Sfn|納家|2003|p=第3章}}。
=== 近現代 ===
北アメリカの[[13植民地]]では、17世紀から18世紀にかけて物品貨幣が普及した。本国の[[イギリス帝国|イギリス]]から送られる硬貨は少なく、その大半が輸入品の購入によって流出し、しかも植民地では造幣が禁止されたため、硬貨が常に不足したのが原因である。法的に認められた貨幣として、植民地全土では[[トウモロコシ]]が早くから流通した。北部では[[毛皮貿易]]で重要な品だった[[ビーバー]]の毛皮や、ロングアイランドのインディアンが作っていたウォンパムがあった。南部では[[タバコ]]や米、そしてタバコの引替券であるタバコ・ノートがあり、タバコとタバコ・ノートは合わせて170年にわたって流通した。その他に家畜、干し魚、肉、チーズ、砂糖、ラム酒、亜麻、綿、羊毛、木材、ピッチ、釘、弾薬、銃なども用いられて取引は複雑になったが、硬貨不足による[[デフレーション]]を緩和する効果はあった。そうした状況下の貿易で流入した[[メキシコドル|スペインドル]]が少量ながら流通を続け、独立後のアメリカでは[[フローイング・ヘア・ダラー]]が発行されてドルが通貨単位となる<ref>浅羽 (1991)</ref>。
 
== 古代 ==
メソアメリカのカカオは、一部の地域では20世紀まで貨幣として通用した。現在用いられている物品貨幣としては、[[石貨 (ヤップ島)|石貨]]([[ヤップ島]])や貝貨([[パプアニューギニア]])がある。特にパプアニューギニアのタブ貝貨は、人頭税の支払いなど行政においても流通している<ref>深田 (2006)</ref>。
=== 西アジア===
バビロニアでは支払い用の貨幣として大麦や羊毛が使われ、銀は秤量貨幣で主に尺度として使われた{{Refnest|group="†"|物々交換で土地と物財を交換する場合、まず土地を銀の価値で計り、次にその銀の価値と同じだけの物財をそろえて交換した{{Sfn|ポランニー|2003|p=96}}。}}。メソポタミアは銀を産出しないため、アナトリア半島の[[トロス山脈]]などから銀が運ばれた。最古の銀貨として、[[紀元前4300年]]頃の[[アッカド]]から[[バビロン第1王朝]]にかけてハル(har)と呼ばれたリングがある。ハルは貴重な品の対価で、必要な量を切って支払った。ハルがリング状や螺旋状の形状をしており、財布のない時代に携帯しやすい形になっていた。精錬法である[[灰吹法]]の最古の事例はバビロニアで発見されており、ウルク文化後期と推定されている{{Refnest|group="†"|{{仮リンク|ハブーバ・カビーラ|en|Habuba Kabira}}南遺跡が最古の灰吹法の証拠とされる。工房には方鉛鉱から銀を抽出した跡があり、原料の産地であるタウルス山脈にも近い。}}{{Sfn|小泉|2016|p=24}}。貨幣単位として[[シェケル]]が[[紀元前30世紀]]頃から用いられ、[[シュメール語|シュメル語]]ではギンと呼ばれた。[[紀元前22世紀]]の[[ウル・ナンム]]王の時代には銀1ギン(約8.3グラム)=大麦1グル(約300リットル)と公定比率を定めた{{Sfn|小林|2007|p=168}}。ペルシャ湾の貿易においても、[[ディルムン]]の銅とメソポタミアの穀物やゴマ油が交換される時に銀が尺度として通用した{{Sfn|湯浅|1998|p=33}}{{Refnest|group="†"|紀元前2100年頃のウル時代に金銀の比価は金1:銀7~15で、紀元前1750年頃のハンムラビ王時代には1:6になった{{Sfn|湯浅|1998|p=37}}。}}。紀元前8世紀には、[[アラム人]]国家の都市である{{仮リンク|ジンジルリ・ヒュユク|tr|Zincirli Höyük}}の遺跡でアラム文字の銘文を打った銀の延べ棒が出土している{{Sfn|湯浅|1998|p=52}}。紀元前18世紀の[[ハンムラビ法典]]には金融についての法律もある{{Refnest|group="†"|ハンムラビ法典89条では、利息の上限として銀は20%、大麦は約33.33%と定められていた。}}。[[フェニキア人]]は地中海や紅海で交易を行い、イベリア半島にも進出して[[カディス|ガディル]]を建設した。テュロス人が金山や銀山を開発して採掘に奴隷を使役し、アッシリアなどに貴金属を輸出した{{Sfn|栗田, 佐藤|2016|p=104}}。
 
== 金属貨幣 ==
[[ファイル:BMC 06.jpg|thumb|200px|リュディア王国のエレクトロン貨]]
現存する世界最古の硬貨は、アナトリア半島の[[リュディア]]王国で作られた[[エレクトロン貨]]である。これは金銀の自然合金であるエレクトラムを素材としており、リュディアは豊富に貴金属を産する土地で{{仮リンク|パクトロス川|en|Pactolus}}では砂金状のエレクトラムが採れた。リュディアが硬貨を発行したのは傭兵に対する支払いという説があり、この硬貨はギリシャに影響を与えた{{Refnest|group="†"|パクトロス川は、触ったものを全て金に変える[[ミダス王]]の伝説でも知られる。}}。[[クセノファネス]]や[[ヘロドトス]]の伝承によれば、円形の金属に極印を打ったのはリュディアの{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia|label=ギュゲス王}}とされる。リュディアの影響を受けてギリシャで硬貨が普及し、ギリシャの影響によってペルシア、紀元前5世紀末のフェニキアのテュロス、カルタゴなどの地域にも硬貨が広まった{{Sfn|湯浅|1998|p=53, 57, 58}}。ペルシアでは[[ダレイオス1世]]が硬貨を発行し、ダリク金貨の重量はバビロニアの基準1シクルと同じで、[[シグロス]](Siglos)銀貨と銅貨の比価は1:12となった{{Sfn|湯浅|1998|p=72}}。
金属は保存性・等質性・分割性・運搬性において貨幣に適した性質があり、[[金貨]]、[[銀貨]]、[[銅貨]]、[[鉄貨]]などが作られた。このうち銅貨は実際には青銅貨である場合が多い。古代から中世にかけての金属貨幣は、金属資源の採掘量に左右される傾向にあり、鉱山が枯渇すると貨幣制度は重大な脅威を受けた。金属貨幣の不足は、[[小切手]]、[[為替手形]]、紙幣などの発生にも影響を与えた。
 
=== アフリカ ===
金属貨幣は、はじめは[[地金]]を秤って用いた。これを[[秤量貨幣]]と呼ぶ。やがて、打刻貨幣又は[[鋳造貨幣]]すなわち[[硬貨]]が現れた。硬貨のように一定の形状・質・重量を持っている貨幣を[[計数貨幣]]とも呼ぶ。
金の大量採取は[[古代エジプト]]から始まった。ナイル川からの砂金や[[プント国]]との交易などで豊富な金を集め、宮殿や神殿に貯蔵した{{Refnest|group="†"|[[エジプト神話]]において、金は太陽神[[ラー]]の肉体でもあった。神殿、彫像、祭壇、装身具、王墓などに金が使われた。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=23}}。紀元前2400年以降の中王国時代には、ナイル川の第2瀑布まで進出して金を採取した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=174}}。金は国内の貨幣としては使われず、秤量金貨として臣下への下賜や、地中海やメソポタミアでの貿易に使った。本格的に鋳貨が流入するのは、[[アレクサンドロス3世]]の征服で成立した[[プトレマイオス朝]]以降となる{{Sfn|湯浅|1998|p=27}}。金が豊富な反面で銀は産出しなかったため、当初は金銀比価が1:1であったが、貿易の進展によって差が広がった{{Refnest|group="†"|紀元前3700年頃のメネシュ王時代には金銀比価が1:2.5となり、新王国時代には1:7~7.5となった。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=36}}。
 
フェニキア人が地中海に進出して植民都市の[[カルタゴ]]が建設されると、イベリア半島の貴金属貿易の主導権は、フェニキア本国であるテュロスからカルタゴに移った{{Sfn|栗田, 佐藤|2016|p=134}}。西アフリカでは、[[ガーナ王国]]が8世紀から金の産出で有名となった{{Refnest|group="†"|地理学者の[[ファザーリ]]や[[ヤアクービー]]がガーナ王国と金について記録している。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=152}}。
地中海や西ヨーロッパでは硬貨の素材として主に金銀が用いられ、中国や古代・中世の日本では銅が用いられた。西ヨーロッパでは領主や商人の交易に銀貨を中心に多用したが、中国では農民の地域市場での取引に銅貨が多用されていた<ref>黒田 (2014) p58</ref>。
 
=== 古代南アジア ===
[[ファイル:MauryanCoin.JPG|right|thumb|200px|マウリヤ朝の銀貨]]
==== メソポタミア ====
インドでは[[十六大国]]の時代に交易が盛んになり、この時期に金属貨幣の使用も始まった。打刻印のある楕円形や方形の硬貨があり、高額取引には銀、小額取引には銅貨を使った。初期は商人が発行していたとされるが、やがて国家が発行権を独占した。ペルシア帝国の属州となった北西インドでは、インド様式の硬貨とともにダリク金貨やシグロス銀貨も流通した{{Sfn|山崎, 小西編|2007|p=101}}。[[マウリヤ朝]]の時代にはパナ銀貨やマーシャカ銅貨が使われて、重量を統一した打刻銀貨が多くの地域で発行された{{Refnest|group="†"|比率は1パナ=16マーシャカだった。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=91}}。マウリヤ朝では官吏の給与は貨幣額で表示しされ、刑罰は多くが罰金刑とされた。マウリヤにはペルシア、[[ヘレニズム]]諸国、ギリシャなどからの硬貨も流入していた{{Refnest|group="†"|セレウコス朝の使者である[[メガステネス]]は、マウリヤ朝に滞在して『インド誌』を書き、当時の経済についての記録もある。}}{{Sfn|山崎, 小西編|2007|p=113}}。
メソポタミアの銀は、秤量貨幣にあたる。メソポタミアは銀を産出しないため、アナトリア半島の[[トロス山脈]]などから銀が運ばれた。[[シェケル]]という単位が[[紀元前30世紀]]頃から用いられ、[[シュメール語|シュメル語]]ではギンと呼ばれた。[[紀元前22世紀]]の[[ウル・ナンム]]王の時代には銀1ギン(約8.3グラム)=大麦1グル(約300リットル)と公定比率を定めた<ref>小林 (2007) p168</ref>。[[アッカド]]から[[バビロン第1王朝]]の時代にかけてはハルという螺旋型の[[秤量銀貨]]が作られ、携帯をして必要な量を切って支払いに用いた<ref>小林 (2015) p120</ref>。貸付も行われており、紀元前18世紀の[[ハンムラビ法典]]には、利息の上限として銀は20%、大麦は約33.33%と定められていた。
 
紀元前2世紀からギリシャ人によって[[インド・グリーク朝]]が建国され、ギリシャ様式の硬貨が発行されてインドの硬貨に影響を与えた。[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]は、ローマとの貿易で流入したローマのアウレウス金貨を鋳つぶして、自らの様式で金貨を発行した。ガンジス川流域では[[グプタ朝]]の建国までにいくつもの王国が建ち、[[ミトラ貨幣]]と総称される銀貨や銅貨が各地で発行された。デカン高原の[[サータヴァーハナ朝]]はギリシャ、アラビア、中国とも貿易を行い、サータヴァーハナ朝の貨幣は外国でも使われた。[[グプタ朝]]は金、銀、銅貨を発行し、初期の金貨はクシャーナ朝の重量基準、のちにはスヴァルナと呼ぶ重量基準で計った。銀貨はシャカ・クシャトラカを模倣した銀貨や、東インド向けの銀貨を発行した。金貨はディーナーラ、銅貨はルーパカと呼ばれ、金銀貨は高額取引で、日常の取引は銅貨やタカラガイおよび物々交換で行われた{{Refnest|group="†"|金銀の比率は1:16だった。金貨2、3枚で家族を含むバラモンが複数生活できたとされる。}}{{Sfn|山崎, 小西編|2007|p=117, 178}}。
==== エジプト ====
[[古代エジプト]]ではナイル川からの砂金や[[プント国]]との交易などで豊富な金を集め、宮殿や神殿に貯蔵をした。金は国内の取引には用いられず、秤量金貨として貿易の決済に用いられた。本格的に鋳貨が流入するのは、[[アレクサンドロス3世]]による征服で成立した[[プトレマイオス朝]]以降となる<ref>湯浅 (1998) p27</ref>。
 
==== インド東アジア ====
[[Fileファイル:MauryanCoinChinese shell money 16th 8th century BCE.JPG|rightjpg|thumb|200px|マウリヤ朝古代中国貨]]
[[殷]]の時代に貝貨になったタカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、南方で採取したものが運ばれていた。タカラガイを糸で5個つないだものを朋と呼び、殷末から[[周]]にかけて王朝では朋を下賜した。周時代にはタカラガイのほかに[[鼈甲]]などの亀甲が貨幣に使われた{{Sfn|山田|2000|p=13, 19}}。
インドでは16大国の時代には、量目を整えた打刻銀貨が多くの地域で発行された。後代のマウリヤ朝ではパナ銀貨やマーシャカ銅貨が使われており<ref>カウティリヤ (BC4) p143</ref>、比率は1パナ=16マーシャカとされた<ref>湯浅 (1998) p91</ref>。また、マウリヤ朝の時代にはペルシア、アレクサンドロスの[[ヘレニズム]]諸国、ギリシアなどからの硬貨も流入していた。紀元前2世紀からギリシア人によって北西部に[[インド・グリーク朝]]が建国され、ギリシア様式の硬貨が発行されてインドの硬貨に影響を与えた。のちの[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]は、ローマとの貿易で流入したローマのアウレウス金貨を鋳つぶして、自らの様式で金貨を発行した。
 
==== 中国 ====
{{seealso|中国の貨幣制度史}}
[[ファイル:ShanghaiMuzeum-kolekcja.monet.starochinskich-1.jpg|thumb|150px|布貨]]
[[春秋時代]]には、タカラガイや亀甲をかたどった青銅貨として銅貝、[[刀銭|刀貨]]、布貨が作られた{{Sfn|山田|2000|p=}}。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にこれらの鋳貨が普及し、[[秦]]は度量衡を統一して銅銭の[[半両銭]]を貨幣重量の基準とした。秦から漢の時代にかけては金、銅貨、布帛が主流となり、漢では[[五銖銭]]を発行した{{Sfn|柿沼|2015|p=99}}。やがて銅不足が起きたため、[[新]]王朝は対策として[[宝貨制]]などを試みた。しかし政策は失敗して穀物や布帛などの物品貨幣が増加し、[[後漢]]の五銖銭の再発行まで混乱が続いた{{Sfn|山田|2000|p=第5章}}。後漢の滅亡後は、[[董卓]]によって五銖銭が[[董卓小銭]]という硬貨に改鋳されたが、銘文や研磨などの処理がされていない悪貨だったためインフレーションを招く。[[魏晋南北朝]]の時代に五銖銭の発行が再開するが銅不足は解消されず、物品貨幣である[[布帛]]、穀物、塩の流通が盛んとなった。やがて銭の不足によって鉄片、裁断した革、重ねた紙なども貨幣として流通するようになるが、[[唐]]の[[開元通宝]]の発行により混乱は収束した{{Sfn|山田|2000|p=第8章}}。布帛は中国のほかに日本、朝鮮などでも貨幣となった。8世紀の中央アジアは絹が[[帛練]]と呼ばれる物品貨幣にもなり、絹の品質に応じて価格帯が定められた{{Sfn|荒川|2010|p=第10章}}。
[[ファイル:Yan State Coins.jpg|thumb|150px|刀貨]]
[[殷]]や[[周]]の時代にタカラガイや亀甲が貨幣として用いられ、[[春秋時代]]には、それらをかたどった青銅貨として銅貝、[[刀銭|刀貨]]、布貨が作られた<ref>Kakinuma (2014)</ref>。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にこれらの鋳貨が普及し、[[秦]]は度量衡を統一して銅銭の[[半両銭]]を貨幣重量の基準とした。秦から漢の時代にかけては金、銅貨、布帛が主流となり、漢では[[五銖銭]]を発行した<ref>柿沼 (2015) p99</ref>。[[新]]の王莽の時代には、銅不足による貨幣経済の混乱を収拾するために[[宝貨制]]などの貨幣政策が試みられたが、政策は失敗して穀物や布帛などの物品貨幣が増加し、[[後漢]]の五銖銭の再発行まで混乱が続いた<ref>山田 (2000) 第5章</ref>。後漢の滅亡後は、[[董卓]]によって五銖銭が[[董卓小銭]]という硬貨に改鋳され、銘文や研磨などの処理がされていない悪貨だったため[[インフレーション]]を招く。[[魏晋南北朝]]の時代に五銖銭の発行が再開するが銅不足は解消されず、各地で物品貨幣である布帛、穀物、塩の流通が盛んとなった。やがて銭の不足によって鉄片、裁断した革、重ねた紙なども銭として流通するようになるが、[[唐]]の[[開元通宝]]の発行により混乱はいったん収束する<ref>山田 (2000) 第8章</ref>
 
=== ギリシャ、ヘレニズム ===
春秋戦国時代から漢代にかけては、多くの貨幣論も書かれている。春秋戦国時代の出来事をもとに書かれた『国語』に登場する[[単穆公]]は、基準通貨と補助通貨の2種類の貨幣で調整をするという子母相権論を説いた。[[紀元前5世紀]]頃の『[[墨家|墨子]]』では刀貨と穀物価格の関係を論じており、[[紀元前4世紀]]頃の『[[孟子]]』では[[一物一価の法則]]への反論がなされている。[[司馬遷]]は『[[史記]]』の貨殖列伝で[[范蠡]]の逸話を通して物価の変動を説き、『[[管子]]』は君主による価格統制をすすめている<ref>山田 (2000) p48</ref>。文芸作品では、[[西晋]]の[[魯褒]]が当時の社会を風刺した『銭神論』を著している<ref>山田 (2000) p10</ref>。
 
==== ギリシア ====
[[ファイル:Athens owl coin.jpg|thumb|200px|古代[[アテナイ]]のテトラドラクマ銀貨]]
古代ギリシャの叙事詩である『[[イリアス]]』や『[[オデュッセイア]]』では牡牛が価値の尺度になっている。12頭の価値のある鼎、4頭の価値のある女奴隷などの表現があり、支払いには青銅と黄金が使われていた{{Sfn|湯浅|1998|p=58}}。
ヨーロッパでの硬貨は、古代ギリシアの都市国家である[[ポリス]]で急速に普及した。現存する世界最古の硬貨は、アナトリア半島の[[リュディア]]王国で作られた[[エレクトロン貨]]である。これは金銀の自然合金であるエレクトラムを素材としていた。リュディアは豊富に貴金属を産する土地で、砂金状のエレクトラムが採れたパクトロス川は[[ミダス王]]の伝説でも知られる。リュディアの影響を受けて、[[紀元前650年]]頃には[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]で銀貨が作られ、[[紀元前550年]]頃にリュディアがエレクトラムから分離した金貨を作り、それをもとに[[タソス島|タソス]]でも金貨が用いられた。この他に[[スパルタ]]やアルゴスでは[[鉄貨]]が用いられ、硬貨は[[紀元前6世紀]]にエーゲ海一帯に広まった。ポリスはそれぞれ異なる貨幣を発行したため、[[両替商]]が重要な役割を持った。両替商は財産の保管を行いつつ、預けられた金を元手に貸付も始め、こうして[[銀行]]も成立した。紀元前5世紀には[[アテナイ]]を中心に海上貿易が盛んになり、[[ドラクマ]]をはじめとするギリシアの銀貨、アケメネス朝ペルシアの金貨である[[ダリク]]、[[キュジコス]]のエレクトロン貨などで取引が行われた<ref>前沢 (1998) p7</ref>。
 
ヨーロッパでの硬貨は、古代ギリシャの都市国家である[[ポリス]]で急速に普及した。リュディアの影響を受けて[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]で銀貨が作られ、リュディアがエレクトラムから分離した金貨を作ると、それをもとに[[タソス島|タソス]]でも金貨を使った。この他に[[スパルタ]]やアルゴスでは[[鉄貨]]を発行し、硬貨は紀元前6世紀にエーゲ海一帯に広まった。ポリスはそれぞれ異なる貨幣を発行しており、金貨は王制の貨幣に限られ、銅貨は少なく、大部分が銀貨だった。[[ラウレイオン|ラウリオン銀山]]をもつ[[アテナイ]]が最も銀貨を発行して経済力を持ち、アテナイを中心に海上貿易が盛んになり、[[ドラクマ]]をはじめとするギリシャの銀貨、アケメネス朝ペルシアの金貨である[[ダリク]]、[[キュジコス]]のエレクトロン貨などで取引が行われた{{Sfn|前沢|1998|p=7}}。小額の貨幣としては鉄串が流通し、鉄鉱山を持つスパルタは[[リュクルゴス]]の時代に鉄棒を唯一の貨幣と定めて、貴金属は国家が独占した{{Refnest|group="†"|ドラクマと鉄串の比価は1:6だった。[[プルタルコス]]の伝承によれば、スパルタの鉄棒は1本の重量が1エウボミア・ミナ(4.27キログラム)であり、取引で輸送の負担が大きかった。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=59}}。アテナイはポリス内にも貨幣を普及させ、公共事業や民会、陪審に参加する市民に[[オボルス]]銀貨を支給する制度が始まった。この制度で貧しい市民もポリスの市場で食料を買えるようになり、富裕市民の公共奉仕も貨幣化されていった。アテナイの貨幣単位には、[[タレント (単位)|タラントン]]、[[ミナ|ムナ]]、ドラクマ、オボルスがあり、タラントンやムナは計算用の貨幣だった{{Refnest|group="†"|1タラントン=60ムナ、1ムナ=100ドラクマ、1ドラクマ=6オボルスとされる。}}。
 
