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|casualties2=戦死 774–777<br/>捕虜 15<ref group="注">Smith, ''Bloody Ridge'', p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。</ref><ref group="注">Frank, ''Guadalcanal'', p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。</ref>
}}
'''イル川渡河戦'''(イルがわとかせん、{{lang-en|Battle of the Ilu River}})は、[[太平洋戦争]]中の[[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月21日]]、[[ガダルカナル島]]において[[日本軍]]と[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を主力とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]との間に起きた陸上[[戦闘]]。'''テナルの戦い'''({{lang-en|Battle of the Tenaru}}){{Sfn|ニミッツ|1962|p=120}}、'''アリゲーター・クリークの戦い'''({{lang-en|Battle of Alligator Creek}})とも呼ばれ、[[ガダルカナル島の戦い]]における日本軍最初の大規模反攻でもあった。
[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]][[少将]]を指揮官とする[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]][[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第一海兵師団]]は、1942年[[8月7日]][[フロリダ諸島の戦い|ガダルカナル島に上陸]]し、[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中であった[[ヘンダーソン飛行場]]を奪取してこの防衛にあたっていた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=111}}。一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のための先遣隊として派遣された[[一木清直]][[大佐]]率いる一木支隊第1梯団は[[8月19日]][[未明]]に[[駆逐艦]]によって同島に上陸、このときガダルカナル島全体の連合軍側の戦力はおよそ11,000名であったが日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=506}}。一木支隊は上陸地点のタイボ岬から西進し、20日深夜にルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇、21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った。さらに米海兵隊は夜明けを待って残存兵を包囲殲滅し、21日午後一木支隊は壊滅した。この戦いで917名いた一木支隊第1梯団のうち日本側記録777名が戦死、生き残ったのは後方に待機
日本軍はこの戦いの後、上陸したガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを知り、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいった。だが[[第二次ソロモン海戦]]で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=506}}、[[駆逐艦]]による[[鼠輸送]](東京急行)に頼らざるを得なくなった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=123}}。
== 背景 ==
[[1942年]](昭和17年)[[8月7日]]、米軍は[[ソロモン諸島]]内の[[ガダルカナル島]]、[[ツラギ島]]および[[フロリダ諸島]]に上陸した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}。これは、これらの島嶼が日本軍の[[軍事基地]]となって米豪間の[[兵站|補給ルート]]を脅かすことを阻止するためであり、他方[[ニューギニアの戦い]]を支援して最終的には日本軍の[[ビスマルク諸島]][[ニューブリテン島]][[ラバウル]]基地を
[[File:VandegriftDesk.jpg|thumb|第1海兵師団[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|ヴァンデグリフト]]少将]]
連合軍は[[奇襲]]を成功させ、初期目的である[[ツラギ島]]とその近隣島嶼を確保、[[8月8日]]の日没までにはガダルカナル島[[ルンガ岬]]に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=111}}<ref>Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', pp. 14–15.</ref>。
8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍・外南洋部隊指揮官([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官[[三川軍一]]海軍[[中将]]){{#tag:Ref|第八艦隊は1942年7月14日に新編され{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=372-374|ps=第八艦隊の新編}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=67-68|ps=第四艦隊と新編第八艦隊との任務分担}}、兵力部署においては外南洋部隊であった{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=68-70|ps=聯合艦隊第二段作戦第二期(後期)兵力部署}}。第八艦隊旗艦「鳥海」は7月30日ラバウル到着{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=201|ps=(昭和17年7月30日記事)}}、陸上庁舎に艦隊司令部を置いた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=403}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=70-71|ps=内南洋部隊の兵力部署及び第八艦隊司令部の進出}}。|group="注"}}率いる巡洋艦7隻と駆逐艦1隻と交戦した{{#tag:Ref|部隊編成は、重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]/三川長官旗艦、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将指揮下の第六戦隊([[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]])、第十八戦隊司令官[[松山光治]]少将の軽巡洋艦[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、駆逐艦[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]。夕張と夕凪は[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]隷下の[[海上護衛隊|第二海上護衛隊]]所属。帰路、米潜水艦[[S-44 (潜水艦)|S-44]]の雷撃で重巡加古が沈没した。|group="注"}}。
