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{{Infobox 作家|name=ルイ・アラゴン<br>Louis Aragon|image=Portrait Aragon.jpg|image_size=250px|caption=ルイ・アラゴン|pseudonym=アルベール・ド・ルーティジー(『イレーヌのコン』)、怒りのフランソワ、ジャック・デスタン(地下出版)|birth_date={{生年月日と年齢|1897|10|03|非表示}}|birth_place={{FRA}}、[[パリ]]|death_date={{死亡年月日と没年齢|1897|10|03|1982|12|24}}|death_place={{FRA}}、[[パリ]]|resting_place=[[イヴリーヌ県]]{{仮リンク|サン=タルヌー=アン=イヴリーヌ|fr|Saint-Arnoult-en-Yvelines}}|occupation=[[詩人]]、[[小説家]]、[[評論家]]|movement=[[ダダイスム]]、[[シュルレアリスム]]|notable_works=『パリの農夫』<br>『お屋敷町』<br>『断腸詩集』<br>『殉難者の証人』<br>『エルザの瞳』<br>『未完の物語』|spouse=[[エルザ・トリオレ]]|relations={{仮リンク|ルイ・アンドリュー|fr|Louis Andrieux}}(父)|awards=[[ルノードー賞]]<br>[[レーニン平和賞]]<br>[[十月革命勲章]]<br>{{仮リンク|人民友好勲章|en|Order of Friendship of Peoples}}<br>[[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ}}
{{出典の明記|date=2012年12月|ソートキー=人1982年没}}
[[File:Portrait Aragon.jpg|right|thumb|200px|ルイ・アラゴン]]
'''ルイ・アラゴン'''('''Louis Aragon'''、[[1897年]][[10月3日]] - [[1982年]][[12月24日]] )は、[[フランス]]の[[小説家]]、[[詩人]]、[[批評家]]。[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]出身。
[[ダダイスム]]文学、[[シュルレアリスム]]文学を開拓、後は[[フランス共産党|共産党]]員となり、[[共産主義]]的文学へと足を踏み入れていく。代表作は、「パリの農夫」、「共産主義者たち」など。原爆詩人の[[峠三吉]]もアラゴンの影響を受けたとされる。
 
'''ルイ・アラゴン'''('''Louis Aragon'''、[[1897年]][[10月3日]] - [[1982年]][[12月24日]])は、[[フランス]]の[[小説家]]、[[詩人]]、[[文芸評論]]家。[[アンドレ・ブルトン]]、[[フィリップ・スーポー]]らとともに[[ダダイスム]]、[[シュルレアリスム]]を牽引し、『{{仮リンク|リテラチュール|fr|Littérature (revue)|label=}} (文学)』を創刊。[[文芸誌]]『{{仮リンク|シュルレアリスム革命|fr|La Révolution surréaliste|label=}}』を主宰した。1930年に[[ハルキウ]]で開催された[[国際革命作家同盟]] (UIER) の大会にシュルレアリストを代表して参加したことを機に、[[社会主義リアリズム]]に転向。1927年に[[フランス共産党|共産党]]に入党。UIERのフランス支部「{{仮リンク|革命作家芸術家協会|fr|Association des écrivains et artistes révolutionnaires|label=}}」の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}』の編集長、共産党の[[機関紙]]『{{仮リンク|ス・ソワール|fr|Ce Soir|label=}} (今夜)』の編集長を歴任。とりわけ、[[ナチス・ドイツ]]占領下で『グレバン蝋人形館』、『殉難者たちの証言』、『{{仮リンク|詩人たちの名誉|fr|L'Honneur des poètes|label=}}』([[ポール・エリュアール]]編)を地下出版し、文筆活動によって[[ナチズム]]に抵抗した[[レジスタンス運動|レジスタンス]]の詩人として知られる。
== 年譜 ==
* [[1917年]] [[第一次世界大戦]]中、従軍し[[アンドレ・ブルトン]]に出会い、活動を始める。
* [[1919年]] ブルトンらとともに雑誌「文学」を創刊。この雑誌も当時広まりつつあったシュルレアリスム思想を拡大する一翼を担った。
* [[1927年]] 共産党に入党。
* [[1932年]] 本格的に共産党活動を始める。
*
== 幼少期の家庭環境 ==
アラゴンの実父は認知を拒んだことから「[[代父]]」として、また実母も「姉」であるとして教えられて育つという、複雑な家庭環境のもとで幼少期を過ごした。やがて、「代父」「姉」が実父母だという真実を知ると心理的な衝撃を受けた。
== エルザとの愛 ==
第一次世界大戦後に、恋愛が元で自殺未遂を図るも失敗した。その後、アラゴンの小説を読んでパリに訪ねてきた[[ロシア]]生まれのフランス人小説家の[[エルザ・トリオレ]](Elsa Triolet)と恋仲になり、生涯の伴侶として過ごした。パリの南西にあるサンタルヌー=アン=イヴリーヌ(St.Arnoult-en-Yvelines)にある家をエルザに贈り、エルザが他界する1970年まで二人で暮らした。エルザを題材にした愛の作品を生んだ。なかでも、『エルザの瞳』の詩は[[シャンソン]]の曲としても有名である。
 
戦後は、『ス・ソワール』紙のほか、[[ロマン・ロラン]]らによって1923年に創刊された共産党系の雑誌『[[ヨーロッパ (雑誌)|ユーロープ]]』などの再刊に尽力し、共産党の対独レジスタンス・グループ{{仮リンク|国民戦線 (レジスタンス)|fr|Front national (Résistance)|label=国民戦線}}の一派として結成された{{仮リンク|全国作家委員会|fr|Comité national des écrivains|label=}} (CNE) の委員長を務めた。
なお、エルザの姉で[[ロシア・アヴァンギャルド]]にもかかわったリーリャ・ブリーク([[:en:Lilya Brik]])は、ソ連の詩人[[ウラジーミル・マヤコフスキー]]の愛人であった。1915年頃にエルザが詩人と知り合い、姉に紹介したのがきっかけ。またアラゴンもマヤコフスキーと交友を持っていた。
 
1936年、『お屋敷町』で[[ルノードー賞]]受賞。女性初の[[ゴンクール賞]]受賞作家の妻[[エルザ・トリオレ]]とはレジスタンス・文学活動を共にした。
== 作品 ==
 
* ''le Mouvement perpétuel'' 永久運動
== 背景 ==
* ''le Paysan de Paris'' [[パリの農夫]]
ルイ・アラゴンは1897年10月3日、[[パリ16区]]で{{仮リンク|ルイ・アンドリュー|fr|Louis Andrieux}}の[[私生児]]として生まれた。[[弁護士]]、[[政治家]]のルイ・アンドリューは、[[共和派]]として[[フランス第二帝政|第二帝政]]の崩壊後に[[ローヌ県]]共和国[[検事]]を務めた後、[[リヨン]]選出の[[議員]]、パリ警視総監、バス=ザルプ県(現[[アルプ=ド=オート=プロヴァンス県]])の警視総監および同県選出の議員を歴任した。1882年に6か月間、駐西([[スペイン]])フランス大使を務めたことから、息子の姓を[[アラゴン州]]に因んで「アラゴン」とした<ref name=":0">{{Cite web|title=Louis Aragon|url=http://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Louis_Aragon/105904|website=www.larousse.fr|accessdate=2019-09-06|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=ARAGON Louis|url=http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article10173|website=maitron-en-ligne.univ-paris1.fr|accessdate=2019-09-06|publisher=Maitron}}</ref>。
* ''le Monde réel'' 現実世界(四部作)
[[ファイル:Louis Aragon et sa mère.jpg|左|サムネイル|183x183ピクセル|ルイ・アラゴンと母マルグリット(1905年頃)]]
** ''les Cloches de Bâle'' バールの鐘
母マルグリット・トゥーカス=マシヨンは[[聖職者]]{{仮リンク|ジャン=バティスト・マシヨン|fr|Jean-Baptiste Massillon|label=}}の遠縁にあたり、[[パリ17区]]で[[下宿]]屋を経営し、その後、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]に居を構えて、絵付師、英仏[[翻訳]]家、大衆小説家として生計を立てていた<ref>{{Cite web|title=Aragon, enquête sur un roman familial|url=https://next.liberation.fr/livres/2018/08/22/aragon-enquete-sur-un-roman-familial_1673922|website=Libération.fr|date=2018-08-22|accessdate=2019-09-06|language=fr}}</ref>。アラゴンは母方の家庭で祖父母、2人の大叔母、叔父に育てられた。祖父は([[1871年]]の[[パリ・コミューン (フランス革命)|パリ・コミューン]]に参加した)コミュナールであった。叔父エドモン・トゥーカス=マシヨンは、『[[メルキュール・ド・フランス]]』を中心とした[[文学者]]と親交が深く、自ら文芸誌『新現代評論』<ref>{{Cite web|title=La Nouvelle Revue Moderne (1902)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=1417|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2019-09-06|publisher=|language=fr}}</ref>を創刊し、また、近代芸術の愛好家でもあった<ref>{{Cite web|title=Edmond TOUCAS-MASSILLON (1881-1937 ?)|url=http://catalogue.gazette-drouot.com/ref/lot-ventes-aux-encheres.jsp?id=1611577|website=catalogue.gazette-drouot.com|accessdate=2019-09-06|publisher=La Gazette Drouot|language=fr}}</ref>。
** ''les Beaux quartiers'' お屋敷町
 
** ''les Voyageurs de l'impériale'' 二階馬車の乗客達
アラゴンはヌイイのサン=ピエール校で[[初等教育]]を受け、{{仮リンク|リセ・カルノ|fr|Lycée Carnot (Paris)|label=}}に入学。早くから[[小説]]や[[詩]]を書き、6歳のときに書いた『なんという聖らかな魂』という作品は、20年後の1924年に[[綴り字|綴り]]を訂正しただけで[[短編集]]『放縦』に所収された<ref name=":2">{{Cite journal|和書|author=山本卓|year=|date=2011-09-01|title=アラゴンの小説技法 (4) : 『冒頭の一句』を読む|url=https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=979&item_no=1&page_id=29&block_id=40|journal=文学部紀要|volume=25|issue=1|page=|pages=1-31|publisher=[[文教大学]]}}</ref><ref>『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001875614-00 放縦]』([[山中散生]]訳、ボン書店、1934年) に「ナンテ崇高ナル心ナルカヨ」として所収。</ref>。1909年、12歳のときに作文部門の一等賞の賞品として[[モーリス・バレス]]選集を与えられた。後に[[即興劇]]「{{仮リンク|バレス裁判|fr|Procès Barrès|label=}}」としてダダイストの批判の対象となるバレスだが、当時は[[アナキズム|アナキスト]]・[[耽美主義]]者として青年[[知識人]]に深甚な影響を与えた文学者であった。アラゴンは「人生の方向を決定づけたと言っても過言ではない」というほどバレスに心酔し、また、バレスを通して、当時はまだ学校で教えられることのなかった[[スタンダール]]を読んだ。[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の作品に出会ったのも12歳のときだった<ref name=":3">[[大島博光]]『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2396.html アラゴン ― 少年時代]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。
** ''Aurélien'' {{仮リンク|オーレリアン (小説)|fr|Aurélien (Aragon)|label=オーレリアン}}
 
* ''le Crève-cœur'' 断腸
== 第一次大戦 ==
* ''la Mise à mort'' 死刑執行(1965年)中央公論社 新集 世界の文学 第34巻 三輪秀彦訳 1971年
 
