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| 画像= Emperor Godaigo.jpg
| 画像幅= 250px
| 説明= [[文観]]開眼『後醍醐天皇像([[清浄光寺]]蔵、[[重要文化財]]
| 在位= [[1318年]][[3月29日]] - [[1339年]][[9月18日]]
| 和暦在位期間 = [[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]] - [[延元]]4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]
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| 注釈=
}}
'''後醍醐天皇'''(ごだいごてんのう、[[1288年]][[11月26日]]〈[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]〉 - [[1339年]][[9月19日]]〈[[延元]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]〉)は、[[日本]]の第96代[[天皇]]および[[南朝 (日本)|南朝]]初代天皇(在位:[[1318年]][[3月29日]]〈[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]〉 - [[1339年]][[9月18日]]〈延元4年/暦応2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]〉{{efn|ただし、本文で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の[[廃位]]と[[譲位]]を経ている。}})。[[諱]]は'''尊治'''(たかはる)。
[[ファイル:Gekko Emperor Godaigo.jpg|thumb|250px|後醍醐天皇図]]
 
[[大覚寺統]]の天皇。[[元弘の乱]]で[[鎌倉幕府]]を倒して[[建武の新政|建武新政]]を実施したものの、間もなく[[足利尊氏]]との戦い[[建武の乱]]に敗れたため、[[大和国|大和]][[吉野]]へ入り、[[南朝 (日本)|南朝]]政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の[[室町幕府]]が擁立した[[北朝 (日本)|北朝]]との間で、[[南北朝の内乱]]を開始した。
'''後醍醐天皇'''(ごだいごてんのう、[[1288年]][[11月26日]]〈[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]〉 - [[1339年]][[9月19日]]〈[[延元]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]〉)は、[[日本]]の第96代[[天皇]]および[[南朝 (日本)|南朝]]初代天皇(在位:[[1318年]][[3月29日]]〈[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]〉 - [[1339年]][[9月18日]]〈延元4年/暦応2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]〉)。[[諱]]は'''尊治'''(たかはる)。
 
主著に『[[建武年中行事]]』がある。
ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の[[廃位]]と[[譲位]]を経ている。[[鎌倉幕府]]を倒して[[建武の新政|建武新政]]を実施したものの、間もなく[[足利尊氏]]の離反に遭ったために[[大和国|大和]][[吉野]]へ入り、[[南朝 (日本)|南朝]]政権(吉野朝廷)を樹立した。
 
== 生涯 ==
=== 即位前 ===
[[大覚寺統]]・[[後宇多天皇]]の第二皇子。生母は、[[内大臣]][[花山院師継]]の養女・[[五辻忠子|藤原忠子]](談天門院、実父は[[参議]][[五辻忠継]])。[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]([[1288年]][[11月26日]])に誕生し、[[正安]]4年([[1302年]])6月16日に[[親王宣下]]。[[嘉元]]元年([[1303年]])12月20日に三品に叙品。嘉元2年([[1304年]])3月7日に[[大宰帥]]となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、[[徳治]]2年([[1307年]])5月15日には、中務卿を兼任している。
 
=== 即位 ===
[[ファイル:Gekko Emperor Godaigo.jpg|thumb|250px|『後醍醐天皇図』]]
[[徳治]]3年([[1308年]])に[[持明院統]]の[[花園天皇]]の即位に伴って[[皇太子]]に立てられ、[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1318年]][[3月29日]])花園天皇の[[譲位]]を受けて31歳で[[践祚]]、[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[4月30日]])に[[即位]]。30代での即位は[[1068年]]の[[後三条天皇]]の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が[[院政]]を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄[[後二条天皇]]の遺児である皇太子[[邦良親王]]が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している[[鎌倉幕府]]への反感につながってゆく。[[元亨]]元年([[1321年]])、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の[[親政]]が開始される。前年に邦良親王に男子([[康仁親王]])が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の[[治天の君]]となったことは大きな謎とされる。
 
=== 倒幕計画 ===
[[ファイル:Emperor Godaigo02.jpg|thumb|300px|『[[太平記絵巻]]』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)<br>[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]蔵]]
{{seealso|正中の変}}
[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]])、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、[[六波羅探題]]が天皇側近[[日野資朝]]らを処分する[[正中の変]]が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、[[醍醐寺]]の[[文観]]や[[法勝寺]]の[[円観]]などの僧を近習に近づけ、[[元徳]]2年(1329年)には[[中宮]]の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、[[興福寺]]や[[延暦寺]]など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である[[西園寺家]]所生の[[親王]]は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える[[貴族]]たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。[[元弘]]元年([[1331年]])、再度の倒幕計画が側近[[吉田定房]]の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、[[三種の神器]]を持って挙兵した。はじめ[[比叡山]]に拠ろうとして失敗し、[[笠置山 (京都府)|笠置山]](現[[京都府]][[相楽郡]][[笠置町]]内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを[[元弘の乱]](元弘の変)と呼ぶ。
[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]])、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、[[六波羅探題]]が天皇側近[[日野資朝]]らを処分する[[正中の変]]が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、[[醍醐寺]]の[[文観]]や[[法勝寺]]の[[円観]]などの僧を近習に近づけ、[[元徳]]2年(1329年)には[[中宮]]の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、[[興福寺]]や[[延暦寺]]など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である[[西園寺家]]所生の[[親王]]は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える[[貴族]]たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。
 
=== 元弘の乱 ===
{{main|元弘の乱}}
[[元弘]]元年([[1331年]])、再度の倒幕計画が側近[[吉田定房]]の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、[[三種の神器]]を持って挙兵した。はじめ[[比叡山]]に拠ろうとして失敗し、[[笠置山 (京都府)|笠置山]](現[[京都府]][[相楽郡]][[笠置町]]内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを[[元弘の乱]](元弘の変)と呼ぶ。
 
=== 流罪、そして復帰 ===
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王([[光厳天皇]])を即位させた。捕虜となった後醍醐は、[[承久の乱]]の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / [[正慶]]元年([[1332年]])[[隠岐島]]に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]や[[河内国|河内]]の[[楠木正成]]、[[播磨国|播磨]]の[[赤松則村]](円心)ら反幕勢力([[悪党]])が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年([[1333年]])、[[名和長年]]ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、[[伯耆国|伯耆]][[船上山]](現[[鳥取県]][[東伯郡]][[琴浦町]]内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された[[足利尊氏|足利高氏]](尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した[[新田義貞]]は鎌倉を陥落させて[[北条氏]]を滅亡させる。
 
