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'''東学農民運動と日清駐兵'''[[ファイル:Stielers_Handatlas_1891_63.jpg|代替文=|境界|右|フレームなし]]
 
1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の[[東学党]]の下で蜂起し[[甲午農民戦争|農民反乱]]が勃発した。自力での鎮圧が不可能な事を悟った[[李氏朝鮮|李氏朝鮮政府]]は、宗主国である清国の来援を求めた。<!--木村幹『高宗・閔妃: 然らば致し方なし』ミネルヴァ書房、2007年12月、ISBN 978-4-623-05035-2、17、63、64。---><!--東学党によって首都ソウルを脅かされた[[李氏朝鮮|李氏朝鮮政府]]は、5月末に宗主国である清国の来援を仰いだ。---><!--主語が高宗ならOK--->清国側の派兵の動きを見た日本政府も[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し5日に[[大本営]]を設置した。日清双方による本側も部隊派遣を送り込んできた事を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。
 
'''日清開戦'''
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'''講和条約の調印'''
 
1895年(明治28年)4月17日に調印された[[下関条約|日清講和条約]]の中で、日本は[[李氏朝鮮]]の独立を清国に認めさせた。また[[台湾]]、[[澎湖諸島]]、[[遼東半島]]を割譲させ<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、3~5頁。</ref>、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する[[最恵国待遇]]も承認させた。講和直後の23日に[[三国干渉|露仏独三国の外交要求]]が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に[[大本営]]が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。
 
== 戦争目的と動機 ==