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| date=1937年7月7日から1945年9月9日
| place=[[中華民国]]([[内蒙古]]・[[華北]]・[[華中]]・[[華南]])、[[イギリス統治下のビルマ|イギリス領ビルマ]]
| result=
| combatant1={{Flag|大日本帝国}}<br />{{MCK}}(1932-)<br />{{MJG}}(1939-)<br />{{CHN1940}}[[汪兆銘政権]](1940-)
| combatant2={{ROC|中国}}<br />[[ファイル:National Flag of Chinese Soviet Republic.svg|border|25px]] [[中華ソビエト共和国|中国共産党]](1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)<br />{{USA1912}}(1941-)<br />{{GBR5}}(1941-)<br />{{SSR1923}}(1945-)
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== 呼称 ==
{{Main2|日本における呼称の変遷|支那事変}}
1937年7月11日に日本
[[戦争]]でなく[[事変]]と
== 時期区分 ==
日中戦争
中国共産党の公式
==前史 - 満州事変後==
{{Main|満州事変}}
=== 関東軍の華北分離工作 ===
1933年5月31日、日中間で[[塘沽協定]]が締結された事で、日本軍が[[満州]]全域で軍事行動を起こし[[満洲国]]を成立させた[[満洲事変]]は終結し、同時に中満の国境線となる[[万里の長城]]以南に一定の非武装地帯も設定された。[[中国国民党]]を指導する[[蒋介石]]は[[汪兆銘]]の意見を入れて、国内の共産勢力を殲滅した後に日本に対抗するという安内攘外方針を取り、満洲国を黙認した。日本の[[広田弘毅]]外相も中国に向けた和協外交を提唱して国民党の対日穏健政策への追い風とし、各地で沸き起こっていた排日運動も沈静化する運びとなった。関係改善が為される中で両国は互いに公使館を大使館に昇格させた<ref name="今井98-99">[[今井武夫]]「日華事変」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 15』1974年10月1日 初版発行、98~99頁。</ref><ref name="波多野115-116">波多野「日中戦争」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 14』1995年7月1日 第3版初版発行、115~116頁。</ref>。1934年10月、[[江西省 (中華民国)|江西省]]の根拠地を国民党軍に包囲されて進退窮まった[[中国工農紅軍|中国共産党軍]]は、[[長征]]と称する逃避行を開始して[[ソ連]]に隣接する[[陝西省]]を目指した。
1935年6月、[[関東軍]]は[[察哈爾省|チャハル省]]の[[宋哲元]]軍(第二十九軍)が日本人を拘禁した{{仮リンク|張北事件|zh|張北事件}}を糾弾して[[土肥原・秦徳純協定]]を締結し、第二十九軍の[[河北省 (中華民国)|河北省]]移転を了承させてチャハル省への影響力を強めた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。移転と共にチャハル省主席を解任された[[宋哲元]]は排日主義者であったが、[[蒋介石]]にも不満を覚えて微妙な立場を取り始めた。続けて関東軍は5月2日に親日紙の社長が殺害された天津日本租界事件を理由にして7月に[[梅津・何応欽協定]]を締結し、河北省主席[[于学忠]]の罷免と諜報機関[[藍衣社]]の退去を実現させた。それに代わる河北省権力の後釜には日本側との折り合いから第二十九軍の[[宋哲元]]が就けられる事になった。この頃の宋哲元は日本に妥協的となっており、また国民党政府の指導を拒む姿勢も見せていた。関東軍はこの[[宋哲元]]を首班とする独立政権を河北省に樹立させて中華民国から切り離すという[[華北分離工作]]を画策した。対日衝突の回避を望む[[蒋介石]]は邦交敦睦令を発し排日行為を改めて禁止した。こうした流れは再び中国民衆の反日感情を刺激する事になり、[[長征]]の途上にあった[[中国工農紅軍|共産勢力]]は抗日救国と反蒋抗日を呼びかける[[八・一宣言]]を出して日本とそれに迎合する蒋介石への敵愾心を煽った。
1935年11月25日、[[関東軍]]は[[万里の長城|長城]]南側の非武装地帯に[[殷汝耕]]を委員長とする[[冀東防共自治政府#冀東の防共自治へ|冀東防共自治委員会]]を設立した。同時に[[河北省 (中華民国)|河北省]]住民が抱える[[中国国民党|国民党]]への不満を理由にする形で[[宋哲元]]を首班とする自治政府樹立を後押しし[[河北省 (中華民国)|河北省]]一帯を一気に独立させる計画を立てた。それを察知した[[中国国民党]]は12月18日に[[冀察政務委員会]]を急遽設置して表向き日中間の中立政権とし、[[宋哲元]]を委員長に就けて国民党の影響力が残る形で河北省を統治させる対抗策を取った。なお「冀」は河北省を指す一語である。同時独立を諦めた関東軍は12月25日に[[冀東防共自治政府]]を成立させた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。これを事実上の侵略行為と見なした中国民衆の間では一斉に抗日意識が盛り上がり、北京の学生達による[[一二・九運動]]を皮切りにして内戦停止と一致抗日の救国世論が巻き起こった。
===共産勢力の活動===
<!--1935年11月9日の上海の[[中山水兵射殺事件]]、[[上海邦人商人射殺事件|萱生事件]]--->1935年10月、[[長征]]を続けていた[[毛沢東]]の[[中国工農紅軍|共産軍本隊]]が[[陝西省]]まで辿り着き、[[延安]]に新たな根拠地を築いた。一方、[[満州事変]]で国を追われた[[張学良]]も、逃れた河北の地で旧[[奉天軍閥|奉天軍]]を集結させて[[中国国民党]]の指揮下に入った後に、[[蒋介石]]から共産軍討伐を命じられて陝西省に移動していた。[[張学良]]は[[中国工農紅軍|共産軍]]の根拠地を再三攻撃したが思うような戦果を上げられず、蒋介石の叱咤を受けていた。翌1936年2月から抗日実践を標榜する共産軍部隊が[[山西省 (中華民国)|山西省]]にも侵入した。これは国民党軍に撃退されたが、共産軍および共産ゲリラの活発化を憂慮した[[広田内閣]]は4月18日から、北京と天津に邦人保護部隊を置く[[支那駐屯軍]]を増強した<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。
1936年4月9日、軍事作戦の不手際を叱責する[[蒋介石]]との不和と、父[[張作霖]]の[[張作霖爆殺事件|暗殺]]および先の[[満州事変]]で日本への遺恨を抱えていた[[張学良]]は、それに目を付けた[[コミンテルン]]の工作で共産側代表の[[周恩来]]と極秘に会談した。その中で[[張学良]]は共産党との抗日連帯案を受け入れ、[[周恩来]]は党方針を反蒋抗日から逼蒋抗日へ転換する事に同意した。[[周恩来]]の意見を受けた[[毛沢東]]は五・五通電を全党員に向けて発し、宿敵蒋介石との抗日連帯への理解を求めた。同年夏から蒋介石は[[陝西省]]に続々と軍勢を送り込んで共産軍を追い詰めていき、11月下旬には根拠地の[[延安]]が国民党の大軍によって包囲された。この包囲網には張学良軍も加わっていた。しかし、最後の殲滅戦に臨むべく前線の視察に訪れた蒋介石を、前述の[[張学良]]らが拉致監禁するという[[西安事件]]が12月12日に発生した。これは[[コミンテルン]]の指導で行なわれた謀略であった。監禁された蒋介石は共産軍との休戦と抗日統一戦線の結成案に同意させられ、1937年初頭に日本軍を共通の敵とする[[国共合作|第二次国共合作]]への目処が付けられた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。
=== 和平模索と関東軍の独走 ===
1936年、[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の成立劇で対日感情の悪化が進み、1月の広東省仙頭、6月の山東省防東、7月の[[萱生事件]]、8月の[[成都事件]]、9月3日の[[北海事件]]など中国各地で日本人の殺害事件が相次いだ。この事態を重く見た日本外務省は中国政府との妥協案を探り、9月8日から川越・張群会談が開始された。中国側は一貫して[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の解散を要求したため交渉は平行線を辿り、その後も9月19日に[[漢口邦人巡査射殺事件|漢口]]で、9月23日に[[上海日本人水兵狙撃事件|上海]]でも日本人が殺害された。11月上旬には関東軍が[[内蒙古|内蒙古軍]]を後押しして中国領を侵すという[[綏遠事件]]が発生したため12月3日に交渉は決裂した。[[支那駐屯軍]]関係者は[[河北省 (中華民国)|河北省]]の重鎮([[冀察政務委員会|冀察政務委員長]])[[宋哲元]]との交流を深めていたが、宋が指揮する第二十九軍内では共産党員の増加と相俟って反日感情が激化しており、北京天津方面の緊張も高まっていた。