ガダルカナル島に上陸した海兵隊[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]は、はじめ奪取した飛行場のある[[ルンガ岬]]周辺に防衛線を構築することに注力し、物資の搬入と飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト[[少将]]は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場の建設工事は主に日本軍の残した資材を使用して進められた。[[8月12日]]、飛行場は[[ミッドウェー海戦]]で戦死した米海軍パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという<ref>Shaw, ''First Offensive'', p. 13.</ref><ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 16–17.</ref>。▼
連合軍側は巡洋艦4隻と駆逐艦1隻が沈没、巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が大破するなど多大な損害を被った{{Sfn|ニミッツ|1962|p=117|ps=第15図 サヴォ島海戦(1942年8月9日)}}{{#tag:Ref|沈没艦は豪巡洋艦[[キャンベラ (ケント級重巡洋艦)|キャンベラ]]、米巡洋艦[[クインシー (CA-39)|クインシー]]、[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]]、[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]]、駆逐艦{{仮リンク|ジャーヴィス (DD-393)|en|USS Jarvis (DD-393)}}。損傷艦は米巡洋艦[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]]、駆逐艦{{仮リンク|ラルフ・タルボット|en|USS Ralph Talbot (DD-390)}}。|group="注"}}。
日本側も[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]](司令長官[[塚原二四三]]海軍中将)麾下の[[一式陸上攻撃機]](第二十五航空戦隊、司令官[[山田定義]]海軍少将){{Sfn|日米諜報戦|2016|pp=149-154}}が米軍輸送船団に対し空襲を敢行し、大損害を受けた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=112}}。さらに海軍陸戦隊を乗せガダルカナル奪回に向かっていた輸送部隊(敷設艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]、測量船[[宗谷 (船)|宗谷]]、輸送船明陽丸、第21号掃海艇、第16号駆潜艇){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=442}}は8日1155に作戦中止命令をうけラバウルに向け反転、このうち明陽丸が米潜水艦[[:en:USS S-38 (SS-143)|S-38]]の雷撃で沈没し戦死者73名を出した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=496-497|ps=明陽丸の沈没}}。(日本側呼称[[第一次ソロモン海戦]]、連合軍側呼称サボ島海戦。)
[[リッチモンド・K・ターナー]]少将は[[8月9日]]夕刻までに、残る重機・食糧・兵の揚陸を断念し、物資を半分ほど揚陸しないまま海軍戦力すべてを撤退させた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=118a-119|ps=小休止}}。このとき、32門の[[M116 75mm榴弾砲|75mm榴弾砲]]と[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲]]からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は5日分しか揚陸できなかった<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 49–56.、Smith, ''Bloody Ridge'', p. 11 & 16.</ref>。
▲ガダルカナル島とツラギ島に上陸した海兵隊[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]約1万6000名は、補給を断たれた状態で孤立することになった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=118b}}。はじめ奪取した飛行場のある[[ルンガ岬]]周辺に防衛線を構築することに注力し、
[[8月12日]]、[[呂号第三十三潜水艦]]はガダルカナル島ハンター岬見張所との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=511}}。[[呂号第三十四潜水艦]]はガ島タイボ岬見張所との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。[[8月13日]]未明、日本軍の駆逐艦2隻{{#tag:Ref|駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]と[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]。『戦史叢書49巻』を含め多くの二次資料は「夕月」と記述する{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。追風主計科の岡村は、同行艦を[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]{{Sfn|青春の棺|1979|pp=117-118}}と回想している。|group="注"}}はガダルカナル島に到着したが、同島残留日本兵との連絡に失敗した{{Sfn|青春の棺|1979|p=120}}。2隻はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を敢行し、ラバウルに引き揚げた{{Sfn|青春の棺|1979|pp=121-122}}。同日、[[伊号第百二十二潜水艦]]と[[伊号第百二十三潜水艦]]は偵察を実施し、[[水陸両用戦車]]、[[野砲]](砲兵陣地)、[[高射砲]]や機銃の存在を報告した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦の偵察結果は重要視されなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=513}}。
[[8月15日]]、今度はアメリカ軍の[[高速輸送艦]]4隻(旧式駆逐艦の改造艦艇)が航空ガソリン・爆弾・軍需品・航空基地隊員を搭載し、ガ島揚陸に成功した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。
