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|製作会社=[[角川映画|角川春樹事務所]]
|配給=[[東映洋画]]
|公開={{flagicon|JPN}} [[1977年]][[10月8日]]
|上映時間=133分
|製作国={{JPN}}
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}}
{{Portal 映画}}
[[角川映画|角川春樹事務所]]製作第二弾<ref name="avj200410">{{Cite journal|和書 |author = 小谷松春雄(東映ビデオ宣伝部長) |title = アルバムは語る 27年前の『人間の証明』 |journal = AVジャーナル |issue = 2004年10月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 67 }}</ref><ref name="40年男201604">{{Cite journal|和書 |author = 濱口英樹|title = 昭和(52)年 『古い邦画の枠組みを鮮やかに破壊した 角川映画第二弾 日本でもハリウッド並みの大作が作れることを証明した!』 |journal = [[昭和40年男]] |issue = 2016年4月号 vol.36 |publisher = クレタパブリッシング |pages = 102–107頁 }}</ref>。[[東映洋画]][[映画配給|配給]]{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}<ref name="時報197703">{{Cite journal|和書 |author = |title = 製作ニュース 東映、『人間の証明』は全国九十館で上映 東宝興行網と連合で日本映画最大の配収に挑戦 |journal = 映画時報 |issue = 1984年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}</ref>。[[興行]]は[[都会|都市部]]を[[日比谷映画劇場]]をメインとした[[東宝]]洋画系が<ref name="時報197703"/>、[[地方]]は東映が行った<ref name="時報197703"/>。
[[岡田茉莉子]]・[[松田優作]]・[[ジョージ・ケネディ]]がそれぞれ過去に一物を持つ人物を演じ、当時の日本映画では稀な[[ニューヨーク]]ロケが行われた。[[松山善三]](プロでありながら、公募に応募して採用された)の脚色により、[[森村誠一]]がテーマとした題名「人間の証明」である原作と異なる結末になっている。ラストシーンでは本来無言であったはずの松田が独自に台詞を付けたいとの要望を出し、[[佐藤純彌]]も台詞つきのシーンを撮ったが、佐藤の判断で台詞はカットしつつも台詞を言った後の表情がとても良かったため、そちらを採用した。
 
[[岡田茉莉子]]・[[松田優作]]・[[ジョージ・ケネディ]]がそれぞれ過去に一物を持つ人物を演じ、日本映画で初めて本格的な[[ニューヨーク]]ロケが行われた<ref name="時報197703_4">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 冷たい不況風に悩む映画界 =作品の大作化と宣伝の方向を探る |journal = 映画時報 |issue = 1977年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-10 }}</ref>{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。[[松山善三]]の脚色は原作と異なる結末になっている。
映画公開時に用いられた有名な台詞「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」は[[西條八十]]の詩がオリジナルであり<ref>角川文庫で『西條八十詩集』が映画公開にあわせて復刊され、その中で森村誠一もエッセイを寄稿している。</ref>、劇中でも語られている。[[ジョー山中]]が歌う「人間の証明」のテーマソング(「Mama, Do you remember...」と歌詞は西條八十の詩を英訳したもの)もヒットし、ベストテン入りを果たしている。
 
映画公開時に用いられた有名な台詞「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」は[[西條八十]]の詩がオリジナルであり{{refnest|group=注|角川文庫で『西條八十詩集』が映画公開にあわせて復刊され、その中で森村誠一もエッセイを寄稿している。}}、劇中でも語られている。[[ジョー山中]]が歌う「人間の証明」のテーマソングもヒットし、ベストテン入りを果たしている{{refnest|group=注|「Mama, Do you remember...」と歌詞は西條八十の詩を英訳したもの<ref name="キネ旬19900602">{{Cite journal|和書 |author = 折口明 | title = 角川映画の戦略 15年間の歴史と映画戦略を研究 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1990年6月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 16–19頁 }}</ref>。}}。また映画公開に合わせ、文庫フェアも行われ、森村誠一は一躍、[[ベストセラー]]作家に躍り出た<ref name="キネ旬19900602"/>。"角川商法"と言われた大々的な[[メディアミックス]]戦略を本作で早くも確立させた<ref name="40年男201604"/><ref name="キネ旬19900602"/>。
脚本は最初、[[長谷川和彦]]に依頼し、角川春樹が直接長谷川に交渉したが<ref>{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1976年12月下旬号 | title = 邦画新作情報 | journal = [[キネマ旬報]] | pages = 184−185 }}</ref>、長谷川が角川に対して無礼な物言いがあって流れたといわれる<ref>『月刊シナリオ』 [[日本シナリオ作家協会]]、1977年1月号、83頁</ref>。
 
その後、賞金500万円を掲げて大々的に脚本を公募した。プロアマ問わずとの条件で最終選考に残ったのは、脚本家・監督の松山善三、脚本家の[[山浦弘靖]]、俳優・プロデューサーの[[岡田裕介]](現[[東映]]社長)、プロデューサー・脚本家・推理作家の[[小林久三]]とプロばかりであった。応募者の名を伏せて角川プロデューサー、佐藤監督らによる選考会の模様は『[[キネマ旬報]]』707号(1977年5月1日刊行)誌上に公開されたが、のっけから「ロクなのがない!」「(公募に頼った)考えが甘かった」とボロクソであり、「いちばん修正しやすい」との消極的理由で入選作を決定した。ふたを開けてみれば、全選考委員にとって大先輩である松山の脚本だったという気まずい結果となった。なお、角川によれば、予算にまで気を配って小さくまとめた悪しきプロ脚本が多かった中、大胆に海外場面を多用した松山脚本が角川映画に相応しいと判断したという。
 
偶然に次ぐ偶然によってクライマックスのお涙頂戴になだれこむ展開は、大映が戦後直後に「三倍泣けます」「ハンカチをご用意ください」のキャッチフレーズでヒットさせた[[三益愛子]]の「母物」の再来だと批判されたが、角川春樹は[[石上三登志]]との対談で、まさにそれをこそ狙ったと語っている<ref>『季刊映画宝庫/日本映画が好き!!!』([[芳賀書店]]、1978年刊)</ref>。
 
角川春樹事務所の発表によると宣伝費は11億5000万円<ref>「本,映画につづくもう一つのヒット『人間の証明』『[[サンデー毎日]]』1977年10月23日号、125頁。</ref>。
 
[[キネマ旬報#第51回(1977年度)|第51回キネマ旬報ベスト・テン]]第50位、読者選出第8位となった<ref name="cinemas1">{{cite web|url=http://cinema.ne.jp/recommend/kadokawa2016072311/|accessdate=2016-08-12|title=40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?(前編)|work=シネマズ |publisher=松竹|date=2016-07-23}}</ref><ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。配給収入は22億5000万円となり、この年の興行ベストテン第2位を記録した<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。原作小説を読んでから映画を観るか、あるいはその逆かといった意味の「読んでから見るか、見てから読むか」という宣伝文句も話題となった<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>
 
当初、棟居刑事役には[[渡哲也]]が候補にあったが、同時期撮影となる[[石原プロモーション|石原プロ]]制作のテレビドラマ「[[大都会 PARTII]]」主演が決まっていたため、断ったとのこと。[[高倉健]]から棟居刑事役で出演したいとオファーがあったが、高倉の年齢が棟居刑事の設定年齢よりかなり上の為に出演は叶わなかった(この経緯から、高倉は「[[野性の証明]]」に主演することになった)。松田優作は別の角川映画に出演していたが、撮影途中で製作中止になった経緯や、角川春樹が松田主演の映画「[[暴力教室]]」を観た際に好印象を受けており、それらで棟居刑事役は松田に決定した。棟居刑事役の設定年齢と松田の年齢とは10歳近い開きがある。
 
配給は[[東映]]であったが、興行は[[日比谷映画劇場]]をメインとした[[東宝]]洋画系チェーンが担った。その後、2000年にDVD化され、2009年に[[Blu-ray Disc|BD]]ソフト並びにデジタル・リマスター版DVDがリリースされた。[[2012年]]に改めて「角川ブルーレイ・コレクション」の一作品として[[Blu-ray Disc|ブルーレイディスク]]化された。
 
=== あらすじ (映画) ===
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* 郡陽平 - [[三船敏郎]]([[特別出演]]): 八杉恭子の夫。国会議員。
* 那須 - [[鶴田浩二]]: 警視庁捜査第一課の警部。ジョニーが殺された事件の捜査を指揮する。
 
=== 製作 ===
==== 製作決定まで ====
[[角川春樹]]は映画製作参入にあたり、各映画会社を訪問したが{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、最初に訪ねたのは、[[東映]]の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]社長の元だった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}<ref name="キネ旬20110701">{{Cite journal|和書 |author = |title = 欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 《岡田茂をめぐる七人の証言-最後の頼みの綱という心強い存在 角川春樹》 |journal = キネマ旬報 |issue = 2011年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 63-64頁 }}</ref>。鈴木常承東映洋画部長は「岡田社長から『角川社長が今度映画をやりたいそうだから、いろいろ相談に乗ってあげてくれ』と角川社長を紹介された。角川社長から『ぜひ、映画をやりましょう』と言われた」と証言している<ref name="時報198107">{{Cite journal|和書 |author = 鈴木常承(東映取締役営業部長)・佐藤真宏(東映洋画配給部長)・原田宗親 (東映洋画配給部宣伝室長) | title = 躍進する東映洋画配給部 セカンドディゲイトへ強力態勢成る |journal = 映画時報 |issue = 1981年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-19頁 }}</ref>。
 
