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'''黄金の夜明け団'''(おうごんのよあけだん、''{{lang|en|The Hermetic Order of the Golden Dawn}}'')は、[[19世紀]]末の[[イギリス]]で創設された[[神秘学近代魔術|隠秘学西洋魔術]]結社である。'''黄金の暁会'''とも訳され、'''GD'''と略名される。現代西洋[[近代魔術|西洋魔術]]の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋[[オカルト神秘学|隠秘学]]組織である。
 
創設者の{{仮リンク|W・R・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}、{{仮リンク|ウィリアム・W・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}、[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マザーズ]]の三人は[[フリーメイソン]]であったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差による区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上三層構造とされ、第一層の「黄金の夜明け団」は一般団員用で基礎教義を学び、第二層の「ルビーの薔薇と黄金の十字架団」は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三層は[[秘密の首領]]が在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として'''黄金の夜明け団'''と呼ばれる。
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[[ファイル:Golden Dawns charter.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|設立許可証]]
{{See also|暗号文書 (黄金の夜明け団)}}
黄金の夜明け団の誕生は、英国[[フリーメイソン]]の[[サロン|オカルト系サロン]]{{efn2|フリーメイソンの組織ではないが{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、それに付属する[[秘教]]研究会のような存在であった(魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。}}である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に知人からより60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けたことから始まる。
 
以下はウェストコットの供述となるが、この一連の文書16世紀の書物『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』記載の[[換字式暗号|暗号法]]で書かれている事に気付いた{{sfn|吉村|2013|p=64}}。彼は早速解読に取り掛かった{{sfn|キング|1994|p=49}}という。1887年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。アンナと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、アンナ嬢との手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女からドイツ[[薔薇十字団]]が公認する魔術結社設立の許可を受け取った。その教義内容は暗号写本に文書の記載されている内容に則ったものとなっ定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マザーズ]]と年長の{{仮リンク|W・R・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}を共同創立者にして、1888年3月1日に[[神殿|神殿(テンプル)]]と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。
 
これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、マザーズは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものだった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領となった。英国薔薇十字協会は[[キリスト教神秘主義]]のさらに深遠を扱う{{仮リンク|キリスト教秘儀派|en|Esoteric Christianity}}のサロンであり{{要出典|date=2019-05-25}}、在籍者は[[フリーメイソン]]に限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。
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ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。イシス・ウラニア神殿は主宰者フロレンス・ファーの多数派と、{{仮リンク|E・W・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->を中心とするマザーズ支持派に分裂した。この内紛を傍観する立場であったホルス神殿とオシリス神殿はそのままマザーズの下に残った。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファー派に合流した。こうして1900年6月の時点で黄金の夜明け団は、マザーズ派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では新たな内輪揉めが発生したので、収束のために[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が新しく代表に就任したが、数々の衝突に嫌気が差したイェイツは1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にマザーズが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。直後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|R・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。1903年になると従来の教義に否定的だった[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]の派閥が「暁の星」から離脱して{{sfn|キング|1994|pp=114, 135}}、黄金の夜明けの「独立修正儀礼」と称する新団体設立組織した{{sfn|吉村|2013|p=112}}。儀式魔術に反発しつつ在籍を続けたウェイトは、自分の団体作りのためにイシス・ウラニア神殿を利用していたことになるが、いわく付きとなった黄金の夜明け名義を採用しているので一定の思い入れはあったようである。ウェイトの独立劇で「暁の星」は多くの団員を失った。一方、1906年にマザーズを支持したほうの黄金の夜明け団は団名の幕引き決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に改称することになる{{sfn|キング|1994|p=134}}組織再編した同じ頃、ブロディ=イネスはフェルキンの方針に不満を覚えて[[エディンバラ]]へ帰還し、1907年に自身主宰のアメン・ラー神殿とともに「暁の星」を離れて、マザーズと和解した後に「A∴O∴」へ合流した。さらに団員を失った「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、マザーズとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。
 
最終的に、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「G∴D∴独立修正儀礼」といった三つの団体に分裂して、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。
 
==教義概要==
黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学である[[カバラ]]を中心にして、[[神智学]]の流れを汲む東洋神秘思想、[[エジプト神話|エジプト神話学]]、[[グリモワール]]、[[四元素|古典元素]]、[[タロット]]、[[星占い|占星術]]、[[ジオマンシー]]、[[錬金術]]、[[エノク語]]、ルネサンス期系譜魔術{{要説明|date=2019-05-25}}、[[タットワ]]を含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。ただし、彼ら英国人にとって親しみ易いはずの[[キリスト教神秘主義]]はある程度意図的に避けられていたようで、これは同時に一つの方向性を示している。カバラに内包される[[生命の樹]]が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。
 
上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、教義の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。