「後ウマイヤ朝アミール領」の版間の差分

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{{改名提案|アンダルスのアミール領|コルドバのウマイヤ朝のアミール領|date=2019年5月}}
{{Infobox Former Country
|native_name = {{lang|ar|إمارة قرطبة}}<br/>''Imārat Qurṭuba'' {{ar icon}}
|conventional_long_name = コルドバ首長国
|common_name = コルドバ
|capital = [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]
|continent = アフリカ、ヨーロッパ
|region = イベリア半島
|government_type = 首長国
|date_start = 5月15日
|year_start = 756年
|date_end = 1月16日
|year_end = 929年
|event_start = [[アブド・アッラフマーン1世]]のコルドバ・「アミール」宣言
|event_end = [[アブド・アッラフマーン3世]]のコルドバ・「カリフ」宣言<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=iRAsAQAAIAAJ&q=oath+of+allegiance |title=The Story of Islamic Spain |first=Syed |last=Azizur Rahman |publisher=Goodword Books |year=2001 |isbn=978-81-87570-57-8 |page=129 |quote=[Emir Abdullah died on] 16 Oct., 912 after 26 years of inglorious rule leaving his fragmented and bankrupt kingdom to his grandson ‘Abd ar-Rahman. The following day, the new sultan received the oath of allegiance at a ceremony held in the "Perfect salon" (al-majils al-kamil) of the Alcazar.}}</ref>
|p1 = ウマイヤ朝
|s1 = 後ウマイヤ朝
|common_languages = [[古典アラビア語]], [[ベルベル語]], [[モサラベ語]], [[中世ヘブライ語]]
|religion = [[スンナ派]], [[ユダヤ教]], [[ローマ・カトリック]]
|image_map = The Emirate of Córdoba.svg
|image_map_caption = コルドバ首長国(後ウマイヤ朝)の版図(929年、緑)
|today =<!-- {{flag|Andorra}}<br> ??? -->{{flag|Gibraltar}} ([[イギリス]])<br/>{{flag|Morocco}}<br/>{{flag|Portugal}}<br/>{{flag|Spain}}
}}
 
'''コルドバ首長国''' ({{Lang-ar|إمارة قرطبة}}, ''Imārat Qurṭuba'') は、[[8世紀]]中ごろから[[イベリア半島]]の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]を首都として存在した[[ウマイヤ家]]の[[アミール]]による独立国家。{{要検証範囲|929年に[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[カリフ]]を称して[[後ウマイヤ朝]]となった。なお、[[756年]]の[[アブド・アッラフマーン1世]]による独立時点から後ウマイヤ朝と呼ぶことも多い。|date=2019年6月}}
 
== 歴史 ==
711年から718年にかけて、[[ウマイヤ朝]]は[[西ゴート王国]]を滅ぼして[[ウマイヤ朝のヒスパニア征服|イベリア半島を征服]]した。この地の総督はコルドバを地方政府[[アンダルス]]の首都として、カリフから[[ワリー]]もしくは[[アミール]]の称号を受けた。
 
750年、中東で[[アッバース革命]]が勃発し、ウマイヤ朝が倒れ[[アッバース朝]]が興った。カリフとなった[[サッファーフ]]はウマイヤ家を徹底的に粛清したが、ウマイヤ家の一人[[アブド・アッラフマーン1世]]は命からがら脱出し、母方の先祖である[[ベルベル人]]を頼って西方のアフリカへ逃れた。ここで力を付けたアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島に上陸し、半独立状態だったアンダルスの[[ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン・アッ=フィーリ]]を破り、コルドバのアミールとなって半島内の数々の[[レーエン]]を[[首長国]]にまとめ上げた<ref>{{仮リンク|サイモン・バートン|es|Simon Barton|label=Barton, Simon}}, ''A History of Spain'', Palgrave Macmillan. February 21, 2004, ISBN 978-0-230-20012-8, p. 37.</ref>{{要検証|date=2019年6月}}。[[トレド]]、[[サラゴサ]]、[[パンプローナ]]、[[バルセロナ]]といった半島内の各地を統一する事業には四半世紀以上を要した。
 
アブド・アッラフマーン1世以降170年以上にわたり、その子孫がアミールとしてアンダルスを、時には北西アフリカの一部を支配した。とはいえその全土に実質的な支配が及んでいたとは言い難い。北方のキリスト教国に対峙して設置された辺境領主は、コルドバのアミールに匹敵する実力を有していた。特に10世紀初頭のアミール・アブドゥッラー・ブン・ムハンマドは、キリスト教国と同盟した北方の領主との戦争に明け暮れた。
 
912年、アブドゥッラーの孫[[アブド・アッラフマーン3世]]が登位した。彼は衰退の一途をたどっていたコルドバ首長国を瞬く間に立て直し、アンダルスや北西アフリカの支配を再確立した。929年、彼は自身の権威を高めて国内の抗争を鎮めるため、自ら[[カリフ]]を名乗った。ここにイスラム世界には[[バグダード]]のアッバース朝、北アフリカの[[シーア派]]・[[ファーティマ朝]]、そしてコルドバ首長国から昇格したイベリア半島の[[後ウマイヤ朝]]という3つのカリフ国が鼎立する時代となった。
 
== コルドバのアミール ==
* [[アブド・アッラフマーン1世]](756年 - 788年)
* [[ヒシャーム1世]](788年 - 796年)
* [[ハカム1世]](796年 - 822年)
* [[アブド・アッラフマーン2世]](822年 - 852年)
* [[ムハンマド1世]](852年 - 886年)
* [[ムンジル]](886年 - 888年)
* [[アブドゥッラー]](888年 - 912年)
* [[アブド・アッラフマーン3世]](912年 - 929年)
 
'''後ウマイヤ朝アミール領'''({{transl|ar|imāra<sup>t</sup> al-umawī al-andalusī}})は、イベリア半島で最大・最長のイスラーム国家である[[後ウマイヤ朝]]の、アブドゥッラフマーン1世による政権樹立(756年)からアブドゥッラフマーン3世によるカリフ位宣言(929年)までの時代、勢力範囲を指すことばである。