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==概要==
[[織田信長]]配下の軍勢によって[[朝倉氏]]が滅亡した後、信長は越前支配のために、朝倉氏旧臣の前波長俊を一乗の守護代に任じた。また、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の3名に自らの意思を伝達する役割を持たせ、北庄の朝倉土佐守景行跡の館にた<ref>福井市『福井市史 通史編1 古代・中世』福井市、1997、pp.815-816</ref>。存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後に信長は越前49万石を[[柴田勝家]]に与えた。

北ノ庄城には柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。現在見られる福井城の遺構は第2期の結城氏によるものである。
 
柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。
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[[2017年]]([[平成]]29年)4月6日、「[[続日本100名城]]」(137番)に選定された。
 
==柴田氏 北ノ庄城==
{{右|
[[ファイル:Model of Kitanoshō Castle.jpg|thumb|220px|柴田神社(北ノ庄城址)に展示されている北ノ庄城天守の復元模型]]
}}
朝倉氏の滅亡後、[[越前国|越前]]を支配していた[[一向一揆]]([[越前一向一揆]])を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた[[柴田勝家]]が、天正3年([[1575年]])に自らの縄張りによって築城を開始する。しかし同11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]に勝家が敗れ、妻・[[お市の方|市]]と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後[[青木一矩]]が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。[[1601年]]より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない
 
平成5年([[1993年]])から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である[[柴田神社]]の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
 
=== 構造 ===
城は[[足羽川]]と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、[[天守]]は7層(一説には9層)構造で、[[安土城]]に匹敵する巨城であったと伝えられている。
 
柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師の[[ルイス・フロイス]]が[[1581年]]([[天正]]9年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い[[足羽山]]で産出される[[笏谷石]]のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、[[柴田勝豊]]によって築城された[[丸岡城]]の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている<ref>これは寒冷地では普通の瓦を使用すると凍結などにより瓦が割れてしまうことなどを理由とすがあるためである。</ref>。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって[[足羽川]]に架橋された[[九十九橋]]についても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼした[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が戦後間もない1583年(天正11年)[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]に[[毛利氏]]の重臣・[[小早川隆景]]に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある<ref>九重には「何段にも重なる」という意味もある。</ref>
 
勝家を攻め滅ぼした[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が戦後間もない1583年(天正11年)[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]に[[毛利氏]]の重臣・[[小早川隆景]]に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。(ただし九重には「何段にも重なる」という意味もある)
==結城氏北ノ庄城(福井城)==
 
[[1601年]]より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、結城氏によって新たに「北ノ庄城」が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。
 
平成5年([[1993年]])から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である[[柴田神社]]の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
 
==結城氏 北ノ庄城(福井城)==
{{右|
[[ファイル:Fukui Castle05n4592.jpg|thumb|none|220px|福井城 天守台]]
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[[ファイル:Fukui Castle03n4592.jpg|thumb|none|220px|福井の語源となった「福の井」。なお福井市は、これに北ノ庄の「北」をかけあわせデザインしたものを1925年に[[市町村章|市章]]と制定している。]]
}}
[[1600年]](慶長5年)に家康の次男である[[結城秀康]]が68万石で北ノ庄を拝領すると<ref>{{Cite book|title=福井市史 通史編2 近世|date=2008年6月30日|year=2008年|publisher=福井市}}</ref>、翌[[1601年]](慶長6年)9月には知行割を実施し、築城に着手した<ref>{{Cite book|title=福井市史 通史編2 近世|date=2008年6月30日|year=2008年|publisher=福井市}}</ref>。[[1604年]]に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する<ref>家臣で、築城の総督であったとされる吉田義寛(吉田修理)は秀康と共に[[佐佳枝廼社]]に祭られている。</ref>。完成した城は東が新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口馬出までの2キロメートル四方に及んだ<ref>[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1001959-0 北之庄城郭図 デジタルアーカイブ福井]</ref><ref>上田三平『越前及若狭地方の史蹟』三秀舎、1933年、378p。</ref>。本丸には4重5階の天守が建てられていたが[[1669年]](寛文9年)に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説ある。
 
[[1624年]](寛永元年)に福井藩第3代藩主[[松平忠昌]]によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説あり
 
=== 天守 ===
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=== 遺構等 ===
[[ファイル:福井城1.jpg|サムネイル|瓦御門 本丸の正門]]
[[ファイル:福井城 巽櫓.jpg|サムネイル|巽櫓 本丸の南東]]
[[File:Matsudaira-Shinojyo 1910.jpg|thumb|松平試農場]]
[[明治維新]]後、1871年(明治4年)、[[福井藩]]は福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、開墾を進めた<ref>福井市編集『福井市史 通史編3 近現代』福井市,2004</ref>。その後、1890年(明治23年)[[松平茂昭]]は福井城跡を買い戻し、1983年(明治26年)、[[松平康荘]]により、旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立され、1921年(大正11年)金津駅東細呂木村山室口へ移転するまで続いた<ref>小林健壽郎編著『越前松平試農場史』越前松平家,1993</ref>。
 
現在[[堀|外堀]]は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には[[福井県庁]]、[[福井県議会|県会議事堂]]、[[福井県警察|県警察本部]]などがあり、[[公園]]としても整備されている。石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされた。
 
福井市足羽5丁目の足羽山麓にある高照山[[瑞源寺]]([[臨済宗]][[妙心寺派]])は、第5代、第7代藩主[[松平昌親|昌親(吉品)]]とその母親の[[高照院]]の墓所である。寺伝に従い平成3年に調査された結果、この寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明した。幕末の[[1860年]]([[万延]]元年)「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」と寺伝にある通り、後世に増改築されてはいるが、『福井城本丸御殿の図』([[松平文庫]]蔵)にみられる[[1831年]]([[天保]]2年)に14代[[松平斉承|斉承]]が造営した御小座敷(おこざしき)と呼ばれる建物と一致した。また併設されている書院は、同年同時に作られた、斉承の正妻[[浅姫]](11代将軍[[徳川家斉|家斉]]の娘)のための御殿「[[大奥]]御座之間」であることも建材の墨書などから確認された<ref>{{Cite book|title=ふくいの建築|date=2001年3月31日|year=2001年|publisher=福井県文化振興事業団|last=|author=吉田純一}}</ref>。