角川春樹は1975年11月6日に[[角川書店]]社長に就任し<ref name="ベストキネ旬">{{Cite book |和書 |author = |title = ベスト・オブ・キネマ旬報 <small>〈下(1967―1993)〉</small> | chapter = 角川映画の第一次考察...映画界を活性化させた"鬼っ子"の事実 文・野村正昭/角川映画に功はあっても罪はない! 文・増当竜也/角川映画の歩み |publisher = キネマ旬報 |year = 1994 |isbn = 978-4873761015 |pages = 16–19頁 }}</ref>、映画は本を拡売するための大きな力になると判断、翌1976年1月、映画製作を目的とした[[角川映画|角川春樹事務所]]を設立した<ref name="キネ旬19900602"/><ref name="ベストキネ旬"/><ref name="キネ旬19770401">{{Cite journal|和書 |author = 名越洋 |title = ドキュメント映画『人間の証明』のすべて 1.角川事務所と東映KK |journal = キネマ旬報 |issue = 1977年4月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 89–93頁 }}</ref>。角川春樹が映画に便乗して本を出せば売れると気付いたのは、角川書店を干されていた1968年、26歳のとき、[[早川書房]]から出ていた[[マイク・ニコルズ]]監督の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[卒業 (1967年の映画)|卒業]]』の翻訳本が珍しく10万部も売れたのを見たからである<ref name="映画界のドン352"/><ref name="週刊読売19781022">{{Cite journal |和書 |author = |title = 連載(29) 佐藤陽子の『G線対談』 ゲスト・角川春樹さん 『生命力というのは野生なんですよ!』 |journal = [[週刊読売]] |issue = 1978年10月22日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 74-78頁 }}</ref>。
 
1976年5月24日に[[東京プリンスホテル]]で[[記者会見]]を行い、映画製作の進出を正式に発表し、『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』と『[[いつかギラギラする日#同タイトルの別企画|いつかぎらぎらする日]]』([[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]脚本、[[深作欣二]]監督)、『オイディプスの刃』([[村川透]]監督と発表されていた)の三本をまず製作予定と告知した{{Sfn|中川|2014|pp=26-29}}<ref name = "ムービーマガジン8">{{Cite journal|和書 |author = |title = 角川春樹氏に映画プロデュースの抱負を聞く |journal = ムービーマガジン |issue = 1976年7月1日発行 Vol.7 |publisher = ムービーマガジン社 |page = 2–3頁 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = |title = NEWS <small>OF </small>NEWS 『角川映画へ身内からクレーム 無神経なタイトルの扱いにカンカン』 |journal = [[週刊読売]] |issue = 1977年6月12日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 32 }}</ref>。『いつかぎらぎらする日』と『オイディプスの刃』はこの時は製作されなかったが、東映は『いつかぎらぎらする日』製作の過程で角川と接触を続けていた<ref name="キネ旬19770401"/>。
 
角川は1976年5月24日に映画製作第一回として『犬神家の一族』を発表し、原作の関係で配給は[[東宝]]になったが<ref name="時報198107"/>、この日に二作目として『人間の証明』を構想していることを知らされた[[東映洋画]]は{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、当時角川の制作宣伝面のアドバイザーをやっていた吉澤利夫から『人間の証明』はまだ配給会社が決まっていないという情報を得て、興行面の窓口をやっていた土橋寿男([[黒井和男]])に東映洋画で配給をやらせてくれと頼み、角川春樹にも快諾された{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}<ref name="時報198107"/>。また岡田茂東映社長も『[[創 (雑誌)|月刊創]]』1977年5月号のインタビューで、ホストの勝田健から「今度、おたくが配給面で提携することになった『人間の証明』は『犬神家の一族』で角川が大ヒットさせたもんだから、それでは、ということで横あいから乗りだしたんじゃないですか?」と言われ「いや、それはちょっと違うんですョ。わたしは[[文庫本]]のブームを角川がつくったときに、これはいけるって狙いをつけてたんです。もっと砕いて言えば、その張本人である角川春樹っていう若い経営者を買ったといえるかもしれないな。彼はどことなくスターらしい風格が滲みでていますしね」などと話し<ref name="創197705">{{Cite journal|和書 |author = 勝田健 |title = 【ざっくばらん対談】ー異色経済人登場 映画界のあばれん坊 岡田茂(東映社長) |journal = [[創 (雑誌)|月刊創]] |issue = 1977年5月号 |publisher = 創出版 |pages = 199頁 }}</ref>、自分に似て<!---<ref name="scenario197801">{{Cite journal |和書 |author = [[松田政男]] |title = アイデアが燃えあがる日 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1978年1月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 110 }}</ref>--->超[[ワンマン]]な角川を買っていた<ref name="キネ旬20110701"/><ref name="映画界のドン352">{{Cite book|和書 |author=[[新文化通信社|文化通信社]]編 |title=映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 |chapter =〔対談〕 [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]・[[松岡功]]・[[角川春樹]] 3社長『人間の証明』を大いに語る 『20億いかなかったら引退します』 |year=2012 |publisher=[[ヤマハミュージックメディア]] |isbn=978-4-636-88519-4 |page = 362–365頁 }}</ref><ref name="scenario197801">{{Cite journal |和書 |author = [[松田政男]] |title = アイデアが燃えあがる日 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1978年1月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 110 }}</ref><ref>{{Cite news|title =角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去(archive)|newspaper =[[スポーツ報知]]|date =2011-05-10|author =|url =http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm|accessdate=2020-04-02|publisher =[[報知新聞社]]|archiveurl =https://archive.is/20110528133933/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm|archivedate=2011年5月28日}}</ref>。また『映画ジャーナル』1977年8月号の[[松岡功]]・角川春樹との対談で、「戦後の邦画界は、それぞれ固定ファン層をベースに、出来る限り系統館を育成培養しながら、大量生産大量販売システムで稼ぎ上げて来た。映画がテレビに押されて稼ぎが悪くなってからも東映だけは最後までブロックブッキングのメリットを維持して稼ぎ上げて来たんですが、映画興行のあり方、映画配給のあり方が変わりつつあるといえる。去年突如、角川春樹さんが登場して、集中宣伝方式で根こそぎ動員をやらかした。こういう宣伝方式は、ブロック配給を建前とするわれわれからすると、経費増を招くばかりで[[タブー]]視されて来たんですが、それと長年何となく職人根性みたいなものがあって、いいモノさえ作れば客は来るんだという観念から抜け切れないんですね。そこへ、角川さんが億単位の宣伝費をバカスカぶち込むことを敢えて試みて、結果爆発的に当たりを示した。となるとモノがいいだけじゃ、最早ダメで、集中宣伝して全国制覇の大話題にしないと大きくは稼げん。そういう時代になったと認めざるを得ない。そういう意味で宣伝のあり方を変えんとダメだ、と実感し『人間の証明』をウチで是非扱って、時代の波の変わりざまを如実に体験したいと思ったわけです」などと述べている<ref name="映画界のドン352"/>。角川春樹は「角川は映画だけが独立して歩み出すことはありません。あくまで[[出版]]とのジョイントなくして角川映画は存在しません。この認識の上に立って映画を作るということです。第二作に『人間の証明』を選んだのは、[[横溝正史]]さんと違って森村誠一さんは[[都会]]で売れてる作家で、地方では売れてないからです。それで映画と第一作ではやれなかった[[テレビドラマ|テレビ(ドラマ)]]を今度はかませて森村さんを売りまくろうという体制です。これが『犬神家の一族』と違う点です」などと話した<ref name="映画界のドン352"/>。
 
