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1行目:
{{複数の問題|ソートキー=人0685年没
| 出典の明記 = 2012年5月
| 参照方法 = 2012年5月
| 独自研究 = 2012年5月
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{{基礎情報 君主
| 人名 = マルワーン1世
| 各国語表記 = مروان بن الحكم
| 君主号 = [[ウマイヤ朝]][[第4代カリフ]]
| 画像 =
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| 画像説明 =
| 在位 = [[684年]][[6月]] - [[685年]][[4月]]もしくは[[5月]]
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| 全名 配偶号 =
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| 全名 = アブー・アブドゥルマリク・マルワーン・イブン・アル=ハカム・イブン・アビー・アル=アース・イブン・ウマイヤ・イブン・アブド・シャムス{{sfn|Kennedy|2004|p=397}}
| 出生日 = [[623年]]もしくは[[626年]]
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| 死亡日 = {{死亡6854日と没年齢|623|3|28|685|もしくは5|7}}
| 没地 = [[ダマスカス]]または{{仮リンク|シンナブラ|en|Al-Sinnabra}}
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| 継承形式 =
| 配偶者1 = アーイシャ・ビント・ムアーウィヤ・イブン・アル=ムギーラ
| 配偶者1 =
| 配偶者2 = ライラー・ビント・ザッバーン
| 配偶者3 = クタイヤ・ビント・ビシュル
| 配偶者4 = ウンム・アバーン・ビント・ウスマーン・イブン・アッファーン
| 配偶者4 =
| 子女 配偶者5 = [[アザイナドゥ・ビント・ウママリク]]<br>ブド=マフズ<br>ムハンマドイヤ
| 配偶者6 = ウンム・ハースィム・ファーヒタ
| 王家 = [[ウマイヤ家]]
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| 配偶者10 =
| 子女 = [[アブドゥルマリク]]<br>{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・イブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}<br>ムアーウィヤ<br>{{仮リンク|ビシュル・イブン・マルワーン|label=ビシュル|en|Bishr ibn Marwan}}<br>{{仮リンク|アバーン・イブン・マルワーン|label=アバーン|en|Aban ibn Marwan}}<br>ウスマーン<br>{{仮リンク|ウバイドゥッラー・イブン・マルワーン|label=ウバイドゥッラー|en|Ubayd Allah ibn Marwan}}<br>アイユーブ<br>ダーウード<br>ウマル<br>{{仮リンク|ムハンマド・イブン・マルワーン|label=ムハンマド|en|Muhammad ibn Marwan}}
| 王家 = マルワーン家
| 王朝 = [[ウマイヤ朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = {{仮リンク|アル=ハカム・イブン・アビー・アル=アース|en|Al-Hakam ibn Abi al-As}}
| 母親 = アーミナ・ビント・アルカマ・アル=キナーニーイヤ
| 母親 =
| 宗教 = [[イスラム教]][[スンナ派]]
| サイン =
}}
'''マルワーン1世'''(マルワーンいっせい、マルワーン・イブン・アル=ハカム・イブン・アビー・アル=アース・イブン・ウマイヤ, {{rtl翻字併記|ar|مروانبنالحكمبنأبيالعاصبنأمية|Marwān ibn al-Ḥakam ibn Abī al-ʿAs ibn Umayya}}, [[623年]]もしくは[[626年]] - [[685年]]4月もしくは5月)は、[[684年]]から685年にかけて一年に満たない期間在位した第4代の[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]]である。マルワーン1世は、イスラーム世界の[[第二次内乱]]期にカリフの地位を失ったスフヤーン家に代わりウマイヤ朝の王家となったマルワーン家を興し、マルワーン家は[[750年]]まで政権を維持した。
'''マルワーン1世'''({{rtl-lang|ar| مروان بن حكم بن ابو العاص بن أميّة }} {{lang|ar-Latn|Marwān b. Ḥakam b. Abū al-‘Āṣ b. Umayya}}, [[623年]][[3月28日]] - [[685年]][[5月7日]])は、[[ウマイヤ朝]]の第4代[[カリフ]](在位:[[684年]] - 685年)。子に[[アブドゥルマリク]]、アブドルアズィーズ、ムハンマドらがいる。
 
従兄弟にあたる[[正統カリフ]]の[[ウスマーン・イブン・アッファーン]](在位:[[644年]] - [[656年]])の治世中にマルワーンは北アフリカ中部の[[カルタゴ]]に位置する[[ビザンツ帝国]]の{{仮リンク|アフリカ総督府|en|Exarchate of Africa}}に対する軍事作戦に参加し、多大な戦利品を獲得した。その後、ウスマーンの下でイラン南西部の[[ファールス (イラン)|ファールス]]の総督を務めた後にカリフの[[カーティブ]](書記官もしくは秘書)となった。そしてウスマーンの邸宅が反乱者によって包囲され、カリフが暗殺された際には反乱者に対する戦闘で負傷した。
== 生涯 ==
マルワーンは初代の[[ムアーウィヤ]]の[[はとこ]]にあたり、父はハカム、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンの叔父アブー・アル=アースの孫である。そのためムアーウィヤの系統とは別系の人物である。また第3代[[正統カリフ]]・[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]とは従兄弟同士であり(ウスマーンの父アッファーンは、マルワーンの祖父アブー・アル=アースの息子のひとり)、ムアーウィヤ2世が死去した時、[[ウマイヤ家]]の長老であった。第3代の[[ムアーウィヤ2世]]まではムアーウィヤ系統であるが、以後のカリフはこのマルワーン1世系統から受け継がれた<ref>但し、マルワーン1世の孫の1人で第9代の[[ヤズィード2世]]、その子で曾孫にあたる第11代の[[ワリード2世]]は女系ながらも、ムアーウィヤ系統に属している。ヤズィード2世の母アティカ・ビント・ヤズィードがムアーウィヤ2世の姉妹で第2代カリフ[[ヤズィード1世]]の娘、初代カリフ[[ムアーウィヤ1世]]の外孫にあたる為である。</ref>。
 
ウスマーンの後を継いだ[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]](在位:656年 - [[661年]])と、大部分の[[クライシュ族]]から支持を受けた[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル]](初代正統カリフの[[アブー・バクル]]の娘で[[ムハンマド]]の三番目の妻)の間の対立によって発生した[[ラクダの戦い]]では後者の側に立って戦った。マルワーンは後に[[ウマイヤ朝]]の創設者で遠戚にあたる[[ムアーウィヤ]](ムアーウィヤ1世、在位:661年 - [[680年]])の下で[[マディーナ]](メディナ)の総督を務め、ムアーウィヤの息子で後継者の[[ヤズィード1世|ヤズィード]](ヤズィード1世、680年 - [[683年]])の治世中にマディーナで反乱が発生した際には現地のウマイヤ家一族の防衛に奔走した。683年11月にヤズィードが死去した後、[[メッカ]]を本拠地とする[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイル]]が反乱を起こして自らカリフの地位を宣言し、マルワーンは追放されてウマイヤ朝の支配地の中心である[[歴史的シリア|シリア]]へ退避した。
[[680年]]に[[カルバラー]]でアリー家の[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]が戦死した後、[[アーイシャ・ビント=アブー=バクル|アーイシャ]]の甥[[イブン・アッズバイル]]が隠遁していた[[メッカ]]で活動を開始して[[カリフ]]の称号である[[アミール・アル=ムウミニーン]]を名乗り、ウマイヤ朝に公然と叛乱を起こした('''[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]''')。しかも、[[ヒジャーズ]]や[[イラク]]、[[エジプト]]の信徒たちがこれを信任するという事態となった。しかし、マルワーン1世は有効な手段を講じる前にわずか在位1年9ヶ月で死去した。マルワーン1世にはカリフとしての力量は無かったために威令が及ばず、王朝の衰退を招いたという。
 
