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古代原子論の注釈と文献追加
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* [[カリウム]] - 0.862
* [[リチウム]] - 0.534
 
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
<!-- == 参考文献 == -->
 
== 密度の測定方法 ==
;アルキメデス法
:[[アルキメデスの原理]]を利用する方法。空気中と水中での量をそれぞれ測定し、両者から体積を求めて密度を算出する。
;比重びん法
:[[比重びん]]の重さ、試料をいれた比重びんの重さ質量、さらに置換液を加えてびんを満たした時の重さ質量、比重瓶を置換液で満たした時の量を測定し、体積と量を算出する。
 
==科学上の密度概念の歴史==
== 参照 ==
===古代===
<references />
我々はいろいろなものを手で持ち上げただけで、大抵は直接に密度を感じ取ることができる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=138}}。従って、密度の概念はそれが「質量÷体積」で定義されるずっと前から存在していた{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=139}}。目の前に純金と銀に金メッキされた物を出されても、誰でも手に持って比べればどちらが純金かはすぐ分かる。それはその密度が2倍も違うからである{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=139}}{{refnest|group="注"|このような直感的な密度の感じ方について、科学史家・板倉聖宣は、「鉄1kgと綿1kgはどちらが重いか」という問題に、多くの人は「鉄の方が重い」と感じることを指摘している{{Sfn|板倉聖宣|1978|pp=69-83}}。}}しかし、もっと微妙な差になると判定が難しくなる。[[アルキメデス]]が謎解きしたという「[[ヒエロン2世|ヒエロン王]]の王冠の謎の問題」{{refnest|group="注"|アルキメデスが[[ヒエロン2世]]から、金の王冠に混じりものが入ってないか調べるように言われた故事。その発見は[[アルキメデスの原理]]と呼ばれる浮力の原理である。(詳細は[[アルキメデス]]を参照のこと。)}}では、アルキメデスは「重さの減少分は、物体と同体積の水の重さに等しい」という原理を発見し、同じ重さの物体の浮力の相違は「密度・比重の概念」を数量的に認識させることとなった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=35-36}}。
 
===中世ヨーロッパの重さと比重の区別===
12世紀から13世紀にかけてアラビア語からラテン語に翻訳された「アルキメデスの書」の手稿本{{refnest|group="注"|「液体中にあるものに関するアルキメデスの書」Moody & Clagett:The Medieval Science of Weightsの41-51頁ラテン原文(英文併記)より板倉聖宣が訳出したもの{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=196}}。}}によれば、「2つの重さの相互の関係は二重の仕方で考えられる。その一つの方法は種類によるもので、もう一つは総額によるものである。種類によるものはたとえば金の重さを銀の重さと比べたいときに用いられるもので、これは金と銀の大きさを基礎としてなされなければならない{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}」「総額によってというのは、われわれが目方を知ろうとしてそれらのかたまりの大きさがどうであろうとおかまいなしに、金のあるかたまりは銀のあるかたまりよりも重いと判定するときの、2つの物体の相互の重さの関係である{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}」と述べている。さらに「2つの大きさが等しい物体において、その目方がより多くのカルクリ{{refnest|group="注"|この手稿本で重さの最小単位としているもの{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=197}}。}}の数に等しいものは、その種類においてより重い」「同じ種類の物体では、大きさと目方は比例している」「種類による重さの等しい物体といわれるのは、その等しい大きさの目方が等しいものである{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=198}}」としている。この手稿の元のアルキメデスの本の中には比重、または密度の概念は出てこないが、この手稿本には質量と比重が明確に区別された記述が加えられている{{Sfn|板倉聖宣|1958|p=196}}。
 
===ガリレオとニュートンの原子論的密度概念===
1590年頃の[[ガリレオ・ガリレイ]]の『運動について』では、「普通にいう物体の重さ」と「物体本来の固有の重さ」を区別し、「普通の重さ」は浮力や抗力などの外力で変化するが、「本来の重さ」は変化しないものと考えた{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=29}}。ガリレオは「物体の見かけの重さが変化しているときでも、物体の大きさと密度が変わらない」ことを根拠に、物体の本来の重さは「密度×体積」で決まる量であるとした{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=29}}。ガリレオは古代原子論者{{refnest|group="注"|[[古代ギリシャ]]の[[デモクリトス]]、[[レウキッポス]]に始まり、[[エピクロス]]が重さの概念を基盤にすることで一応の完成を見た理論。[[共和制ローマ]]時代の詩人[[ルクレチウス]]はエピクロスを称えて原子論を詳しく紹介する詩を残し{{Sfn|板倉聖宣|2004}}、その詩は中世から近代科学が立ち上がる時代のヨーロッパに大きな影響を与えた{{Sfn|スティーブン・グリーンブラッド|2012}}。}}の考えを引いて「この(同じ)物質から作られている物体の中でも、同じ体積中にこの物質の粒子をより多く含んでいるものが、より密であるとよばれたのである」とのべている。ガリレオは古代の原子論者と同様に、密度を「単位体積当たりに含まれる原子の数」によってあらわされるものと考えた{{Sfn|板倉聖宣|1961|p=30}}。[[アイザック・ニュートン]]はガリレオの原子論的密度概念と同じことを、その著書『[[自然哲学の数学的諸原理]]』''Principia''(1687年)において採用し、質量を「密度×体積」によって定義している{{Sfn|ニュートン|1977|p=15}}。ガリレオもニュートンも共に原子論的な思考の上では、質量や重さよりも密度の方が根源的な量と考えていた{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=138}}。
 