[[File:JapaneseColIchiki.gif|thumb|right|150px|歩兵第28連隊 [[一木清直]][[大佐]]。[[盧溝橋事件|盧溝橋]]で勇名をはせた。]]
連合軍のガダルカナル島上陸の速報に対し、[[ラバウル]]現地では第八艦隊が[[百武晴吉]]陸軍中将を司令官とする[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]]に奪還作戦への協力を求めた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=445a|ps=第十七軍}}。第十七軍は[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略]]と[[パプアニューギニア|東部ニューギニア]]要地勘定を任務としていたので、ラバウル所在の南海支隊をガダルカナル奪還に投入する意図はなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=445b}}。第十七軍は、[[パラオ諸島]]所在で8月15日頃ラバウル到着予定の川口支隊なら投入可能と返答した{{#tag:Ref|8月7日1030大本営陸軍部宛ての第17軍報告〔一 海軍ノ通報ニ依レハ七日〇六〇〇空母一、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦一五ニ護衛サレタル輸送船約二〇「ツラギ」ニ上陸セリ、又「サマライ」及「ラビ」ハ八月初敵ガ之ヲ占領セリ/二 軍ハ「ツラギ」増援ノ海軍ノ希望ニ依リ、即時歩兵第三十五旅団ノ一部ヲ使用スルコトアリ、諒承アリ度/三 「ポートモレスビー」作戦ハ目下ノ処変更ナシ{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=445b}}。|group="注"}}。その後、第一次ソロモン海戦の大勝利が伝わり、日本軍(大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)は「ソロモン諸島は確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断し{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=507}}、ひきつづき[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略]]にともなう[[ニューギニアの戦い]]を重要視した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。大本営は来攻兵力を海兵隊一個師団約15,000名と推定していたが、日本軍の揚搭時間から見て、連合軍はほとんどの部隊の揚陸に失敗して撤退したと判断した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=509}}。
結局、ソロモン南部へは[[パラオ諸島]]の[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]]([[川口清健]]少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、[[フィリピン]]の青葉支隊([[那須弓雄]]少将、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]][[歩兵第4連隊]]主力基幹)、内地転属のため[[グァム島]]に待機中であった一木支隊([[一木清直]]大佐、[[第7師団_(日本軍)|第7師団]][[歩兵第28連隊]]基幹){{#tag:Ref|一木支隊は5月5日の大陸命第625号により戦闘序列下令{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=183}}。ミッドウェー作戦時兵力は、支隊長一木大佐、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第1中隊、独立速射砲第8中隊。総兵力約2000名、折畳舟約30、対戦車砲8門、その他装備{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=183}}。|group="注"}}を投入することとした。各隊は直ちにガダルカナル島へ向かったが、ミッドウェー作戦後にグァム島に待機していた一木支隊がトラック泊地を経由して最初に投入された{{#tag:Ref|一木支隊は[[北海道]]の[[第7師団_(日本軍)|第7師団]]を基幹として編制された。[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]を基幹とする青葉支隊は[[仙台]]の[[仙台城|青葉城]]からその名をとった。一木支隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[近藤信竹]]中将の指揮下に入り輸送船に乗船、[[田中頼三]]第二水雷戦隊司令官指揮下の[[水雷戦隊]]に護衛されて[[ミッドウェー島]]へ進出、[[海軍陸戦隊]]と共に同島を攻略する予定であった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=187-188|ps=一木支隊の指揮問題紛糾}}。[[ミッドウェー海戦]]の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、6月13日にグァム島へ帰投していた{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=538-539|ps=船団部隊のグァム、トラック帰投}}。本土へ帰還するため8月7日にグァム島を出発したところ、ガダルカナル戦の生起にともない同方面に投入された{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=84a|ps=陸軍一木支隊の「ガ」島派遣決定}}。一木支隊はグアムから[[トラック島]]を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。|group="注"}}。海軍上級司令部(軍令部、連合艦隊)は「一木支隊の兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力で自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=446-447|ps=聯合艦隊}}。
[[8月12日]]、日本軍はガダルカナルの米海兵隊の位置を確認するためラバウルから航空偵察を行ったが、開けた場所には米兵がほとんどおらず、近海にも大型艦船が認められなかった。このことから[[大本営]]は、連合軍は部隊の大部分を撤退させたものとみたが、実際には連合軍は撤退などしていなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 143–144.</ref>。なお大本営が[[8月13日]]に第17軍に打った電報では「ソロモン群島要地奪回には(中略)できれば一木支隊と海軍陸戦隊のみで、すみやかに奪回するを可とせざるやと考えている」とあり、戦況を楽観視していたことがうかがえる<ref>[[#川口 (1960)|川口 (1960), p.197]]</ref>。百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として速度の速い駆逐艦で直ちにガダルカナル島に上陸させ、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。後続の第2梯団は別途低速の輸送船で送り込まれることとなった。一木支隊第1梯団は[[チューク諸島|トラック島]]にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた<ref>Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 98–99 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 31.</ref>。▼