*''Cantique à Elsa'' エルザへの讃歌(1941年)
=== ブルトンとの出会い ===
* ''Les yeux d'Elsa'' エルザの瞳(1942年)
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発。アラゴンは1回目の[[ラテン語]]・[[科学]]の[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]を取得したばかりで、翌15年7月には2回目の[[哲学]]のバカロレアに合格。[[物理学|物理]]・[[化学]]・[[博物学]]課程 (PCN) 修了証書を得て、[[医学]]の勉強を始めたが、1917年9月に医学生として[[動員]]されて軍医補になるためヴァル=ド=グラース陸軍病院に入った。ここで同じく動員された医学生アンドレ・ブルトンに出会い、お互いに、相手が自分と同じように[[ステファヌ・マラルメ|マラルメ]]、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]、[[ギヨーム・アポリネール|アポリネール]]、[[ロートレアモン伯爵|ロートレアモン]]、[[アルフレッド・ジャリ]]など、当時ほとんど評価されていなかった詩人に関心を抱いていることを知った<ref name=":3" />。ブルトンはアラゴンにフィリップ・スーポーを紹介し、彼らの交友はやがて、[[パリ6区]]{{仮リンク|オデオン通り|fr|Rue de l'Odéon|label=}}の{{仮リンク|アドリエンヌ・モニエ|fr|Adrienne Monnier|label=}}の[[書店]]に集まる作家、詩人らへと広がっていった<ref>アドリエンヌ・モニエ著『オデオン通り ― アドリエンヌ・モニエの書店』([[岩崎力]]訳、[[河出書房新社]] (復刻版) 2011年) 参照。</ref>。
* ''Elsa'' エルザ(1959年)
 
* ''Le Fou d'Elsa'' エルザの狂人(1963年)
陸軍病院で軍医補の資格を得たアラゴンは1918年6月に[[准士官]]として出征し、エーヌ県{{仮リンク|クーヴレル|fr|Couvrelles|label=}}で負傷し、{{仮リンク|クロワ・ド・ゲール勲章|fr|Croix de guerre 1914-1918 (France)|label=}}を受けた。戦時中から詩や評論を前衛文学雑誌に寄稿し始めた。最初の記事(アポリネールに関するもの)が掲載されたのは、ダダからシュルレアリスムの移行の火つけ役とされる詩人{{仮リンク|ピエール・アルベール=ビロ|fr|Pierre Albert-Birot|label=}}<ref>{{Cite web|title=ピエール アルベール・ビロ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AD-1617626|website=[[コトバンク]]|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>が編集長を務め、アポリネール、スーポーのほか、[[キュビスム]]の理論家[[ピエール・ルヴェルディ]]、[[未来派]]の[[画家]][[ジーノ・セヴェリーニ]]らが参加する[[アバンギャルド|前衛文学・芸術]]誌『{{仮リンク|SIC (雑誌)|fr|SIC (revue)|label=SIC}}』であった。アラゴンはまた、この頃から[[無政府主義]]の日刊紙『{{仮リンク|ジュルナル・デュ・ププル|fr|Le Journal du peuple|label=}}』、[[平和主義]]の雑誌『ヴァーグ』、{{仮リンク|ベルギー共産党|fr|Parti communiste de Belgique|label=}}の日刊紙『{{仮リンク|ドラポー・ルージュ|fr|Le Drapeau rouge (journal)|label=}}』などを購読していた<ref name=":1" />。
**''Les mains d'Elsa'' エルザの手(同上)
 
*''Il ne m'est Paris que d'Elsa'' エルザのパリなくしてパリはなし(1964年)
== 戦間期 ==
 
=== ダダイスム ===
[[ファイル:André Breton - photo Henri Manuel.jpg|サムネイル|181x181ピクセル|{{仮リンク|アンリ・マニュエル|fr|Henri Manuel|label=}}によるアンドレ・ブルトンの肖像写真(1927年)]]
1919年6月に[[復員]]し、医学の勉強を再開。{{仮リンク|ラリボワジエール病院|fr|Hôpital Lariboisière|label=}}で[[研修医]]を務めた。一方、1918年12月に『ダダ3』誌にダダ宣言が掲載された後、1919年3月にブルトン、スーポーとともに『リテラチュール』を創刊した。創刊号には、ルヴェルディ、[[アンドレ・ジッド]]、[[ポール・ヴァレリー]]、[[レオン=ポール・ファルグ]]、{{仮リンク|アンドレ・サルモン|fr|André Salmon|label=}}、[[マックス・ジャコブ]]、[[ブレーズ・サンドラール]]、[[ジャン・ポーラン]]が寄稿したが、1920年には既成の秩序の否定・破壊を目指すダダの宣言文が次々と掲載され、アラゴンもまた同年3月に最初のダダ宣言を発表するほか、ブルトンを中心に即興劇など挑発的・反芸術的な活動を企画した。
 
アラゴンは後に[[フランス共産党]]に入党することになるが、すでに1921年に[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]](SFIO)から分裂して結成されたときに、[[反戦運動|反戦]]を掲げる唯一の[[政党]]であるという理由でブルトンとともに入党しようとした。だが、このときは、運営委員会で代理を務めていた{{仮リンク|ジョルジュ・ピオク|fr|Georges Pioch|label=}}に失望して断念したと、後に『ドミニック・アルバンとの対談』で語っている<ref>{{Cite book|和書|title=アラゴン、自らを語る ― ドミニック・アルバンとの対談|date=|year=1985|publisher=富岡書房|translator=[[小島輝正]]、玄善允}}</ref>。
 
1921年には早くも[[トリスタン・ツァラ]]とブルトンの対立が露わになった。同年の春に行った即興劇「バレス裁判」は、[[極右]]的な[[政治思想]]に傾倒したモーリス・バレスに対する批判として、彼を裁判にかけるという設定であった。裁判長役はブルトン、{{仮リンク|ジョルジュ・リブモン=デセーニュ|fr|Georges Ribemont-Dessaignes|label=}}が原告、アラゴンとスーポーが弁護士、{{仮リンク|バンジャマン・ペレ|fr|Benjamin Péret|label=}}が[[ドイツ語]]を話すフランス兵の[[証人]]を演じた。[[観客]]も証人や[[陪審員]]として参加し、[[懲役]]20年の判決が下されたが、この劇でツァラは証人として登場し、ブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした。同様に、ブルトンが「現代精神の擁護」のための国際会議を招集したときにも、ツァラはこれを[[伝統]]への回帰だとして参加を拒否した。この結果、ペレ、エリュアール、後に[[ジャン・コクトー]]らもツァラを支持したが、アラゴンはブルトンを支持し、『リテラチュール』誌はダダと縁を切ることになった。これはすべてを破壊し、無意味化するダダイスムと、無意味や[[無意識]]を重視し、そこに新しい表現を見出そうとするシュルレアリスムの根本的な違いであった<ref>{{Cite journal|last=Carassus|author=|first=Émilien|year=|date=1985|title=De quelques surréalistes et du «Procès Barrés» Lettres inédites de Louis Aragon et de Pierre Drieu la Rochelle à Maurice Barrés|url=https://www.persee.fr/doc/litts_0563-9751_1985_num_13_1_1370|journal=Littératures|volume=13|issue=1|page=|pages=151–168|language=fr|doi=10.3406/litts.1985.1370}}</ref>。
 
さらに、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉を告げる事件となった。ブルトン、アラゴン、ペレらが参加したこの企画で、ダダイストの{{仮リンク|ピエール・ド・マッソ|fr|Pierre de Massot|label=}}が「ジッドは死んだ、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]は死んだ」と宣言文を読み上げたとき、友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台に飛び上がってマッソンに殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった。既成の秩序の破壊を唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力に訴えたのは決定的であった<ref>{{Cite web|title=Ca barbe, dada !|url=https://www.odyssee-culture.com/book/dada-ne-signifie-rien/ca-barbe-dada|website=www.odyssee-culture.com|accessdate=2019-09-06|publisher=L'Odyssée - Un équipement culturel de l'Agglo du Pays de Dreux|language=fr}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=塚原史|year=2018|title=トリスタン・ツァラの知られざる軌跡 : ダダから「実験夢」へ : 『種子と表皮』を読み解くために|url=http://id.ndl.go.jp/bib/029642670|journal=人文論集|volume=57|page=|pages=226-180|publisher=[[早稲田大学]]法学会}}</ref>。
 
=== 〈一種の空白期間〉 ===
アラゴンはツァラとの対立から決別に至るまで常にブルトンと行動を共にしたが、ブルトンのシュルレアリスム宣言が発刊され、アラゴンがシュルレアリスム的小説『夢の波』を発表した年でもある1924年までのダダからシュルレアリスムへの移行期を、アラゴンは「一種の空白期間」と呼んでいる<ref name=":4">{{Cite journal|和書|author=川上勉|year=1997|title=アラゴンの『現代文学史草案』について|url=http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/46608.pdf|journal=立命館経済学|volume=46|page=|pages=85-106}}</ref>。すでに処女詩集『祝火』を刊行し、耽美主義的な小説『アニセまたはパノラマ』を『[[新フランス評論]]』に発表し、次作『テレマツク冒険談』を準備していた彼は、1922年の初め頃に家族の反対を押し切って医学を断念する決意をした。医学生としてわずかながらも国家から給付金を受けていた彼は、生活の糧を絶たれ、まずは生計を立てなければならなかった。ブルトンから彼の友人で服飾デザイナーの{{仮リンク|ジャック・ドゥーセ|fr|Jacques Doucet (couturier)|label=}}に紹介された。ドゥーセは美術品蒐集家、作家の手書き原稿などの蒐集家でもあり、特に、1924年にブルトンに勧められてピカソの『[[アビニヨンの娘たち]]』を購入したことで知られるが<ref>{{Cite web|title=ピカソ作「アヴィニヨンの娘たち」100周年、特別展示会が開催 - 米国|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2223308|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=AFPBB News|date=2007-05-11}}</ref>、アラゴンは、現在、[[ソルボンヌ大学]]附属{{仮リンク|ジャック・ドゥーセ文学図書館|fr|Bibliothèque littéraire Jacques-Doucet|label=}}に保管されているドゥーセの蔵書に関するアドバイザーとして採用された。仕事の内容は、「{{仮リンク|アンドレ・シュアレス|fr|André Suarès|label=}}の発想で収集された過去のコレクションを補充すること、〈同世代の詩的精神の形成〉に貢献した作品を列挙すること、イジドール・デュカス(ロートレアモン伯爵)が読んだはずの資料を提示すること」であった。アラゴンは、このとき、ドゥーセのために『現代文学史草案』を執筆し、『リテラチュール』誌に順次発表した<ref name=":4" />。さらに、生活費を補充するために、{{仮リンク|ジャック・エベルト|fr|Jacques Hébertot|label=}}の[[シャンゼリゼ劇場]]の技術監督であった[[ルイ・ジューヴェ]]の推薦で、同劇場の演目を週刊新聞『パリ・ジュルナル』として刊行する仕事を得た。この間、後に『テレマツク冒険談』(1922年刊行)、『放縦』(1924年)、詩集『永久運動』(1925年) に所載されることになる作品を引き続き『新フランス評論』に次々と発表した。こうして、ダダの活動において表現されたアラゴンの反逆精神は、シュルレアリスムに新たな表現を見出すことになった。
 
=== シュルレアリスム ===
[[ファイル:La Révolution surréaliste, n02, 1925.djvu|サムネイル|270x270ピクセル|『シュルレアリスム革命』表紙(1925年2月15日付第2号)]]
シュルレアリスム運動の基盤には[[ジークムント・フロイト|フロイト]]と[[カール・マルクス|マルクス]]の思想がある。すなわち、合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代わりに無意識の表現を引き出すことで人間性を回復・解放しようとする運動であり<ref>{{Cite web|title=シュルレアリスム|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0-78441|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>、とりわけ、アラゴンにとっては、[[マルクス主義]]的な解放と[[革命]]の希望であった<ref name=":1" />。1924年に[[パリ7区]]の{{仮リンク|グルネル通り|fr|Rue de Grenelle|label=}}にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表された。とりわけ、[[アナトール・フランス]]が死去したときに共同で執筆した小冊子『死骸』は、この権威的な存在を葬り去り、乗り越えようとする最初の象徴的な行為であり、一大スキャンダルを巻き起こした<ref>{{Cite journal|和書|author=唄邦弘|month=3|year=2007|title=ジョルジュ・バタイユにおける形態の弁証法 : 雑誌『ドキュマン』における「人間の姿」|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002322|journal=美学芸術学論集|volume=3|page=|pages=18-40|publisher=[[神戸大学]]文学部芸術学研究室}}</ref>。1924年末には文芸誌『シュルレアリスム革命』が創刊され、最初の4号は{{仮リンク|ピエール・ナヴィル|fr|Pierre Naville|label=}}とバンジャマン・ペレが編集、以後はアラゴンが中心となって1929年まで5年にわたって[[オートマティスム|自動記述]]、睡眠実験、[[デペイズマン]]、[[コラージュ]]、無意識、[[夢]]、[[偶然]]、[[不条理]]などシュルレアリスムの重要なテーマをすべて取り上げ、運動の最も重要な雑誌の一つとなった<ref>{{Cite web|title=《シュルレアリスム革命》|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%80%8B-1337840|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>。
 