角川は当時、自前の[[映画スタジオ|スタジオ]]や[[映画館|劇場]]を持っていなかったため<ref name="40年男201604"/>、スタジオはどこかを借りればよいにしても、映画を大ヒットさせるためには、配給に関しては全国に劇場チェーンを持つ邦画三大メジャー<ref name="mizuhosangyou">「コンテンツ産業の展望 [http://www.mizuhobank.co.jp/corporate/bizinfo/industry/sangyou/pdf/1048_03_02.pdf 第2章 映画産業]」pp.45–46、57–59 みずほ銀行 産業調査部</ref>[[東宝]]、[[松竹]]、[[東映]]のどこかと組まなくてはならなかった{{Sfn|中川|2014|p=43}}。しかし松竹は角川を「新参者」などと嫌い<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="週刊朝日19771014">{{Cite journal|和書 |author = 森田秀男 |title = 売り上げ50億を狙う"邦画十月戦争"の内幕 『八つ墓村』『人間の証明』など五つの大作・佳作が激突 |journal = [[週刊朝日]] |issue = 1977年10月14日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages = 28-30頁 }}</ref><ref name="時報197705">{{Cite journal|和書 |title = 日本映画界の大転換期 重役とMSの若返り人事と企画製作は大作主義に重点 |journal = 映画時報 |issue = 1977年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7、15-16頁 }}</ref>、角川も松竹が好きでなかったから{{Sfn|中川|2014|p=43}}、実際は東宝か東映と組むしかなかった。角川としても「特定の映画会社の系列に入っていると思われたくない」という考えがあり<ref name="読売1977313">{{Cite news |author = 西沢正史 |title = 邦画、どたん場の合理化『角川商法』も刺激に外注自由競争―人材発掘が急務 |date = 1977年3月13日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 7 }}</ref>、第一作で組んだ東宝の誘いを断り<ref name="読売1977313"/>、岡田社長を始め、角川に好意的な幹部のいる東映を選び{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}<ref name="映画界のドン352"/>、また敢えて、撮影所に[[日活撮影所]]を選んだ<ref name="読売1977313"/>。角川春樹は『映画ジャーナル』1977年8月号の岡田茂・松岡功との対談で、「興行網については、もう映画界は東宝、東映の二強時代に入ったことは間違いなくいえると思う。劇場の数、質の問題という前に、やはり経営者の決断に満ちた行動力豊かな人を得たという会社の強み、その意味で二強時代に入ったといえると思います。岡田社長にしろ松岡社長にしろ、お話ししてすぐ返事が返ってくる方ですから。二人に巡り合えたのは大変幸せで、二人の決断なくして『犬神家の一族』『人間の証明』も有り得なかったと思います」と話した<ref name="映画界のドン352"/>。
 
角川が映画に参入したとき「素人に何ができる」という声が強くあった<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="週刊朝日19771014"/>。『犬神家の一族』が大ヒットしたことで、この声は消えたが、角川に悔しさは残った<ref name="キネ旬19770401"/>。このため「第二作はそれ以上のブームを興せるものでなければ」と、第二作を何にするかは慎重に考慮された<ref name="キネ旬19770401"/>。『人間の証明』が第二作になることが正式に発表されたのは1976年11月18日に[[ジャーナリスト]]を招いて行われた『犬神家の一族』の感謝パーティの席上だった<ref name="キネ旬19770401"/>。
 
==== 製作会見 ====
映画の[[脚本]]公募は、先に[[新聞広告]]等で発表されていたが<ref name="キネ旬19770401"/>、1977年1月18日に[[帝国ホテル]]で正式な製作発表会見が行われ<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="週刊映画19770122">{{Cite news |title = 正月早々記者会見が相つぐ異色三つのそれをまづ紹介 |date = 1977年1月22日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>、角川春樹角川春樹事務所社長、渡辺寛角川春樹事務所常務、岡田茂東映社長、鈴木常承東映取締役営業部長兼洋画部長、[[登石雋一]]東映取締役企画部長、[[佐藤純彌]]監督の6人が出席<ref name="キネ旬19770401"/>。『犬神家の一族』に続く角川春樹事務所製作の第二回作品が、東映とジョイントすることが発表された<ref name="キネ旬19770401"/>。苦しい日本映画界にあって第一作『犬神家の一族』を大当たりさせたことから角川春樹の鼻息も荒く<ref name="SPA19770210">{{Cite journal |和書 | author = |title = インサイド 映画 "角川の若ダンナ"2作目の鼻イキ |journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] |issue = 1977年2月10日号 |publisher = [[産業経済新聞社]] |pages = 34 }}</ref><ref name="週刊読売19770205">{{Cite journal |和書 |author = |title = NEWS <small>OF</small> NEWS『五百万円の懸賞で札束を管理…?』 |journal = 週刊読売 |issue = 1977年2月5日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 20 }}</ref>、本一筋だった父親の路線を大幅に踏み外し「書籍、映画、演劇、テレビ、レコードと相乗り商法を行い、脚本は一般から500万円の賞金付きで募集、映画に宣伝費も含め6億円を注ぎ、[[興行収入#配給収入|配収]]17億円を目指す」などと話した<ref name="SPA19770210"/><ref name="週刊読売19770205"/>。「素人は恐ろしい」と日本映画界を震撼させた札束攻勢は空前のエスカレートぶり<ref name="週刊読売19770205"/>。また前作で不正伝票問題でプロデューサーと揉めたため、今回は金の管理は一人でやると話し<ref name="SPA19770210"/><ref name="週刊読売19770205"/>、「第一作が皆様の御支援で大ヒットしたので第二作を何にするか神経を使いました。第一作以上の可能性があるという意味で『人間の証明』を選びました。今回も書店との関連で話題を広げていくつもりです。東映と配給契約ができたことを喜んでいます」<ref name="キネ旬19770401"/>「[[ニューヨーク市警察|ニューヨーク市警]]の[[刑事]]役に、[[ロバート・レッドフォード]]、[[ダスティン・ホフマン]]、[[ジーン・ハックマン]]、[[クリント・イーストウッド]]を起用したい。日本人は[[端役]]といえども主演級を起用し、国際マーケットを狙う」などと話したため、並みいる映画記者をポカンとさせた<ref name="SPA19770210"/>。提携する岡田東映社長も「我が社が世界に売って見せる」とラッパの競演をし<ref name="週刊読売19770205"/>、「若いプロデューサーの出現は喜ばしいことだ。私は[[アシスタント]]として全面協力していく」などと話した<ref name="キネ旬19770401"/>。鈴木東映洋画部長は「洋画系のフリー・ブッキングで配給するのが角川さんとの基本的な話なので、洋画系の[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]劇場での上映を考えています。東映が預かる作品なので、前作の上を行くように全力投球します」と話し<ref name="キネ旬19770401"/>、渡辺角川春樹事務所常務から「製作費は直接費だけで4億5,000万円、映画のための宣伝費2億円、書店の関連での宣伝費が4億5,000万円」を基本に全て大掛かりに勝負していく」などの説明や<ref name="キネ旬19770401"/>、ジョニー・ヘイワード役の一般募集の発表があった<ref name="キネ旬19770401"/>。
 
同じ日に岡田東映社長が『[[キネマ旬報]]』のインタビューに答え、「角川との提携について東映の体質では難しいとの声があるが、東映はそんなに古い体質の会社ではない。『犬神家の一族』がなしたことは、映画界ではなしえなかったことだ。映画のエポックとして、今後も語り継がれて行くと思う。映画界は大きな利益を得たし、私たちは、この若いプロデューサーの出現を喜ぶとともに歓迎しなければいけない。東映は新しい才能とジョイントするということだ。東映という会社の中でのものの考え方ではなく、もっと広い意味で才能を持った人やプロの人たちとジョイントすべきで、同じことの繰り返しは[[マンネリ]]化するだけだ。『人間の証明』は、かなり前から洋画部長の鈴木が『角川さんとジョイントしたい』というので大賛成し話を進めさせたものだ。この作品はこちらからお願いする筋のものだから『人間の証明』は東宝配給と決まっていない、どことも決まっていないというので、角川さんに『ウチで配給させて下さい』と頼み、配給条件を提示した。正式なオファーはウチだけだったと思う。強い作品を持つ製作会社に配給のオファーをするのは、配給会社の義務で、強い作品を持つ配給会社に興行会社が上映のオファーをするのと同じことだ。決定する権利は『人間の証明』については角川さんが持ってる。もちろん、製作については、角川さんのやり易いように協力することにしている。『人間の証明』はウチではできない作品だ。ウチはずっと"不良性感度"で売ってきたからね。ウチの観客とは違うし、ウチの番線でやる作品ではないから、角川さんと話し合って洋画番線でやることにした。新しい形でやる。『人間の証明』は角川さんが[[エグゼクティブ・プロデューサー]]で、補佐するプロデューサーにウチの吉田達を出向させた。また[[佐藤純彌]]監督にも『ウチの使いたいスタッフをどうぞ使ってください』と言ってある」などと話した<ref name="キネ旬19770401"/>。また『映画ジャーナル』1977年8月号の松岡功・角川春樹との対談で「映画は莫大儲かるということを角川さんや[[橋本忍|橋本プロ]]が立証して見せたことだし、才能の出し方次第で誰しも参加できる、そういう仕組みを映画会社で作り上げて行くことを果たさんとイカンと思う。そういう意味でアメリカと同様、日本も[[プロダクション]]の時代がやがて来ると思います」などと話した<ref name="映画界のドン352"/>。
 
1977年3月14日には[[高田馬場]]の[[BIG BOX#BIG BOX 高田馬場|BIG BOX]]で、シナリオの当選者発表会見が行われた<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="週刊映画19770319">{{Cite news |title = 松山善三氏プロの意地投ず 角川の『人間の証明』脚本募集 |date = 1977年3月19日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。
 
