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「大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために増兵するとした」という記述の正確性は必ずしも議論の余地のないとは言い難い(ぼくの記憶の限りでは、当時日本政府が「自衛権の発動」と言葉通りに宣言したことがない)。
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[[画像:Japanese wartime national debt in 1940.JPG|thumb|300px|[[1940年]](昭和15年)発行の[[日本国債|国債]]には「支那事変」によるものと明記されている]]
[[画像:Japanese-China War of Japanese Postcard in 1939.jpg|thumb|300px|[[陸軍省]]発行の[[絵葉書]]([[福田豊四郎]]作「銃後の田園」)に東京の郵便局で『支那事変二周年記念』の[[記念印]](1939年(昭和14年)7月7日付)を押印した郵趣品。記念印には「[[東亜新秩序]]」の標語が入っている]]
'''支那事変'''(しなじへん)とは、[[1937年]]([[昭和]]12年)に[[大日本帝国|日本]]と[[中華民国]]([[支那]])の間で始まった、長期間かつ大規模な[[戦闘]]である。
 
== 概要 ==
[[1937年]]([[昭和]]12年)7月7日の[[盧溝橋事件]]を発端とする。4日後の松井-秦徳純[[盧溝橋事件#停戦協定と和平条件|停戦協定]]により一旦は収拾したが、日本側は[[近衛内閣]]が「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件今回のできごとを「'''北支事変'''」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するめに派兵(増員)するとした<ref>臼井『新版 日中戦争』p65-72</ref>。そして、[[中国共産党]][[国共合作#第一次国共合作|国共合作]]による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃と事態は進展、8月には[[第二次上海事変]]が勃発するに及び、戦線は中支(中支那、現中国の[[華中]]地方)、そして中国大陸全土へと拡大し、日本と中華民国の全面[[戦争]]の様相を呈していった。
 
[[1941年]](昭和16年)12月までは、双方とも[[宣戦布告]]や[[最後通牒]]を行わなかった。戦争が開始された場合、第三国には[[戦時国際法]]上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない[[蒋介石]]側にとっても、宣戦布告を行うことにはリスクがあった。