ギリシャではポリスごとに異なる貨幣を発行したため、両替商が重要な役割を持った。両替商は財産の保管を行いつつ、預けられた金を元手に貸付も始め、銀行も成立した。こうした両替商や銀行は、仕事に使っていたトラペザという机にちなんでトラペジーテースと呼ばれた{{Sfn|前沢|1998|p=7}}。
アテナイは紀元前483年から[[ラウレイオン|ラウレイオン銀山]]をもとに銀貨を発行して経済力を持ち、ポリス内にも貨幣が普及する。公共事業や民会、陪審に参加する市民に[[オボルス]]銀貨を支給する制度が始まると、貧しい市民もポリスの市場で食料を買えるようになり、富裕市民の公共奉仕も貨幣化されていった。アテナイの通貨単位は、1[[タレント (単位)|タラントン]]=60[[ミナ|ムナ]]、1ムナ=100ドラクマ、1ドラクマ=6オボルスとされ、タラントンやムナは計算用の貨幣で実物は存在しなかった。
 
マケドニアでは[[ピリッポス2世]]時代に{{仮リンク|パンガイオン|en|Pangaion Hills}}で産出する金から[[スタテル]]を発行した。このスタテルが銀中心のギリシャで大きな資金源となり、重量もペルシャの8.4グラムに対して8.7グラムと優れており、大量のギリシャ人傭兵を雇うことを可能とした。アレクサンドル3世は豊富な資金を背景にギリシャ諸都市を征服して貴金属を押収し、各地に造幣所を建設して金貨を発行した。アレクサンドロス3世の征服によって各地から金が運ばれて金貨が急増し、これが最古のインフレーションの記録とも言われる{{Refnest|group="†"|これによって金銀の比価がペルシャ帝国時代の1:13.3から1:10となった。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=76}}。
当時の貨幣論は、[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家]]』、[[アリストテレス]]の『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』や『[[ニコマコス倫理学]]』などに見られる。また、[[アリストパネス]]が[[紀元前405年]]に発表した[[ギリシア喜劇]]の『[[蛙 (喜劇)|蛙]]』には、アテナイ市民の素姓の低下を貨幣の質の低下にたとえる箇所があり、当時の貨幣事情を反映しているとされている<ref>アリストパネス (BC405) p60、129</ref>。
 
==== ローマ ====
[[ファイル:Vecchi 051 - transparent background.PNG|thumb|紀元前240年から225年ごろのアス]]
{{main|古代ローマの通貨}}
[[古代ローマ]]では青銅貨の[[アス (青銅貨)|アス]]が最初に作られ、ギリシの様式をた。ローマは銀行制度もギリシアから引き継ぎ、地域取引のための両替を行った。帝政に入ると[[金銀複本位制]]となり、銀貨の[[デナ]]当初98%それぞれが独自貨幣含有発行していたが軍費調達や財、ローマは各地を征服して単一の再建治機構目的もと質は低下貨幣制度を統一、[[アウレた。ギアヌス帝]]シャ都市間頃に戦争含有率3%以下ま賠償金の支払いが主あったりインフレ、ロションを起こマは征服した<ref>グリーン (1986) 第3章</ref>都市を従属下に置くという違いがあった帝政にはの貨幣のデザインド洋交易はギリシャと同様だった盛んに、戦争や権力者り、[[アウグストゥスど図像が増えていった{{Refnest|アウグストゥス帝]]から[[トラヤヌスgroup="†"|トラヤヌス帝]]最初時代造幣はローマではなく勢力下都市である[[ウレウポリス]]金貨やデナリウス銀貨が当時の遺跡から発見さで行わている[[アプレイウス]]による[[2世紀]]}}{{Sfn|比佐|2018|p=15}}。ローマ小説『黄金のロバ』に造幣、当時元老院物価などの貨経済委員忠実に書かれ担当しいるという説もある<ref>グおり、定員は毎年3人でキャーン (1986)アの最初につく最下位の公職だった{{Sfn|比佐|2018|p=12, p108</ref>147}}
 
ローマは銀行制度もギリシャから引き継ぎ、地域の取引のための両替を行った。帝政に入ると[[金銀複本位制]]となり、銀貨の[[デナリウス]]が発行されたが、軍費調達や財政再建の目的で発行を増やしたために質が低下してインフレーションを起こした{{Refnest|group="†"|デナリウスは当初98%の銀含有だったが、[[アウレリアヌス帝]]の頃には含有率3%以下まで下がった。}}{{Sfn|グリーン|1999|p=第3章}}。帝政期にはインド洋交易が盛んになり、[[アウグストゥス|アウグストゥス帝]]から[[トラヤヌス|トラヤヌス帝]]の時代の[[アウレウス]]金貨やデナリウス銀貨が当時の遺跡から発見されている{{Refnest|group="†"|[[アプレイウス]]による2世紀の小説『{{仮リンク|変容 (アプレイウス)|la|Metamorphoses (Apuleius)|en|The Golden Ass|label=黄金のロバ}}』には、当時の物価などの貨幣経済が忠実に書かれているという説もある。}}{{Sfn|グリーン|1999|p=108}}。ローマは[[カルタゴ]]の支配下にあったイベリア半島を征服し、金山や銀山で奴隷を採掘に使役した{{Sfn|栗田, 佐藤|2016|p=174}}。
 
[[ファイル:Maximinus denarius - transparent background.PNG|thumb|200px|デナリウス貨]]
ローマ帝国は兵士の給与に銀貨を大量に用い使ったため、地中海世界では銀貨、および銀貨を補う高額通貨の[[金貨]]額通貨として[[銅貨]]が定着した。ローマ軍団兵の給与は[[塩]]で給付され、それが[[サラリー]]の語源であるとの説があるが俗説の域をない。salariumは兵士ではなく高位の役職者に対して定期的に支払われる給与であり、なぜsal(塩)を語源にしているのかは文献的・歴史的には確定できない<ref>{{Sfn|逸身 (|2000)</ref>|p=}}
 
=== 中世古代の貨幣論 ===
中国では、[[春秋戦国時代]]から漢代にかけて多くの貨幣論が書かれた。春秋戦国時代の出来事をもとに書かれた『[[国語 (歴史書)|国語]]』に登場する[[穆公]]は、基準通貨と補助通貨の2種類の貨幣で調整をするという子母相権論を説いた。『[[墨家|墨子]]』では刀貨と穀物価格の関係を論じており、『[[孟子]]』では[[一物一価の法則]]への反論がなされている。[[司馬遷]]は『[[史記]]』の貨殖列伝で[[范蠡]]の逸話を通して物価の変動を説き、『[[管子]]』は君主による価格統制をすすめている{{Refnest|group="†"|文芸作品では、[[西晋]]の[[魯褒]]が当時の社会を風刺した『銭神論』を書いた{{Sfn|山田|2000|p=10}}。}}{{Sfn|山田|2000|p=48}}。
==== ヨーロッパ ====
ローマ帝国崩壊後に西ヨーロッパを統一した[[フランク王国]]は、デナリウスを作って銀貨の重量を上積みし、度量衡の改革を行った。また[[カール大帝]]の時代には[[造幣権]]を国家の独占とした。その理由として、東方の金貨に対する対策、銀鉱の開発、飢饉時の穀物価格高騰に対する購買力強化などがあげられる。銀貨の上積みはその後も続いたため、小額取引用の[[オボルス]]も発行された<ref>山田 (2010) p27</ref>。[[カロリング朝]]ではリブラという計算用の貨幣単位により、1リブラ=20[[ソリドゥス]]金貨=240デナリウス銀貨という比率が定められ、中世ヨーロッパの貨幣制度の基本となった。イングランドでは王の造幣権や計算体系は維持されたが、大陸諸国では領主や都市も独自の貨幣を発行し、同じ名称の貨幣でも異なる計算体系を用いるなど複雑になった<ref>ヨーロッパ中世史研究会 (2000) pp382-385</ref>。東地中海では、[[東ローマ帝国]]が[[ノミスマ]]金貨を発行し、ローマ帝国の[[ソリドゥス]]金貨を引き継ぐものとして流通した。また、ヨーロッパにはイスラーム世界からの貨幣が流入し、[[ヴァイキング]]の交易によって[[スカンジナビア]]にも中央アジアで発行された大型のイスラーム貨幣等が貯蔵された<ref>角谷 (2006)</ref>。
 
インドではマウリヤ朝時代に[[カウティリヤ]]が『[[実利論]]』で貨幣の政策について書いており、使用する銅貨の指定がある{{Sfn|山崎, 小西編|2007|p=}}。
日常の取引で小額面の貨幣が必要とされたが、銀貨は高額だったため、西ヨーロッパ各地で商品貨幣に加えて信用取引が増加した。小規模な[[マーケットタウン|市場町]]では口頭で信用取引が行われ、[[10世紀]]からイスラーム世界の小切手や為替手形に接していたイタリアの諸都市では[[13世紀]]に預金銀行、為替手形と振替が出現した。13世紀には[[公証人]]の証書だったが、やがて信書により行われるようになる。両替商からは[[高利貸]]や銀行家として発展をとげる者が出始め、大銀行家から君主にもなった[[メディチ家]]もそのひとつである。預金銀行は中流商人による事業で、[[14世紀]]には大商人による小切手の原型が流通する。こうした手法は現金輸送の節約に役立ったが、貴金属の不足が続いて硬貨の供給は追いつかず、14世紀から[[15世紀]]にかけて深刻になった<ref>湯浅 (1998) 第6章</ref>。
 
ギリシャの貨幣論は、[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家]]』、[[アリストテレス]]の『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』や『[[ニコマコス倫理学]]』などに見られる。[[クセノポン]]は『歳入論』でペロポネソス戦争敗北後のアテナイの財政再建について書き、貿易振興による関税、[[メトイコイ]](在留外国人)の優遇による人頭税、ラウレイオン銀山の再開発による貨幣発行益を提案した{{Refnest|group="†"|古代ギリシャの詩人[[アリストパネス]]が[[紀元前405年]]に発表した[[ギリシャ喜劇]]の『[[蛙 (喜劇)|蛙]]』には、アテナイ市民の素姓の低下を貨幣の質の低下にたとえる箇所があり、当時の貨幣事情を反映しているとされている。}}。
==== 西アジア、アフリカ ====
[[File:Silver Dirham.png|right|thumb|240px|ウマイヤ朝のディルハム貨]]
イスラーム帝国の[[ウマイヤ朝]]は、[[東ローマ帝国]]と[[サーサーン朝]]ペルシアから領土を獲得し、それぞれの金本位制と銀本位制を引き継いだ。[[アブドゥルマリク]]の時代に貨幣制度が整えられ、金貨の[[ディナール]]、銀貨の[[ディルハム]]、銅貨のファルスが定められた。ディナールは東ローマ帝国のノミスマにならいつつ、独自の重量を採用した。ディルハムはサーサーン朝の[[ディレム]]にならって発行し、ファルスは小額取引用とされ、金貨と銀貨は[[ダマスクス]]の造幣所で発行されて地方へ広まった<ref>加藤 (1995) 第2章</ref>。
 
== 中世 ==
金本位制と銀本位制の地域が領土に含まれたため、[[アッバース朝]]では[[複本位制|金銀複本位制]]がとられた。やがて征服地に退蔵されていた金の利用、[[サハラ交易]]や金鉱での新たな金の獲得、そして技術の向上によって金貨の造幣が活発となり、[[9世紀]]からイスラーム世界では金貨が普及した。金貨は貿易の決済として重要とされ、長期間にわたって品位が保たれ、銀貨との交換比率が安定していた<ref>佐藤 (1981)</ref>。
=== 西アジア、北アフリカ ===
[[ファイル:Silver Dirham.png|right|thumb|240px|ウマイヤ朝のディルハム貨]]
イスラーム帝国の[[ウマイヤ朝]]は、ビザンツ帝国と[[サーサーン朝]]ペルシアから領土を獲得し、それぞれの金本位制と銀本位制を引き継いだ。当初はビザンツのソリドゥス金貨とフォリス銅貨、サーサーン朝のドラクマ銀貨が模倣され、肖像が打刻されていた{{Refnest|group="†"|これらの貨幣はアラブ・ビザンティン貨やアラブ・サーサーン貨と呼ばれている。}}{{Sfn|西村|2019|p=}}。[[アブドゥルマリク]]の時代に貨幣制度が整えられ、肖像は消えてイスラーム世界の貨幣のデザインが確立されてゆき、金貨の[[ディナール]]、銀貨の[[ディルハム]]、銅貨の{{仮リンク|ファルス (貨幣)|en|Fals}}が定められた。金貨はビザンツのノミスマにならいつつ、独自の重量を採用した。銀貨はサーサーン朝の[[ディレム]]にならって発行し、銅貨は小額取引用とされ、金貨と銀貨は[[ダマスクス]]の造幣所で発行されて地方へ広まった。[[イスラム経済|イスラーム経済]]では等価・等量の交換を重視することから、金貨や銀貨の質が安定しており、ヨーロッパでも信用の高い貨幣として扱われた。[[アッバース朝]]では金銀複本位制となり、征服地に退蔵されていた金の利用、[[サハラ交易]]で運ばれる西スーダンの金、金鉱での新たな金の獲得、そして技術の向上によって金貨の造幣が活発となり、9世紀から金貨が普及した。金貨は貿易の決済として重要とされ、長期間にわたって質が保たれ、銀貨との交換比率が安定していた。アッバース朝のもとで地中海やインド洋の商業は急増したが、次第に金銀の供給が不足したため、小切手、為替手形、銀行が普及した{{Sfn|佐藤|1981|p=}}。サッラーフ(şarrāf)と呼ばれる両替商は、小規模な業者は[[スーク (市)|スーク]]で両替や旧貨と新貨の交換を行い、大規模になると銀行業として王朝やマムルークに融資を行った{{Sfn|長岡|2011|p=第1章, 7章}}。
 
アッバース朝のもとで地中海やインド洋の商業は急増したが、次第に金銀の供給が不足したため、小切手、為替手形、銀行が普及した<ref>佐藤 (1981)</ref>。サッラーフと呼ばれる両替商は、小規模な業者はスークで両替や旧貨と新貨の交換を行い、大規模になると銀行業として王朝やマムルークなどに融資を行った。銀不足は[[10世紀]]の[[ファーティマ朝]]時代に銀不足が深刻化し、12世紀の[[アイユーブ朝]]時代には金貨の重量基準が変更され、かわって銀貨が中心となる。イスラーム世界における金銀の不足は、[[15世紀]]のエジプトでファルス銅貨のインフレーションと穀物価格の高騰などの経済危機につながる。銅貨はファーティマ朝時代には地方当局が発行できるようになっていたため重量が安定せず、しかもアイユーブ朝になると金銀貨との交換比率が定められ、貨幣制度が混乱した。さらにファルス銅貨とは別にディルハム銅貨という計算用の貨幣が導入されると貨幣相場の変動が激しくなり、実際にファルスを用いていた民衆に混乱をもたらした。当時のエジプトの歴史家[[マクリーズィー]]は、金銀を取引の中心にすえて貨幣政策を行うよう主張しており、これは現在の[[貨幣数量説]]に近い<ref>{{Sfn|加藤 (|2010) p166</ref>|p=166}}
 
オスマン帝国は[[オルハン]]の時代に、ビザンツ帝国の銀貨を参考に{{仮リンク|アクチェ|en|Akçe}}銀貨を発行した。そして支配領域に{{仮リンク|ティマール制|en|Timar}}を定めて、各地の騎士に徴税権を与える代わりに軍事義務を課した。ティマール制とは2万アクチェ以下の小額の徴税権がティマールと呼ばれたことに由来しており、高額の徴税権はゼアーメト(zeamet、2万アクチェ以上10万アクチェ未満)やハス(has、10万アクチェ以上)と呼ばれた{{Sfn|東洋文庫研究部|2016|p=}}。ティマールの額は戦場での働きによって増減したため、戦場には書記が同行して軍功を記録して証明書を発行した{{Sfn|林|2016|p=70}}。
==== 東アジア ====
[[画像:Nanso-sen.jpg|thumb|right|280px|北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)]]
唐の滅亡にともない[[五代十国時代]]になると銅の不足によって[[鉛貨]]や鉄貨も発行され、十国では硬貨の不足が激しく、鉛貨と鉄貨が中心となった。やがて中国を統一した[[宋 (王朝)|宋]]は、悪貨や私鋳を取り締まる一方で銅貨の[[宋銭]]を大量に発行する。しかし物価は安定せず、[[銭荒]]と呼ばれた<ref>湯浅 (1998) 第5章</ref>。宋銭は、[[遼]]、[[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]、[[高麗]]、日本、[[安南]]、[[ジャワ]]などに流入し、貿易の他に各国のレートにもとづいて国内でも流通した<ref>四日市 (2008)</ref>。
 
=== サブサハラアフリカ ===
[[モンゴル帝国]]は[[銀錠]]と呼ばれる秤量銀貨と絹糸による税制を定め、[[13世紀]]の[[元 (王朝)|元]]にも引き継がれた。元は紙幣の交鈔を流通させつつ、貴金属の私的な取引を禁じ、銅貨の国内使用もたびたび禁じた。ただし管理貿易による貴金属輸出は続き、銀や銅はモンゴル帝国の領土拡大にともなってユーラシア大陸の東西を横断して運ばれた。イスラーム世界の銀不足は13世紀に解消され、14世紀から再び不足した。イギリスの銀貨発行は14世紀に急減し、イタリアでも銀不足が起きている。こうした現象は、元からの銀の増加と滅亡による停止が原因とされる<ref>四日市 (2008)</ref><ref>黒田 (2013) p65</ref>。宋銭が普及した地域では、不足すると私鋳銭により供給され、銅のほかに鉛で作られた質の低いものもあった<ref>黒田 (1999)</ref>。
[[ザンベジ川]]・[[リンポポ川]]流域の高原で金が産出され、インド洋との貿易を行った。この地域についてはイスラーム地理学者の[[マスウーディー]]が記録を残している{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=115}}。アフリカ西部の[[ニジェール川]]流域では、サハラの銅やサバンナからの金を運ぶサハラ交易が行われていた。サハラ砂漠の[[岩塩]]が運ばれてニジェール川の金と取り引きされ、地中海へ金が運ばれた。マリの王は大規模なキャラバンでマッカ巡礼を行い、中でも[[マンサ・ムーサ]]は大量の黄金で知られ、金を喜捨したためにカイロの金相場が下落した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=156}}。ガーナ王国の[[セネガル川]]上流から金の産出は古代から続いており、金の産出地は東へと移っていった{{Refnest|group="†"|11世紀の[[アンダルス]]の学者[[アブー・ウバイド・バクリー]]は、『諸国と諸道の書』でガーナ王国の金や首都({{仮リンク|クンビー・サレー|en|Koumbi Saleh}}がその可能性が高い。)について記録している。輸入する塩にはロバ1頭につき1ディナール、輸出する塩には2ディナールの課税をした。}}{{Sfn|宮本, 松田編||2018|p=153}}。
 
インド洋のタカラガイはアフリカに運ばれて貝貨となった。ベルベル人やアラブ人、トゥアレグ族がニジェール川の流域に運ぶルートと、ギニア海岸に運ぶルートがあった。[[シャバ]]や[[ザンビア]]で流通して、13世紀にはニジェール川流域のマリ帝国、14世紀には西アフリカの[[ダホメ王国]]や中央アフリカの[[コンゴ王国]]にも運ばれて貨幣となった。[[ベニン]]や[[アルドラ]]にはポルトガルが進出していたため、貝貨の単位にもトクエ、ガリンハ、カベスなどポルトガル語が付けられた。ギニア海岸では、ポルトガルによって王室の紋章を捺印した布も貨幣となった{{Refnest|group="†"|[[マグリブ]]の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は『[[大旅行記]]』で中央ニジェールのタカラガイについて語っている。ベニン湾では1トクエ=40個、1ガリンハ=200個、1カベス=4000個だった。}}{{Sfn|ポランニー|2004|p=第4部1章}}。
日本では、[[日宋貿易]]からの宋銭の流入で硬貨が増えるにともない、[[利銭]]や[[借銭]]と呼ばれる金融業も広まった。[[平安時代]]後期の[[12世紀]]には[[借上 (中世)|借上]]、[[室町時代]]の中期には[[土倉]]、[[酒屋]]などの金融業者が現れた<ref>瀧澤・西脇編 (1999) p48</ref>。宋銭は、日本でそれまでの現物納税にかわって硬貨で納税をする[[代銭納]]が普及するきっかけにもなった<ref>大田 (1995)</ref>。
 
