「アレイスター・クロウリー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
漢字遣いをWikipedia:表記ガイドに準拠。固有名詞の修正、ほか。
(同じ利用者による、間の12版が非表示)
32行目:
| footnotes = <!--脚注・小話-->
}}
'''アレイスター・クロウリー<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]</ref>'''(''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[英国|イギリス]]の[[隠秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術家|en|Ceremonial magic}}、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学の[[セレマ|セレマ思想]]を提唱して「[[法の書]]」を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。
 
== 経歴 ==
'''1875年~1904年(少年~青年期)'''
 
'''1875年~1904=== 1875~1904年(少年~青年期)''' ===
クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。[[福音派|キリスト教福音派]]の敬虔な信徒であった両親の方針で[[ミッションスクール|ミッション系スクール]]で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。父親から莫大な遺産を相続し、[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入した彼はそこで数々の秘儀知識を習得したが、1900年には脱退して[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲し自身の魔術実践スタイルに磨きをかけた。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、インドでは[[ヨーガ]]を学び、またヒマラヤとメキシコの登山にも挑戦した。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在から「[[法の書]]」を授けられ、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点となった。
クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。[[福音派|キリスト教福音派]]の敬虔な信徒であった両親の方針で[[ミッションスクール|ミッション系スクール]]で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に尊敬する父親と死別した事も彼を深く打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。
 
クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。[[福音派|キリスト教福音派]]の敬虔な信徒であった両親の方針で[[ミッションスクール|ミッション系スクール]]で教育を受けた、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。父親から莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入した彼はそこで数々の秘儀知識を習得したが、1900年には脱退して起きた内紛で師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と共に追放されると、[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲し自身の魔術実践スタイルに磨きをかけた。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、インドでは[[ヨーガ]]を学び、またヒマラヤとメキシコの登山にも挑戦した。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在からの幻聴を「[[法の書]]」を授けられとして書き留め、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点となった。
'''1905年~1923年(壮年期)'''
 
'''1905年~1923=== 1905~1923年(壮年期)''' ===
イギリスに帰国したクロウリーは数多くの著作と詩集を発表して注目を集め始めた。1907年には魔術結社「[[銀の星]]」を結成し、自身を19世紀の魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称して、[[セレマ|セレマ思想]]の伝道に努めた。1912年になるとドイツの秘教団体「[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]」のイギリス支部を開設した。後に同団の指導者テオドール・ロイスが死去するとクロウリーが後継者に指名された(同団はセレマ思想を核とする団体として存続している)。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。同時に彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫靡に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。1920年にクロウリーは念願のセレマ修道院を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を送った。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。
[[ファイル:Crowley Family.png|サムネイル|282x282px|妻ローズと息女ローラ|代替文=]]
ハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争から師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。その中で長女リリスが誕生し喜びに包まれた。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、[[ヒマラヤ山脈]]で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。その為、クロウリーは愛娘を失った悲嘆の矛先をローズに向けてしまい二人の仲も急速に冷え込む事になった。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
 
イギリス1907年帰国次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは数多くの著作と詩集を発表して注目を集め始めた。1907年には魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を19世紀の魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称して[[セレマ|セレマ思想]]の伝道に努め取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。1912年になるとドイツの秘教オカルト団体「[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]」のイギリス支部を開設した。後に同団の指導者{{仮リンク|テオドール・ロイスが死去するとクロウリーが後継者|en|Theodor Reuss}}指名さ見込また(同団はセレマ思想のイギリス支部核とする開設し、後に団体として存続している)全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。同時それ伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。1920年にクロウリーは念願の{{仮リンク|セレマ修道院|en|Abbey of Thelema}}を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を送った。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。
'''1924年~1947年(中高年~老年期)'''
 
'''1924年~1947=== 1924~1947年(中高年~老年期)''' ===
以後20年間のクロウリーは、イギリス、フランス、ドイツを渡り歩いて執筆と講演を含めた[[セレマ神秘主義|セレマ思想]]の伝道に取り組み続けた。[[銀の星]]と[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の指導も続けた。彼はほとんど無収入だったので、それらの活動の中で両親の遺産が尽きた後は、各地の弟子達に生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。晩年のクロウリーはその波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に、英国[[バッキンガムシャー]]州の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。享年72歳であった。
イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。前年に死去した[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、1924年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂団の同志に招かれての活動を続けた。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の運営に力を注ぐようになった。[[セレマ神秘主義|セレマ思想]]の伝道にも取り組み続けた。なお、これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産はどんどん目減りしていった。
 