[[8月10日]]、ガ島空襲にむかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊を発見しなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。[[大本営]]も現地日本軍も、連合軍は部隊の大部分を撤退させたと判定した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。一方で多数の舟艇を発し、また対空砲火を受けたことからガダルカナル島とツラギ諸島は占領されたと判断した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。すなわちガ島の連合軍は敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=505}}。後日おこなわれた空襲と航空偵察の結果もその判断を後押ししたので、大本営・連合艦隊・現地陸海軍含めてますます楽観的になった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=512}}。同日、大本営陸軍部は一木支隊を第十七軍の戦闘序列に編入した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=509}}。
[[8月12日]]夕刻、一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊がトラック泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=84b}}。
なお大本営が[[8月13日]]に第17軍に打った電報では「ソロモン群島要地奪回には(中略)できれば一木支隊と海軍陸戦隊のみで、すみやかに奪回するを可とせざるやと考えている」とあり<ref>[[#川口 (1960)|川口 (1960), p.197]]</ref>、戦況を楽観視していたことがうかがえる{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=448-451|ps=大本營海軍部及び陸軍部}}。
ガダルカナル島奪回作戦は「カ」号作戦と命名され、現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)協定による作戦は「キ」号作戦と命名された<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.17-18〔第八艦隊 第十一航空艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊 第二、第三艦隊ノ大部ヲ基幹トスル部隊及陸軍第十七軍(歩兵約十三個大隊)ヲ以テ「ガダルカナル」「ツラギ」方面攻略奪回ニ決ス/本作戰ヲ「カ」号作戰 第十七軍 第八艦隊 第十一航空艦隊間ノ協定ニ依ル作戰ヲ「キ」号作戰ト呼稱ス 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=92a-93|ps=「ガ」島奪回作戦要領の明示}}。
▲
同13日夕刻、大本営では[[永野修身]]軍令部総長と[[杉山元]]参謀総長が[[昭和天皇]]にソロモン方面奪回作戦について上奏していた{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=176|ps=(昭和17年8月13日記事)}}。
[[8月15日]]、天皇はソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して[[勅語]]下賜の内意を示した{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=177a|ps=(昭和17年8月14日記事)}}。
[[8月16日]]、「キ」号作戦増援部隊の挺身隊(第4駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐指揮){{#tag:Ref|『戦史叢書第49巻』519頁では「第4駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐」と記述しているが、佐藤大佐は第9駆逐隊司令。第4駆逐隊司令は[[有賀幸作]]大佐。|group="注"}}[[陽炎型駆逐艦]]6隻(旗艦/[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]])は一木大佐以下先遣隊916名を各艦約150名ほど収容し、トラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=96a-97|ps=「ガ」島奪回作戦部隊のトラック出撃}}。なお速射砲部隊をふくむ一木支隊大部分約1500名は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗し、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将(旗艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])指揮下の軽快艦船(神通、哨戒艇2隻、途中合流の第24駆逐隊)に護衛され、挺身隊と同時にトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=519}}。挺身隊の速力は22ノット、輸送船団は8.5ノットであった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=519}}。
天皇は[[侍従武官]]よりガ島奪回作戦の上陸予定について報告を受けた{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=177b|ps=(昭和17年8月16日記事)(中略)午前、昨日の情報を上聞す。「ソロモン」方面の上陸及「ブナ」作戦につき改めて御格戸にて御下問あり、ガダルカナル奪回上陸予定言上。}}。
挺身隊(一木支隊先遣隊)がガ島へ向け航行中の[[8月17日]]未明、横五特のガ島派遣隊113名{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}(追風乗組員によれば約180名){{Sfn|青春の棺|1979|p=122}}は駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]に乗艦してガダルカナル島に到達し{{Sfn|青春の棺|1979|pp=126-129}}、同島タサファロング(ガ島北西部)西方4km地点に上陸した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=104|ps=横五特主力の「ガ」島奪回作戦の失敗}}。高橋達之助大尉以下増援陸戦隊はマタニカウ河西方に本部をおくガ島守備隊(部隊長の掌握していた守備隊員100名、設営隊328名)との連絡に成功した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=178|ps=(昭和17年8月18日記事)(中略)「ソロモン」方面の戦闘につき、仝地奪回及モレスビー作戦一段落の時機に、勅語御下賜の思召あり。/ガダルカナル方面、一部陸戦隊増援、設営隊と連絡す。本方面及ブナ方面の上陸につき、御下問あり。}}。
