「金剛峯寺」の版間の差分

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壇上伽藍の東北方にある。[[1869年]](明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である[[青巌寺]]と[[興山寺 (廃寺)]]を合併し、金剛峯寺と改称した。青巌寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために[[木食応其]]に命じて建立した。金剛峯寺の主殿は江戸末期[[文久]]3年([[1863年]])に再建された、東西 54 m 南北 63 m の<!--壮大な-->書院造建築である。「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ2015年4月2日~5月21日に16年ぶりに開帳された。そのほか、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀。<ref>[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kenkenzo.html 「県指定文化財・有形文化財・建造物」]和歌山県公式webページ</ref>
 
=== 奥院 ===
表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。<ref>例えば重要文化財の経蔵の文化財指定名称は「奥院経蔵」である。</ref>寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海[[入定]]の地とされる奥院である。一番奥には空海が今も[[瞑想]]しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の[[悟り]]の世界に入り、今も高野山奥院で生きていると信じている人もいる。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
[[File:Ɡobyoubasi.jpg|thumb|200px|right|御廟ノ橋]]
* '''弘法大師御廟''' - 空海が入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇。御廟は瑞垣(みずがき)に囲われている。御廟の裏側、北西の壁面の下部には直径約20㎝の穴が設けられている。衆生救済のために、各地に顕現される空海の御霊の出入り口とされる。近畿地方・瀬戸内沿岸の社殿にも同様のものがあり、ご神体や御霊の出入り口となっている。御廟の東側には、二社の社祠がある。いずれも檜皮葺一間社春日造で、東北側に丹生明神(高野山の地主神)、その南側に高野明神(高野山開創に最初に勧請)、西側には白髭稲荷大明神の小祠が奉祀されている。弘仁10年(823年)に嵯峨天皇より、東寺を下賜されたときに「密教と国土の安泰」を稲荷大明神に契約されたという伝承「稲荷契約事」(いなりけいやくのこと)があり、真言宗寺院では、守護神・鎮守神として「稲荷大明神」を祀ることが多い。御廟の西側の大杉の穴に住む白狐の霊験談が「紀伊続風土記」にあることから、「白狐の信仰」と「稲荷契約事」の伝承が結びつき、明治時代に神格化され、白髭稲荷大明神として奉祀されたと推察される。<ref>高野山教報社「高野山教報」2010年5月1日号 平成の高野百景</ref>
* '''灯籠堂''' - 現在のは昭和39年(1964年)建立。「貧女の一灯」と呼ばれる消えずの火と全国から奉納された灯籠が灯り、廻向や祈祷をしてもらえる。また、地下には入定する空海のいちばん近くまで行ける法場がある。そして、灯籠堂の裏側中央には御廟を参拝する場所があり、ここに来た全ての人々はここで祈りを捧げ読経する。その左側には納骨堂、右側には経蔵(重要文化財)、東側に増えた灯籠を納めるための記念灯籠堂が建ち、御廟橋から入って左側の小さな祠には[[弥勒石]]が入っていて持ち上げることができるとご利益がある。
* '''御廟ノ橋''' - 玉川にかかる橋、通称「無明橋」<ref>「巡礼高野山」32ページ 2008.11.20発行 新潮社</ref>。36枚の橋板と橋全体を1枚とした37枚で、金剛界37尊を表す。
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;墓域(奥院参道)の画像
院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われる。奥院には[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]霊屋、[[結城秀康|松平秀康]]及び同母霊屋、[[上杉謙信]]・[[上杉景勝|景勝]]霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、[[平敦盛]]、[[熊谷直実|熊谷蓮生房]]、[[織田信長]]、[[明智光秀]]、[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]、[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]、[[法然]]、[[親鸞]]、[[市川團十郎 (初代)|初代 市川團十郎]]、俳優の[[鶴田浩二]]など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の供養碑・供養塔がある。また[[松尾芭蕉|芭蕉]]や[[高浜虚子]]の句碑もある。
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File:Koyasan Okunoin Satake Graves 02.JPG|佐竹家霊屋(重要文化財)