1937年2月2日、[[広田内閣]]が総辞職し[[林内閣]]へ交替すると、[[佐藤尚武]]外相は中国への高圧的姿勢を止めて関係改善に努めるよう外交方針を変更し<ref name="臼井52-58">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、52~58頁。</ref>、同様に陸軍参謀[[石原莞爾]]も[[華北分離工作|華北分治]]を始めとする侵略的政策の放棄を訴えた<ref name="臼井52-58" />。4月16日に内閣で決定された第三次北支処理要綱でも中国国内を乱す政冶工作は行わないと定められた<ref name="臼井52-58" />。こうした政府内の動きにも関わらず、現地の関東軍の方は対中強硬政策と[[対支一撃論]]を変更しなかった<ref name="臼井52-58" />。1937年5月31日に林内閣は総辞職し6月に[[近衛文麿]]内閣が成立した<ref name="臼井52-58" />。5月3日に中華民国から借款供与要請を受けていたイギリスは日本政府にも共同参画を提案し<ref name="臼井60-64">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、60~64頁。</ref>、これを日中関係改善と対英協調に極めて有益と見た[[川越茂|川越駐華大使]]は7月5日に政府へ受諾を上申した<ref name="臼井60-64" />。7月7日の盧溝橋事件の発生が無ければこの共同借款供与は近衛内閣の承認下で実現したと見られている。<!--既存の文章を流用しましたが、もう少し書き換えたい。あと、第一次豊台事件、第二次豊台事件も必要--->
== 北支事変 ==
=== 盧溝橋事件 ===
{{Main|盧溝橋事件}}
1937年7月7日夜、[[支那駐屯軍]]の一部隊が北平(現在の北京)市街地から南西約10kmにある[[盧溝橋]]の東岸で夜間演習を行なっている際に二度の発砲を受けた。この部隊の上司である[[牟田口廉也|牟田口]]大佐が、盧溝橋の西岸にある[[宛平県|宛平県城]]の中国軍部隊に抗議を兼ねた交渉を試みたが、日付変更後の8日未明から明け方にかけて中国側からの発砲が繰り返されたので、ついには日中間の部隊戦闘へと発展した。この武力衝突は同日午後に収束へと向かい夕方には停戦が合意されて一旦沈静化したが、その後も出所不明の銃撃が散発した。[[支那駐屯軍]]は[[北京議定書]]の中で邦人居留民保護の為に北京駐留を認められた部隊であったが、盧溝橋で発砲された部隊が駐兵していた[[豊台]]区は議定書で決められた範囲外という事情もあった<ref name="英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査">{{アジア歴史資料センター|C01004192300|軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)}}</ref>。当時の北京には邦人17000名が在留していた<ref name="kawakami136to149" />。7月8日に蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書いて<ref name="usu65to72">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p65-72</ref>翌9日に四個師団と軍用機を河北省へ先行派遣し<ref name="kawakami136to149"/>、10日からは河北省に向けた総兵力20万人に及ぶ30個師団の動員令を出していた<ref name="kawakami136to149" />{{refnest|group="注釈"|当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了<ref name="asa717">『朝日新聞』1937年7月17日付夕刊 1面</ref>}}。
7月11日、[[支那駐屯軍]]と中国第二十九軍(河北省の常備軍)の間で停戦を合意する松井・[[秦徳純]]協定が結ばれ、中国側は発砲責任者の処分、盧溝橋からの部隊退去、排日団体を取り締まる内容を約束した<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。こうして事態収拾への目処が付けられた事から日本政府は中国派兵を見合わせたが、司令官を[[香月清司|香月]]中将に交代した支那駐屯軍の増強案の方は実施され、[[関東軍]]と[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]から複数個の師団が北京現地に編入された。[[近衛文麿|近衛内閣]]は北支派兵に関する政府声明の中で7日からの武力衝突を「[[北支事変]]」と名付けると、その原因は中国側の軍事威嚇にあると断定し、これに対抗する為の自衛権行使を北京増派の根拠とした<ref name="usu65to72"/>。同時に近衛内閣は紛争の現地解決と戦線の不拡大方針も閣議決定した<ref>昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」</ref>。中華民国側では同11日から廬山国防会議が開かれ共産党から[[周恩来]]が参席し、蒋介石との間で対日開戦に向けた調整を始めた<ref name="ookubo">大久保泰『中国共産党史』 {{Full citation needed|title=巻次およびページ番号不記載|date=2019年6月27日}}</ref>。
7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人が死亡する[[大紅門事件]]が発生した。続く14日にも日本人騎兵が殺害された<ref name="shunin">[https://www.dpj.or.jp/download/21606.pdf 日中戦争の展開塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで] [[岩谷將]][[防衛研究所]]主任研究官</ref>。13日と15日に[[毛沢東]]と[[朱徳]]が[[国共合作]]による即時開戦を国民党に訴えた。廬山の蒋介石は17日に最後の関頭演説を行い、中華民国は未だ脆弱で戦争を求めてはならないが止むをえない場合は徹底抗戦すると表明した<ref name="usu65to72"/>。7月19日、第29軍軍長の[[宋哲元]]上将は[[張自忠]]中将を代表にして日本側と和平交渉し、松井・秦徳純協定の履行を改めて約束したが、盧溝橋事件は現地レベルで解決されるものではないと通告した<ref name="kawakami136to149"/>。その頃、10日に動員された中国軍30個師団が河北省南部の[[保定市|保定]]と[[石家荘市|石家荘]]に着陣していた。7月20日、盧溝橋にいた日本部隊が再び攻撃され互いに砲弾を交わした<ref name="kawakami136to149"/>。7月21日、南京国防会議で蒋介石は対日開戦方針を採択したが<ref name="kawakami136to149"/>国民党内には慎重な声も多く、渦中の北京では22日にも排日出版物及び団体の取り締りが行なわれていた<ref name="usu65to72" />。23日に共産党が再び即時開戦を迫り、国民党軍事委員会は河北省の全部隊に対日戦争突入態勢を指示した<ref name="kawakami136to149"/>。
7月24日、北京から天津へつながる日本軍の通信電線が切断され<ref name="kawakami136to149"/>、翌25日にその電線を修理して郎坊駅で休憩していた日本兵たちを、第二十九軍の部隊が襲撃するという[[郎坊事件]]が発生した<ref name="kawakami136to149" />。また[[豊台]]区の日本兵たちも第二十九軍の一隊に包囲されていた。北京の日本部隊は修理した電線で直ちに天津の支那駐屯軍本部に現状を報告した。相次ぐ襲撃事件と中国軍の[[河北省 (中華民国)|河北省]]集結に危機感を募らせた支那駐屯軍司令官香月中将は、第二十九軍軍長の宋哲元上将に対して北京市内から全中国兵を退去させる事で誠意を見せて欲しい、さもないと武力行使も辞さないと伝える最後通知を行ったが、宋哲元上将は回答を示さなかった<ref name="kawakami136to149" />。翌26日に北京在留邦人保護の為に天津から駆けつけて来た日本部隊が、北京市内に入る広安門で攻撃されて19名が死傷するという[[広安門事件]]が発生した<ref name="usu65to72" />。ここにきて香月中将は東京の陸軍参謀総長の認可を受けた上で交戦の意思を固めた。
=== 北京・天津攻略 ===
1937年7月27日、北平(現在の北京)市内で戦闘が始まり、支那駐屯軍支隊は中国第二十九軍の諸部隊を北京郊外へと追いやった上で支援航空機による空爆を加えた。総攻撃を決意した香月中将は天津の支那駐屯軍本隊にも臨戦態勢を取らせた<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。日本政府も3個師団の華北派遣を決定した<ref name="usu65to72" />。同日午後11時に中国政府は日本側に、現地の[[冀察政務委員会]]と支那駐屯軍が再交渉する為の仲介を申し出たが<ref name="kawakami136to149" />これは黙殺された。翌28日、[[平津作戦]]が開始され支那駐屯軍は天津制圧と並行して北京郊外に布陣する第二十九軍に一斉攻撃をかけた<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。中国側はたちまち劣勢に陥って5000人余りの被害を出し、宋哲元上将は同日夜に北京から脱出した<ref name="usu65to72" />。