[[684年]]に最後のスフヤーン家のカリフの[[ムアーウィヤ2世]]が死去すると、以前にイラクの総督を務めていた{{仮リンク|ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤード|en|Ubayd Allah ibn Ziyad}}に促され、マルワーンは{{仮リンク|ジャービヤ|en|Jabiyah}}で開かれたウマイヤ朝を支持する部族会議でカリフの候補者として志願した。{{仮リンク|カルブ族|en|Banu Kalb}}の{{仮リンク|イブン・バフダル|en|Ibn Bahdal}}を中心とする部族の有力者がマルワーンをカリフに選出し、マルワーンとともに8月の[[マルジュ・ラーヒトの戦い]]でイブン・アッ=ズバイルを支持する{{仮リンク|カイス族|en|Qays}}を破った。その後の数か月のうちに、マルワーンは[[ジャズィーラ|メソポタミア北部]]のカイス族の動きを抑えつつ、現地の総督たちがイブン・アッ=ズバイル側についていたエジプト、パレスチナ、およびシリア北部に対するウマイヤ朝の支配を回復した。マルワーンはイブン・アッ=ズバイルが支配するイラクを再征服するためにウバイドゥッラー・イブン・ズィヤードが率いる遠征隊を派遣したものの、遠征の最中の685年の春に死去した。マルワーンは死の前に息子たちの政権内での地位を固めた。[[アブドゥルマリク]]が後継のカリフに指名され、{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・イブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}がエジプトの総督となった。
685年に62歳で死去し、跡を子のアブドゥルマリクが継いだ。この息子の代にウマイヤ朝は全盛期を迎えた。
 
マルワーンは後の反ウマイヤ朝の伝承の中で、無法者であり暴君たちの父として非難されたが、歴史家の{{仮リンク|クリフォード・エドムンド・ボスワース|en|Clifford Edmund Bosworth}}は、マルワーンは賢明で有能であるとともに決断力のある軍事指導者であり、死後65年間続いたウマイヤ朝の支配力の基盤を築いた優秀な指導者であったと評している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献出自と家族 ==
[[File:Abbreviated Umayyad Family Tree.png|thumb|right|500px|ウマイヤ家と王朝の系図。青色がマルワーン1世とその子孫(マルワーン家)の[[カリフ]]、黄色がスフヤーン家のカリフ、緑色が[[正統カリフ]]の[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]。]]
<!--* 『アジア歴史事典』([[平凡社]]. [[1959年]])-->
マルワーンは[[ヒジュラ暦]]2年もしくは4年([[西暦]]623年もしくは626年)に生まれた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。マルワーンの父親はウマイヤ家の{{仮リンク|アル=ハカム・イブン・アビー・アル=アース|en|Al-Hakam ibn Abi al-As}}であり、ウマイヤ家は[[ヒジャーズ]]の[[メッカ]]の町を支配していた多神教を奉ずる部族である[[クライシュ族]]の中でも最も強力な一族であった{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}{{sfn|Della Vida|Bosworth|2000|p=838}}。クライシュ族は自身もクライシュ族の出身であったイスラームの預言者[[ムハンマド]]によるメッカの征服の後、630年頃に一斉にイスラームへ改宗した{{sfn|Donner|1981|p=77}}。マルワーンはムハンマドを知る存在であったため、後に[[サハーバ]](教友)の一人として数えられた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。マルワーンの母親は、メッカから[[ティハーマ]]の海岸線まで南西に広がる地域を支配していたクライシュ族の先祖である{{仮リンク|キナーナ族|en|Banu Kinanah}}出身のアーミナ・ビント・アルカマであった{{sfn|Watt|1986|p=116}}。
* 「イブン・ズバイル」「第2次内乱」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年
*[[サイイド・アミール・アリ|アミール・アリ]]『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
 
マルワーンには少なくとも16人の子供がおり、そのうち5人の妻と1人の{{仮リンク|ウンム・ワラド|en|Umm walad}}(主人の子供を産んだ女奴隷)の間に少なくとも12人の息子を儲けた{{sfn|Donner|2014|p=110}}。父方の従兄弟にあたる{{仮リンク|ムアーウィヤ・イブン・アル=ムギーラ|en|Muawiya ibn al-Mughira}}の娘であった妻のアーイシャから長男の[[アブドゥルマリク]]とムアーウィヤ、そして娘のウンム・アムルが生まれた{{sfn|Donner|2014|p=110}}{{sfn|Ahmed|2010|p=111}}。ウンム・アムルは644年に[[カリフ]]に即位した父方の従兄弟にあたる[[ウスマーン・イブン・アッファーン]]の曾孫のサイード・イブン・ハーリド・イブン・アムルと結婚した{{sfn|Ahmed|2010|pp=119–120}}。妻の一人のカルブ族出身のライラー・ビント・ザッバーン・イブン・アル=アスバグは息子の{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・イブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}と娘のウンム・ウスマーンを産み{{sfn|Donner|2014|p=110}}、ウンム・ウスマーンはカリフのウスマーンの息子のアル=ワーリドと結婚した。そのアル=ワーリドは一時期ウンム・アムルとも結婚していた{{sfn|Ahmed|2010|p=111}}。同じくカルブ族出身の妻であるクタイヤ・ビント・ビシュルは息子の{{仮リンク|ビシュル・イブン・マルワーン|label=ビシュル|en|Bishr ibn Marwan}}とアブドゥッラフマーンを産んだものの、後者は若くして亡くなった{{sfn|Donner|2014|p=110}}{{sfn|Ahmed|2010|p=111}}。もう一人の妻のウンム・アバーンはカリフのウスマーンの娘であった{{sfn|Donner|2014|p=110}}。ウンム・アバーンはマルワーンの息子のうち、{{仮リンク|アバーン・イブン・マルワーン|label=アバーン|en|Aban ibn Marwan}}、ウスマーン、{{仮リンク|ウバイドゥッラー・イブン・マルワーン|label=ウバイドゥッラー|en|Ubayd Allah ibn Marwan}}、アイユーブ、ダーウード、そしてアブドゥッラーの6人の母親であったが、最後の一人は幼くして亡くなった{{sfn|Donner|2014|p=110}}{{sfn|Ahmed|2010|p=114}}。また、マルワーンは{{仮リンク|マフズーム族|label=マフズーム家|en|Banu Makhzum}}の{{仮リンク|アブー・サラマー|en|Abu Salama}}の孫娘であった妻のザイナブ・ビント・ウマルとの間に息子のウマルを儲けた{{sfn|Donner|2014|p=110}}{{sfn|Ahmed|2010|p=90}}。マルワーンのウンム・ワラドも同様にザイナブと呼ばれ、息子の{{仮リンク|ムハンマド・イブン・マルワーン|label=ムハンマド|en|Muhammad ibn Marwan}}を産んだ{{sfn|Donner|2014|p=110}}{{sfn|Ahmed|2010|p=90}}。マルワーンには10人の兄弟がおり、父方の叔父として10人の甥がいた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。
== 関連項目 ==
*[[ウマイヤ朝]]
 