この頃にはまた、[[アンリ・バルビュス]]が1919年に発表した『クラルテ』<ref>アンリ・バルビュス『クラルテ』([[小牧近江]]、[[佐々木孝丸]]共訳、叢文閣、1923年) 参照。</ref>を契機として[[共産主義]]知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』<ref>{{Cite web|title=クラルテ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%86-485843|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>の編集委員とシュルレアリストとの間に協力関係が生まれ、アラゴンは『クラルテ』誌に記事を掲載し始めた。とりわけ、[[第3次リーフ戦争|リーフ戦争]]でフランスが1925年7月に[[リーフ共和国]]に[[宣戦布告]]して[[モロッコ]]に侵攻すると、バルビュスが反戦を呼びかけ、これに賛同したシュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者がリーフ戦争反対声明に共同署名し、共産党の機関紙『[[リュマニテ]]』紙に掲載。これを機に、政治・社会改革への関与には疑問を抱いていたブルトンも共産党への接近を模索するようになった<ref name=":1" />。「まず革命を、そして常に革命を」と題され、1925年9月21日に『リュマニテ』紙に掲載されたシュルレアリストと共産主義者のこの[[共同声明]]は、10月15日に『クラルテ』誌と『シュルレアリスム革命』誌に同時に掲載された。これは、シュルレアリストらにとって文学芸術革命を社会革命へつなげようとする試みであり、以後、アラゴンのほか、[[ロベール・デスノス]]、エリュアール、[[ミシェル・レリス]]らが次々と『クラルテ』誌に執筆した。アラゴンはこの頃、『[[共産党宣言]]』や[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の著書を読み、1925年11月から翌26年6月にかけて『クラルテ』誌に「マルクス主義者」、「精神の[[プロレタリアート]]」、「精神の代価」と題する理論的な考察を発表し、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]体制における知識人の現状を批判した。1926年末から翌27年にかけてアラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレ、{{仮リンク|ピエール・ユニック|fr|Pierre Unik|label=}}が共産党に入党した。5人はシュルレアリストの入党に関する誤解を解くために、「白日の下に」と題する[[小冊子]]を作成し、シュルレアリストは共産党において特殊な役割を担うことになると主張したが、逆に誤解を募らせるだけであり、ブルトンはまもなく離党した。政治的立場だけでなく文学論、特に小説の問題についてもブルトンとアラゴンの間に対立が生じ始めていた。アラゴンはこの間、主に『シュルレアリスム革命』誌に発表した短編を『放縦』、『パリの農夫』として出版していたが、一方で、想像を絶するほどの「小説創造の可能性」としてすでに6年近くにわたって『無限の擁護』という「小説というジャンルの伝統的な法則にすべて違反したある新種の小説」を生み出そうとしていた。100人ほどの人物が登場する1,500ページにも及ぶ作品として構成され、「あらゆるモラルが崩壊して、一種の巨大な乱痴気騒ぎに陥る」[[ヨハネの黙示録|黙示録]]的な世界を描くはずであった。だが、アラゴンはこの作品を1927年の秋に[[マドリード|マドリッド]]の[[ホテル]]の一室で焼き捨てた。彼はこの作品を「1927年に放り出した」と書いているだけである<ref name=":2" />。
 
彼はこのとき{{仮リンク|ナンシー・キュナード|fr|Nancy Cunard|label=}}と一緒であった。キュナードは豪華客船を運航する[[イギリス]]のキュナード汽船会社([[キュナード・ライン]])を相続する一族に生まれた詩人で、保守的なイギリス[[上流社会]]を捨てて渡仏、シュルレアリストや[[モンパルナス]]の[[芸術家]]・文学者らと知り合い、2年ほどアラゴンと恋愛関係にあった<ref>{{Cite web|title=“L’Atlantique noir” de Nancy Cunard Negro Anthology (1931-1934)|url=https://ovninavi.com/761expo/|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=[[OVNI]]|date=2014-04-02}}</ref>。アラゴンはこの頃、[[ルイス・キャロル]]の[[ナンセンス文学|ナンセンス詩]]『[[スナーク狩り]]』を[[フランス語]]に訳しているが、キュナードはこれを編集し、自ら設立したアワーズ出版社から刊行した。この出版社は短命に終わったが、当時パリに住んでいた[[サミュエル・ベケット]]の最初の詩集『ホロスコープ』や[[エズラ・パウンド]]の『カントス』を刊行したことでも知られる<ref>{{Cite web|title=ARAGON (Louis) - CARROLL (Lewis)|url=https://www.binocheetgiquello.com/lot/27102/5880673|website=Binoche et Giquello|accessdate=2019-09-06|language=fr|first=Binoche et|last=Giquello}}</ref>。一方、キュナードはアラゴンの影響で共産主義に傾倒した。まもなくアラゴンのもとを去って[[黒人]][[ピアニスト]]のヘンリー・クラウダーと付き合うようになった彼女は、後に共産主義革命による黒人解放を訴える運動家として活躍した<ref>{{Cite web|title=Nancy Cunard, la lutte avec classe|url=https://www.telerama.fr/monde/nancy-cunard,-la-lutte-avec-classe,n5761719.php|website=Télérama.fr|accessdate=2019-09-06|language=fr|publisher=|date=2018-08-14}}</ref>。キュナードとの別れはアラゴンを[[自殺]]未遂に追い込んだ。1928年9月、[[ヴェネツィア|ベネチア]]でのことである<ref name=":0" /><ref>{{Cite journal|和書|author=山本卓|year=|date=2005-03-01|title=アラゴンの小説技法 (1) ― 方法としての「余談」について|url=https://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/lit/l1802/l180203.pdf|journal=文学部紀要|volume=18|issue=2|page=|pages=39-68|publisher=文教大学}}</ref>。
[[ファイル:Elsa-triolet-1925.jpg|左|サムネイル|196x196ピクセル|エルザ・トリオレ(1925年)]]
同年11月、[[モンパルナス]]のブラッスリー「[[ラ・クーポール]]」でロシア生まれの詩人[[ウラジーミル・マヤコフスキー]]と彼の愛人{{仮リンク|リーリャ・ブリーク|fr|Lili Brik|label=}}の妹で、後に生涯を共にすることになるエルザ・トリオレ(旧姓カガン)に出会った。エルザはモスクワで知り合ったフランス人の将校アンドレ・トリオレと結婚し、[[シベリア]]、[[サンフランシスコ]]、[[タヒチ島|タヒチ]]と彼の赴任に同行した後に別居し、1924年に渡仏。当時芸術家のコミュニティであったモンパルナスに住み、[[フェルナン・レジェ]]や[[マルセル・デュシャン]]らと付き合っていた。一方、1923年に[[レフ (ロシア・アヴァンギャルド)|芸術左翼戦線(レフ)]]を結成したマヤコフスキーは、アラゴンに社会革命において詩人が担う役割、その方向性を示す存在となった<ref name=":1" />。
 
1929年、ブルトンはシュルレアリスト5人の共産党入党によって生じた対立を解消するために、除名者、『クラルテ』寄稿者を含むすべてのシュルレアリストに対して集会を呼びかけたが失敗に終わったため、あらためて政治的・文学的立場を明確にするために1930年に『シュルレアリスム[[第二宣言]]』を発表し、さらに、デスノス、[[アントナン・アルトー]]らを除名し、[[サルバドール・ダリ]]、[[ルイス・ブニュエル]]、[[ルネ・シャール]]、{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|fr|Georges Sadoul|label=}}らを加えて『シュルレアリスム革命』の後続誌『{{仮リンク|革命に奉仕するシュルレアリスム|fr|Le Surréalisme au service de la révolution|label=}}』<ref>{{Cite web|title=《革命に奉仕するシュルレアリスム》|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AB%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%80%8B-1288501|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>を創刊した。
 
=== アラゴン事件 -〈赤色戦線〉 ===
1930年4月、マヤコフスキーが自殺。アラゴンとエルザは姉リーリャ・ブリークに会うためにソ連を訪れた。ジョルジュ・サドゥールが合流し、アラゴンとサドゥールはハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会にシュルレアリストを代表して参加した。この経験が大きな転機となった。シュルレアリスムの共産党からの独立性を主張するブルトンに対して、アラゴンは共産党と共同戦線を張る必要があると考えるようになり、サドゥールとともに作成したハリコフ会議の報告書には、共産党との合意に基づいて国際革命作家同盟のフランス支部「{{仮リンク|革命作家芸術家協会|fr|Association des écrivains et artistes révolutionnaires|label=}} (AEAR)」を設立することなどが盛り込まれていた。ハリコフ報告はシュルレアリストにとって到底受け入れられるものではなく、この後3か月にわたって激論が交わされた<ref name=":5">大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2956.html 『赤色戦線』・アラゴン事件(下)]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。
 
さらに、アラゴンがソ連滞在中に書いた長詩「{{仮リンク|赤色戦線|fr|Front rouge (poème)|label=}}」は、彼の[[社会主義]]的情熱を語るものであり、これにより、アラゴンとブルトン、ひいてはシュルレアリスムとの決別は決定的なものとなった。労働者に革命を呼びかけ、「赤い列車は動き出し、だれも止められはしない、SSSR、SSSR、五カ年計画を四年で成し遂げよう、SSSR、人間による人間の搾取をやめさせよう、SSSR、SSSR、SSSR」(SSSR:[[ソビエト連邦]])、「ポリ公どもをぶっ殺せ」、「[[レオン・ブルム]]に火を放て」といった詩句を含むこの詩は、1931年10月に刊行された詩集『迫害する被迫害者』の巻頭詩として掲載され、国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版にも掲載された。ところが、このフランス語版が11月にパリで[[押収]]され、翌32年1月16日、アラゴンは、「無政府主義の宣伝のために」、「[[軍隊]]に不服従を促し、[[殺人]]を教唆した」として告発された。これは、5年の[[禁錮]]刑が言い渡される可能性のある[[犯罪]]であり、シュルレアリストらを巻き込んだ「アラゴン事件」に発展した<ref name=":5" />。
 
シュルレアリストらはさっそく「[[裁判]]を目的とした詩作品解釈の試みに抗議し、[[訴訟]]の中止を要求する」という声明を発表し、アラゴン告発に抗議する[[署名運動]]を開始した。たちまち、フランスだけでなく、[[ベルギー]]、[[ドイツ]]、[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]などの知識人から300人以上の署名が集まった。一方、ブルトンにとってこの運動は、詩作品「赤色戦線」の評価とは別であり、彼は同年3月に発表した小冊子『詩の貧困 ― 世論に裁かれる「アラゴン事件」』<ref>{{Cite web|url=https://www.andrebreton.fr/work/56600100308001|title=Misère de la poésie « L'affaire Aragon » devant l'opinion publique|accessdate=2019-09-06|publisher=|website=andrebreton.fr}}</ref>において、この詩は「新しい道を切り拓くものではなく」、「状況の詩」であり、「詩における後退」であると断言した。これに対して、1932年3月に設立された革命作家芸術家協会はアラゴンを支持し、アラゴンは『リュマニテ』紙に『詩の貧困』の内容を否認するとする囲み記事を掲載した。こうして、ハリコフ会議を機に共産主義への一歩を踏み出し、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」を否認したアラゴンの「赤色戦線」、そして「アラゴン事件」は、シュルレアリスムという文学芸術革命に留まるか、これを社会革命に発展させるかという問題をシュルレアリストらに突きつけることになり<ref name=":0" /><ref name=":5" />、アラゴン自身は後に『社会主義レアリスムのために』に「ソビエトから帰ってきたわたしはもはや同じ人間ではなかった。もはや『パリの農夫』の作者ではなく、『赤色戦線』の作者だった」と書くことになる<ref>大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2955.html 『赤色戦線』・アラゴン事件(上)]」(大島博光記念館公式ウェブサイト))</ref>。
 