以後201939[[第二次世界大戦]]勃発直前にクロウリーは母国イギリス、フランス、ドイツを渡り歩いて執筆と講演を含めた[[セレマ神秘主義|セレマ思想]]の伝道取り組み続け帰還した。[[銀星]]と[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]指導も続けすでに還暦を過ぎ。彼クロウリーはほとんど無収入だ一文になていたので、それらの活動の中で両親の遺産が尽きた後は、各地の弟子達に生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。晩年のクロウリーはその波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に、英国[[バッキンガムシャストサセックス]]州の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。享年72歳であった。
'''没後の世評'''
 
'''=== 没後の世評''' ===
生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[異端|現代異端思想]]と[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産であるセレマ思想も存在感を放ち続けている。数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]も彼に興味を示しており『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにクロウリーの肖像が見られる。
[[ファイル:Aleister Crowley abode of Chaos.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|混沌の邸宅]]
生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[異端|現代異端思想]]と[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産「汝の意思することを行なえ」をモットーとする[[セレマ|セレマ思想]]は、その後の[[ウイッカ|ウィッカ]]、[[ネオペイガニズム]]、[[ケイオスマジック]]、そして[[サタニズム]]の根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。
 
生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[異端|現代異端思想]]と[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産であるセレマ思想も存在感を放ち続けている。数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]も彼に興味を示しており『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにクロウリーの肖像が見られる。
 
== 年譜 ==
* [[1875年]][[10月12日]] - 英国[[ウォリックシャー]]州[[レミントン・スパー|レミントンスパー]]の地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(''Edward Alexander'')と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派[[プリマス・ブレザレン]]の信徒であった。
* 18851883年 - [[ブラザレン派]]の寄宿学校に入れられるが、1年余りで退学した。以の彼は厳格なキリスト教教育に反発するようになる。
* 1887年 - 父エドワード死去。父が築を深く尊敬してたクロウリーはひどく打ちのめされ、非行にも手を染め始めたという。父が残した莫大な遺産を相続し、以後遺産後々ますること動資金になった。
* 1892189x年 - 二つの[[パブリックスクール]]に入学するも退学した後に、イーストボーン・カレッジで化学を専攻した
* 18981895年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った魔術結社「[[黄金の夜明け団トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]」の団員触発され、自身も参してその教義をする
* 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った魔術結社・[[黄金の夜明け団]]のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。
* 1900年 - 黄金の夜明け団から師[[マグレガー・メイザース|M・メイザース]]とともに追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、[[セイロン島]]を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。
*1902年 - インドから[[ヒマラヤ山脈]]に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に再び出航してパリに到着する。
* 1904年 - 妻ローズと結婚し、ハネムーン中に訪れたエジプトの[[カイロ]]で[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作「[[法の書]]」の内容となった。
* 1905年 - 師メイザースと仲違いする。再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後にミャンマー、広東省、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。
* 1905年 - 師[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と仲違いする。長女リリスが誕生する。
*1907年 - イギリスに帰還後、魔術結社「[[銀の星]](A∴A∴)」を創設。「春秋分点(''The Equinox'')」と題した団体機関誌で数多くの詩と魔術文書を発表する。
* 19051906年 - 師メイザースと仲違いする。再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後にミャン、[[ビル]]広東省中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む
*1909年 - アルジェリアに滞在し、数々の魔術儀式を行なう。
*1907年 - イギリスに帰還後、次女ローラが誕生する。魔術結社[[銀の星]](A∴A∴)創設。「結成し、春秋分点(''The Equinox'')と題した団体機関誌での詩と魔術を発表する。
* 1912年 - ドイツの秘教団体「[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]](O.T.O.)」に加入する。パリを中心にして活動する。
*1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し数々の魔術儀式を行なう。
*1914年 - アメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
* 1912年 - ドイツの秘教団体[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]](O.T.O.)の指導者テオドール・ロイス加入す見込まれてイギリス支部長となる。パリを中心にして活動す団内儀式と教義作成もまかされようになった
*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]にて{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され、1923年に国外退去を命じられた。
*1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
* 1947年12月1日 - 英国[[バッキンガムシャー]]州アストン・クリントン村で死去。享年72歳。
*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。
*1923年 - O.T.O.の指導者ロイスが死去しその後継者に指名されて団体を受け継ぐ。以降のクロウリーはこの東方聖堂団(O.T.O.)の運営と発展に力を注いだ。
*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。
*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー|I・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。
*1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。
*1939年 - 第二次世界大戦勃発前にイギリスに帰還する。
* 1947年12月1日 - 英国[[バッキンガムシャストサセックス]]州[[ヘイティ・クリントン村グス]]の地で死去。享年72歳。
 
== 魔法名 ==