== ウスマーンの治世 ==
{{先代次代|[[ウマイヤ朝]]|684年 - 685年|[[ムアーウィヤ2世]]|[[アブドゥルマリク]]}}
[[File:Important cities and Places in Early Caliphate.png|thumb|right|300px|初期のイスラーム国家の主要都市の位置を表した地図(白線は現代の国境線)]]
{{ウマイヤ朝カリフ}}
[[正統カリフ]]の[[ウスマーン・イブン・アッファーン]](在位:644年 - 656年)の治世中に、マルワーンは北アフリカ中央部の[[カルタゴ]]に存在した[[ビザンツ帝国]]の{{仮リンク|アフリカ総督府|en|Exarchate of Africa}}に対する軍事行動に参加し、戦争で著しい量の戦利品を手にした{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}{{sfn|Madelung|1997|p=81}}。これらはおそらくマルワーンの膨大な富の基礎を形成したと考えられ、マルワーンはその一部をイスラーム国家の首都である[[マディーナ]](メディナ)の不動産に投資した{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。正確な時期は不明なものの、マルワーンはウスマーンの下でイラン南西部の[[ファールス]]の総督を務めた後にカリフの[[カーティブ]](書記官もしくは秘書)となり、そしておそらくはマディーナの財務監督者の地位にも就いていた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}{{sfn|Donner|2014|p=106}}。歴史家の{{仮リンク|クリフォード・エドムンド・ボスワース|en|Clifford Edmund Bosworth}}は、ウスマーンの治世中に行われた「[[クルアーン]]の正典化」への作業において、マルワーンはこれらの地位についていた際に「間違いなくその作業を助けていた」と述べている{{sfn|Bosworth|1991|p=621}} 。
 
歴史家の{{仮リンク|ヒュー・ナイジェル・ケネディ|en|Hugh N. Kennedy}}は、マルワーンはカリフの「右腕」であったとしている{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。一方で、伝統的なイスラーム教徒による伝承によれば、クライシュ族の間におけるウスマーンの当初の支持者の多くは、ウスマーンがマルワーンから強い影響を受けるようになったために徐々に支持を撤回していき、以前の支持者たちは物議を醸すカリフの各種の決定を非難するようになったと伝えている{{sfn|Donner|2014|p=106}}{{sfn|Madelung|1997|p=92}}{{sfn|Della Vida|Khoury|2000|p=947}}。しかしながら、歴史家の{{仮リンク|フレッド・マクグロウ・ドナー|en|Fred Donner}}はこのような伝承の信憑性に疑問を呈し、ウスマーンがマルワーンのようなより若い親族や具体性に欠けるマルワーンへの非難の内容に強く影響を受けていた可能性は低いとして、「マルワーンをウスマーンの12年間の統治の終わりに起こった不幸な出来事(暗殺)のスケープゴートにすることによって、いわゆる「正しく導かれた」カリフ(正統カリフ)の一人としてのウスマーンの評価を取り戻すために、のちのイスラームの伝承の中で言及されるようになった」可能性があると述べている{{sfn|Donner|2014|p=106}} 。
{{DEFAULTSORT:まるわん1}}
 
ウスマーンの縁故主義的な政策に対する不満とイラクにおける[[サーサーン朝]]の旧王領地の資産の没収は{{efn|イラクの[[サーサーン朝]]の王領地は、[[630年代]]のメソポタミアにおけるアラブ人のサーサーン朝への征服活動中に、サーサーン王家、ペルシア貴族、そして[[ゾロアスター教]]の聖職者によって放棄された土地であった。その後、これらの土地は征服後にイラクに築かれたアラブの最も重要な駐屯地である[[クーファ]]と[[バスラ]]のイスラーム教徒の利益のために共有資産として定められていた。首都マディーナの国庫の所有物とするためのウスマーンによる資産の没収は、これらの土地からかなりの収入を得ていたクーファの初期のイスラーム教徒の入植者の間で広範囲にわたる驚きをもたらした{{sfn|Kennedy|2004|pp=68, 73}}。}}、クライシュ族と資産を取り上げられた[[クーファ]]、そしてエジプトの支配層がカリフと敵対するきっかけとなった{{sfn|Madelung|1997|pp=86–89}}。656年の初めに、ウスマーンに対して政策を転換させようと圧力をかけるためにエジプトとクーファを発った反乱者の集団がマディーナに入った{{sfn|Hinds|1972|pp=457–459}}。マルワーンは反乱者に対して武力で対応するように進言したものの、ウスマーンは意見を容れずに反乱者の中では最大であり最も要求の強い集団であったエジプト人との和解に応じた{{sfn|Madelung|1997|pp=127, 135}}{{sfn|Hinds|1972|p=457}}。しかし、反乱者がエジプトへと戻った直後にエジプト総督の{{仮リンク|アブドゥッラー・イブン・サアド|en|Abdallah ibn Sa'd}}に宛てて反乱者に対する措置を講じるように指示を出していたウスマーンの名による手紙が反乱者の手に渡った{{sfn|Hinds|1972|p=457}}。これに反発した反乱者たちは656年6月に再びマディーナに戻り、ウスマーンの自宅を包囲した{{sfn|Hinds|1972|p=457}}。この状況に対してウスマーンはその手紙のことは知らないと主張した。このため、手紙はウスマーンが関与しないところでマルワーンの手によって作成されていた可能性がある{{sfn|Hinds|1972|p=457}}。その後、マルワーンは命令に反していたにもかかわらず、ウスマーンの家に対する積極的な防御行動に出て入口に集まっていた反乱者に対し戦いを挑んだものの、首に酷い傷を負った{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}{{sfn|Donner|2014|p=106}}{{sfn|Madelung|1997|p=136}}{{sfn|Madelung|1997|p=137}}。伝承によれば、マルワーンは乳母であるファーティマ・ビント・アウスの治療介入によって救われ、マルワーンの[[マワーリー|マウラー]](解放奴隷もしくは庇護民)であった{{仮リンク|アブー・ハフサ・ヤズィード|en|Abu Hafsa Yazid}}によってファーティマの家の安全な場所へ運ばれた{{sfn|Madelung|1997|p=137}}。そしてその直後にウスマーンは反乱者たちの手によって殺害された{{sfn|Hinds|1972|p=457}}。この事件はイスラーム世界の{{仮リンク|第一次内乱 (イスラーム史)|label=第一次内乱|en|First Fitna}}の大きな要因の一つとなった{{sfn|Wellhausen|1927|pp=50–51}}。以前に反マルワーンの扇動をしていたムハンマドの妻の一人の[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル]]とウマイヤ家の者たちからウスマーンの死への復讐を求める声が挙がり、これらの声はムハンマドの従兄弟で義理の息子であるウスマーンの後継者の[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]](在位:656年 - 661年)への反発の掛け声となっていった{{sfn|Wellhausen|1927|pp=52–53, 55–56}}。
 