===中国の密度表===
東洋の文献で密度の値が書かれている最も古いものは西暦紀元1世紀の『[[漢書]]』の「食貨志下」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」である{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=140}}。これは「黄金は一[[寸]]立方で重さが一[[斤]]だ」ということである。これを今日の値に換算すると18.56g/cm<sup>3</sup>であるので、誤差は4%足らずのよい値である{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=141}}。これはおそらく漢代には「黄金方寸一斤」が重さの単位の基礎として用いられていて、漢代の重さの単位は長さの単位と金の重さを元にして決められていたと考えられる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=141}}。
 
3世紀の『[[孫子算経]]』の密度表でも「黄金方寸而重一斤」と同じ値が用いられて{{Sfn|板倉・中村|1990a|pp=143-144}}いて銅、鉛、鉄の密度も今日の値に近いが、白金(銀?)は銀とすれば値が1.5倍も大きく、単位の違いなのか誤記なのか、あるいは白金が銀ではない何かをさしていたかはわからない。{{Sfn|中村邦光|2007|pp=38-39}}。
 
===江戸時代の和算家と密度===
江戸時代には密度のことを「軽重」と呼んでいた{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。[[吉田光由]]の『[[塵劫記]]』の初版本([[寛永]]八年:1627年)は、1595年の中国算書『算法統宗』の密度表を書き写した値が載っている。しかし中国書と日本は共に[[尺貫法]]を使っていたが、単位の大きさは違っていた。それなのに数値をそのまま引き写したので、その値は正しいものではなかった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=40‐41}}。たとえば銀の密度は正しい値の1.8倍も大きくなってしまった{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=147}}。吉田光由は密度そのものの物理的な関心が無かったことを示している。このような間違いの引き写しは江戸時代の他の和算書にも見られる{{Sfn|板倉・中村|1990a|p=146-147}}。
 
1640年の今村知商『因帰算歌』には『塵劫記』の密度表を訂正した数値が載せられている。今村知商は『塵劫記』の密度表を5/6倍して、単位を換算しようとした。この結果金の密度は正しい値に近づいたが、鉄、鉛、銅の密度は『塵劫記』よりも悪くなってしまった。1660年代には和算書の密度表は著しく多様化した。同じ純物質の密度の値が異なれば、当然そのどれが一番真の値に近いかが問題になってくる{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=162}}。1684年には『増補算法闕擬抄』が同一の物質の密度について複数の数値をあげて、読者の疑問を喚起した{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=163}}。[[貞享]]四年(1687年)には『改算記綱目』が金の密度測定法を取り上げた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=163}}。その中の「金重或問」で答として「金小判の一立方寸あたりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に水がこぼれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総質量を割ると小判に使われている金の純度が分かる。そのほか、純度を測りたい物はこれに倣え」と書かれている{{Sfn|中村邦光|2007|p=42}}。しかしその測定結果は書かれていない。著者の和算家は実際には実験しなかったのである{{Sfn|板倉・中村|1990b|pp=164-165}}。この水で金の体積を量る方法は『改算記』でも取り上げられていた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。
 
===儒学と密度への関心の低下===
このように「金の本当の密度はどれほどか」という問題が1680年代の和算家に明確に取り上げられたかに見えたが、この問題はこれ以降の和算家には本格的に追求されることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=65}}。金や銀や水の密度はこれ以降も正しい値に近づくどころか、かえって多様化する傾向さえ見られた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。『塵劫記』の密度表は[[寛永]]八年(1631年)版のまま、江戸時代の全期を通じて百種以上も出版され、訂正されることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=165}}。和算書は物理的な・実験的な測定事項に関しては1660年代以後停滞・退歩した{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=170}}。1660年代の和算書には「純物質の密度が一定」という考えまでぐらついていたし、1684年の和算書『増補算法闕擬抄』では物理的測定に対する関心が低下すると共に、書物によって密度の値が大きく異なることに対する疑問も起こらなくなってしまった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=170}}。この傾向は18世紀以降には顕著となった。この原因としては[[徳川吉宗]]の[[享保の改革]](1720年ごろ)で、[[儒学]]が重んじられ、それ以降、江戸の常識となったことの影響が大きいという{{Sfn|中村邦光|2007|pp=44-45}}。儒学の物質観では「密度は物質に固有な定数である」とは認められていなかったので、密度の測定への関心がもたれなくなった{{Sfn|中村邦光|2007|pp=44-45}}。
 