7月29日、[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の保安隊が反乱を起こして[[通州区 (北京市)|通州]]の政府施設を襲撃し、同区域にあった日本人[[租界地]]にも侵入して邦人居留民を多数惨殺するという[[通州事件]]が発生した<ref name="osugi271to272">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p271-2</ref><ref name="kawakami136to149" />。冀東自治政府は[[関東軍]]が通州と北京の間に国境線を引く形で[[河北省 (中華民国)|河北省]]北部に設立した傀儡政権であったので、日本政府はこの明確な戦争犯罪に対する拳の振り下ろし先を見失ったが、保安隊の中国兵たちが意図的に抗日側に回っていたのは明らかであった。この通州事件は日本国民の対中感情を大幅に悪化させ、[[暴支膺懲]]スローガンはより強く支持されるようになった<ref>児島襄『日中戦争』下巻、文藝春秋、1984年.p.79-80.</ref>。更に同日同時刻に天津で抗戦する第二十九軍部隊も日本人租界地を攻撃していた<ref name="kawakami136to149" />。7月31日、支那駐屯軍は第二十九軍の駆逐に成功して北京天津一帯をほぼ制圧した<ref name="usu65to72" />。その後、日本軍は戦線を[[保定市|保定]]付近まで南下させる作戦を検討したが、[[河北省 (中華民国)|河北省]]南部に集結している中国軍との交戦に一定の準備期間が必要と判断されたのでひとまず延期し、現状を維持する事にした。
== 支那事変 ==
=== 第二次上海事変 ===
{{Main|第二次上海事変}}
1937年7月24日、上海市内で日本水兵が拉致される事件が発生し、当市の日本人[[租界|租界地]]を守る[[上海特別陸戦隊|海軍特別陸戦隊]]が調査を始めたが、上海市保安隊が公然と対抗する構えを見せて緊張が高まった。5年前の[[第一次上海事変]]停戦協定の中で中国軍は上海市内に立ち入らない事が約束されていたが、7月下旬から保安隊に変装した中国兵が重火器を多数持ち込み、また各所に土嚢を積みあげ鉄条網を張り巡らすなどしていた<ref name="usu77to87" /><ref name="kawakami152to171" />。7月28日、北京での戦闘発生に伴い、日本政府は華南内陸部の各領事に訓令して8月9日までに全邦人を上海まで引き揚げさせ<ref>[[第二次上海事変#支那事変陸軍作戦|支那事変陸軍作戦]]、257頁</ref>、上海居留民と併せた日本人3万名を順次帰国させていた。日中両軍の衝突を予期した上海市民も避難を始めた。上海の日本人租界地には特別陸戦隊4千名と各種要員を含む邦人計1万名が残留した<ref>[[第二次上海事変#支那事変陸軍作戦|支那事変陸軍作戦]]、258頁</ref>。
8月9日、華北では[[察哈爾省|チャハル省]]と[[綏遠省]](現在の[[内モンゴル自治区]])の攻略を目指す[[チャハル作戦]]が開始され、[[関東軍]]から[[東條英機|東条]]兵団が出撃した。北京天津にいる支那駐屯軍は河北省南下に向けて準備を整えていた。同9日に上海市内で日本軍人2名が保安隊に射殺される[[大山事件]]が発生し<ref name="kawakami152to171">K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、152~171頁。</ref><ref name="usu77to87">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77-87</ref>一触即発の状態となった。翌10日に日本領事が共同租界地の国際委員会を通して[[兪鴻鈞]]上海市長に保安隊の隔離を要請し一旦受理されたが、11日に兪鴻鈞から「私は無力で何もできない」と返ってきた<ref name="kawakami152to171" />。特別陸戦隊を指揮する第3艦隊司令官[[長谷川清|長谷川]]中将は東京に至急の増援を上申したが返信は「到着まで二週間かかる。それまで交戦不拡大に努めるように」であった<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、85頁</ref>。
8月12日、[[蒋介石]]の指導下で上海周辺に総勢20万の兵力を展開した中国軍[[抗日戦争第3戦区|第3戦区]]が、上海市内に2個師団を侵入させ日本人租界地を包囲した<ref name="kawakami152to171" />。英仏米の各領事が上海市と日本領事に仲裁を提案したが黙殺状態となった<ref name="kawakami152to171" />。翌13日朝から各所で中国側の機銃掃射を含んだ小競り合いが始まり<ref name="kawakami152to171" />、それまで交戦回避の守りに徹していた特別陸戦隊は午後4時から本格的な応戦に踏み切った<ref name="osugi284to288">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p284-288</ref>。午後5時になると中国軍は砲撃も加え始めた<ref name="usu77to87" />。日本政府は陸軍部隊の上海派遣を同日中に閣議決定した<ref name="usu77to87" />。翌14日に中国側は空軍機を繰り出して特別陸戦隊に空からも攻撃を加えた。また[[揚子江]]河口を遊弋する第3艦隊艦艇にも爆撃を試みたが、狙いが逸れて市内の歓楽街を直撃し民間人千数百名の死傷者を出した<ref name="usu77to87" /><ref name="osugi284to288" />。<gallery>
ファイル:Civilian victims of the August 14 bombing near the Great World.jpg|中国軍に誤爆された上海市民
ファイル:The August 14th bombing in front of the Great World.jpg|中国軍に爆撃された大世界前
ファイル:Bombing outside the Palace Hotel.jpg|中国軍に砲撃された上海共同租界
</gallery>8月15日、[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は「もはや隠忍能わず暴支膺懲し南京政府の反省を促す」と声明し、陸軍に[[上海派遣軍]]を編制させた。第二次上海事変の勃発で日中両国は事実上の全面戦争状態に突入する事になった<ref>[[臼井勝美]]「上海事変」外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年5月20日 発行、ISBN 4-634-62200-9、387頁。「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」</ref><ref>『永久保存版 シリーズ20世紀の記憶 第7巻 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争: 1937-1945』毎日新聞社、2000年4月1日 発行、11頁。「上海・南京攻略により華北の戦火は華中に飛び、戦いは「日中全面戦争」へと拡大、泥沼化する。」、22頁。「年表 第2次上海事変から日中全面戦争へ」</ref><ref>[[茶谷誠一]]『昭和天皇側近たちの戦争』吉川弘文館、2010年5月1日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-05696-0、136頁。「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」</ref><ref>安井三吉「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、787頁。[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。</ref><ref>[[芳井研一]]「日中戦争」吉田裕・森武麿・伊香俊哉・高岡裕之編『アジア・太平洋戦争辞典』吉川弘文館、二〇一五年十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、508頁。「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」</ref>。17日に日本政府は不拡大方針の放棄も閣議決定し<ref name="usu77to87" />、18日に英仏が申し出た仲裁案も辞退した<ref name="kawakami152to171" />。[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]][[中国国民党|国民党]]の蒋介石も中国全土に向けた総動員令を発して戦時体制を確立した。21日に[[中ソ不可侵条約]]が締結され、ソ連側から航空機や戦闘車両などの軍事支援を得た<ref name="usu90to92" />。[[中国共産党]]は抗日救国十大綱領を発表して抗日戦争を強力に支持し、8月22日に[[紅軍|共産党軍(紅軍)]]は[[国民革命軍|国民党軍]]の指揮下に入って[[八路軍|第八路軍]]と称した<ref>[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77</ref><ref name="osugi284to288" />。9月22日に[[第二次国共合作]]が正式成立した<ref name="osugi284to288" />。
=== 上海攻略 ===