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[[ファイル:Emperor Go-Daigo.jpg|thumb|240px|後醍醐天皇像<br>([[三の丸尚蔵館]]蔵『[[天子摂関御影]]』より)]]
{{main|建武の新政}}
[[元弘]]3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1333年]][[7月17日]])に帰京<ref name="dainihon-shiryo-6-1-80">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0080 『大日本史料』6編1冊80–86頁].</ref>した後醍醐天皇は、''「今の例は昔の新義<!--原文ママ-->なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」''(『梅松論』上{{sfn|梅松論上|1928|p=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/84 113]}})と宣言し、'''[[建武の新政]]'''を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「[[#評価]]」の節に譲る。
 
帰京した後醍醐天皇はまず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始するまた、持明院[[両のみならず迭立]]を廃止して皇統を[[大覚寺統の[[嫡流]]に一統した。実子ある邦良親王[[元弘遺児たちをも皇位継承乱]]に最初期から参戦、本来傍流であっはずの自分の皇子[[良親王]]を皇太子[[征夷大将軍]]とし(数ヶ月後立て解任)[[足利高氏]]を戦功第一とし自身の[[諱]](本名)「尊治」からの[[偏諱]]「尊氏」遺言反故与えて[[鎮守府将軍]]や[[参議]]など任じた。同年中に[[記録所]]・[[恩賞方]]・[[雑訴決断所]]・[[武者所]](頭人(長官)は[[新田義貞]])・[[窪所]]などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権として自らは、親房の子[[北畠顕家]]を東北・北関東より皇統([[陸奥将軍府]])、尊氏の弟[[足利直義]]独占する意思を明確[[鎌倉]]配置した([[鎌倉将軍府]])
 
翌年([[1334年]])に入るとまず[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]、父の[[後宇多天皇]]が大覚寺統嫡流に指定した甥の[[邦良親王]]の血統ではなく、実子の[[恒良親王]]を皇太子に立てた<ref name="dainihon-shiryo-6-1-392">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0392 『大日本史料』6編1冊392–393頁].</ref>。
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、[[朝令暮改]]を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする[[大内裏]]建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、[[公家]]たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な[[二条河原の落書]]にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。また、倒幕に功績のあった[[護良親王]]が[[征夷大将軍]]の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の進言を受けて親王を鎌倉に配流している。
 
同年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1334年]][[3月5日]])、簒奪者[[王莽]]を倒し[[後漢]]を開いた[[光武帝]]の元号の[[建武 (漢)|建武]](けんぶ)の故事により、元号を'''[[建武 (日本)|建武]]'''(けんむ)に改元した<ref name="dainihon-shiryo-6-1-401">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0401 『大日本史料』6編1冊401–404頁].</ref>。
=== 足利尊氏の離反 ===
 
{{main|延元の乱}}
同年中に、[[検非違使庁]]による[[徳政令]]発布([[5月3日 (旧暦)|5月3日]])<ref name="dainihon-shiryo-6-1-553">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0553 『大日本史料』6編1冊553–556頁].</ref>、恩賞方の再編([[5月18日 (旧暦)|5月18日]])<ref name="dainihon-shiryo-6-1-574">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0574 『大日本史料』6編1冊574–581頁].</ref>、雑訴決断所の拡充(8月)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-752">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0752 『大日本史料』6編1冊752–759頁].</ref>などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣([[紙幣]])併用とする官銭[[乾坤通宝]]を計画し<ref name="dainihon-shiryo-6-1-505">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0505 『大日本史料』6編1冊505–506頁].</ref>、[[中御門宣明]]を鋳銭長官・[[五条頼元]]を鋳銭次官に任じた<ref name="dainihon-shiryo-6-1-713">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0713 『大日本史料』6編1冊713–714頁].</ref>。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に[[蟄居]]となった(『梅松論』『[[保暦間記]]』『[[大乗院日記目録]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-2–52">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0052 『大日本史料』6編2冊52–57頁].</ref>。
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、[[中先代の乱]]の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に[[鎌倉]]で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は[[箱根・竹ノ下の戦い]]では敗れるものの、[[京都]]で楠木正成や[[北畠顕家]]らと連絡して足利軍を破る。尊氏は[[九州]]へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の[[院宣]]を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は[[湊川の戦い]]で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。
 
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]には造[[大内裏]]行事所始が行われた<ref name="dainihon-shiryo-6-2-430">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0430 『大日本史料』6編2冊430–432頁].</ref>。[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]、[[大納言]][[西園寺公宗]]の謀反が発覚し、武者所職員の[[楠木正成]]・[[高師直]]らに捕縛された<ref name="dainihon-shiryo-6-2-439">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0439 『大日本史料』6編2冊439–445頁].</ref>。
 
=== 足利尊氏との対立 ===
{{main|建武の乱}}
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、北条氏残党の[[北条時行]]が起こした[[中先代の乱]]の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に[[鎌倉]]で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は[[箱根・竹ノ下の戦い]]では敗れるものの、[[京都]]で楠木正成や[[北畠顕家]]らと連絡して足利軍を破った。尊氏は[[九州]]へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の[[院宣]]を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じた。しかし、新田・楠木軍は[[湊川の戦い]]で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
 
=== 南北朝時代 ===
{{main|南北朝の内乱}}
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて[[三種の神器]]を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から[[光明天皇]]を新天皇に擁立し、[[建武式目]]を制定して幕府を開設する(なお、[[太平記]]の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って[[恒良親王]]に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた[[花山院]]を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、[[吉野]](現[[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]])に自ら主宰する[[朝廷]]を開き、京都朝廷([[北朝 (日本)|北朝]])と吉野朝廷([[南朝 (日本)|南朝]])が並立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]が始まる。後醍醐天皇は、[[尊良親王]]や[[恒良親王]]らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、[[懐良親王]]を[[征西将軍]]に任じて[[九州]]へ、[[宗良親王]]を東国へ、[[後村上天皇|義良親王]]を[[陸奥国|奥州]]へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、[[延元]]4年 / [[暦応]]2年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して[[崩御]]した。享年52(満50歳没)。
 
[[摂津国]]の[[住吉行宮]]にあった後村上天皇は、南朝方の[[住吉大社]]の宮司である[[津守氏]]の[[荘厳浄土寺]]において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に[[天竜寺]]を造営している。
 
== 論評人物 ==
=== 公務時間と訴訟制度への関心 ===
同時代では、早くも天皇側近の[[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。
『[[太平記]]』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・[[元弘の乱]]前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、[[記録所]](即位直後当時は紛争処理機関{{efn|後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。}})に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている<ref name="taiheiki-1-sekisho-choji-no-koto">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/11 3–4]}}.</ref>。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。
 