== 第一次内乱における役割 ==
[[File:Ali and Aisha at the Battle of the Camel.jpg|thumb|right|240px|[[ラクダの戦い]]における[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]と[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]]]
カリフに即位したアリーはウスマーンの暗殺に関与したすべての人間に恩赦を与え、多くのウマイヤ家出身の総督を更迭した<ref name="アスラン2009pp190–192">[[#アスラン 2009|アスラン 2009]], pp. 190–192</ref>。このようなアリーの対応にウマイヤ家の人間は不満を募らせ、メッカに居住していたアーイシャの下に集まり、アリーにウスマーン殺害の責任を問う運動を起こした<ref name="アスラン2009pp190–192"/>。その後に続いたアリーとクライシュ族の大半から支持を受けたアーイシャとの間の戦争において、マルワーンは後者の支持に回り、656年12月に[[バスラ]]郊外で起こった[[ラクダの戦い]]でアーイシャの軍隊とともにアリーと戦った{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。歴史家の{{仮リンク|レオーネ・カエターニ|en|Leone Caetani}}は、マルワーンがこの戦いにおいてアーイシャの戦術を主導していたと推測している{{sfn|Vaglieri|1965|p=416}}。現代の歴史家である{{仮リンク|ラウラ・ヴェッキア・ヴァグリエリ|en|Laura Veccia Vaglieri}}は、カエターニの「説は興味深い」としつつも、伝えられている史料からはそれを裏付ける情報がなく、マルワーンがアーイシャの戦争における助言者であったとしても、「かなり慎重に行動していたために、史料においてマルワーンの行動はほとんど伝えられなかった」のであろうと考察している{{sfn|Vaglieri|1965|p=416}}。
 
イスラームの伝統的な説明の一つによれば、マルワーンは、ムハンマドのサハーバ(教友)の一人でアーイシャの支持者でありながらも、マルワーンがウスマーンの死を招いた張本人であると考えていた{{仮リンク|タルハ・イブン・ウバイドゥッラー|en|Talhah}}を殺害するために戦闘の機会を利用した{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。マルワーンはアリーの部隊との接近戦で自軍が退却を始めた際にタルハの膝下の静脈を貫く矢を放った{{sfn|Madelung|1997|p=171}}。しかし、別の説明ではタルハは戦場から離脱する最中にアリーの支持者たちによって殺害されたとしている{{sfn|Landau-Tasseron|1998|pp=27–28, note 126}}。カエターニは、タルハの死の原因をマルワーンに求める説明は、一般に反ウマイヤ朝の立場の史料に基づく作り話であるとしてマルワーンを首謀者とする説を否定している{{sfn|Madelung|2000|p=162}}。一方、歴史家の{{仮リンク|ウィルファード・マーデルング|en|Wilferd Madelung}}は、アーイシャの敗北が確実な状況となり、このままでは自身の行動の責任を問われかねない立場に立たされた際に、マルワーンは「間違いなく」タルハの殺害を狙っていたと指摘している{{sfn|Madelung|1997|p=171}}。また、マルワーンによるタルハの殺害は、ウスマーンの死の復讐を果たした最初の人物としてマルワーンを称揚した[[680年代]]のウマイヤ朝の[[プロパガンダ]]によって裏付けを与えられたとしている{{sfn|Madelung|2000|p=162}}。
 
アリーの勝利によって戦いが終結したのち、マルワーンはアリーに対して忠誠の誓いをした{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。アリーはマルワーンを許し、マルワーンはアリーへの忠誠を拒否していた[[再従兄弟]]の[[ムアーウィヤ|ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーン]]が総督を務める[[歴史的シリア|シリア]]へ向かった{{sfn|Madelung|1997|pp=181, 190, 192 note 232, 196}}。マルワーンは[[657年]]に[[ラッカ]]の近郊で発生した[[スィッフィーンの戦い]]でムアーウィヤとともに参戦したものの{{sfn|Madelung|1997|pp=235–236}}、アリーの軍隊とは決着がつかず、内戦を解決するための交渉も不調に終わった{{sfn|Kennedy|2004|pp=77–80}}。
 
== マディーナ総督時代 ==
[[File:304B2663 718129120.jpg|thumb|right|280px|初期のイスラーム国家のイラク支配の拠点の一つであった[[クーファ]]の町と{{仮リンク|クーファの大モスク|label=大モスク|en|Great Mosque of Kufa}}(2019年)]]
アリーは661年1月にアリーとムアーウィヤの双方と対立していた[[ハワーリジュ派]]の人物によって暗殺された{{sfn|Hinds|1993|p=265}}。アリーの息子で後継者であった[[ハサン・イブン・アリー]]はムアーウィヤと{{仮リンク|ハサンとムアーウィヤの和約|label=和平を結んで|en|Hasan–Muawiya treaty}}カリフの地位を放棄し、ムアーウィヤはアリーとハサンが本拠地としていたクーファに入った。そこで7月もしくは9月にムアーウィヤはカリフとして認められ、[[ウマイヤ朝]]が成立することになった{{sfn|Hinds|1993|p=265}}{{sfn|Wellhausen|1927|pp=104, 111}}。マルワーンはムアーウィヤの下で{{仮リンク|東アラビア|label=バフライン|en|Eastern Arabia}}(東アラビア)の総督を務めていたが、その後661年から[[668年]]と[[674年]]から[[677年]]の二度にわたりマディーナの総督を務めた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。これらの二つの期間の間は、マルワーンのウマイヤ家の親族である{{仮リンク|サイード・イブン・アル=アース|en|Sa'id ibn al-As}}がその地位に就いていた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。マディーナはウスマーン暗殺の余波でイスラーム国家の政治的中心地としての地位を失い、首都はムアーウィヤの下で[[ダマスカス]]へ移った{{sfn|Wellhausen|1927|pp=59–60, 161}}。マディーナは地方総督による統治へと格下げされたが、アラブ文化とイスラーム学の中心地であり、伝統的なイスラームの上流社会の拠点であり続けた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=136, 161}}。ほとんどのウマイヤ家の一族を含むマディーナの古いエリートたちは、ムアーウィヤへと移った権力の喪失に憤慨した。歴史家の[[ユリウス・ヴェルハウゼン]]は、この状況を以下のように要約している。「これがどんな結果をもたらしたのか。マルワーンはかつてはウスマーンの下で全権を掌握していた帝国の高官、それが今ではマディーナの[[アミール]]だ! マルワーンが自分よりもはるかに遠い所へと追い越して行ったダマスカスの再従兄弟に嫉妬の眼を向けていたとしても驚くには値しない」{{sfn|Wellhausen|1927|p=136}} 。
[[File:Medina 1926.jpg|thumb|left|280px|[[マディーナ]]の外観(1926年以前の撮影)。マルワーンはマディーナでその経歴の大部分を過ごし、最初は[[カリフ]]の[[ウスマーン]]の側近として、後にはカリフの[[ムアーウィヤ]]の下で総督とウマイヤ家一族の指導者として過ごした。]]
マルワーンは最初の任期中にアラビア北西部の{{仮リンク|ファダク|en|Fadak}}のオアシスにある大規模な私有地をムアーウィヤから買い取り、息子のアブドゥルマリクとアブドゥルアズィーズに分け与えた{{sfn|Bosworth|1991|p=621}}。その後、マルワーンは最初に総督を解任された際に説明を受けるためにムアーウィヤの宮廷へ出向いた。解任の理由は以下の三つであった。マルワーンがウマイヤ家の親族である{{仮リンク|アブドゥッラー・イブン・アーミル|en|Abdallah ibn Amir}}がバスラ総督を解任された後にムアーウィヤに対してその資産の没収を拒否したこと。ウマイヤ家で論争となった、アブドゥッラーの後任のバスラ総督で、父親がいなかった{{仮リンク|ズィヤード・イブン・アビーヒ|en|Ziyad ibn Abihi}}をムアーウィヤの父親の{{仮リンク|アブー・スフヤーン・イブン・ハルブ|en|Abu Sufyan ibn Harb}}の息子としてカリフが養子縁組したことに対するマルワーンの批判。そしてマルワーンがムアーウィヤの娘のラムラとウスマーンの息子でその夫である{{仮リンク|アムル・イブン・ウスマーン|en|Amr ibn Uthman}}との間で家庭内の紛争が生じた際にラムラに対する助力を拒否したことである{{sfn|Madelung|1997|pp=343–345}}。[[670年]]にマルワーンはハサン・イブン・アリーの死後にその遺体をムハンマドの墓の傍らに埋葬させる試みに対してウマイヤ家として反対の立場をとり、ハサンの弟の[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・イブン・アリー]]とその一族である[[ハーシム家]]にその要求を断念させ、代わりにハサンを[[ジャンナトゥル・バキー墓地|バキーの墓地]]に埋葬させた{{sfn|Madelung|1997|p=332}}。その一方でマルワーンは葬儀には参列し、その際に「彼の忍耐は山のように重いものだった」と語りハサンを讃えた{{sfn|Madelung|1997|p=333}}。
 