===金座における金の密度の測定===
和算家が密度の実用性から離れたとしても、江戸時代には金の小判や銀版が広く流通していたので、その密度が問題になった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=171}}。幕府の当事者は金の密度が和算家の数字と合わないことを気にとめて、金座に命じて金の密度を実測させ[[享保]]十四年(1729年)に130[[匁]]/立方[[寸]]の結果を得た。これは『塵劫記』や『孫子算経』の値より大幅に小さかった。しかし、今日の金の密度19.3g/cm<sup>3</sup>に換算すると143.2匁/立方寸であるので、金座の値は小さすぎる。これは測定に使った金の純度が悪かったというよりは、「金1立法寸の重さ」と幕府に言われたので、実際に金を1寸の立方体に作ったため、体積の精度が悪かったのだと考えられる{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=172}}。
 
=== 西洋の密度の導入 ===
このような測定が行われたきっかけは将軍[[徳川吉宗]]の蘭書解禁の政策{{refnest|group="注"|従来は享保の改革で漢訳西洋科学書の禁書緩和が行われたとされていたが、実際には17-18世紀に中国から輸入されたイエズス会士がかかわって書かれた漢文科学書の影響がほとんどまったく日本の書物に表れていないことから、実際には吉宗の学問の奨励は「儒学の奨励」であり、「禁書の緩和」とは「特別に許可を得た学者に幕府の書庫内で閲覧を許されただけ」であり、実態は「禁書と出版の統制の制度化」が享保の改革で行われたのだろうと考えられている{{Sfn|中村邦光|2007b|pp=81-84}}。}}。で西洋歴算書の『歴算全書』(1726年舶来)の和訳がなされ、西洋の密度の値が初めて日本に紹介されたためと考えられている{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=173}}。この本には金の密度19、銀の密度10.3と与えられていた。そこでヨーロッパの値と日本の値との違いを正すことが金座での密度測定の動機になった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=173}}。
 
===宅間流和算の密度===
関西地方の和算の小さな会派であった「宅間流 {{refnest|group="注"|宅間流からは天文学、暦算家の主要な人物が輩出しており、[[寛政]]の改暦にも従事している{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。}}」の和算書『(増補)算学稽古大全(さんがくけいこたいぜん)』(松岡能一:1806年)は、当時としては珍しく物理・実用的な事柄に多くの関心が見られた分厚い啓蒙書である{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}。その書では密度が「'''寸重'''」「'''尺重'''」という用語で表され、金144[[匁]]、水7[[貫]]400[[目]]などの値が記載されている。現代の値では金19.3g/cm<sup>3</sup>=143.2匁/寸<sup>3</sup>、水1g/cm<sup>3</sup>=7貫420目/尺<sup>3</sup> となるので、かなり正確な値である{{Sfn|中村邦光|2016|p=46}}{{refnest|group="注"|中村邦光の論文では水の密度の単位に寸が用いられているが、それでは7貫=約27kgと計算が合わないので単位を尺に訂正した。尺<sup>3</sup>なら(30cm)<sup>3</sup>=27000cm<sup>3</sup>=27kgであるから、水の密度の値と合う。}}。「寸重」「尺重」という言葉は江戸時代において密度を表す数少ない述語らしい用語として注目に値するものであるという{{Sfn|中村邦光|2016|p=47}}。
 
=== 商人の用いた密度 ===
銭貨学の古典的大著『算貨図彙』([[文化]]十二年:1815年)には、和算書や金座の測定値よりも現在の値に近い数値が与えられている{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=174}}。銀の密度が金の密度よりもずっと小さいことは金貨や銀貨を扱っていた商人たちには十分よく知られていた{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=175}}。それにもかかわらず和算家たちは自分たちの用いている密度の値を怪しまなかったのである{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=175}}。
江戸時代にはアルキメデスの原理が知られていなかったので、浮力を用いてサンプルの比重を測る方法は取られることが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=179}}。そこで西洋の数値に劣る結果しか得られなかった。むしろ江戸時代の密度の測定値は時を経るに従って改善されるということが無かった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=181}}。江戸時代前半は人口が増えて、土木工事や経済活動が活発だった。その時代の和算家は金属や水や土の密度に深い関心を持ち、値を改善しようとした{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=182}}。しかし江戸時代後半に人口増加が止まり、経済も停滞すると{{refnest|group="注"|これについては板倉聖宣『歴史の見方考え方』で詳しく論じている{{Sfn|板倉聖宣|1986|pp=103-120}}。}}、そのような物理的・実用的な問題に対する意慾が減退し、すでに書物に書かれているものだけに頼ることになり、古い『塵劫記』の密度表がそのまま引き写されるだけになった{{Sfn|板倉・中村|1990b|p=183}}。
 