1937年8月15日、上海の日本人租界地に立て篭もる特別陸戦隊への空爆を憂慮した日本海軍は、中国軍機の離陸を阻止する為に上海と周辺の各都市にある空軍施設を空襲するという[[渡洋爆撃]]作戦を実行に移した<ref name="osugi284to288" />。15日から30日にかけて本土から飛び立った[[九六式陸上攻撃機|96式陸上攻撃機]]延べ200機余りが[[南京市|南京]]、[[杭州市|杭州]]、[[南昌市|南昌]]などにある中国空軍基地への長距離爆撃を敢行し<ref name="hioki">[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005) {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>数々の未帰還機を出しながらも一定の成果を上げた。19日に上海沿岸に到着した本土の海軍特別陸戦隊2400名が一気に夜間上陸を果たして日本人租界地への合流に成功した。
上海市内では激しい攻防が続いており、中国軍第3戦区は新手の師団を次々と投入したが、特別陸戦隊は十倍以上の大軍の前で度重なる出血を強いられながらも奮戦して敵の侵入を許さなかった。後日に「緒戦一週目で敵軍掃滅成らず」と述懐して悔いる程この状況に大きな不満を覚えた蒋介石は<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]] {{要ページ番号|date=2015-06-16}}</ref>、敵のスパイ「漢奸」の存在が自軍敗走の原因になっていると断定して特務部長[[陳立夫]]に[[漢奸狩り]]と称する容赦ない粛清を実行させた<ref>''The New York Times'', August 27, 1937。『読売新聞』1937年8月29日付第二夕刊。『読売新聞』1937年8月30日付号外。『東京朝日新聞』1937年8月29日付朝刊。『[[東京日日新聞]]』1937年8月29日付号外。『読売新聞』1937年9月14日</ref>。上海の広場では連日数十名の民間人または政府役人が漢奸として公開処刑されその総数は4,000名に達した<ref>''The New York Times'', August 30, 1937記事</ref><ref name="yomiuri_19370915">『読売新聞』1937年9月15日</ref>。
8月23日、2個師団兵員4万名の[[上海派遣軍]]が上海沖合いに到着し、[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]の艦砲支援の下で市街地から北20km地点への上陸に成功した<ref name="osugi289to294">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>。しかし彼らは日中戦争における最大の難関に立ち向かう事になった。1930年代の[[中独合作]]の中で招かれたドイツ軍事顧問団は、上海の市街地を取り囲む極めて高度な防御陣地を完成させていた。上海派遣軍下の[[第3師団 (日本軍)|第3]]、[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]は、水壕と[[トーチカ]]が複雑に張り巡らされ、無数の火砲と機関銃が待ち構える鉄壁地帯への突撃を敢行した。
*8月29日、[[東條英機|東條]]兵団がチャハル省[[張家口市|張家口]]を攻略。日本軍は[[察哈爾省|チャハル省]]を占領した。
*8月31日、北京の[[支那駐屯軍]]が[[第1軍 (日本軍)#日中戦争における第1軍|第1軍]]に改編され、新編の[[第2軍 (日本軍)#日中戦争における第2軍|第2軍]]と併せて[[北支那方面軍]]が編制された<ref name="sakuraiyoshiki">櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 CiNii],[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 麗澤大学学術リポジトリ]</ref>。
*9月2日、[[近衛内閣]]が北支事変を「[[支那事変]]」と改称。
*9月5日、日本海軍が中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
*9月9日、東條兵団が非武装の中国人300名を殺害した[[陽高事件]]が発生する。戦争不拡大を唱える陸軍参謀[[石原莞爾]]が強硬派に押し切られ、3個師団が上海派遣軍の増援として動員された。
*9月13日、中国政府が日本軍の行為を[[国際連盟]]に提訴した。
*9月14日、北支那方面軍が河北省[[保定市|保定]]を攻略。
*9月15日、日本海軍航空隊が広東を攻撃し<ref name="hioki" />{{要出典範囲|date=2015-06-22|22日までに現地の中国空軍を壊滅させた。}}<ref group="注釈">『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。ここでも[[漢奸狩り]]が実施され、赤灯と緑灯で空爆を助けたという容疑で100名以上が処刑された<ref> ''[[タイムズ|The Times]]''誌 [[9月27日]] 付記事</ref> 。
*9月21日、国際連盟で日中紛争諮問委員会が開催された<ref name="hioki" />。
*9月27日、不拡大方針を唱え続けた[[石原莞爾]]が陸軍参謀を辞職し<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、166頁</ref>その後は強硬論一辺倒となった。
*9月28日、日中紛争諮問委員会が日本軍の空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの計11次に及ぶ無差別爆撃は、かの[[ゲルニカ爆撃]]に並ぶものとされた。
*10月2日、北支那方面軍が[[山西省 (中華民国)|山西省]]の攻略を目指す[[太原作戦]]を開始した。
* 10月5日、日中紛争諮問委員会が日本の軍事行動を[[九カ国条約]]と[[不戦条約]]に違反するものと決議採択した。同日に[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]米大統領が世にいう[[隔離演説]]をした。
*10月9日、3個師団からなる[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]が編制され、これも上海に派遣された<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]] {{要ページ番号|date=2015-06-16}}</ref>。
* 10月10日、[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]が河北省[[石家荘]]を攻略。日本軍は[[河北省 (中華民国)|河北省]]全域を占領した。
* 10月17日、東條兵団が綏遠省[[包頭]]を攻略。日本軍は[[綏遠省]]を占領した。
上海市内を目指して防御陣地の突破を目指す[[第3師団 (日本軍)|第3]]、[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]は、水壕に行く手を阻まれ、トーチカから放たれる砲火と機関銃になぎ倒されて大苦戦し、9月下旬までに計1万名の死傷者を出していた。数百名の兵士を生贄にして100mの進捗を得るという日もあったが、形勢不利と見るやすぐ持ち場を離れてしまう中国兵たちの士気と規律の低さにも助けられて、日本兵たちは徐々に突破口を切り開いていった。市内の日本人租界地では[[上海特別陸戦隊|特別陸戦隊]]が善戦しており、本部拠点に押し寄せていた中国軍を逆に撃破して9月上旬から膠着状態に持ち込んでいた。中国兵の持ち場放棄に業を煮やした蒋介石は[[督戦隊]]を後方に置くよう指示し、逃走する者を容赦なく射殺させて軍規の引き締めを図った<ref>[[林建良]]は、中国の督戦隊は人の命を軽視する中国人の性格に基づく特異なものと説明している(林建良 『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』 並木書房 2006年 pp.99-102 ISBN 978-4-89063-201-5)</ref>。中国軍第3戦区は数十万の兵力を三軍に分けて展開していたが、この方面の制空権を握った日本海軍機の空爆に牽制されて中央軍と右翼軍の多くが遊兵と化し、また第3、第11師団の包囲に向かった左翼軍は9月20日から順次到着した増援の[[第9師団 (日本軍)|第9]]、[[第13師団 (日本軍)|13]]、[[第101師団|101師団]]に撃退された。
10月10日、日本兵たちは市街地手前の最後の防衛線まで到達し、12日に突破を果たして北から上海市内に雪崩れ込んだ。この頃になると逆に督戦隊の方に突撃する中国兵が相次ぐようになり同士討ちが多発した。その勢いに押された督戦隊からも公然と職務放棄する者が出始めたので、その更に後方に死刑の権限を持つ督察官が置かれて督戦隊を監視するようになった<ref>『東京朝日新聞』 1937年10月22日付朝刊 2面</ref>。中国軍は上海市中央を東西に流れる[[呉淞江|蘇州河]]まで戦線を下げて市街戦に持ち込んだ<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、216頁</ref>。26日、第9師団が市内中央に位置する[[大場鎮駅|大場鎮]]の占領に成功した<ref name="osugi289to294" />。翌27日に「日軍占領大場鎮」のアドバルーンを揚げて日本人租界地との連絡線を確保し、上海市内の大半は日本軍の制圧下となった。