=== 革命作家芸術家協会 -〈コミューン〉 ===
1932年の春からエルザとともにソ連に1年間滞在して国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版の編纂にあたった。パリに戻ってからは『リュマニテ』紙の総合情報欄担当の記者を1934年5月まで務め、また匿名で、240人の死者、300人の負傷者を出した1933年の列車脱線事故、両親を殺害したかどで無期懲役刑を言い渡された18歳の女性{{仮リンク|ヴィオレット・ノジエール|fr|Violette Nozière|label=}}の事件などの[[三面記事]]から、[[アクション・フランセーズ]]などの[[右派]]・[[極右]]勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動して起こした[[1934年2月6日の危機]]まで主に社会問題に関する記事を執筆した。『リュマニテ』紙の編集長{{仮リンク|ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ|fr|Paul Vaillant-Couturier|label=}}はアラゴンを共産党書記長の[[モーリス・トレーズ]]に紹介した。1930年から1964年まで長らく書記長を務めたトレーズは[[フランス人民戦線]]の結成、対独レジスタンス運動に参加し、[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]におけるソ連の軍事介入まで一貫してソ連の指導者[[ヨシフ・スターリン]]の外交政策を支持した人物であり、アラゴンが当初なじめなかった共産党に活動の場を見出したのもトレーズの影響であった<ref name=":1" />。
 
国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部「革命作家芸術家協会」は1932年3月に設立され、アラゴンのほか、バルビュス、ジッド、ブルトン、デスノス、ペレ、[[ロマン・ロラン]]、[[ロバート・キャパ]]、{{仮リンク|ウジェーヌ・ダビ|fr|Eugène Dabit|label=}}、[[マックス・エルンスト]]、[[ジャン・ゲーノ]]、[[ジャン・ジオノ]]、[[アンドレ・マルロー]]、[[ポール・ニザン]]らが参加した<ref>{{Cite journal|和書|author=細川真由|year=|date=2017-03-30|title=フランス知識人の「反ファシズム」イデオロギー ― 戦間期反戦運動および対独レジスタンス運動との関連において|url=http://hdl.handle.net/2433/220427|journal=社会システム研究|volume=|issue=20|page=|pages=157-171|publisher=[[京都大学]]大学院人間・環境学研究科 社会システム研究刊行会}}</ref><ref>{{Cite web|title=革命作家芸術家協会|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%AE%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A-1288479|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>。1933年7月には同協会の機関誌『コミューン』が創刊され、アラゴンは1933年7月から1936年12月まで編集事務局を務めた後、1937年1月からジッド、ロマン・ロラン、ヴァイヤン=クーチュリエとともに編集委員、1937年の秋からロマン・ロランと共同編集長を務めたが、事実上はアラゴンが一人で編纂を担当した。『コミューン』誌の創刊号は「[[検閲]]、今ここで」と題され、以後、「[[アントニオ・グラムシ|グラムシ]]と[[大衆文化]]」、「人道主義は[[ヒューマニズム]]か」、「スターリンを語る」などの特集が組まれている<ref>{{Cite web|url=https://gallica.bnf.fr/services/engine/search/sru?operation=searchRetrieve&version=1.2&collapsing=disabled&query=(arkPress%20all%20%22cb34425436b_date%22)#resultat-id-7|title=Commune|accessdate=2019-09-06|publisher=BnF Gallica|language=fr}}</ref>。アラゴンは『コミューン』誌に定期的に寄稿し、ポール・ニザンの『アントワーヌ・ブロワイエ』や政治小説などの書評、1936年の[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1936年)|スターリン憲法]]や第一回[[モスクワ裁判]]に関する記事を掲載した。また、革命作家芸術家協会や彼が事務局長を務める文化会館(革命作家芸術家協会以外の人民戦線の様々な文化団体が参加)の主催で、{{仮リンク|ルネ・クルヴェル|fr|René Crevel|label=}}との討論会「絵画の未来」(1935年5月)、「[[ヴィクトル・ユーゴー]]特集」(1935年6月)、「フランス小説の擁護 ― ({{仮リンク|ルイ・ギユー|fr|Louis Guilloux|label=}}の小説)『黒い血』が意味するもの」(1935年12月)、「時事問題としてのリアリズム」(1936年5月)、のゴーリキー追悼特集(1936年8月)など多くの大会や討論会を組織した<ref name=":1" />。
 
=== 社会主義リアリズム - 革命的ロマン主義 ===
1934年に、主に1932年のソ連滞在中に書かれた詩を『ウラル万才』として発表した。表題作「ウラル万才」は「重要なのは世界を変えることである」というマルクスの言葉で結ばれている<ref>ルイ・アラゴン『アラゴン詩集』大島博光訳、[[飯塚書店]] (世界現代詩集14)、1968年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-68.html アラゴン Louis Aragon]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。1934年には小説『バーゼルの鐘』も発表された。[[クララ・ツェトキン]]を新しい女性像として描いたこの小説は<ref>大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1633.html クララ・ツェトキンとツール大会(上)]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>、アラゴンの[[社会主義リアリズム]]五部作『現実世界』の第一作であり、この後、『お屋敷町』、『二階馬車の乗客たち』、『オーレリアン』、および戦後に『レ・コミュニスト』全6巻が刊行されることになる。『お屋敷町』は1936年ルノードー賞を受賞した。また、これらの作品は、妻エルザ・トリオレに捧げられ、「私が今日あるは彼女のお蔭であり、私が懐疑と絶望の底から、生死を賭けるに足る「現実世界」の入口を見出すことのできたのも、彼女のお蔭である」と書かれている<ref>ルイ・アラゴン『素晴しき大地』大島博光訳、蒼樹社、1951年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-580.html アラゴン「素晴らしき大地」]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。[[ファイル:Louis Aragon 9 décembre 1936 - Henri Manuel.jpg|サムネイル|226x226ピクセル|ルノードー賞受賞作『お屋敷町』にサインするアラゴン(1936年12月9日)|代替文=|左]]1935年に刊行された『社会主義レアリスムのために』は講演集であり、パリ文化会館での講演「[[アルフレッド・ド・ヴィニー]]からアヴデエンコへ ― ソビエトの作家」、1935年4月にニューヨークで開催された「[[ジョン・リード]]・クラブ大会へのメッセージ」、反戦・[[反ファシズム]]を掲げた文化擁護国際作家会議での講演「現実への回帰」などが含まれる。アラゴンの社会主義リアリズムは、ソ連の社会主義リアリズムを[[フランス文学]]の伝統につなげようとする試みであり、「([[エミール・ゾラ]]の)『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』と(ヴィクトル・ユーゴーの)『懲罰詩集』が一体となった」ような「革命的ロマン主義」と定義している<ref name=":1" />。{{仮リンク|第1回文化擁護国際作家会議|fr|Premier congrès international des écrivains pour la défense de la culture|label=}}は1935年6月にパリで開催され、アラゴンは[[イリヤ・エレンブルグ]]の協力を得て事務局を務めた。ソ連からはエレンブルグのほか[[イサーク・バーベリ]]、ドイツからは[[ハインリヒ・マン]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]、[[アンナ・ゼーガース]]、[[オーストリア]]から[[ロベルト・ムージル|ローベルト・ムージル]]、英国から[[オルダス・ハクスリー]]らが参加した<ref>{{Cite web|title=文化擁護国際作家会議|url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%93%81%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1409892|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>。第2回はスペインで開催され、第3回は1937年に再びパリで行われた。これらの講演は「文化擁護国際作家協会」叢書として{{仮リンク|ドノエル出版社|fr|Éditions Denoël|label=}}から刊行された。なお、第1回文化擁護国際作家会議ではエレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放されるなど、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の[[ソビエト連邦|ソ連]]を支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別が決定的なものとなった<ref name=":02">{{Cite web|title=ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent|url=http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article24290|website=maitron-en-ligne.univ-paris1.fr|accessdate=2019-09-11|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|language=fr}}</ref>。
 
1936年から1938年にかけて行われたモスクワ裁判(スターリンの[[大粛清]])について、アラゴンは『コミューン』誌上でこれを正当化しているが、この事件に「動揺しなかったわけではない」とされる。義姉リーリャ・ブリークの愛人プリマコフも1937年に[[銃殺刑]]に処されたが、彼の有罪を信じていたわけではなく、また、{{仮リンク|ジャック・デュクロ|fr|Jacques Duclos|label=}}との対談でモスクワ裁判の話になったときにも、公言を避けていた<ref>{{Cite book|title=Elsa Triolet : "les yeux et la mémoire"|date=|year=1994|publisher=Plon|author=Lilly Marcou}}</ref>。とはいえ、これについては当時の他の左派知識人も同様で、1934年2月6日の危機への抗議として結成された[[反ファシズム知識人監視委員会]]もモスクワ裁判はもとより、ソ連の共産主義に対してすら公に立場を表明していない<ref>{{Cite journal|last=Racine-Furlaud|author=|first=Nicole|year=|date=1977|title=Le Comité de vigilance des intellectuels antifascistes (1934-1939). Antifascisme et pacifisme|url=https://www.jstor.org/stable/3777881|journal=Le Mouvement social|volume=|issue=101|page=|pages=87–113|language=fr|doi=10.2307/3777881|issn=0027-2671}}</ref>。
 
=== 共産党の機関紙〈ス・ソワール〉 ===
[[ファイル:Journal Ce Soir, 4 et 5 novembre 1945.jpg|サムネイル|244x244ピクセル|共産党の機関紙『ス・ソワール』1945年11月4日付]]
1936年の秋に、共産党書記長トレーズからの依頼により、機関紙『ス・ソワール (今夜)』(日刊紙)を創刊することになり、ロマン・ロランらが創刊した『ユーロープ』誌で活躍していた{{仮リンク|ジャン=リシャール・ブロック|fr|Jean-Richard Bloch|label=}}に協力を求めた。ブロックはこれを機に共産党に入党し、アラゴンとともに共同編集長を務めた<ref>{{Cite web|title=ジャン=リシャール・ブロック|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF-1630871|website=コトバンク|accessdate=2019-09-06|language=ja|publisher=}}</ref>。創刊号は1937年3月1日に刊行され、共産党の{{仮リンク|ガブリエル・ペリ|fr|Gabriel Péri|label=}}、ニザン、サドゥール、トリオレ、コクトー、[[ジュリアン・バンダ]]、{{仮リンク|ジャン・ブランザ|fr|Jean Blanzat|label=}}、{{仮リンク|アンドレ・ヴィオリス|fr|Andrée Viollis|label=}}ら主に人民戦線を支持する作家が参加した。特に[[スペイン内戦]]について多くの[[ルポルタージュ]]を行い、販売部数は1937年の12万部から2年後の39年には25万部に急増した(同年の『リュマニテ』の販売部数は約35万部)<ref>{{Cite web|url=https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01626344v3/document|title=Jeux-concours et référendums de presse Un premier inventaire (France, 1870-1939)|accessdate=2019-09-06|publisher=CCSD HAL|author=Jean-Paul Grémy|language=fr}}</ref>。『ス・ソワール』はスペイン内戦の共和派(人民戦線政府)を支持し、[[1938年]]9月の[[ミュンヘン協定]](対独宥和政策)に反対する論陣を張った。
 