ボスワースによれば、ムアーウィヤは、一般にウマイヤ家の中でもマルワーンを含む{{仮リンク|アブー・アル=アース・イブン・ウマイヤ|label=アブー・アル=アース|en|Abu al-As ibn Umayya}}の系統に属する一族の野心に疑いを持っていた可能性があり、アブー・アル=アースの系統はムアーウィヤが属していたアブー・スフヤーン(スフヤーン家)の系統よりもはるかに多くの成員を抱えていた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。熟年の経験豊富なスフヤーン家の人物がほとんどいなかった当時、マルワーンは最も年長で権威のあるウマイヤ家の人物であった{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。ボスワースは、「ムアーウィヤを法的な異母兄弟としてズィヤード・イブン・アビーヒを養子縁組させ、生前に自身の息子の[[ヤズィード1世|ヤズィード]](ヤズィード1世)をカリフの後継者として指名するという常識的とは言い難い行動に駆り立てたのは、アブー・アル=アースの一族を恐れていたからではないか」と推測している{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{efn|[[カリフ]]の[[ムアーウィヤ]]による自身の息子の[[ヤズィード1世|ヤズィード]]への後継者の指名はイスラーム国家の政治体制では前例のない行為であり、従来の選挙や合議に基づく継承から世襲による継承への転換を示すものであった。この動きはウマイヤ家がカリフの役割を君主の性格へと変えたという後のイスラームの伝承における非難を引き起こすことになった{{sfn|Kennedy|2004|p=88}}{{sfn|Hawting|2000|pp=13–14, 43}}。}}。実際にマルワーンは、以前にアブー・アル=アースの支流の一人であり、ウスマーンの息子であるアムルに対してカリフの嫡子という正当性を根拠にカリフの地位を主張するように迫っていたが、アムルは興味を示さなかった{{sfn|Madelung|1997|pp=341–342}}。マルワーンは[[676年]]に渋々ムアーウィヤによるヤズィードの指名を受け入れたものの、ウスマーンの別の息子である{{仮リンク|サイード・イブン・ウスマーン|en|Sa'id ibn Uthman}}に対してヤズィードの継承に反対するようにひそかに働きかけていた{{sfn|Madelung|1997|pp=342–343}}。しかし、ムアーウィヤがイスラーム国家の最東端の領域である[[ホラーサーン]]における軍司令官の立場をサイードに与えたことで、サイードの野心は弱まることなった{{sfn|Madelung|1997|p=343}}。
 
== マディーナにおけるウマイヤ家の指導者 ==
ムアーウィヤが680年に死去した後、全員がムハンマドの著名なクライシュ族の盟友の息子たちであり、カリフの地位を要求する意思を持っていたフサイン・イブン・アリー、[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイル]]、そして{{仮リンク|アブドゥッラー・イブン・ウマル|en|Abdullah ibn Umar}}は{{sfn|Howard|1990|p=2, note 11}}、ムアーウィヤが選んだ後継者であるヤズィードへの忠誠を拒否し続けた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=142, 144–145}}。[[ヒジャーズ]]におけるウマイヤ家一族の指導者的立場にあったマルワーンは{{sfn|Kennedy|2004|p=90}}、当時マディーナの総督であった{{仮リンク|アル=ワリード・イブン・ウトバ・イブン・アビー・スフヤーン|en|Al-Walid ibn Utba ibn Abi Sufyan}}に対して、マルワーンがウマイヤ家の支配にとって特に危険だと考えていたフサインとイブン・アッ=ズバイルにカリフの支配権を認めさせるように忠告した{{sfn|Wellhausen|1927|pp=145–146}}。フサインはワリードの喚問に応じたが、その場ではヤズィードの承認を保留し、代わりに公衆の面前で誓いを立てることを申し出た{{sfn|Howard|1990|pp=4–5}}。ワリードはこれを受け入れたものの、その場に同席していたマルワーンは反発してワリードを非難し、フサインがヤズィードへの忠誠の誓いを立てるまで拘束するか、もし拒否するようであれば処刑するように要求した{{sfn|Howard|1990|p=5}}。これに対してフサインはマルワーンを罵り、その場を立ち去った{{sfn|Howard|1990|p=5}}。結局フサインはウマイヤ家に対する反乱を率いるためにクーファへ向かったものの、680年10月に[[カルバラーの戦い]]でヤズィードの軍隊によって殺害された{{sfn|Wellhausen|1927|p=146}}{{sfn|Wellhausen|1927|p=147}}。
[[File:Kaba.jpg|thumb|right|280px|[[メッカ]]のイスラームの聖殿である[[カアバ]](1880年)。[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイル]]は、反乱の期間中この場所を作戦拠点として使用した。]]
その一方で、イブン・アッ=ズバイルはワリードの喚問を避けてメッカへ逃れた。そこで伝統的に暴力行為が禁じられていたイスラームの聖域である[[カアバ]]に置いた作戦拠点からヤズィードへの反対派の結集を図った{{sfn|Wellhausen|1927|pp=147–148}}。これに対するヤズィードの対応と関連した複数のイスラームの伝統的な逸話の中で、マルワーンはイブン・アッ=ズバイルに対してカリフに服従しないように警告したとされている{{sfn|Wellhausen|1927|p=148}}。しかし、ヴェルハウゼンは、これらの移り変わりやすい伝承の内容は信頼の置けないものとみなしている{{sfn|Wellhausen|1927|p=148}}。683年、マディーナの人々はカリフに対する反乱を起こして地元のウマイヤ家の一族とその支持者を襲撃し、襲撃された人々はマディーナの郊外にあるマルワーンの所有する複数の家屋へ避難したものの、襲撃側から包囲を受けることになった{{sfn|Wellhausen|1927|p=154}}{{sfn|Vaglieri|1971|p=226}}。マルワーンの支援要請に応えて{{sfn|Wellhausen|1927|p=154}}、ヤズィードはこの地域におけるウマイヤ朝の権威を確立するために、{{仮リンク|ムスリム・イブン・ウクバ|en|Muslim ibn Uqba}}が率いるシリアの部族民からなる遠征軍を派遣した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。マディーナのウマイヤ家の一族はその後追放され、マルワーンとアブー・アル=アースの一族を含む多くの者がムスリム・イブン・ウクバの遠征に同行した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。その後の683年8月に発生した{{仮リンク|ハッラの戦い|en|Battle of al-Harra}}で、マルワーンは騎兵隊を率いてマディーナを通り抜け、マディーナ東部の郊外でムスリム・イブン・ウクバと戦っていたマディーナの守備隊に対して後方から攻撃を加えた{{sfn|Vaglieri|1971|p=227}}。マディーナの住民に対する勝利にもかかわらず、683年11月のカリフの死をきっかけとしてヤズィードの軍はシリアに撤退した{{sfn|Kennedy|2004|p=90}}。シリア軍が撤退するとすぐにイブン・アッ=ズバイルは自らをカリフと宣言し、程なくしてエジプト、イラク、イエメンを含むイスラーム国家のほとんどの地域からカリフとして認められた{{sfn|Gibb|1960|p=55}}。マルワーンとヒジャーズのウマイヤ家の一族はイブン・アッ=ズバイルの支持者によって二度目となる追放を受け、その資産は没収された{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。
 