==== 東アジメリカ ====
[[ファイル:Nanso-sen.jpg|thumb|right|280px|北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)]]
アンデス文明を統一した[[インカ]]は、各地を編入する一方で、北方の貨幣や交易商人は全国的な制度に取り入れずに残した。北方では、3種類の貨幣が用いられていた。チャキーラと呼ばれる骨製のビーズ紐は、エクアドル高地で使われた。金貨にはチャグァルというボタン状のものがあった。アチャス・モネーダスと呼ばれる銅製の斧は、十進法にもとづいて作られてエクアドルやペルーの海岸で使われた<ref>ダルトロイ (2012)</ref>。
唐の滅亡にともない[[五代十国時代]]になると銅が不足して、十国では硬貨の不足が激しくなり[[鉛貨]]と鉄貨が中心となった。中国を統一した[[宋 (王朝)|宋]]は悪貨や私鋳を取り締まり、銅貨の[[宋銭]]を大量に発行する。しかし物価は安定せず、[[銭荒]]と呼ばれた{{Sfn|湯浅|1998|p=第5章}}。宋銭は貿易で輸出されて、[[遼]]、[[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]、[[高麗]]、日本、[[安南]]、[[ジャワ]]などに流入し、それぞれの国内でも貨幣として流通した{{Sfn|四日市|2008|p=}}。
 
宋銭が普及した地域では、宋銭が不足すると民間や政府が硬貨を発行した。各国でも中国の銭と同様のデザインで銅貨が発行された。[[朝鮮王朝]]では[[朝鮮通宝]]、ベトナムでは[[前黎朝]]の[[太平興宝]]や[[天福通宝]]、[[陳朝]]の[[大治通宝]]がある。[[琉球王国]]では15世紀後半に[[大世通宝]]、[[世高通宝]]、[[金円世宝]]という銅貨が発行されたとされる{{Sfn|櫻木|2016|p=146}}。日本では中国の銭を模した銅貨の他に、円形で孔があるだけの[[無文銭]]も発行された。硬貨の普及は、それまでの現物納税にかわって硬貨で納税をする[[代銭納]]のきっかけにもなった{{Sfn|本多, 早島|2017|p=97}}。日本、中国、朝鮮では16世紀までの地域市場において物品貨幣も取引に使った{{Sfn|黒田|2014|p=55}}。中国では竹や布の貨幣が作られたり{{Sfn|黒田|2014|p=第2章}}、日本では[[貫高制]]にかわって米の収穫量にもとづく[[石高制]]が普及する一因にもなった。
=== 近世・近代 ===
[[File:Mexico8real.jpg|thumb|right|250px|メキシコドル、1894年]]
スペインの[[カスティーリャ王国]]は、[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸の植民地化]]によって金銀を獲得し、[[16世紀]]にはスペインの[[エスクード]]金貨や[[レアル (通貨)|レアル]]銀貨が国際的な貨幣として流通した。アメリカ大陸からの金銀流入は、[[価格革命]]と呼ばれる現象の一因とも言われる。各国から商人が集まっていた[[アントウェルペン]]が国際的な金融取引の中心となり、イタリアの諸都市に利益をもたらしていた取引の手法がさらに発展した。やがて16世紀後半からオランダの独立運動が盛んになり[[八十年戦争]]が起きるとアントウェルペンは衰退し、金融取引の中心は[[アムステルダム]]に移る。アムステルダムは[[17世紀]]に2種類の銀貨を発行し、銀の含有率が少ない国内用銀貨と、銀の含有率が高い貿易用の銀貨に分けられた<ref>湯浅 (1998) 第7章</ref>。[[アムステルダム銀行]]は預金管理において計算用の貨幣で実在しないバンク・マネーを尺度に使い、複雑化していた西ヨーロッパの計算体系をまとめる役割も果たした<ref>名城 (2008)</ref>。
 
[[ファイル:Batei-gin-Sycee.jpg|thumb|right|240px|小型銀錠]]
中国では[[朱元璋]]が[[明]]の成立前から銅貨の発行を始めたが、銅不足のため銅貨は貿易用の貨幣となった。こうして[[永楽通宝]]や[[宣徳通宝]]は海外へ流通し、[[日明貿易]]により室町時代の日本にも流入した。アメリカ大陸で採掘された貿易銀は、スペインの[[ガレオン貿易]]で太平洋を経由して中国にも到達し、明は銀の交易圏に組み込まれる。特に16世紀以降は銀の流入が増え、銀の普及に大きな影響を与えた<ref>湯浅 (1998) 第8章</ref>。明は民間の富の蓄積を抑えるために銀の採掘を規制していたが、スペインがマニラへ運んだ銀が明にも5000トンほど持ち込まれ、貿易商人の豪華な生活は民衆の反発も招いた<ref>ブルック (2009) 第6章</ref>。
宋ののちの[[モンゴル帝国]]は、[[銀錠]]と呼ばれる秤量銀貨と絹糸による税制を定めて、[[元 (王朝)|元]]にも引き継がれた。元は交鈔と呼ばれる紙幣を流通させつつ、貴金属の私的な取引を禁じ、銅貨の国内使用もたびたび禁じた。元の王族や領主は、銀錠を[[オルトク]]と呼ばれる特権商人に与えて管理貿易に運用させた。当時のインドでは、貿易の支払いに中国からの銀が用いられた記録があり、銀が西へと流れていたことを示している。元は銀を確保するために、貴金属が豊富な雲南の大理国に[[雲南・大理遠征]]も行っている{{Sfn|四日市|2008|p=131, 139}}。
 
管理貿易による貴金属輸出は続き、銀や銅はモンゴル帝国の領土拡大にともなってユーラシア大陸の東西を横断して運ばれた。東から西の貴金属の流れはイスラーム世界やヨーロッパにも影響を与えた。イスラーム世界の銀不足は13世紀に解消され、14世紀から再び不足した。イギリスの銀貨発行は14世紀に急減し、イタリアでも銀不足が起きている。こうした現象は、元からの銀の増加と滅亡による停止が原因とされる。元の貿易ルートが衰えると、イスラーム世界とヨーロッパは再び銀不足に陥った{{Sfn|四日市|2008|p=}}{{Sfn|黒田|2014|p=65}}。
こうして明では銀と紙幣が貨幣として定着して銅貨発行が衰え、加えて日明貿易の断絶で日本向けの銅貨は停止する。日本では硬貨が不足し、硬貨を尺度とする[[貫高制]]から米を尺度とする[[石高制]]に移る一因にもなった<ref>鈴木編 (2007)</ref>。17世紀以降の日本は貴金属の産出地となり、[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]は[[マカオ]]経由で日本と貿易を行った。17世紀前半に日本が支払った銀は、世界全体の産銀量42万キログラムのうち20万に達した。[[江戸幕府]]による[[鎖国令]]後は、ポルトガルに代わり[[オランダ東インド会社]]が日本との貿易によって金、銀、銅を取引した<ref>東野 (1997) p137</ref>。
 
; 紙幣の成立
貿易銀のメキシコドルは国際貿易の決済通貨となり、[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけて同量、同位の銀貨が各地で作られた。たとえば中国の[[銀元]]、[[香港ドル]]、日本の[[1円銀貨|円銀]]、[[USドル]]、[[シンガポールドル]]、ベトナムの[[ピアストル]]などがある<ref>濱下 (1999) p137</ref>。
[[ファイル:Yuan dynasty banknote with its printing plate 1287.jpg|thumb|320px|至元通行寳鈔とその原版]]
世界初の紙幣は宋の[[交子]]とされる。当初は、銅が不足して鉄貨を用いていた四川において鉄貨の預り証として発行された。四川での成功を知った宋政府は交子の発行を官業とし、本銭(兌換準備金)や発行限度額を定めて交子を手形から紙幣に定めて官営の交子を流通させた。北宋を倒したモンゴル帝国の[[オゴデイ]]は、江南が勢力外だった当初は銅が不足したため紙幣の[[交鈔]]を発行した。モンゴル帝国は[[クビライ]]の時代に元が成立して、[[1260年]]に交鈔は法定通貨として流通を始める。交鈔の流通を拒んだり、偽造をする者は死罪となった。交鈔の製造法は、樹皮を薄くのばした上に銅版画を印刷し、皇帝の御璽を押して完成とするもので、300×200ミリを超えるサイズもあった{{Refnest|group="†"|イブン・バットゥータは『大旅行記』で交鈔を「紙のディルハム貨」と呼び、ヴェネツィア商人の[[マルコ・ポーロ]]は紙幣についての驚きを『[[東方見聞録]]』で語っている{{Sfn|湯浅|1998|p=176}}。}}{{Sfn|植村|1994|p=11}}。
 
モンゴル帝国の地方政権である[[イルハン朝]]では、西アジア初の紙幣としてチャーヴ(鈔)が発行された。君主の[[ゲイハトゥ]]が財政の再建を目的としたもので、交鈔を参考に作られており漢字も印刷されていた。金属貨幣を禁止してチャーヴを流通させようとしたが、当時のイスラーム社会には定着せず、2ヶ月で回収となった。元の後に成立した明も、銅不足のため[[1368年]]に紙幣の{{仮リンク|大明宝鈔|zh|大明宝鈔}}を発行した。明は紙幣を国内用、銅貨を貿易用の貨幣としたが、やがて紙幣は増発により価値が下がり、銅貨や秤量銀貨の国内使用も解禁となる{{Sfn|湯浅|1998|p=第8章}}。日本では、[[後醍醐天皇]]が[[乾坤通宝]]という新貨を銅貨と紙幣([[楮幣]])で発行すると宣言したが、政権の崩壊で実現しなかった{{Sfn|本多, 早島|2017|p=97}}。
== 紙幣 ==
[[画像:Jiao zi.jpg|150px|thumb|交子]]
中世には、名目貨幣である[[紙幣]]が登場した。紙幣は運びやすく、原料とコストの面で利点が多かったが、発行が容易なためにインフレーションも発生しやすく、しばしば国家の弱体化につながった。現在の紙幣は、中央銀行が発行する[[銀行券]]と政府が発行する[[政府紙幣]]に大きく分かれるが、その他にも民間でも紙幣が発行されてきた。
 
=== 政府紙幣南アジア、東南アジア ===
[[ファイル:Sher shah's rupee.jpg|200px|サムネイル|シェール・シャーによって発行されたルピー銀貨]]
世界初の紙幣は宋の[[交子]]とされている。当初は、銅が不足して鉄貨を用いていた四川において鉄貨の預り証として発行された。四川での成功を知った宋政府は交子の発行を官業とし、本銭(兌換準備金)や発行限度額を定めて交子を手形から紙幣に定め、[[1023年]]から官営の交子を流通させた。
古代から続いていた西アジア型の打刻硬貨の発行は、7世紀頃に減少する。金銀は硬貨よりも装飾品の素材となり、硬貨の含有率も低下した。モンゴル帝国が中国からペルシアにかけて統治するようになると海上貿易が増加した。紅海やペルシア湾からの馬が重要な輸出品となり、インドは西アジアから馬を輸入して中国からの銀で支払った。イスラーム世界は10世紀から銀不足が続いていたが、東から西へと銀が運ばれるにつれて13世紀に銀不足は解消された{{Sfn|家島|2006|p=第5部第4章}}。イスラーム世界やヨーロッパでは、東方からの銀で14世紀から銀貨の造幣が増加したが、元の貿易ルートが衰えると再び銀不足に陥った{{Sfn|黒田|2014|p=65}}。[[スール朝]]の[[シェール・シャー]]の時代に銀含有率の高い[[インド・ルピー|ルーパヤ]]と金貨、銅貨が発行され、ムガル帝国の[[アクバル]]の時代にルピー銀貨の品質が確立された。この制度は金貨や{{仮リンク|ダーム|en|Dam (Indian coin)}}銅貨にも採用が進み、金貨、銀貨、銅貨が採用された。金貨は贈答用や貯蔵用、銀貨は納税用、銅貨は小額の取引用であり、農民が納税するために商人や両替商が活動した{{Sfn|小谷編|2007|p=164}}。
 
[[モルディブ諸島]]や[[雲南]]で産するタカラガイは、地元で小額用の貝貨として使われたほかに、10世紀頃からインド洋から東アフリカの海岸に運ばれて貨幣となった{{Refnest|group="†"|イブン・バットゥータはモルディブ、マルコ・ポーロは雲南のタカラガイについて語っている。モルディブでは40万枚ほどのタカラガイが、ニジェールのゴゴでは同じ価値で1150枚ほどに相当し、運搬による利益を表している{{Sfn|ポランニー|2004|p=第4部1章}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=95}}。
[[File:Yuan dynasty banknote with its printing plate 1287.jpg|thumb|320px|至元通行寳鈔とその原版]]
北宋を倒したモンゴル帝国の[[オゴデイ]]は、江南が勢力外だった当初は銅が不足したため紙幣の[[交鈔]]を発行した。モンゴル帝国は[[クビライ]]の時代に皇帝直轄政権として元を成立させ、[[1260年]]に交鈔は法定通貨として流通を始める。交鈔の流通を拒んだり、偽造をする者は死罪となった。交鈔の製造法は、樹皮を薄くのばした上に銅版画を印刷し、皇帝の御璽を押して完成とするもので、300×200ミリを超えるサイズもあった<ref>植村 (1994) p11</ref>。[[マグリブ]]の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は『[[大旅行記]]』で交鈔を「紙のディルハム貨」と呼び<ref>イブン・バットゥータ (1355) 第7巻</ref>、ヴェネツィア商人の[[マルコ・ポーロ]]は紙幣についての驚きを『[[東方見聞録]]』で語っている<ref>湯浅 (1998) p176</ref>。
 
カンボジアの[[クメール王朝]]では、塩が海水由来と岩塩に分けられ、特産の塩が貨幣としても流通した。市場での支払いには米、穀物、布などを使い、高額の取引には金銀を使った。その他にも貨幣となる財貨や作物は多種多様だった{{Refnest|group="†"|元朝の使節である{{仮リンク|周達観|zh|周达观}}は『[[真臘風土記]]』を書き、クメール王朝の経済についても記録した。}}{{Sfn|石澤|2018|p=212, 215}}。
モンゴル帝国の地方政権である[[イルハン朝]]では、西アジア初の紙幣としてチャーヴ(鈔)が発行された。[[1294年]]に君主の[[ゲイハトゥ]]が放漫財政の再建を目的としたもので、交鈔を参考に作られており漢字も印刷されていた。金属貨幣を禁止してチャーヴを流通させようとしたが、当時のイスラーム社会には定着せず、2ヶ月で回収となった。元の後に成立した明も、銅不足のため[[1368年]]に紙幣の{{仮リンク|大明宝鈔|zh|大明宝鈔}}を発行した。明は紙幣を国内用、銅貨を貿易用の貨幣としたが、やがて紙幣は増発により価値が下がり、銅貨や秤量銀貨の国内使用も解禁となる<ref>湯浅 (1998) 第8章</ref>。
 
=== ヨーロッパ ===
欧米で初の政府紙幣は、[[アメリカ独立戦争]]で[[13植民地]]によって発行された。13植民地はイギリスからの独立をするために[[大陸会議]]を招集し、独立戦争の戦費として[[1775年]]から[[1779年]]にかけて{{仮リンク|大陸紙幣|en|continental currency}}を発行した。この紙幣は13植民地の各州政府で発行され、メキシコドルでの交換を定めていたが、大量発行のためインフレーションを起こした。また急造のために偽造しやすく、イギリス軍によって妨害用の偽札も作られてインフレーションを悪化させた<ref>植村 (1994) p32</ref>。
[[ファイル:Solidus-Leo III and Constantine V-sb1504.jpg|thumb|[[レオーン3世]]と[[コンスタンティノス5世]]を描いたノミスマ]]
ローマ帝国崩壊後に西ヨーロッパを統一した[[フランク王国]]は、デナリウスを作って銀貨の重量を上積みし、度量衡の改革を行った。また[[カール大帝]]の時代には造幣権を国家の独占とした。その理由として、東方の金貨に対する対策、銀鉱の開発、飢饉時の穀物価格高騰に対する購買力強化などがあげられる。銀貨の上積みはその後も続いたため、小額取引用の[[オボルス]]も発行された{{Sfn|山田|2010|p=27}}。[[カロリング朝]]では[[リブラ]]という計算用の貨幣単位によって金銀貨の比価が定められ、中世ヨーロッパの貨幣制度の基本となった{{Refnest|group="†"|比価は1リブラ=20[[ソリドゥス]]金貨=240デナリウス銀貨だった。}}。イングランドでは王の造幣権や計算体系は維持されたが、大陸諸国では領主や都市も独自の貨幣を発行し、同じ名称の貨幣でも異なる計算体系を用いるなど複雑になった{{Refnest|group="†"|ドイツは10以上の通貨圏があり、イタリアは都市別、フランスやイギリスも複数の通貨圏があった。}}。東地中海では[[ビザンツ帝国]]が[[ノミスマ]]金貨を発行し、ローマ帝国の[[ソリドゥス]]金貨を引き継ぐものとして流通した{{Sfn|ヨーロッパ中世史研究会|2000|p=p382}}。
 
; 北ヨーロッパ
=== 銀行券 ===
イスラーム世界からの貨幣がヨーロッパにも流入し、[[ヴァイキング]]の交易によって[[スカンジナビア]]にも中央アジアで発行された大型のイスラーム貨幣等が貯蔵された。9世紀のバルト海沿岸では、ウマイヤ朝の度量衡にもとづいた分銅が普及して、同時代の西ヨーロッパの硬貨よりも高い精度を保った。交易港である[[ビルカ]]、[[ヘーゼビュー]]、[[ゴットランド島]]では、分銅で測られた銀製の装飾品や、イスラームのディナール銀貨を秤量貨幣として使った。分銅が価値尺度としての貨幣の機能を持ち、秤量銀貨が支払い手段の貨幣の機能を担ったため、硬貨の造幣は基本的に行われなかった{{Sfn|角谷|2006|p=第2章}}。
 
; 信用取引とバンク・マネー
日常の取引で小額面の貨幣が必要だったが、銀貨は高額なため適さず、各地で現金を使わない信用取引や物品貨幣が増加した。小規模な[[マーケットタウン|市場町]]では口頭で信用取引が行われ、イスラーム世界の小切手や為替手形に接していたイタリアの諸都市では13世紀に預金銀行、為替手形、[[振込#振替|振替]]、[[複式簿記]]が普及した{{Refnest|group="†"|13世紀中頃のヴェネツィアでは30人に1人が銀行口座を持っていたとされる。}}。為替手形はカトリック教会の利子禁止を回避するためにも使われ、為替市場では各都市が発行した貨幣を取り引きした。計算貨幣を尺度とする信用決済が普及して、バンク・マネー(銀行貨幣)と呼ばれた{{Refnest|group="†"|バンク・マネーには小額用のヘラー、プェニヒ、デナロ等と、高額用のグルデン、エキュー、ポンド、ドゥカート等があった。}}。大市で為替市場が建つようになり、[[シャンパーニュ大市|シャンパーニュ]]、リヨン、ジュネーヴ、ジェノヴァ、カスティーリャ、ピアチェンツァ、ブリュージュ、アントウェルペンなどの大市には外国為替市場の機能もあった{{Sfn|名城|2008|p=}}。両替商からは[[高利貸]]や銀行家として発展をとげる者が出始め、大銀行家から君主になった[[メディチ家]]もそのひとつである。預金銀行は中流商人による事業で、[[14世紀]]には大商人による小切手の原型が流通する。こうした手法は現金輸送の節約に役立ったが、貴金属の不足が続いて硬貨の供給は追いつかず、14世紀から15世紀にかけて深刻になった{{Sfn|湯浅|1998|p=第6章}}。
 
; 国庫制度
中世では[[国庫]]の制度が始まった。イギリスでは[[ヘンリー1世]]時代に国王の財務機関として国庫が定められ、国王は融資の際に{{仮リンク|タリー・スティック|en|Tally stick}}と呼ばれる木製の割符を発行した。割符を2つに割って債権者と債務者が管理し、債権者にとっては国庫への貸付証明であり、国庫にとっては債務証書となった{{Sfn|富田|2006|p=56}}。
 
=== アメリカ ===
; 南アメリカ
アンデス文明を統一した[[インカ]]は、各地を編入する一方で、北方の貨幣や交易商人は全国的な制度に取り入れずに残した。北方では、3種類の貨幣が使われていた。[[チャキーラ]]と呼ばれる骨製のビーズ紐は、エクアドル高地で使われた。金貨には[[チャグァル]]というボタン状のものがあった。[[アチャス・モネーダス]]と呼ばれる銅製の斧は、十進法にもとづいて作られてエクアドルやペルーの海岸で使われた{{Sfn|ダルトロイ|2012|p=}}。
 
