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[[1967年]]創業<ref name=mainichi20190524>[https://mainichi.jp/articles/20190524/k00/00m/040/053甘辛い味つけ000c?inb=ys 鯨料理の有名店「徳家」が閉店 おかみの大西睦子さん「一定の役割は果たした」 大阪 毎日新聞2019年5月24日 10時34分(最終更新 5月24日 10時42分)]</ref>。女将の大西睦子が、母親が営業していた料亭を再興したい一心で「ふぐ料理店」を始めたのが徳家の始まりである<ref name=tokuya/>。大西は料亭の三女として大阪市で生まれ育ち<ref name=mainichi19910609/>、[[大阪府立今宮高等学校]]中退後、結婚を機に千日前に出店した<ref name=mainichi19970101/><ref name=mainichi19910609/>。大西は24歳であった<ref name="harihari"/>。夫は[[黒門市場]]の魚屋の次男だった<ref name="harihari"/>。店は7坪ほどの小さなものであった<ref name="harihari">[https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/nabe/story/tokuya.html ハリハリ鍋 ハリハリとした食感が小気味いい 公益社団法人 大阪21世紀協会]</ref>。
 
しかし「ふぐ料理店」での来客は芳しくなく、母親より鯨肉専門店への転換を勧められる<ref name=tokuya/>。元々、大阪は[[太平洋戦争]]直後まで、日本の鯨肉の7割を消費していた土地柄で<ref name=mainichi20091014/>、大西自身も幼少時は、鯨肉を使った[[すき焼]]や[[鍋]]を食べていた<ref name=mainichi20091014/>。当時の[[鯨肉]]は安価で、一般市民にも親しまれた食材であったが<ref name=mainichi20190524/><ref name=tokuya/>、鯨肉を専門に扱う料理店は大阪にも少なく、「おでん屋」で[[コロ]]<ref>[[マッコウクジラ]]の脂肪の多い皮から油を抽出した残りカス</ref>、[[サエズリ]]<ref>鯨の舌のこと。干物で提供され水でもどして料理されることが多い</ref>が重宝されている程度だったためである<ref name=tokuya/>。鯨肉は甘辛い味付けがなされることが多かったが<ref name=mainichi20190524/>、酒に合うように薄味スープを使って考案した鯨肉鍋は「ハリハリ鍋」と呼ばれ名物となった<ref name="harihari"/><ref name=mainichi20190524/><ref name=Reuters20190525/>。スープは[[かつお節]]の効いた特製だしで、そこにたっぷりの[[水菜]]と鯨の赤身を入れて炊いた<ref name=Reuters20190525/>。鯨肉は毎朝市場で仕入れ、[[霜降り]]の多い「尾の身」だけを使用した<ref name="harihari"/><ref name=mainichi20190524/>。「尾の身」とは、鯨の体の立羽(背びれ)附近から尾までの肉で、鯨の肉で最も美味しく最も高価とされる部分である<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/14/1/14_33/_pdf 馬場美智 「関西の鯨料理」大阪女子学園短期大学]</ref>。鯨の[[赤身]]は、スープの染み込みを良くするために、客に提供する前に[[片栗粉]]をまぶした後に一度湯がいて下ごしらえした<ref name="harihari"/><ref name=tokuya>[http://www.tokuya.jp/company/ 徳家 オフィシャルページ]</ref><ref name=mainichi19970101>食べなはれ関西 鯨料理「徳家」女将、大西睦子さん 毎日新聞 1997年01月01日 大阪朝刊 11頁 特集 写図有 (全742字)</ref>。水菜は「ハリハリ鍋」の語源にもなったように<ref name=tokuya/>、煮えすぎて歯ごたえを損なわないように少量ずつ鍋に投入するように客に指導していた<ref name=tokuya/>。まだ当時はミナミの周辺でも農業が行われており、湊町の向こうには水菜を植えた畑が広がっていた<ref name="harihari"/>。スープも改良を重ね、昆布とカツオブシで出汁をとり、薄口醤油で味を調える<ref name="harihari"/>。[[かつお節]]も質の良いものを厳選していた<ref name=tokuya/>。鍋に加える[[唐辛子]]には[[メキシコ]]産の[[ハラペーニョ]]を使った<ref name="harihari"/>。ハラペーニョは隠し味として使われ、鯨肉の臭みを消して、後味を爽やかにする効果があった<ref name="harihari"/>。具は、鯨肉と水菜、豆腐、シイタケ、餅、おばコロ(貴重なヒレのコロ)だけであった<ref name="harihari"/>。食べた後は[[うどん]]やご飯を入れて[[雑煮]]にする客も多かった<ref name=mainichi19970101/>。うどんも汁の味が染みやすいように細めのうどんを選んだ<ref name="harihari"/>。創業時約20席だった店は、手狭になり約80席になった<ref name=mainichi20190524/>。「くじら」の「9」に掛けた毎月9日は、近所の寺院で[[鯨墓|鯨供養]]を開催し続けた<ref name=mainichi20190524/>。
 