1977年3月16日には[[丸の内TOEI|東映本社]]8階会議室で、岡田東映社長、鈴木東映取締役洋画営業部長兼洋画部長、[[松岡功]]東宝副社長(1977年5月社長就任)、越塚正太郎東宝興行部長が出席し、全国上映館と興行形態について共同会見があった<ref name="時報197703_4"/><ref name="週刊映画19770326">{{Cite news |title = 角川『人間の証明』全国公開東映、東宝両主脳会見発表 |date = 1977年3月26日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。配給は[[東映洋画]]であるが<ref name="avj200410"/><ref name="時報197703"/>、興行は東宝がメインというのも日本映画で初めてのケース<ref name="avj200410"/><ref name="時報197703"/><ref name="時報197703_4"/>。全国75都市、90館のうち、東宝系劇場で50館、東映系劇場が24館、その他独立系劇場で16館<ref name="時報197703"/><ref name="週刊映画19770326"/>。都市部が東宝、地方が東映という振り分け<ref name="時報197703"/><ref name="週刊映画19770326"/>。配給が東映で、興行が東宝と紹介されることが多いが、正しくは都市部が東宝、地方は東映の興行である<ref name="時報197703_4"/><ref name="週刊映画19770326"/>。このような変形システムは日本で初めて<ref name="yomiuri19770301"/>。これは『犬神家の一族』の大ヒットで角川映画が一定のブランド力を持ったからこそ可能となった"いいとこ取り"であった<ref name="40年男201604"/>。史上最大最強規模と称する配給興行網に乗せ<ref name="読売19771220"/>、かつての[[五社協定|五社体制]]は分解して興行網の力が弱まり、映画は今後、企画から上映までフォローする一種の[[ベンチャー|ベンチャア・ビジネス]]化に向かうと評された<ref name="読売19771220"/>。岡田東映社長は「今回東宝と意見が一致したのは『犬神家の一族』の教えがあったからだ。角川の爆発力というか、集中起爆のミサイル宣伝力を高く買ったからだ。それでなきゃこんな大きなチェーンを組んでやるもんか。日本に於ける最強最大のマーケットを形成することが出来たと思う。あとはシャシン次第だが、我々としては最強のマーケット、最強の宣伝力で10月興行のエクランを飾り、日本映画のレコードホルダー『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』を上廻る配収20億円台突破にチャレンジする。これだけの体制で製作公開するので、配収が20億円行かなかったら作品の出来が悪いということだ」などとブチ上げた<ref name="時報197703"/><ref name="時報197703_4"/>。東映としてもより多くの配給手数料を稼ぐためには、東映より強力な劇場チェーンを持つ東宝に興行を委託した方が得策と判断し、あえてライバル会社を指名した<ref name="読売1977313"/>。松岡東宝副社長は「興行に関しては東宝が日本一と自負してる。我々の劇場と地方都市では東映のいい劇場をミックスし、角川の宣伝力、東映の配給力、東宝の興行力の三つの力で120%の成果を上げたい」などと話した<ref name="時報197703"/>。また松岡は『映画時報』1977年4月号のインタビューで、「角川さんの才能と努力で、映画というものはやりようによっては儲かるんだという実証が出来たということは非常によいことだと思います。映画というものは斜陽で儲からない、手を出してはいかんという通説を覆したわけですから。内容によっては非常に短期間で、それほど大きな資金投資をしなくても非常に大きな利益が上がってくると、そういう仕事はあんまりありませんしね。ウチはどんな会社の映画でも、東宝として興行してみたいと思うものであれば、やりますと常々表明してますし、題材からしても、ウチの劇場に向いていると思い、やらせてもらいたいと今回は話がまとまったわけです。今後もこういうケースは出てくると思いますね。条件さえあえばね。まあ東宝、東映、松竹というのは、おのおの邦画の製作配給というのをやってるわけで、変形であったとしても、ブロックブッキングを敷いているわけです。ブロックブッキングというのは、年間を通じて東宝なら東宝の映画を劇場にいい作品を提供しますから、いつもこれ以上は上映しないで下さいという契約ですから。そこへいい映画が出来たからといって、このチェーンよりあっちのチェーンがいいから向こうへ行きますというのは大問題なわけです。しかし今回は洋画ですから。洋画というのはフリーブッキングでやってるわけですから、どこの映画がどこへ行ったって別に興行者サイドにとりましたら、それほど大問題ではないんです。今回は上に東宝と東映がくっついているから、ちょっと目新しく、大きなことのように感じるだけです」などと述べた<ref name="映画時報197704">{{Cite journal|和書 |author = 松岡功(東宝副社長・営業本部長) 訊く人・北浦馨 |title = 大東宝の77年の全作戦=大作主義の徹底化と興行網の充実を狙う= |journal = 映画時報 |issue = 1977年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 10 }}</ref>。
 
1977年3月26日、[[ホテルニューオータニ]]で、岡田茂東映社長、角川春樹角川映画社長、[[森村誠一]]、佐藤純彌他、主要キャストが全員参加し<ref name="キネ旬19770401"/>、関係者多数も含め、大々的にマスコミ発表会見が行われた<ref name="時報197703"/>。ホテルニューオータニは原作者の森村誠一がホテルマンとして勤務していたところ<ref name="キネ旬19770502">{{Cite journal|和書 |author = 名越洋 |title = ドキュメント映画『人間の証明』のすべて 3/主要キャスト決定! |journal = キネマ旬報 |issue = 1977年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 137–141頁 }}</ref>。全国から記者200人が集まった<ref name="キネ旬19770502"/>。席上、アメリカ側を含めた全てのキャスティングが発表され、直接製作費6億円余、宣伝費3億5,000万円、その他合計10億円を投入すると発表された<ref name="時報197703"/>。[[読売新聞]][[夕刊]]1977年3月1日の記事では、角川が「直接製作費4億5,000万円、宣伝費2億3,000万と秋に行う文庫本の森村誠一フェアに4億5,000万円をかけて大がかりな[[PR]]攻勢をかける。第一作『犬神家の一族』がフロックでないことを証明するため、儲けを全部つぎ込み、第一作を上回る実績を上げたい」と話したと書かれている<ref name="yomiuri19770301">{{Cite news |title = 4月、米ロケから開始―角川映画の第2弾『人間の証明』―PRまたも大がかりに |date = 1977年3月1日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 7 }}</ref>。
 
==== スタッフ ====
本作は角川映画製作、東映配給ではあるが、角川はまだ映画製作は二本目で[[ノウハウ]]は充分ではなく、製作面でも東映が大部分協力している{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}<ref name="キネ旬19770401"/>。角川春樹以外に[[映画プロデューサー|プロデューサー]]としてクレジットされている二人のうち、吉田達は東映のプロデューサーで岡田茂の[[懐刀]]<ref name="キネ旬19770401"/><ref>[http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-0404/kaiho0404-02.htm 私の新人時代 - 日本映画テレビプロデューサー協会]、[https://ja-jp.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E6%B2%A2%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%90%89%E7%94%B0%E9%81%94%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%85%A82%E5%9B%9E/315508851797110 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)]</ref><ref name="西崎">{{Cite book|和書|author=牧村康正・山田哲久|title= 宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気|publisher=[[講談社]]|year=2015|isbn =9784062196741|pages=137–138頁}}</ref><ref name="avj200009">{{Cite journal|和書|author=吉田達(株)トータルプランニング取締役副社長|title=アルバムは語る 『澤井信一郎監督デビュー』|journal=AVジャーナル |issue = 2000年9月号 |publisher=文化通信社 |page=57 }}</ref>。東映洋画に製作の人間がいなかったため{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、岡田からプロデューサー主導の映画作りの勉強に<ref name="西崎"/><ref name="avj200009"/><ref>{{Cite book|和書|editor=[[春日太一]]責任編|title=[総特集]五社英雄 極彩色のエンターテイナー|year=2014|publisher=[[河出書房新社]]|series=文藝別冊|isbn=9784309978512|pages=93-94}}</ref>、角川春樹番として<ref name="avj200009"/>、[[出向|外部出向]]させられた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="avj200009"/><ref name="西崎"/>。日本側のキャスティングは吉田達が担当し、[[決済]]を角川春樹が担った<ref name="キネ旬19770502"/>。スタッフ編成も佐藤純彌監督と吉田達が行った<ref name="キネ旬19770401"/>。佐藤は当時はフリーであったが、東映育ちである。
 
もう一人のプロデューサー、サイモン・ツェーも東映のニューヨーク出張所の紹介で{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、[[コーディネーター]]としてニューヨークロケとアメリカ側のキャスティングを手引きした<ref name="キネ旬19770401"/>。アメリカ側のキャスティング、撮影クルーの編成他、全ての費用100万ドルをサイモン・ツェーに預けた<ref name="キネ旬19770502"/>。日本映画では初めて外国人スタッフを使って撮影が行われた<ref name="時報197703"/>。
 
1976年11月に製作が決まり、最初に監督を誰にするかが角川事務所内で議論され、佐藤純彌に11月下旬に打診{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}<ref name="キネ旬19770401"/>。佐藤は[[四日市ぜんそく|四日市の公害問題]]をテーマにした企画を東映に提示していたが一蹴され、東映から干されていた時期{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。角川春樹にも興味があり{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}、東映と別のところで仕事をしたくて佐藤が原則了解した{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}<ref name="キネ旬19770401"/>。
 
