「黄金の夜明け団」の版間の差分
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'''黄金の夜明け団'''(おうごんのよあけだん、''{{lang|en|The Hermetic Order of the Golden Dawn}}'')は、[[19世紀]]末の[[イギリス]]で創設された[[近代魔術|西洋魔術]]結社である。'''黄金の暁会'''とも訳され、'''G.D.'''と略名される。現代[[近代魔術|西洋魔術]]の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋[[神秘学|隠秘学]]組織である。
創設者の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}、{{仮リンク|
==誕生までの経緯==
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黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に知人より60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けたことから始まる。
こうして発足した黄金の夜明け団は{{efn2|この創立譚はあくまで神話である。前述の暗号文書がウェストコットの偽造でないことはほぼ確実であるが、その入手経路について現代の研究者はウェストコットの主張を必ずしも額面通りに受けとっていない{{sfn|吉村|2013|pp=63-64}}。そして、その後に行われたシュプレンゲルとの文通はウェストコットの捏造であろうと考えられている{{sfn|吉村|2013|p=65}}{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領 (''ruling chief'')<!--(''three ruling Chiefs of the Order'')--> となった。英国薔薇十字協会は[[キリスト教神学]]の一種である{{仮リンク|キリスト教秘儀派|en|Esoteric Christianity}}のサロンであり、在籍者は[[フリーメイソン]]に限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。<gallery mode="packed" heights="160">
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[[ファイル:Pamela Colman Smith circa 1912.jpg|サムネイル|252x252px|パメラ・C・スミス|代替文=]]
[[ファイル:Constance Lloyd 1882.jpg|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|コンスタンス・メアリー・ロイド]]
1888年3月1日に最初の運営施設となる
[[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
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==隆盛そして軋轢==
{{See also|秘密の首領}}
1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家で女優の{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]と[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、物理学者[[ウィリアム・クルックス]]、[[オスカー・ワイルド]]の妻{{仮リンク|コンスタンス・ロイド|label=コンスタンス|en|Constance Lloyd}}といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。彼は対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
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ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。ファーたちはメイザースを支持する{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂することになった。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
その後のファー派では[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が代表に就任したが、ファーと{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}}の婦人対立に手を焼いたイェイツは匙を投げる形で1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。<gallery mode="packed" heights="160">
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