その後、2007年に[[久野修義]]によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に[[綸旨]](天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の[[後宇多天皇|後宇多院]]ら[[大覚寺統]]が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され{{sfn|中井|2016|pp=37–39}}、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}{{sfn|中井|2016|pp=37–39}}。
 
=== 武士への厚遇 ===
{{seealso|建武の新政#御家人制の撤廃|建武の新政#足利兄弟の重用}}
側近である[[北畠親房]]の証言(『[[神皇正統記]]』)によれば、後醍醐天皇は当時の公家社会の一員としては異様なまでに武士を好いており、次々と武士を優遇する政策を打ち出したため、公家たちから批判されることもあるほどだった{{sfn|亀田|2016|p=48}}{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。
 
まず、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]身分([[御恩と奉公]]によって[[征夷大将軍]]に直属する武士の特権階級)を撤廃した{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられるが{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}、もう一つの理由として、御家人は天皇からすれば[[陪臣]](家臣の家臣)に当たるので、それを廃止して全ての武士を天皇の直臣に「昇格」させることで、武士全体の地位向上を図る狙いがあった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」){{efn|name="yoshida-2008"|[[吉田賢司]]の指摘{{sfn|吉田|2008}}による{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。}}{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。
 
また、恩賞として[[官位]]を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。[[公卿]]の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(''→[[#北畠親房からの評価|北畠親房からの評価]]'')。
 
後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、[[記録所]]・[[恩賞方]]・[[雑訴決断所]]といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された{{sfn|森|2016}}。鎌倉幕府の本拠地[[鎌倉]]からよりも[[六波羅探題]]からの登用の方が多く、これは、鎌倉では[[北条氏]]と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という{{sfn|森|2016}}。また、[[森幸夫]]によれば、一般的には武将としての印象が強い[[楠木正成]]と[[名和長年]]だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である[[記録所]]寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という{{sfn|森|2016|pp=65–68}}。
 
後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった{{sfn|森|2016|pp=82–83}}。例えば、[[諏訪円忠]]は、鎌倉幕府では一[[奉行人]]に過ぎなかったが、建武政権で[[雑訴決断所]]職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である[[評定衆]]の一人となっている{{sfn|森|2016|pp=82–83}}。中でも著名なのが、後に室町幕府初代[[執事 (室町幕府)|執事]]となる[[足利氏]]執事[[高師直]]で、[[亀田俊和]]によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という{{sfn|亀田|2015|loc=室町幕府発足以前の高師直>鎌倉幕府〜建武政権下の師直>武者所の師直}}。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている{{sfn|亀田|2014|pp=64–70}}。
 
また、([[建武の乱]]が発生するまでは)[[足利尊氏]]をことのほか寵愛した{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}{{efn|一方、[[細川重男]]は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている{{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。}}。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが([[北条高時]]からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった<ref name="dainihon-shiryo-6-1-170">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0170 『大日本史料』6編1冊170–181頁].</ref>。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と[[護良親王]](後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った{{sfn|吉原|2002|pp=41–44}}。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}、[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]など重要官職を惜しみなく与え{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。弟の直義もまた、15ヶ所の土地{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}と[[鎌倉将軍府]]執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『[[梅松論]]』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、[[吉原弘道]]は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している{{sfn|吉原|2002|p=52}}。
 
とはいえ、後醍醐天皇の好意は、自分に反抗しなかった武士に限られていた{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。後醍醐天皇は、自らの最大の敵である鎌倉幕府を「[[四夷|戎夷]]」(じゅうい、獣のような野蛮人)と蔑み、奴らが天下を治めるなどとんでもない、と言ってのけた(『[[花園天皇日記]]』正中元年([[1324年]])11月14日条){{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。また、[[摂津氏]]・[[松田氏]]・[[斎藤氏]]らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。
 
=== 書家 ===
書家としては、和風の様式に、中国の宋風から派生した禅宗様を加え、「宸翰様」(しんかんよう)と呼ばれる書風を確立し([[宸翰]](しんかん)とは天皇の直筆文のこと)、新風を書道界にもたらした<ref name="kakui-2007"> {{Citation | 和書 | last = 角井 | first = 博 | author-link = 角井博 | contribution = 宸翰様 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007}} </ref><ref name="zaitsu-2007"> {{Citation | 和書 | last = 財津 | first = 永次 | author-link = 財津永次 | contribution = 書:日本 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007}} </ref>。[[財津永次]]によれば、後醍醐天皇は、[[北宋]]の文人で「宋の四大家」の一人である[[黄庭堅]]の書風を、[[臨済宗|臨済禅]]の高僧[[宗峰妙超]](大燈国師)を介して習得したと思われるという<ref name="zaitsu-2007"/>。財津は後醍醐天皇の作を「覇気横溢した書として名高い」と評している<ref name="zaitsu-2007"/>。また、[[小松茂美]]は、後醍醐天皇を日本史上最も名高い能書帝としては[[伏見天皇]]に次いで取り上げ、「力に満ちた覇気あふれる書」を残したと評価している<ref>{{Citation | 和書 | last = 小松 | first = 茂美 | author-link = 小松茂美 | contribution = 書:書道流派の発生 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。
 
その作品は、1951年から1952年にかけて、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋)』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|813|後醍醐天皇宸翰天長印信(〓牋)}}</ref><ref>{{Cite web | url=https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NA002/NA002.html | title=醍醐寺文化財データベース:後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋) | publisher=[[醍醐寺]] | year=2013 | accessdate=2019-11-27 }}</ref>・『後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|801|後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉}}</ref>・『四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|639|四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉}}</ref>の3点が[[国宝]]に指定されている。
 
当時は後醍醐天皇に限らず南北両朝の天皇が競って書を研鑽したため、この時期の諸帝の宸翰は史料としてだけではなく、書道の芸術作品としても重要である<ref name="zaitsu-2007"/><ref name="kakui-2007"/>。その一方、[[角井博]]によれば、宸翰様は書風そのものの芸術的価値という点では評価が高いものの、和様書道の一部と見なされ、後世の書道への影響という点では特筆することがないという<ref name="kakui-2007"/>。
 
