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[[File:Contest To Cut Down 100 People.jpg|right|thumb|350px|1937年12月13日[[東京日日新聞]] 【[[紫金山]]麓にて十二日[[浅海一男|淺海]]、[[鈴木二郎 (新聞記者)|鈴木]]兩特派員發】"百人斬り競爭"の兩將校 (右)[[野田毅 (陸軍軍人)|野田巖]]少尉 (左)[[向井敏明]]少尉 -[[常州]]にて[[佐藤振壽|佐藤(振)]]特派員撮影-]]
'''百人斬り競争'''(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937 (昭和12)年11月から12月にかけての[[南京攻略戦]]において、[[上海派遣軍]] [[第16師団 (日本軍)|第16師団]][[歩兵第9連隊]]第3大隊副官[[野田毅 (陸軍軍人)|野田毅]]少尉と同大隊砲兵小隊長[[向井敏明]]少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと[[東京日日新聞]]の[[浅海一男]][[鈴木二郎 (新聞記者) |鈴木二郎]]などによって報道された事件<ref name="原2002-87">[[原剛]]「百人斬りと二人の少尉」『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、87頁。</ref>。[[南京軍事法廷]]では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、[[雨花台]]で処刑された<ref name="原2002-87"/>。
 
戦中は前線勇士の[[武勇伝|武勇談]]として賞賛されたが、戦後は[[南京事件]]を象徴するものとして<ref>{{Cite news | url = http://www.sankei.com/politics/news/160805/plt1608050013-n3.html | title = 【新閣僚に聞く(詳報)】稲田朋美防衛相詳報(4) 南京事件「百人斬りはなかったと思っています」「30万人、40万人という数がどうであったかは重要」(3/5ページ) | work = 産経ニュース | publisher = [[産経新聞]] | date = 2016-08-05 | accessdate = 2016-08-28 }}</ref>非難された<ref name="Mainichi Showa Chronicle">『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』[[毎日新聞社]]、 1989年3月5日発行、ISBN 4-620-80210-7、178頁。</ref>。戦後、[[本多勝一]]の『[[中国の旅]]』で紹介され、これに対して[[鈴木明]]が『「南京大虐殺」のまぼろし』、[[山本七平]]が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった<ref name="原2002-88">原 (2002)、88頁。</ref>。山本に対して[[洞富雄]]が反論したが、「百人斬り」が実際に行われたということは論証されていない<ref name="原2002-88"/>。[[原剛]]によれば、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」という<ref name="原2002-88"/>。
 
戦時中の報道では、百人斬りは「戦闘中の敵兵殺害」と表現されているが、『百人斬りは本当は捕虜を斬った』と野田少尉が自ら公言していたこと<ref>南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 P38 </ref>、『野田少尉と向井少尉が抵抗なき農民を斬っており、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道された』<ref>私の支那事変(私家版)』(P42-45)</ref>資料の存在が戦後明らかになっている。
{{要出典範囲|事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。|date=2020年3月}}また、{{要出典範囲|遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については[[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[柏書房]]、[[本多勝一]]の勝訴、原告敗訴が確定している。|date=2020年3月}}
 
{{要出典範囲|事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争がある。|date=2020年3月}}また、{{要出典範囲|遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については[[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[柏書房]]、[[本多勝一]]などの勝訴、原告敗訴が確定している。|date=2020年3月}}<ref>
朝日新聞 2006年12月23日</ref>
 