ガ島守備隊からの情報により、日本軍守備隊の拠点は飛行場西方マタニカウ河西岸にあること(一木支隊先遣隊の上陸するタイボ岬は飛行場東側)、連合軍ガ島上陸部隊は2000名ほどでツラギ諸島へ脱出しつつあるが高射砲・戦車若干を有することが判明し、一木支隊長にも伝えられた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}。一木支隊長は「大急ぎで行かなければ敵は逃げてしまう」と心配した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}。一木支隊先遣隊(さらに一木支隊後続部隊や海軍陸戦隊も加われば)飛行場奪回は容易との判断は、大本営のみならず現地陸海軍の共通認識であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=520}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=523}}。
[[8月18日]]2300、挺身隊駆逐艦6隻に乗船した一木支隊先遣隊(第1梯団、916名)は、食料7日分を携行して[[ルンガ岬]]の約35km東にあるタイボ岬に上陸、集結を完了した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=35}}{{#tag:Ref|Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Frank, ''Guadalcanal'', p. 145, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 204, 212, Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', p. 70, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43. 第1梯団は[[北海道]][[旭川市|旭川]]の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長[[蔵本信夫]]少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.18〔八月十八日 佐五特派遣隊(二〇〇名)「タイボ」ニ揚陸成功 第四駆逐隊ハ佐五特派遣隊揚陸後「ルンガ」方面ヲ砲撃 海上トラック二撃沈 三ヲ大破ス <del>秋</del>萩風空襲ニ依リ損害ヲ受ク 〕</ref>、一木支隊の上陸を支援した。|group="注"}}。
上陸後、一木大佐は後続部隊の来着を待つことなく、先遣隊のみでの飛行場攻撃を決意した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}。[[8月19日]]0000をもって前進を開始する{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}。約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いていた。移動は夜間機動で、昼間は休憩にあてた。19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、偵察部隊が飛行場西方のマタニカウ河で日本軍守備隊と交戦状態にあった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=533}}。この時、[[コースト・ウォッチャーズ]]等から「日本軍の駆逐艦が飛行場の東35km地点で兵員を揚陸した」との[[ミリタリー・インテリジェンス|情報]]を得た{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=155}}。米海兵隊は、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 99–100 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 29 & 43–44.</ref>。
なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)は[[ラビの戦い]]に従事するためすぐに[[ラバウル]]へ向かった{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=173-175}}。残3隻は上陸地点の警戒・敵脱出阻止のため同地に留まり、ツラギ泊地やルンガ岬に艦砲射撃を実施した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=534}}。午前中になると[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]の空襲がはじまり、被弾した「萩風」が大破、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=534}}。「陽炎」のツラギ泊地砲撃後の報告は「本射撃直後敵兵満載ノ大発数隻算ヲ乱シテ遁走セント図リタル為之ヲ砲撃セル所右往左往スル状況及攻撃中何等応戦ノ気配ナキ点其ノ他敵(兵数不明)ノ行動一般ニ活發ナラザル点等ヨリ考察シ、敵ハ相当士気沮喪セルニ非ズヤト認メラル、続イテ「ホーン」岬二粁附近ヲ往復極力見張所ト連絡ヲ試ミタルモ応答ナシ」であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=534}}{{#tag:Ref|駆逐艦「陽炎」は8月20日に空襲を受けて避退、21日にショートランド泊地で水上機母艦[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]より燃料補給を命じられた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。|group="注"}}。
同19日1542、一木支隊先遣隊の間接支援をおこなっていた外南洋部隊支援部隊(青葉、衣笠、古鷹、夕凪)は[[サンタイサベル島]]北部のレカタに入泊し、臨時の水上基地を設置した{{#tag:Ref|外南洋部隊支援隊指揮官は[[五藤存知]]第六戦隊司令官。翌20日1202、第六戦隊は夕凪を残してレカタを出発した<ref>[[#第六戦隊日誌(5)]]p.28(昭和17年8月19日~20日行動)</ref>。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。同日夜{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=216|ps=(昭和17年8月19日記事)}}、外南洋部隊主隊(重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])はラバウルを出撃<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]p.55(昭和17年8月19日記事)</ref>、20日1000時点で[[ブカ島]]北東50浬地点にあった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}。
== 戦闘 ==
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[[File:GuadCoastwatcher.gif|thumb|right|英領ソロモン諸島[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。]]
イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で[[コースト・ウォッチャーズ|沿岸監視員]]である{{仮リンク|マーティン・クレメンス|en|Martin Clemens}}の指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員やその他の情報機関からの報告によって
同じころ、一木支隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、38名の偵察部隊を出した。8月19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍[[斥候]]兵を視認、待ち伏せ攻撃を仕掛けた。日本軍側は33名死亡、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった<ref group="注">Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 100, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 205, and Smith, ''Bloody Ridge'', p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。</ref>。 ▼
偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊に所属していることが明らかとなった<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62</ref>が、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 149.</ref>。▼
▲同
これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島には[[アリゲーター科|アリゲーター]]は生息しておらず<ref group="注">アリゲーター科の[[ワニ]]が生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。</ref>、[[クロコダイル科|クロコダイル]]しかいないこと、また、クリーク({{lang|en|Creek}}:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの[[砂州]]で分かたれた[[潟]]であったことである<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 150.</ref>。▼
▲偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊に所属していることが明らかとなった{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=156}}<ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 62</ref>。だが、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 149.</ref>。
▲これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島には[[アリゲーター科|アリゲーター]]は生息しておらず
米[[第1海兵師団_(アメリカ軍)|第1海兵連隊]]{{仮リンク|クリフトン・ケイツ|en|Clifton B. Cates}}大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した<ref name="Hammel">Hammel, ''Carrier Clash'', p. 135.</ref><ref>Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 67.</ref>。さらに第1特殊兵器大隊100名に[[キャニスター弾]](対人用散弾)を装備した[[M3 37mm砲|37mm対戦車砲]]2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 102.</ref>。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた<ref name="Hammel"/>。
偵察隊全滅の報を受けた一木大佐は遺体埋葬の為1個中隊を先遣した後、19日夜間も行軍を続け、[[8月20日]]
同時期、護衛空母「[[ロング・アイランド (護衛空母)|ロング・アイランド]]」はガ島に接近し、[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]] 19機と[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]] 12機をヘンダーソン飛行場に空輸した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=119}}。ロング・アイランドが輸送した[[戦闘機]]と[[急降下爆撃機]]は、ガダルカナル島攻防戦で重要な戦力となった{{Sfn|護衛空母入門|2005|p=225}}。ヘンダーソン飛行場に米軍航空機が進出したことは<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.55-56(昭和17年8月20日記事)</ref>、日本軍も確認した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=539}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=218a|ps=(昭和17年8月21日記事)曇雨、視界不良のため敵情を得ず}}。小型駆逐艦や輸送船がルンガ泊地にて揚陸作業中との情報により、駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]](第24駆逐隊)と駆逐艦[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]に泊地突入命令が出た{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=218b}}{{#tag:Ref|夕凪は天候不良のため泊地に突入できず{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=550}}、陽炎は燃料補給のために後退{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=535}}、江風は8月22日単艦で突入し米軍駆逐艦3隻([[ブルー (DD-387)|ブルー]]、[[:en:USS Helm (DD-388)|ヘルム]]、[[:en:USS Henley (DD-391)|ヘンリー]])と交戦してブルーを撃沈した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=552}}。|group="注"}}。
=== 攻撃 ===
[[File:GuadTenaruMap.gif|thumb|300px|right|8月21日の戦場図]]
[[8月20日]]
日本時間[[8月20日]]22:30(連合軍時間[[8月21日]]