=== 歌人 ===
後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった{{sfn|永原|1994}}{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。『[[新後撰和歌集]]』から『[[新後拾遺和歌集]]』までの7つの[[勅撰和歌集]]に、多数の歌が入撰している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。これらの勅撰集の中でも、第16となる『[[続後拾遺和歌集]]』([[嘉暦]]元年([[1326年]])[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]返納)は、後醍醐天皇が[[二条為定]]を撰者として勅撰したものである<ref name="higuchi-1997">{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 続後拾遺和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。実子で南朝[[征夷大将軍]]の[[宗良親王]]が撰者であった南朝の准勅撰集『[[新葉和歌集]]』にも当然ながら入撰しており{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}{{sfn|佐藤|1997}}、また宗良親王の[[家集]]『[[李花集]]』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている{{sfn|佐藤|1997}}。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍[[足利尊氏]]の執奏による北朝の勅撰集『[[新千載和歌集]]』でも24首が入撰しており、これは[[二条為世]]・[[二条為定]]・[[伏見院]]・[[後宇多院]]・[[二条為氏]]らに次いで6番目に多い<ref>{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 新千載和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である[[素盞嗚尊]](すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0816 『大日本史料』6編5冊816–819頁].</ref>。
 
後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『[[増鏡]]』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。鎌倉時代中期の[[阿仏尼]]『[[十六夜日記]]』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられており、後醍醐天皇は和歌の力をも利用することで倒幕を成し遂げたのである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
 
歌学上の業績としては、当時[[持明院統]]派閥の[[京極派]]に押されつつあった[[二条派]]を、[[大覚寺統]]の天皇として復興した{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。[[藤原北家]][[御子左流]]は「歌聖」[[藤原定家]]などを排出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに[[鎌倉幕府]]と親しかった[[冷泉派]]を加えることもある)<ref name="inoue-1997">{{Citation | 和書 | last = 井上 | first = 宗雄 | author-link = 井上宗雄 | contribution = 二条派 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある<ref name="inoue-1997"/>。国文学研究者の[[井上宗雄]]および日本史研究者の[[森茂暁]]によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い[[二条為世]]よりも、その次男で儒学的色彩の濃い[[二条為藤]]の歌を好んだという{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。その論拠として、『[[花園天皇宸記]]』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
 
また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる[[二条為子]]を側室として迎えた{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。為子との間に、[[尊良親王]]および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人を儲けている{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
 
なお、後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。尊氏は前回の『[[続千載和歌集]]』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}(歌の大意:どうせ私の和歌など、[[紀伊国]][[和歌の浦]]で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。森は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは[[正中の変]]で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。
 
もっとも、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。[[南北朝の内乱]]が発生し、足利氏内部の実権が弟の[[足利直義]]に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された[[光厳天皇]]の『[[風雅和歌集]]』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた{{sfn|田中|2010|p=3}}。しかし、[[観応の擾乱]]で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一貫として、北朝の[[後光厳天皇]]に『新千載和歌集』を執奏した{{sfn|田中|2010|p=3}}。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した<ref name="inoue-1997-tamesada">{{Citation | 和書 | last = 井上 | first = 宗雄 | author-link = 井上宗雄 | contribution = 二条為定 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。さらに、[[五摂家]]の一つ[[九条流]][[二条家]]の当主で[[連歌]]の大成者でもある[[二条良基]](これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、[[有職故実]]研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており{{sfn|甲斐|2007|p=30}}、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた{{sfn|田中|2010|p=16}}。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した<ref name="inoue-1997-tamesada"/>。
 
後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った<ref name="inoue-1997"/>。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の[[頓阿]]・[[兼好法師]]、室町後期の[[宗祇]]・[[三条西実隆]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[三条西公条]]・[[三条西実枝]]・[[細川幽斎]]などがいる<ref name="inoue-1997"/>。幽斎の門下からは[[智仁親王]]・[[中院通勝]]らの堂上派と[[松永貞徳]]らの地下派に分かれて江戸時代に続き<ref name="inoue-1997"/>、江戸中後期には地下派の[[香川景柄]](1745–1821年)の養子となった[[香川景樹]](1768–1843年)が[[古今伝授]]の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる[[桂園派]]を新たに創始した<ref>{{Citation | 和書 | last = 兼清 | first = 正徳 | author-link = 兼清正徳 | contribution = 香川景樹 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。さらに[[明治時代]]には明治21年(1888年)に[[宮内省]]の部局[[御歌所]]の初代所長となった桂園派の[[高崎正風]]らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した<ref>{{Citation | 和書 | last = 橋本 | first = 不美男 | author-link = 橋本不美男 | contribution = 御歌所 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。
 
=== 文人 ===
文人としての後醍醐天皇の業績には、[[紫式部]]の小説『[[源氏物語]]』(11世紀初頭)の研究がある{{sfn|加藤|1990}}{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や[[河内方]]の註釈書『[[水原抄]]』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた{{sfn|加藤|1990|p=104}}。また、[[四辻善成]]の『[[河海抄]]』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の[[丹波忠守]](善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという{{sfn|加藤|1990|p=104}}。さらに、『[[原中最秘抄]]』(1364年)によれば、[[建武の新政]]の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である[[行阿]]に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという{{sfn|加藤|1990|p=104}}。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の[[長慶天皇]]に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『[[仙源抄]]』を著作している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。
 
なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる{{sfn|加藤|1990|p=104}}。つまり、登場人物の[[桐壺帝]]・[[朱雀帝]]・[[冷泉帝]]を、それぞれの実在の[[醍醐天皇]]・[[朱雀天皇]]・[[村上天皇]]に結びつけ、『源氏物語』は「[[延喜・天暦の治]]」{{efn|[[延喜・天暦の治]]:[[醍醐天皇]]から[[村上天皇]]の治世である897–967年のこと。14世紀の人間はこの頃を日本の最盛期と考えていた。}}を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである{{sfn|加藤|1990|p=104}}。
 
そして、国文学研究者の[[加藤洋介]]の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。その論拠としては、以下のことが挙げられる。
 
* 後醍醐天皇は延喜・天暦の治を理想として掲げていた{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 「延喜天暦準拠説」は『[[紫明抄]]』から発展して成立したと思われるが、後醍醐天皇の師の丹波忠守は後醍醐に会う以前から既に『紫明抄』を手に入れていた史証があり、したがって後醍醐が忠守から『紫明抄』を学んだ可能性は高い{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 長慶天皇の『仙源抄』には後醍醐天皇の研究成果も記されているが、善成の『[[珊瑚秘抄]]』の解釈と一致しており、偶然とは考えにくい{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 善成は、後醍醐天皇の『源氏物語』講釈を、村上天皇が「[[梨壺の五人]]」(『[[万葉集]]』の解読と『[[後撰和歌集]]』の編纂を行った五人の研究者)を編成した事業に喩えており、後醍醐と延喜・天暦の治を結び付けようとする意志が善成にも感じられる{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
 
そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
 
以上の加藤の論説は、日本史研究者の[[森茂暁]]も「首肯される意見である」と賛同している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。
 