== 当時の報道 ==
戦時中に、以下の記事が報道された。
{| class="wikitable"
! 番号 !! 媒体 !! 日付 !! 主な内容
|-
!1||東京日日新聞     
|<第1報> 昭和12年11月30日 || 向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。[[無錫]]から初めて現在65対25([[常州]]でのインタビュー記事)(常州にて29日、浅海、光本、安田)
|-
!2||東京日日新聞
|<第2報> 昭和12年12月4日 || 2日午後6時[[丹陽市|丹陽]]入城までに・・・常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷([[丹陽市|丹陽]]にて3日浅海、光本)
|-
!3|| 東京日日新聞
|<第3報> 昭和12年12月6日 || 「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78([[句容]]にて5日浅海、光本)
|-1
!4|| 東京日日新聞
| <第4報>昭和12年12月13日 || [[紫金山]]攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼[[中山陵]]を眼下に見下す(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)
|-
!5|| 鹿児島毎日新聞
| 昭和12年12月16日 || 東京日日新聞の後追い記事
|-
! 6||鹿児島毎日新聞
| 昭和12年12月18日 || 東京日日新聞の後追い記事
|-
! 7||大阪毎日新聞
| 昭和13年1月25日 || 野田少尉が中村硯郎あてに百人斬りを自慢する手紙が届いた。253人を斬り、[[百人斬りの歌]]が紹介されている。
|-
! 8||鹿児島朝日新聞
| 昭和13年3月20日 || 野田少尉が[[鹿児島]]に帰還。374人を斬ったと語った。
|-
! 9||鹿児島新聞
| 昭和13年3月21日 || 野田少尉が374人を斬ったと語った。地元の児童、生徒に百人斬りの競争談をなした。
|-
! 10||鹿児島朝日新聞
| 昭和13年3月22日 || 野田少尉の父伊勢熊氏が息子の戦果(374人斬り)を紹介。(野田少尉、両親、五女とよ子氏の写真が掲載)
|-
! 11||鹿児島新聞
| 昭和13年3月26日 || 野田少尉が神刀館で百人斬りの講演を行った。
|-
! 12||東京日日新聞
| 昭和14年5月19日 || 向井少尉が野田少尉と別れてから約束の500人斬りを果すため、奮闘中。今までに305人斬った。
|}
 
{{要検証範囲|title=訴訟は訴訟でまとめて書くべき|後の名誉毀損訴訟において、原告側は「百人斬り競争の記事は表の上4つを書いた浅海記者ら新聞記者が創作した」と主張した<ref>「南京大虐殺と『百人切り競争』の全貌」P157</ref>が、野田少尉が中村硯郎あてに出した手紙の中で野田少尉は新聞報道の内容にいささかの否定的見解も示していない<ref>「百人斬り競争」と南京事件 P194</ref>ことや、また「305人斬り」の話は向井中尉自らが浅海、光本、鈴木記者とは別の特派員に、それも二年後において話したものである<ref>「百人斬り競争」と南京事件 P200</ref>との反論があり議論がある。|date=2020年3月}}
 
== 反響 ==
この競争は地元で英雄譚として、大いに称賛された。[[鹿児島市]][[鹿児島市立草牟田小学校|草牟田尋常小学校]]の副教材では百人斬り競争をとりあげ、「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」と紹介された<ref>早川タダノリ『「愛国」の技法: 神国日本の愛のかたち』(青弓社){{要ページ番号|date=2014-10-04}}</ref>。
 
秦郁彦によれば、野田は、地元の小学校、中学校で、多くの「百人斬り講演」を行った<ref>秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』「政経研究」第42巻第4号 P94</ref>という([[秦郁彦]]は<ref>鹿児島新聞 昭和13年3回を確認している)。月21日</ref><ref>鹿児島朝日新聞昭和13年3月22日</ref><ref>鹿児島新聞 昭和13年3月26日</ref><ref>南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 P36 </ref>
 