; 北アメリカ
[[ファイル:Wampum ej perry.jpg|thumb|250px|right|ホンビノスガイとバイ貝で作られたウォンパム]]
北アメリカ東部の海岸沿いの[[レナペ族]]などの[[インディアン]]は、ポーマノック([[ロングアイランド]])で採れる貝から{{仮リンク|ウォンパム|en|Wampum}}という[[ビーズ]]の装身具を作り、内陸の部族との交易や、情報の伝達に使った。また、日常取引に必要な硬貨が不足すると物品貨幣によって補われる場合もあった{{Sfn|浅羽|1991|p=121}}。メソアメリカの[[マヤ文明]]や[[アステカ]]では果実である[[カカオ]]が貨幣としても流通して、カカオ産地の{{仮リンク|ソコヌスコ|en|Soconusco}}は重要とされた{{Sfn|小林|1985|p=}}。アステカではカカオ豆の貨幣は個数で計算され、市場での取り引きや賃金に使われた。カカオの飲食は貴族、戦士、商人([[ポチテカ]])などの階級に限られていた。カカオはのちに[[チョコレート]]の原料となってヨーロッパ向けの輸出品となる。アメリカ大陸の貨幣制度は、ヨーロッパとの接触によって次第に消滅するか大きく変化した{{Sfn|コウ|2017|p=113}}。
 
=== 中世の貨幣論 ===
イスラーム世界ではアッバース朝以降に商業書が多数書かれ、中でも[[ディマシュキー]]の『商業の功徳』が有名である。ディマシュキーは、度量衡や貴金属についての貨幣論を書いており、ヨーロッパの[[商業学]]にも影響を与えた{{Sfn|齋藤|2004|p=}}。15世紀エジプトの歴史学者[[マクリーズィー]]は、金銀を取引の中心にすえて貨幣政策を行うように主張しており、現在の貨幣数量説に近い{{Sfn|加藤|2010|p=166}}。
 
ヨーロッパでは、[[ニコル・オレーム]]がシャルル5世の貨幣政策に影響を与えた。オレームは貨幣の改鋳を分類し、(1)形態の変化、(2)比価の変化、(3)価格の変化、(4)重量の変化、(5)素材の変化とした。当時は君主によって改鋳が行われていたが、オレームは基本的に改鋳を禁じ、貴金属の不足や公共費用の支出などが発生した場合に例外的に認めるべきとした{{Sfn|山瀬|1972|p=}}。フィレンツェの{{仮リンク|ペゴロッティ|en|Francesco Balducci Pegolotti}}は商業書『{{仮リンク|商業実務|en|Pratica della mercatura}}』において中国との貿易を説明しており、貨幣レートについても記録している{{Sfn|齊藤|2011|p=}}。
 
== 近世 ==
=== ヨーロッパ、ロシア ===
東洋の財貨を求める航海は貨幣にも多大な影響をもたらした。[[クリストファー・コロンブス]]はマルコ・ポーロの『東方見聞録』の愛読者であり、東洋への航海として[[ジパング|ツィパング]]{{Refnest|group="†"|ジパングは日本を指すとされているが、日本ではないとする[[ジパング#異説|異説]]もある{{Sfn|的場|2007|p=}}。}}、次に[[キタイ|カタイ]]に到着する計画を立てる。計画は[[イサベル1世]]の興味を惹き、コロンブスはスペイン王室と協約を結んで東洋の真珠、金、銀、貴石、香辛料を入手すべく出航し、アメリカ大陸に到着した{{Sfn|山田|2008|p=1}}。スペインやポルトガルのアメリカ大陸到着は[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]や[[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]にもつながり、[[重金主義]]の政策が普及した。スペインの[[カスティーリャ王国]]は、アメリカ大陸の植民地化によって金銀を獲得し、スペインの[[エスクード]]金貨や[[レアル (通貨)|レアル]]銀貨が国際的な貨幣として流通した。アメリカ大陸からの金銀流入は、[[価格革命]]と呼ばれる現象の一因とも言われる。
 
イタリアの諸都市に利益をもたらしていた金融技術は北方にも伝わった。17世紀には、大市が持っていた為替市場の機能が銀行と取引所に移り、金融の中心地は地中海から北西ヨーロッパに移った。各国から商人が集まっていた[[アントウェルペン]]や[[ニュルンベルク]]が国際金融取引の中心となり、のちに[[アムステルダム]]に移る。アムステルダムは17世紀に2種類の銀貨を発行し、銀の含有率が少ない国内用銀貨と、銀の含有率が高い貿易用の銀貨に分けられた{{Sfn|湯浅|1998|p=第7章}}。[[アムステルダム銀行]]はバンク・マネーであるグルデン・バンコ(gulden banco)で預金管理を行い、複雑化していた西ヨーロッパの計算体系をまとめた。アムステルダム銀行は利子の公認、為替手形の[[手形割引|割引]]や[[裏書]]による譲渡、[[信用創造]]などによって、有力商人が占めていた分野に中層の商人も参加しやすくなった{{Sfn|名城|2008|p=}}。
 
; 銀行券、中央銀行の成立
[[ファイル:Sweden-Credityf-Zedels.jpg|thumb|ストックホルム銀行券]]
スペインがアメリカ大陸からもたらした金銀が一因となり、16世紀に[[価格革命]]と呼ばれる現象が進む。西ヨーロッパの価格は高騰し、人々は盗難や磨耗の危険を避けるために金銀を貴金属細工商である金匠に金庫に銀を預け、預り証として[[証書]]を受け取った。この証書は[[ゴールドスミス・ノート]](金匠手形とも呼ばれて銀行券の原型となる。金匠手形は金額や発行者名などが手書きのものが流通したが、やがて金匠銀行は王室への巨額の貸付を回収できず破綻した<ref>植村 (1994) p7</ref>。スペインでは[[サラマンカ学派]]が研究を進め、現在の[[貨幣数量説]]や[[購買力平価説]]にあたる学説も主張された{{Sfn|富田|2006|p=60}}
 
ヨーロッパで最初の紙幣は、[[1661年]]にスウェーデンで発行された。スウェーデンは戦費によって財政が疲弊して金銀が不足し、取り引きの中心は重量がかさんで取引運搬に不便な銅貨を用いていだった。その代わりとして民間銀行の{{仮リンク|ストックホルム銀行|en|Stockholms Banco}}が銀行券を発行し、政府の承認を受けた<ref>植村 (1994) p28</ref>。のちにストックホルム銀行は破綻し、初の[[中央銀行]]である[[スウェーデン国立銀行]]の設立につながる{{Sfn|植村|1994|p=28}}
 
; ロシア
[[1694年]]にはイギリスで戦費調達や信用貨幣供給のために[[イングランド銀行]]が設立され、最初の近代的な銀行券を発行する<ref>植村 (1994) p30</ref>。この銀行券は商業手形の割引に使用され、[[手形割引]]によって取引が拡大し、イギリスの国民経済は成長した。イギリスの産業は、[[18世紀]]にブラジルの[[ミナスジェライス州]]で金鉱が発見されると綿製品の輸出で大量の金を獲得し、結果として国際的な金本位制につながってゆく<ref>湯浅 (1998) p305</ref>。
ロシアは、西方はバルト海経由でヨーロッパとの貿易があり、東方ではトルコ、ペルシャ、清との貿易があった。15世紀以降は[[モスクワ大公国]]を中心として西方から銀を輸入し、東方の物産を輸入するために再輸出され、トルコとペルシャに対しては赤字が続いた。16世紀から東方への進出が始まり、その目的には金の発見も含まれていた。しかし金は発見されず、清との貿易が行われた。ロシアは18世紀の紙幣発行まで貴金属の不足が続き、ターラー銀貨をもとにして[[エフィムキ]]と呼ばれる銀貨も発行した{{Sfn|湯浅|1998|p=354}}。[[エカテリーナ2世]]の時代には[[ルーブル]]銀貨に兌換される紙幣を発行して、紙幣と銀貨の2本立てとしたが、紙幣の相場は下落した。政府はこの解決のために金本位制を検討し、農産物の輸出で利益を得ていた大農場経営の地主に反発を受けつつも、のちに金本位制を導入した{{Refnest|group="†"|大農場の地主は、ルーブルの相場が安い点に加えて、紙幣の相場が国内で高く海外で安い点からの利益を得ていた。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=392}}。
 
=== その他の紙幣西アジア ===
オスマン帝国では16世紀後半に戦費の増大とインフレの進行によって財政赤字が深刻となった。ペルーやメキシコから送られた銀がインフレの原因という説もある。対策として貨幣発行益を増やすために銀の含有率を減らした銀貨を発行したが、俸給を受け取る軍人の不満を呼んで暴動が起きた。そこで貨幣での納税と、人頭税の増額、徴税請負制の導入などが行われた{{Sfn|林|2016|p=212}}。第2次ウィーン包囲ののちにも税制や財政改革がなされ、新たな貨幣として[[クルシュ]]銀貨が発行された。25.6グラムのうち銀含有量は16グラムの大型銀貨であり、18世紀後半までオスマン帝国の貨幣制度は安定した{{Sfn|林|2016|p=277}}。
17世紀の[[江戸時代]]の日本では、[[羽書]]をはじめとする商人や寺社が発行した私札や、各藩が発行する[[藩札]]などの地域通貨が流通した。18世紀以降の中国の[[清]]においては、政府紙幣とは別に民間の紙幣である[[銭票]]も用いられた。銭票は穀物店、酒屋、雑貨屋などの商店が発行し、県を基本的な単位とする地域通貨として流通して[[草市|鎮市]]などの市場町で用いられ、季節に左右される農産物取引の貨幣受給を調整する役割を果たした。銭票は20世紀まで続いて[[吊票]]とも呼ばれ、政府や商会に規制される場合もあった<ref>黒田 (2014) p152</ref>。
 
=== 南アジア ===
[[アラブ諸国]]など[[イスラーム]]の影響が強い国では、紙幣の導入に時間がかかる場合があった。[[イスラム経済|イスラーム経済]]に固有の事情により、交換するものは等量・等価でなければならず、素材として価値が高い金属貨幣が重視されたためである。1940年代半ばのアラブ諸国では多種類の金貨や銀貨の他に、貿易の決済や[[マッカ巡礼|マッカ巡礼者]]の通貨交換用として英領インドのルピー紙幣が用いられた。[[サウジアラビア]]では[[サウジアラビア・リヤル|リヤル]]銀貨を通貨としていたが、銀価格高騰による流出で通貨危機が発生したため、[[1953年]]には事実上の紙幣である巡礼者受領証を発行し、[[1961年]]に正式にリヤル紙幣を発行した。巡礼者用の紙幣は、サウジアラビアの他ではインドとパキスタンでも発行され、正式には外貨証券と呼ばれる<ref>冨田 (1996) p54</ref>。
ムガル帝国ではアクバルの時代にルピー銀貨が整えられ、[[アウラングゼーブ]]帝の時代には{{仮リンク|アシュラフィー|en|Ashrafi}}金貨とダーム銅貨の質も確立された{{Refnest|group="†"|ルピーは重量11.66グラムで銀含有率が4パーセント、アシュラフィーは10.95グラム、ダームは20.93グラムとなった。}}。帝国各地に造幣所が建設され、地金を持参した者には5.6パーセントの手数料で造幣をして多数の硬貨が発行された。インドでは銀は産出しないが17世紀に銀貨が急増しており、国外からの銀の流入が影響を与えた。1591年以降に[[マネーサプライ]]が急増して1639年まで続き、1640年から減少して1685年から再度増加した{{Refnest|group="†"|スペインからアメリカに銀が輸入されてから、5年ないし10年のタイムラグでマネーサプライが増加するという説もある。}}{{Sfn|湯浅|1998|p=336}}{{Sfn|小谷編|2007|p=}}。
 
ムガル帝国では、両替商のサッラーフが為替手形や約束手形を発行した。手形は、豪商が穀物買付など多額の取引を行う際に使い、ペルシア語のバラートまたはヒンディー語でフンディーと呼ばれた。穀物商自身が両替商を兼ねることも多かった{{Sfn|小谷編|2007|p=170}}。
== 国際金本位制 ==
[[Image:Sovereign George III 1817 641656.jpg|200px|thumb|1817年 最初のソブリン金貨]]
近代的な金本位制は、法的に平価が定められ、金の裏付けをもとにして紙幣が発行される。金貨は[[本位貨幣]]と呼ばれ、金貨との交換が保証される紙幣を[[兌換紙幣]]と呼ぶ。兌換紙幣の発行は、発行者が保有する金の量に制約される<ref>岩田 (2000) p107</ref>。
 
=== 東アジア ===
金本位制が国際的に広まるきっかけは、[[1816年]]にイギリスの貨幣法で本位金貨の[[ソブリン金貨]]が制定された時である。イギリスは[[1790年代]]から[[英仏戦争]]による物価の高騰で金準備が激減し、イングランド銀行は[[1797年]]に銀行券の金兌換を停止した。この時期には、銀行券の兌換再開をめぐって[[通貨学派]]と[[銀行学派]]の論争が起き、地金論争と呼ばれている。やがて1816年の貨幣法により兌換が再開し、ソブリンは[[1817年]]から発行され、銀貨は[[補助貨幣]]となった。兌換は再停止をはさみつつ[[1821年]]に完全に再開し、[[1844年]]の[[ピール銀行条例]]によってイングランド銀行は銀行券の発行を独占し、中央銀行となった<ref>湯浅 (1998) p374</ref>。
[[ファイル:Hiroshige, Gold mine in Sado province, 1853.jpg|thumb|240px|[[歌川広重]]の描いた佐渡金山]]
中国では[[朱元璋]]が[[明]]の成立前から銅貨の発行を始めたが、銅不足のため銅貨は貿易用の貨幣となった。明が発行した[[永楽通宝]]や[[宣徳通宝]]は海外へ流通し、[[日明貿易]]により室町時代の日本にも流入した。アメリカ大陸で採掘された貿易銀は、スペインの[[ガレオン貿易]]で太平洋を経由して中国にも到達し、明は銀の交易圏に組み込まれる。16世紀以降は銀の流入が増え、銀の普及に大きな影響を与えた{{Sfn|湯浅|1998|p=第8章}}。明は民間の富の蓄積を抑えるために銀の採掘を規制していたが、スペインがマニラへ運んだ銀が明にも5000トンほど持ち込まれ、貿易商人の豪華な生活は民衆の反発も招いた{{Sfn|ブルック|2014|p=第6章}}。明は[[一条鞭法]]という銀本位制によって銀と紙幣が普及して銅貨発行が衰え、日明貿易の断絶もあって日本向けの銅貨は停止する。日本では硬貨が不足し、硬貨を尺度とする[[貫高制]]から米を尺度とする[[石高制]]に移る一因にもなった{{Sfn|鈴木編|2007|p=}}。
 
日本は灰吹法によって精錬が向上して、[[石見銀山]]をはじめとして貴金属の産出が増加する{{Refnest|group="†"|石見銀山の発見を記した『[[銀山旧記]]』によれば、博多商人の[[神屋寿禎]]が[[宗丹]]と[[桂寿]](慶寿の表記もあり)という朝鮮半島の技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる。}}。日本産の銀は[[倭銀]]とも呼ばれ、17世紀以降の日本は貴金属の産出地となり、[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]は[[マカオ]]経由で日本と貿易を行った。17世紀前半に日本が輸出した銀は、世界全体の産銀量42万キログラムのうち20万に達した。[[江戸幕府]]による[[鎖国令]]後は、[[オランダ東インド会社]]が[[長崎貿易]]で金、銀、銅を取引した{{Sfn|東野|1997|p=137}}。中国の生糸は金、銀、銅を支払って輸入し、朝鮮の[[朝鮮人参]]や生糸の支払いに銀や銅を使った。こうして日本の貴金属は東アジアや東南アジアに流通して、メキシコからの銀と並んで世界の貿易に影響を与えた{{Sfn|東野|1997|p=第11章}}。[[出島]]に建設されたオランダ東インド会社の日本商館の純益は1位で、ほかの商館の欠損分を埋め合わせた。小判はクーバンとも呼ばれて商品名となり、日本から輸出された銅で作った銅貨も東南アジアに残されている{{Sfn|永積|2000|p=139}}。やがて幕府では貴金属の減少が問題となり、貿易を制限する[[定高貿易法]]や[[貨幣改鋳]]へとつながった{{Sfn|東野|1997|p=第11章, 第12章}}。朝鮮王朝では[[常平通宝]]、ベトナムでは[[景興通宝]]をはじめとする[[景興銭]]が発行された{{Sfn|櫻木|2016|p=146}}。
=== 国際金本位制の成立 ===
イングランド銀行は[[公定歩合]]の操作によって金準備を安定させ、世界各地での産金の増加にともなって[[ロンドン]]は金地金取引の中心となり、国際的な[[金融センター]]として繁栄した。他の欧米諸国でも金本位制への切り替えが進み、19世紀後半にはイギリスの[[スターリング・ポンド]]を中心に国際金本位制が成立する。こうした状況で、中国は銀本位制を守り続けた。[[国際貿易]]が進展すると、世界各地で用いられていた伝統的な貨幣は基軸通貨や金との兌換性が高い通貨へ代わり、1国1通貨の制度が普及していった。
 
紙幣は、[[江戸時代]]の日本では[[羽書]]をはじめとする商人や寺社が発行した私札や、各藩が発行する[[藩札]]などの地域通貨が流通した。中国の[[清]]では、政府紙幣とは別に民間の紙幣である[[銭票]]も使った。銭票は穀物店、酒屋、雑貨屋などの商店が発行し、県を基本的な単位とする地域通貨として流通して[[草市|鎮市]]などの市場町で使われて、季節に左右される農産物取引の貨幣受給を調整する役割を果たした{{Sfn|黒田|2014|p=152}}。
一方、国際貿易の進展により農産物の買付が増大すると問題も発生した。地域通貨が兌換紙幣へ代わったのちは、それまで地域通貨が吸収していた農産物の季節変動の影響を兌換紙幣が受けることとなった。[[1907年恐慌]]などの信用恐慌の影響も重なり、各国は紙幣の兌換準備が厳しく必要とされるようになる。これが世界各地の信用膨張につながり、在地金融は[[1920年代]]を頂点として不振が続いた<ref>黒田 (2014) p179</ref>。
 
=== 国際金本位制の停止アメリカ ===
; 南アメリカ
[[1914年]]からの[[第一次世界大戦]]により、各国は戦費調達のために金本位制を停止し、政府の裁量で[[不換紙幣]]を発行する[[管理通貨制度]]に移行する。戦争により金属が不足し、[[ノートゲルト]]などの地域通貨も発行された。金本位制は[[1919年]]のアメリカの[[金輸出解禁]]をはじめとして再開が進み、[[1922年]]の[[ジェノヴァ会議]]では大戦後の貨幣経済について話し合われ、各国に金本位制再開を求める決議も出された。しかし金本位制を再開した各国は深刻なデフレーションに見舞われる。アメリカでの投機がもとで[[1929年]]に[[世界恐慌]]が起きると、再び相次いで停止された。
[[ファイル:Capitulo-CIX.jpg|thumb|right|250px|ポトシ銀山。{{仮リンク|ペドロ・シエサ・デ・レオン|en|Pedro Cieza de León|label=シエサ・デ・レオン}}の記録による。1553年]]
スペイン人がアメリカ大陸に到達すると、[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]は黄金のカスティーリヤ(カスティーリヤ・デ・オロ)と名付けて植民者を送った。[[フランシスコ・ピサロ]]は[[インカ帝国]]に進軍し、[[アタワルパ]]皇帝を捕虜として金銀を身代金として集めたのちにアタワルパを処刑した{{Refnest|group="†"|アタワルパの身代金は、金が約6.1トン、銀が約11.9トンに達した。}}。集められた金銀の工芸品は[[コンキスタドール]]たちが延べ棒に溶かして分配し、富を得た者はペルー成金(ペルレーロ)と呼ばれた{{Sfn|網野|2018|p=149, 153, 159}}。ペルーのポトシ銀山は富の代名詞となり、[[アマルガム#金銀鉱石のアマルガム法による精錬|水銀アマルガム法]]の開発と、ペルー中部の[[ワンカベリカ]]での水銀発見によって銀産出が増えた。インカ時代の労働制度にもとづく[[ミタ制]]によって大量のインディオが鉱山労働に駆り出され、鉱山内での事故や水銀中毒による死亡が相次いだ{{Sfn|網野|2018|p=198, 200}}。銀はポトシで貨幣や延べ棒になり、大西洋の[[インディアス艦隊|インディアス海路]]でスペインへ運ばれた。しかしポトシの銀は太平洋経由でアジアにも運ばれ、のちにアジアへの銀輸送は禁止された{{Refnest|group="†"|16世紀末はアメリカからアジアに運ばれた銀はメキシコ~スペイン間の貿易高を超えており、アカプルコからマニラに運ばれる年間500万ペソの銀のうち60パーセントがペルー産だった。}}{{Sfn|網野|2018|p=192, 205, 208}}。
 