スタッフ編成は異例の東映ら日活などの混合スタッフで組まれた<ref name="キネ旬19770401"/><ref name="東映キネ旬2018w">{{Cite journal|和書|author=野村正昭・増当竜也|title=【特集】 佐藤純彌監督 静かなる信念を秘めた『大作請負人』の原点|journal=東映キネマ旬報 2018年夏号|issue=2018年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|pages=8−9}}</ref>。撮影の[[姫田真佐久]]は、佐藤が[[日活]]のスタッフと一緒に仕事ができると聞き{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}、佐藤が[[今村昌平]]作品が好きで、今村作品のカメラを手掛けた姫田に頼んだ{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。この姫田が著書で「役者に演技指導しない」「本番中によそ見をする」「演出のできない監督」などと佐藤を批判した{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。
 
お互いのやり方が根本的に異なるギクシャク感で、ニューヨーク長期ロケや、キャストの麻薬事件もあり、トラブルが続出で“ミスター超大作”佐藤純彌でなければ空中分解してもおかしくない、完成できたのは奇跡的なくらい難産だったといわれる<ref name="東映キネ旬2018w"/>。 
 
==== キャスティング ====
原作では女流評論家だった[[岡田茉莉子]]が最初に決り<ref name="yomiuri19770301"/>、角川が「映画を成功させるため、どんな端役でも主演級を使いたい」と大物をリストアップ<ref name="yomiuri19770301"/>。ニューヨーク市警の刑事役には『[[ジョーズ]]』で[[警察署長]]を演じた[[ロイ・シャイダー]]を第一候補に挙げたが<ref name="yomiuri19770301"/><ref name="キネ旬19770502"/>、『[[ジョーズ2]]』撮影のため断られ<ref name="キネ旬19770502"/>、[[ジーン・ハックマン]]は内容を聞く前に妻との離婚費用に100万ドルの前金を要求したため、条件面で折り合わず<ref name="キネ旬19770502"/>。[[ジョージ・ペパード]]と[[ジョージ・ケネディ]]が最終的に残り、交渉に入ったところでケネディが「金のことより、日本映画で初めてアメリカに乗り込んで来る作品は俺にやらせろ」と名乗りを上げたため、ジョージ・ケネディに決まった<ref name="キネ旬19770502"/>。ケネディは「日本へは1952年に[[徴兵制度|兵隊]]で一年間滞在したが、その後の発展に驚いている。アメリカと組んで映画を作ることは、今や[[ヨーロッパ|ヨーロッパ諸国]]では常識。日本映画がもうアメリカと手を結ぶのは当たり前でなくてはならない時代だ。その第一作を貴殿が考えていることに敬意を払うと同時に私は必ず貴殿の意に沿うようよう全力を尽くすことを約束する」と角川春樹に[[テレックス]]で[[メッセージ]]を寄せた<ref name="キネ旬19770502"/>。他にニューヨーク市警察署長に『オール・ザ・キングスメン』で[[アカデミー主演男優賞]]を受賞した[[ブロデリック・クロフォード]]が、億万長者役に日本びいきの[[リック・ジェイソン]]がキャスティングされた<ref name="キネ旬19770502"/>。
 
日本側のキャスティングは東映の吉田達が担当し、決済を角川春樹が担った<ref name="キネ旬19770502"/>。日本側の棟居刑事役は、[[渡哲也]]が年齢的にも適役と関係者も衆目一致で、渡一本に絞って交渉したが、渡は自分を犠牲にしてでも他人に尽くす人間性から、かつて[[仁義の墓場|東映作品]]出演でオーバーワークにより死にかけた悪しき前例があり<ref name="キネ旬19770502"/>、渡主演による『[[大都会 PARTII]]』が1977年4月から計26本の契約で[[石原プロ]]は[[日本テレビ]]から全面製作の契約を交わしており<ref name="キネ旬19770502"/>、渡は石原プロの副社長という立場で社員に対する責任も大きく、一ヵ月に及ぶニューヨークロケは大きなネックで、スケジュールの調整が付かず断念した<ref name="キネ旬19770502"/>。代役候補は、[[原田芳雄]]、[[松田優作]]、[[高倉健]]、[[中村敦夫]]の四人だったが<ref name="キネ旬19770502"/>、原田は生来の[[飛行機]]嫌いでダメで、高倉健と中村敦夫はスケジュールの調整が可能な状況。通常は第一候補、第二候補の順番に出演交渉を行うが、時間がないため、高倉健と中村敦夫、松田優作にシナリオに渡して読んでもらった。松田はまだ海のものとも山のものともつかぬ位置付けだったから、ネームバリューのある高倉健をスタッフは推した。しかし配給・興行サイドは、角川映画の新しいチャレンジとして、松田をスターダムにのし上げることに賭ける方が可能性は大きく、既成のイメージのあるスターを避けた方がいいと対立した<ref name="キネ旬19770502"/>。[[中川右介]]著『角川映画 1976‐1986』には「松田優作は『オイディプスの刃』の出演者予定だった一人で、角川が以前から目を付けていた」 {{Sfn|中川|2014|pp=26-29}}『[[昭和40年男]]』2016年4月号には、棟居刑事役は「佐藤監督が『[[新幹線大爆破]]』や『[[君よ憤怒の河を渉れ#映画|君よ憤怒の河を渉れ]]』で組んだ高倉健を推したが、岡田茉莉子は棟居より年上という原作設定のため、岡田より年上の高倉では合わないとなり、角川が当時27歳の松田優作を抜擢した」と書かれてるが<ref name="40年男201604"/>、当時の文献には「角川が、岡田茉莉子、ジョージ・ケネディ、高倉健ではどうしても古臭いイメージが出ると懸念し、最終的に松田優作の抜擢を決めた」と書かれている<ref name="キネ旬19770502"/>。佐藤監督は「それまで松田優作は[[B級]]だったけど、この映画で彼をA級スターにしたいと角川さんの強い意志で抜擢が決まった。[[薬師丸ひろ子]]もそうですが、角川さんには人を見抜く目があった」と述べている{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。松田も『大都会 PARTII』にレギュラー出演しており、スケジュール調整に難航したが何とか調整をつけた<ref name="キネ旬19770502"/>。[[鶴田浩二]]の[[脇役]]での映画出演はほぼ二十年ぶりで<ref name="キネ旬19770502"/>、何度も東映で仕事をした旧知の吉田達の依頼に応えたもの<ref name="キネ旬19770502"/>。
 
出演はならなかったが棟居刑事役は、[[渥美清]]も出演交渉を行ったとする文献や<ref name="yomiuri19770301"/>、[[山口百恵]]にも出演交渉したと書かれた文献もある<ref name="yomiuri19770301"/>。その他、三島雪子役に[[笠井紀美子]]<ref name="キネ旬19770502"/>、朝枝路子役に[[秋吉久美子]]<ref name="yomiuri19770301"/><ref name="キネ旬19770502"/>、郡恭平役に[[草刈正雄]]と交渉したが条件等が合わず出演はならなかった<ref name="キネ旬19770502"/>。[[梶芽衣子]]も候補に上がったが、たった一日の撮影に[[ギャラ]]300万円を要求したため断ったと吉田達が証言している<ref name="キネ旬19770502"/>。 
 
全体的なキャスティングについて『キネマ旬報』1977年5月下旬号には「このキャストでは大作のイメージがない」と書かれている<ref name="キネ旬19770502"/>。
 
==== 脚本 ====
脚本は最初、[[長谷川和彦]]に依頼し、角川春樹が直接長谷川に交渉したが<ref>{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1976年12月下旬号 | title = 邦画新作情報 | journal = キネマ旬報 | pages = 184−185 }}</ref>、長谷川が角川に対して無礼な物言いがあって流れたといわれる<ref>『[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]』 [[日本シナリオ作家協会]]、1977年1月号、83頁</ref>。長谷川は1977年秋の映画誌のインタビューで「角川と一緒に飲んだ時、『お前金持ってんだから、小屋(映画館)作れ、映画やるんだったらその方が絶対儲かる』と俺が言ったら、奴は『そんなヤバイ事はしない』と言ったな。『ヤバイ事は』と。小屋持つと撤回しづらいからな。映画からいつでも撤退する気でいるのは小屋を持とうとしないので判るよ。奴は商売としての映画が好きなんで、映画自体が好きなんではないんだよ。作家の選び方でもそれが判るし、イエスマンとは言わないまでも、奴はプロになりきっている人間としか組まないだろう。ああいう映画作るしかないんだとなったら、金の無い奴は本当に困るし、あれがのさばり過ぎても困るよ」などと話した<ref name="mm24">{{Cite journal|和書 |author = [[小松沢陽一]] |title = 長谷川和彦インタビュー |journal = ムービーマガジン |issue = 1977年10月1日発行 Vol.24 |publisher = ムービーマガジン社 |page = 33頁 }}</ref>。
 