=== 楽人 ===
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を[[粟田口嗣房]]、没後はその従兄弟の[[藤井嗣実]]から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の[[大神景光]]から習得していたとみられている{{sfn|豊永|2006|pp=97–101}}。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある{{sfn|豊永|2006|pp=102–105}}。
 
更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、[[西園寺実兼]]に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に[[今出川兼季]]から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「[[玄上]]」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。[[後伏見上皇]]は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている{{sfn|豊永|2006|pp=105–109}}。
 
更に[[綾小路有頼]]から[[催馬楽]]の秘曲を、[[二条資親]]からは[[神楽]]の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や[[平等院]]、[[東大寺]][[正倉院]]から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた{{sfn|豊永|2006|pp=110–121}}。
 
=== 茶人 ===
中世には[[闘茶]]([[茶道]]の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、後醍醐天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる<ref name="tocha">{{Citation | 和書 | last = 熊倉 | first = 功夫 | author-link = 熊倉功夫 | contribution = 闘茶 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。闘茶会であると明言されたものの史料上の初見は、後醍醐天皇の政敵である[[光厳天皇]]が[[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1332年]][[6月28日]])に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)であるが、実際はそれに先立つ8年ごろ前に、後醍醐天皇の[[無礼講]]で開催された飲茶会(『[[花園院宸記]]』[[元亨]]四年[[11月1日 (旧暦)|十一月朔日]]条([[1324年]][[11月18日]]条))も闘茶であったろうと推測されている<ref name="tocha" />。
 
後醍醐天皇が開始した[[建武政権]](1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『[[二条河原の落書]]』に「茶香十炷」として記されている<ref name="tocha" />。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『[[建武式目]]』([[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1336年]][[12月10日]]))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『[[太平記]]』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な[[室礼]]で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる<ref name="tocha" />。
 
また、[[茶器]]の一種で、[[金輪寺 (茶器)|金輪寺]](きんりんじ/こんりんじ)茶入という[[薄茶器]]([[薄茶]]を入れる容器)を代表する形式を考案した<ref name="kinrinji">{{Citation | 和書 | last = 満岡 | first = 忠成 | author-link = 満岡忠成 | contribution = 金輪寺茶入 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺([[修験道]]の総本山[[金峯山寺]])で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという<ref name="kinrinji" />。また、『[[信長公記]]』『[[太閤記]]』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[織田信長]]は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、[[天正]]7年([[1579年]])5月27日に、[[安土宗論]]で勝利した[[浄土宗]]高僧の[[貞安]]に下賜した<ref>{{ Citation | 和書 | last=松浦 | first=静山 | author-link=松浦静山 | editor-last=中村 | editor-first=幸彦 | editor-link=中村幸彦 | editor2-last=中野 | editor2-first=三敏 | editor2=中野三敏 | title=甲子夜話三篇 2 | publisher=[[平凡社]] | series=[[東洋文庫]] 415 | year=1982 | isbn= 978-4582804157 | page=234 }}</ref>{{信頼性要検証|date=2019-11}}。
 
=== 愛石家 ===
中国では、[[北宋]](960–1127年)の頃から、[[盆石]](現代日本語の[[水石]])といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、[[臨済宗]]の[[虎関師錬]]を代表とする禅僧によってもたらされた<ref name="murata-1994">{{Citation | 和書 | last = 村田 | first = 圭司 | author-link = 村田圭司 | contribution = 水石 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、[[徳川家康]]の手を経て、2019年現在は[[徳川美術館]]が所蔵している<ref name="tam-yume">{{Cite web | url=https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/collection/room3/post-3/ | title=盆石 銘 夢の浮橋名物 | 第3展示室室礼 | 名品コレクション展示室 | 展示 | 名古屋・徳川美術館 | publisher=[[徳川美術館]] | accessdate=2019-11-27 }}</ref><ref name="murata-1994"/>。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある<ref name="tam-yume"/>。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している<ref name="tam-yume"/>。その銘は『[[源氏物語]]』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている<ref name="tam-yume"/>。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している<ref name="tam-yume"/>。
 
伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国[[江蘇省]][[江寧山]]からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は[[元弘の乱]]で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる<ref name="tam-yume"/>。
 
後醍醐天皇が才覚を見出した[[石立僧]](いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、[[臨済宗]]の[[夢窓疎石]]がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を[[京都]][[南禅寺]]に招こうとし、一度は断られたものの、再び[[執権]][[北条高時]]を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った<ref name="musou-soseki">{{Citation | 和書 | last = 葉貫 | first = 磨哉 | author-link = 葉貫磨哉 | contribution = 夢窓疎石 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった<ref name="musou-soseki"/>。 [[元弘の乱]]後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の[[国師号]]を授けた<ref name="musou-soseki"/>。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として[[天龍寺]]を創建した<ref name="tenryuji">{{Citation | 和書 | last = 平井 | first = 俊榮 | author-link = 平井俊榮 | contribution = 天竜寺 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。夢窓は直義と協議して、[[天龍寺船]]を[[元 (王朝)|元]]に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で[[禅庭]]を設計した<ref name="tenryuji"/>。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「[[古都京都の文化財|古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)]]」の一部として、[[ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録された<ref name="tenryuji"/>。
 
