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{{要出典範囲|日本では[[江戸時代]]後期に、[[国学]]や[[水戸学]]の一部や[[吉田松陰]]らの立場から、古代日本が[[朝鮮半島]]に支配権を持っていたと『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、[[尊王攘夷運動]]の政治的主張にも取り入れられた。|date=2020年5月}}{{要出典範囲|幕末期には、松陰や[[勝海舟]]、[[橋本左内]]の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、[[清]]国[[広州]]の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった([[八戸事件]])。|date=2020年5月}}また{{要出典範囲|朝鮮では国王の父の[[興宣大院君|大院君]]が政を摂し、[[鎖国]][[攘夷]]の策をとり、[[丙寅洋擾]]や[[ジェネラル・シャーマン号事件|シャーマン号事件]]の勝利によって、意気おおいにあがっていた。|date=2020年5月}}
 
そのように{{要出典範囲|日朝双方が強気になっている中で[[明治維新]]が起こり、った。日本は[[対馬府中藩|対馬藩]]を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が[[江戸時代]]の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された<ref>{{要出典範囲|日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは[[征夷大将軍|将軍]]が「[[日本国大君]]」「[[日本国王]]」として[[朝鮮通信使|朝鮮との外交]]を行っていた。|date=2020年5月}}</ref>。|date=2020年5月}}。明治元年12月には[[木戸孝允]]が「施設を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している{{sfn|坂本多加雄|1998|p=55}}。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうとしている{{sfn|坂本多加雄|1998|p=55}}。

[[明治3年]]([[1870年]])2月、明治政府は[[佐田白茅]]、[[森山茂]]を派遣したが、佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した<ref>「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR([[アジア歴史資料センター]])Ref.A01100124300、[[国立公文書館]])9頁に次のように記されている:<blockquote>「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑<br />
覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力蒞焉、則不爲我用<br />
也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於<br />
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== 研究史 ==
従来征韓論は、征韓を主張する西郷ら留守政府派と、内治を優先する使節団派の対立の原因となり、政府を分裂させるに至ったと評価されていた{{sfn|吉野誠|2000|p=2}}{{sfn|高橋秀直|1994|p=42}}。[[大隈重信]]が評したように、西郷が
西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立してきた<ref>[[家近良樹]]「西郷隆盛-謎に包まれた超人気者」筒井清忠編『明治史講義【人物篇】〈ちくま新書 1319〉』筑摩書房、二〇一八年四月一〇日 第一刷発行、ISBN 978-4-480-07140-8、040頁。</ref>。[[毛利敏彦]]によれば、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた、という<ref>[[#毛利1979|毛利(1979)]]による。{{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref><ref>[[#板垣1992|板垣(1992)]]、61頁。</ref>。[[家近良樹]]によれば、「死に場所を求めて征韓論を提唱したといった評価が、学界では次第に支配的になりつつある。」という<ref>家近 (2018)、041~042頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|『西日本新聞』によれば、[[原口泉]]は「西郷はロシアの脅威に連携して対抗しようと考えた遣韓論だった」と主張し、落合弘樹は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している、という。<ref>{{Cite news | title = 西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争 | agency = 西日本新聞 | date = 2018-01-25 | url = https://www.nishinippon.co.jp/item/n/389043}}</ref>}}。
一方で[[煙山専太郎]]のように征韓論の名称に語弊があると指摘した論者もいる{{sfn|吉野誠|2000|p=13}}。
 
1970年代後半、[[毛利敏彦]]は一連の著作において、征韓論の中心的人物とされていた西郷隆盛は征韓を意図しておらず{{sfn|高橋秀直|1994|p=42}}、明治六年政変の主因も朝鮮問題ではないと主張した{{sfn|高橋秀直|1994|p=42}}。毛利は、西郷が板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める平和的な遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、[[大久保利通]]らとも決定的に決裂したわけではなく{{sfn|吉野誠|2000|p=2}}、明治六年政変の主因も司法卿[[江藤新平]]ら反[[長州藩]]派の追い落としが目的で、征韓論は口実に過ぎないとしている{{sfn|吉野誠|2000|p=2}}。{{要出典範囲|事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた|date=2020年5月}}<ref>[[#毛利1979|毛利(1979)]]による。{{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref><ref>[[#板垣1992|板垣(1992)]]、61頁。</ref>。この発表は従来の定説の事実認識を根底から覆すもので近代史研究の大きな争点の一つとなった{{sfn|高橋秀直|1994|p=42}}。
 