== 第二次大戦 ==
 
=== 独ソ不可侵条約 ===
[[1939年]][[8月23日]]にスターリンが[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と[[独ソ不可侵条約]]を締結。共産党は狼狽した。党幹部はソ連の方向転換の理由と、この条約によってもなお、共産党の反ファシズムとソ連の政策への支持が両立し得ることを説明する必要があり、『リュマニテ』紙上で「独ソ不可侵条約は、ナチズムの基本的教義全体の突然の放棄である」と弁明した<ref name=":6">{{Cite journal|和書|author=[[竹岡敬温]]|month=3|year=2014|title=フランス人民党1936-1940年 (3)|url=http://hdl.handle.net/11094/57037|journal=[[大阪大学]]経済学|volume=63|issue=4|page=|pages=1-32|publisher=大阪大学経済学会}}</ref>。アラゴンもまた、『ス・ソワール』紙の編集長としてこれを正当化するために、8月23日付『ス・ソワール』紙には「平和万歳」、翌24日は「すべて侵略国に抗して」と題する社説を掲載したが、翌8月25日、[[エドゥアール・ダラディエ|ダラディエ]]内閣は、『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙のほか、共産党のすべての機関紙を押収し、発禁処分とし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した<ref name=":6" />。そのうえ、アラゴンは極右のデモによって攻撃を受け、8月末まで[[チリ大使館]]に保護された<ref name=":0" />。なお、『ス・ソワール』が再刊されるのは、戦後([[パリの解放|パリ解放]]後)の1944年9月末のことであり、これ以後も廃刊となる1953年までアラゴンが編集長を務めた<ref>{{Cite journal|和書|author=中村督|month=3|year=2015|title=戦後フランスにおける情報秩序の再構築に関する予備考察 (2) : 新聞の党派性とその変化|url=http://doi.org/10.15119/00000659|journal=南山大学 ヨーロッパ研究センター報|volume=21|page=|pages=27-39|publisher=[[南山大学]]ヨーロッパ研究センター}}</ref>。
 
アラゴンは1939年9月2日に軍医補として動員され、ベルギーの前線に送られた。[[まやかし戦争]]の間は、ジャン・ポーランが[[ガストン・ガリマール]]を説得し、ガリマール出版社刊行の『新フランス評論』に引き続き『二階馬車の乗客たち』を発表した。1940年5月にナチス・ドイツがフランスに侵攻。アラゴンの部隊は[[ブリュッセル]]東方のティーネン郊外のベルギー軍陣地を救援することになっていたが、英仏連合軍の敗北により[[ダンケルクの戦い|ダンケルク]]への潰走が始まった。アラゴンの部隊がダンケルクに到着したのは5月29日。このときのことを詩「ダンケルクの夜」に書いている<ref name=":7">大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-261.html 新日本新書『アラゴン』- リラと薔薇(ダンケルクの悲劇)]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。1940年6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城(パリ陥落)。アラゴンの「リラと薔薇」は、パリ陥落前の[[ライラック|リラ]]が咲く5月(「雲のなかった五月」)と陥落後の[[薔薇]]が咲く6月(「胸えぐられた六月」)の間に「消えうせた数世紀」としてこの「恐ろしい悲劇」を語った詩である<ref name=":7" />。この詩は1940年7月に『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』紙に掲載された。ジャン・ポーランがアラゴンにこの詩を見せられたときに丸暗記して掲載したものであった<ref>{{Cite web|url=http://jeanpaulhan-sljp.fr/acrobat/bio/biographiques.pdf|title=Chronologie biographique de JEAN PAULHAN (1884-1968)|accessdate=2019-09-06|publisher=Société des lecteurs de Jean Paulhan|author=Claire Paulhan, Bernard Baillaud|language=fr}}</ref>。
[[ファイル:Seghers Aragon & Triolet 1942.jpg|サムネイル|ルイ・アラゴン、エルザ・トリオレ、ピエール・セゲルス(1941年夏)]]
アラゴンはクロワ・ド・ゲール勲章を受け、1940年7月に[[ドルドーニュ県]]リベラックで復員した後、エルザに再会し、南部の自由地域[[カルカソンヌ]]、{{仮リンク|レ・ザングル|fr|Les Angles (Pyrénées-Orientales)|label=}}に向かい、ここで{{仮リンク|ピエール・セゲルス|fr|Pierre Seghers|label=}}に合流し、12月30日、[[ニース]]に到着した。
 
=== 対独レジスタンス - 地下出版 ===
[[ヴィシー政権]]下ではナチス・ドイツによって反独的な書物や[[ユダヤ人]]による出版が禁止され、厳しい[[検閲]]が行われた。また、あらゆる物資が不足し、[[紙]]や[[インク]]なども[[配給制]]であった。ドイツ軍は配給を制限することで、さらに[[言論の自由|言論]]・[[思想の自由]]を抑圧したのである<ref>{{Cite web|url=http://museedelaresistanceenligne.org/musee/doc/pdf/222.pdf|title=Musée de la Résistance et de la Déportation de la Haute-Garonne. “Art et Littérature pendant la seconde guerre mondiale”|accessdate=2019-09-06|publisher=Musée de la résistance en ligne|language=fr}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=安原伸一朗|year=2006|title=紙の争奪戦 ― ナチス占領下のフランスにおける検閲と作家の文筆活動|journal=言語情報科学|volume=|issue=4|page=|pages=339-355}}</ref>。さらに、1940年9月28日には出版社労働組合と占領当局との間で検閲協定が締結された<ref>{{Cite journal|和書|author=重見晋也|year=2011|title=パラテクスト研究の問題点 ― Confluences誌を対象とした調査の事例に基づいて|url=https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/5-2_%e9%87%8d%e8%a6%8b.pdf|journal=HERSETEC. テクスト布置の解釈学的研究と教育|volume=5|issue=2|page=23}}</ref>。これにはアラゴンの著書や『新フランス評論』を出版していた[[ガリマール出版社]]、ドノエル出版社も署名した。一方、同日付で駐仏ドイツ大使{{仮リンク|オットー・アベッツ|fr|Otto Abetz|label=}}が[[禁書目録]]「{{仮リンク|オットー・リスト|fr|Liste Otto|label=}}」を発表した。これは出版社ごとに(ガリマール出版社は『新フランス評論』出版社として)[[発禁]]または書店から回収する842人のユダヤ人作家・反ナチス作家(主に[[共産主義]]者)の著書1,060冊の一覧であり、[[ハインリヒ・ハイネ]]、[[トーマス・マン]]、[[シュテファン・ツヴァイク]]、[[マックス・ジャコブ]]、[[ジョゼフ・ケッセル]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[カール・グスタフ・ユング]]、[[カール・マルクス]]、[[レフ・トロツキー]]らのほか、フランスの作家では[[ジュリアン・バンダ]]、[[レオン・ブルム]]、そしてアラゴンの『バーゼルの鐘』(ドノエル出版社刊行およびこのドイツ語翻訳)が挙がっている<ref>{{Cite book|title=Liste Otto : ouvrages retirés de la vente par les éditeurs ou interdits par les autorités allemandes|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8626072f|date=1940|language=FR|year=|publisher=BnF Gallica}}</ref>。『新フランス評論』は1940年6月1日にいったん終刊し、12月にオットー・アベッツの要請により再刊された。アベッツは[[ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル|ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル]]を編集長に任命した。ドリュ・ラ・ロシェルは1920年代にはアラゴン、ブルトンらとともにダダ、シュルレアリスムに参加したが、ファシズムに傾倒し、ヴィシー政権下で[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッペルス]]の宣伝省の企画による「新しいヨーロッパ文化の創造」を訴えるワイマール作家会議に親ナチ作家を率いて参加するなど対独協力派を代表する作家となった<ref>{{Cite journal|和書|author=[[有田英也]]|month=3|year=1994|title=ワイマールへの旅 : 1941年11月第1回ヨーロッパ作家会議についての覚え書き|url=https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=540&item_no=1&page_id=13&block_id=17|journal=ヨーロッパ文化研究|volume=13|page=|pages=232-213|publisher=[[成城大学]]文芸学部}}</ref>。
 
一方、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されたことを受けて、[[ドイツ学]]者{{仮リンク|ジャック・ドクール|fr|Jacques Decour|label=}}、哲学者[[ジョルジュ・ポリツェル]]、物理学者{{仮リンク|ジャック・ソロモン|fr|Jacques Solomon|label=}}が共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線の一派として全国作家委員会を結成した。[[1941年]][[6月22日]]にドイツ軍がソ連侵攻を開始したことで([[独ソ戦]])、独ソ不可侵条約が事実上破棄されると、共産党は[[ヴィシー政府]]の対独協力政策に対して公然と反対を表明し、モスクワからの指令に従って武装[[ゲリラ]]組織を結成するなど、本格的なレジスタンス運動を展開した<ref>{{Cite journal|和書|author=[[山崎雅弘]]|month=8|year=2006|title=栄光のレジスタンス ― 祖国フランスを解放した不屈の地下組織|journal=[[歴史群像]]|volume=|issue=18|page=}}</ref>。これは、党の機関紙の編集長として独ソ不可侵条約の締結以来、複雑な立場にあったアラゴンにとっても同様であった。彼は1941年にガリマール社から『断腸詩集』を発表した後、翌42年には「エルザへの讃歌」と「エルザの瞳」をそれぞれ[[アルジェ]]に拠点を置く「フォンテーヌ評論」出版社と[[スイス]]に拠点を置くバコニエール出版社から刊行していた。これらはエルザへの愛を歌う詩であると同時に、[[女性名詞]]の「フランス」への愛の歌、すなわち、検閲の目をくぐって対独抗戦を呼びかける抵抗の詩であった<ref name=":0" />。
 
1941年にジャン・ポーランと全国作家委員会のジャック・ドクールが地下出版の週刊新聞『{{仮リンク|レットル・フランセーズ|fr|Les Lettres françaises|label=}} (フランス文学)』を創刊。当時[[挿絵]][[画家]]であったジャン・ブリュレル([[ヴェルコール]])と作家の{{仮リンク|ピエール・ド・レスキュール|fr|Pierre de Lescure|label=}}は地下出版社の[[深夜叢書]]を創設した。この2つのグループは、文筆活動によってナチスの弾圧に抵抗し、[[言論の自由|言論]]・[[表現の自由]]を擁護する活動を牽引した。1943年、アラゴンはエルザ・トリオレとともに南部自由地域の全国作家委員会を結成した。これを機に、ピエール・セゲルス、[[ジャン・カスー]]、[[クロード・アヴリーヌ]]、{{仮リンク|ルイ=マルタン・ショフィエ|fr|Louis Martin-Chauffier|label=}}、{{仮リンク|ジャン・プレヴォー|fr|Jean Prévost (écrivain)|label=}}、{{仮リンク|アンドレ・ルソー|fr|André Rousseaux|label=}}、{{仮リンク|クロード・ロワ|fr|Claude Roy (écrivain)|label=}}らの参加を得て、組織が拡大していった<ref>{{Cite web|title=Almanach des Lettres françaises publié par le CNE|url=http://museedelaresistanceenligne.org/media7089-iAlmanach-des-Lettres-franA|website=museedelaresistanceenligne.org|accessdate=2019-09-06|publisher=Musée de la résistance en ligne|language=fr}}</ref>。なお、全国作家委員会はパリ解放後に対独協力作家の[[ブラックリスト]]を『レットル・フランセーズ』紙に掲載し、編集長のポーランはこれに抗議して辞任することになるが、戦後1953年から1972年まで同紙の編集長を務めたのがアラゴンであった。
 
一方、深夜叢書の活動にもトリオレ、カスー、アヴリーヌらとともに参加し、1943年から44年にかけてトリオレの『アヴィニヨンの恋人』<ref>エルザ・トリオレ『アヴィニヨンの恋人』([[川俣晃自]]訳、[[岩波書店]]、1953年) 参照。</ref>、アラゴンの『グレバン蝋人形館』と『殉難者たちの証言(に基づく精神に対する犯罪)』が地下出版された。これらはすべて偽名で発表され、トリオレはローラン・ダニエル、アラゴンは怒りのフランソワ、ジャック・デンタンという偽名を使った。『殉難者たちの証言』では、[[人類博物館]]([[シャイヨ宮]])を拠点として非合法の新聞『{{仮リンク|レジスタンス (新聞)|fr|Résistance (journal)|label=レジスタンス}}』を発刊し、1942年2月23日に{{仮リンク|モン・ヴァレリアン要塞|fr|Forteresse du Mont-Valérien|label=}}で銃殺刑に処された[[言語学]]者・[[民族学]]者の[[ボリス・ヴィルデ]]、人類学者の{{仮リンク|アナトール・ルヴィツキー|fr|Anatole Lewitsky|label=}}らの「人類と諸国民の科学である民族学」に基づくレジスタンス運動を、ヒトラーの[[人種主義]]に対する抵抗運動と捉えている<ref>大島博光『レジスタンスと詩人たち』白石書店、1981年10月。抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-682.html 人類博物館の人たち ─ レジスタンスと詩人たち]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1690728 殉難者の証人]』([[白井浩司]]、[[那須国男]]共訳、日本報道、1951年) 参照。</ref>。
 