[[8月21日]]02:30、日本側の第二波として、150名から200名の日本兵がイル川砂州を超えるべく再攻撃を掛けたが、またもや米軍の火力の前に一掃された。このとき、生き延びた士官が一木大佐に残存兵をまとめて撤退すべきであると進言したが、一木大佐はこの進言を退けた<ref>Smith, ''Bloody Ridge'', p. 62–63.</ref>。
一木支隊はイル川東岸で部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103.</ref>。これに対し、米海兵隊も75mm砲と迫撃砲でイル川東岸に砲撃、応戦した<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 153, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 63.</ref>。5:00頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた。このときはイル川渡河ではなく、北の海側から廻り込んで西岸を攻撃しようとした。だがこの迂回攻撃は直ぐに米軍に察知され、浜辺一帯は重機関銃と砲兵の砲撃を浴びた。一木支隊は三たび甚大な被害を被り、迂回攻撃をあきらめ東岸に撤退することを余儀なくされた<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 103–104.</ref><ref>Hammel, ''Carrier Clash'', p. 141.</ref>。この後1-2時間程、イル川を挟んで至近距離での銃撃による応酬が続いた<ref name="Zimmerman">Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 69.</ref>。
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一木支隊は既に壊滅的な被害を被っていたが、依然としてイル川東岸に留まり続けていた。撤退できなかったのか、あるいは撤退するつもりがなかったのかは不明である<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 154 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66.</ref>。[[8月21日]]明方、米軍士官は如何にして戦闘を継続するか協議し、結論として日本軍を追い詰め、攻撃を仕掛けさせてから返り討ちにすることにした<ref>Hough, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 290.</ref>。第1連隊第1大隊のレナード・クレスウェル[[中佐]]は、戦闘地域からイル川を溯上、一木支隊を南方と東方から包囲しイル川東部の[[ココナッツ]]林に追い込んだ<ref name="Zimmerman"/>。また、ヘンダーソン飛行場からの航空機による機銃掃射で日本軍をココナッツ林に足止めし、午後になってから投入された5輌の[[M3軽戦車]]が砂州を超えてココナッツ林を攻撃した。戦車は機銃とキャニスター弾の砲撃でココナッツ林に猛射を浴びせ、横たわる日本兵を生死を問わず押しつぶしていった。ヴァンデグリフト少将は、戦車攻撃が終わった時の様子を「戦車の後ろ側はまるで挽肉器(meat grinder)のようであった」と書き残している<ref group="注">Gilbert, ''Marine Tank Battles'', p. 42–43, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 106, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 212, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。</ref>。
21日17:00には一木支隊の抵抗も止み、戦闘は終了した。一木大佐の最期については
戦闘終了後、物見高い米兵が == 影響 ==
米軍・連合軍にとってイル川渡河戦での勝利は心理的に重要な意味をもっていた。連合軍の兵士はこれまでの[[太平洋戦線]]および東アジア戦線の地上戦において日本軍に負け続けてきたが、この戦いの勝利によって日本軍を地上戦においても打ち負かすことができることを知った<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 157.</ref>。また連合軍はこの戦いで「日本兵は敗北しても降伏することを良しとせず、負傷し倒れてもなお連合軍兵を殺しにかかる」という、太平洋戦争終戦まで通じる戦訓を得た。この点についてヴァンデグリフト少将は次のように述べた。「私はこのような類の戦いを見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのだ<ref>Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 107</ref>。」ガダルカナルに機関銃手などとして従軍した[[ロバート・レッキー]]は回顧録『''Helmet For My Pillow''(ヘルメットを枕に)』で「我々の連隊は900名ばかりの日本兵を倒した。ほとんどは銃火の前に塊となったり、山積となったりして倒れた。まるで日本兵は集団じゃないと死なないかのようだった。戦闘後、死体の間では戦場の"みやげもの"を探そうとする奴らが動き回っていた。[[ブービートラップ]]があるので慎重に歩き回り、見つけた遺体を裸にしていた<ref>Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85</ref>。」
[[8月21日]]夕刻、ガダルカナル島日本軍守備隊は「一木先遣隊ハ今朝飛行場附近ニ到達セルモ殆ンド全滅ニ瀕ス、東見張所ヨリ連絡アリタリ、ぼすとん丸ニ伝ヘラレ度(発信者名なし)」と打電し、海軍側は第十七軍司令部に伝達した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。第八艦隊は一木支隊先遣隊の攻撃が失敗したと記録した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(1)]]pp.56-57(昭和17年8月21日記事)</ref>。第十七軍は一木支隊先遣隊の苦戦を認め、川口支隊を直接ガダルカナル島に突入させることを決定し、また一木先遣隊に対する空中補給を海軍側に以来した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。
この戦いは、これまでの戦闘で無敵であり、敵軍に対し優位にあると信じていた日本兵の心理にも重大な影響を及ぼした。[[8月25日]]の夜までに、一木支隊の生存兵はタイボ岬へ帰還し、ラバウルの第17軍に無線で「一木支隊は飛行場を目前にしてほぼ全滅した」と伝えた。だが陸軍上層部はこの報を信じず、ヘンダーソン飛行場奪還作戦を続行し、部隊を追加投入した<ref>Frank, ''Guadalcanal'', p. 158 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 74.</ref>。次なる日本軍の大規模反撃は、約3週間後の[[ガダルカナル島の戦い#第1次総攻撃|第1次総攻撃]]([[ムカデ高地の戦い]]、[[血染めの丘の戦い]]、[[エドソンの丘の戦い]]とも)であり、日本軍は飛行場奪還を期して、イル川渡河戦を上回る川口支隊約6,500名を投入したのであった。▼