これ以降、西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立した<ref>[[家近良樹]]「西郷隆盛-謎に包まれた超人気者」筒井清忠編『明治史講義【人物篇】〈ちくま新書 1319〉』筑摩書房、二〇一八年四月一〇日 第一刷発行、ISBN 978-4-480-07140-8、040頁。</ref>。[[2000年]]頃には毛利説の当否が征韓論争研究の中心となっていた{{sfn|吉野誠|2000|p=2}}。一方で[[高橋秀直]]は毛利の研究の意義を高く評価しながらも、朝鮮問題が政変の実質的争点でなかったという毛利説の核心は否定している{{sfn|高橋秀直|1994|p=42}}。[[田村貞雄]]は毛利説を批判し、西郷の征韓論者説を再確認しようとしている{{sfn|吉野誠|2000|p=5}}。
 
西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立してきた<ref>[[家近良樹]]「西郷隆盛-謎に包まれた超人気者」筒井清忠編『明治史講義【人物篇】〈ちくま新書 1319〉』筑摩書房、二〇一八は2018四月一〇日 第一刷発行、ISBN 978-4-480-07140-8、040頁。</ref>。[[毛利敏彦]]によれば、征韓論中心的人物著書あった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた、という<ref>[[#毛利1979|毛利(1979)]]による。{{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref><ref>[[#板垣1992|板垣(1992)]]、61頁。</ref>。[[家近良樹]]によれば、「死に場所を求めて征韓論を提唱したといった評価が、学界では次第に支配的になりつつある。」として<ref>家近 (2018)、041~042頁。</ref>{{efn|このような説の先駆としては、明治六年政変当時の参議であった[[大隈重信]]が、政界で行き詰まった西郷が最後の光明として朝鮮の宮廷で華々しく散ることを求めたという評価を行っている{{harv|坂本多加雄|1998|p=55}}}}}}{{refnest|group="注釈"|『西日本新聞』によれば、[[原口泉]]は「西郷はロシアの脅威に連携して対抗しようと考えた遣韓論だった」と主張し、落合弘樹は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している、という。<ref>{{Cite news | title = 西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争 | agency = 西日本新聞 | date = 2018-01-25 | url = https://www.nishinippon.co.jp/item/n/389043}}</ref>}}。
 
== 脚注 ==
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*{{Cite journal|和書|author=[[吉野誠]]|year=1999|month=2|title=明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第72輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195512|ref=吉野1999}}
*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|year=2000|title=明治6年の征韓論争|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第73輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195520|ref=吉野2000}}
 
== 関連文献 ==
*{{Cite journal|和書|author=高橋秀直|authorlink=高橋秀直|date=1993|title=征韓論政変の政治過程|journal=史林|volume=76|issue=5|pages=673-709|publisher=史学研究会 (京都大学文学部内)|naid=110000235395|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=家近良樹|authorlink=家近良樹|year=‎2011|journal=西郷隆盛と幕末維新の政局:体調不良を視野に入れて|pages=95|publisher=ミネルヴァ書房|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|author=坂本多加雄|authorlink=坂本多加雄|year=‎1998|title=征韓論の政治哲学 |journal=年報政治学|volume=49|issue=6|pages=55-69|publisher=日本政治学会|url=https://doi.org/10.7218/nenpouseijigaku1953.49.0_55|ref=harv}}
== 関連文献 ==
 
 
*{{Cite journal|和書|author=長南政義|authorlink=長南政義|year=‎2018|title=西郷隆盛と「征韓論」 |journal=歴史群像|volume=27|pages=95|publisher=学研プラス|ref=harv}}