=== 逸話 ===
;唐物趣味
:[[元亨]]4年([[1324年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]、後醍醐天皇は[[二条道平]]・[[北畠親房]]・[[洞院公敏]]・[[中院光忠]]・[[洞院公泰]]ら6人の[[公卿]]・[[殿上人]]を集めると、[[唐物]](大陸から輸入した貴重品)を自慢気に見せびらかし、1人5点までを上限として、それぞれに好きなものを取らせた(『後光明照院関白記』(『[[道平公記]]』)同日条){{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。一見、微笑ましい逸話だが、実は奇妙な点ばかりである。まず、後醍醐天皇が自慢の唐物を見せびらかし、気前よく配った理由が不明である{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。集まった面々が腹心であり、この翌月には後醍醐天皇の倒幕計画が鎌倉幕府に発覚して騒動となる([[正中の変]])という時期を考えれば、正中の変との関係を疑いたくなるが、これら6人は正中の変では幕府から特に問題視されていない{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。しかも、これだけ大量の唐物をどこから手に入れてきたのか、なぜこの時点で鎌倉幕府を差し置いてそれだけの力を持っていたのかも不明である{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。確実に言えるのは、当時、後醍醐天皇とその一派は唐物趣味に熱狂しており、後醍醐天皇は困難を排してそれらを大量に獲得するだけの熱意と力を持っていたということである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。
;大脱走と山盛りのイカ
:[[元弘の乱]]で[[隠岐国]]に幽閉された後醍醐天皇は、[[富士名雅清]]の手引で船を盗み出し、腹心[[千種忠顕]]と共に隠岐を脱出した<ref name="ika">{{Harvnb|梅松論上|1928|p=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/82 108]}}</ref>。脱走に気付いた隠岐国守護[[佐々木清高]]は千艘の大船団を率い、後醍醐天皇を追跡。船頭がこれに恐怖して逃げようとすると、後醍醐天皇は「汝恐るる事なかれ。急漕向て釣をたるべし(急いで清高の船に向かって漕ぎ、その側で釣り糸を垂れよ)」と、逆にあえて追手に接近せよという詔勅を船頭に発した<ref name="ika" />。さらに、自らを古代中国の聖君[[周]][[文王 (周)|文王]]に、船頭を釣り人から軍師に抜擢された文王の賢臣[[太公望]]になぞらえて、船頭を元気付けた<ref name="ika" />。近づいてきた船頭に対し、清高が「怪しい船が通りかからなかったか」と聞くと、船頭は「今朝方、出雲に向かった船を見ました。順風なので、もう渡海したころでしょう」と嘘をついた<ref name="ika" />。清高軍は船頭を疑って船を点検したが、後醍醐天皇の姿が全く見えないので、納得してそのまま出雲に向かった<ref name="ika" />。なんと、後醍醐天皇は山盛りの[[イカ]]で自分の身を覆い、隠れていたのである<ref name="ika" />。天皇であることを誇りにするプライドの高い後醍醐天皇が、自身の「玉体」(天子の肉体を聖化して言う言葉)をイカに隠すような真似をする訳がない、という固定観念を逆手にとって、絶海の孤島からの脱出劇を成功させたのだった(以上、『[[梅松論]]』上)<ref name="ika" />。
;腹心の千種忠顕になりきる
:隠岐国を脱出し、[[船上山]]に籠城した後醍醐天皇は、籠城に功績のあった在地の武士[[巨勢宗国]]に対し、側近の[[千種忠顕]]を「[[綸旨]](命令文)の奉者」(天皇の意を受けて文書を発給する係)として、感状を与えた<ref name="rinji-genko-3-3-4">{{cite web|url=http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/godaigo.htm|last=本郷|first=和人|author-link=本郷和人|title=後醍醐天皇「自筆」綸旨について|access-date=2019-11-03}}</ref>。ところが、このとき忠顕は軍事行動に就いており、船上山にはいないので、彼に綸旨を書いて貰うのは物理的に不可能である<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。実は、この綸旨を書いたのは後醍醐天皇自身で、奉者となる資格を持つ臣下が側にいなかったため、部下の忠顕になりきり、忠顕の[[花押]](サイン)を真似してまで、天皇が自分で自分の綸旨の奉者を装った、という前例の無い事件である{{efn|昭和初期、[[平泉澄]]によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、[[第二次世界大戦]]後、[[皇国史観]]への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。}}<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。さて、世間によくある、「破天荒な後醍醐天皇」と言う通俗的な人物像からは、これもその破天荒さの一貫と考えがちである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。しかし、[[本郷和人]]によれば、この文書はむしろ後醍醐天皇の保守的・形式主義的な一面を表しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。もし後醍醐天皇が過激な改革者であったとすれば、[[蔵人]](秘書官)・[[弁官]](庶務官)ではない臣下を奉者とするか、あるいは綸旨に代わる新しい文書形式を作っても良かったはずである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。そうしなかったのは、創作上ではない歴史的人物としての後醍醐天皇は、従来の手続きを忠実に踏襲する人間であることを示しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。
 
== 評価 ==
=== 同時代人からの評価 ===
==== 北畠親房からの評価 ====
[[ファイル:Kitabatake Chikafusa.svg|thumb|『北畠親房』([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』所収)]]
{{seealso|神皇正統記}}
[[北畠親房]]は、[[慈円]]と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「[[後の三房]]」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には[[南朝 (日本)|南朝]]を主導し、南朝[[准三宮]]として[[皇后]]らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『[[神皇正統記]]』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の[[北畠顕家]]が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。
 
とはいえ、親房は、政治思想上は、必ずしも後醍醐天皇の政策を支持してはいなかった。特に、『神皇正統記』では、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている{{sfn|亀田|2016|p=48}}。また、[[上横手雅敬]]が指摘するように、[[奥州合戦]]([[文治]]5年([[1189年]]))以降、[[恩賞]]として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた{{efn|鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、[[成功 (任官)|成功]](じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。}}{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。
 
ところが、現実主義者・[[マキャベリスト]]である親房{{sfn|亀田|2014|p=98}}は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を積極的に活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた{{sfn|花田|2016|pp=197–199}}。その中でもかなり熱心に恩賞としての官位を配ったのが、実はこの政策を批判した他ならぬ親房自身で、東国武士たちへの官位推薦状を乱発した{{sfn|呉座|2014|loc=第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」}}。軍事的・領土的に劣勢だった南朝にとって、後醍醐天皇が導入した「恩賞としての官位」政策は、土地がなくとも武士からの求心力を得ることができるため、優れた任官システムであると親房は理解していたのである{{sfn|呉座|2014|loc=第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」}}。対する[[室町幕府]]が恩賞としての官位を導入したのは、[[観応の擾乱]]で保守派の[[足利直義]]が滅んでから、と、かなり時期が遅く、[[山田貴司]]によれば、南朝が実際にこの施策で成功しているのを目の当たりにしたため、これに対抗する目的であったという{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}。それほどまでに、後醍醐天皇が考案し、北畠親房が口では批判しつつも手では実施した政策は、先進的だったのである{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}。
 
==== 北畠顕家からの評価 ====
{{main|北畠顕家上奏文}}
北畠親房の子である[[南朝 (日本)|南朝]][[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]の[[北畠顕家]]もまた、後醍醐天皇へ上奏した『[[北畠顕家上奏文]]』([[延元]]3年/[[暦応]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1338年]][[6月3日]]))で、後醍醐への批評を残している。7条しか残存しないためその全容は明らかではないが{{sfn|黒板|1939|pp=621–624}}、少なくとも残る箇所に関しては後醍醐天皇の政治への実質的な全否定である{{sfn|亀田|2014|pp=167–171}}。
 
現存する7条を要約すると、「首都一極集中を止め[[地方分権]]を推進し各方面に半独立の大将を置くこと」「租税を下げ贅沢を止めること」「[[恩賞]]として[[官位]]を与える新政策の停止」「[[公卿]]・[[殿上人]]・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といったものになる。現存第1条は、後醍醐天皇の全国支配の統治機構に言及したものとして特に注目できる{{sfn|黒板|1939|p=621}}。また、残る6条のうちの半数が、人事政策への不満に集中していることも特徴である{{sfn|佐藤|2005|pp=109–114}}{{sfn|亀田|2014|pp=171–175}}。
 
