削除された内容 追加された内容
ノート参照。(一週間反論が無かったので、合意が取れたものとします)
4行目:
戦中は前線勇士の[[武勇伝|武勇談]]として賞賛されたが、戦後は[[南京事件]]を象徴するものとして<ref>{{Cite news | url = http://www.sankei.com/politics/news/160805/plt1608050013-n3.html | title = 【新閣僚に聞く(詳報)】稲田朋美防衛相詳報(4) 南京事件「百人斬りはなかったと思っています」「30万人、40万人という数がどうであったかは重要」(3/5ページ) | work = 産経ニュース | publisher = [[産経新聞]] | date = 2016-08-05 | accessdate = 2016-08-28 }}</ref>非難された<ref name="Mainichi Showa Chronicle">『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』[[毎日新聞社]]、 1989年3月5日発行、ISBN 4-620-80210-7、178頁。</ref>。戦後、[[本多勝一]]の『中国の旅』で紹介され、これに対して[[鈴木明]]が『「南京大虐殺」のまぼろし』、[[山本七平]]が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった<ref name="原2002-88">原 (2002)、88頁。</ref>。山本に対して[[洞富雄]]が反論したが、「百人斬り」が実際に行われたということは論証されていない<ref name="原2002-88"/>。
 
{{要検証範囲|title=1. 特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成。2. 主語が無い。3. 論争・紛争当事者のものなので、導入部分で『百人斬りなく主張の部分に移す必要がある。|戦時中の新聞報道では、百人斬りは「戦闘中の敵兵殺害」と表現されているが、『百人斬りは本当は捕虜を斬った』と野田少尉が自ら公言していたことが戦後明らかになっている。<ref>「政経研究」第42巻第4号 日本大学法学部南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 P38P94 </ref>、『野田少尉と向井少尉が抵抗なき農民を斬っており、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道された』<ref>私の支那事変(私家版)』(P42-45)</ref>資料の存在が戦後明らかになっている。|date=2020年3月}}
遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、[[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[本多勝一]]などの勝訴が確定している。<ref>朝日新聞 2006年12月23日</ref>判決で、「両少尉が浅海記者ら新聞記者に話したことが契機となり、『百人斬り競争』の記事が作成されたことが認められる」と判定されている。<ref>「百人斬り競争と南京事件」 笠原十九司P202</ref>
 
遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、[[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[本多勝一]]などの勝訴が確定している。<ref>朝日新聞 2006年12月23日</ref>
 
== 当時の報道 ==
14 ⟶ 13行目:
|-
!1||東京日日新聞     
|<第1報> 昭和12年11月30日 || 向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。[[無錫]]から初めて現在65対25([[常州]]でのインタビュー記事)(常州にて29日、浅海、光本、安田)
|-
!2||東京日日新聞
|<第2報> 昭和12年12月4日 || 2日午後6時[[丹陽市|丹陽]]入城までに・・・常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷([[丹陽市|丹陽]]にて3日浅海、光本)
|-
!3|| 東京日日新聞
|<第3報> 昭和12年12月6日 || 「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78([[句容]]にて5日浅海、光本)
|-1
!4|| 東京日日新聞
| <第4報>昭和12年12月13日 || [[紫金山]]攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼[[中山陵]]を眼下に見下す(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)
|-
!5|| 鹿児島毎日新聞
53 ⟶ 52行目:
この競争は地元で英雄譚として、大いに称賛された。[[鹿児島市]][[鹿児島市立草牟田小学校|草牟田尋常小学校]]の副教材では百人斬り競争をとりあげ、「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」と紹介された<ref>早川タダノリ『「愛国」の技法: 神国日本の愛のかたち』(青弓社){{要ページ番号|date=2014-10-04}}</ref>。
 
野田は、地元の小学校、中学校で、多くの{{要検証範囲|title=「百人斬り講」とを行う用語の典拠はあるのか?|「百人斬り講演」|date=2020年3月}}競争について話行っ<ref>秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』「政経研究」第42巻第4号 P94</ref><ref>鹿児島新聞 昭和13年3月21日</ref><ref>鹿児島朝日新聞昭和13年3月22日</ref><ref>鹿児島新聞 昭和13年3月26日</ref><ref>南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 P36 </ref>
 
== 百人斬りの歌 ==
百人斬りの歌は、百人斬り競争を行った[[野田毅 (陸軍軍人)|野田毅]]少尉、[[向井敏明]]少尉
両名を讃える歌。作者は両少尉の同僚、第九連隊第一大隊副官の六車政次郎少尉である。
野田少尉は地元の友人中村碩郎に百人斬り競争を自慢する手紙を送っているが、その手紙の中で紹介されている。
<ref>大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版1938年1月25日</ref>
野田少尉は地元鹿児島の田代に帰って来た後、田代村尋常高等小学校で百人斬り競争に対する講演を行っているが、
そこで当時の小学生が皆で百人斬りの歌を歌った。<ref>笠原十九司 「百人斬り競争」と南京事件 P209</ref>
 
=== 内容(抜粋) ===
 
  百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
: 一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
: 二、軍刀枕に露営の夢に、飢えて血に泣く声がする
: (三以降省略)
 
== 南京軍事法廷 ==
125 ⟶ 139行目:
#本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った<ref>44頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年</ref>。
 
=== その他 ===
#[[原剛]]によれば、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」という<ref name="原2002-88"/>。
 
==== 佐藤振壽の証言 ====
166 ⟶ 178行目:
*[[開高健]]「ジャーナリズムの幼稚と無責任をうまくついた作品で・・もっと正面から告発してもよかった」
*[[小田実]]「百人斬りというような事件は、真実には、それ自体はたしかになかったものにちがいない」<ref>42頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会 2007年</ref>
 
=== その他 ===
#[[原剛]]によれば、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」という<ref name="原2002-88"/>。
 
== 名誉毀損裁判 ==