アンデス東山脈の[[ボゴタ|ボゴタ高原]]周辺には[[ムイスカ人|チブチャ人]]が住み、豊富な黄金を産出していた。首長が湖で行なった儀式をもとに、全身を金粉で包んだ[[エル・ドラード]](金色の王)またはエル・カシーケ・ドラド(金色の首長)と呼ばれる王の伝説が生まれた{{Refnest|group="†"|年代記作家{{仮リンク|フェルナンデス・デ・オビエド|en|Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés}}の『インディアス一般史および自然史』が、エルドラドに関する最初期の記録である。}}{{Sfn|山田|2008|p=50, 58}}。のちにエルドラドは黄金郷の代名詞となり、[[オリノコ川]]と{{仮リンク|カロニ川|en|Caroní River}}の流域はエルドラドの地として知られるようになった。[[エリザベス1世]]に仕えた[[ウォルター・ローリー]]は、黄金都市マノアの伝説を流布してイギリスの領土拡張を推進しようとした{{Sfn|山田|2008|p=106}}。
=== ブロック経済 ===
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するために[[ブロック経済]]を進める。ブロックは通貨圏によって分かれ、英連邦を中心とする{{仮リンク|スターリングブロック|en|Sterling area}}、アメリカを中心とするドルブロック、ドイツの[[ライヒスマルク]]を中心とする中欧のブロック、フランスを中心に金本位制を最後まで維持したブロック、そして日本の[[円]]を中心とする[[日満経済ブロック]]などがある。この他に、[[ソビエト連邦ルーブル|ルーブル]]を通貨とする[[ソビエト連邦の経済|ソビエト連邦]]が独自の経済圏を保っていた。ブロック内での[[関税同盟]]や、ブロック間の輸出統制、通商条約の破棄によって国際貿易は分断され、[[第二次世界大戦]]の一因となった<ref>湯浅 (1998) p399</ref>。
 
18世紀の{{仮リンク|ポルトガル領ブラジル|en|Colonial Brazil}}は金の時代となる。ミナスジェライス州で金脈が発見され、ゴールドラッシュが訪れた。金採掘は過酷であり、絶えず新しい奴隷が金鉱へ送られた。ポルトガルはイギリスと互恵的な通商条約である[[メシュエン条約]]を結び、イギリスはポルトガル領ブラジルとの貿易で利益をあげて金保有量が急増し、この金保有が国際金本位制のもととなった{{Refnest|group="†"|1731年から1735年にブラジルからリスボンに輸入された金・ダイヤモンドの63パーセント、1736年から1740年の66パーセントがイギリスへ輸出された。}}{{Sfn|池本, 布留川, 下山|2003|p=}}。
 
; 北アメリカ
[[ファイル:New France (French Canada)-Card Money-12 livres (S107, c. 1735).jpg|right|thumb|ヌーベルフランスのカルタ紙幣。1735年]]
北アメリカの[[13植民地]]では、本国の[[イギリス帝国|イギリス]]から送られるポンドやシリングなどの硬貨が少なく、大半が輸入品の購入によって流出した。そのため硬貨が常に不足し、17世紀から18世紀にかけて物品貨幣が普及した。法的に認められた貨幣として、植民地全土では[[トウモロコシ]]が早くから流通した。北部では[[毛皮貿易]]で重要な品だった[[ビーバー]]の毛皮や、ロングアイランドのインディアンが作っていたウォンパムがあった。南部では[[タバコ]]や米、そしてタバコの引替券である[[タバコ・ノート]](Tobacco notes)があり、タバコとタバコ・ノートは合わせて170年にわたって流通した。その他に家畜、干し魚、肉、チーズ、砂糖、ラム酒、亜麻、綿、羊毛、木材、ピッチ、釘、弾薬、銃なども貨幣になり取引は複雑になったが、硬貨不足による[[デフレーション]]を緩和する効果はあった{{Sfn|浅羽|1991|p=}}。
 
硬貨不足のために各植民地が{{仮リンク|信用手形|en|Bills of credit}}を発行し、欧米では初の政府紙幣となった。のちにアメリカ独立宣言にも関わる[[ベンジャミン・フランクリン]]は印刷業者でもあり、ニュージャージーやペンシルヴァニアの紙幣を発行し、紙幣の偽造防止法の発明や、紙幣を普及するためのパンフレット出版でも活動した。しかしイギリスは紙幣の発行を禁じたため、本国と13植民地との対立は深まった。貿易で流入した[[メキシコドル|スペインドル]]が少量ながら流通を続け、独立後のアメリカでは[[フローイング・ヘア・ダラー]]が発行されてドルが通貨単位となる{{Sfn|秋元|2018|p=182}}。
 
フランス領カナダの[[ヌーベルフランス]]では、銀貨不足のために[[トランプ]]を切って作った{{仮リンク|カルタ貨幣|en|card money}}が通用し、これをアメリカ大陸初の紙幣とする説もある{{Sfn|植村|1994|p=91}}。
 
=== アフリカ ===
16世紀以降、ヨーロッパ諸国がアフリカでの[[奴隷貿易#大西洋奴隷貿易|大西洋奴隷貿易]]を大規模化する。16世紀のスペインとポルトガル、17世紀のオランダ、イギリス、フランスなどが南北アメリカでの労働力としてアフリカで奴隷の確保を行なった。アフリカ西海岸の主な輸出は金から奴隷に変わり、大西洋での海運の増加によって保険業や金融業も活発となり、[[ロイズ銀行]]や[[バークレイズ銀行]]の創業者をはじめ奴隷貿易で利益を得る者も増えた{{Sfn|宮本, 松田編||2018|p=282}}。[[ダホメ王国]]のようにヨーロッパに奴隷を輸出して銃火器を入手する国家もあった。ダホメは金とタカラガイの固定レートを定めて、国内の物価は全てタカラガイで表示して売買を貨幣化して、物々交換を認めなかった{{Sfn|ポランニー|2004|p=第2部4章}}。ヨーロッパ側はオンスという計算用の貨幣を考案して奴隷貿易で利益を出そうとしたが、ダホメでは奴隷価格を値上げして対応した{{Refnest|group="†"|イギリスの1貿易オンスはタカラガイ3万2千個、フランスの金1オンスはタカラガイ1万6千個に相当した。ダホメ国内では金とタカラガイのレートを保った。}}{{Sfn|ポランニー|2004|p=第3部4章}}。
 
=== 近世の貨幣論 ===
重金主義は、貴金属の蓄積とともに流出を防止し、対外征服や略奪、鉱山開発を推進した。スペインでは[[サラマンカ学派]]が研究を進め、現在の貨幣数量説や[[購買力平価説]]にあたる学説も主張された{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=133}}。フランス王ルイ14世に仕えた財務総監[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]がとったコルベール主義も有名である。
 
ベンジャミン・フランクリンは、紙幣を普及するためのパンフレット「紙幣の性質と必要に関する控えめな問いかけ」("A Modest Enquiry into the Nature and Necessity of a Paper Currency")を出版した。パンフレットでは紙幣発行で貨幣の流通を増やし、投資や起業の増加、物価の上昇や移住者の増加をもたらしてヨーロッパとの経済格差を解決するべきと主張した{{Refnest|group="†"|フランクリンがパンフレットで書いた価値説は、カール・マルクスに影響を与えたという説もある。}}{{Sfn|秋元|2018|p=182}}。「時は金なり」という言葉もフランクリンによる{{Sfn|秋元|2018|p=190}}。
 
日本の江戸幕府の改鋳では、政策担当者の貨幣観によって内容が大きく変化した。元禄・宝永期の[[荻原重秀]]による改鋳では貴金属の含有率を下げて名目貨幣化が進み、正徳・享保期の[[新井白石]]による改鋳では含有率を上げた{{Sfn|安国|2016|p=131}}。
 
== 近代 ==
=== 貿易銀 ===
[[ファイル:Mexico8real.jpg|thumb|right|250px|メキシコドル、1894年]]
銀貨が貿易の支払いの中心となり、貿易専用に発行された銀貨を[[貿易銀]]と呼んだ。メキシコドルは国際貿易の決済通貨となり、19世紀から20世紀にかけて同量、同位の銀貨が各地で作られた。中国の[[銀元]]、[[香港ドル]]、日本の[[1円銀貨|円銀]]、[[USドル]]、[[シンガポールドル]]、ベトナムの[[ピアストル]]などがある{{Sfn|濱下|1999|p=137}}。
 
=== アジア、オセアニア ===
イギリスは清との貿易で赤字が続いて銀が減少し、その解決策として[[イギリス東インド会社]]がアヘンによる三角貿易を確立した。イギリス東インド会社は次のような手順で行なった。(1)インドでアヘンを栽培する。(2)清でアヘンを販売する。アヘン購入には銀を指定する。(3)清から入手した銀で[[中国茶]]を購入する。(4)中国茶をヨーロッパへ運ぶ。このような手順でイギリスは赤字を解消するが、清では銀の流出とアヘン中毒の拡大が問題となる。清はアヘンを禁止しようとしたため、イギリスとの間で[[アヘン戦争]]が起きた。インドからのアヘン輸出は、対中国貿易黒字の3分の1を占めた{{Sfn|ポメランツ, トピック |2013|p=150}}。中国の銭票は20世紀まで続いて[[吊票]]とも呼ばれ、政府や商会に規制される場合もあった{{Sfn|黒田|2014|p=152}}。
 
[[ポリネシア]]では海岸に漂着する鯨が重要な資源であり、鯨歯は権威を表す貴重な財として、紛争解決の贈り物や物品貨幣に使われた。[[鯨油]]を得るための[[捕鯨]]が盛んになると、欧米の捕鯨船が大量の鯨歯をもたらすようになり、鯨歯をめぐる権力闘争が激化した{{Sfn|秋道|2000|p=}}。
 
=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:LatinMonetaryUnion 1866-1914.svg|thumb|ラテン通貨同盟参加国 (赤) 1866年〜1914年]]
ポルトガル領ブラジルのミナスジェライスの奴隷が採掘した金は、メシュエン条約を通じてイギリスに輸入され、イギリスでは金保有量が増加した。イギリスでは戦費調達や貨幣供給のために[[イングランド銀行]]が設立され、最初の近代的な銀行券を発行する{{Sfn|植村|1994|p=30}}。この銀行券は商業手形の割引に使用され、手形割引によって取引が拡大し、イギリスの国民経済は成長した{{Sfn|湯浅|1998|p=305}}。イングランド銀行は金との交換(兌換)ができる銀行券を発行するが、[[英仏戦争]]による物価の高騰で金準備が激減して銀行券の金兌換を停止した。やがて貨幣法により兌換が再開して、本位金貨の[[ソブリン金貨]]が発行され、銀貨は[[補助貨幣]]となった。ソブリンの発行は、金本位制がイギリスから国際的に広まるきっかけとなった。[[ピール銀行条例]]によってイングランド銀行は銀行券の発行を独占し、中央銀行となった{{Sfn|湯浅|1998|p=374}}。フランスでは、[[フランス革命]]の時期に[[フランス第一共和政]]が銀行による紙幣発行を禁止して、政府紙幣の[[アッシニア]]を発行した。戦費調達が主な目的であったがアッシニアの価値は下落を続けて、世界初とも言われる[[ハイパーインフレーション]]が発生した{{Sfn|富田|2006|p=141}}。
 
19世紀は国家の統一にともなって貨幣の統一も相次いだ。[[通貨同盟]]が各地で発足し、スイスは[[スイスフラン]]、イタリアは[[ラテン通貨同盟]]によって[[イタリアリラ]]へ統一された。ドイツでは経済学者[[フリードリヒ・リスト]]の提唱で[[ドイツ関税同盟]]が発足して経済統合が進むが、帝国成立時にも6種類の貨幣が並立した。中央銀行である[[ライヒスバンク]]の他に、[[バイエルン王国]]・[[ヴュルテンベルク王国]]・[[ザクセン王国]]・[[バーデン大公国]]の銀行も通貨を発行した{{Refnest|group="†"|帝国成立時のドイツは{{仮リンク|統一ターラー|en|Vereinsthaler}}(北部、中部)、{{仮リンク|グルデン|en|South German gulden}}(南部、中部)、フラン(エルザス、ロートリンゲン)、リューベック通貨圏、{{仮リンク|マルコ・バンク・マネー|en|Hamburg mark}}(ハンブルク)、{{仮リンク|ブレーメン・ターラー|en|Bremen thaler}}(ブレーメン)に分かれていた。}}。北欧では[[スカンディナヴィア通貨同盟]]によって[[デンマーク]]、スウェーデン、ノルウェー各国の貨幣統一が進んだ{{Refnest|group="†"|3国の通貨レートは、1クローネ=1/2{{仮リンク|デンマークリクスダラー|en|Danish rigsdaler}}=1{{仮リンク|スウェーデンリクスダラー|en|Swedish riksdaler}}=1/4[[ノルウェーターラー]]となった。}}{{Sfn|小島|2017|p=}}。
 
=== アメリカ ===
[[ファイル:Benjamin Franklin nature printed 55 dollar front 1779.jpg|thumb|right|55ドルの大陸紙幣。1779年。]]
; 独立戦争
[[アメリカ独立戦争]]において、[[13植民地]]はイギリスからの独立をするために[[大陸会議]]を招集し、独立戦争の戦費として{{仮リンク|大陸紙幣|en|continental currency}}を発行した。大陸紙幣は13植民地の各州政府で発行され、メキシコドルでの交換を定めていたが、大量発行のためインフレーションを起こした。また急造のために偽造しやすく、イギリス軍によって妨害用の偽札も作られてインフレーションを悪化させた{{Sfn|植村|1994|p=32}}。独立後は各州の民間銀行と[[第一合衆国銀行]]の銀行券が並立し、さらに合衆国銀行が閉鎖されると、個人や団体が自由に銀行を設立できる{{仮リンク|自由銀行時代|en|History of central banking in the United States#1837–1862: "Free Banking" Era}}となり、銀行と紙幣の種類が膨大で、紙幣の価値が発行地や銀行の信用度に応じて異なるという複雑な流通となった。この状況は南北戦争まで続いた{{Sfn|秋元|2018|p=9}}。
 
; 南北戦争以降
北アメリカを2分した[[南北戦争]]では、北部の[[アメリカ合衆国]]と南部の[[アメリカ連合国]]はそれぞれ戦費調達のために貨幣を発行した。戦争中は金との兌換は停止され、北部では{{仮リンク|グリーンバック (紙幣)|en|Greenback (1860s money)}}、南部は{{仮リンク|グレイバック (紙幣)|en|Greyback}}と呼ばれる政府紙幣を発行して、互いの勢力下で流通した。さらに両政府は国債や利子がついた政府紙幣も発行した{{Sfn|富田|2006|p=181}}。南北戦争後には金と兌換できる{{仮リンク|金証券|en|gold certificate}}が発行されてイエローバックと呼ばれ、ドル銀貨と兌換できる{{仮リンク|銀証券|en|Silver certificate (United States)}}も発行された。のちには1907年恐慌などの影響で中央銀行設立の要望が増えて[[連邦準備制度理事会]]が設立され、連邦準備券としてドル紙幣が統一された{{Sfn|富田|2006|p=191}}。
 
=== アフリカ ===
ヨーロッパはアフリカの植民地統治のために貨幣経済を浸透させて、さまざまな税金を課して植民地政府の財源とした。宗主国の通貨が導入されて人頭税や小屋税を定め、現金収入が必要な人々から労働力を調達した。野生ゴムを産する[[コンゴ自由国]]では採集税なども徴収した。政府予算の大半は宗主国のためのインフラ整備に使われたが、ヨーロッパ系住民からは税を徴収しなかった。アフリカ人は低賃金労働に従事させられるとともに、税金をヨーロッパ系住民のために収めるという構造が固定化された。植民地政府は出費を抑えるために、現地の支配者や支配機構を利用する[[間接統治]]を推進した。こうした植民地経済は独立後のアフリカ各国が経済成長をする支障になった{{Sfn|宮本, 松田編||2018|p=323, 340, 348}}。
 
=== 国際金本位制 ===
[[ファイル:Sovereign George III 1817 641656.jpg|200px|thumb|最初のソブリン金貨。1817年]]
近代的な金本位制は、法的に平価が定められ、金の裏付けをもとにして紙幣が発行される。金貨は[[本位貨幣]]と呼ばれ、金貨との交換が保証される紙幣を[[兌換紙幣]]と呼ぶ。兌換紙幣の発行は、発行者が保有する金の量に制約される{{Sfn|岩田|2000|p=107}}。イングランド銀行は[[公定歩合]]の操作によって金準備を安定させ、世界各地での産金の増加にともなって[[ロンドン]]が金地金取引の中心となり、国際的な[[金融センター]]として繁栄した。
 
19世紀から20世紀にかけて、世界各地で金採掘の流行が起きて[[ゴールドラッシュ]]と呼ばれた{{Refnest|group="†"|オーストラリアの[[バララト]]、南アフリカの[[ウィットウォーターズランド]]、ベネズエラの {{仮リンク|グアヤナ地域|en|Guayana Region, Venezuela}}、ニュージーランドの[[オタゴ]]、カナダの[[クロンダイク・ゴールドラッシュ|クロンダイク]]、チリの{{仮リンク|ティエラ・デル・フエゴ|en|Tierra del Fuego gold rush}}などに及ぶ。}}。中でも[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]は30万人もの採掘者を集めた{{Refnest|group="†"|[[チャールズ・チャップリン]]製作・監督・主演の映画『[[黄金狂時代]]』はアラスカのゴールドラッシュを題材としている。}}。ゴールドラッシュによる金産出は世界規模でマネーサプライを増加させて、金本位制の拡大にも影響を与えた。歴史上の金産出量のうち大部分は、この時代に集中している{{Sfn|湯浅|1998|p=}}{{Sfn|山田|2008|p=}}。欧米諸国で金本位制への切り替えが進み、日本では[[明治政府]]が導入した。19世紀後半にはイギリスの[[スターリング・ポンド]]を中心に国際金本位制が成立する。こうした状況で、中国は銀本位制を守り続けた。国際貿易が進展すると、世界各地の伝統的な貨幣は、基軸通貨や金との兌換性が高い通貨へ代わり、1国1通貨の制度が普及していった{{Sfn|コーヘン|1998|p=}}。
 
; 貿易の促進
国際金本位制のもとで決済手段が統一されると取り引きが迅速化した。貿易で各国の金の保有量と通貨発行量が自動的に調整されるため、国際関係の[[勢力均衡]]にも合致した制度とされた。金本位制は貿易による自動的な調整をもたらすとはいえ、実際には先進国が途上国を資金的に支援する必要があり、途上国は貿易赤字を防ぐために保護主義を採用した{{Sfn|秋元|2009|p=第1章}}。
 
; 国際金本位制と国内経済
国際金本位制は国内経済に問題を起こした。国内の通貨量は国内の金の保有量に連動するので、貿易赤字で金が減少すると通貨発行量が減少する。金本位制のもとでは通貨は自由に発行できないため、国内経済が縮小して失業や貧困の問題が生じても、政府には財政面での限界があった。[[金準備]]が不足した場合は、平価の切り下げか、資金借入の必要があった{{Sfn|秋元|2009|p=第1章}}。国際貿易の進展によって、農産物の買付が増大すると問題も発生した。地域通貨が[[兌換紙幣]]へ代わったのちは、それまで地域通貨が吸収していた農産物の季節変動の影響を兌換紙幣が受けるようになった。[[1907年恐慌]]などの信用恐慌の影響も重なり、各国は紙幣の兌換準備が必要とされるようになる。これが世界各地の信用膨張につながり、在地金融は[[1920年代]]を頂点として不振が続いた{{Sfn|黒田|2014|p=179}}。
 
=== 世界大戦 ===
; 第一次世界大戦から戦間期
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00238, Vernichtung von Papiergeld.jpg|thumb|250px|right|ハイパーインフレ時のドイツ。[[レンテンマルク]]との交換でパピエルマルク紙幣が処分された]]
[[第一次世界大戦]]により、各国は戦費調達のために金本位制を停止し、政府の裁量で[[不換紙幣]]を発行する[[管理通貨制度]]に移行する。戦争により金属が不足し、[[ノートゲルト]]などの地域通貨も発行された。休戦後の[[ヴェルサイユ条約]]で多額の[[第一次世界大戦の賠償|賠償金]]を課せられたドイツは物価の高騰とマルクの急落が起き、フランスの[[ルール占領]]も影響した{{Refnest|group="†"|ドイツの賠償額は、紙幣ではなく[[金マルク]]で1320億マルク(純金47,256トン相当)だった。イギリスの経済学者[[ケインズ]]は、ドイツに多額の賠償金を要求することに反対し、『{{仮リンク|平和の経済的帰結|en|The Economic Consequences of the Peace}}』を書いた{{Sfn|ケインズ|2015|p=}}。}}。ドイツはマルク安定化のために為替市場に介入するが外貨準備の減少で介入を維持できず、物価が大戦前の1兆倍というハイパーインフレーションとなり、当時のマルクは[[パピエルマルク]]とも呼ばれた。1兆マルクを単位とする[[レンテンマルク]]を発行して事実上の[[デノミネーション]]を行うとインフレは沈静化し、アメリカの介入による[[ドーズ案]]でドイツは外債発行が認められて、第一次大戦の債権債務が清算に向かった{{Refnest|group="†"|ドイツの外債はアメリカからの資金流入によって維持された。後述のようにアメリカの公定歩合引き上げはドイツの戦後賠償を困難とした。}}{{Sfn|富田|2006|p=236}}。
 