[[8月24日]]、大本営は「一木先遣隊が飛行場を攻撃して相当の被害を受けた」との情報を入手した{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=179|ps=(昭和17年8月24日記事)(中略)「ガダルカナル」の敵兵約二〇〇〇、一木先遣隊、(飛行機)場攻撃中なるが如し、相当被害を受く。(以下略)}}。[[8月25日]]、前記の電報は一木支隊通信係将校の榊原中尉が送信を依頼したものであることが判明した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=537}}。
同24日から25日にかけての[[第二次ソロモン海戦]]で日本軍は敗北し(空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]沈没、水上機母艦[[千歳 (水上機母艦)|千歳]]損傷){{Sfn|ニミッツ|1962|p=121}}、一木支隊後続隊(第二水雷戦隊護衛)も空襲を受けて損害を出し{{#tag:Ref|8月25日の空襲で輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]と駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]沈没、軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]中破。|group="注"}}、ガ島直行をやめて[[ショートランド諸島]]や[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]に向かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=120}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=221|ps=(昭和17年8月25日記事)敵主力南東に退却 敵空母2隻大火災 味方輸送艦隊避退す ガダルカナル上陸また1日遅る 策戦一喜一憂なり}}。
▲
== この戦いを題材とした作品 ==
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== 参考文献 ==
<!-- [[ウィキペディア日本語版]]では、日本語文献を優先する -->
'''日本語文献'''
*{{Cite book|和書
99 ⟶ 129行目:
}}
**表紙 Ref.C08030096200、詳報(1)Ref.C08030096400、詳報(2)Ref.C08030096500、詳報(3)Ref.C08030096600、詳報(4)Ref.C08030096700、詳報(5)Ref.C08030096800、詳報(6)Ref.C08030096900
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030022500|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=S1709八艦隊日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030045700|title=昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=第六戦隊日誌(5)}}
*<!-- オイデ2011 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|year=2011|month=7|origyear=1993|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2143-4|ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}}}}
*<!-- オカムラ1979 -->{{Cite book|和書|author=岡村治信|coauthors=|authorlink=|year=1979|month=12|title=青春の棺 {{small|生と死の航跡}}|chapter=第三章 美しき島々|publisher=光人社|ISBN=|ref={{SfnRef|青春の棺|1979}}}}(岡村は追風庶務主任としてガダルカナル島の戦いに参加)
*<!-- オオウチ2005 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2005|month=4|title=護衛空母入門 {{small|その誕生と運用メカニズム}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2451-3|ref={{SfnRef|護衛空母入門|2005}}}}
*<!-- カワグチ1960 -->{{Cite book|和書|author=[[川口清健]]|year=1960|title=川口支隊の死闘|series=実録太平洋戦争 第2巻|publisher=[[中央公論社]]|isbn=|ref=川口 (1960)}}
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=[[城英一郎]]著|editor=[[野村実]]編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref={{SfnRef|城英一郎日記|1982}}}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=C・W・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|authorlink=|year=1962|month=12|origyear=|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }}
*<!-- ヒラツカ2016 -->{{Cite book|和書|author=平塚柾雄|year=2016|month=8|chapter=第6章 連合軍が布いた残置諜者網/米軍上陸前夜に消えたガ島現地住民|title=太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 {{small|勝敗を決した作戦にスパイあり}}|publisher=株式会社ビジネス社|isbn=978-4-8284-1902-2|ref={{SfnRef|日米諜報戦|2016}}}}
*<!-- ヒラマ2018 -->{{Cite book|和書|author=平間源之助著|editor=平間洋一編|date=2018-12|chapter=|title=軍艦「鳥海」航海記 {{smaller|平間兵曹長の日記 昭和16~17年}}|publisher=以下ロス出版|series=|isbn=978-4-8022-0634-1|ref={{SfnRef|軍艦鳥海航海記|2018}}}}
*<!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ49 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|volume=第49巻|year=1971|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}}}}
'''外国語文献'''
247 ⟶ 282行目:
| isbn = 0-679-64023-1
}} -->
== 関連項目 ==
*[[アイアンボトム・サウンド]]
*[[米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断]]
== 外部リンク ==
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