11月2日、上海攻略への目処が立ったのと同時に日本政府は、ドイツの駐日大使と[[オスカー・トラウトマン|トラウトマン]]駐華大使を通して[[トラウトマン和平工作|和平工作]]を開始した。5日にトラウトマンから伝えられた日本政府の和平案を蒋介石は拒否した<ref name="osg289to300">大杉『日中15年戦争史』p298-300</ref>。9月に日本軍の行為を国際連盟に提訴していた彼は、11月3日からの九ヶ国条約会議で中国側に有利な調停案が下される事を期待していた為と言われるが、会議の結論は日本非難声明に留まった<ref name="osg289to300" />。同5日に[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]が上海市の南方60kmにある[[杭州湾]]の[[金山区 (上海市)|金山衛]]に上陸した。日本軍に南北を挟まれる形となった中国軍第3戦区は退路を断たれる恐れで浮き足立った。翌6日から上海市街で中国兵の掠奪が目立つようになり<ref>『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊 2面</ref>、陣払い前に決まって行なわれる彼らの習慣で中国軍の総退却が予測された。9日に蒋介石の撤退命令が出された。
=== 南京攻略 ===
{{Main|南京戦}}上海戦の惨敗は、蒋介石に国民革命軍が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は<ref>[[楊天石]]:《揭開民國史的真相》卷五,蔣介石真相之二,風雲時代,2009年,61頁</ref>開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数十万人規模の「会戦」が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。
11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された[[中支那方面軍]]は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に<ref name="osugi289to2943">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で<ref name="usu90to923">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>ソ連義勇兵を緊急派遣した<ref name="usu90to924">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。15日、第10軍司令官[[柳川平助|柳川]]中将が独断で南京への追撃を始めた<ref name="une1">畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref><ref name="nihonkyod">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが<ref name="usu124to135" />、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下しその司令官に[[唐生智]]上将を就けた<ref name="nihonkyod3">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという[[空野清野作戦|清野作戦]]も実行に移した<ref name="une2">畝元正己「証言による南京戦史(2)」『偕行』昭和59年(1984年)5月号、偕行社、p10-14.</ref><ref>鈴木「南京大虐殺のまぼろし」p172-173</ref>。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した<ref name="kawakami152to171" />。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。
* 11月8日、[[北支那方面軍]]が山西省[[太原]]を攻略。日本軍は[[山西省 (中華民国)|山西省]]を占領した。
*11月22日、[[関東軍]]が傀儡政権である{{仮リンク|蒙疆連合委員会|zh|蒙疆聯合委員會}}を[[察哈爾省|チャハル省]]と[[綏遠省]]の領域に設立し、[[張家口市|張家口]]に[[駐蒙軍]]が駐屯した。これは後に[[蒙古連合自治政府]]となった。
12月1日、スターリンは国際世論を理由に対日参戦を再度拒否し蒋介石を失望させた<ref name="usu90to92" />。翌日から国民党内で昨月の日本の和平案が前向きに検討され始めた。3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。[[唐生智]]上将が国際安全区にも部隊を入れたので同区委員[[ジョン・ラーベ|ラーベ]]が抗議したが黙殺された。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた<ref name="osg289to300" />。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残されたが、正確な人数については諸説あって定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、10日正午を期限とする降服勧告を出したが回答は無かった。
12月10日、中支那方面軍の各隊が南京に向けて一斉攻撃を開始した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と飛散した破片が却って守備兵を危険に晒した。南京の各城門は集中砲撃と爆撃に耐えられず守備兵が退避した後に、日本兵が梯子でよじ登って突破されるという結末を辿った。12日18時に日本兵は南京市内に突入した。同市街は中国兵、便衣兵、民間人、日本兵でごった返した混乱の坩堝と化し、前日に蒋介石から撤退指示を受けていた唐生智上将は、各部著に最後の指令を出した後の20時に市外北へと脱出し揚子江の対岸に渡った。指令内容は敵包囲網の突破退却を敢行させるというものだったが、督戦隊を含めた多くの部署に伝わる事はなく、潰走する中国兵が北の揚子江に面した挹江門に殺到し、同門からの逃亡を阻止する督戦隊との間で激しい[[挹江門事件|同士討ち]]が発生した。
*12月13日、日本軍が南京を占領状態に置いた{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=6}}。この日からいわゆる[[南京事件 (代表的なトピック)|南京大虐殺]]が起きたとされるが、その真相については現在に到るまで[[南京大虐殺論争|大きな論争]]を巻き起こしている。
*12月14日、日本、北京に[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]を樹立。
*12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行<ref>「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
*12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する<ref>[[タイムズ|英国紙THE TIMES(タイムズ)]], Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up</ref><ref>“ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。華北では第十師団が黄河を渡り、12月27日には[[山東省]][[済南市|済南]]を占領、翌1938年1月11日には[[山東省]][[済寧]]を占領する<ref name="usu97to101">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p97-101</ref>。
*1938年1月1日、[[南京攻略戦#南京自治委員会の発会式|南京自治委員会の発会式]]が挙行される。
* 1月10日、海軍陸戦隊が[[青島市|青島]]を占領<ref name="usu97to101" />。
* 1月11日、[[御前会議]]、「支那事変処理根本方針」を決定。
* 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた<ref name="osg310to312">大杉『日中15年戦争史』p310</ref>。
* 2月7日、[[中ソ航空協定]]締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された<ref name="usu90to92">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった<ref name="usu90to92" />。
* 2月14日、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、[[中支那派遣軍]]が編成される<ref name="usu97to101" />。
* 3月28日、日本、南京に[[中華民国維新政府]]を樹立させる。
*
=== 徐州会戦と武漢攻略 ===
4月、中国広西軍は山東省台児荘で{{要出典範囲|date=2015-06-22|日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ}}、中国の民衆は非常に喜んだ<ref name="isikawa188"/>。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し<ref name="isikawa188"/>、1938年[[4月7日]] - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して[[徐州市|徐州]]を攻略するよう([[徐州会戦]])下命した<ref name="usu97to101"/>。[[5月10日]]、日本軍、[[廈門市|廈門]]を占領。[[5月15日]]、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった<ref name="usu97to101"/>。[[5月19日]] - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領<ref name="usu97to101"/>。