大戦中には[[ロシア革命]]が起き、革命後にハイパーインフレーションとなった{{Refnest|group="†"|革命時点では大戦前の3.15倍だった物価は、10月革命時点で10.2倍、1920年11月には1万倍、ピーク時には500億倍まで上昇した。}}。革命で成立した[[ソヴィエト連邦]]のボリシェヴィキ政府は、ロシア帝国と[[ロシア臨時政府]]時代の全債務を不履行とした。インフレによってルーブル紙幣の実質流通残高は1パーセントとなったため、ボリシェヴィキ政府はデノミネーションを3回行い、新紙幣として金兌換の{{仮リンク|チェルヴォーネツ|en|Chervonets}}を発行した{{Refnest|group="†"|比価は1チェルヴォーネツ=10金ルーブルだった。}}。チェルヴォーネツは法定通貨ではなく、旧紙幣のルーブルと並行して流通して相場も立った{{Sfn|富田|2006|p=310, 332}}。
 
金本位制はアメリカの[[金輸出解禁]]をはじめとして再開が進み、[[ジェノヴァ会議]]では大戦後の貨幣経済について話し合われ、各国に金本位制再開を求める決議も出された{{Refnest|group="†"|金本位制復帰時のイギリス大蔵大臣は[[ウィンストン・チャーチル]]だった。ケインズはイギリスが旧平価で金本位制に復帰すればデフレになるとして反対し、「チャーチル氏の経済的帰結」 ("The Economic Consequences of Mr. Churchill") を書いた{{Sfn|富田|2006|p=468}}。}}。アメリカは大戦後に[[狂騒の20年代]]とも呼ばれる繁栄時代に入り、マネーサプライは60パーセント増加した。この時代に[[分割払い]]が普及し、消費者負債は1920年から1929年までに33億ドルから76億ドルと急増した{{Refnest|group="†"|[[F・スコット・フィッツジェラルド]]の小説『[[グレート・ギャツビー]]』は狂騒の20年代を舞台にしており、登場人物のニックは証券業者となり、ギャツビーは偽造債券を販売した。}}{{Sfn|秋元|2018|p=176}}。第1次大戦後には[[国際連盟]]など国際機関も設立され、金融面では[[国際決済銀行]]が設立された{{Sfn|秋元|2009|p=第1章}}。
 
アメリカはヨーロッパの戦後復興を投資で援助して、[[ニューヨーク連邦準備銀行]]総裁の[[ベンジャミン・ストロング]]によって各国の協調が保たれて、金本位制に復帰する国家も増加した。しかし金本位制を再開した各国は、深刻なデフレーションに見舞われた。さらにアメリカの[[連邦準備銀行]]は国内の投機を抑制するために[[公定歩合]]の引き上げを行い、ヨーロッパとの金利差を縮めてヨーロッパからの資金逆流を起こした。このためにドイツは第一次大戦の戦後賠償が困難となり、[[ナチ党の権力掌握]]の一因にもなった。アメリカでの投機がもとで[[世界恐慌]]が起きると、各国は再び金本位制を停止した{{Sfn|秋元|2009|p=第1章}}。
 
; ブロック経済
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するために[[ブロック経済]]を進める。ブロックは通貨圏によって分かれ、英連邦を中心とする{{仮リンク|スターリングブロック|en|Sterling area}}、アメリカを中心とするドルブロック、ドイツの[[ライヒスマルク]]を中心とする中欧のブロック、フランスを中心に金本位制を最後まで維持したブロック、そして日本の[[円]]を中心とする[[日満経済ブロック]]などがある。この他に、[[ソビエト連邦ルーブル|ルーブル]]を通貨とする[[ソビエト連邦の経済|ソビエト連邦]]が独自の経済圏を保っていた。ブロック内での[[関税同盟]]や、ブロック間の輸出統制、通商条約の破棄によって国際貿易は分断され、[[第二次世界大戦]]の一因となった{{Sfn|湯浅|1998|p=399}}。
 
=== 近代の貨幣論 ===
[[アダム・スミス]]は『[[国富論]]』で商品交換を行うために金属が貨幣に選ばれたと論じ、紙幣が金属貨幣の価値の総額を超えることは抑制されるべきとした。[[デイヴィッド・リカード]]は『地金の価格高騰について』で貨幣数量説を論じた。[[英仏戦争]]による物価の高騰で、イングランド銀行の金準備が激減して銀行券の金兌換を停止した際には、銀行券の兌換再開をめぐって[[通貨学派]]と[[銀行学派]]の論争が起きて[[地金論争]]と呼ばれた。通貨学派は、銀行券の発行がイングランド銀行の金保有量に一致することを要求し、銀行学派は、銀行券の発行は金保有量に制約を受ける必要はないとした{{Refnest|group="†"|通貨学派の主要人物には{{仮リンク|オーバーストーン卿|en|Samuel Jones-Loyd, 1st Baron Overstone}}、{{仮リンク|ヘンリー・メーレン|en|Henry Meulen}}、銀行学派の主要人物には{{仮リンク|トーマス・トゥック|en|Thomas Tooke}}、[[ジョン・スチュアート・ミル]]らがいた。}}。
 
[[古典派経済学]]では[[貨幣数量説#貨幣の中立説|貨幣の中立説]]が主張された。貨幣数量説の研究が進み、[[新古典派経済学]]では[[フィッシャーの交換方程式]]や[[貨幣数量説#現金残高方程式(ケンブリッジ方程式)とマーシャルのk|ケンブリッジ方程式]]が考案された{{Sfn|奥山|2012|p=}}。
 
== 現代 ==
=== ブレトンウッズ体制 ===
第二次世界大戦中の[[1944年]]に、アメリカのブレトン・ウッズで44ヶ国による連合国通貨金融会議が開催される。大戦後の国際通貨制度の枠組みとして[[ブレトン・ウッズ協定]]が締結され、[[国際通貨基金]](IMF)と[[国際復興開発銀行]](世界銀行)の創設が決定した<ref>{{Sfn|猪木 (|2009)|p=72}}。IMFは国際通貨の安定を目的とし、国際収支が赤字になった国に短期の資金を融資する。世界銀行は長期の資金の融資を行い、大戦後にアジアやアフリカで独立した国々を援助するために無利子で融資をする[[国際開発協会]](IDA)や、民間向けに融資をする[[国際金融公社]](IFC)も設立された{{Sfn|小林, 中林|2010|p=60}}。第二次大戦によってイギリスはアメリカに負債を負い、インドなど英連邦諸国は独立をしてポンドは切り下がり、[[国際通貨]]の中心は[[USドル]]に移行した{{Sfn|小林, p72</ref>中林|2010|p=62}}
 
ブレトン・ウッズ会議では世界経済の安定のために[[国際通貨]]についての提案がなされた。イギリスは超国家的な通貨として[[バンコール]]を提案し、アメリカはUSドルのみが金との兌換を持つという提案をした。最終的にはアメリカ案をもとに運用が決まり、USドルが金との兌換を持ち、各国の通貨はUSドルとの[[固定相場制]]を取ることで価値を保証した。これは[[金為替本位制]]とも呼ばれ、[[基軸通貨]]と世界一の金準備を持つアメリカが金融センターの中心となった。IMFは、加盟国の準備資産を補完するために[[特別引出権]](SDR)の制度を始めた{{Sfn|梶谷|2018|p=31}}。
 
=== 変動相場制 ===
ブレトン・ウッズ体制により、国際通貨基金の加盟国はUSドルに対する自国通貨の平価を定めた。これにより各国は経済成長をとげるが、アメリカは[[国際収支]]で赤字を続けながらドルを世界に供給する必要が生じた。しかし、アメリカの国際収支の赤字が続けばドルへの信認が低くなり、アメリカの国際収支が改善されればドルの安定供給が維持できない。これは[[トリフィンのジレンマ]]とも呼ばれた。アメリカでは[[ベトナム戦争]]による財政支出とインフレが続いたためドルの価値が下落し、国際収支の赤字により金準備も減少する。こうしてUSドルと金との兌換は停止されることとなった{{Sfn|猪木|2009|p=221}}。
 
; ブレトン・ウッズ体制の終了
アメリカの[[リチャード・ニクソン|リチャード・ニクソン政権]]は、USドルが金との兌換を一時停止すると発表した。原因はアメリカの金保有量の減少によるもので、それまでの金とドルにもとづく国際通貨体制の終了をもたらし、[[ニクソンショック]]とも呼ばれた{{Refnest|group="†"|変動相場制について各国の対応は分かれた。日本は円切り上げを行わない方向で固定相場制を求めていた。他方ドイツではインフレの抑制を重視するために[[マルク (通貨)|マルク]]の切り上げを行っており、変動相場制への移行を求める意見が多かった{{Sfn|小林, 中林|2010|p=65}}。}}。ニクソンショック以降の為替レートの動向は、次のような時期に分かれる。
 
; (1)第1次フロート制
ニクソン大統領の演説以降の旧レートでの11日間の市場再開をへて、1971年12月18日までの変動相場制。ドルの値下がりが予想されたため、ヨーロッパは外国為替市場を閉鎖したのちに変動相場制へ移行した。他方で日本は、市場を閉鎖せずにドル買いを続けて為替差損を出した{{Sfn|小林, 中林|2010|p=65}}。
; (2)スミソニアン協定
IMFの10カ国グループである[[G10]]によって[[スミソニアン協定]]が結ばれて固定相場制が再開され、為替相場の変動幅が上下25パーセントと取り決められた。ドル切下げと[[円切上げ]]が決定して、新たに金1オンス=38ドル、1ドル=308円(変動幅±2.25パーセント)の交換レートが定められた{{Sfn|小林, 中林|2010|p=65}}。
; (3)第2次フロート制
固定相場の維持は再び困難となり、[[1973年]]2月12日のドル再切り下げにより、再び変動相場制へ移行した{{Sfn|片岡|2012|p=116}}{{Sfn|小林, 中林|2010|p=66}}。
 
ブレトン・ウッズ体制は終了し、各国はUSドルとの固定相場制から[[変動相場制]]へと移行した。主要な通貨は、実体経済の経済力を背景に価値を持つこととなった。ドルは金との固定相場による価値を失う反面で、金の束縛を離れた発行が可能となり、固定相場時代よりも国際間の資本移動が自由になった{{Sfn|小林, 中林|2011|p=第2章}}。現在でも、外国資本の流入を促進するためにUSドルと固定相場制をとる[[ドルペッグ制]]を採用したり、USドルそのものを自国通貨とすることで価値を保証している国がある{{Sfn|コーヘン|1998|p=第2章}}。中国は管理変動相場制をとっていた{{Sfn|梶谷|2018|p=32}}。
 
=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:Europäische Wirtschafts- und Währungsunion.svg|thumb|300px|経済通貨同盟]]
ヨーロッパでは、第二次世界大戦後に経済統合が進んだ。これは経済的な目的だけでなく、2度の世界大戦やブロック経済の問題をふまえて、安全保障に関わる政治的な目的も含んでいる。こうした歴史的な背景のもと、[[欧州通貨統合]]も進められた。[[1970年]]には通貨統合についての具体案が出され、[[欧州通貨制度]]が開始する。[[ドイツマルク]]を中心とし、参加国はマルクに対するレートを一定の枠内で固定した。ユーロ圏の金融政策を行うために[[欧州中央銀行]]を設立し、共通通貨である[[ユーロ]]を11カ国で導入した。ユーロ圏は経済政策も共有する[[経済通貨同盟]]であり、通貨同盟とは異なる{{Refnest|group="†"|共通通貨の名称候補として、シャルルマーニュ、エキューなどもあった。}}{{Sfn|小林, 中林|2011|p=第3章}}。2015年1月1日時点の[[ユーロ圏]]は19カ国となっている。
 
=== アジア ===
ブレトン・ウッズ会議では世界経済の安定のために[[国際通貨]]についての提案がなされた。イギリスは超国家的な通貨として[[バンコール]]を提案し、アメリカはUSドルのみが金との兌換を持つという提案をした。最終的にはアメリカ案をもとに運用が決まり、USドルが金との兌換を持ち、各国の通貨はUSドルとの[[固定相場制]]を取ることで価値を保証した。これは[[金為替本位制]]とも呼ばれ、[[基軸通貨]]と世界一の金準備を持つアメリカが金融センターの中心となった。
; プラザ合意と円高
[[1980年代]]前半のアメリカは、[[ロナルド・レーガン|ロナルド・レーガン政権]]のもとで、[[双子の赤字]]と呼ばれた貿易赤字と財政赤字が問題となった。為替レートを安定させるために[[G5]]の蔵相や中央銀行総裁による会議が開催され、[[プラザ合意]]がなされた。これ以降は円高が急速に進み、2年間で1ドル=240円前後から121円と2倍近く上がった。主要国による協調介入は1985年10月で終わり、当初の為替レートの目標は1ドル=210円から215円を見込まれていたが、円高はそれを上回った。日本では円高によって[[バブル景気]]となり、バブル崩壊後は円高とデフレーションによって[[長期停滞]]が続いている{{Sfn|片岡|2012|p=145}}。
 
; 金融センター
== 変動相場制以降 ==
ニューヨークやロンドンなど欧米に加えて、第二次大戦後はアジアでも東京、香港、シンガポール、上海などの地域が金融センターとして発展した。金融センターの国際的競争力を示す指標として{{仮リンク|Z/Yen|en|Z/Yen}}グループの{{仮リンク|世界金融センター指数|en|Global Financial Centres Index, GFCI}}があり、2019年3月時点では、上位5位は1位ニューヨーク、2位ロンドン、3位[[香港]]、4位[[シンガポール]]、5位[[上海]]とアジア圏から3つ入っている{{Sfn|Z/Yen|2019|p=}}。香港、シンガポール、上海は植民地時代から金融業の基盤があり、ともに英語と中国語のビジネスを進めやすい環境にあった。シンガポールは地理的にニューヨークとロンドンの中間に位置して24時間取引が可能な点も有利となった。シンガポールは[[ASEAN]]の金融センターとなり、1990年代以降は中国やインドをはじめアジア新興国に官民一体で共同投資を行なっている{{Refnest|group="†"|[[蘇州市|蘇州]]工業団地、[[バンガロール]]の情報技術工業団地などの投資が行われた。}}{{Sfn|岩崎|2013|p=133, 177}}。
=== ニクソンショック ===
ブレトン・ウッズ体制により、国際通貨基金の加盟国はUSドルに対する自国通貨の平価を定めた。これにより各国は経済成長をとげる一方、アメリカは[[国際収支]]で赤字を続けながらドルを世界に供給する必要が生じた。しかし、アメリカの国際収支の赤字が続けばドルへの信認が低くなり、アメリカの国際収支が改善されればドルの安定供給が維持できない。これは当時[[トリフィンのジレンマ]]とも呼ばれた。アメリカでは[[ベトナム戦争]]による財政支出とインフレが続いたためドルの価値が下落し、国際収支の赤字により金準備も減少する。こうして[[1971年]]にはUSドルと金との兌換は停止され、[[ニクソン・ショック]]と呼ばれた<ref>猪木 (2009) p221</ref>。
 
; 人民元
ブレトン・ウッズ体制は終了し、各国はUSドルとの固定相場制から[[変動相場制]]へと移行し、主要な通貨は実体経済の経済力を背景に価値を持つこととなった。ドルは金との固定相場による価値を失う反面で、金の束縛を離れた発行が可能となり、固定相場時代よりも国際間の資本移動が自由になった<ref>小林・中林 (2011) 第2章</ref>。現在でも、外国資本の流入を促進するためにUSドルと固定相場制をとる[[ドルペッグ制]]を採用したり、USドルそのものを自国通貨とすることで価値を保証している国がある<ref>コーヘン (1998) 第2章</ref>。
中国の通貨である[[人民元]]は、[[鄧小平]]の[[改革開放]]によって大きく変化する。それまでは[[外貨兌換券]]用の公定為替レートと市場の為替レートに格差があり、改革開放によって二重相場制と外貨兌換券を廃止して[[管理フロート制]]に移行した。これは実質的にドルペッグ制であり、通貨の切り下げによって輸出が増加する。改革開放以前は[[中国人民銀行]]が政府が決定のもとで貸付を行なっていたが、国有銀行の商業銀行化も進められた。[[IMF8条国]]となったのちは経常取引の自由化が義務づけられるが、資本取引の規制は続けて銀行の国際取引も外貨管理局が統制した{{Refnest|group="†"|アジア通貨危機の際に、東アジア各国の通貨が切り下げを行う一方で中国が人民元を下げなかったのは、資本規制をしていたので外貨建ての短期借入の影響を受けなかった点にもある。}}{{Sfn|小林, 中林|2010|p=156}}。経済成長が続いて投機的な資金流入が問題になると、対策として[[通貨バスケット制]]を参照しつつ管理変動相場制に移行した{{Refnest|group="†"|[[北京オリンピック]]や[[上海万博]]の影響もあって旅行者の両替は改善が進んだ。}}{{Sfn|小林, 中林|2010|p=163}}。世界金融危機以降は人民元の国際化をさらに進め、人民元はSDRの構成通貨に加わり、[[中国外貨取引センター]](CFETS)は通貨バスケットを24ヶ国に拡大した{{Sfn|梶谷|2018|p=48}}。国内では、クレジット決済に代わって、IT技術にもとづく決済システムの普及が推進されている([[貨幣史#電子マネー|後述]]){{Sfn|梶谷|2018|p=215}}。
 
=== アフリカ ===
現在では、国家は流通の安定のために法律によって貨幣に[[強制通用力]]を持たせている。これを特に[[法定通貨]]・[[信用貨幣]]という。このため、交換の媒介として所定の通貨の使用を拒否することは通常できない。また、この法定通貨は支払完了性を有しており、取引を無条件に完了させる決済手段となる<ref>岩田 (2000) 第1章</ref>。かつてはさまざまな銀行が銀行券を発行できたが、現在では中央銀行が銀行券の発行を独占している国が多い。中央銀行は、[[物価]]の安定、[[雇用]]の維持、[[経済成長]]の維持、[[為替レート]]の安定などを目的として[[金融政策]]を行っている<ref>岩田 (2000) p222</ref>。
アフリカでは第二次大戦後に植民地からの独立が相次いだが、植民地時代の経済が悪影響を残した{{Refnest|group="†"|産業やインフラは宗主国に生産物を輸出するために整備されていたために独立後の経済成長や財源確保の支障となった。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=523}}。IMFの指導によって構造調整政策が導入され、各国は世界銀行や先進諸国の支援と引き換えに取り組んだ{{Refnest|group="†"|世界銀行の融資条件は平価切り下げ、貿易自由化、農産物流通の自由化、公企業の民営化、公務員数の削減など経済自由化や政府予算を縮小する政策だった。}}。構造調整政策は1990年代まで続けられたが期待された成果はなく、債務危機におちいる国家も出て、IMFや世銀は方針変更を迫られた{{Refnest|group="†"|サブサハラ諸国の累積債務残高は、1980年に国民総所得の約23パーセントだったのが、1994年には約76パーセントまで増加した。}}。2000年代以降は構造調整に代わって[[ミレニアム開発目標]]などの貧困削減が課題とされた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=585, 622}}。技術面では携帯電話が急速に普及して、送金や銀行口座開設などのサービスが開始された{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=626, 630}}。インフォーマルな活動の中には互助的な金融や保険があり、銀行からの融資が困難な出稼ぎ民に対する[[頼母子講]]的な金融もある{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=}}。
 
=== 欧州通貨統合イスラーム世界 ===
[[アラブ諸国]]など[[イスラーム]]の影響が強い国では、紙幣の導入に時間がかかる場合があった。イスラーム経済に固有の事情により、交換するものは等量・等価でなければならず、素材として価値が高い金属貨幣が重視されたためである。1940年代半ばのアラブ諸国では多種類の金貨や銀貨の他に、貿易の決済や[[マッカ巡礼|マッカ巡礼者]]の通貨交換用に英領インドのルピー紙幣を使った。[[サウジアラビア]]では[[サウジアラビア・リヤル|リヤル]]銀貨が通貨だったが、銀価格高騰による流出で通貨危機が発生したため、事実上の紙幣である巡礼者受領証を発行し、のちに正式にリヤル紙幣を発行した。巡礼者用の紙幣は、サウジアラビアの他ではインドとパキスタンでも発行され、正式には外貨証券と呼ばれる{{Sfn|冨田|1996|p=54}}。
ヨーロッパでは、第二次世界大戦後に経済統合が進んだ。これは経済的な目的だけでなく、2度の世界大戦やブロック経済の問題をふまえて、安全保障に関わる政治的な目的も含んでいる。こうした歴史的な背景のもと、[[欧州通貨統合]]も進められた。[[1970年]]には通貨統合についての具体案が出され、[[1979年]]から[[欧州通貨制度]]が開始する。[[ドイツマルク]]を中心とし、参加国はマルクに対するレートを一定の枠内で固定した。[[1998年]]には[[欧州中央銀行]]を設立、[[1999年]]には共通通貨である[[ユーロ]]を11カ国で導入した<ref>小林・中林 (2011) 第3章</ref>。2015年1月1日時点の[[ユーロ圏]]は19カ国となっている。
 