1976年12月初旬、高額の賞金500万円を掲げて、[[新聞広告]]等で大々的に脚本を公募した<ref name="週刊映画19770319"/><ref name="キネ旬19770501">{{Cite journal|和書 |author = 名越洋 |title = ドキュメント映画『人間の証明』のすべて 2.公募シナリオ選考会 |journal = キネマ旬報 |issue = 1977年5月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 103–108頁 }}</ref>。当時の脚本料の相場は100万~120万円<ref name="40年男201604"/>。大作映画でシナリオ公募は前代未聞<ref name="40年男201604"/>。1977年2月15日締切まで集まった応募総数669篇<ref name="週刊映画19770319"/><ref name="キネ旬19770501"/>。脚本家・監督の[[松山善三]]は「プロに対する挑戦だ」と、多くのプロのライターが変名で応募する中、堂々、本名で公募に参加<ref name="時報197703_4"/>{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。プロアマ問わずとの条件で最終選考に残ったのは、松山善三、脚本家の[[松田寛夫]]、[[山浦弘靖]]、林企太子、俳優・プロデューサーの[[岡田裕介]](現[[東映]]社長)、推理作家の[[小林久三]]のプロ6人とアマ4人の10人<ref name="週刊映画19770319"/>。選考委員は、角川春樹、佐藤純彌、[[黒井和男]]、[[白井佳夫]]、渡辺寛角川春樹事務所常務の5人<ref name="キネ旬19770501"/>。一般公募とされるが、本数が足りなかったり、良いものがないときのために角川が松田寛夫と[[神波史男]]をこっそり参加させていた{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。
 
1977年3月12日、東京[[四谷]]の[[料亭]]福田屋で、応募者の名を伏せて上記5人による選考会の模様は『[[キネマ旬報]]』707号(1977年5月1日刊行)誌上に公開された<ref name="キネ旬19770501"/>{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。最終的に3本に絞られた中で討議されたが{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}<ref name="キネ旬19770501"/>、「(公募に頼った)考えが甘かった」等、ボロクソに貶す意見が相次ぎ<ref name="キネ旬19770501"/>、黒井「監督の意見が入りやすい」角川「切りやすい」白井「たたき台にしていく方がいい」佐藤「松山さんの脚本だけ原作にない棟居がアメリカに飛ぶ設定」{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}などの理由で入選作を決定した<ref name="キネ旬19770501"/>。最優秀として松山善三に賞金500万円、入選作として小林久三と松田寛夫に各250万円が贈られた<ref name="キネ旬19770501"/>。この松山脚本を角川と佐藤と松山の三人で手直しし、基本的な脚本を完成させた<ref name="キネ旬19770501"/>。佐藤が推していたのは松田脚本だった他、作品内容が相容れない要素が多く、2018年のインタビューで「当時は毀誉褒貶が激しかったですね。最も苦労した作品、その分、思い入れも深い」などと話した{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。
 
==== 撮影 ====
撮影期間は[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ロケーション撮影|ロケ]]1ヵ月を含む約5ヵ月<ref name="40年男201604"/><ref name="キネ旬19770401"/>。1977年4月6日、[[ニューヨーク]]ロケから[[撮影#動画撮影について|クランクイン]]<ref name="yomiuri19770301"/><ref name="キネ旬19770502"/>。日本映画では初めての本格的なニューヨークロケで<ref name="40年男201604"/><ref name="キネ旬19770401"/>、日本映画で初めてアメリカの[[ユニオン]]と契約を交わし<ref name="40年男201604"/>、現地スタッフを雇用した<ref name="40年男201604"/><ref name="キネ旬19770401"/>。ニューヨークロケは準備を合わせて約40日間で<ref name="キネ旬19770502"/>、実働17日間<ref name="キネ旬19770502"/>。ニューヨークロケは当時の[[ニューヨーク市長]]まで現場に現れ、街全体がオープンセットのように何でも撮れて協力的だった{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。ニューヨークロケ中、女優のスケジュールの都合で松田とサイモン・ツェーが揉めて松田がサイモン・ツェーを殴った{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}。松田は[[執行猶予]]中だったため、この暴力沙汰は隠された{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}。また撮影中、[[岩城滉一]]が[[覚醒剤取締法]]で逮捕されたため、岩城の声は[[吹替]]になり、シナリオの修正も行われた{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。さらに[[主題歌]]を歌う[[ジョー山中]]も[[シングル]]発売予定だった1977年8月10日に[[大麻取締法]]違反容疑で逮捕されたため、テレビで歌うことはなかったが、当時は[[レコード]]自体は発売が続き、[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]でも曲が流され続け大ヒットした(最高位2位、51万枚){{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}。
 
スタジオ撮影は1977年5月24日から[[日活撮影所]]で二ヵ月半<ref name="avj200410"/>{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}。撮影が[[日活]]だったことが従来のパターンを壊したとことさら強調されるが、日活撮影所はレンタル料が安いため<ref name="キネ旬19800402">{{Cite journal|和書 |author = 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル 百恵・友和作品打ち切りの波紋| journal = キネマ旬報 |issue = 1980年4月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 172 }}</ref>、他社もよく使用していた<ref name="キネ旬19800402"/><ref name="週刊読売19820328">{{Cite journal |和書 |title = NEWS <small>OF</small> NEWS 東映撮影所で松竹作品『蒲田行進曲』撮影 |journal = [[週刊読売]] |issue = 1982年3月28日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 29頁 }}</ref>。1977年6月29日、ホテルニューオータニで[[ファッションショー]]のシーンの撮影<ref name="VM197707">{{Cite journal|和書 |author = |title = グラビア『人間の証明』 |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1977年7月号 |publisher = 東京映音 |pages = 41 }}</ref>。[[山本寛斎]]が協力したこのシーンだけで2,500万円を投入<ref name="40年男201604"/><ref name="VM197707"/>。[[岡田茉莉子]]が住む豪邸のセットは、内装から[[インテリア]]類まですべて本物を使用し製作費3,000万円<ref name="40年男201604"/>。岡田の着た衣装は撮影後、[[オークション]]にかけられた{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}。
 
国内ロケ地は1977年7月[[新潟県]][[小谷村]]<ref name="avj200410"/>。
1977年8月6日[[撮影#動画撮影について|クランクアップ]]<ref name="VM197707">{{Cite journal|和書 |author = |title = グラビア『人間の証明』 |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1977年7月号 |publisher = 東京映音 |pages = 41 }}</ref>。
 
ラストシーンでは本来無言であったはずの松田が独自に台詞を付けたいとの要望を出し{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}、佐藤監督も[[台詞]]つきのシーンを撮ったが、佐藤の判断で台詞はカットしつつも台詞を言った後の表情がとても良かったため、そちらを採用した{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。
 
=== 宣伝 ===
宣伝は角川と東映洋画で担当<ref name="avj200410"/><ref name="キネ旬19770401"/><ref name="キネ旬19831102"/>。東映は製作費を出していないため、本作は角川映画であるが『[[魔界転生#映画|魔界転生]]』『[[悪魔が来りて笛を吹く#1979年版|悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[白昼の死角#映画|白昼の死角]]』などは、東映が全額製作費を出資した東映映画になる<ref name="キネ旬19831102"/><ref>{{Cite journal |和書 |title = POST 『愛欲シーンも辞さず…』 島田陽子が角川映画で脱皮演技 |journal = [[週刊明星]] |issue = 1979年1月14日号 |publisher = [[集英社]] |pages = 59 }}</ref>。角川春樹は『映画ジャーナル』1977年8月号の岡田茂・松岡功との対談で、「宣伝費は東映サンに3億5,000万~4億円をお任せします。レコードを出す[[ワーナー・パイオニア]]に2000万円、これはラジオスポットに全部投入します。他にジョー山中の[[リサイタル]]費用や全国キャンペーン、それに角川書店側として"森村フェア"の[[キャンペーン]]に5億円使いますので、計9億円の宣伝費になります。本は1,000万部突破しても採算が合わんのですよ。今後10年間は森村さんの本が売れ続けるだろうという採算点がひとつ。森村誠一さんと言えば角川だとイメージ付けするのが目的です。宣伝費は[[経費]]で落ちますし、今年は10億円余の[[税金]]を納めましたし、今は余裕があるので使っちゃおおうということです」などと話している<ref name="映画界のドン352"/>。角川春樹事務所の発表によると宣伝費は11億5000万円<ref>「本,映画につづくもう一つのヒット『人間の証明』『[[サンデー毎日]]』1977年10月23日号、125頁。</ref>。角川春樹は『昭和40年男』のインタビューで「『人間の証明』の宣伝費は4億円」と述べている<ref name="40年男201610">{{Cite journal|和書 |author = 濱口英樹 |title = 昭和40年男たちの青春映画を作った男 角川春樹インタビュー |journal = 昭和40年男 |issue = 2016年10月号 vol.39 |publisher = クレタパブリッシング |pages = 8–11頁 }}</ref>。映画公開時、公開直後の文献には『人間の証明』の製作費は6億7000万円<ref name="週刊朝日19771014"/>、宣伝費が映画5億4000万円<ref name="読売19771220">{{Cite news |title = 映画界今年の回顧 担当記者座談会 『収入は洋画と五分に だが大半は相変わらずの四苦八苦 |date = 1977年12月20日 |newspaper = 読売新聞夕刊 |publisher = 読売新聞社 |page = 9 }}</ref>、映画4億円<ref name="週刊朝日19771014"/><ref name="ロードショー197710">{{Cite journal | 和書 |author = |title = 邦画マンスリー 邦画トピックス |journal = ロードショー |issue = 1977年10月号|publisher = 集英社 |page = 189 }}</ref>、書籍7億円<ref name="読売19771220"/>、書籍5億円<ref name="ロードショー197710"/>、ラジオ2000万円<ref name="ロードショー197710"/>、チラシなどを含めると10億円を越えるなどの記述がある<ref name="ロードショー197710"/>。同時期公開の東映本番線(邦画系)は『[[ボクサー (1977年の映画)|ボクサー]]』だったが、『人間の証明』のテレビ[[スポットCM]]は4,000回、ラジオスポットCMは1,000回と『ボクサー』の15倍<ref name="週刊朝日19771014"/>。この他、[[タクシー]]に『安全の証明』[[ステッカー]]を貼ってもらい<ref name="週刊朝日19771014"/>、[[ぺんてる]]に『品質の証明』<ref name="週刊朝日19771014"/>、[[白元]]に『パラゾールの証明』という[[宣伝文句]]を持ち込み<ref name="週刊朝日19771014"/>、[[霊友会]]の家族の日に「感謝してますか生命の証明」という[[標語]]を使ってもらうなど[[ユニーク]]な[[プロモーション]]もあった<ref name="週刊朝日19771014"/>。
 
