「アドルフ・ヒトラー」の版間の差分

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何度も書き直せなばならない、どうせ中途半端な正義感を持った奴が書き換えたのであろう。
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'''アドルフ・ヒトラー'''({{lang-de|Adolf Hitler}}, [[1889年]][[4月20日]] - [[1945年]][[4月30日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]<ref>[[村瀬興雄|興雄, 村瀬]]. [https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC-120389#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2019年1月9日閲覧。</ref>。[[ドイツ国首相]]、および国家元首であり、国家と一体であるとされた[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)の指導者。
 
1933年に首相に指名され、1年程度で[[指導者原理]]に基づく党と指導者による一極集中[[独裁]]指導体制を築いたため、[[独裁者]]の典型とされる<ref>例としては、『[[広辞苑]]』第三版、[[大辞林]]第二版では「ナチズム」を[[共和政ローマ|古代ローマ]]の[[コンスル]]による執政、ファシズムと並ぶ独裁政治の典型としている。また、[[平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第二版の「独裁」([[加藤哲郎 (政治学者)|加藤哲郎]]執筆)の項には『歴史上の独裁は、個人の名前と結びつけられることが多く、古代ローマの[[カエサル]]、[[秦]]の[[始皇帝]]、イギリス[[清教徒革命]]期([[イングランド共和国]]時代)の[[オリバー・クロムウェル]]、フランスの[[ナポレオン・ボナパルト]]、ナチスドイツのヒトラー、ソ連の[[ヨシフ・スターリン]]などがその例である。』と代表的な独裁者としてヒトラーの名を挙げている。</ref>。その冒険的な外交政策とまた[[人種主義]]に基づく政策は全世界を[[第二次世界大戦]]へと導き、[[ユダヤ人]]などに対する組織的な虐殺「[[ホロコースト]]」を引き起主導したとで有名だが、ゲーリングがニュルンベルク裁判にて「総統は(ホロコーストの事を)認知ていないと弁論している。しかも主治医モレルなどの医学的根拠に欠落している治療を行っ為に薬物中毒に陥り、物事への関心が薄くなり、建築家シュペーアなどがサインをさせるなどの悪用もしていたと言うので、実際に認知していなかった可能性が非常に高い。<ref>{{仮リンク|エバーハルト・イェッケル|de|Eberhard Jäckel}}などが唱えるヒトラーがホロコーストの中心的推進者であったという考えは「意図説」と呼ばれ、[[マルティン・ブロシャート]]が提唱したナチス・ドイツの機構自体が即興的に行った政策の積み重ねが大量虐殺につながったという考えは「構造派・機能派」と呼ばれる。構造派の中にもその構造の中心にいたのはヒトラーであると解釈する研究者もいる。 {{Citation|和書|last=芝 |first=健介 |author-link=芝健介 |title=ホロコースト|date=2008 |publisher=中央公論新社|series= 中公新書 |isbn=9784121019431}}、243-248p</ref>敗戦を目の前にした1945年4月30日、自ら命を絶った([[アドルフ・ヒトラーの死]]を参照)。
 
== 概要 ==