* [[5月20日]] - 中国軍機2機が[[渡洋爆撃#中国からの渡洋爆撃|九州へ飛来してビラ散布]]。
* [[5月26日]] - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、次官に[[東条英機]][[関東軍]]参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った <ref name="usu97to101"/>。関東軍は華北分離をめざし、また蒋介石への不信を持っていたが、[[宇垣一成]]外務大臣は蒋介石を高く評価しており、対中観が対立していた <ref name="usu97to101"/>。[[宇垣一成]]外務大臣は香港の[[中村豊一郎]]領事に、国民党[[孔祥熙]]の秘書喬輔三との和平工作を[[6月]]から9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
1938年[[6月]]、 蒋介石ら中国軍による[[黄河決壊事件]]により河南、[[江蘇省]]、[[安徽省]]の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した<ref name="usu97to101"/>。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた<ref name="usu97to101"/>。[[7月11日]]〜[[8月10日]]の日ソ武力衝突[[張鼓峰事件]]が解決したのち、[[8月22日]]から日本軍、[[武漢]]三鎮を攻略開始する([[武漢作戦]])<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。[[10月12日]]、第2軍が信陽を占領<ref name="usu102to110"/>。{{仮リンク|広東攻略戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=広東攻略}}を命じられた[[第21軍 (日本軍)|第21軍]](兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、[[10月12日]]に[[大亜湾|バイアス湾]]上陸し、[[10月21日]]に[[広州市|広東]]を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった<ref name="usu102to110" />。
* [[10月27日]] - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。[[武漢作戦]]の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった<ref name="usu102to110"/>。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した<ref name="usu102to110"/>。武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した<ref name="usu124to135"/>。
* 1938年[[11月3日]] - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの[[東亜新秩序]]声明(第二次近衛声明)を出した<ref name="usu102to110"/>。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した<ref name="usu102to110"/>。
* [[11月12日]] - 中国軍により[[長沙大火]]が起され、人口50万の都市が潰滅。
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* [[11月20日]]、秘密協定「[[日華協議記録]]」が成立し、日本側からは[[影佐禎昭]]大佐、[[今井武夫]]中佐、中国側は[[高宗武]]、[[梅思平]]の間で調印された<ref name="usu111to117"/>。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった<ref name="usu111to117"/>。
* [[11月30日]]、御前会議で日支新関係調整方針を決定<ref name="usu102to110"/>。
[[12月6日]]決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した<ref name="usu102to110"/>。[[12月16日]]、中国政策のための国策会社[[興亜院]]が成立する<ref name="usu102to110"/>。[[12月18日]]には蒋介石との路線対立で[[汪兆銘]]が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう<ref name="usu111to117" />。[[12月22日]]、近衛首相が[[近衛三原則]]を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった<ref name="usu111to117" />。[[12月25日]]、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は[[12月26日]]に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>。しかし、汪兆銘は[[12月30日]]の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した<ref name="usu119to123" />。1939年[[1月1日]]、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123" />。
=== 重慶爆撃の開始 ===
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕付近で<!--4,000人が-->圧死または窒息死した市民(1941年6月5日の重慶爆撃)|代替文=]]
1939年(昭和14年)[[1月4日]]、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる<ref name="usu102to110"/>。1939年の作戦としては1月からの[[重慶爆撃]]<ref name="usu124to135" />、[[2月10日]]の[[海南島]]上陸、[[3月]]の[[海州区 (連雲港市)|海州]]など[[江蘇省]]の要所占領、[[3月27日]]の[[南昌]]攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった<ref name="usu111to117" />。[[阿部信行]]大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
* [[4月]] - 中国軍、南支で春季反撃作戦。
*5月3日
* [[5月]]初頭 - 日本軍、[[襄東作戦]]。
* [[5月7日]] - 板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた<ref name="usu111to117"/>。
* [[5月11日]] - [[ノモンハン事件]]勃発(日ソ武力衝突)。
* [[6月13日]] - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
[[6月14日]]に日本軍は天津のイギリス[[租界]]を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった<ref name="usu111to117"/>。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした<ref name="usu111to117"/>。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた<ref name="usu111to117"/>。
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* [[12月25日]] - [[桂林市|桂林]]で[[鹿地亘]]らが[[日本人民反戦同盟]]を結成。
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年[[11月30日]]の日支新関係調整方針を和平条件とした<ref name="usu119to123"/>。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜[[滄州市|滄州]]のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した<ref name="usu119to123"/>。12月30日、日華新関係調整要綱が成立<ref name="usu119to123"/>。