== カリフ時代 ==
=== カリフへの登位 ===
[[File:Flickr - …trialsanderrors - Minaret of the Bride, Damascus, Holy Land, ca. 1895.jpg|thumb|right|280px|[[ダマスカス]]の[[ウマイヤド・モスク]]の[[ミナレット]](1880年代)。マルワーンはダマスカスでウマイヤ朝のカリフの後継者としてシリアのアラブ部族の有力者によって選出された。]]
684年の初頭までにマルワーンはシリアの[[パルミラ]]、もしくはヤズィードの若い息子で後継者であった[[ムアーウィヤ2世]]の宮廷が存在したダマスカスのいずれかの場所に滞在していた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。ムアーウィヤ2世は即位後数週間で後継者を指名することなく死去した{{sfn|Duri|2011|p=23}}。その後、シリアの軍管区({{仮リンク|ジュンド (軍事組織)|label=ジュンド|en|Jund}}と呼ばれる)である{{仮リンク|ジュンド・フィラスティーン|en|Jund Filastin}}(現代の[[パレスチナ]]一帯)、{{仮リンク|ジュンド・ヒムス|en|Jund Hims}}(現代の[[ホムス]]周辺)、そして{{仮リンク|ジュンド・キンナスリーン|en|Jund Qinnasrin}}(現代の[[アレッポ]]周辺)の総督は、イブン・アッ=ズバイルへの忠誠を誓った{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。その結果、ボスワースによれば、マルワーンは「統治者としてのウマイヤ家の将来に絶望」し、イブン・アッ=ズバイルの正当性を認める用意ができていた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。しかし、マルワーンはイラクを追放された総督の{{仮リンク|ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤード|en|Ubayd Allah ibn Ziyad}}から、{{仮リンク|ジャービヤ|en|Jabiyah}}で開かれたウマイヤ朝を支持するシリアのアラブ部族の族長との会議中にムアーウィヤ2世の後継者として志願するように勧められた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。このイスラーム共同体の指導者の地位への志願は、地位の継承に関する三つの発展途上にあった原則の間の対立を露呈することになった{{sfn|Duri|2011|pp=23–24}}。イブン・アッ=ズバイルの一般的な認識としては、最も公正であり優れたイスラーム教徒に指導者の地位を譲るというイスラームの原則に則っていた{{sfn|Duri|2011|pp=23–24}}。一方、ジャービヤの部族長の会議でウマイヤ朝の支持者たちは他の二つの原則について議論した。ムアーウィヤの若年の孫の{{仮リンク|ハーリド・イブン・ヤズィード|en|Khalid ibn Yazid}}の推薦に象徴されるムアーウィヤが導入した世襲による継承、そしてマルワーンの場合に象徴される部族の指導的な一族の中で最も賢明で有能な人物を選択するというアラブ部族の規範である{{sfn|Duri|2011|pp=23–25}}。
 
ジャービヤの会議の主催者であり、ヤズィードの母方の従兄弟で強力な{{仮リンク|カルブ族|en|Banu Kalb}}の族長であった{{仮リンク|イブン・バフダル|en|Ibn Bahdal}}は{{sfn|Kennedy|2004|p=90}}、ハーリドの擁立を支持した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。しかし、{{仮リンク|ジュザーム族|en|Banu Judham}}の{{仮リンク|ラウフ・イブン・ズィンバー|en|Rawh ibn Zinba al-Judhami}}と{{仮リンク|キンダ族|en|Kindah}}の{{仮リンク|フサイン・イブン・ヌマイル|en|Husayn ibn Numayr al-Sakuni}}に主導された他のほとんどの族長は、ハーリドの若さと経験不足を上回るマルワーンの円熟した年齢と政治的な判断力、そして軍事経験を引き合いに出してマルワーンを支持した{{sfn|Duri|2011|pp=24–25}}。[[9世紀]]の歴史家の[[ヤアクービー]]は、マルワーンを賞賛するラウフの発言を引用している。「シリアの人々よ! この人物がクライシュ族の長であり、ウスマーンの血の仇を討ち、ラクダの戦いとスィッフィーンの戦いでアリー・イブン・アビー・ターリブと戦ったマルワーン・イブン・アル=ハカムだ」{{sfn|Biesterfeldt|Günther|2018|p=952}}。684年6月22日(ヒジュラ暦64年シャウワール月29日)に最終的な合意に達し、次の後継者としてハーリド、その後にはもう一人の著名な若いウマイヤ家の人物であった{{仮リンク|アシュダク|label=アムル・イブン・サイード・イブン・アル=アース|en|Al-Ashdaq}}(アシュダクの呼び名で知られる)がカリフとなる条件の下で{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}、マルワーンがカリフの地位を継承することになった{{sfn|Wellhausen|1927|p=182}}。その後すぐに「ヤマン」として知られるようになったウマイヤ朝を支持するシリアの部族連合(後述)は、マルワーンを支持する見返りとして金銭的な補償を約束された{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。ヤマン族の{{仮リンク|アシュラフ (称号)|label=アシュラフ|en|Ashraf}}(部族の有力者)は、マルワーンに対して以前のウマイヤ朝のカリフの下で保持していたものと同じ儀礼上と軍事上の特権を要求した{{sfn|Rihan|2014|p=103}}。また、フサイン・イブン・ヌマイルは、イブン・アッ=ズバイルが公然と拒否した内容と同様の条件の協定を結ぼうとした{{sfn|Rihan|2014|pp=103–104}}。これに対して、歴史家のモハンマド・リーハーンは、「シリア軍の重要性を認識していたマルワーンは彼らの要求に真摯に応じた」と述べている{{sfn|Rihan|2014|p=104}}。また、ケネディは以下のように状況を要約している。「マルワーンはシリアでは何の経験も接点もなかった。マルワーンは自分を選出したヤマン族のアシュラフに完全に依存していたであろう」{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。
 