深夜叢書からは、ポール・エリュアールが22人のレジスタンス詩人の作品を編纂した『{{仮リンク|詩人たちの名誉|fr|L'Honneur des poètes|label=}}』、および戦後にレジスタンス文学のアンソロジー『{{仮リンク|祖国は日夜つくられる|fr|La patrie se fait tous les jours|label=}}』も刊行された。エリュアールはアラゴン事件直後に「アラゴンは別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と辛らつに批判し<ref>{{Cite web|url=https://www.andrebreton.fr/en/work/56600100458120?back_rql=DISTINCT%20Any%20M%2CMT%2CD%20ORDERBY%20ST%20WHERE%20X%20linked_to%20M%2C%20M%20short_description%20D%2C%20NOT%20X%20identity%20M%2C%20M%20title%20MT%2C%20M%20sorttitle%20ST%2C%20X%20eid%2032012&back_url=https%3A%2F%2Fwww.andrebreton.fr%2Fen%2Fview%3Frql%3DDISTINCT%2520Any%2520M%252CMT%252CD%2520ORDERBY%2520ST%2520WHERE%2520X%2520linked_to%2520M%252C%2520M%2520short_description%2520D%252C%2520NOT%2520X%2520identity%2520M%252C%2520M%2520title%2520MT%252C%2520M%2520sorttitle%2520ST%252C%2520X%2520eid%252032012%26vid%3Dprimary|title=Certificat|accessdate=2019-09-21|publisher=|website=andrebreton.fr|language=fr}}</ref>、以後、二人は10年近くにわたって会っていなかったが、二人を再び結びつけたのはレジスタンス運動であり、1942年に発表されたエリュアールの詩「{{仮リンク|自由 (詩)|fr|Liberté (poème)|label=自由}}」は、[[イギリス空軍|英国空軍]]機からフランス全土にばら撒かれ、フランス国民の心に希望を蘇らせた。エリュアールが無署名で書いた『詩人たちの名誉』の序文には、「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を取れと呼びかけたユーゴー、パリ・コミューンから霊感を与えられたランボー、みずからも奮い立ち、ひとをも奮い立たせたマヤコフスキー・・・広大な見地に立った詩人たちは行動へと導かれたのだ・・・闘争こそが詩人たちに力を与えることができる」と書かれている<ref>大島博光『エリュアール』新日本新書、1988年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-3298.html 英雄・殉難者・詩人たちの名誉]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。アラゴンはこのアンソロジーに同じ偽名で「フランスの起床ラッパ」、「責苦のなかで歌ったものの[[バラード]]」、「[[ストラスブール大学]]の歌」、「薔薇と木犀草」などの詩を発表した。とりわけ、共産党員・レジスタンス運動家として活動を共にし、1941年12月15日に銃殺刑に処されたガブリエル・ペリ、ドイツ将校殺害の報復として銃殺された人質150人の1人で17歳の共産党員{{仮リンク|ギィ・モケ|fr|Guy Môquet|label=}}<ref>大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-3085.html 『殉難者たちの証人』- シャトーブリアンからの手紙]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>、同じくレジスタンス運動家として処刑された[[キリスト教徒|キリスト者]]のエティアンヌ・ドルヴとジルベール・ドリュの4人に捧げられた「薔薇と木犀草」は、共産党の象徴である赤い薔薇と、[[フランス王国|フランス王政]]・[[カトリック教会|カトリック]]の色である白の木犀草によって、「神を信じたものも、信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた・・・なお歌い続けよ、薔薇と木犀草とをともに燃えたたせたあの愛を」と、フランスのための連帯・団結、対独抗戦を讃えている<ref>{{Cite web|title=« La Rose et le Réséda » de Louis Aragon|url=https://www.reseau-canope.fr/poetes-en-resistance/poetes/louis-aragon/la-rose-et-le-reseda/pistes-pedagogiques/|website=www.reseau-canope.fr|accessdate=2019-09-06|publisher=Centre National de Documentation Pédagogique|language=fr|author=Sébastien Cazalas}}</ref><ref name=":7" />。また、ジャン・ポーラン、[[ドミニク・オーリー]]共編のアンソロジー『祖国は日夜つくられる』には、「リラと薔薇」、「[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]」、「[[ラ・ロシェル包囲戦]]の歌」などが掲載されている<ref>『祖国は日夜つくられる』([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000274215-00 第1巻]、[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000612203-00 第2巻])ジャン・ポーラン編、[[小場瀬卓三]]ほか訳、月曜書房、1951年。</ref>。
 
== 戦後 ==
 
=== ニザン事件 ===
1939年8月の独ソ不可侵条約締結後の共産党内の混乱において、党を批判して離党したニザン(1940年5月23日、戦死)を、書記長トレーズはかねてから裏切り者と非難していたが、戦後、この問題が再燃し、哲学者[[アンリ・ルフェーヴル]]が1946年刊行の『実存主義』で、アラゴンが1947年4月の『レットル・フランセーズ』紙、『リュマニテ』紙、1949年刊行の小説『レ・コミュニスト』でそれぞれニザンを批判した。これに対して、[[ジャン=ポール・サルトル]]は、『[[レ・タン・モデルヌ]]』にニザンを支持する[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、[[アルベール・カミュ|カミュ]]、レスキュール、ポーラン、レリス、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]、[[モーリス・メルロー=ポンティ|メルロー=ポンティ]]、ブルトン、[[ロジェ・カイヨワ|カイヨワ]]ら知識人26人の請願書を掲載し、共産党にニザン批判の根拠を提示するよう求めた。共産党は明確な根拠を示すことができず、ルフェーヴルは、『実存主義』は「スターリン主義の」作品であると釈明、アラゴンは『レ・コミュニスト』の再刊の際に該当する部分を削除した<ref>{{Cite journal|last=Pudal|author=|first=Bernard|year=|date=1992|title=Nizan : l'homme et ses doubles|url=https://www.persee.fr/doc/mots_0243-6450_1992_num_32_1_1716|journal=Mots. Les langages du politique|volume=32|issue=1|page=|pages=29–48|language=fr|doi=10.3406/mots.1992.1716}}</ref>。
 
=== 新聞・雑誌主筆 ===
ロマン・ロランらによって1923年に創刊され、戦前はジャン・ゲーノ、ジャン・カスーが編集長を務めた共産党系の雑誌『ユーロープ』は、1939年の独ソ不可侵条約の締結以降、休刊となっていたが、1946年にアラゴンにより再刊された。最初はフランス叢書から、1949年からは同年にアラゴンが共産党の出版局として創設した{{仮リンク|フランス合同出版|fr|Éditeurs français réunis|label=}}から刊行された。『ス・ソワール』紙はパリ解放のさなか、1944年8月22日に再刊された。ブロックが編集長を務めたが、1947年に死去し、アラゴンが後任として1953年まで務めた。同年に『レットル・フランセーズ』紙の編集長に就任し、1972年まで務めた。さらに、全国作家委員会はジャン・ポーランが対独協力作家のブラックリストの件で『レットル・フランセーズ』紙の編集長を辞任した後、とりわけ、1956年2月の[[ソ連共産党第20回大会]]での[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]による[[スターリン批判]]演説は、左派知識人に前例のない衝撃を与え、以後、全国作家委員会は活力を失っていった。アラゴンは1957年に会長に就任したが、まもなく距離を置くようになり、『レットル・フランセーズ』紙もやがて共産党の機関紙としてではなく、元党員や他の知識人にも開かれた新聞として知られるようになった。
 
=== スターリン批判 ===
[[ファイル:1981 Louis ARAGON presente "La messe dElsa" Lyon (4486646469).jpg|サムネイル|180x180ピクセル|ルイ・アラゴン(1981年)]]
アラゴンは1950年に共産党中央委員会の委員に任命され、戦後も一貫して党の方針に沿った活動を行っているが、たとえば、1968年の[[五月革命 (フランス)|五月革命]]で、『リュマニテ』紙が[[学生運動]]を厳しく批判したときに、中央委員会委員で唯一、ソルボンヌ大学でデモを行う学生たちと話し合いの場を持ち、『レットル・フランセーズ』紙で特集を組むなど、一知識人としての独立性を維持している。同様に、同年の[[プラハの春]](チェコ事件)についても『レットル・フランセーズ』紙上にこれを支持する記事を掲載し、[[ミラン・クンデラ]]の小説『冗談』の序文を書いている<ref>ミラン・クンデラ『冗談』([[関根日出男]]訳、[[みすず書房]]、1970年) 参照。</ref><ref>ルイ・アラゴン「この小説はこのうえなく重要な作品である、とわたしは考える」-『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』1991年2月号 (第23巻第2号 通巻304号) 所収。</ref>。この序文はクンデラをフランスおよび世界に知らしめる契機となった<ref>{{Cite web|title=Aragon et Kundera : la “lumière” de La Plaisanterie|url=http://www.louisaragon-elsatriolet.org/spip.php?article333|website=www.louisaragon-elsatriolet.org|accessdate=2019-09-13|publisher=Équipe de Recherche Interdisciplinaire sur Louis Aragon et Elsa Triolet|author=Reynald Lahanque|language=fr}}</ref>。
 
また、1953年のスターリン肖像事件では、肖像を描いたピカソを擁護した。これは、スターリンの死去に際して『レットル・フランセーズ』紙の第一面に掲載されたピカソによるスターリンの肖像画が若い頃のスターリンを描いたものであったため、社会主義リアリズムの信奉者らから抗議が殺到した事件である。トレーズ書記長は、「リアリズム芸術の発展のために勇敢に闘っている党中央委員のアラゴンが、この肖像の公表を許したことを遺憾とする」という公式声明を発表した。アラゴンは、社会主義リアリズムを信奉しながらも、『レットル・フランセーズ』紙上で、「私はピカソの感覚を疑わない。この肖像を描こうとしたのは、スターリンの死を心底悲しんだからだ・・・この絵には、ピカソが人物像でしばしば用いる歪曲などが一切なく」、しかもすべてが「ピカソの特徴を示している」、これはピカソのヒューマニズムの表現であるとした<ref>大島博光『ピカソ』新日本新書、1986年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2110.html スターリン肖像事件]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。
 
1956年のフルシチョフによるスターリン批判(ソ連共産党第20回大会)についても、アラゴンの立場は複雑であった。同年7月に[[ル・アーヴル]]で開催された共産党の第14回大会で、文化担当の{{仮リンク|ジャン・カナパ|fr|Jean Kanapa|label=}}は「[[ジダーノフ批判|ジダーノフ主義]](社会主義リアリズム)は芸術、文学、文化の諸問題における党の精神以外の何ものでもない。われわれはこの党の精神を保持するだろう」と主張し、スターリンを批判しなかった。アラゴンは党の方針に従い、他の左派知識人を失望させた。だが、この2か月後に刊行された『未完の物語』は、スターリン批判がアラゴンに与えた深刻な打撃、動揺、苦悩、自己批判を反映していた ―「わたしはいく度となく道を誤った・・・わたしは人生を誤り、靴まで失くした」。だが、この詩は「この怖るべき不幸のさなかにも、わたしは雄鶏の歌うのを聞く・・・わがくらやみのなかにも、わたしは太陽をもつ」([[大島博光]]訳)と結ばれている<ref>大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-261.html 新日本新書『アラゴン』-『未完の物語』]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。
[[ファイル:MoulinTrioletAragon.jpg|サムネイル|エルザ・トリオレ=アラゴンの家(ムーラン・ド・ヴィルヌーヴ)]]
1957年、アラゴンはスターリン平和賞を拒否した。スターリン批判を受けてスターリン平和賞が[[レーニン平和賞]]に改められ、トレーズに説得されて、「レーニン平和賞」として受賞した<ref name=":1" />。
 
