「黄金の夜明け団」の版間の差分

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'''黄金の夜明け団'''(おうごんのよあけだん、''{{lang|en|The Hermetic Order of the Golden Dawn}}'')は、[[19世紀]]末の[[イギリス]]で創設された[[近代魔術|西洋魔術]]結社である。'''黄金の暁会'''とも訳され、'''G.D.'''と略名される。現代[[近代魔術|西洋魔術]]の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋[[神秘学|隠秘学]]組織である。
 
創設者の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}、{{仮リンク|[[ウィリアム・ウィン・ウェストコット]]|en|William Wynn Westcott}}、[[マグレガー・メイザース]]{{efn2|[[江口之隆]]は「マサース」、ヘイズ中村は「マザース」、[[吉村正和]]は「マザーズ」とカナ表記している。}}の三人は[[フリーメイソン]]であったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差での区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上、三つの団(オーダー)による階層構造をなしており、第一団の「黄金の夜明け」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」{{efn2|原語はラテン語で「[[wiktionary:ja:ordo#ラテン語|Ordo]] [[wiktionary:ja:rosa#ラテン語|Rosae]] [[wiktionary:rubeus#Latin|Rubeae]] [[wiktionary:ja:et#ラテン語|et]] [[wiktionary:aureus#Latin|Aureae]] [[wiktionary:crucis|Crucis]] (R. R. et A. C.)」。「紅い薔薇と黄金の十字の教団」の意。[[澁澤龍彦]]は「紅薔薇黄金十字」{{sfn|キング|澁澤訳|1978|p=90}}、江口之隆は「ルビーの薔薇と金の十字架」団と翻訳{{sfn|江口|亀井|1983|p=50}}。}}は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は[[秘密の首領]]らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として'''黄金の夜明け団'''と呼ばれる。
 
==誕生までの経緯==
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黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に知人より60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けたことから始まる。
 
{{要出典範囲|以下はウェストコット本人の供述となるが、この一連の文書が1518年[[ヨハンネス・トリテミウス|トリテミウス]]著『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』記載の[[換字式暗号|暗号法]]で書かれていることに気付いた彼は、早速解読に取りかかったという|date=2019-05-27}}。同年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの魔術結社 ''Die goldene Dämmerung'' (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース]]と年長の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}を共同創立者にして、1888年3月1日に[[神殿|神殿(テンプル)]]と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。
 
こうして発足した黄金の夜明け団は{{efn2|この創立譚はあくまで神話である。前述の暗号文書がウェストコットの偽造でないことはほぼ確実であるが、その入手経路について現代の研究者はウェストコットの主張を必ずしも額面通りに受けとっていない{{sfn|吉村|2013|pp=63-64}}。そして、その後に行われたシュプレンゲルとの文通はウェストコットの捏造であろうと考えられている{{sfn|吉村|2013|p=65}}{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領 (''ruling chief'')<!--(''three ruling Chiefs of the Order'')--> となった。英国薔薇十字協会は[[キリスト教神学]]の一種である{{仮リンク|キリスト教秘儀派|en|Esoteric Christianity}}のサロンであり、在籍者は[[フリーメイソン]]に限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。<gallery mode="packed" heights="160">
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[[ファイル:Pamela Colman Smith circa 1912.jpg|サムネイル|252x252px|パメラ・C・スミス|代替文=]]
[[ファイル:Constance Lloyd 1882.jpg|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|コンスタンス・メアリー・ロイド]]
1888年3月1日に最初の運営施設となる第3神殿「{{仮リンク|イシス=ウラニア・テンプル|label=イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に第4神殿「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも第5神殿「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に第6神殿「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて[[パリ]]に移住し、そこで第7神殿「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。また{{要出典範囲|アメリカからの参入者も増えたので|title=支部設立の可否は参入者の多寡によるのでしょうか?出典にはそのようなことは書かれていません。別の出典が必要です。|date=2019-05-31}}、1900年までに「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」を含む複数の支部がアメリカに設置された{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}。こちらでは物好きな米国人のための{{sfn|江口|亀井|1983|p=65}}位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたとう{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。なお、第1神殿はドイツにある本部とされ、第2神殿は過去に計画頓挫した在英支部とされた
 
[[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
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==隆盛そして軋轢==
{{See also|秘密の首領}}
1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家で女優の{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]と[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、物理学者[[ウィリアム・クルックス]]、[[オスカー・ワイルド]]の妻{{仮リンク|コンスタンス・ロイド|label=コンスタンス|en|Constance Lloyd}}といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。また、隠秘学方面の人物としてはフリーメイソンや魔術に関する書籍を濫造していた文筆著述[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]、後に魔術師として名を成す[[アレイスター・クロウリー]]、[[ウェイト版タロット]]を描いた画家として知られる[[パメラ・コールマン・スミス|パメラ・C・スミス]]などがい
 
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。彼は対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
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ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。ファーたちはメイザースを支持する{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂することになった。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が代表に就任したが、ファーと{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}}の婦人対立に手を焼いたイェイツは匙を投げる形で1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。その前後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|ロバート・ウィリアム・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。ブロディ=イネスは[[エディンバラ]]のアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンは[[ロンドン]]のイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の実践に否定的であった[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]の派閥がイシス・ウラニア神殿内で多数派となり、同神殿施設の所有権をも掌握したウェイトは自分たちを独立修正儀礼派と称してフェルキンを圧迫し、従来の儀式魔術を指向するフェルキンたち「暁の星」派退場を余儀なくさせへと追いやった。ウェイトは自身の乗っ取り色を薄めるために、表向きパリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓いその公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。彼らメイザースは名義貸しだけで教義上の関与はしなかった。ウェイトたちに離反されたフェルキンはロンドン市内に新しくアマウン神殿を立ち上げて「暁の星」の運営施設とした。{{要出典範囲|1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に組織再編した|date=2019-05-27}}。同じ頃、フェルキンの方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。
 
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。<gallery mode="packed" heights="160">