「マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ」の版間の差分

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| 死亡日 = [[1605年]][[69月20日]]([[旧暦]][[69月10日]])
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'''マリヤ・グレゴリエヴナ・スクラートヴァ=ベリスカヤ'''([[ロシア語]]:Мария Григорьевна Скуратова-Бельская / [[英語]]:Maria Grigorievna Skuratova-Belskaya, ? - [[1605年]][[69月20日]]([[旧暦]][[69月10日]]))は、[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ボリス・ゴドゥノフ]]の皇妃([[ツァリーツァ]])。[[クセニヤ・ゴドゥノヴァ]]、[[フョードル2世]]の母でもある。
 
==生涯==
[[File:Makovsky False Dmitrys agents murdering Feodor Godunov and his mother 1862.jpg|thumb|left|殺害されるマリヤとフョードル2世。マリヤにすがるクセニア。]]
[[イヴァン4世]]のお気に入りだった[[オプリーチニキ]]の首領[[マリュータ・スクラートフ]]の娘だった彼女は、[[1570年]]あるいは[[1571年]]に当時はまだ無名だったオプリーチニキ隊員のボリス・ゴドゥノフと結婚した。
 
その後、ボリスは次第に出世していき、[[1584年]]にイヴァン4世の息子[[フョードル1世]]の摂政となり、[[1598年]]にはフョードル1世の死を受けてツァーリとなり、彼女は皇妃(ツァリーツァ)となった。
 
だが、当時のロシアは大飢饉が相次ぐなど政情不安が急速に拡大していた時代であった([[動乱時代]])。脆弱な基盤しかもたない新興の統治者だったこともあり、ボリスはこれに有効な対処ができず、彼の新たな治政は早々に失望と反感を買うこととなった。1605年にボリスがわずか16歳の息子のフョードル2世が後を継ぐと[[ゴドゥノフ家を見限る人々が相次ぎ、フョードル2世]]急速に支持を失う一方反乱を起こした僭称者[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]の力が強まることとなった。
 
同年その後6920日に偽ドミトリー[[モスクワ]]に入城。直後にフョードル2世とした際、その家族は逮捕され命令によってマリヤは息子のフョードル2世とともされた。
 
==参考文献==