=== 商業捕鯨禁止期間 ===
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商業捕鯨が禁止されて4年後の[[1989年]]からは、「鯨の味を忘れないで」という意味を込めて、大阪の[[通天閣]]で採算無視の鯨料理イベント「鯨まつり」を毎春開催した<ref name=mainichi19910609>「ひと」大西睦子さん=IWC総会に参加、鯨肉試食会を開く、大阪千日前で料亭経営 1991年06月09日 毎日新聞 大阪朝刊 3頁 3面 写図有 (全630字)</ref>。その行動力が[[小泉武夫]]が理事長を務める商業捕鯨再開運動団体「[[クジラ食文化を守る会]]」の目にとまり、オブザーバーに指名される<ref name=mainichi19910609/>。
 
日本の鯨文化の継承に危機感を持った大西は、商業捕鯨再開は自分に与えられた使命と考え、1990年代からIWCの会議にオブザーバーとして10回以上参加し、鯨食の魅力や捕鯨の必要性を訴えた<ref name=mainichi20140401/><ref name=mainichi20190524/>。[[1991年]]開催の[[アイスランド]]でのIWC年次会議の会場となった「ホテル・サガ」<ref>"Radisson Blu Saga Hotel" Hagatorg, Reykjavik 107, Iceland</ref>では、大西みずから参加者に鯨肉料理を振舞った<ref name=mainichi19910609/>。現地アイスランドの捕鯨業者提供の冷凍ナガスクジラ12kgを元に、「尾の身」と赤身の刺し身、竜田揚げ、ステーキ、鯨肉入りうどんなどを作り、レイ・ギャンベル(Ray Gambell)IWC事務局長および、[[ノルウェー]]、[[デンマーク]]、[[セントビンセント]]、[[アイスランド]]のIWC代表委員や記者44人が参加し好評を得た<ref name=mainichi19910602>IWC総会の[[レイキャビク]]で、鯨肉試食パーティー--大阪の料理店経営者 毎日新聞 1991年06月02日 東京朝刊 26頁 社会 (全464字)</ref>。費用の30万円は大西の自己負担であった<ref name=mainichi19910609/>。招待した国で来場しなかったのはアメリカだけであった<ref name=mainichi19910602/>。レイ・ギャンベルも「実にうまい。東京へ行くたびに鯨肉レストランへ寄るが、いつ食べてもうまい」と上機嫌であった<ref name=mainichi19910602/><ref>レイ・ギャンベルは日本の調査捕鯨に賛成の立場であり、その調査報告を評価していた。[[1965年]]から[[1975年]]の間IWC英国代表団の科学顧問などを務める。[[1976年]]5月にIWC事務局長に就任し、[[2000年]]9月に退任。[[1994年]]に鯨類保護と生物学での貢献に対し、[[英国女王]]より勲章を授与される。著作・論文が多数。</ref>。元々は、総会開催期間中の1991年05月30日に鯨肉試食会をする予定であり、大西はホテル側と場所と人材の手配の交渉を済ませていたが、日本の代表団が捕鯨反対国を刺激しないために総会終了後の開催を要請し、6月2日に変更された<ref>「時期悪い」と鯨肉試食会中止 レイキャビクの国際捕鯨委で「食文化守る会」1991.05.31 毎日新聞 東京夕刊 14頁 社会 (全278字)</ref>。
 
