「菅原道大」の版間の差分

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陸海軍の協力により当時の日本軍としては大戦力が沖縄の飛行場を攻撃することとなったが、なかなか天候に恵まれず、ようやく天候が回復した5月24日18:50、第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が義烈空挺隊を乗せて陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。うち4機が故障により帰投、残る8機が陸海軍機による空襲の対策に追われていた沖縄の[[嘉手納基地|嘉手納飛行場]]と読谷飛行場に突入したが、7機までが激しいアメリカ軍の迎撃で撃墜されて残る1機が読谷飛行場に突入した。敵飛行場への胴体着陸という日本軍の奇策にアメリカ軍は大混乱に陥り、わずか8名の義烈空挺隊員は38機のアメリカ軍航空機を撃破、7万ガロンの航空燃料を焼き払い、20名のアメリカ兵を殺傷して全滅した。この大混乱で読谷飛行場は暫く使用不可となったが、このあと再び天候が崩れて、飛行場が使用不能のときに特攻機をなるべく多く突入させようという日本軍の目論見は実現できなかった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=575}}</ref>。後年、菅原は義号作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も[[徳之島]]の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と義烈空挺隊の戦果を活かせなかったことを悔やんでいる<ref>大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』講談社、2009年、p.201</ref>。
 
こののち、第6航空軍は連合艦隊司令長官が菅原よりは後任の[[小沢治三郎]]中将に代わったタイミングで連合艦隊の指揮下を脱した。海軍が沖縄決戦か[[本土決戦]]かの意見が統一できずに、引き続き沖縄に特攻機や[[芙蓉部隊]]などの通常攻撃機を送り続け、防空体制の整った米軍に対して戦略的には大して意味のない損失を増やしていたのに対して<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2003}}</ref><ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=332}}</ref>、菅原は第6航空軍がすでに沖縄への航空作戦に予定以上の航空兵力を投入しており、これ以上沖縄に航空兵力を投入しても、兵力を無駄に消耗するのみと現実的な判断をして、6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事とした。<ref>[[#陸軍|『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』]]、563頁。</ref>菅原の命令で、陸軍機は喜屋武沖縄南部日本軍陣地上空に毎日のように単機ないし数機飛来し、対戦車爆雷の資材や15サンチ榴弾の砲弾などの資材を投下して微々たる量とはいえ地上軍に物資を送り続け、かすかな希望を断続的に地上軍将兵に与えていた<ref>[[#八原|八原(2015年)]]413頁</ref>。
 
=== 終戦 ===
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* 長男 菅原道紀(陸軍士官学校55期卒業、[[陸軍大尉]])
* 次男 深堀道義([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]75期卒業、軍事史研究者、童謡作曲家)
* 三男 菅原道煕(陸軍士官学校61期入学も終戦により士官学校が廃止、農学博士、会社社長、コロンビア大学教授、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長)
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book|和書|author=[[高木俊朗]]|title=知覧|publisher=[[朝日新聞社]]|year=1965|asin= B000JACPKY}}
** {{Cite book|和書|author=[[高木俊朗]]|title=特攻基地知覧|series=[[角川文庫]]|publisher=[[角川書店]]|year=1979|isbn=4-04-134501-4}}(1965年版の再版・修正版)
* {{Cite book |和書 |author=[[大島隆之]] |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }}
*{{Cite book|和書|author=境克彦|year=2017|title=特攻セズー美濃部正の生涯 |publisher=方丈社 |isbn=978-4908925160|ref={{SfnRef|境克彦|2017}} }}
== 関連項目 ==
* [[振武寮]]