1964年から1974年にかけてアラゴンと妻エルザの小説を併せて年代順に編纂した『エルザ・トリオレとアラゴンの小説世界』全42巻を刊行した。1970年に妻エルザが死去。彼女が残した文学関連の資料はすべて[[フランス国立科学研究センター]]に寄贈した。
 
== 死去・没後 ==
[[ファイル:Tombeau Triolet Aragon.jpg|サムネイル|ルイ・アラゴンとエルザ・トリオレの墓(ムーラン・ド・ヴィルヌーヴ)]]
1982年12月24日、パリ7区にて死去、享年85歳。アラゴンとエルザが所有していたイヴリーヌ県{{仮リンク|サン=タルヌー=アン=イヴリーヌ|fr|Saint-Arnoult-en-Yvelines|label=}}の{{仮リンク|ムーラン・ド・ヴィルヌーヴ|fr|Moulin de Villeneuve (Saint-Arnoult-en-Yvelines)|label=}}は国に寄贈され、1994年10月15日、ここに資料館「エルザ・トリオレ=アラゴンの家」が設立された。
 
アラゴンの詩は、[[レオ・フェレ]]のアルバム『{{仮リンク|アラゴンの歌|fr|Les Chansons d'Aragon|label=}}』(「[[赤いポスター]]」収録)のほか、[[ジョルジュ・ブラッサンス]]、{{仮リンク|ジャン・フェラ|fr|Jean Ferrat|label=}}、[[イザベル・オーブレ]]らの多くのミュージシャンによって曲をつけ、歌われている。
 
原爆詩人の峠三吉の遺品のメモに、「髪にそよぐ風のように生き、燃えつくした炎のように死ぬ」というアラゴンの詩の一節が書き付けられていた<ref>{{Cite web|title=原爆文学展|url=https://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/exhibition/index.html|website=https://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/index.html|accessdate=2019-09-06|publisher=広島文学館|language=ja}}</ref>。これに因んで峠三吉追悼集『風のように炎のように』が1954年に刊行された<ref>{{Cite web|title=風のように炎のように : 峠三吉追悼集|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530044|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2019-09-06|publisher=[[国立国会図書館]]デジタルコレクション|language=ja}}</ref>。
 
== 受賞・栄誉 ==
 
* 1936年、[[ルノードー賞]]
* 1957年、[[レーニン平和賞]]
* 1972年、[[十月革命勲章]]
* 1977年、{{仮リンク|人民友好勲章|en|Order of Friendship of Peoples|label=}}
* 1981年、[[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ
 