===初めて「浮力の原理」と密度に言及した本===
日本の書物で初めて浮力の原理に言及したのは[[文政]]十年(1827年)の[[青地林宗]]『氣海観瀾』である。この書では「称水」{{refnest|group="注"|称水とは「水中にて物の重さを称(はか)る」からきた言葉。のちに「水称法」と呼ばれるようになった{{Sfn|中村邦光|2007|p=47}}。}}の項に浮力の原理が説明され、アルキメデスの発見であると明らかにしている{{Sfn|中村邦光|2007|p=47}}。これを引き継いだ本では密度のことを「本重」という術語で表すようになった。「密度」という訳語は[[明治]]になってからの「物理学訳語会」(明治16‐18年:1883‐1885年)で初めて採用された。比重の語の初出は『理化新説』(明治二年:1869年)である{{Sfn|中村邦光|2007|p=48}}。
 
<!-- == 脚注 ==
{{Reflist|group="注"|2}}
== 参照出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}} -->
<!-- == 参考文献  == -->
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|title=ニュートンの質量の定義とガリレイ・ニュートンの原子論|publisher=岩波書店|journal=科学史研究|volume=|issue=59|pages=29-31|year=1961|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1961}} }}[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I2380307-00 国立国会図書館]
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=中村邦光|authorlink=板倉聖宣|title=初期和算書における金属と水の密度の値|publisher=仮説社 |journal=日本における科学研究の萌芽と挫折|pages=138-158|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉・中村|1990a}} }}{{全国書誌番号|92054782
}}(初出『科学史研究』1980年冬,第136号)
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=中村邦光|authorlink=板倉聖宣|title=1660年以降の和算書その他における金属と水の密度の値|publisher=仮説社 |journal=日本における科学研究の萌芽と挫折|pages=159-187|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉・中村|1990b}} }}{{全国書誌番号|92054782}}(初出『科学史研究』1981年夏,第138号)
* {{Cite journal |和書|author=板倉聖宣|author2=|authorlink=板倉聖宣|title=中世におけるアルキメデスの原理と重さ・軽さ|publisher=仮説実験授業研究会『物理学史研究』復刻刊行会 |journal=物理学史研究 : 第1巻第1-5号|pages=196-199|isbn=|year=1990|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1958}} }}(オリジナルは日本科学史学会物理学史分科会, 日本物理学会物理学史懇談会編よって1958年5月から1959年5月の間に発行された)[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I002336558-00 国立国会図書館サーチ]
* {{Cite book |和書|author=アイザック・ニュートン|translator=中野猿人|authorlink=|title=プリンシピア 自然哲学の数学的原理|publisher=講談社 |isbn=4-06-122139-6|pages=|year=1977|ref={{Sfnref|ニュートン|1977}} }}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=江戸時代の日本における円周率の値の逆行現象|publisher=日本計量史学会|journal=計量史研究|volume=38|issue=1|pages=42-48|year=2016|ref={{Sfnref|中村邦光|2016}} }}[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10632319 国立国会図書館]
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=科学的とはどういうことか : いたずら博士の科学教室|publisher=仮説社 |isbn=|pages=|year=1978|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1978}} }}{{全国書誌番号|80004621}}
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=歴史の見方考え方 (いたずら博士の科学教室 ; 3)|publisher=仮説社 |isbn=|pages=|year=1986|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1986}} }}{{全国書誌番号|87013668}}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念|publisher=創風社|journal=江戸科学史話|volume=|issue=|pages=35-48|year=2007|isbn=978-4-88352-133-3|ref={{Sfnref|中村邦光|2007}} }}
* {{Cite journal |和書|author=中村邦光|title=享保改革における「禁書緩和」は本当か|publisher=創風社|journal=江戸科学史話|volume=|issue=|pages=81-91|year=2007b|isbn=978-4-88352-133-3|ref={{Sfnref|中村邦光|2007b}} }}
* {{Cite book |和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=原子論の歴史-誕生・勝利・追放(上)|publisher=仮説社 |isbn=4-7735-0177-4|pages=|year=2004|ref={{Sfnref|板倉聖宣|2004}} }}{{全国書誌番号|20682258}}
* {{Cite book |和書|author=スティーブン・グリーンブラッド|translator=河野純治|title=一四一七年その一冊がすべてを変えた|publisher=柏書房 |isbn=978-4-7601-4176-0|pages=|year=2012|ref={{Sfnref|スティーブン・グリーンブラッド|2012}} }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}