[[佐藤進一]]は、同時代人からの評価を知る上で『[[二条河原の落書]]』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した{{sfn|佐藤|2005|pp=109–114}}。しかし、[[亀田俊和]]は、奢侈を戒める条項はともかく、それ以外の条項については必ずしも的を射た批難ではなかったり、短期的には顕家の批判するように混乱を招くものだったかもしれないが、長期的にはある程度までは優れた施策であったと指摘し、顕家および佐藤進一の建武政権批判に反論した{{sfn|亀田|2014|pp=167–173, 199–201, 208}}。
 
==== 北朝公家からの評価 ====
[[File:Yoshimoto Nijo.jpg|thumb|[[二条良基]]像(二條基敬蔵)]]
[[連歌]]を完成した中世最大の文人であり、[[北朝 (日本)|北朝]]において[[摂政]]・[[関白]]・[[太政大臣]]として位人臣を極めたどころか、[[准三宮]]として[[皇后]]らに准ずる地位にまで上った[[二条良基]]は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。これは、『[[建武年中行事]]』を著した[[有職故実]]研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。
 
[[中院通冬]](極官は北朝[[大納言]])は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、それを信じたくない気持ちから「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0661 『大日本史料』6編5冊661–662頁].</ref>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」{{efn|原文:「天下之重事、言語道断之次第也、公家之衰微不能左右、愁歎之外無他事、諸道再興、偏在彼御代、賢才卓爍于往昔、衆人不可不悲歎者歟」<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>}}と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。
 
一方、[[三条公忠]](極官は北朝[[内大臣]])は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い[[吉田定房]]の[[内大臣]]登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『[[後愚昧記]]』応安3年3月16日条){{sfn|森|2000|loc=第一章 後醍醐政権成立の背景>「誡太子書」の世界>聖主・賢王待望論}}。
 
=== 芸能後世の評価 ===
==== 独裁君主説 ====
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を[[粟田口嗣房]]、没後はその従兄弟の[[藤井嗣実]]から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の[[大神景光]]から習得していたとみられている<ref>豊永、2006年、P97-101</ref>。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある<ref>豊永、2006年、P102-105</ref>。
[[第二次世界大戦]]後、[[1960年]]代には、[[佐藤進一]]を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|pp=54–58}}。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り{{sfn|亀田|2016|pp=54–56}}、2010年代に入っても高校の歴史教科書([[山川出版社]]『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されている{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}。こうした人物像や政権への否定的評価は[[2016年]]現在でもまだ定説としての地位は失っていないが{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
 
後醍醐天皇独裁君主説では、[[建武の新政]]の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。
更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、[[西園寺実兼]]に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に[[今出川兼季]]から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「[[玄上]]」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。[[後伏見上皇]]は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている<ref>豊永、2006年、P105-109</ref>。
 
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、[[朝令暮改]]を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする[[大内裏]]建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、[[公家]]たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な[[二条河原の落書]]にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。
更に[[綾小路有頼]]から[[催馬楽]]の秘曲を、[[二条資親]]からは[[神楽]]の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や[[平等院]]、[[東大寺]][[正倉院]]から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた<ref>豊永、2006年、P110-121</ref>。
 
== 側近 ==
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; 武士
* [[足利尊氏|足利'''尊'''氏]]<ref>{{efn|『[[太平記]]』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『[[公卿補任]]』([[国史大系|新訂増補国史大系本]])や『足利家官位記』(『[[群書類従]]』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる<ref>[[後藤丹治]]・釜田喜三郎・[[岡見正雄]]校注 『太平記』、[[日本古典文学大系]]、[[岩波書店]])。</ref>。}}(※足利高氏より改名(読み変更なし))
** [[饗庭氏直|饗庭'''尊'''宣]] - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。
** [[吉良尊義|吉良'''尊'''義]] - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。
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足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために[[天龍寺]]を造営している。また[[足利義政]]は[[小槻雅久]]や[[吉田兼倶]]といった学者の意見に従い、東山山荘(現[[慈照寺]])の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した<ref>[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』([[講談社学術文庫]])2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120 、361p</ref>。
 
== 伝説・創作 ==
=== みたらし団子 ===
{{main|みたらし団子}}
伝承によれば、後醍醐天皇が京都市[[左京区]]下鴨の[[下鴨神社]]に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた<ref name="mitarashi-dango">{{Citation | 和書 | last = 沢 | first = 史生 | author-link = 沢史生 | contribution = みたらしだんご | title = [[日本大百科全書]] | publisher = [[小学館]] | publication-date = 1994 }}</ref>。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、[[みたらし団子]]の起源であるという<ref name="mitarashi-dango" />。
 
=== 武士への冷遇 ===
{{seealso|#武士への厚遇}}
[[軍記物]]『[[太平記]]』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。
 
たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である[[御家人]]身分を撤廃、武士はみな[[奴婢]][[雑人]]のように扱われるようになった、という<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/160 300–305]}}.</ref>。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」){{efn|name="yoshida-2008"}}{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。
 
また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実としては、側近の[[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである{{sfn|亀田|2016|p=48}}。
 
また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した[[北条泰家]]の所領をすべて実子の[[護良親王]]に与えたことが記されている<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実はこれと異なり、[[新田氏]]庶流で[[足利氏]]派閥の武将[[岩松経家]]に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-141">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0141 『大日本史料』6編1冊141–142頁].</ref><ref>{{ Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:沼津市 > 旧駿東郡地区 > 大岡庄 }}</ref><ref>{{ Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:浜松市 > 旧長上郡・豊田郡地区 > 蒲御厨 }}</ref>。
 
== 登場作品 ==
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== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{notelist}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
=== 古典 ===
* [[河内祥輔]] 『日本中世の朝廷・幕府体制』([[吉川弘文館]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-642-02863-9
* {{ Citation | 和書
* [[豊永聡美]]「後醍醐天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』97-129頁、(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9
| editor=内外書籍株式会社
* [[森茂暁]] 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公文庫、2007年)。旧版は中公新書
| title=新校群書類従
| volume=16
| publisher=内外書籍
| year=1928
| url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789
| doi=10.11501/1879789
| chapter=梅松論 上
| chapter-url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/78
| pages=100–121
| id={{NDLJP|1879789}}
| ref = {{harvid|梅松論上|1928}}
}}
*『[[太平記]]』
** {{ Citation | 和書
| editor=博文館編輯局
| title=校訂 太平記
| edition=21
| publisher=博文館
| series=続帝国文庫 11
| year=1913
| url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211
| doi=10.11501/1885211
| id={{NDLJP|1885211}}
}} {{OA}}
 