=== ウマイヤ朝による統治の再確立に向けた軍事行動 ===
[[File:Second Fitna Territorial Control Map ca 686.svg|thumb|420px|イスラーム世界の[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]期の勢力図(686年頃)。赤色が[[ウマイヤ朝]]がマルワーンの一年に満たない統治期間中に再征服した地域、青色が[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|イブン・アッ=ズバイル]]の支配地域、水色がイブン・アッ=ズバイルを支持する勢力の支配地域、緑色が{{仮リンク|ムフタール・アッ=サカフィー|en|Mukhtar al-Thaqafi}}の支配地域、黄色が[[ハワーリジュ派]]の支配地域。]]
カルブ族と対立してイブン・アッ=ズバイルを支持した部族連合のカイス族はマルワーンのカリフ位継承に反対し、同様にイブン・アッ=ズバイルを支持していたダマスカス総督の{{仮リンク|アル=ダッハク・イブン・カイス・アッ=フィフリー|en|Al-Dahhak ibn Qays al-Fihri}}に対して戦争のために軍を動員するように求めた。これに応じたダッハクとカイス族はダマスカスの北のマルジュ・ラーヒトの平野に陣地を築いた{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。シリアのジュンドのほとんどがイブン・アッ=ズバイルを支持したが、{{仮リンク|ジュンド・アル=ウルドゥン|en|Jund al-Urdunn}}(現代の[[ヨルダン]]一帯)を除いてシリアにおける支配的な部族はカルブ族であった{{sfn|Rihan|2014|p=104}}。重要な影響を与えることになったカルブ族とその同盟部族による支援を受け、マルワーンは自軍より大きな規模であったダッハクの軍隊に向けて進軍した。同時にダマスカスでは{{仮リンク|ガッサーン朝|label=ガッサーン族|en|Ghassanids}}の有力者がダッハクの支持者を追放し、都市をマルワーンの支配下に置いた{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。684年8月の[[マルジュ・ラーヒトの戦い]]でマルワーンの軍隊はカイス族を完全に打ち破り、ダッハクを殺害した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。この結果によるマルワーンの台頭によってカルブ族が属する{{仮リンク|クダーア族|en|Quda'a}}の部族同盟の力が認められることになり{{sfn|Cobb|2001|p=69}}、戦いの後にはホムスの部族同盟である{{仮リンク|カフターン族|en|Qahtanite}}と同盟を結び、ヤマンの名で知られる新しい大部族を形成した{{sfn|Cobb|2001|pp=69–70}}。マルジュ・ラーヒトの戦いにおけるウマイヤ朝とヤマン族の圧倒的な勝利は、長期にわたる{{仮リンク|カイスとヤマンの対立関係|label=カイス族とヤマン族の確執|en|Qays–Yaman rivalry}}につながった{{sfn|Kennedy|2004|p=92}}。カイス族の残軍は[[ジャズィーラ]](メソポタミア北部)の{{仮リンク|シルセシウム|label=カルキスィーヤ|en|Circesium}}の要塞を奪った{{仮リンク|ズファル・イブン・アル=ハーリス・アッ=キラービー|en|Zufar ibn al-Harith al-Kilabi}}の下に集結し、ズファルはそこからウマイヤ朝と対立する部族を率いた{{sfn|Kennedy|2004|p=91}}。マルワーンの作とされる詩の中で、マルワーンはマルジュ・ラーヒトにおけるヤマン族の支援に感謝の意を示した。
 
{{Quotation|それが略奪品の一つとなるであろうことを理解した時、彼ら(カイス族)に対抗するためにガッサーン族とカルブ族を準備した。<br>さらにはサクサク族(キンダ族)、勝利を収めるであろう者たち。{{仮リンク|タイイ族|en|Tayy}}、一撃を加えることを求める者たち。<br>そしてカイス族。困難で高く聳え立つ{{仮リンク|タヌーフ族|en|Tanukhids}}、その力に彼らは打ちひしがれ、倒されるであろう。<br>敵は力ずくでなければカリフの地位を奪い取ることはないであろう。そしてカイス族が近寄ってきたなら、こう言え、近寄るな!{{sfn|Hawting|1989|pp=60–61}}}}
 
マルワーンはすでにジャービヤにおいてウマイヤ朝支持派の部族に認められていたが、7月もしくは8月にダマスカスで行われた式典でカリフとして忠誠の誓いを受けた{{sfn|Wellhausen|1927|p=182}}。マルワーンはヤズィードの未亡人でハーリドの母であるウンム・ハースィム・ファーヒタと結婚し、これによってスフヤーン家との政治的な結びつきを得た{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。ヴェルハウゼンは、この結婚によってマルワーンがヤズィードの息子たちの継父となることで、ヤズィードの系統の継承権を奪おうと試みたとする見解を示している{{sfn|Madelung|1997|p=349}}。また、マルワーンは{{仮リンク|シュルタ|en|Shurta}}と呼ばれる治安部隊の長官にガッサーン族の{{仮リンク|ヤフヤー・イブン・ヤフヤー・イブン・カイス・アル=ガッサーニー|label=ヤフヤー・イブン・カイス|en|Yahya ibn Yahya al-Ghassani}}を任命し、ハージブ(侍従)として自身の[[マワーリー|マウラー]]であるアブー・サフル・アル=アスワードを任命した{{sfn|Biesterfeldt|Günther|2018|p=954}}。
 
マルジュ・ラーヒトでの勝利とシリア中部におけるウマイヤ朝の権力の統合にもかかわらず、マルワーンの権威はウマイヤ朝がかつて領土としていた残りの地域では認められていなかった。ケネディによれば、ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤードとイブン・バフダルの助けを借りながら、マルワーンは「強い意志と行動力」を持ってウマイヤ朝の支配の回復に取り掛かった{{sfn|Kennedy|2004|p=92}}。マルワーンはシリア北部におけるウマイヤ朝の支配を強化し、治世の残りの期間はウマイヤ朝の権威の回復に力を注いだ{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。
 
マルワーンはパレスチナにラウフ・イブン・ズィンバーを派遣し、ラウフは同じジュザーム族の出身で部族の指導権を争う対抗相手であったイブン・アッ=ズバイル派の総督の{{仮リンク|ナティル・イブン・カイス|en|Natil ibn Qays}}をメッカへ追放した{{sfn|Biesterfeldt|Günther|2018|p=953}}。685年2月もしくは3月までにマルワーンはエジプトの首府である[[フスタート]]のアラブ部族の有力者から重要な支援を得てエジプトの支配を確保した{{sfn|Kennedy|2004|p=92}}。エジプトのイブン・アッ=ズバイル派の総督であった{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・イブン・ウトバ・アッ=フィフリー|en|Abd al-Rahman ibn Utba al-Fihri}}は追放され、エジプト総督の地位はマルワーンの息子のアブドゥルアズィーズに置き換えられた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{sfn|Kennedy|2004|p=92}}。その後、アシュダクの率いるマルワーン軍がイブン・アッ=ズバイルの弟の{{仮リンク|ムスアブ・イブン・アッ=ズバイル|en|Mus'ab ibn al-Zubayr}}が率いるパレスチナに差し向けられた遠征軍を撃退した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{sfn|Wellhausen|1927|p=185}}。さらに、マルワーンはクダーア族の軍司令官である{{仮リンク|フバイシュ・イブン・ドゥルジャ|en|Ḥubaysh ibn Dulja al-Qaynī}}が率いる遠征軍をヒジャーズへ派遣したものの、このフバイシュの遠征はマディーナ東方の{{仮リンク|ラバダ|en|Al-Rabadha}}において喫した壊滅的な敗北をもって終わった{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}{{sfn|Biesterfeldt|Günther|2018|p=953}}。これと同時期にマルワーンは[[ユーフラテス]]地方中部のカイス族の動きを抑えるために息子のムハンマドを派遣した{{sfn|Kennedy|2004|p=92}}。そして685年の上旬までに、イブン・アッ=ズバイルを支持する勢力と{{仮リンク|アリー家|en|Alids}}を支持する勢力(正統カリフのアリーとその子孫を指導者として仰ぐ[[シーア派]]の端緒となった)からイラクを取り戻すために、ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤードが率いる軍隊を派遣した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。
 