1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった<ref name="usu111to117"/>。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた<ref name="usu119to123"/>。これによって蒋介石の支持層が拡大した<ref name="usu119to123"/>。
* [[1月]]下旬 - 日本軍、[[賓陽作戦]]。
* [[2月2日]] - 日本、[[衆議院]]で[[斎藤隆夫]]議員が対中国政策を批判([[反軍演説]]。[[3月7日]]議員除名)。
* [[3月30日]] - 汪兆銘、南京で親日政府樹立([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])<ref name="usu119to123"/>。
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[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)]]1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。
* 1940年[[7月11日]]、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123" />倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117" />。
[[7月18日]]、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖<ref name="usu124to135" />。
<!--[[7月20日]] - 重慶で日本人民反戦同盟の成立大会を開催--->7月26日、[[基本国策要綱]]で「皇国の国是は[[八紘一宇|八紘を一宇とする肇国]]の大精神」が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された<ref name="usu124to135" />。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする[[大東亜共栄圏]]確立という外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
*[[8月20日]]<!-- 8月2日としている文献もある -->〜[[12月5日]] - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた[[百団大戦]]が展開される<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった<ref name="isikawa200" />。
*1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した<ref name="usu124to135" />。[[9月23日]]、日本軍、[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]。[[9月25日]]、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結される<ref name="usu124to135" />。[[9月30日]]、米国、[[鉄鋼]]・[[屑鉄]]の対日輸出を禁止する法令を発布<ref name="usu124to135" />。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した<ref name="usu124to135" />。
*[[9月]]末 - 日本陸軍[[今井武夫]]大佐らの蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟[[宋子良]]への日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は[[藍衣社]]の[[戴笠]]の指揮下に行われていたことがわかっている)<ref name="usu124to135" />。
* 1940年[[10月]] - 日本軍、[[燼滅作戦]](三光作戦)開始。
* [[10月4日]]、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する<ref name="usu124to135"/>。同日、日本軍[[731部隊]]が衢県において細菌戦を実行したとされる<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A9D4C04B00E1852349256C30001FA66A.pdf]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件</ref>。
* [[10月23日]]、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された<ref name="usu124to135"/>。
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* [[4月13日]] - [[日ソ中立条約]]調印。蒋介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした<ref name="usu135to142">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p135-142</ref>。
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=== 日米交渉
{{Main|日米交渉}}
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。
*
* 5月 - 日本軍、[[江北作戦]]。
*5月7日〜6月15日 - 北支那方面軍が[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]を行なう。
*5月〜8月末 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月に[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し、再検討を要請した<ref name="usu124to135" />。
* 6月 - [[シンガポール]]で英・蒋軍事会議。
[[6月22日]]、[[独ソ戦]]がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、[[7月2日]]の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した<ref name="usu135to142"/>。[[7月7日]] - [[関東軍特種演習]](関東軍、対ソ戦を準備するが[[8月]]に断念)。[[7月10日]]、アメリカ対案に対して外務省顧問[[斉藤良衛]]は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した<ref name="usu135to142"/>。
* 7月28日、日本軍、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]を実施、英米は日本資産を凍結した<ref name="usu135to142" />。
*8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。
*9月5日〜11月6日 - [[第一次長沙作戦]](加号作戦)。
*10月 - [[マニラ]]で英米蘭中の軍事会談。
* 10月16日、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立<ref name="usu143to155">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p143-155</ref>。[[11月1日]]から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという[[帝国国策遂行要領]]が採択された<ref name="usu143to155" />。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった<ref name="usu143to155" />。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された<ref name="usu143to155" />。
* 11月22日 - 米国務長官[[コーデル・ハル|ハル]]、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の[[胡適]]大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した<ref name="usu143to155" />。[[11月24日]]、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった<ref name="usu143to155" />。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蒋介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した<ref name="usu143to155" />。さらに蒋介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した<ref name="usu143to155" />。