[[1992年]]には、日本の鯨料理専門店は10店舗に減った<ref name=mainichi19920606/>。商業捕鯨をしていた時代の在庫の肉も少なくなり価格は高騰。上質の赤身でキロ1万円、「尾の身」はキロ4万5000円にもなった<ref name=mainichi19920606>Mジャーナル クジラ追って高知・室戸岬へ、クジラ専門店では冷凍“貯金”で調達 1992年06月06日 毎日新聞 大阪夕刊 11頁 社会 写図有 (全1,597字)</ref>。[[1997年]]には徳家でのハリハリ鍋の値段は1人前4000円となった<ref name=mainichi19970101/>。値段は高くなったが、調査捕鯨で供給される鯨肉は小型のミンク鯨だけになり、味は落ちた<ref name=mainichi19970101/>。一番美味しいとされるナガス鯨の肉は入手できなくなった<ref name=mainichi19970101/>。「尾の身」も新規の入荷が無くなり、冷凍庫に保管している在庫のみになった<ref name=mainichi19970101/>。
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[[2009年]]12月1日からは、ビルの3階スペースを使って「徳徳亭『毎日寄席』」という[[寄席]]が始まった<ref name=mainichi20091014/>。[[落語家]]の[[桂春蝶 (3代目)|桂春蝶]]、[[林家染左]]、[[講談師]]の[[旭堂南青]]ら企画に賛同した15人が日替わりで午後3時から日替わりで約1時間公演し、午後4時からは鯨刺し身、鯨竜田揚げ、ビールなどが振舞われた<ref name=mainichi20091014/>。企画は[[トリイホール]]の[[鳥居学]]社長だった<ref name=mainichi20091014>寄席:ミナミから伝統文化発信 徳徳亭「毎日寄席」12月スタート/大阪 2009年10月14日 毎日新聞 地方版/大阪 23頁 写図有 (全643字)</ref><ref>徳家はビル2階、トリイホールは同じビルの4階であった</ref>。鯨食文化は大阪の大切な食文化であると、鳥居社長と意気投合しての開催であった<ref name=mainichi20091014/>。また若手芸人の活躍の場を設ける意味もあった<ref name=mainichi20091014/>。
 
[[2011年]]には、サエズリが以前の10倍の値段になった<ref name="harihari"/>。コロも以前は黒門市場に山積みで販売されていたものが、日本全体で年間鯨1頭分のコロしか流通しなくなり、手の平くらい程度の大きさで5000円を超える高級食材になっていた<ref name="harihari"/>。
 
[[2014年]]3月31日には[[国際司法裁判所]]で[[南極海]]での調査捕鯨を禁止する判決が出される。大西は新聞社の取材を受け商業捕鯨が一時中止が決まった直後同じ気分、かつては店頭安価で並び庶民の味だった。商業捕肉だから大事な再開に向けて取り組んでいる中での今回の判決で、日本食文化を守影響は計知れない」とコメントした<ref name=mainichi20140401/><ref>捕鯨の町 [https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/ytv/25304/257615/[和歌山]]・[[太地町]] 中止命令に「まさか」2014年04月01日 [[よみうりテレビ ]] [[朝生ワイド]] す・またん! 報道/ニュース/ニュース 株式会社ワイヤーアクション(全325字)</ref><ref>調査捕鯨にNO 日本敗訴 鯨料理店 太地町の反応は 2014年04月01日 よみうりテレビ かんさい情報ネットten. 一般実用/ニュース/ニュース (全243字) 株式会社ワイヤーアクション</ref>。この頃は、捕鯨国の[[アイスランド]]からの輸入の冷凍鯨肉を使ってしのいでいた<ref>”鯨文化”の危機に 関西でも困惑の声 2014年04月01日 関西テレビ FNNスーパーニュース アンカー 報道/ニュース/ニュース (全271字) 株式会社ワイヤーアクション</ref>。2015年には書籍「徳家秘伝 鯨料理の本」を執筆し、同時に英語訳版も発売した<ref>徳家秘伝 鯨料理の本 大西 睦子 1995年 ISBN 978-4062075794</ref>。2016年に開設した店のホームページには、なぜ一律な商業捕鯨の一律な禁止が不当なのか、なぜ商業捕鯨再開が必要なのかを訴える「Q and A」が掲載されていた<ref name=tokuya/>。
 
=== 閉店 ===