===評伝 主要文献 ===
* [[網野善彦]] 『異形の王権』([[平凡社]]ライブラリー、[[1993年]]) ISBN 4582760104
* 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』([[至文堂]]、[[1939年]]9月)
* {{Citation | 和書
| last = 佐藤
| first = 和彦
| author-link = 佐藤和彦
| contribution = 後醍醐天皇
| title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]
| publisher = [[吉川弘文館]]
| publication-date = 1997
}}
* 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』([[新人物往来社]]、[[2004年]]) ISBN 4404032129
* {{Citation | 和書
| last = 永原
| first = 慶二
| author-link = 永原慶二
| contribution = 後醍醐天皇
| title = [[日本大百科全書]]
| publisher = [[小学館]]
| publication-date = 1994
}}
* [[兵藤裕己]] 『後醍醐天皇』([[岩波新書]]、2018年) ISBN 4004317150
* [[平泉澄]] 『建武中興の本義』(至文堂、[[1934年]]9月)/新版・[[日本学協会]]、[[1983年]]5月
* 平泉澄 『明治の源流』([[時事通信社]]、[[1970年]]6月)
* [[村松剛]] 『帝王後醍醐 <small>「中世」の光と影</small>』([[中公文庫]]、[[1981年]]) ISBN 412200828X
* [[網野善彦]] 『異形の王権』([[平凡社]]ライブラリー、[[1993年]]) ISBN 4582760104
* {{ Citation | 和書
| last=森
320 ⟶ 513行目:
| isbn = 978-4121015211
}}
 
* 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』([[新人物往来社]]、[[2004年]]) ISBN 4404032129
=== その他 ===
* [[兵藤裕己]] 『後醍醐天皇』([[岩波新書]]、2018年) ISBN 4004317150
* {{Cite journal | 和書
| last=甲斐
| first=玄洋
| authorlink=甲斐玄洋
| title=<論説> 建武政権の太政官符発給 : 政権の理念と構想の一断面
| journal=学習院史学
| url=http://hdl.handle.net/10959/1842
| volume=45
| pages=18–34
| year=2007
| ref={{harvid|甲斐|2007}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Cite journal | 和書
| last=加藤
| first=洋介
| authorlink=加藤洋介
| title=後醍醐天皇と源氏物語 : 『河海抄』延喜天暦准拠説の成立をめぐって
| journal=日本文学
| volume=39
| issue=3
| pages=104–107
| url=https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.39.3_104
| doi=10.20620/nihonbungaku.39.3_104
| year=1990
| publisher=日本文学協会
| ref={{harvid|加藤|1990}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| title=南朝の真実 忠臣という幻想
| publisher=[[吉川弘文館]]
| series=歴史文化ライブラリー 378
| year=2014
| isbn=978-4642057783
}}
* {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| title=高師直 室町新秩序の創造者
| publisher=吉川弘文館
| series=歴史文化ライブラリー 406
| year=2015
| isbn=978-4642058063
}}
* [[河内祥輔]] 『日本中世の朝廷・幕府体制』([[吉川弘文館]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-642-02863-9
* {{ Citation | 和書
| last=黒板
| first=勝美
| author-link=黒板勝美
| title=虚心文集
| volume=2
| publisher=吉川弘文館
| year=1939
| url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266363
| doi=10.11501/1266363
| id={{NDLJP|1266363}}
| chapter-url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266363/322
| chapter=北畠顕家の上奏文に就いて
| pages=607–632
}}{{OA}} - 昭和4年(1929年)11月『[[歴史地理]]』54巻5号からの再録。
* {{ Citation | 和書
| last=呉座
| first=勇一
| author-link=呉座勇一
| title=戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか
| publisher=[[新潮社]]
| year=2014
| isbn = 978-4106037399
}}
* {{ Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| author-link=佐藤進一
| title=南北朝の動乱
| publisher=[[中央公論社]]
| series=日本の歴史 9
| date=1965
}}
** {{ Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| title=日本歴史9 南北朝の動乱
| publisher=中央公論社
| series=中公文庫
| edition=改
| year=2005
| isbn=978-4122044814
}} - 1965年版の単行本が1974年に文庫版となったものの改版。
* {{Cite journal | 和書
| last=田中
| first=奈保
| authorlink=田中奈保
| title=後光厳天皇親政期の勅撰和歌集と室町幕府
| journal=史観
| publisher=早稲田大学史学会
| url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=37343&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1
| volume=162
| pages=1–18
| year=2010
| ref={{harvid|田中|2010}}
}}
* {{ Citation | 和書
| last=豊永
| first=聡美
| author-link=豊永聡美
| title=中世の天皇と音楽
| publisher=吉川弘文館
| chapter=後醍醐天皇と音楽
| pages=97–129
| year=2006
| isbn=4-642-02860-9
}}
* {{ Citation | 和書
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=中井
| first=裕子
| author-link=中井裕子
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| chapter=【鎌倉時代後期の朝幕関係】1 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=24–42
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| chapter=【建武政権の評価】2 「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=43–63
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=森
| first=幸夫
| author-link=幸夫
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| chapter=【建武政権の官僚】3 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=64–83
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=細川
| first=重男
| author-link=細川重男
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| chapter=【後醍醐と尊氏の関係】4 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=84–108
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=花田
| first=卓司
| author-link=花田卓司
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| chapter=【建武政権・南朝の恩賞政策】9 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=186–204
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
* [[森茂暁]] 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公文庫、2007年)。旧版は中公新書
* {{ Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| author-link=森茂暁
| title=足利尊氏
| publisher=[[KADOKAWA]]
| series=角川選書 583
| date=2017
| isbn = 978-4047035935
}}
* {{ Citation | 和書
| last=吉田
| first=賢司
| author-link=吉田賢司
| chapter=建武政権の御家人制「廃止」
| editor-last=上横手
| editor-first=雅敬
| editor-link=上横手雅敬
| title=鎌倉時代の権力と制度
| publisher=[[思文閣出版]]
| year=2008
| isbn = 978-4-7842-1432-7
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=吉原
| first=弘道
| authorlink=吉原弘道
| title=建武政権における足利尊氏の立場 : 元弘の乱での動向と戦後処理を中心として
| journal=史学雑誌
| volume=111
| issue=7
| pages=35–59,142–143
| url=https://doi.org/10.24471/shigaku.111.7_35
| doi=10.24471/shigaku.111.7_35
| year=2002
| ref={{harvid|吉原|2002}}
}} {{フリーアクセス}}
 
== 関連項目 ==