== 著書 ==
「年」は初版刊行年。ほとんどが以後、再刊されている。詩集については、原著と邦訳が一致していないものが多い。表題作の邦訳のみ示す。「小説」は短編集も含む。主な出版社はガリマール出版社 (Gallimard)、ドノエル出版社 (Denoël)、深夜叢書 (Éditions de Minuit) など。
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;"
!原著
!初版出版社
!年
!
!邦訳 (未訳、備考)
|-
|''Feu de joie''
|Au Sans Pareil
|1920
|詩
|「'''祝火'''(抄)」[[小島輝正]]訳『世界名詩集大成 5 (フランス篇 4)』([[平凡社]]、1959年) 所収。
|-
|''Anicet ou le panorama''
|Gallimard
|1921
|小説
|『'''アニセまたはパノラマ'''』小島輝正訳、[[白水社]]、1975年; (新装版) 1993年。
|-
|''Les Aventures de Télémaque''
|Éditions de la NRF
|1922
|小説
|(テレマツク冒険談)
|-
|''Projet d'histoire littéraire contemporaine''
|Gallimard
|1923
|随筆
|(1994年に{{仮リンク|マルク・ダシー|fr|Marc Dachy}}の編纂により再刊)『'''ダダ追想'''』川上勉訳、萌書房、2008年。
|-
|''Le Libertinage''
|Gallimard
|1924
|小説
|『'''放縦'''』[[山中散生]]訳、ボン書店、1934年。
|-
|''Une vague de rêves''
|
|
|随筆
|『'''イレーヌのコン・夢の波'''』江原順訳、[[現代思潮社]]、1977年。
|-
|''Le Mouvement perpétuel, poèmes 1920-1924''
|Gallimard
|1926
|詩
|(永久運動)
|-
|''Le Paysan de Paris''
|Gallimard
|1926
|小説
|『'''パリの農夫'''』[[佐藤朔]]訳、[[思潮社]] (シュルレアリスム文庫)、1988年。
|-
|''Le Con d'Irène''
|René Bonnel
|1927
|小説
|(筆名:アルベール・ド・ルーティジー)『イレーヌのコン・夢の波』江原順訳、現代思潮社、1977年。『イレーヌ』[[生田耕作]]訳、奢霸都館、1983年; 白水社 ([[白水Uブックス]]81)、1989年。
|-
|''Traité du Style''
|Gallimard
|1928
|評論
|「'''文体論'''」川上勉訳『世界文学全集78』([[講談社]]、1975年) 所収。
|-
|''La grande gaieté''
|Gallimard
|1929
|詩
|「'''上々機嫌'''(抄)」小島輝正訳『世界名詩集大成 5 (フランス篇 4)』(平凡社、1959年) 所収。
|-
|''1929''
|
|1929
|詩
|バンジャマン・ペレとの共著、マン・レイの写真。
|-
|''La Chasse au Snark''
|The Hours Press
|1929
|翻訳
|ルイス・キャロル『[[スナーク狩り]]』参照。
|-
|''Ne visitez pas l'exposition coloniale''
|
|1931
|
|(植民地博覧会へ行ってはいけない) - 1931年にパリで開催された植民地博覧会に抗議してシュルレアリストら(アラゴン、ブルトン、エリュアール、ユニック、ペレ、クルヴェル、イヴ・タンギー、ルネ・シャール、{{仮リンク|ジョルジュ・マルキーヌ|fr|Georges Malkine|label=}}{{仮リンク|アンドレ・ティリオン|fr|André Thirion|label=}}、{{仮リンク|マキシム・アレクサンドル (詩人)|fr|Maxime Alexandre|label=マキシム・アレクサンドル}})が配布した反植民地主義の小冊子。
|-
|''Persécuté, persécuteur''
|Éditions Surréalistes
|1931
|詩
|「'''迫害する被迫害者'''(抄)」小島輝正訳『世界名詩集大成 5 (フランス篇 4)』(平凡社、1959年) 所収。
|-
|''Hourra l’Oural''
|Denoël
|1934
|詩
|「'''ウラル万才'''」大島博光訳『アラゴン詩集』([[飯塚書店]]、1968年) ほか所収。
|-
|''Les Cloches de Bâle''
|Denoël
|1934
|小説
|(連作「現実世界」第1作)『平和の鐘』花島克己訳、蒼樹社、1952年。『バールの鐘』[[関義]]訳、[[新潮社]]、1957年。『'''バーゼルの鐘'''』[[稲田三吉]]訳、[[三友社出版]]、1987年。
|-
|''Pour un réalisme socialiste''
|Denoël et Steele
|1935
|講演
|(社会主義レアリスムのために)
|-
|''Les Beaux Quartiers''
|Denoël et Steele
|1936
|小説
|(連作「現実世界」第2作)『素晴しき大地』大島博光訳、蒼樹社、1951年。『'''お屋敷町'''』関義訳、新潮社 (現代フランス文学叢書)、1954年。[[伊藤整]]編『20世紀の文学 - 世界文学全集11 ― アラゴン お屋敷町』[[橋本一明]]訳、[[集英社]]、1967年。
|-
|''Le Crève-cœur''
|Gallimard
|1941
|詩
|『'''断腸詩集'''』橋本一明訳、新潮社、1957年。
|-
|''Cantique à Elsa''
|Alger, Éditions de la revue Fontaine
|1942
|詩
|「'''エルザへの讃歌'''」大島博光訳『アラゴン詩集』([[角川書店]]、1976年) 所収。
|-
|''Les Yeux d’Elsa''
|Neuchâtel, Éditions de la Baconnière
|1942
|詩
|「'''エルザの瞳'''」橋本一明訳『世界名詩集大成 5 (フランス篇 4)』(平凡社、1959年) 所収。橋本一明訳『愛すなわち詩・エルザの瞳 (世界名詩集20)』(平凡社、1969年) 所収。「エルザの眼」大島博光訳『アラゴン詩集』(飯塚書店 (世界現代詩集14)、1968年) 所収。
|-
|''Les Voyageurs de l'impériale''
|Éditions de la NRF
|1942
|小説
|(連作「現実世界」第3作)『'''現実世界'''』関義訳、新潮社、1956年(書名は『現実世界』で、第1巻から第5巻まですべて『'''二階馬車の乗客たち'''』)
|-
|''Le Témoin des martyrs''
|Éditions de Minuit
|1942
|小説
|『'''殉難者の証人'''』[[白井浩司]]、[[那須国男]]共訳、日本報道、1951年。『'''愛と死の肖像'''』[[淡徳三郎]]編訳、[[青木文庫]]、(増補版) 1953年<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1691467 『愛と死の肖像』(淡徳三郎編訳、青木文庫、1953年)] の第一部はアラゴンの「殉難者の証人」、第二部はレジスタンス活動により処刑された「殉難者」の最後の手紙を編纂したものであり、ジャック・ドクールの「枝から落ちる木の葉の如く」を含む。</ref>。「パリの神話 ― 殉難者の肖像」『世界文学全集 (第46) ― サルトル、アラゴン』([[阿部知二]]編、[[伊吹武彦]]、[[白井浩司]]、佐藤窄共訳、河出書房新社、1962年) 所収。
|-
|''Brocéliande''
|Éditions de la Baconnière
|1942
|詩
|([[ブロセリアンド]])
|-
|''En Français dans le texte''
|Éditions de la Baconnière
|1943
|詩
|(文学作品におけるフランス語で)
|-
|''Le Musée Grévin''
|Bibliothèque française / Éditions de Minuit
|1943
|詩
|(筆名:怒りのフランソワ)「'''グレバン蝋人形館'''」大島博光訳『アラゴン詩集』(飯塚書店、1968年)、『アラゴン詩集 ― 祖国のなかの異国にて』世界抵抗詩選刊行会訳、[[大月書店]] (世界抵抗詩選1)、1951年) 所収。
|-
|''L'Honneur des poètes''
|Éditions de Minuit
|1943
|詩
|(詩人たちの名誉) (筆名:ジャック・デスタン) - 共著。
|-
|''La Rose et le Réséda''
|
|1943
|詩
|「'''薔薇と木犀草'''」大島博光訳『アラゴン詩集』(飯塚書店 (世界現代詩集14)、1968年) 所収。以下『フランスの起床ラッパ』所収。
|-
|''Neuf chansons interdites (1942-1944)''
|Bibliothèque française
|1944
|詩
|(禁じられた9編の歌) (筆名:怒りのフランソワ)
|-
|''Le Crime contre l’esprit par le Témoin des martyrs''
|Éditions de Minuit
|1944
|小説
|(殉難者たちの証言に基づく精神に対する犯罪)
|-
|''Aurélien''
|Gallimard
|1944
|小説
|(連作「現実世界」第4作)『'''オーレリアン'''』[[生島遼一]]訳、[[新潮文庫]]、1958年。
|-
|''Saint-Pol-Roux ou l'espoir''
|Seghers
|1945
|詩
|([[サン=ポル=ルー]]または希望) - シュルレアリスムの先駆者としてブルトン、アラゴン、エリュアールらがオマージュを捧げた詩人。本書は、ドイツ兵の暴行の犠牲となって死去した彼に捧げる散文詩集。
|-
|''La Diane française''
|Seghers
|1945
|詩
|『'''フランスの起床ラッパ'''』大島博光訳、[[三一書房]]、1951年、1955年; [[新日本出版社]] ([[新日本文庫]])、1980年。
|-
|''Servitude et grandeur des Français, scènes des années terribles''
|Bibliothèque française
|1945
|小説
|(フランス人の隷属と偉大さ ― 恐ろしい時代の場面)
|-
|''En étrange pays dans mon pays lui-même''
|Monaco, La voile latine
|1945
|詩
|『アラゴン詩集 ― '''祖国のなかの異国にて'''』世界抵抗詩選刊行会訳、[[大月書店]] (世界抵抗詩選1)、1951年。
|-
|''L’Homme communiste''
|Gallimard
|1946
|随筆
|『'''共産主義的人間'''』後藤達雄、[[那須国男]]共訳、青銅社、1952年。
|-
|''Chroniques du bel canto''
|Genève, Skira
|1947
|随筆
|(ベルカント・コラム)
|-
|''La Culture et les hommes''
|Éditions Sociales
|1947
|随筆
|『'''文化と人間'''』[[渡辺淳 (評論家)|渡辺淳]]訳、[[三一書房]]、1951年。
|-
|''La patrie se fait tous les jours''
|Éditions de Minuit
|1947
|(共著)
|『'''祖国は日夜つくられる'''』ジャン・ポーラン編、[[小場瀬卓三]]ほか訳、月曜書房、1951年。
|-
|''Le Nouveau Crève-cœur''
|Gallimard
|1948
|詩
|「'''新断腸'''」進藤直行訳『エルザへの愛 ― 詩集』所収、大島博光訳『アラゴン詩集』(飯塚書店、1968年) ほか所収。
|-
|''Les Communistes''
|Bibliothèque française
|1949<br>-1951
|小説
|(連作「現実世界」第5作、全6巻)『'''レ・コミュニスト'''』小場瀬卓三、[[安東次男]]、小島輝正共訳、三一書房、1952-1954年。
|-
|''L’Exemple de Courbet''
|Éditions Cercle d’art
|1952
|随筆
|([[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]の例)
|-
|''Hugo poète réaliste''
|Éditions sociales
|1952
|随筆
|(リアリズムの詩人ユーゴー)
|-
|''L’Homme Communiste''
|Gallimard
|1953
|随筆
|『共産主義的人間』第2巻。
|-
|''Le Neveu de M. Duval''
|Éditeurs français réunis
|1953
|小説
|『'''デュヴァル氏の甥'''』小場瀬卓三訳、[[理論社]]、1956年。
|-
|''Journal d’une poésie nationale''
|Lyon, les Écrivains réunis
|1954
|詩
|(国民詩日誌)
|-
|« L’art de parti en France »
|
|1954
|随筆
|以下『フランスにおける党芸術』参照。
|-
|''La Lumière de Stendhal''
|Denoël
|1954
|評論
|『'''スタンダールの光'''』[[小林正 (仏文学者)|小林正]]、関義監訳、[[青木書店]]、1956年([[スタンダール]] / [[プロスペル・メリメ|プロスペール・メリメ]] / [[ハインリッヒ・フォン・クライスト]] / マルスリーヌ・デボルド・ヴァルモール / ジュール・ド・ラ・マドレーヌ / [[エミール・ゾラ]] / [[モーリス・バレス]])
|-
|''Les Yeux et la Mémoire''
|Denoël
|1954
|詩
|「'''眼と記憶'''」大島博光訳『アラゴン詩集』(飯塚書店、1968年) ほか所収。
|-
|''Littératures soviétiques''
|Denoël
|1955
|評論
|『'''ソヴェト文学論'''』小島輝正訳、大月書店、1956年(二重の前奏曲 / 第二回ソヴェト作家大会をめぐる小論 / [[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の光 / コルホーズ農民と書く技術と原則と ― オヴェーチキン / [[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]と[[ウラジーミル・マヤコフスキー|マヤコフスキー]] / 若ものたち ― オストロフスキーとマカレンコ)
|-
|''Introduction aux littératures soviétiques, contes et nouvelles''
|Gallimard
|1956
|選集
|(ソビエト文学入門) - アラゴン編・序文の選集。
|-
|''Le Roman inachevé''
|Gallimard
|1956
|詩
|「'''未完の物語'''」大島博光訳『アラゴン選集』第3巻、飯塚書店、1979年。
|-
|''Entretiens sur le Musée de Dresde''
|Éditions du Cercle d'art
|1957
|評論
|([[ジャン・コクトー]]との共著)『'''美をめぐる対話'''』[[辻邦生]]訳、[[筑摩書房]]、1991年(ドイツ絵画 / フランドル及びオランダ絵画 / 英国絵画 / スペイン絵画 / イタリア絵画 / フランス絵画)
|-
|''La Semaine Sainte''
|Gallimard
|1958
|小説
|『'''聖週間'''』小島輝正訳、[[平凡社]]、1963年([[テオドール・ジェリコー]]を主人公とする唯一の[[歴史小説]])
|-
|''J’abats mon jeu''
|Éditeurs français réunis
|1959
|随筆
|(賭け)
|-
|''Elsa''
|NRF / Gallimard
|1959
|詩
|(エルザ)
|-
|''Les Poètes''
|Gallimard
|1960
|詩
|(詩人)
|-
|''Histoire parallèle des USA et de l’URSS''
|Presse de la Cité
|1962
|歴史
|(全4巻、[[アンドレ・モーロワ]]との共著、アラゴンはソ連の歴史を執筆)『'''東と西 ― アメリカとソ連の同時代史'''』[[河盛好蔵]]、[[小場瀬卓三]]共訳、[[読売新聞社]]、1963-1964年。
|-
|''Le Fou d’Elsa''
|Gallimard
|1963
|詩
|『'''エルザへの愛''' ― 詩集』進藤直行訳、[[国文社]] (ピポー叢書)、1957年。
|-
|''Il ne m'est Paris que d'Elsa''
|Robert Laffont
|1964
|詩
|(私のパリはエルザだけ)
|-
|''La mise à mort''
|Gallimard
|1965
|小説
|「'''死刑執行'''」[[三輪秀彦]]訳『世界の文学34』([[中央公論社]]、1971年) 所収。
|-
|''Elégie à Pablo Néruda''
|Gallimard
|1966
|詩
|「'''パブロ・ネルーダの哀歌'''」橋本一明訳『断腸詩集』(新潮社、1957年) 所収。
|-
|''Blanche ou l’oubli''
|Gallimard
|1967
|小説
|『'''ブランシュとは誰か ― 事実か、それとも忘却か'''』[[稲田三吉]]訳、[[柏書房]]、1999年(「死刑執行」との二部作)
|-
|''Aragon parle avec Dominique Arban''
|Seghers
|1968
|対談
|『'''アラゴン、自らを語る ― ドミニック・アルバンとの対談'''』小島輝正、玄善允共訳、富岡書房、1985年。
|-
|''Je n’ai jamais appris à écrire ou les incipit''
|Genève, Skira
|1969
|評論
|『'''冒頭の一句または小説の誕生'''』[[渡辺広士]]訳、新潮社 (創造の小径)、1975年。
|-
|''Les Chambres, poème du temps qui ne passe pas''
|Éditeurs français réunis
|1969
|詩
|(部屋、過ぎ去らない時の詩)
|-
|''Henri Matisse, roman''
|Gallimard
|1971
|小説
|(全2巻)
|-
|''Théâtre/Roman''
|Gallimard
|1974
|随筆
|(劇/小説)
|-
|''Chroniques de la pluie et du beau temps (Chroniques du Bel Canto)''
|Éditeurs français réunis
|1979
|随筆
|(晴雨コラム)
|-
|''Le Yaouanc''
|Carmen Martinez
|1979
|評論
|(ル・ヤワンック)
|-
|''Le Mentir-vrai''
|Gallimard
|1980
|小説
|(本当の嘘をつく)
|-
|''Les Adieux et autres poèmes''
|Temps actuels
|1981
|詩
|(別れ)
|-
|''Les Aventures de Jean-Foutre La Bite''
|Gallimard
|1986
|小説
|(ジャン=フートル・ル・ビットの冒険)
|-
|''Pour expliquer ce que j'étais''
|Gallimard
|1989
|小説
|(私とは何かを説明するために)
|-
|''La Défense de l’infini''
|Messidor
|1996
|小説
|(無限の擁護)
|-
|''Œuvres romanesques croisées d’Elsa Triolet et Aragon''
|Robert Laffont
|1964<br>-1974
|小説
|(エルザ・トリオレとアラゴンの小説世界) (全42巻)
|-
|''Œuvre poétique 1917-1979''
|Livre-Club Diderot
|1974<br>-1981
|詩
|全詩集([[プレイヤード叢書]])
|-
|''Œuvres romanesques complètes''
|Gallimard
|1997
|小説
|全小説集(プレイヤード叢書)全5巻
|-
|''Chroniques 1918-1932''
|Stock
|1998
|記事
|(新聞・雑誌掲載記事)
|-
|''Lettres à André Breton, 1918-1931''
|Édition de Lionel Follet / Gallimard
|2011
|書簡
|(アンドレ・ブルトンへの書簡)
|-
|''Correspondance Aragon – Romain Rolland, 1932-1944''
|Éditions Aden
|2015
|書簡
|(アラゴン=ロマン・ロラン往復書簡)
|-
| colspan="5" |'''邦訳詩集・選集等'''
|-
| colspan="5" |『アラゴン詩集』[[金子光晴]]訳、[[創元社]] (世界現代詩叢書1)、1951年。
|-
| colspan="5" |『フランスにおける党芸術』[[小場瀬卓三]]、大島辰雄共訳、国民文庫社 ([[国民文庫]])、1955年(フランスにおける党芸術 / 声高く論じあおう / 小説家と批評家 / 『レ・コミュニスト』をめぐるさまざまの意見にこたえる)
|-
| colspan="5" |『アラゴン詩集』大島博光訳、飯塚書店 (世界現代詩集14)、1968年。
|-
| colspan="5" |『アラゴン詩集』大島博光訳、角川書店、1976年。
|-
| colspan="5" |『アラゴン選集』全3巻、大島博光訳、飯塚書店、1978-1979年。
|-
| colspan="5" |『ルイ・アラゴン詩集』小島輝正訳、[[土曜美術社出版販売|土曜美術社]] (世界現代詩文庫8)、1984年。
|}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考資料 ==
 
* 大島博光『アラゴン』新日本新書、1990年。
*大島博光『レジスタンスと詩人たち』白石書店、1981年。
*ルイ・アラゴン『アラゴン、自らを語る ― ドミニック・アルバンとの対談』小島輝正、玄善允共訳、富岡書房、1985年。
*山本卓「[https://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/lit/l1802/l180203.pdf アラゴンの小説技法 (1) ― 方法としての「余談」について]」『文学部紀要』第18巻第2号、文教大学、2005年3月1日、 39-68頁。
* 山本卓「[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001875614-00 アラゴンの小説技法 (4) ―『冒頭の一句』を読む]」『文学部紀要』第25巻第1号、文教大学、2011年9月1日、1-31頁。
*川上勉「[http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/46608.pdf アラゴンの『現代文学史草案』について]」『立命館経済学』第46巻、1997年、85-106頁。
*[https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Louis_Aragon/105904 Louis Aragon] - Éditions Larousse - ''Encyclopédie Larousse en ligne''.
*[http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article10173 ARAGON Louis] - ''Maitron.''
 
== 関連項目 ==
* [[フランダダイ文学]]
*[[シュルレアリスム]]
*[[国際革命作家同盟]]
*[[社会主義リアリズム]]
*[[レジスタンス運動]]
*[[深夜叢書]]
* [[峠三吉]]
 
== 外部リンク ==
{{Library resources box |by=yes |onlinebooksby=yes |viaf=8178518}}
* [http://www.biblioweb.org/-ARAGON-Louis-.html 伝記。 書誌学] {{fr icon}}
* [https://www.amisaragontriolet.com/ Société des amis de Louis Aragon et Elsa Triolet] (ルイ・アラゴン=エルザ・トリオレ友の会)
 
* [https://www.maison-triolet-aragon.com/ Moulin De Villeneuve - Maison Elsa Triolet - Aragon] (エルザ・トリオレ=アラゴンの家)
* [http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/ 大島博光記念館公式ウェブサイト] - 詩の邦訳を多数掲載。
* {{Internet Archive author|sname=Louis Aragon}}
* {{OL author}}
* {{Goodreads author}}
* {{Gutenberg author|48430}}
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* {{Wikisourcelang-inline|fr|Auteur:Louis Aragon}}
* {{Wikiquotelang-inline|fr|Louis Aragon}}
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