*11月26日 - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、[[ハル・ノート]]を作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを[[最後通牒]]と解し、対米開戦に傾く。
* 12月〜翌年1月 - [[第二次長沙作戦]]。
=== 太平洋戦争開幕 ===
'''1941年(昭和16年)'''
* 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、[[マレー半島]]上陸、及び[[真珠湾攻撃]]。広東第23軍、[[香港]]攻略開始([[香港の戦い]])。こうして[[太平洋戦争]]が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した<ref name="usu143to155"/>。[[12月9日]] - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告<ref name="usu143to155"/>。
* 12月12日 - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「[[大東亜戦争]]」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蒋介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた<ref name="usu143to155"/>。
* 12月25日 - 日本軍、香港占領。
* 12月31日、アメリカの要請で蒋介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蒋介石の希望で[[ジョセフ・スティルウェル]]が[[中国国民党]]軍参謀長に就任する<ref name="usu143to155"/>。
'''1942年(昭和17年)'''
*1月1日 - 蒋介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った<ref name="usu143to155" />。
*1月31日 - 日本軍、[[ビルマ]]攻略開始([[援蒋ルート]]の遮断)。
* 3月 - 米国、国民政府に5億ドル借款成立。
* 5月〜9月 - {{仮リンク|浙カン作戦|zh|浙贛戰役|label=浙贛作戦}}([[せ号作戦]])、浙は浙江省、贛は江西省の旧称。
* 5月末 - 日本軍、ビルマ全域を占領。
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;1943年(昭和18年)
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=== 大陸打通作戦 ===
[[ファイル:Situation at the End of World War Two.PNG|thumb|大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)]]
;1944年(昭和19年)
* 3月25日 - 日本軍、黄河鉄橋の修理完了。
* 4
*4月19日 - 日本軍、
*5月25日 * 6月2日〜9月14日 - [[拉孟・騰越の戦い]]において日本軍守備隊の[[玉砕]]。同地の失陥によって援蒋ルート(ビルマルート)再開。
* 6月16日 - [[成都市|成都]]を基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土を空襲開始([[八幡空襲]])。
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;1945年(昭和20年)
* 1月 - 新たな援蒋ルートである[[レド公路]]が開通。
* 1月7日 - 成都から出撃したB-29爆撃機が大村を空襲。これを最後に成都からの日本本土空襲は打ち切り。
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== 登場勢力の立場と目的 ==
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上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国[[国民革命軍]]のみの数であり、{{要出典範囲|date=2019年4月|必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。}}当時の[[中国大陸]]では、日本軍・南京中華民国政府軍・[[蒋介石]]国民革命軍・共産党軍(現:[[中国人民解放軍]]の前身)・その他[[馬賊]]や[[抗日]]武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、[[農業]]や[[商業]]、[[工業]]、[[運輸]]などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘や[[ゲリラ|ゲリラ戦]]に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に[[食糧]]を[[徴発]]されたことや[[焦土作戦]]の影響で[[飢餓]]に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。([[中国空軍の上海爆撃 (1937年)]]を参照)。
{{ns:0|1=<nowiki>日本軍による[[燼滅作戦|三光政策]]や[[南京事件 (
以下、各犠牲者数について注釈する。
* 終戦時132万人
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[[1971年]][[10月25日]]、 国連で[[アルバニア決議]]が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、[[中華人民共和国]]が中国の代表権を得た。[[1972年]]2月に[[ニクソン大統領の中国訪問]]が実現し米中が接近するのと並行して[[日中国交正常化]]も進展し、1972年9月には[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]が[[周恩来]][[国務院総理]]と[[田中角栄]][[内閣総理大臣]]によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、[[中華人民共和国]]は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html 日本語全文]、[http://www.mofa.go.jp/region/asia-paci/china/joint72.html 英語全文](外務省)</ref><ref name=asdiges/>。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で[[覇権]]を求めないと規定された<ref> [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html 日本語正文](日本外務省) [http://zh.wikisource.org/wiki/中日和平友好条约 中国語正文](ウィキソース)</ref>。なお[[1979年]]には[[米中関係#国交正常化|米中が国交正常化した]]。
日本は中華人民共和国に対し[[政府開発援助]](ODA)を実施し、[[1979年]]から2013年度までに有償資金協力([[円借款]])約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した<ref>[[外務省]][http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html 対中ODA概要]平成28年2月1日</ref>。廃止の方向にあるODAに変わって、[[財務省]]影響下の[[アジア開発銀行]]が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり<ref>[[青木直人]]『中国に喰い潰される日本 チャイナリスクの現場から』[[PHP研究所]]、2007/1/27、ISBN 978-4569659824{{
日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している<ref>[[第174回国会]][[衆議院]][[法務委員会]]平成22年(2010年)5月11日[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/174/0004/17405110004011.pdf 会議録第11号7頁](国会会議録検索システム国立国会図書館)、[[西村智奈美]][[外務大臣政務官]]の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」</ref>。[[江沢民]]も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している<ref>人民日報1992年4月3日</ref>。
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