[[マンハッタン]]を背景に顔を黒塗りにした子どもの顔が浮かび上がる[[ポスター]]デザインは<ref>{{Cite web|url=http://db.eiren.org/contents/04310155801.html|title=人間の証明|publisher=[[日本映画製作者連盟]]|accessdate=2020-4-2}}</ref>、エースの高木巌ディレクターがジョー山中の息子の顔(幼少のジョニー・ヘイワードとして出演する山中ひかり)を見て思いついたもの{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}。洋画興行界には、黒人映画は当たらないという[[ジンクス]]が当時あり、リスキーなポスターであった<ref name="映画界のドン366">{{Cite book|和書 |author=[[新文化通信社|文化通信社]]編 |title=映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 |chapter = 『犬神家』に倍するスケール 東映取締役営業部長兼洋画部長 鈴木常承 |year=2012 |publisher=[[ヤマハミュージックメディア]] |isbn=978-4-636-88519-4 |page = 366頁 }}</ref>。原作小説を読んでから映画を観るか、あるいはその逆かといった意味の「読んでから見るか、見てから読むか」や「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」「ママ―、ドゥ・ユー・リメンバー」といった大量の予告CMが[[お茶の間]]に流れ、これらの[[フレーズ]]が頭にこびりつくほどで、[[ドリフターズ]]の番組などで「〇〇さん、僕の××、どうしたでしょうね?」という[[パロディ]]が演じられるほど話題を呼び<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>、かつては映画の競合媒体とみなされたテレビの力によって[[社会現象]]にまで高められた<ref name="40年男201604"/>。巨額な宣伝費でテレビをフル活用して[[キャッチコピー]]を流行らせる手法は本作から始まった<ref name="キネ旬19831102"/>。
 
岡田茂東映社長は、角川春樹・[[斎藤守慶]]との経済誌での対談で、「ウチも含めて各映画会社とも宣伝部が[[マンネリ]]になっていたと思う。宣伝費は[[新聞]]へいくら、[[ポスター]]にいくらと決まっていた。『もっと宣伝しなくちゃダメだ』と言いながら、『いやそんなことより重要なのは映画そのものだ。いいものさえ作っておればお客は来るんだ』という職人的観念の流れがずっと続いていた。[[家電]]でも[[自動車]]で[[食料品]]・[[ウィスキー]]とか他の業界では、宣伝マンに非常に有能な人を登用する。それが映画会社にはなかった。そこへ、角川社長なる者が現れて大宣伝戦を始めて、方法もテレビ中心で、一大[[センセーショナル]]を起こした。『読んでから見るか、見てから読むか』とか、何でもないようだけど、従来の映画人には、この発想ができないんだね。『製作費3,000万円、宣伝費6,000万でいこう』などと言おうものなら『そんな金があるなら製作費に回せ、宣伝費は2,000~3,000万円でいい』というのが今までの流れで、だいいち『宣伝費に2億円使っていいぞ』と言われても、使う方法が分からないわね」などと<ref name="東洋経済19771112">{{Cite journal|和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]・[[角川春樹]]・[[斎藤守慶]] | title = 対談『映画産業は甦ったか』 |journal = [[週刊東洋経済]] |issue = 1977年11月、12月号 |publisher = [[東洋経済新報社]] |pages = 62–69頁 }}</ref>、岡田に出向させられた吉田達プロデューサーは「われわれ現場で育ったものから見ると、あくまで撮影が主であるという考えがありますが、宣伝が一番大事だという考えは、東映を含めて大手映画会社にないもので驚きました」などと話した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}。またそれまで監督や出演俳優による舞台挨拶や、地方テレビ局回りなどの全国宣伝キャンペーンは、比較的ゆるやかなスケジュールが組まれていたが{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、角川がタイトなスケジュールにするよう指示し{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}、以降それが定番化したとされる{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=258-259}}。
 
=== 配給と興行 ===
超大作で長期宣伝の構えであっても、当時劇場や[[書店]]等で配布される[[チラシ|映画チラシ]]に館名を入れていたため、1977年秋の公開なら1977年2月末には劇場チェーンの目途を付けたいところであった<ref name="キネ旬19770401"/>。日本の二大洋画興行網は東宝のTYチェーンと、[[松竹]]、[[東急レクリエーション]]、[[東映洋画]]で組むSTチェーンであったが<ref name="キネ旬19770401"/>、配収目標を20億円に置く角川の意向に応えるため、東映洋画は当初、STチェーンでの拡大公開を目指していたが、STチェーンには同じ秋に松竹製作・配給の『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』があり、STチェーンの劇場をフル活用できない状況にあった<ref name="キネ旬19770401"/>。角川の興行アドバイザー・[[黒井和男]]は配給などの相談で毎日東映に来ていたという<ref name="キネ旬19831102">{{Cite journal | 和書 | author = [[山田宏一]]・[[山根貞男]] |date =1983年11月下旬号 | title = 関根忠郎 噫(ああ)、映画惹句術 第四十六回 | journal = キネマ旬報 | publisher = キネマ旬報社 | page = 127 }}</ref>。角川から「都市部は劇場網が充実している東宝で興行をやってもらえないか」と岡田東映社長に申し入れがあり<ref name="キネ旬20110701"/>、岡田はそれを面白がって了承し<ref name="キネ旬20110701"/>、1977年1月5日に角川春樹と松岡功東宝副社長との話し合いが持たれ、興行のアプローチが松岡から角川にあり<ref name="キネ旬19770401"/>、これを受け、1977年2月23日、岡田東映社長が松岡東宝副社長を銀座東急ホテルに招き「『人間の証明』を東宝の[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]劇場で上映して欲しい」と申し入れ、松岡が原則了承し東映配給の『人間の証明』は東宝の洋画館でのメインでの公開が決まった<ref name="キネ旬19770401"/>。東宝の[[興行収入]]は40%から60%といわれ<ref name="時報197705"/>、儲けの約半分をガッポリ<ref name="週刊朝日19771014"/><ref name="時報197705"/>。東宝は同時期に自社で大作を製作せず、邦画本番線では『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』を[[リバイバル|リバイバル公開]]し高笑いした<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 大作、大宣伝だけでヒットする? なお一層難しくなってきた企画製作 |journal = 映画時報 |issue = 1977年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 33 }}</ref>。付帯収入が大きいとはいえ<ref name="時報197705"/>、東映の配給手数料は僅か<ref name="時報197705"/>。岡田東映社長がこれを認めたのは、東映も将来的には東宝のように配給中心になることを予想し、内部的にも整理していこうという考えがあったからである<ref name="時報197705"/>。岡田と松岡は仲が良く<ref name="VM197705">{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 ポスト城戸体制の松竹はどうなる? |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1977年5月号 |publisher = 東京映音 |pages = 19 }}</ref>、「他の会社なら決りやしないよ。[[映画館|コヤ]]に話を持ってたって拒否されるに決まってるよ。直営館持ってなかったら決りゃしないね。私と松岡さんが会えば即決だよ。東映と東宝の提携だと思ってくれたらいい。まあこれだけの直営、パッと揃えられる東宝サンに舌を巻きましたよ」などと述べ<ref name="映画界のドン352"/>、岡田は「オレと松岡社長が組んだら日本の映画界はほとんどわがものになる」と公言していたため<ref name="VM197705"/>、"映画界のドン"といわれた[[城戸四郎]]松竹、及び[[映連]]会長が1977年4月18日に急逝し、松岡功が1977年5月、東宝社長に就任。この提携劇は、かねてから業界で囁かれていた岡田=松岡時代の本格到来の始まりでもあった<ref name="VM197705"/>。
 
