「ソビエト連邦による戦争犯罪」の版間の差分

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==樺太==
{{正確性|date=2019年1月|section=1|信頼できる情報源(中山)で「戦争犯罪」についてはなにもいません。}}
{{Main|樺太の戦い (1945年)}}
終戦後の[[1945年]][[8月16日]]早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、[[艦砲射撃]]と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始、塔路の町も焼失。[[阿部庄松]]塔路町長らはソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて[[人質]]に取られ、後に射殺された遺体となって発見された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な[[機銃掃射]]を受けて死傷者が続出した<ref>中山(2001年)、142-143頁。</ref>。上恵須取の町も[[8月17日]]午後に空襲を受けて焼失。[[8月20日]]の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始。日本軍は8月16日に郊外へ兵を引き上げ武装解除待ちの状態であり、市街地で攻撃目標にされたのは民間人だった<ref name="nakayama158">中山(2001年)、158-159頁。</ref>。ソ連軍は町長以下町の重役たちを占領当日海岸に連行し銃殺。町長は重傷だったが辛くも生還することができたという<ref name="nakayama158" />。日本軍が派遣した停戦軍使らも射殺される異常事態であった<ref name="Nakayama160">中山(2001年)、160頁。</ref>。また、真岡近郊では裸の若い女性の遺体が転がっているのも目撃されており、[[真岡郵便電信局事件]]も発生。[[8月22日]]未明、[[知取町]]で停戦が成立していたにもかかわらず豊原も白昼に空襲を受けた。[[豊原駅 (樺太)|豊原駅]]には[[白旗]]が掲げられ、避難民があふれる広場の救護所には[[赤十字]]の対空標示があったが、何度も攻撃され100名以上が死亡、400戸が焼失<ref>中山(2001年)、175頁。</ref>。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った<ref name=sankei20100902>「[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/europe/435529/ “解放戦争”の現実 白旗に猛爆撃 サハリン残留日本人]」 [[産経新聞]] 2010年9月2日。</ref>。同月22日にはソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属の[[L-19 (潜水艦)|L-19]]と[[L-12 (潜水艦)|L-12]]の2隻の潜水艦が、避難民を乗せた引き揚げ船を雷撃し、1700名以上が殺害された([[三船殉難事件]])。国籍を秘した潜水艦は沈没した船から海に投げ出された人々に[[機銃掃射]]でとどめを刺した<ref name=sankei20151108a>{{Cite news|title=娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」|newspaper=産経新聞社|date=2015-11-08|author=文化部編集委員 喜多由浩|url=http://www.sankei.com/world/news/151108/wor1511080003-n1.html|language=日本語}}</ref>。民間人の死者は三船殉難を含め3,500-3,700人と推定されるが、正確な人数は不明<ref> 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、179頁。</ref> 。