=== 通貨危機 ===
[[ファイル:Asian Financial Crisis EN-2009-05-05.png|thumb|300px|アジア通貨危機で大きな影響を受けた国]]
変動相場制による資本移動の規模の増大と加速化は、通貨危機の可能性を高めた。[[1992年]]には[[ポンド危機]]が発生し、イギリスは[[欧州為替相場メカニズム]](ERM)を離脱した。欧州通貨制度では、参加国の為替レート維持は経常赤字国が負担していたため、マルクに対するポンドの切り下げが予想されたのが原因だった。[[1994年]]には[[メキシコ・ペソ]]が暴落し、[[メキシコ#1994年メキシコ通貨危機|メキシコ通貨危機]]が起きた。[[1997年]]には、[[タイ・バーツ]]の切り下げが周辺諸国の通貨にも投機を招いた。投資を活発にするためにドルペッグ制をとる国が多く、タイの通貨危機が拡大して[[アジア通貨危機]]となった<ref>小林・中林 (2011) 第3章、第4章</ref>。
変動相場制による資本移動の規模の増大と加速化は、通貨危機の可能性を高めた。[[ポンド危機]]が発生した際には、イギリスは[[欧州為替相場メカニズム]](ERM)を離脱した。欧州通貨制度では、参加国の為替レート維持は経常赤字国が負担していたため、マルクに対するポンドの切り下げが予想されたのが原因だった{{Sfn|小林, 中林|2011|p=107}}。[[メキシコ・ペソ]]が暴落した際には、[[メキシコ#1994年メキシコ通貨危機|メキシコ通貨危機]]が起きた。[[タイ・バーツ]]の切り下げは周辺諸国の通貨にも投機を招き、投資を活発にするためにドルペッグ制をとる国が多かったためにタイの通貨危機が拡大して[[アジア通貨危機]]となり、ロシアに波及して[[ロシア財政危機]]となった{{Sfn|小林, 中林|2011|p=第3章、第4章}}。[[サブプライムローン]]を発端に[[世界金融危機]]が起きた際には各国が協調介入しており、これは[[世界恐慌]]での対応の失敗が教訓となっている{{Sfn|小林, 中林|2011|p=第1章}}。
 
=== 物品貨幣 ===
メソアメリカのカカオは、一部の地域では20世紀まで貨幣として通用した{{Sfn|コウ|2017|p=}}。現在使われる物品貨幣としては、[[石貨 (ヤップ島)|石貨]]([[ヤップ島]])や貝貨([[パプアニューギニア]])がある。特にパプアニューギニアのタブ貝貨は、人頭税の支払いなど行政においても流通している{{Sfn|深田|2006|p=}}。
 
=== 電子マネー ===
[[1990年代]]からは、[[電子決済]]のサービスである[[電子マネー]]が始まった。広義の電子マネーには前払いで既存の通貨から入金する[[プリペイド]]式と、[[クレジットカード]]と同様の[[ポストペイ]]式がある。現在では[[ICカード]]に入金をする形態が普及している。電子マネーの特徴としては、購入情報の記録、小額決済の短縮化などがある<ref>岡田 (2008) p163</ref>
 
イギリスの[[モンデックス]]は、[[1995年]]からプリペイド電子マネーの試験運用を始めた。銀行の[[現金自動預け払い機|ATM]]や[[公衆電話]]でチャージをして買い物に用いる仕組みで、その後にドイツやフランスでも電子マネーが発行されたが、大きな普及にはつながらなかった。アジアでは、香港の[[八達通]]をはじめ1990年代後半から交通機関を中心に電子マネーが普及し、日本でもプリペイド電子マネーの試験運用が始まる。[[2001年]]以降は、各国でタッチ式のプリペイド電子マネーの普及が進んでいる<ref>岡田 (2008) p155</ref>。{{Sfn|ナラヤナン他|2016}}
{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=634, 664}}
 
; 決済仲介サービス
中国ではクレジット決済に代わって、IT技術にもとづく決済システムが普及した。[[阿里巴巴集団]](アリババグループ)による[[支付宝]](Alipay)や、[[テンセント]]の[[微信支付]](WeChat Pay)が中心となっている。信頼できる第三者が仲介となって取引を行っており、中国の商慣習にも合致している。第三者決済サービスで蓄積された取引情報は[[社会信用システム]]に活用されて、個人信用を評価する[[芝麻信用]]などのサービスも行われている。信用評価システムによって、従来は融資が困難だった中小企業や個人事業者への融資も進んでいる{{Sfn|梶谷|2018|p=215}}。
 
=== 仮想通貨 ===
[[ファイル:Cryptocurrency Mining Farm.jpg|thumb|300px|ビットコインのマイニング(採掘)]]
法定通貨ではない貨幣として[[仮想通貨]]、もしくは[[暗号通貨]]があり、著名なものとして[[ビットコイン]]が知られる。基本的にはデータとしてのみ存在し、暗号によってコピーを防止している。ビットコインはペーパーウォレットという紙に印刷をして保存も可能となっている。
法定通貨ではない貨幣として[[仮想通貨]]、もしくは[[暗号通貨]]があり、著名なものとして[[ビットコイン]]が知られる。基本的にはデータとしてのみ存在し、暗号によってコピーを防止している。ビットコインはペーパーウォレットという紙に印刷をして保存も可能となっている{{Sfn|ナラヤナン他|2016}}。
 
ビットコインは、[[2009年]]に[[サトシ・ナカモト]]という人物が執筆した論文をもとに開発された。[[Peer to Peer]]技術によって価値を保証され、中央銀行を介さない貨幣として限定的ながら国際通貨として流通している。国家の通貨のような強制通用力が存在しないが、国際決済にかかるコストが小額であり、匿名性や、国内で複数の通貨が使える利便性などが注目されている。[[2013年]]の[[キプロス・ショック]]の際には、銀行預金の課税を逃れるためにビットコインを選ぶ人々が存在した。一方で、[[2014年]]にはビットコイン取引所の最大手であり[[東京都]]で事業を行っていた[[マウントゴックス]]で、ビットコイン消失事件も発生している<ref>{{Sfn|岡田, 高橋, 山崎 (|2015)</ref>|p=}}
 
== 特殊な貨幣 ==
=== 冥銭 ===
[[冥銭]]は[[副葬品]]に用いる貨幣を指す。中国古代では陶銭や紙銭が用を使られ、のちにその文化が日本にも受け継がれた<ref>{{Sfn|柿沼陽平『中国古代の貨幣: お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、|2015年)</ref>|p=}}。日本では[[六文銭]]や、近世の[[六道銭]]などが知られる<ref>瀧澤・西脇編 (1999) p53</ref>{{Sfn|櫻木|2016|p=53}}。中国、[[韓国]]、[[台湾]]、[[ベトナム]]では、葬儀社などで冥国銀行券といった名称の葬儀用紙幣が用意されている。1930年の中国では額面が5円となっているが、その後高額化が進み、一般には存在しない額面となっている<ref>{{Sfn|植村 (|1994) p315</ref>|p=315}}。類似の慣習として古代ギリシでは、地獄の川の渡し守である[[カローン]]への渡し賃として1[[オボルス]]を死者の口に入れた。
 
=== 軍用手票 ===
[[軍用手票]]とは、戦争の時に占領軍が占領地や交戦地で発行する通貨であり、軍票という通称で呼ばれる。軍票は19世紀にヨーロッパで始まり、占領軍は占領地で物資を徴発するわりに、軍票で必要物資の調達や軍人への給料の支払いを行った。また、敵国の通貨の使用を禁止して経済を統制する目的もあった。占領軍の自国通貨を支払いにあてた場合は自国でのインフレの可能性があり、敵国通貨を禁止しなければ敵国から物資の調達などをされる可能性があるため、軍票が使用されてきた。発行された軍票は発行国の債務であり、終戦により一般通貨に交換することが必要となるが、戦勝国により敗戦国の軍票が無効とされる例も多い<ref>{{Sfn|植村 (|1994) p125</ref>|p=125}}。正式な軍票ではないが、同様の目的でアメリカ軍が沖縄の久米島で発行した貨幣として[[久米島紙幣]]がある
 
=== ハンセン病療養所における貨幣 ===
正式な軍票ではないが、同様の目的でアメリカ軍が[[1945年]]に沖縄の久米島で発行した貨幣として[[久米島紙幣]]がある。
 
=== 大東島紙幣 ===
{{main|大東島紙幣}}
沖縄の[[大東諸島|大東島]]において、20世紀初頭にこの地を所有し実質的に統治した[[玉置商会]](のちに[[大日本製糖]]が継承)が私的な紙幣を発行した。正式には南北大東島通用引換券と呼ばれ、本来は砂糖手形であったものが島の流通貨幣となった。別名を玉置紙幣ともいう。戦後、米軍軍政下で係争になり、その結果、農民は土地を得た。
 
=== 炭坑切符 ===
[[西表島]]において、大正 - 昭和戦前時代、強制収容的に仕事をさせ、「監獄部屋」とも称された民間の[[西表炭坑]]があった。日本人、台湾人らの労働者の脱走を防止する目的で、経営するいくつかの会社が炭坑切符(俗に「斤券」)という私的紙幣を発行した。当該会社の売店でのみ通用したので、脱走を防止する働きがあった<ref>三木 (1996) p85</ref>。
 
=== ハンセン病療養所における通貨 ===
{{main|ハンセン病療養所の特殊通貨}}
かつて世界各地の[[ハンセン病療養所]]やコロニーにおいて通貨が発行された。ハンセン病隔離施設の場合は、菌の伝染防止や患者の隔離が目的であり、必要性がなくなり廃止された。特殊貨幣の多くは国家が作ったが、療養所が作ったところもあり、日本では[[多磨全生園]]などの療養所が作った。患者の入所時に一般の通貨は強制的に特殊通貨に換えさせられた。硬貨が一般的だが紙幣もあり、その場合は通し番号がついた。クーポン券といってもよい場合もあり、プラスチック製もあった。多磨全生園の場合、貨幣の製造は徽章などを製造する所に発注し、菌の伝染を防ぐために消毒された。日本の療養所の一部では、通帳を併用して貧困者への小遣いなどに利用した{{Sfn|森|2001|p=2章}}。日本では種々の不正事件の発覚が契機となり、各療養所の通貨は[[1955年]]までに廃止された。廃止時に一般の通貨に換えられたが、米軍軍政下の[[宮古南静園]]では、一般の通貨とは換わらなかった。
かつて世界各地の[[ハンセン病療養所]]やコロニー(Leper colony)において通貨が発行された。ハンセン病隔離施設の場合、菌を伝染させないためや、患者を隔離するのが目的だった。その後、必要性がなくなり廃止された。
 
特殊貨幣の多くは国家が作ったが、療養所が作ったところもあり、日本では[[多磨全生園]]などの療養所が作った。患者の入所時に一般の通貨は強制的に特殊通貨に換えさせられた。硬貨が一般的だが紙幣もあり、その場合は通し番号がついた。クーポン券といってもよい場合もあり、プラスチック製もあった。多磨全生園の場合、貨幣の製造は徽章などを製造する所に発注し、菌の伝染を防ぐために消毒された。日本の療養所の一部では、通帳を併用して貧困者への小遣いなどに利用した<ref>森 (2001) 2章</ref>。日本では種々の不正事件の発覚が契機となり、各療養所の通貨は[[昭和30年]]までに廃止された。廃止時に一般の通貨に換えられたが、米軍軍政下の[[宮古南静園]]では、一般の通貨とは換わらなかった。
 
== 貨幣の偽造の歴史 ==
{{main|贋金|偽札}}
信用通貨と贋金の問題は貨幣の歴史と同じくらい古いとも言われる。価値の裏付けを金属に求めながら、地金価値と額面を厳密に一致させる[[本位貨幣]]制の確立は近代以降であり、近代以前の貨幣制度をそれで理解することは難しい。金属貨幣はしばしば政府や領主などが貨幣発行益を得るために発行され、額面が地金の価値を上回ることがあった。貨幣発行益が大きい場合は[[贋金]]の横行を呼び、特に高額の貨幣が偽造された。たとえば和同開珎は銀銭の発行後1年以内に私鋳銭の禁令が出ており、偽造が原因で銀銭は廃止されている
 
紙幣の偽造では、初の紙幣とされる交子が990年頃に出たのちの神宗の時代([[1068年]]~[[1077年]])には偽造に関する記述が見られる。日本最古の紙幣とされる羽書は[[1610年]]に発行されたが、[[1624年]]には偽札についての記述が見られる{{Sfn|植村|2004|p=p18}}。スウェーデンのストックホルム銀行券は[[1661年]]に始まり、[[1662年]]~[[1664年]]には偽造銀行券が出回っていた{{Sfn|植村|2004|p=83}}。大規模な紙幣偽造としては、ポルトガルの公文書を偽造してエスクド紙幣を500万ドル相当印刷させた事件がある{{Sfn|種村|1990|p=}}。
金属貨幣はしばしば政府や領主などが貨幣発行益を得るために発行され、額面が地金の価値を上回ることがあった。貨幣発行益が大きい場合は[[贋金]]の横行を呼び、特に高額の貨幣が偽造され、権力者は取り締まりに苦慮した。和同開珎は銀銭の発行後1年以内に私鋳銭の禁令が出ており、偽造によって銀銭は廃止へ向かった。
 
アメリカ最初期の紙幣を印刷したベンジャミン・フランクリンは、偽造防止の方法も発明した。紙幣の文字に意図的なスペリング・ミスを仕込み、額面によって異なったスペリングと活字を組み合わせた。さらに、複製困難なデザインのために{{仮リンク|ネイチャー・プリンティング|en|Nature printing}}という紙幣の裏に木の葉をプリントする方法を考案した{{Refnest|group="†"|フランクリンがネイチャー・プリンティングの考案者であり、その目的が偽造防止であるという事実は1963年まで知られていなかった。}}{{Sfn|秋元|2018|p=183}}。アメリカは大陸紙幣ののちは南北戦争まで政府紙幣がなく、1862年の時点で紙幣全体の80パーセントが偽札だったとされる。偽札を判別するための偽札鑑定新聞( Counterfeit Detector)や銀行券通信(Bank Note Reporter)と呼ばれる冊子があり、定期的に発行された{{Sfn|秋元|2018|p=51}}。
紙幣の偽造では、初の紙幣とされる交子が990年頃に出たのちの神宗の時代([[1068年]]〜[[1077年]])には偽造に関する記述が見られる。日本最古の紙幣とされる羽書は[[1610年]]に発行されたが、[[1624年]]には偽札についての記述が見られる<ref>植村 (2004) p18</ref>。スウェーデンのストックホルム銀行券は[[1661年]]に始まり、[[1662年]]〜[[1664年]]には偽造銀行券が出回っていた<ref>植村 (2004) p83</ref>。大規模な紙幣偽造としては、ポルトガルの公文書を偽造してエスクド紙幣を500万ドル相当印刷させた事件がある<ref>種村 (1990)</ref>。
 
鋳造貨幣や紙幣以外の偽造もあり、たとえばる。アステカでは、通貨として使われていたカカオ豆が偽造されていたという記録がある<ref>{{Sfn|コウ (1996) p138</ref>|2017|p=138}}
 
== 年表 ==
* [[紀元前30世紀]] - [[メソポタミア]]で重量単位の[[シェケル]]が用いら使われる。
* [[紀元前21世紀]] - [[シュメル]]で[[ウル・ナンム]]王の時代に度量衡が統一され、銀1ギン=大麦1グルとされる。
* [[紀元前15世紀]] - 中国の[[殷]]貝貨が用いられるを使う
* [[紀元前7世紀]] - アナトリア半島の[[リュディア]]で初の硬貨である[[エレクトロン貨]]が作られる。
* [[紀元前6世紀]] - ギリシの[[ポリス]]で硬貨が定着。
* [[紀元前483年]] - [[アテナイ]]が[[ラウレイオン|ラウレイオン銀山]]をもとに銀貨発行。
* [[紀元前5世紀]] - [[紀元前3世紀]] - 中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]。中国に青銅貨などの鋳貨が定着する。
* [[紀元前4世紀]] - [[アレクサンドロス3世]]がペルシアを征服し、戦利品をもとに大量の金貨を発行。金銀の交換比率が大きく変わる。
264 ⟶ 429行目:
* [[621年]] - 唐が[[開元通宝]]を発行。中国の貨幣経済の統一が進む。
* [[693年]] - [[ウマイヤ朝]]がイスラーム帝国初の硬貨として[[ディナール]]と[[ディルハム]]を発行。
* [[708年7世紀]] - 日本の朝廷が国内初の公鋳貨幣として[[和同開珎富本銭]]を発行。
* [[780年]] - フランク王国のカール大帝が度量衡を改革しリブラを導入。[[デナリウス]]銀貨を標準的通貨として[[造幣権]]を国家の独占とする。
* [[10世紀]] - イスラーム世界で銀が不足。
276 ⟶ 441行目:
* [[14世紀]] - インド洋のタカラガイがアフリカで貝貨として導入が始まる。
* [[15世紀]] - ヨーロッパで貴金属が不足。エジプトで銅貨のインフレーション。
* [[1518年]] - ボヘミアが[[ターラー (通貨)|ターラー]]を発行。のちの価格革命によりヨーロッパ各地で用いられ流通する。
* [[1537年]] - スペインが[[エスクード]]金貨を発行。国際的な通貨となる。
* [[1545年]] - インカ時代に放棄されていた[[ポトシ銀山]]が再発見される。
* [[16世紀]] - ヨーロッパで[[価格革命]]が進む。
* [[1606年]] - 江戸幕府が[[慶長通宝]]を鋳造。皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳。
* [[1609年]] - [[アムステルダム銀行]]設立。
* [[1631年]] - [[マサチューセッツ湾植民地]]がトウモロコシを法定通貨とする。アメリカの[[13植民地]]で実物貨幣の普及が進む。
* [[1639年]] - [[鎖国令]]により、日本からポルトガルへの銀の供給が止まる。
* [[1661年]] - スウェーデンの[[ストックホルム銀行]]がヨーロッパ初の紙幣として銀行券を発行。
* [[1668年]] - ストックホルム銀行の破綻により、初の[[中央銀行]]である[[スウェーデン国立銀行]]設立。
* [[1685年]] - フランス領カナダでトランプを切った紙幣が流通。アメリカ大陸初の紙幣とも言われる。
* [[1690年]] - アメリカのマサチューセッツ植民地が欧米発の政府紙幣を発行。
* [[1693年]] - [[ミナスジェライス州]]で金脈発見。
* [[1694年]] - イギリスの[[イングランド銀行]]が初の近代的な銀行券を発行。
* [[1703年]] - ポルトガルとイギリスが[[メシュエン条約]]。
* [[1716年]] - 財政家の[[ジョン・ロー]]が[[フランス王立銀行|バンク・ジェネラール]]を設立。フランスで銀行券を普及させる。
* [[1775年]] - 13植民地が独立戦争の戦費調達のために{{仮リンク|大陸紙幣|en|continental currency}}を発行。欧米では初の[[政府紙幣]]となる
* [[1789年]] - フランスが[[アッシニア]]紙幣を発行。のちに世界初とも言われる[[ハイパーインフレーション]]が発生。
* [[1792年]] - 貨幣法により、アメリカ合衆国の通貨単位がドルに決定。
* [[18世紀]] - 清の[[乾隆帝|乾隆期]]の中国で[[乾隆通宝]]の大量鋳造。銭票が史料に登場する。
* [[18世紀]] - 清の[[乾隆帝|乾隆期]]の中国で[[乾隆通宝]]の大量鋳造。[[銭票]]が史料に登場する。
* [[1816年]] - イギリスが貨幣法により[[金本位制]]を実施。国際的に金本位制が広まるきっかけとなる。
* [[1816年]] - イギリスが貨幣法により本位金貨の[[ソブリン金貨]]を制定。国際的に金本位制が広まるきっかけとなる。
* [[1871年]] - 明治政府が[[円 (通貨)|円]]を正式に採用。
* [[1844年]] - [[ピール銀行条例]]。[[イングランド銀行]]が中央銀行となる。
* [[1885年]] - 明治政府が最初の[[日本銀行券]]を発行。
* [[1907年]] - [[1907年恐慌]]が発生。アメリカの[[連邦準備制度]]設立のきっかけとなる。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]。イギリスが金本位制を停止して[[管理通貨制度]]に移行し、各国相次いで停止が進む
* [[1919年]] - アメリカが金本位制に復帰。以後、各国が復帰をはじめる。
* [[1922年]] - [[ジェノヴァ会議]]。
* [[1923年]] - ドイツでハイパーインフレーション対策として[[レンテンマルク]]発行。
* [[1929年]] - [[世界恐慌]]。以後、各国は再び金本位制を停止。
* [[1930年]] - [[国際決済銀行]]設立。
* [[1935年]] - 中国で国民党政府が[[銀本位制]]を停止。オーストリア政府が、マリア・テレジア銀貨の鋳造権をイタリアへ譲渡。翌年にはイギリス、フランス、ベルギーもマリア・テレジア銀貨を作る。
* [[1944年]] - [[ブレトン・ウッズ協定]]。[[国際通貨基金]]と[[国際復興開発銀行]]の設立を決定
* [[1946年]] - [[国際通貨基金]]創設。
* [[1948年]] - 中国で共産党政府により[[中国人民銀行]]が発足。通貨が[[人民元]]に統一される。
* [[1950年]] - 最初の[[クレジットカード]]である[[ダイナースクラブ]]が創設される。
* [[1956年]] - [[国際金融公社]]設立。
* [[1971年]] - [[ニクソンショック]]。USドルは金との兌換を停止。[[変動相場制]]への移行が開始。
* [[1960年]] - [[国際開発協会]]設立。
* [[1961年]] - サウジアラビアが[[サウジアラビア・リヤル|リヤル]]紙幣を発行。
* [[1966年]] - [[アジア開発銀行]]設立。
* [[1971年]]8月15日 - [[ニクソンショック]]。USドルは金との兌換を停止。[[変動相場制]]への移行が開始。
* [[1971年]]12月18日 - [[スミソニアン協定]]。固定相場制の再開。
* [[1972年]] - [[シカゴ・マーカンタイル取引所]]で[[金融先物|通貨先物]]の取引を開始。[[欧州経済共同体]]の加盟国が共同変動為替相場制を開始。
* [[1973年]]3月 - スミソニアン体制から再び変動相場制へ移行。
* [[1979年]] - [[欧州通貨制度]]が開始、[[欧州通貨単位]]が定められた。
* [[1983年]] - 暗号研究者の{{仮リンク|デヴィッド・チャウム|en|David Chaum}}が[[電子貨幣]]を発案。のち1990年にデジキャッシュを設立。
* [[1985年]] - [[プラザ合意]]により、円高ドル安が進行。
* [[1992年]] - イギリスにおいて[[ポンド危機]]。
* [[19971994年]] - 東南アジア中国が二重相場制発端に[[アジア通貨危機]]廃止
* [[1994年]] - [[メキシコ#1994年メキシコ通貨危機|メキシコ通貨危機]]
* [[1997年]] - [[アジア通貨危機]]。
* [[1998年]] - [[欧州中央銀行]]設立。
* [[1999年]] - 共通通貨[[ユーロ]]を11カ国で導入。
* [[1990年代]] - パプアニューギニアの[[東ニューブリテン州]]で、貝貨による人頭税の納税許可が進む。
* [[2002年]] - 欧州中央銀行が[[ユーロ紙幣]]、[[ユーロ硬貨]]を発行。
* [[2005年]] - 中国[[人民元改革]]で[[管理変動相場制]]に移行。
* [[2007年]] - [[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]。
* [[2009年]] - [[ビットコイン]]の運用開始。
* [[2010年]] - [[2010年欧州ソブリン危機]]、通称ユーロ危機。
* [[2013年]] - [[キプロス・ショック]]。
* [[2014年]] - [[アジアインフラ投資銀行]]設立。
 