=== 死と後継者 ===
史料によって期間にずれはあるものの、マルワーンは6か月から10か月の間の統治の後、685年(ヒジュラ暦65年)の春に死去した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。マルワーンの死の正確な日付は中世の史料からははっきりとしていない。歴史家の{{仮リンク|イブン・サアド|en|Ibn Sa'd}}、[[タバリー]]、そして{{仮リンク|ハリファ・イブン・ハイヤト|en|Khalifah ibn Khayyat}}は4月10日([[シャアバーン]]月29日)か11日、[[マスウーディー]]は4月13日([[ラマダーン]]月3日)、{{仮リンク|ニシビスのエリヤ|en|Elijah of Nisibis}}は5月7日としている{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。ほとんどの初期のイスラーム教徒による史料ではマルワーンはダマスカスで亡くなったとしているものの、マスウーディーは[[ティベリアス湖]]に近い{{仮リンク|シンナブラ|en|Al-Sinnabra}}にある冬の住居で死去したとしている{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。伝統的なイスラーム教徒による史料の中で広く伝わっているものとしては、マルワーンが妻のウンム・ハースィム・ファーヒタに対して名誉を傷つけるような酷い侮辱の言葉を吐いたために、報復として就寝中に殺害されたというものがある。しかし、この話はほとんどの西洋の歴史家からは史実とはみなされていない{{sfn|Madelung|1997|p=351}}。また、マスウーディーの記録から{{sfn|Madelung|1997|p=352}}、ボスワースらはマルワーンが死去した時期にシリアを襲っていた伝染病が死の原因だったのではないかと疑っている{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。
 
685年にマルワーンがエジプトからシリアへ帰還する際に、マルワーンは息子のアブドゥルマリクを第一位、アブドゥルアズィーズを第二位の継承順位とする形でカリフの後継者に指名した。シンナブラに到着した後にマルワーンはこの後継者の変更を実行したものの、イブン・バフダルがアシュダクをマルワーンの次期の後継者として認めたという知らせを受けた{{sfn|Mayer|1952|p=185}}。マルワーンはイブン・バフダルを召喚して尋問し、最後には確実な後継者であるとしてアブドゥルマリクに忠誠を誓うように要求した{{sfn|Mayer|1952|p=185}}。これによってマルワーンは684年にジャービヤの部族会議で達した合意を破棄し{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}、世襲による継承の原則を再び導入することになった{{sfn|Duri|2011|p=25}}。アブドゥルマリクは以前に指名された後継者であるハーリド・イブン・ヤズィードとアシュダクから異議を受けることなくカリフの地位を継承した{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。その後は世襲による継承がウマイヤ朝のカリフの継承に関する標準的な慣行となった{{sfn|Duri|2011|p=25}}。
 
== 評価 ==
ほとんどの場合において一族とは距離を置いた態度を取っていたムアーウィヤとは対照的に、マルワーンはウスマーンの統治を手本として権力の基盤を一族に求め、一族に対して広く信頼を寄せていた{{sfn|Kennedy|2004|p=93}}。そのために、マルワーンはアブドゥルマリクへのカリフ位の継承を確実なものにし、息子のムハンマドとアブドゥルアズィーズに非常に重要な軍事上の命令を与えた{{sfn|Kennedy|2004|p=93}}。混乱に満ちた状況から統治を開始したにもかかわらず、「マルワーン家」(マルワーンの子孫)はウマイヤ朝の領土を統治する一族としての地位を固めることになった{{sfn|Cobb|2001|p=69}}{{sfn|Kennedy|2004|p=93}} 。
 
ボスワースの見解によれば、マルワーンは「間違いなく優れた技量と決断力を備えた政治家であり軍事指導者であった。そしてウマイヤ家の他の傑出した人物たちが持ち合わせていたヒルム(冷静さ)と抜け目のなさといった資質を十分に与えられていた」{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。また、カリフとして台頭したシリアは権力の基盤を欠いていたほとんどなじみのない土地であったが、さらに65年間続いたウマイヤ朝の統治を確固なものとしたアブドゥルマリクの治世の基礎を築いたとしている{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。一方、マーデルングの見解では、マルワーンのカリフの地位への道のりは「真に高度な権力闘争」であり、マルワーンの初期のキャリアから始まっていた陰謀の集大成だった{{sfn|Madelung|1997|pp=348–349}}。このような陰謀にはウマイヤ家のためにウスマーンの権力の強化を推し進めたこと、タルハを殺害することによってウスマーン暗殺の「最初の復讐者」になること、そしてダマスカスのスフヤーン家のカリフの権威を公然と押し付けていた一方で、ひそかにその権威の弱体化を図っていたことが含まれているとしている{{sfn|Madelung|1997|pp=348–349}}。
 
また、マルワーンは粗野で社会的な品位に欠けていたことでも知られていた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。マルワーンは多くの戦闘の負傷によって回復しない傷を負った{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。マルワーンの背が高くひどく痩せていた外見は、ハイト・バティル(クモの糸のように細い)というあだ名をマルワーンに与えた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。後の反ウマイヤ朝のイスラーム教徒による伝承の中では、イスラームの預言者ムハンマドが主張したマルワーンの父親であるアル=ハカムの[[ターイフ]]への追放や、イブン・アッ=ズバイルによるマルワーンのマディーナからの追放といった出来事を指して、マルワーンをターリド・イブン・ターリド(無法者の息子の無法者)と呼んで嘲笑している。マルワーンは息子と孫が後にカリフの地位を継承したため、アブー・アッ=ジャバビーラ(暴君たちの父)とも呼ばれた{{sfn|Bosworth|1991|p=622}}。ムハンマドに由来する多くのことわざの中で、マルワーンとその父親はイスラームの預言者の不吉な予感の対象となっているが、フレッド・マクグロウ・ドナーは、これらの風評の多くは、一般にマルワーンやウマイヤ朝と敵対したシーア派の人々によって作り出されたと考えるのが最も自然であるとしている{{sfn|Donner|2014|pp=106–107}}。
 
中世のイスラーム教徒の歴史家の{{仮リンク|バラーズリー|en|Al-Baladhuri}}([[892年]]没)と{{仮リンク|イブン・アサーキル|en|Ibn Asakir}}([[1176年]]没)によって引用された多くの説明は、マルワーンが敬虔な人物であったことを示唆している。このような引用の例として、9世紀の歴史家の{{仮リンク|マダーイニー|en|Al-Mada'ini}}による、マルワーンがクルアーンの朗唱者の中でも最も優れた水準にあったというものや、マルジュ・ラーヒトの戦いの前に40年以上にわたってクルアーンを朗唱していたというマルワーン自身の主張に関する言及がある{{sfn|Donner|2014|pp=108, 114 notes 23–26}}。マルワーンの息子の多くが(伝統的なアラブ人の名前とは対照的に)明らかにイスラームに由来する名前を持っていたことに基づいて、ドナーは、マルワーンが神とムハンマドを含む[[イスラームの預言者]]を讃えるために、クルアーンの言葉に従って実際に「深く信仰」し、「心から感銘を受けて」いたであろうと推測している{{sfn|Donner|2014|pp=110–111}}。また、ドナーは、マルワーンと同世代のほとんどのイスラームの指導者たちと同様に、考古学的な証拠や碑文による資料がなく、マルワーンの伝記に関する情報が大抵において論争をもたらす文学的な資料に制限されているため、「マルワーンの正当な評価に達する」ことの難しさを指摘している{{sfn|Donner|2014|p=105}}。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 参考文献 ==
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{{S-hou|name=マルワーン1世|[[ウマイヤ朝]]|623年|?|685年}}
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