== 南京軍事法廷 ==
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[[秦郁彦]]は、その山本に対し、「1.無抵抗の捕虜を据えもの斬りすること<ref group="注釈">戦闘で敵を斬ることとは難易度が全く異なる。</ref>を想定外としていること」「2.成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、都合の悪い事例を無視している<ref group="注釈">「戦ふ日本刀」は山本七平が引用した斬れなかった事例は少数派で、大部分は日本刀の優秀性を印象付ける内容である。</ref>こと」から『トリックないしミスリーディングといえよう』と評した<ref>いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)『政経研究』2006年2月号P96</ref>。[[洞富雄]]も、同じ観点から同様に山本七平と鈴木明を批判している<ref>山本への批判は「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」(本多勝一編集「ペンの陰謀」に収録)鈴木の批判は「南京大虐殺―「まぼろし」化工作批判」</ref>。([[山本七平|山本]]の「据えもの斬りを想定外」について<ref>山本は遺体の手首と足を軍刀で切断した後、刀の柄がぐらついた自身の体験を出発点にしている(71,153頁『私の中の日本軍』)。山本が無抵抗の遺体も想定していることは確か。鵜野晋太郎(中帰連活動家)を引合いに、秦は据え物斬りなら何人(10人)でも故障なく斬れそうなことを言う(307頁『旧日本陸海軍の生態学』)が、『日本刀の近代的研究』(小泉久男)によると、2人で故障は起こり重大な故障もある。以下その研究《据え物斬り限定で、斬った人数、故障個所の8例:(1).2人,無 (2).1人,無 (3).1人,無 (4).7人,少しく刃こぼれ (5).42人,無 (6).数人,刃こぼれ (7).2人,2,3箇所刃こぼれ (8).2人,曲がり護拳ガタガタで使用上甚だ不便(32頁『百人斬り競争と南京事件』)》 (5)の42人斬り故障無しは、いわゆる突出データ。</ref>。また「都合の悪い事例」すなわちは日本刀の優秀性を謳う個所は[[秦郁彦|秦]]によるとこの4箇所<ref>306頁『旧日本陸海軍の生態学』秦郁彦 1「曲がることはあるが、『二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった』」2「(ある少尉は)・・都合47人を手にかけ・・」3「・・[[一騎討ち]]の原始戦が盛んに行われ・・異国に於いて日本刀の威力を発揮した・・」4「・・武術の心得もなくして・・如何様にも切り落とす名手が少なくない・・」</ref><ref>104頁『私の中の日本軍』山本七平「《(キズから刀が折れぬかと聞かれたので、折れぬ事を保証した)'''日本刀はなかなか折れぬものである。'''二千振近いものゝ中に、折れは一振も見なかった(山本が成瀬著より引用)》 日本刀は折れるのではない。曲がるのである。その事実を知らないで人を斬ったなどという人がいたら、ほらふきである(山本)」。秦郁彦は括弧内を外しゴチック部を変えて引用している。</ref><ref>102頁『私の・・』「47人斬りを披露し」た一少尉に、成瀬自身が「名説はかうだ」、「宮本武蔵でも乱刃渦中で闘った記録は絶対にない」と皮肉な調子で記す。これを以って、軍人の言説をフィクションと言えない戦時下の言論状況を山本は見て取る。この話を秦郁彦は真実とする。</ref><ref>100頁『私の・・』 3,4点目に直接の言及はないが、読者から提供された成瀬著作を「全部、戦場における伝聞である」として、山本はその部分を信用せず受け入れない</ref><ref>306頁『・・生態学』「都合のよい部分だけを利用し」と秦が言っているのは、「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀はほとんど皆無」の部分だが、これは成瀬の体験でもある。</ref>。)
 
野田少尉が手紙で中村硯郎に百人斬りを告白し、新聞報道の内容にいささかの否定的見解も示していない(「当時の報道」の8番の記事)<ref>「百人斬り競争」と南京事件 P194</ref>記事や、向井中尉自らが浅海、光本、鈴木記者とは別の特派員に、それも二年後において話した「305人斬り」の記事が2004年に再発見されたことで、「百人斬り競争は浅海記者らの一方的な創作記事だった」という鈴木明、山本七平の説は否定されることになる。
<ref>「百人斬り競争」と南京事件 P200</ref>
 
{{要検証範囲|title=これでは1960年代から1970年代まで北京に住んでいたかのような印象を与えてしまうので、より具体的に書くべき。|[[1960年]]代、[[廖承志]]は[[浅海一男]]と妻と娘を[[北京]]に招いて好条件で職を与え、娘は[[北京大学]]に入れた。[[1970年]]代に百人斬りが日本で問題になったとき、浅海は北京から行って、あれは本当だと証言して北京に戻った<ref>高山正之・阿比留瑠比『マスメディアの罪と罰』ワニブックス2019年、pp.98-100</ref>。|date=2020年3月}}
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#「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。[[山本七平]]は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという<ref>288,287頁『私の中の日本軍』山本七平 4カ月ぶりに家に帰ったとき、私が「自分は・・」「自分は・・」というので、家のものがおかしがった。</ref>。
#本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った<ref>44頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年</ref>。
#[[原剛]]によれば、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」という<ref name="原2002-88"/>。
 
==== 佐藤振壽の証言 ====