== 出典・脚注 ==
{{reflist|3脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|3|}}
 
== 参考文献 ==
=== 単行本 ===
* [[浅羽良昌]] 『[http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/10179/1/2009203737.pdf アメリカ植民地貨幣史論]』 大阪府立大学経済学部、1991年。
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| title = お札の文化史
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* {{Citation| 和書
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| title = イスラム経済論
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| publisher = 東洋経済新報社
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* {{Citation| 和書
| first = 明伸
| last = 黒田
| author-link = 黒田明伸
| chapter = 16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通
| title = 越境する貨幣
| series =
| publisher = 青木書店
| editor1 = [[歴史学研究会]]
| pages =
| periodical =
| year = 1999
}}
* {{Citation| 和書
| first = 明伸
| last = 黒田
| author-link =
| title = 貨幣システムの世界史 - 〈非対称性〉をよむ(増補新版)
| publisher = 岩波書店
| series =
| year = 2014
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 龍人
| last = 小泉
| author-link = 小泉龍人
| title = 都市の起源 - 古代の先進地域=西アジアを掘る
| publisher = 講談社
| series = 講談社選書メチエ
| year = 2016
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}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[ソフィー・D・コウ]]
| author2 = [[マイケル・D・コウ]]
| title = チョコレートの歴史
| publisher = 河出書房新社
| series = 河出文庫
| year = 2017
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| translator = [[樋口幸子]]
| ref = {{sfnref|コウ|2017}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Coe
| first = Sophie
| authorlink =
| year = 1996
| title = The True History of Chocolate
| publisher = Thames and Hudson
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}})
* {{Citation| 和書
| author1 =
| ref = {{sfnref|小谷編|2007}}
| chapter =
| title = 南アジア史〈2〉中世・ 近世
| series = 世界歴史大系
| publisher = 山川出版社
| editor = [[小谷汪之]]
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| periodical =
| year = 2007
}}
* {{Citation| 和書
| first = 登志子
| last = 小林
| author-link = 小林登志子
| title = 五〇〇〇年前の日常 - シュメル人たちの物語
| publisher = 新潮社
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| year = 2007
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[小林正宏]]
| author2 = [[中林伸一]]
| ref = {{sfnref|小林, 中林|2010}}
| title = 通貨で読み解く世界経済 - ドル、ユーロ、人民元、そして円
| series = 中公新書
| publisher = 中央公論新社
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| periodical =
| year = 2010
}}
* {{Citation| 和書
| author = ベンジャミン・コーヘン
| authorlink = ベンジャミン・コーヘン
| year = 2000
| title = 通貨の地理学 - 通貨のグローバリゼーションが生む国際関係
| publisher = シュプリンガー・フェアラーク東京
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| translator = [[宮崎真紀]]
| ref = {{sfnref|コーヘン|2000}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Cohen
| first = Benjamin
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| year = 1998
| title = The Geography of Money
| publisher = Cornell University Press
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}})
* {{Citation| 和書
| author = [[坂井信三]]
| ref = {{sfnref|坂井|1999}}
| chapter = 西アフリカの王権と市場
| title = 市場の地域史
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| publisher = 山川出版社
| editor1 = [[佐藤次高]]
| editor2 = [[岸本美緒]]
| pages =
| periodical =
| year = 1999
}}
* {{Citation| 和書
| first = 晋一
| last = 櫻木
| author-link = 櫻木晋一
| title = 貨幣考古学の世界
| publisher = ニューサイエンス社
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| year = 2016
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 史郎
| last = 佐々木
| author-link = 佐々木史郎
| title = 北方から来た交易民 - 絹と毛皮とサンタン人
| publisher = 日本放送出版協会
| series = NHKブックス
| year = 1996
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 圭四郎
| last = 佐藤
| author-link = 佐藤圭四郎
| title = イスラーム商業史の研究
| publisher = 同朋社
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| year = 1981
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* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| publisher = 岩波書店
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| ref = {{sfnref|鈴木編|2007}}
| title = 貨幣の地域史 - 中世から近世へ
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| year = 2007
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* {{Citation| 和書
| first = 喜生
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| author-link = 多田井喜生
| title = 大陸に渡った円の興亡(上下)
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| year = 1997
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* {{Citation| 和書
| first = 季弘
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* {{Citation| 和書
| author = テレンス・N・ダルトロイ
| author-link = テレンス・N・ダルトロイ
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| chapter = インカ帝国の経済的基盤
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| editor1 = [[島田泉 (考古学者)|島田泉]]
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| periodical =
| year = 2012
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* {{Citation| 和書
| first = 英則
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| author-link = 角谷英則
| title = ヴァイキング時代
| publisher = 京都大学学術出版会
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* {{Citation| 和書
| first = 治之
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| author-link = 東野治之
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* {{Citation| 和書
| first = 俊基
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| author-link = 富田俊基
| title = 国債の歴史 - 金利に凝縮された過去と未来
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| year = 2006
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* {{Citation| 和書
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| author-link = 冨田昌弘
| title = 紙幣の博物誌
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* {{Citation| 和書
| first = 慎介
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| author-link = 長岡慎介
| title = 現代イスラーム金融論
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| year = 2011
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* {{Citation| 和書
| first = 昭
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| author-link = 永積昭
| title = オランダ東インド会社
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| year = 2000
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* {{Citation| 和書
| author1 = {{仮リンク|アーヴィンド・ナラヤナン|en|Arvind Narayanan}}
| author2 = [[ジョセフ・ボノー]]
| author3 = [[エドワード・W・フェルテン]]
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| translator = [[長尾高弘]]
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| last = Narayanan
| first = Arvind
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| year = 2016
| title = Bitcoin and Cryptocurrency Technologies: A Comprehensive Introduction
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* {{Citation| 和書
| author = [[納家政嗣]]
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| chapter = 冷戦とブレトンウッズ体制
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[長谷部史彦]]
| ref = {{sfnref|長谷部|1999}}
| chapter = カイロの穀物価格変動とマムルーク朝政府の対応
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* {{Citation| 和書
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| chapter = 都市を支えたワクフ制度
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* {{Citation| 和書
| first = 佳世子
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| title = オスマン帝国 - 500年の平和
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* {{Citation| 和書
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| last = Piketty
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* {{Citation| 和書
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* {{Citation| 和書
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| title = {{仮リンク|フェルメールの帽子 - 作品から読み解くグローバル化の夜明け|en|Vermeer's Hat}}
| publisher = 岩波書店
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}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Brook
| first = Timothy
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| year = 2008
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| publisher = Profile
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* {{Citation| 和書
| author = フェルナン・ブローデル
| authorlink = フェルナン・ブローデル
| title = 物質文明・経済・資本主義 2. 15-18世紀 - 交換のはたらき
| publisher = みすず書房
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| last = Braudel
| first = Fernand
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| year = 1979
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| publisher =
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* {{Citation| 和書
| author1 = ケネス・ポメランツ
| authorlink1 = ケネス・ポメランツ
| author2 = スティーヴン・トピック
| authorlink2 = スティーヴン・トピック
| title = グローバル経済の誕生 - 貿易が作り変えたこの世界
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| year = 2013
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| last = Pomeranz
| first = Kenneth L.
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| year = 2009
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| publisher =
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* {{Citation| 和書
| author = カール・ポランニー
| authorlink = カール・ポランニー
| title = 経済の文明史
| publisher = 筑摩書房
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| year = 2003
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| translator = [[玉野井芳郎]]、[[平野健一郎]]、[[石井溥]]、[[木畑洋一]]、[[長尾史郎]]、[[吉沢英成]]
| ref = {{sfnref|ポランニー|2003}}
}}
* {{Citation| 和書
| author = カール・ポランニー
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| title = 経済と文明 - ダホメの経済人類学的分析
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま学芸文庫
| translator = 栗本慎一郎、[[端信行]]
| year = 2004
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}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Polányi
| first = károly
| authorlink =
| year = 1966
| title = Dahomey and the Slave Trade
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* {{Citation| 和書
| author = カール・ポランニー
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| title = [[人間の経済]]
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波モダンクラシックス
| translator = 玉野井芳郎、栗本慎一郎、[[中野忠]]
| year = 2005
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}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Polányi
| first = károly
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| year = 1977
| title = The Livelihood of Man
| publisher = Academic Press
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[本多博之]]
| author2 = [[早島大祐]]
| ref = {{sfnref|本多, 早島|2017}}
| chapter = 鋳造の自由と金融の自由
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| editor1 = 深尾京司
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| year = 2017
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 伸行
| last = 前沢
| author-link = 前沢伸行
| title = ポリス社会に生きる
| publisher = 山川出版社
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}}
* {{Citation| 和書
| author = ウィリアム・ハーディー・マクニール
| authorlink = ウィリアム・ハーディー・マクニール
| title = ヴェネツィア - 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| translator = [[清水廣一郎]]
| year = 2013
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}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = McNeill
| first = William Hardy
| authorlink =
| year = 1974
| title = Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797
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| isbn =
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* {{Citation| 和書
| first = 節子
| last = 的場
| author-link = 的場節子
| title = ジパングと日本 - 日欧の遭遇
| publisher = 吉川弘文館
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| year = 2007
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* {{Citation| 和書
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| ref = {{sfnref|宮本, 松田編|2018}}
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| title = 改訂新版 新書アフリカ史
| series = 講談社現代新書
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| editor2 = [[松田素二]]
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| year = 2018
}}
* {{Citation| 和書
| first = 幹郎
| last = 森
| author-link = 森幹郎
| title = 証言・ハンセン病
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| year = 2001
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* {{Citation| 和書
| author = ダニエル・ヤーギン
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| year = 1991
| title = {{仮リンク|石油の世紀 - 支配者たちの興亡(上下)|en|The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power}}
| publisher = 日本放送出版協会
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| translator = 日高義樹、持田直武
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}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Yergin
| first = Daniel
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| year = 1990
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* {{Citation| 和書
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| author-link = 家島彦一
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| publisher = 名古屋大学出版会
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* {{Citation| 和書
| first = 良一
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| author-link = 安国良一
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| year = 2016
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* {{Citation| 和書
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| title = 南アジア史〈1〉先史・ 古代
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| editor2 = [[小西正捷]]
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| periodical =
| year = 2007
}}
* {{Citation| 和書
| first = 篤美
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| author-link = 山田篤美
| title = 黄金郷(エルドラド)伝説 - スペインとイギリスの探険帝国主義
| publisher = 中央公論新社
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* {{Citation| 和書
| first = 勝芳
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| title = 貨幣の中国古代史
| publisher = 朝日新聞社
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* {{Citation| 和書
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| chapter = カロリング朝フランク帝国の市場と流通
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[山本泰 (社会学者)|山本泰]]
| author2 = [[山本真鳥]]
| ref = {{sfnref|山本|1996}}
| title = 儀礼としての経済
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* {{Citation| 和書
| first = 赳男
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| author-link = 湯浅赳男
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[四日市康博]]
| ref = {{sfnref|四日市|2008}}
| chapter = 銀と銅銭のアジア海道
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| publisher = 九州大学出版会
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}}
* {{Citation| 和書
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| author2 =
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| title = 西洋中世史料集
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* {{Citation| 和書
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| chapter =
| title = ネットワークのなかの地中海
| series =
| publisher = 青木書店
| editor1 = [[歴史学研究会]]
| pages =
| periodical =
| year = 1999
}}
* Jerry Leach and Edmund Leach "The Kula: New Perspectives on Massim Exchange." Cambridge University Press, New York. 1983.
* Roger R. Mcfadden, John Grost, Dennis F. Marr: "The numismatic aspects of leprosy, Money, Medals and Miscellanea", D. C. McDonald Associates, Inc. 1993.
 
=== 論文、記事 ===
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* {{Cite web|author=[[浅羽良昌]]|year=1991|url=http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/10179/1/2009203737.pdf|title=アメリカ植民地貨幣史論|format=PDF|work=|publisher=大阪府立大学経済学部|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|浅羽|1991}}}}
* {{Cite web|author=[[大久保隆]], [[鹿野嘉昭]]|year=2006|url=http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/1996/kk15-1-6.pdf|title=貨幣学 〈Numismatics)の歴史と今後の発展可能性について|format=PDF|work=|publisher=日本銀行金融研究所「金融研究」第15巻第ー号|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|大久保, 鹿野|1996}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[奥山忠信]]|year=2012|url= https://saigaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=433&item_no=1&attribute_id=73&file_no=1&page_id=13&block_id=21|format=PDF|title=貨幣数量説における交換方程式の考察|journal=埼玉学園大学紀要(経営学部篇)|number=12|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|奥山|2012}}}}
* {{Cite web|author=[[小栗誠治]]|year=2006|url=http://hdl.handle.net/10441/253|title=セントラル・バンキングとシーニョレッジ|format=PDF|work=|publisher=滋賀大学経済学部研究年報|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|小栗|2006}}}}
* {{Cite web|author=[[ジョン・メイナード・ケインズ]], 山形浩生訳|year=2015|url=https://genpaku.org/keynes/peace/keynespeacej.pdf|title=平和の経済的帰結|format=PDF|work=|publisher=|accessdate=2019-05-26|ref={{sfnref|ケインズ|2015}}}}
* {{Cite web|author=[[小島健]]|year=2017|url=http://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/10889/1/keizai293-06.pdf|title=欧州通貨統合の歴史|format=PDF|work=|publisher=東京経済大学会誌 第293号|accessdate=2019-05-26|ref={{sfnref|小島|2017}}}}
* {{Cite web|author=[[齊藤寛海]]|year=2011|url=http://pacioli.world.coocan.jp/AAAJ/AAA_No.24_2011_12.pdf|title=ペゴロッティの商業実務とバドエルの元帳|format=PDF|work=|publisher=日本パチョーリ協会第23回フォーラム|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|齊藤|2011}}}}
* {{Cite web|author=[[齋藤光正]]|year=2004|url=http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/547/1/v38n3p41_saito.pdf|title=欧州初期商業学の形成|format=PDF|work=|publisher=長崎県立大学学術研究会|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|齋藤|2004}}}}
* {{Cite web|author=[[東洋文庫|東洋文庫研究部]]|year=2016|url=http://tbias.jp/ottomansources/tahrir_defteri|title=オスマン帝国史料解題 租税台帳 tahrir defteri|format=PDF|work=|publisher=公益財団法人東洋文庫研究部|accessdate=2019-05-18|ref={{sfnref|東洋文庫研究部|2016}}}}
* {{Cite web|author=[[名城邦夫]]|year=2008|url=http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_vol4501_02.pdf|title=中世後期・近世初期西ヨーロッパ・ドイツにおける支払決済システムの成立 - アムステルダム市立為替銀行の意義|format=PDF|work=|publisher=名古屋学院大学論集社会科学篇 第45巻 第1号|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|名城|2008}}}}
* {{Cite web|author=[[名城邦夫]]|year=2014|url=http://www2.ngu.ac.jp/uri/jinbun/pdf/jinbun_vol5002_06.pdf|title=市場の貨幣史 - 資本主義世界経済成立過程における貨幣システムの革新|format=PDF|work=|publisher=名古屋学院大学論集人文・自然科学篇 第50巻 第2号|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|名城|2014}}}}
* {{Cite web|author=[[西村道也]]|year=2019|url= https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=24086&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=34&block_id=86|title=ビザンツ貨をめぐる模造と模倣 : 帝国の貨幣史をてがかりに|format=PDF|work=|publisher=ヨーロッパ文化史研究20号|accessdate=2019-05-25|ref={{sfnref|西村|2019}}}}
* {{Cite web|author=[[深田淳太郎]]|year=2006|url=http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15636/1/kunitachi0000100010.pdf|title=パプアニューギニア、トーライ社会における貝貨タブをめぐる現在の状況|format=PDF|work=|publisher=くにたち人類学研究vol.1|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|深田|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[古川顕]] |chapter=H.D.マクラウドと信用創造論の系譜|title=甲南経済学論集 |publisher=甲南大学]]|date=2014-01-20 |url= https://konan-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1488&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1|accessdate=2018-03-08|ref={{Sfnref|古川|2014}} }}
* {{Cite web|author=[[山瀬善一]]|year=1972|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00171519.pdf|title=中世末期におけるフランスの貨幣変更(mutatio monetae) の意義|format=PDF|work=|publisher=国民経済雑誌, 125(5): 1-20|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|山瀬|1972}}}}
* {{Cite web|author=Z/Yen|year=2019|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/|title=The Global Financial Centres Index|format=PDF|work=|publisher=|accessdate=2019-03-17|ref={{sfnref|Z/Yen|2019}}}}
 
== 関連項目 ==
{{see also|Category:金融史|Category:鉱業史|Category:税制史}}
{{Colbegin}}
* [[経済史]] - [[商業史]] - [[貿易史]]
* [[経済史]] - [[商業史]] - [[貿易史]] - [[会計史]]
* [[経済人類学]]
* [[日本の貨幣史]] - [[中国の貨幣制度史]]
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* [[通貨同盟]] - [[経済通貨同盟]] - [[最適通貨圏]]
* [[通貨の一覧]] - [[現行通貨の一覧]]
{{Colend}}
 
== 外部リンク==
*[http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/ 日本銀行金融研究所貨幣博物館]
* 大久保隆・鹿野嘉昭「[http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/1996/kk15-1-6.pdf 貨幣学 〈Numismatics)の歴史と今後の発展可能性について]」日本銀行金融研究所「金融研究」第15巻第ー号、1996年。
* 山瀬善一「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00171519.pdf 中世末期におけるフランスの貨幣変更(mutatio monetae) の意義]」国民経済雑誌, 125(5): 1-20、1972年。
 
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