『八つ墓村』は、松竹の製作・配給ながら、劇場は先に説明した東映洋画を含むSTチェーンで公開されるため、結果、東宝の劇場に出る映画を東映が宣伝し、東映の劇場に出る映画を松竹が宣伝するという、日本映画史上空前絶後の奇妙な映画興行が行われた<ref name="読売1977313"/>。これらは当時どん底まで落ちた日本映画が、徹底した合理化で立ち直った[[ハリウッド]]を見習いようやく動き出したなどと評された<ref name="読売1977313"/>。
 
=== 作品の評価 ===
;興行成績
角川春樹は[[興行収入#配給収入|配収]]17億円、岡田東映社長は15億円と配収の賭けをしていたが<ref name="SPA19770210"/>、二人の予想を上回る配収22.5億円を記録<ref name="kai80"/>、この年の興行ベストテン第2位を記録した<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。前年秋の角川映画第一弾『犬神家の一族』を上回った<ref name="40年男201604"/>。角川は「東映さんと東宝さんに日本一の興行チェーンを提供して頂くことが出来たんで、配収20億行かなかったら、ボクは映画界から足を洗って、自分の才能に見切りをつけて、出版の方に戻る決意をしています」と公言していたが<ref name="映画界のドン352"/>、映画を引退しないで済んだ。
 
;テレビ放送
1978年10月6日にフジテレビ系列でテレビ放送された際には視聴率35.7%(関東地区、[[ビデオリサーチ]])を記録、映画放送としては歴代7位、日本映画としては歴代5位である<ref>{{Cite web |url=https://www.videor.co.jp/tvrating/past_tvrating/movie/01/index.html |title= 映画高世帯視聴率番組 |accessdate=2020-04-03 |date= 不明|website=ビデオリサーチ |publisher= 株式会社ビデオリサーチ }}</ref>。
 
;作品評
* [[キネマ旬報#第51回(1977年度)|第51回キネマ旬報ベスト・テン]]第50位、読者選出第8位となった<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/><ref name="cinemas1">{{cite web|url=http://cinema.ne.jp/recommend/kadokawa2016072311/|accessdate=2016-08-12|title=40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?(前編)|work=シネマズ |publisher=松竹|date=2016-07-23}}</ref>。
 
* [[朝日新聞]]が1977年10月12日の夕刊で「巨額の製作費も派手な宣伝もいささかむなしい感じ。松田優作の演技はこっけい。ストーリーは出来過ぎ。見てから読む気になるかどうか。結局は読み捨て文庫の域を越えていない」などと『犬神家の一族』に続いて酷評し{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}『[[週刊文春]]』は「[[日航]]のツルのマークのアップ、[[山本寛斎]]の[[ファッションショー]]が延々と続くなど、[[タイアップ]]のために不必要に長い場面が多い。主演の松田優作は、終始不機嫌な表情で場違いなほど横柄な態度で、いんぎんな刑事たちの中で一人浮き上がり、[[太陽にほえろ!|テレビドラマのジーパン刑事]]そのままで何とも異様。原作者の森村誠一から[[深作欣二]]、[[今野雄二]]、[[小川宏]]、[[露木茂]]に田村順子が本職「クラブ順子」[[ママ#飲食店主|ママ]]として登場と、ゲスト出演と称するシロウトさんたちの登場には客席から失笑が起きた。主演の岡田茉莉子は角川春樹氏が常々『ボクの[[オナペット]]だった人』と言い、ごひいきばかり集めたこの映画そのものが角川氏の"旦那芸"であることを証明した。それにしても気になったのは、ジョー山中扮する黒人混血児がなぜ麦わら帽子と西條八十詩集に執着するのか、映画ではよく分からない。やはり原作を『読んでから見ろ』というワケか」などと叩き<ref>{{Cite journal |和書 |author = |title = This Week 大量ゲスト出演が証明する角川春樹の『旦那芸大作』 |journal = [[週刊文春]] |issue = 1977年10月27日号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}</ref>、[[小森和子]]は雑誌の映画評で「日米合作としては違和感のない出来上がり。ただすべてが唐突な筋立て」{{Sfn|中川|2014|pp=54-74}}、[[脚本家]]の[[石堂淑郎]]は新聞批評で「脚本を重視し、それがすばらしければ映画も良いものになるはずと誤認したのが失敗の原因」などと酷評した他、「冒頭のファッションショーが長過ぎ」{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}、中身がない等<ref name="40年男201610"/>、滅多に悪く批判しない[[映画評論家]]まで、映画作品としての密度の希薄さを指摘し、大半の映画評論家が酷評した<ref name="ベストキネ旬"/><ref name="40年男201610"/><ref name="週刊読売19771203">{{Cite journal |和書 |author = |title = NEWS<small>OF</small>NEWS『森村誠一氏、映画評論家に挑戦』 |journal = 週刊読売 |issue = 1977年12月3日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 30 }}</ref>。批判の多さに原作者の森村誠一が激怒し、『森村誠一長編推理選集』第二巻の月報で映画評論家を猛烈に批判した<ref name="週刊読売19771203"/>。森村の反論は「作品中の[[リアリティー]]と[[現実]]を混同したり、輪舞形式をとった設定をご都合主義と評したりするのは筋違いの批評...映画評論家は悪口書いて、金をもらっている気楽な稼業。マスコミ寄生人間の失業対策事業で、[[マスコミ]]の[[ダニ]]」など痛烈なものだった<ref name="週刊読売19771203"/>。また配給を担当した岡田茂東映社長が、本作が当時の[[映画の賞#日本|主たる映画賞]]で無視されたことに腹を立て<ref name="文春19780223">{{Cite journal |和書 |author = |title = This Week サル真似と嗤われながらも『日本アカデミー賞』の発足 |journal = [[週刊文春]] |issue = 1978年2月23号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}</ref>、1978年2月8日に[[帝国ホテル]]であった『[[日本アカデミー賞]]』の設立発表会見で、それまで[[映画評論家]]や[[新聞]]・[[雑誌]][[記者]]など[[ジャーナリスト]]が選んでいた既存の[[映画の賞|映画賞]]をコケにする発言を行い<ref name="文春19780223"/>、「『日本アカデミー賞』は、実際に日本の映画製作に従事する映画人が選ぶ『映画人による映画人のための賞』で、映画人が主催者である」と力説した<ref name="文春19780223"/><ref>{{Cite journal|和書 |title = トピックス 日本アカデミー賞の全貌きまる |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1978年2月号 |publisher = 東京映音 |pages = 11 }}</ref>。
 
* 偶然に次ぐ偶然によってクライマックスのお涙頂戴になだれこむ展開は、[[大映]]が戦後直後に「三倍泣けます」「ハンカチをご用意ください」のキャッチフレーズでヒットさせた[[三益愛子]]の「母物」の再来だと批判されたが、角川春樹は[[石上三登志]]との対談で、「まさにそれをこそ狙った」<ref>『季刊映画宝庫/日本映画が好き!!!』([[芳賀書店]]、1978年刊)</ref>「国際スケールの母もの映画を作った」などと話している{{Sfn|佐藤|2018|pp=228-246}}。
 
=== 影響 ===
本作『人間の証明』で良くも悪くも角川映画の評価は定まってしまい<ref name="ベストキネ旬"/>、[[1990年代]]に於いても[[固定観念]]を拭い去ることは出来なかった<ref name="ベストキネ旬"/>。
 
[[東映洋画]]は同じ年の8月『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』に続く邦画配給の成功で、洋画邦画問わず、東映本体以外の作品を配給する傾向を強めていった<ref name="クロニクル東映2">{{Cite book |和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]] |title = クロニクル東映 1947-1991 |year = 1992 |volume = 2 |publisher = [[東映|東映株式会社]] |pages = 65 }}</ref>。また本作を切っ掛けに角川春樹事務所との提携が深まっていった<ref name="クロニクル東映2"/>。
 
=== ソフト状況 ===
2000年にDVD化され、2009年に[[Blu-ray Disc|BD]]ソフト並びにデジタル・リマスター版DVDがリリースされた。[[2012年]]に改めて「角川ブルーレイ・コレクション」の一作品として[[Blu-ray Disc|ブルーレイディスク]]化された。
 
{{佐藤純彌監督作品}}
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|editor=|date=2007-07|title=キネマ旬報ベスト・テン80回全史 1924-2006|series=[[キネマ旬報]]ムック|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873766560|ref={{Harvid|80回史|2007}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873767550|ref={{Harvid|85回史|2012}}}}
* {{CitationCite book|和書 |editorauthor=|date=2018年11月23日[[中川右介]]|title=角川映画監督 佐藤純彌1976‐1986 映画 (シネマ) よ憤怒の河日本渉れ変えた10年|seriesdate=2014-3 |publisher=DU BOOKS[[角川マガジンズ]]|isbn=9784-4866470764047-31905-8|ref={{SfnRef|year=2018中川|last=|first=2014}}}}
* {{Cite book|和書 |editor=東映株式会社総務部社史編纂|title=東映の軌跡|date=2016-3 |publisher=[[東映株式会社]]|ref={{SfnRef|東映の軌跡|2016}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2018-11|title=映画監督 佐藤純彌 映画 (シネマ) よ憤怒の河を渉れ|series=|publisher=DU BOOKS|isbn=978-4866470764|ref={{SfnRef|佐藤|2018}}}}
 
== 関連項目 ==